毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

意味

2014年05月27日 17時20分12秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうの続きで 白浜の体験を書いている真っ最中、すごい氣づきが降ってきました。

日記ではたびたびあるけれど、ブログ更新のさなかに これほど鮮やかに「」ってなったのは初めて。

一から書き直しです。







私は 過去何回も書いたとおり、幼い頃から 否定的なほうに傾いた思考回路の持ち主でした。

否定的な視点をベースに生きるのは、やはりしんどいことです。

いきおい もっと楽になりたい、楽しく生きたい、って願い続けることになる。

そのためなら どんな努力もいとわない・・・自然とそんな意識になっていました。

そんな中で出会った、「見えるものすべてが 自分の意識の投影」っていう情報。

ピンときて 仮説として取り込み、なにかにつけて当てはめては、「ほんとそのとおりだ」と確信するに至りました。



白浜での3ヶ月は、不慣れな環境のせいか、家ではほとんど感じなくなっていたかすかな不安に 絶えず取り巻かれる日々でした。

もちろん、楽しいこともほっとする瞬間も いくつもあったし、そのさなかは不安を忘れることもできました。

今だから言えることだけど、あの3ヶ月の間にアップしたブログにウソはなかったけれど、あえて肯定的要素だけを取り出したという側面もあったんですね。

家に帰ってほっとしたときに、不用意にネガに意識が向いて「もうあそこに戻るのやだ~」ってなるのが怖かったから。

どうしても振り払えない負なら 向き合ってきっと解決してみせるという意欲はつねに満々だったし、「立ちふさがる壁ではなく、飛び越えるハードルとみなす」っていう意識が 私をここまで連れてきてくれたのも 確かなこと。

だから、白浜での時間が重荷に思えるほど、逃げるのでなく チャンスとみなして活かそう、という氣持ちも強まっていたんです。

ただ、「もっとよくなろう」の裏に潜む「今のままでは幸せじゃない」という氣持ちは、いつも少しやり過ぎなほうへと 私を引っ張っていたんですね。

不安ベースだから、ただ観察するだけでは足りない氣がして、もっと努力せねば、と 自分で自分を駆り立てずにいられなかったのでしょう。




「見えるものすべてが 意識の投影」というのも まったくそのとおりなのだけれど、その鏡を使ってなにかしなければならない、ということではないのに、私はただの観察者ではいられませんでした。

映ったものをただ見つめる、から、見つめることで結果を出す、に微妙にシフトしていたのです。

だから、できることはなんでもする!の決意のもと、内観でも瞑想でも からだの感覚を感じるのでも 日記に書き留め吟味するのでも、とにかくこれはと思うことを片っ端から実践し続けました。

でも、「これが成果」としっかり掴めるものは なにも持って帰れませんでした。




面白いことに、そういう姿勢の一方で、大切なのは結果ではなくプロセス、と明確に感じてもいました。

成果云々ではなく、体験した記憶の中に これから見えてくるものがきっとある。。。15日のブログに書いた氣持ちそのままです。

そして・・・・そのとおりになりました。




白浜という新しい鏡相手に しゃにむに努力する中で、ふっと「もうなにもかもそのままでいいや~」と力が抜けた瞬間がありました。

力み過ぎた反動だったのでしょう。

それ以来 きょうに至るまで、そのゆるみがどんどん存在感を増してきて、無自覚のうちにどうしても手放せなかった「いい・悪い」「幸・不幸」などの線引きをしたくなる意識が薄れ、どんなこともジャッジしないで 曖昧なままふわりと宙に浮かせたまま置いておくだけでいいんだ~、と思えるようになってきました。





・・・・というようなことを書いていたら、ぽんとひらめいたんですね。







「問題が解決する」なんてこと、そもそもなかったんだ。

「解決すべき問題がある」という思い込みが消えるだけでよかった。





小さい頃からずっと 心地よくない現実を生み出し 不安に陥れていたのは、自分の中の否定的要素ではなく、「否定的要素がある」「変えなければならないものがある」という自己認識だったんだ。





それを手放すってどういうことなのか、今 わかった。





絵に描いたような「人間万事塞翁が馬」状態。

できたこと、できなかったこと、すべて必然。

そのすべてを通って、今 ここにいる。

その事実だけが意味を持つ。



白浜でなにができて なにができなかったかなんて、問題じゃなかった。

あそこで体験したこと、過ごした時間、そして あそこへ私を導くために起きたことすべて、つまりは私の人生丸ごと全部。

それが、私がこの世に生まれてきた意味。









長文をお読み下さって ありがとうございました(^^)





















けさのできごと

2014年05月27日 08時45分25秒 | 自然


雨上がりの早朝、モーニングコーヒーを飲んでいたら、背後の畳から なにやらザリッザリッという音が。

台所でかさかさ音がするのはまずゴキブリだけど(^_^;) 、部屋でザリザリいうときは要注意。

大型のムカデである確率が高い

けっこう大きな音立てるんですよ、彼ら

でも、きょうの音はそれほどでもなく、小さいヤツかな?と思いながら振り返ったら。。。


沢ガニ Σ( ̄□ ̄;)

家の中に Σ( ̄□ ̄;)


どっから入った!?

すぐ裏手が山だし、沢ガニを見かけること自体は珍しくもないのですが、座敷でっていうのは初めて。

しかも・・・ホコリまみれ(T_T)

「掃除行き届いてないんですけど」って言われたみたいで ちょっと赤面しつつ、火バサミでそっと挟んで窓の外へ。

これまでも クモやアリはいうに及ばず、コオロギだのバッタだの青ガエルだの、いろいろな招かざる客に室内で遭遇してきましたが、今度はカニですか。


相変わらず よくも悪くも自然豊かなお土地柄です





















育つ

2014年05月26日 11時11分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうまで 晴ればれといいお天氣が続いて、冬物夏物の入れ替えがようやく完了、お風呂場もぴかぴかに磨き立てました♪

木々の緑と鳥の声に囲まれて、やっぱり山里の暮らしはいいなぁ (*^^*)

きょうは曇りで 午後から雨になるらしいので、台所仕事に専念しようかな~♪





白浜での日々も日ごとに遠くなりにけり、ですが、記憶から生々しい感触は薄れてゆくものの、記憶自体は 薄れるというより 距離を置くにつれて 次第にその姿や意味するところを変えていっているようです。

あの3ヶ月にどういう意味があったのか。

今の時点で思うのは、あの体験が 新しい視点を育て、五感を超えた世界への信頼を一段と深めてくれたなぁ、ということ。



GWにさしかかろうという頃だったか、ふと氣がつきました。

これまで 自分の内側を見つめて、さまざまな想念の書き換えを計ってきたけれど、なかなか定着せず、古い思い込みに引き戻されてしまうことも多かった。

それはつまり、自分の立ち位置がニュートラルではなかったということだよね。

まあ当然といえば当然なんだけれど、長年使い込み強化してきた古い思考回路に比べて、新しい回路はまだまだ馴染みきらず弱い。

使い慣れた方が ついつい優位になってしまうのは仕方がない。

とはいえ、二つの回路が拮抗し、自由な選択ができるようになって初めて、望むままの人生を創っていけるというもの。

新しい視点に氣づくのは 内観からだけれど、その回路を育てるには、暮らしの中のさまざまな場面で 実地に使い込むしかない。

そして、白浜での3ヶ月って、主にそのためにあったんじゃないかな? ってね☆



仕事に入ったばかりの頃は、見聞きするもの・出会うもの、すべてが目新しく刺激的で、いやおうなしに三次元世界にどっぷり引き込まれ、少し離れた客観的視点を確保するのは かなり難しいことでした。

初対面の人が こちらに向かってあれこれ話しかけてくる、それをいきなり自分の思考の反映と見ようとしてもね

どうしても 自分ではない他人がリアルに目の前にいる、自分ならざる世界に囲まれ 影響されている、という意識に呑み込まれてしまう。

だから、仕事中は 目の前のことに対応するのが精一杯、部屋に戻って落ち着いてから 日記帳を取り出し、その日の出来事を思い出しては書き付け、違う角度から眺め渡し 吟味する、の繰り返しでした。

最初の1ヶ月ぐらいは 二つの視点を行ったり来たり、振り回されてクラクラし、わざわざこんなところまで来て何をやっているのか わけがわからなくなるほど

日記を読み返すと面白いんだけど、最初の頃は、誰それさんがこうしたとかこう言ったとか、他人の名前や言動がちょくちょく出てくる。

それが日が経つにつれて、他人の描写が少なくなって、起きたことを自分の内面に置き換えての考察が増えてくる。

初めは錆びついたようになかなか働かなかった「外の世界を自分の内側として見る」回路が、四苦八苦しながらもとにかく使い続けるうちに、少しずつ存在感を増して 力を持つようになってきたっていうことね(^^)v




思い起こせば、「まわりの世界は自分の鏡」っていうことに初めて氣づいたのは 10年前の白浜でのことなんだけど、あの頃のそれは まるっきり外付けの情報でしかなく、ほとんど活かすことができなかった。

まわりの世界を「自分ではないもの」とみなし、三次元レベルでどう対応するかばかり考えている間は、ドラマ体験としては面白いかもしれないけれど、魂の進化という意味では 足止めされたも同然。

それが、この10年の間に 仮説としてさんざん試され、信頼を増し、いまや確信となって、二度目の白浜での 刺激が強くバラエティに富んだ体験の中で 繰り返し使われては しっかり消化吸収され 実感を伴って刷り込まれて、ついにわがものとなった、のかな。

“実習期間”が終わる頃には、起こることすべてが自分の世界観の反映、触れ合う人たちは たしかに他人ではあるんだけれど、同時に私の意識のある要素の投影でもある、という見方が、苦もなくできるまでになったもの♪

他者であり 同時に自分、大勢であり 同時にひとり。。。そう思う氣持ちに これまでも矛盾や疑いはなかったし、ここでもたびたび言葉にしてきたけれど、当然のこととして 実感を込めてすらりと口にできるほど同化してはいなかったよね。。。白浜以前には。




そして、こうなってなによりうれしいのは、これから自分の身に起こるであろう未知の体験についての 無条件の信頼が 一段と増したっていうこと。

不安がゼロになったわけじゃないけれど、確実にまたぐんと減ったよね。

白浜でも もちろんいいこと楽しいことばかりじゃなかったけれど、ネガな体験ほど 自分を変え、自分の世界を変えるチャンスをくれるものなんだっていう実感が、かつてないほど強くなったから。

うれしいこと・うれしくないこと、どっちが起きても 結局自分にプラスに働くことに変わりはない、それゆえ、この先に何が待ち受けているとしても とにかく前進して吉、と 躊躇なく思えるようになったから。

もうこうなると、「いい・悪い」「うれしい・うれしくない」の区別さえ 意味をなさないようにも思えてくるのです(^^)






断片的な記憶や思いは さかんに浮かんでは消え 浮かんでは消えするのに、まとまった言葉にならないまま時間が過ぎて、ブログを書きかけては諦める毎日でしたが、ようやくアップできた~

いったん形になりだすと、今度は文章化が追いつかないほど どんどん湧き上がってくるから、ある意味困りもの。


しばらく連投モードに入りそうな予感が。。。( ̄ー ̄;)ゞ























ただいま

2014年05月15日 20時53分01秒 | ふと思うこと


白浜のお仕事、終わりました。

寮をすっかり引き払い、戻ってすでに8日。

残されたのは、3か月分の体験の記憶と日記のメモ。

あ、もちろんこれから振り込まれるお給料もなんだけど、こちらはすっかりオマケになっちゃってる(笑)

経済事情を釣り餌に、この体験の世界に誘い込まれた、いや、授かったんですね。

やっぱりね



雪こそ降らなかったものの ひどく寒かった2月が過ぎ、3月、4月と進むにつれ、観光の方々がどっと繰り出して 仕事の方もどんどん忙しくなるものと覚悟していたのですが、案に相違して 振り返ってみれば 忙しさのピークは春休み前半の3月下旬まで、4月は思いのほか休みが多く、氣がついたら月の3分の1はお休みになってました。

初めのうちこそうれしくてせっせと家に戻ってはくつろいでいたのですが、残りの日が3週間を切ったあたりから、家でのんびり過ごすのはもうすぐ好きなだけできるようになる、今はむしろ ここにいる間しかできないことを存分にやっておこう、という欲みたいなものがむくむく湧いてきて、前回ブログを更新した20、21日の連休以降は ずっとあちらに居ずっぱりでした。


そして、さいごの仕事を終え、翌5月7日。

早朝から 同じ日に契約満了で九州まで帰る女の子を 車で駅までお見送りし、さいごの早朝温泉に浸かって、荷物を運び出し 車に積んで、空っぽになった部屋を掃除、さいごの従食でのお昼ご飯のあと 借りていた備品を事務所にお返ししてお別れのご挨拶、と万事淡々とこなして 外に出たら午後1時。

そのままあっさり家まで帰る氣がせず、毎度おなじみの千畳敷へ。

ゴールデンウィークを過ぎた千畳敷は すっかり静けさを取り戻し、観光客もまばら。

この3ヶ月、ここへは徒歩でも車でも何度来たかわからないほどでしたが、時間にも心にもゆとりがなかったのか、一番下の岩場まで降りたことは一度もなし。

でもきょうはもうなんの制限もないのだし、好きなだけゆっくり過ごそうと岩場の先端へ。

初夏の濃い青空の下、少し冷たい風に吹かれ、ぽかぽかのお日さまに包まれ、キラキラ輝く海をぼんやり眺めて座り込んでいたら、この3ヶ月の記憶の断片や それらにまつわるさまざまな思い、すべてがごちゃごちゃに絡み合いながら 止めどもなく溢れ出し、頭がぼぉっとなって、なにがなんだかわからなくなりました。

自分は誰なのか、なんなのか、なぜここにいるのか、3ヶ月という時間はどこにいったのか、長かったのか、短かったのか。

掴もうとしても、なにひとつ掴めない。

しまいにはすっかりあきらめ 掴もうという意図もなにもかも手放して、逆巻くごちゃごちゃの中に身を置いたまま、ひたすらぼーっと海を見つめて座り込んでいました。

そうやって1時間ぐらい過ごしたでしょうか。

われに返って車に向かいながら、心のどこかに「このひとときが必要だったんだ」という思いがありました。



その後さらに 空港や図書館やスーパーに立ち寄ったりしてから、いよいよ海辺を離れて向かった夕陽に照らされた山道の美しかったこと、なつかしかったこと。

3ヶ月の白浜滞在で 海の美しさも存分に堪能したけれど、やっぱり私には山里が性に合っているようです。




あれから8日。

2月7日以前からそのまま続いてでもいるかのような 穏やかな日常にすっかり戻った今、あのときはもてあまし氣味だった3ヶ月の記憶が 徐々に落ち着き 熟成していくのを見守る氣分です。

あのイレギュラーな日々の意味が見えてくるのは これからのことなのでしょう。

この“お土産”(もしくは“戦利品”・笑)の山の中から どんなお宝が飛び出してくるのか。

じっくり腰を据えて わくわく待ち受ける貴秋なのです(^^)




うんともすんとも音沙汰ない間も 繰り返しこのブログにご訪問くださったと思しきみなさま、心からうれしくありがたく、また ほとんどの方とはお会いしたこともないはずなのに、なぜかなつかしい氣持ちでいっぱいです。

ほんとうにありがとうございます。

素材はどっさり持ち帰りましたので、今後そこから見えてくるものについては この場でシェアさせていただければと楽しみにしております

これからも お氣が向いたときにお越しいただければ幸いです。