毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

サプラ~イズ!

2010年11月27日 19時33分50秒 | 子どもたちと
昼間はまだまだあたたかい今日この頃。
昼食後、のんびり座椅子にもたれて本など読みながら、んん~、少し眠くなってきたかな?

とそこへ、突然犬の遠吠えが。

あらまあ、ずいぶん元氣のいいワンちゃんだこと、と思っていたら、

吠え声がたちまち2匹、3匹と増えていく

あれれ?
なぁんだ、子どもが鳴き真似してたのね(^o^)

と思いきや、

ちょっと待って~!
なんか私の名前呼んでない!?

慌てて外に出てみたら、顔見知りの小学生の女の子三人でした(^_^;)

誘われるままに校庭で影踏みの鬼ごっこ、影絵作りに影送り、ブランコに鉄棒、砂遊び♪

やがて私は一足先に家に戻っておやつの仕度、あとから三人の砂だらけのレディもわが家へ。

子どものいない私、おやつの飲み物は何がいいのかなぁって思ったら、
最近の子って 小学生でもコーヒー飲むのね(*゜O゜*)

それならば、と手挽きのコーヒーミルで豆を挽いてもらう♪
三人がかりで大騒ぎしながらやってくれました

子どもたちの底抜けのエネルギーに抱腹絶倒の会話、台所と部屋を行ったり来たりしながらもう大笑い。
コーヒーひとつ飲むだけのことをあれほど面白がれるなんて
砂糖入りブラックとミルクを別々に飲んでみたり、カップの上にスプーンをかざして砂糖をのせ、そのままパクリ!とやっちゃったり
大人同士のティータイムではぜったいお目にかかれない光景だなぁ(笑)

あ~、テーブルクロスにミルク付いちゃったぁ
ごめ~ん、コーヒーも飛んじゃった、お砂糖もこぼれてるぅ

いいのよいいのよ、洗えば済むことだし、最初っからそのつもりでシミの目立ちにくいのを選んであるから(笑)


お茶菓子のはずだったサツマイモとレーズン入りの味噌蒸しパンは残念ながら蒸し上がりが間に合わず、めいめいにおみやげに持って帰ってもらいました。

レディたちが帰って、陽氣な嵐が吹き荒れたあとのような 氣の抜けた静けさと にぎやかな騒ぎのお名残りを留めたテーブル。

片付け物をしながら ふと思いました。

私、以前はこういうの苦手だったんだよね、静けさや自分のペースを突然かき乱されるのって(^^ゞ
だから子どもとのかかわりは極力避けてたんだけど。

でもなぜか今はぜんぜん苦にならない・・・っていうかむしろ楽しいんだなぁ♪

子どもたちの騒ぎがどれほどあたりで渦巻いても、私の中心はどこか別のところにある感じなんだよね。
だから、外側でいっしょになって面白がりながら、真ん中の方は少しもかき乱されずにいられる。

この家に来て、小さなお客さまをお迎えすることが多くなって、彼らにいろいろと学ばせてもらってるのかもしれないね(^^)



ほぼ元通りになった部屋をほっと見渡しながら、さすがに自分の夕飯までは頭がまわらない私。

とそこに 「ごめんくださぁい、宅急便です!」

まるでこの事態を見越したかのよう、心づくしのお手製のお惣菜の贈り物

このタイミング、この温かさ。。。友よ、ありがとう、ああなんてうれしいの


サプライズの連続、いつになく刺激的で幸せな晩秋の一日でした











言葉、このやっかいで大好きなもの

2010年11月22日 21時46分01秒 | ふと思うこと
好きこのんでブログだの日記だのわっせわっせ書いてる私がこういうこと言うのもなんなんですが。。。。

言葉って つくづく不自由なアイテムだなぁってよく思います(^_^;)

なるべくぴったりの表現を探すことについつい夢中になるたちだし、見つかればすごくうれしいんだけど、

でも どれほど言葉を駆使したところで 五感を超えたいのちの世界をぴったり表せる言葉なんてあるわけがないもん


それに、言葉って 人の数ほど違ったイメージが内包されてるものね。。。

書き手と読み手の言葉に対するイメージが違っていたら、もうそれだけで違って伝わっちゃうのは避けられない。


「起こったことを人のせいにしないことです」なんて言われたら、

え?人のせいにするな?
それって自分のせいだと思えってこと!?

って受け取って引いちゃう人だっていると思う。

「せい」っていう言葉には、それだけでもう否定的なニュアンスがこもってるものね(T_T)

でも、ほんとうに伝えたかったことは、

相手に痛い思いさせられたように見えるでしょうけど、実は痛みはずっと前からあなたの中にあったんだよ。
相手はたまたま痛みのスイッチ押して、「ここにまだ痛みが残ってるよ~」って知らせてくれただけだったんだよ。
それを ずっと相手に怒り続けてると、痛みの元をしっかり見つめて解放されるチャンスを逃しちゃうからね。

すべては自分が起こしてる、創ってる。
そう思えれば、すべて自分でコントロールして 自分の好きなように創り変えられるからね。
自分の人生や自分の力、取り戻しなさいね♪

ってことなんじゃないかなぁ。




言葉って 地図みたいなものだと思います。

地図は 実際の場所の ごく限られた情報しか伝えられない。

その日のお天氣がどんなで、空がどれほど澄んでいて、木の葉がどれほど美しく色づいていて。。。なんてこと、いくら地図を眺めたってわからない。


でも、もしその地図が見やすく正確に描けていたら、それを頼りにその場所へ行ってみることはできる。

そこへ行けば、あとは自分で感じたり味わったりできるものね(^^)


言葉ですべてを伝えることはできないけれど、言葉には言葉の役目があるんだよね♪

それをよ~くわかった上で みんなに使いやすいって喜んでもらえるような地図が描けたら やっぱりうれしいし幸せだなぁ
よぉし、もっともっと顔晴ろっと♪


言葉って・・・なんてブチブチ言いながらも やっぱりこうして想いを文章にするのってやめられそうにありません(^^ゞ

言葉さん、こんな私ですが これからもどうぞよろしくお願いね










神さまのステキな小説(^^)

2010年11月21日 16時44分45秒 | ふと思うこと
かれこれ7年近く 日記を書き続けています。
大学ノートでただいま21冊目。

日記といっても、2週間でノート1冊使い切ることもあれば、一年に一回しか書いてない(どこが日記だ・笑)なんていう年もあったりと、すごいムラのあるペースなんですが(^^ゞ



成功者の方々のアドバイスで、よく「思うだけでなく紙に書き出しなさい」っていうのがあるけど、これってほんとうにそうだなって思えるようになったのは この日記のおかげです。

悩みとか迷いとか、実際にその真っ只中で煮詰まってるときにはどうにもならないけれど、一歩引いてそんな自分の状態を外から眺めるように冷静に書き綴っていると、突然書く端から答えが浮かんでくることがあるのです。
それもけっこう頻繁に♪

こうなると 氣分は同時通訳兼速記者、書きながら自分で「ふむふむ、へぇ~、そうだったのかぁ」なんてね(笑)

自分で考えてるんじゃなく、天から降りてきたのを「ちょっと待って~」とか言いながら 必死で書きとめている感じ。


あと、書くことで記憶がより鮮明になるおかげか、自分がどういうプロセスを経てどう変わっていったかを割合はっきりと覚えていて、人に話しやすかったりとか。



で、少し前のこと。
ふと思いついて 1冊目から順番に 過去の日記全部に目を通したら、これが面白いのなんのって。


推理小説で「伏線」って言葉がありますよね。
結末に向けて それと氣づかれないように巧妙に読者を導いていく仕掛けのこと。

推理小説だったら、一度おしまいまで読んでオチがわかったところでもう一度読み直して、「そっか~、これが伏線だったのかぁ」って感心したり悔しがったりするのが面白いんだなぁ♪

でも 現実の暮らしだと 普通そのまま通り過ぎてしまって振り返ったりしないことがほとんど。
それが 日記に記録されているものは 推理小説のように あとからもう一回読み返して見直すことが出来るんですね。

するとね、
まあざくざくと出てくる出てくる、
当座はまったく氣づかなかった「伏線」が。


あ~!あのときのこれこれが、半年後のこれこれのきっかけだったんじゃない!

とか、

あのときどど~んと落ち込んだ件が、この一年後の問題の解決に一役買ってたのか~、

とか、

あらら、ここで「突然氣づいた!」って書いてるけど、実は三日前のここですでに疑問を投げかけてたんじゃない、

とか。

日常でそのまま「あ」って氣づく布石もあるけれど、やはり時間が経つほど忘れてしまったり結び付けにくくなってしまったりするものなのでしょう。

それが、記録として残しておいて読み返すと、こんなにもあったのかって もうびっくり☆



そして、全部読み終えた後、しみじみ感動しました。

生きてるってなんてすごいことなんだろう
人生ってなんて素晴らしいんだろう

って



小説だったら、どうしても結末が氣になって仕方なかったら こっそり先に読んじゃうことだってできるし、そうすれば伏線を最初から見破ることだって簡単にできる。

でも、人生で逆走はできないもの。
何が何の伏線になってるなんて、見破るどころか 氣づきもしないことがほとんど。

でも、私たちがまったく氣づかず素通りしてたって、実は神さまがそっと張り巡らせておいてくれた伏線が 見事に私たちを本来の道に導いてくれてたんだ、ってことを、この21冊のノートが教えてくれたんですね


しかも。

人間は完璧じゃないから、プロの作家さんの小説でも 伏線を見落としてたり 回収できてなかったり あんまり生かされてない印象になっちゃったりすることもままあるんだけど、

神さまは完璧ですから

伏線回収率100%(笑)

無駄に悩んだり無意味に振り回されたりなんてこと ひとつもありません
自分で振り返ってみると、そのことが身に沁みてわかります♪


さらにさらに。

小説だったら 登場人物がいくら多くても数十人だけど、

この世では数十億人の人間がいて、そのひとりひとりが100%効果を発揮する伏線をどっさり持っていて、しかもそれが種々さまざま かつ 刻々と変化する人間関係の中で 常にぴったり過不足なく絡み合いながら効果を発揮し続けているのですから。

まさに神業。


おまけに。

私たちが人生から逃げたり見ないフリしたりしないでまっすぐ向き合う限り、
神さまの小説は さいごは必ずハッピーエンド


そして この小説は人の数だけあって、私たちひとりひとりがその主人公なのだぁ~\(^o^)/

ね、スゴくない?



今この瞬間も 相変わらず先のことは見えないまま、
ときには
「なんでこんな苦しい目にあうの?これがいつまで続くの~?」(T_T)
なんて辛い思いを味わうこともあるけれど、

振り返った7年に あれほどのとてつもない仕掛けが施され、しかもそのすべてが私をここまで導き成長させてくれてたんだって知った今なら 信じられるような氣がするんだよね♪

どんな体験も なにひとつ無駄じゃない
今は氣づけなくても
この体験が伏線となって きっと私を新しい世界へと連れて行ってくれる
今はどんなに大変でも
逃げずに向き合うことで 必ず幸せを手にすることができる

って


だから
天を 自分を 人生を信じて
きょうも私は歩き続けます


神さま ありがとう














なによりも大切なこと

2010年11月19日 15時57分28秒 | ふと思うこと
きのうのこと。
ある用件の確認で 業者さんに電話を入れました。

「はい、○○でございます」と出てくれることを当然のように期待していて、どこか暗くて頼りなさそうな声が「はい・・・」と言ったなり黙ってしまったことにカチンときて、「○○さんですか?」と尋ねる声の調子がキツくなってしまった私がいました

我ながらこれはマズイ、と口調を改め、とりあえず滞りなく用は済ませたんですが、そのあともその件が心のどこかにずっと引っかかっていて。。。


さっきまたそのことを思い出したので 少し積極的に追いかけてみました。

お商売をされてる人の対応としては?なところもあるけど、なにも怒るほどのことじゃない。
もしかしたら たまたま電話番を頼まれた不慣れな人だったのかもしれない。

いずれにせよ、あちらの応対はあちらの問題で、私のじゃない。

私の問題は そのカチンときたところ、きっと何かがそこにあるんだね。。。


私のほんとうに望んでいることはなんだろう?


もし型どおり丁重に名乗りを上げてもらえば、いつも心は満たされるのかな?


いや、そうじゃないな。。。
口調が礼儀正しくても 声が冷たかったり心がこもってなかったら やっぱりうれしい氣持ちにはなれないな。。。




わかった。

私はあのとき 心のこもったあったかい応対をして欲しかったんだ。

思い返せば、そもそも電話をするきっかけというのが、少し前その業者さんに依頼した件がちゃんと伝わっているかどうか氣になることがあって、その確認のためのものでした。

だから、電話を入れる時点で こちらがすでに不安だったんですね。
それで、ついつい安心させてくれるような受け答えを期待してしまった。
その期待を外されて むっとしちゃったんだね(^^ゞ


これがわかった瞬間、それまでずっとどこかにわだかまっていたものが すぅっと消えてなくなって 心がすっきりクリアになったのを感じました。

あ~、すっきりしたぁ~


ほんとうの氣持ちがわかると こうまで軽やかになれるものなのね(^^)

私がなかなかそこを見ようとしなかったから、心が何度も突っついて教えてくれてたのね♪

どうやらこの一件はこれでご用済みのよう、もうまるっきり氣になりません


それで終わりにしてもよかったんだけれど、そこからさらにもう一歩突っ込んで ちょっとシミュレーション☆

もしあのとき 自分のほんとうの望みがわからないまま 向こうの応対をなじっていたとしたら?

仮にお詫びしていただけたとしても、私が得られるのはほんの小さな一時的な満足感だけ。

そして今度は向こうの人の心の中に なんともいえない不快感が生まれて だんだん膨らんでいくことだろう。

もしかしたら もっと立場の弱い人が八つ当たりされたりしちゃって、また新たな不快感が生まれるかも・・・


うわ~

もしかして、間違って認識されたニセの望みは 否定的な世界を大きく創り上げてしまうのでは?



一見平穏な私の暮らしも、よくよく見渡せば この程度の「カチン」や「ムッ」はけっこうちょくちょくあるわけで、
また、ぐっと身近になったお隣の小学生くんたちの日常にも、それまでは目に付かなかった揉め事やゴタゴタがかなりあるのを知ることになって、

そのたびにひとつひとつ今回のように追っかけていくと、その根っこに

「自分のほんとうの氣持ちや望みが見えない」

っていう問題があることに氣づかされるのです。


反抗的で先生のいうことを聞かない子だって、
友だちのものを強引にとっちゃう子だって、
そこまでいく前に 自分のほんとうの氣持ちをわかりわかってもらえたら、もっと穏やかでいられたかもしれないね。。。


自分のほんとうの氣持ちをいつもわかっていられること。。。
もしかしたら この世でなによりも大切なことなんじゃないかとさえ思えるのです。



かくいう私、まだまだ未熟者で 人のことまでどうこうできるほどの器ではないけれど、少なくとも自分のほんとうの氣持ちを見つめることだけは どこまでも続けていこうって思います


なによりも それってとっても氣分のいいことなんだもん









初めっからここにある♪

2010年11月16日 12時40分41秒 | ふと思うこと
幼稚園に行く前からオルガンを、そして小学校1年生からピアノを習っていました。

両親の影響で 小さい頃から音楽が大好きだった♪


何人もの先生に教えていただいて、ピアノを弾くときの姿勢やコツなんかもたくさんのアドバイスを受けてきたんだけど、

実のところ、ほんとうにこれだ!っていう姿勢やコツを掴んだ氣がしたのは、成人してピアノ教師になってしばらく経ってからのことでした。


あるプロのピアニスト、もうそれが誰だかも覚えてないんだけれど、テレビで見たそのなんとも心地よさそうな演奏姿を眺めているうちに、
ふいにその心地よさが自分のからだにすぅ~っと伝わってきたような氣がしたのです。

あんなふうに いい氣持ちで弾けばいいんだ

その氣分のままピアノに飛びついて弾いてみたら、あら不思議、それまでどれだけ「もっと力抜いて!」って注意されても抜けずにいたのが、そのピアニストのさながら蝶のように鍵盤上をひらひら飛び回るしなやかな動きが・・・いや、少なくともそれに近いような動きが(笑)わが身に移ったように、なんだかい~い氣持ちで自然とできてしまうではありませんか\(^o^)/

あらら、力を抜くってこういうことだったのね~


それまで 先生がいくらいっしょうけんめい言葉や身振りで伝えようとしてくださっても、私はそれを外側から見たり聞いたりして、自分なりのイメージに置き換えて 外側から真似てみるだけだった。

力を抜きなさいと言われて直そうとすればするほど、意識して力が入ってしまうのをどうすることもできなかった。


あのとき初めてわかったんです。
先生方のアドバイスはあくまでもヒントであって、自分にとっていちばんいい姿勢や弾き方っていうのは、自分のからだに心地いいかどうかを絶えず問いかけながら 自分で見つけ出すしかないものだったんだって。

それは自分の中にあるんだって。




そして今、「生きる」っていうことそのものが、そっくりそのままこのときの体験と同じようなことなんだなって思います(^^)

まわりの大人たちからいろんな情報いっぱいもらって とにかくけんめいに言われたとおりやってみるうちに、自分がどうしたいのか、どうすればいちばんいい氣分になれるのか、がわからなくなっちゃった

ああでもない、こうでもないとさんざん悩んだ挙句 たどり着いたのは、

自分の内側に問いなさい
自分の中から感じて 自分で決めなさい

っていうところでした


結局そこでしたかぁ


もうまるっきり“青い鳥”(笑)


さんざん回り道してたどり着いてみれば、それって思いっきり当たり前のことではありませんか

自分が感じる以上の答えが自分の外にあるわけない。


外側からなにを持込む必要もない。
誰のせいにすることもない。

すべて自分で、自分の責任で選ぶって決めて
リラックスして 一番いい氣分はど~れ?って見回せば、
それはいつでもすぐ手の届くところにある♪
いや、向こうからやってきてくれる♪


そして「回り道」と思ったものは、
私にほんとうの“いい氣分”とはなにかを教えてくれる 貴重な手がかりの数々でした。

なんか当て外れ、あれも違う、これも違う。。。
痛い思いをしながらいっぱい手放していった中から
「これだ~」っていうのが見えてきた♪

やっと選び当てた、自分で掴み取った、っていう確かな手ごたえ。
これはもう ちょっとやそっとのことでは揺らがないぞっていう感じ


最初っから 氣づいてないけどわかってたのね♪
そして今 ぐる~っと回って戻ってきて やっと見えたのね♪
そもそもそれが“私”なんだって♪



きょうも幸せでいましょう
笑顔でいましょう
ほんとうの自分とひとつでいましょう


これぞまさしく“毎日がしあわせ日和”

なんちゃって☆











うん、未来はまだまだ明るい!

2010年11月02日 19時17分53秒 | 子どもたちと
きょうはお隣の小学校の収穫感謝祭。

子どもたちが学年ごとに、野菜作りの経過発表やら 地元の川の水質調査発表やら♪

そのあとは 1年生のみんなが育てたサツマイモをほっかほかの焼き芋にして いただきま~すの時間♪

大きな熱々の一切れ、あのおちびさんたちが育てたのをいただくのかと思うと 心の中までほこほこしてくるよう(*^ー^*)

ほんのり焦げ目のついた見事な黄金色の焼き芋、とってもとっても美味しかったよ、ご馳走さまでした、ありがとう


それにしても この学校 ほんとにすごい。

収穫したもち米をお赤飯にしたりお粥にしたり、トマトやキュウリでサラダ作ったり、しっかり味わうのはもちろんのこと、残った葉や茎は細かく砕いて肥料に、サツマイモのつるは毎年恒例のクリスマスリースに、その上トウモロコシの皮でお人形まで作っちゃう(*゜O゜*)

準備やなんかで先生方はさぞ大変だろうと思うんだけど、
先生方がおっしゃるには、地元の人がいろいろ協力してくれるから出来ることだと。

そういえば、きょうの焼き芋の機械も父兄の人が持ってきてくれたものらしいし、トウモロコシ人形の見本を作ってくれたのは地元のおばあさん、米作りや野菜作りも 近所のベテランのおじさんや地元JAの人がボランティア指導してくれるそう。

学校だけじゃなく、地域をあげてすごいのか~\(^o^)/


今 国内では 食料自給率をもっと上げようという声がある一方で、農業の後継者がどんどんいなくなって お米の育て方を知ってる人など減ってゆくばかりだそうな。

でも、この土地・この学校を見させてもらってると、いやぁ、まだまだ希望はあるよ、大丈夫だよ、なんて氣持ちになってきます♪

自家製大豆を使ったお豆腐作り、私もぜひ参加させてくださいってお願いしてきちゃいました




放課後は、例によって子どもたちとよじ登ったり走ったり、とっても楽しかったけど、からだの方は もうヨレヨレでごじゃりまする









見えない世界

2010年11月01日 14時40分00秒 | ふと思うこと
今度の日曜日は お隣の小学校の日曜参観。

午後からは お天氣がよければ、芝生の校庭で子どもたちの合奏やらゲーム大会やら、私たち読み聞かせグループも 大型絵本持ち出して参加させていただきます♪

思えばこの毎月の読み聞かせ、4年前の11月の学校開放週間をふらりと覗きに行ったのがそもそもの始まりでした。

あのときの1年生が今や5年生、あと半年足らずで最高学年なんだねぇ。。。
感慨深いなぁ。。。




かれこれ3年以上も読み聞かせさせていただいてると、「ああ、絵本読む人」って知ってくださる方もおられるようで、読み聞かせ講習会などのお知らせを頂くことがたびたびあります。

私知らなかったけど、こういう講習会とか勉強会とかって多いんですね。

みなさんすごい意欲的なんだなぁ。。。と感心しつつ、なぜかなかなか腰が上がらない私。


そういえば、同じ読み聞かせグループの人たちも 落語絵本のときはわざわざ和羽織風の衣装着てこられたり、キノコの出てくるお話には図鑑併用で解説されたり、羊の出てくるお話に羊の縫いぐるみ持って来られたり、といろいろ工夫されてて、思わず「わぁ、私も子どもたちに混じっていっしょに聞きた~い!」なんて叫んでしまうほど。

面白そう、楽しそう、って 人の見てると思うのに、なぜか私もそういうのやってみ~よう、とはならない。

この創意工夫や向上心のなさってなぜ?と我ながらずっと不思議だったんですが、いろいろな方と読み聞かせについてお話しし合う中でだんだん見えてきたものがありました。




私が子どもの頃、家族の誰かに本を読んでもらうって ご飯を食べるのと同じ。。。とまでは言わないにしても それに近いぐらい日常的で当たり前のことだったんですね。

父が、母が、祖父祖母おばたちが、しょっちゅう読んでくれた。

そして私もまた 4つ下の弟に当然のようにせっせと読んで聞かせてました。

私にとっての読み聞かせって、家庭の中の空氣のようなもの、言わば素人くさい行為っていうイメージなんですね。
毎日のご飯を作るお母さんがプロの料理人ではないのと同じように。

とはいえ、お母さんだって お料理習いに行ったりして腕を磨く人だっているわけで、講習会や勉強会でもっと上手になれるのならそれに越したことないはずなんだけど。。。


私は読み聞かせでいったい何がしたいんだろう?
本を読んだり読んでもらったりする、その何が楽しいんだろう?

自分の中にずっと聞いていったら。。。


小さい頃 読んでもらって楽しかったりうれしかったりしたのは、
誰かの傍で すっかり安心しきって明け渡してぽ~っとなりながら お話の世界に無心に浸りこむ楽しさ。
お話そのもの以上に その場の空氣が心地よかったんですね。


そして今、子どもたちに読んで聞かせる側にまわってみて楽しいのは、
そんな心地いい世界に子どもたちを連れて行って 思い思い存分に浸りこんでもらう楽しさ、
だったんですね。


実際読み聞かせしてて、それまでざわざわしてた子どもたちが だんだんし~んとなって お話の世界にのめり込んでいくのが 手に取るようにびんびん感じられるときがあって。

こちらもそれに合わせるように 声の調子や間のとり方、リズムやテンポの揺さぶりなんかで世界を盛り上げ、
さいごは徐々に調子をおとして、現実の世界に戻ってきて 子どもたちも自分もぴたりと着地させる。

そして、「おしまい☆」と言いながらあたりを見回して、夢を見ていたかのように まだどこかぽ~っとした表情の子どもたちが はぁっとため息をつく、その顔を見るのがたまらなくうれしいんだなぁ♪


そして、そういう魅力ある世界を構築できるよう、事前に何を読むか吟味して 読む方も打ち込める内容のものを選び出し、わかりにくい言葉や言い回しがないかなどチェックする、そういった作業はぜんぜん苦にならない。


なるほど、わかってきました。

私が読み聞かせを通してやりたいのは、
その場限りの豊かな夢の世界を創り上げて 子どもたちといっしょに体験することなんだって。

必ずしも知識や情報としてお話が頭に残らなくても構わない。

ただ、
あ~、きょうもとってもいいところに行ってきた、楽しかったぁ♪
って思いを 子どもたちといっしょにしたいんだって♪


だって、
私自身 そうやって連れていってもらった世界が、
物語の筋は忘れてしまっても、
とってもとっても幸せな思いをしたぁ、っていう豊かな記憶の重なりとなって、
見えないけど 今でもどこかに残っていて 今の自分を支えていてくれてるってわかってるから(^^)



地味な読み聞かせだけど、ひとりぐらいちょっと毛色の変わったのがいてもいいよね♪