毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

晴れるといいな♪

2016年02月29日 09時46分22秒 | 自然


南紀のわが家から、おはようございます (⌒∇⌒)ノ




きのう、山越えドライブを控えていながら あんな長文したためてしまったものだから、出発が遅れて せっかくの山道は真暗闇、写真撮れずじまい

そしてけさはけさで 早朝から雨音が。。。。またしても カメラくんの出番なしかと思っていたら、






おお、なんか晴れてきた~!



外に出てみたら、お隣小学校の校庭に 早咲きの桜が♪






あんまりかわいいので もう一枚、青空をバックに♪






こちらは 毎年楽しみにしている 駐車場の桜、花芽がもうこんなに (*^^*)






まだちょっと危なっかしいお天氣だけれど、暖かくて過ごしやすいです♪






きょうは お隣小学校の学習発表会、私たち読み聞かせグループも出番あり、午後はもっと晴れてくれるといいなぁ




さて、もうちょっとしたら さいごの練習に行ってきます。。。。本番 どうかうまくいきますように。
























シュレディンガーの 堀井さんと 私たち

2016年02月28日 13時39分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


24日の 「相棒 ・ 第17話」 が、尾を引くともなく引いていて、いったいなんなんだ~? と思っていたのですが。




25日に引き続き、また 「物理学者と猫」 のお話。

内容にも触れることになりますので、お読みになりたくない方は、ごめんなさい、ここまでで m(__)m













*         *         *         *         *












パラレルワールドの概念を 日常に持ち込むと どうなるか。

たとえば、不機嫌な私と出くわした誰かが 不機嫌な言動で応酬したとします。

そこで一氣に揉め事にまで発展させることもできますが、そこはやり過ごし、ひとりになって なんとか氣分を立て直すことに成功する。

そして、再び件の人物と出会うと、なぜか向こうも さっきとは別人のように愛想がいい。

相手も自分と同じように氣分を変えたのだ、と見ることもできますが (っていうか そう見るほうが一般的なのでしょうが) 、ここで思ってみるのです、自分の氣分が変わり 波動が軽くなったことで、それに見合う並行世界に移動したのだと。

目の前の相手も 今いる場所も、さっきとまったく同じように見えて、実は 少しバージョンの違う別人であり 別世界なのだ、と。




パラレルワールド概念が 比較的ポピュラーになったのって、よくはわかりませんが、家庭用ゲームの功績が大きいんじゃないかっていう氣がします。

特に ストーリー性の高いゲームにおいては、納得いかない結末に導かれては やり直す、というのは、まさにパラレルワールドの移行そのもの。

自身をゲームの主人公に重ね合わせ、選択を変えることで 移行を疑似体験するわけです。

さらに ゲームの世界がアニメ化されることで、パラレル概念は いっそう親しみやすく浸透ていった感があります。




ここで面白いのが、当ブログで毎度おなじみ、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 で、「すべてはすでに起こっている」 というテーマで “神” が ゲームを例えに持ち出していること・・・・・これ 前にも書いた氣がしますが。

つまり、起こりうるあらゆるバージョンの自分が すでに潜在的に存在していて、私たちが その中のひとつを選択すると その世界が実現し、それ以外は 可能性のまま残される、と。

けさの味噌汁の具を大根にすると、それ以外のすべての具材は 「可能性のまま 実現しなかった世界」 として 闇に沈む。。。。なんちゅー卑近な例えだ(笑)

卑近過ぎて いっしょにするのは氣が引けますが、「シュレディンガーの猫」 の話も 要はこういうことなんですよね。




25日のブログでリンクを貼らせていただいた3つの記事で学んだところによれば、シュレディンガーさんの説に さらにノイマンさんやエヴァレットさんのアイデアが加わり、私たち人間ひとりひとりも 起こりうる複数の世界に 可能性として存在し、その中から 私たちが自身の意志で選び取った世界が 現実となる、という説が浮上した、ということのようです。




ここでようやっと、「相棒 ・ 物理学者と猫」 (^_^;)

何の悪氣も落ち度もなく、ただ有能すぎるがゆえに 理解されずにきた 堀井准教授に、おそらく初めてであろう 理解者が現れた。

共感し、賞賛し、励まし、後押ししてくれた。

その喜びは 想像に難くなく、それだけに その理解者を失った痛みの激しさも偲ばれるのですが、大きすぎるその痛みに囚われ 支配されて、彼の世界は 何度繰り返しても 悲惨な結末に行き着いてしまいます。




パラレルワールド視点を日常に持ち込むことの利点は、「自分の選択が 自分の世界を創る、そして、何を選ぶかは 自身の自由意志で選べる」 という意識が持てること。

しかし、長年にわたって私を苦しめたのは、自由なはずの選択が なぜか自由にならないこと でした。

だから、堀井氏が どこで引っかかって エンドレスループに閉じ込められたのかも わかる氣がします。

彼は、大切な人を失った深い悲しみを 十分に味わって手放すことができなかったのです。

その結果、持ち続けた悲しみが 憤りに変わり、はけ口を求めたそのエネルギーが 「彼女は殺された、犯人は○○だ!」 という思い込みを生んだり、犯行を告白した相手への殺意に変わったりしたわけです。

遡るたびに シチュエーションは変わるのですが、彼が悲しみ → 怒り → 憎しみ という感情パターンを手放せなかったため、何度繰り返しても 辛いエンディングに行き着いてしまったのです。

彼自身も うすうすそのあたりを感じてはいたようですが、選択の自由をどうすれば取り戻せるかはわからない、その苦しみが 「僕に 他にどんな世界があるというんですか」 という あの悲痛なセリフに込められていたように思います。




私なりに言わせていただけば、ブレイクスルーの鍵は、「堀井氏が 自身の行動を一定の型に縛り付けている感情パターンに氣づくこと」 だったと思うのです。

私が出会った とてつもなく大きな手がかりは、「感情よりも前に からだの感覚が起こる」 という情報でした。

堀井氏で言えば、大きな支えや励ましを失った悲しみや喪失感、その引き金となる ある種のからだの感覚があったはずなのです。

喉元の圧迫感とか、胸がきりきり締めつけられる感じとか、激しい動悸とか、空氣が抜けてゆくような頼りなさとか。




悲しい、悔しい、どうしてこんなことに、悪いのは誰だ、復讐してやる、などと、言葉によって 感情がエスカレートし 憎悪の世界を紡ぎだす前に、言葉にならないこの感覚に集中し、味わい尽くせたら。

私がさんざん試したところでは、時間の長短はありますが、きちんと集中し 見つめ 感じ切れば、こういう感覚は いずれは消え、その支配力も 失われるようです。

その結果 視点が変わり 視野が開けて、ごく自然に 新たな選択肢が出現するのです。

無理やり 見方思い方を変える必要は ありません。

おのずとそうなるのです。




堀井氏については、彼の代わりに 右京さんが 新たな視点を提供してくれたのですね。

おかげで真相が明らかになり、煮えたぎる憎悪から解放された彼には 右京さんの適切な示唆で 「研究を完成させる」 という新たな道が開けた、と。




私たち誰もに 右京さんのような頼もしい助っ人が さっそうと現れてくれるわけではないでしょうが、自分を捕らえて離さないネガティブな感情を、言葉になる前の大元から見つめ 受け止めることは、誰にでも可能です。

感覚フォーカスに限った話ではなく、瞑想でも、祈りでも、楽しみに没頭するのでも、セラピストやヒーラーの力を借りるのでもなんでもいい、これと思うやり方で、自分なりに 手にした鍵を使い、迷宮から抜け出して、新しい希望の世界を生きるチャンスがあるのです (^^)




このドラマを創った人が意図してのことかどうかはわかりませんが、今回の 「物理学者と猫」 には、そんなメッセージが込められていたような氣がしてなりません。




長文なので 2回に分けようかとも思いましたが、余計長くなりそうで、ええい! と一氣にアップしてしまいました。

おしまいまでお読みくださって ありがとうございました。























ちょこっとフォト♪

2016年02月26日 11時35分33秒 | 日々の楽しみ


きのうは 久々に長文二つも書いたので、写真を載せる余裕がなくて (^^ゞ



きのうのお楽しみ、久々のスタバ♪




ひとりで行っても居心地よくて メニューも魅力的、本もゆっくり読めるスターバックスカフェは お氣に入りなんだけど、南紀には一軒もない (T_T)

だから、実家に来たときのお楽しみのひとつなのです♪

店員さんに 「写真撮らせてもらっていいですか?」 と確認、購入した品ならOKとのお言葉をいただいた上で。



カフェモカと





桜のシフォンケーキ




もう春が目の前なんだよねぇ。。。。塩漬けの桜の花のいい香り、季節を先取り・・・かな?

ホットの飲み物は、マグカップに入れてもらうのが好みです




けさの青空





朝日をいっぱいに浴びて 笑ってるみたい





可憐な横顔







朝方の寒さも 日が高くなるにつれて 氣温が上がってきて、きょうもお散歩日和のようです (^_-)-☆

























こんなところにパラレルワールド!

2016年02月25日 21時15分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


父と私が意氣投合して 一緒に見ることのできる 数少ないドラマ (ドキュメンタリーや紀行番組、音楽番組などは もっとつき合えるものが多いんですが) のひとつが、人氣の刑事ドラマ 「相棒」 。

夕べも二人して見始めたのですが。




この先、昨晩放映の 「相棒 シーズン14 ・ 第17話 物理学者と猫」 の内容について語っています。

知りたくないよという方は、ごめんなさい、ここまでになさってくださいね。
















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番組開始よりしばらく後、「シュレディンガーのネコ」 から タイムループ、並行世界と これまでにないストーリー展開に、ぐっと身を乗り出す貴秋と、なんじゃこりゃ? と テンションがどんどん下がってゆく父。。。。いささか仕事疲れの父は 途中から居眠り始めちゃいましたよ(笑)

一方で、わ~ 「相棒」 でパラレルワールドだ~ と俄然精彩を増した私。

パラレルワールドを 奇想天外 ・ 意味不明な作り事と捉えるか 日常に当たり前にあるものと捉えるかの違いでなのでしょうね




五感を超えた世界に興味を持つと、量子物理学や 「シュレディンガーのネコ」 と出逢う確率は、かなり高くなるような氣がします。

私も、知識としては 以前から知っていましたが、ぐんと理解と親しみが増したのは、以下の三つの続きもののブログ記事を読ませていただいてから。


       「ド ・ ブロイおじさんの動画」   「良く考えると怖い量子力学」   「この世界はパラレルワールド」


ブログタイトルや 散見される下ネタは ちょっと苦手なんですが、このブログからも 貴重な情報や氣づきをいくつも頂いています。

愛読書 「ONE」 との出逢い以来 身近なものに感じていたパラレルワールドが、自身の暮らしの分かちがたい一部として ぐぐっと深く入り込むようになったのは、この三つの記事のおかげ。




で、「相棒」 に話を戻すと、それが妄想であれ 実際に時間遡行したのであれ、「繰り返し遡り 見直される事件」 というテーマをもってくるなら、そのラストは ぜひとも希望に満ちたものであってほしいと 途中から強く願うようになっていました。

だから、あのエンディングには 心から満足だったなぁ♪




幸せとはいえない子ども時代や青春時代を送ったであろう堀井准教授、やっと巡り合えた よき理解者を失った悲しみからの暴走は、何度繰り返しても 辛い結末に。

そして、そのたびに口にするのが、「僕に他にどんな世界があるというんですか?」

それは、彼のそんな不幸ベースの思い込みがあってこそ 創り出される世界なのだけれど、彼自身は 結果のみならず 原因も自分由来であることに 氣づけない。

彼の意識を変えない限り、「何度繰り返しても 幸せな結末にたどり着けない」 のは、本人の言うとおり。

でもね、その思い込みを変えることができれば、あなたの世界も変われるんだよ、わかってよ、氣づいてよ。。。。と こちらは 祈る思い。




ここで そんな思いに応えてくれたのが、他ならぬ主人公の右京さん。

堀井氏に代わって 聡明で曇りない彼の目が解き明かして見せてくれた 思いもよらない現実に、堀井氏の前に 新たな道 (選択肢) が開ける。

チョークを握り、亡き恩師の教え 「RT(Re think = 考え直しなさい)」 を実践するその姿を眺めながら、名状しがたい温もりが 胸のうちに広がっていきました。




そう、なかなか理解できないことだけれど、握り締めたままの古い思い込みが 自分を不幸に縛りつけ、可能性を狭めるんだよね。

思い込みを手放せれば、世界は大きく変えられる。。。。希望が宿る 新しい人生の始まり、よかったねぇ (^^)




それにしても、この種の感動を アニメやSFではなく 刑事ドラマからもらえようとは思わなかったなぁ。

スピリチュアル系に対する 世の中の目も、変わりつつあるのかもしれないね☆

























思うがまま 望むがまま

2016年02月25日 08時29分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


夕べのピアノの話。

いくら意氣込んでも 隔靴掻痒という感じで、一番言いたいことがつかまえられないもどかしさを覚えながら 書いてたんだけれど、あのあと 布団に入った直後にひらめいたのです。

あの喜びのかなめは、望みや最善の予想が なんの引っかかりもなく すんなり実現するのを体験した、というところにあったのだ、と。

こう弾きたい、もっとこんなふうに手が動けばいい、と望むと、そのためにはどうすればいいか ワクワクのアイデアが 間髪を入れず浮かび上がり、すぐさま行動に移されて たちまちのうちに現実となる、そのうれしさ、心地よさ。





眠くて もう一度PC立ち上げるまではいかなかったけれど、いそいで起き上がってメモだけはしっかりとりましたよ




うれしい予想やインスピレーションが、狙い過たず すんなり事実に変わる。

このところ 心の内も外も そんな大当たりの連続という かつてない日々を過ごしています。

そんなの 珍しいことでもなんでもないじゃない、と思われますか?

貴秋には、とんでもなく珍しいことなのです。

つまり、以前は 望みは叶わなくて当たり前、期待は裏切られて当たり前、が日常だった ということ。




ひそかに 「負の期待」 と呼んでいるのですが、望みが浮かんだとき 同時に現れるのが、「どうせまただめだろうな」 というセリフ。

それほど強い思い込みがあっさり実現するのは当然自然、すべて自分の思いが起こしたことと 今ならわかるのですが、当時の何もわかってない私が そんな悲しい現実に 「ほら やっぱりね。。。。どうせ私はだめなのよ、いいことなんか実現しないのよ」 という思い込みをせっせと強化し続けたのもまた 無理なからぬこと。

私の母は、この思考パターンの名手でした。

私は 母を通して 自分のこのパターンに氣づかされ、かつ 感覚フォーカスという解除手段を得て 今に至ることができましたが、母はさいごまで 負の期待に囚われたまま、希望を失い 生きる氣力を失い、記憶も思考能力も 自ら封じるようにして 旅立っていきました。




ちょっと恐ろしいことを言うようでためらわれるのですが、世を震撼させるような事件のニュースでたびたび耳にする、「むしゃくしゃした」 「相手が誰でもよかった」 という 短絡的ととれる言葉、これを聞くたび 心のどこかで 「わかるなぁ」 という声がします。

わけもわからないまま 負の期待ばかり膨らんだ 焦燥 ・ 絶望地獄に閉じ込められて、そんな目に遭う訳も そこを抜け出す手段も見つからない、こんな閉塞状態に長いこと置かれると、その今にも爆発せんばかりのフラストレーションは 行き場を求めて とんでもなくいびつな形で爆発しかねないものだ、ということが、かつての自分の心理と照らし合わせて よくわかるのです。

私だって 最悪の時には、限界ギリギリまで押さえ込んだ怒りが 自他を巻き込んで暴走寸前だったのですもの。

あの犯罪に手を染めてしまった人たちと 自分との差は、紙一重だったと感じます。

私は、少し運が 巡り合わせがよかっただけなんだ、って。




そして今、その地獄を脱出する鍵を、私は握っている。

それが、このところ 金太郎飴のように どの記事を切っても出てくる、「自分の心の闇や ほんとうの思いと 目を背けず向き合い 受け入れる」 こと。

醜い、苦しい、こんなもの絶対見たくない、と 明確に意識する間もないほど 瞬時に押し込めて なかったことにしてしまう、自身の影の部分、そこにこそ 鍵はあったのです。

自分をがっちり捉えて離さない どうすることもできない強大な力と思われていたものが、実は幻に過ぎなかった、その力を失わせるには ただまっすぐ見つめ、感じ 味わう、それだけでよかったのだと、生前の母に教えることができたなら。

それは叶わぬ望みだけれど、今危うい瀬戸際にいる人には、もしかしたら届くかもしれないもの。

それが、こんな 世間の大半の方々には 「なにこれ?」 であろうブログを書き続ける動機のひとつだと思っています。




あの、まかり間違えば 扇情的なワイドショーの主役になりかねないほど 怒りや不安や恨みに満ち満ちていた私と、今の 文字通り “毎日がしあわせ日和” な私、そのビフォーアフターの落差のすごさよ。

かつての苦しさを知っているから、今の幸せが かけがえのないものに思える。

そして、その鍵が 望めば誰でも手に入るものだということも ついつい語らずにおれなくなります。




そんな動機に支えられて、きょうもまたせっせと こんなブログを書いています。

なんか 通常運転に戻ったな~っていう感じ(笑)




“毎日がしあわせ日和” は、自分を見つめることをためらわないすべての人の 当たり前の日常なのです
























いい一日でした♪

2016年02月24日 23時39分27秒 | ふと思うこと


きょう一番のお楽しみは、ピアノの練習♪

父がたっぷり2時間以上留守だったので、その間存分に。




学生時代 → ピアノ教師時代は 毎日のように弾いていたピアノも、和歌山に移ってからは とんとご無沙汰。

楽器が手元にないのだから 致し方なく (T_T)

それでも、いずれまたきっとピアノと暮らすぞ、すっかりなまってしまった手も 時間をかけて 昔の勘と技量を取り戻すぞ、という氣持ちを忘れたことはなく、今回の実家暮らしで ようやくそのチャンスが訪れたのです。




最初はゾンビかと言いたくなるぐらい ギクシャクして思い通りにならなかった手も、じっくり運指練習から再開することで 少しずつ動きがなめらかに。

練習を一日休めば 調子が落ちたのがありありとわかるといわれる演奏の世界、10年以上ろくすっぽ鍵盤に触れてもいなかったものが そう簡単に復調できるはずがないと思い込んでいたけれど、今の自分には そんな大きなブランクを補って余りあるほどの 新しい力が備わっていたのです。

まず、筋繊維一本ずつといいたくなるほどの微細な感覚にまで及びそうな からだのかすかな状態さえ キャッチできるようになっていたこと。

さらに、「できない」 「できっこない」 という否定的な思いを じっくり味わって手放す術を 身につけていること。

どちらも、感覚フォーカスの積み重ねの賜物。

自分の指、腕、肩、背中から足腰、すべての連動するさまを仔細に感じ取りながら、バランスの崩れているところを見つけ出しては 微調整して、最盛期の調子を取り戻してゆく一部始終の なんと楽しいことよ。

思えば これって、本来の自分のありようを取り戻してゆくプロセスと同じなんですね。

「弾く」 ということが、以前とまったく違った意味合いを帯びてきます。

以前の私は 他者から評価されるために弾いていた、今の私は ただ氣持ちの赴くまま 無心に弾くだけで 十分満たされている。




「できた!」 の連続の なんとワクワクすることか。

2時間があっという間、これほど集中して 無我夢中で練習を楽しんだのって 初めて \(^o^)/

同じ行為なのに その質も意味も 以前とまるで違う。。。。ほんとうの自分でないものを手放した報いは こんなところにも現れているのだと、強く意識させられたひとときでした。

あ~、ほんとうにいい日だった




おしまいに、きょうもちょこっと写真をば☆



夕方の散歩



大和川の土手の下



きょうの夕空は 優しい表情





夕日に照らされた梅の花



盛りは過ぎてしまったようだけれど、こっちでも咲いているところを見られてうれしかったよ

今度はちゃんと アップで撮れたしね





もう一度、ほんとうにいい一日でした (*^^*)
























きょうもいい一日♪

2016年02月23日 18時02分02秒 | 日々の楽しみ


カメラ、きょうもせっせと使わせていただいています(^^)

フラッシュも使ってみたし、フォーカスの合わせ方もわかってきました♪

写真のサイズも 少し変えてみたよ




庭の乙女椿





こっちも




その昔 母と 「椿寺」 で知られる白毫寺に行ったとき、ちょうど開かれていた椿市で 母が買い求めた苗木が すっかり大きくなって、毎年可憐な花をたくさん咲かせてくれます。

そうだ、もう少し暖かくなったら 久々に白毫寺行くかな~♪




こちらはサザンカ。




ね、きれいに撮れているでしょ

もう接写も大丈夫



おっと、これは失敗





撮り直し、今度はうまくいったね☆




使い終わった青ねぎの根っこを庭に植えておいたら、どうやら根付いたみたい、青々した葉がニョキニョキ♪

こっちでも相変わらずこんなことやってます




これは きのう焼いたチョコレートケーキ♪




ホットケーキミックス生地に ココアパウダーと砕いたチョコと オリーブオイルでさっとソテーした角切りリンゴを混ぜ、ラム酒で香りをつけて、天板に流し込んで焼いただけの お手軽なもの。

頂き物の苺と ラム酒フレーバーの生クリームと 家から持ってきたアップルミントを添えて♪




「写真だけでは満ち足りない」 とかなんとか言っておいて、きのうもきょうも 相変わらずのフォトブログ、天邪鬼でごめんなさい。

でも、毎日が楽しくて、写真を撮るのも楽しくて、それを見てもらえるのもまた楽しくて、氣持ちの赴くままに動いていたら、なんかこういうことになっちゃったのです (^_^;)





オマケにもう一枚




2、3日前にアップロードしたものなので これだけサイズが大きいですが、夕日を撮った一枚、面白いのは 左手前の 花びらのような ハートのような二重の光。

私の楽しい氣分も写ったかな?




カメラ、当分手放せそうにありません 






















 


わが聖堂 ・ わが聖域

2016年02月22日 18時37分44秒 | 日々の楽しみ


きのうはこんな青空だったのに





きょうはこんな





午前中は晴れって聞いていたけれど、10時前でこの調子では 青色が消えるのも時間の問題。

早めに外出の段取りをつけておいてよかった(^^)v

朝食の片づけや掃除をそそくさと済ませ、わが聖堂 ・ 図書館へ♪




聖堂入り口♪




素敵でしょう?

中はもっと素敵なんだけれど、そうそうバシャバシャとシャッター切りまくるわけにもいかないので 自粛




入って左手、まず新聞や雑誌の棚、ビデオやDVDの棚、その向こうに 日本文学、海外文学、さらにその奥には 歴史 ・ 芸術 ・ 哲学 ・ 伝記などから PC関連 ・ 農業など さまざまなジャンルの実用書まで ずらりと並ぶ書棚の列。

開設以来 その配置はほとんど変わっていません。

懐かしいなぁ。。。。私が取り寄せを頼んだ本も 何冊も混じっているんだよね♪

とりわけ懐かしいのは、スピリチュアル関連の書棚。

心のすき間を埋めたくて、未来に希望を持ちたくて、次から次へと むさぼるように読んだっけ。




なんともいえない温もりに包まれながら 棚の間を その昔借りた本など見つけながら うろうろ歩き回るのですが、今はこちら側では 食指の動く本は あまりなし。

私がぬかずきたくなる神殿は、入り口から右手のほうなのです(^_-)

右手には、まず写真集や絵画集、医学書や英語本は ちょっと飛ばして、その昔借りた本が一番多いのが 料理&手芸コーナー。

取り寄せてもらった本が一番多いのも、この棚だな☆




そして、さらにその奥、以前はほとんど足を踏み入れたことのなかったこのエリアこそ、今の私の聖域、安らぎと喜びの場。




そう、絵本 ・ 児童書コーナー \(^o^)/

もうね、たくさんあるのですよ。。。。スペース一番とってると思うな♪


こんな本や





こんな本や





こんな本も




もう浮き浮きワクワクと ときめいてときめいて、ずらり並んだご馳走を前に すっかりテンション上がってしまった バイキングのお客さん状態(笑)

読みたい本が あまりにも多過ぎて、収拾がつかなくなりそう

このエリアは、しみじみと暖かく 優しい空氣に満ち満ちています。

窓際には カーペットを敷いて ソファなど置いた キッズコーナーもあり、空いていれば大人もOKのようなので、ここに半日ぐらい陣取って、これと思う絵本や児童書を 片っ端から読むのが夢♪




いずれまたそのうち 山里のわが家が恋しくなるのかもしれないけれど、こんな和やかな神殿が 歩いて10分足らずのところにある暮らしというのも悪くないな、と思う きょうこのごろ。

街中ならではのお楽しみ発掘は、まだまだこれからです

























語りたいもの 伝えたいもの

2016年02月21日 08時35分03秒 | ふと思うこと

夕べアップするはずのブログ、がんばったんだけど 睡魔に負けてギブアップ、遅くなってごめんなさい m(__)m




雨の朝、十津川から西吉野にかけての山間を走り抜けてのドライブ。

上下左右にうねりながら 100km近くえんえんと続く道、運転には神経を使いますが、次々と目に飛び込んでくる景色は 何度見ても見飽きない豊かさ、季節で 天候で さまざまに表情を変え、毎回楽しませてくれます。




つづら折れのカーブを曲がると ぱっと目に飛び込んでくる 「十二滝」





滝つぼの傍には 小さな祠と並んで こんな句碑が。。。。黒柳召波、江戸中期の俳人で 蕪村の弟子だとか 左の行の頭は 「耕す人」 って読むんですって





雨の日は 山のあちこちに靄がかかって、水墨画のような風景





こんな曇り空の下でも 翡翠のような色合いを見せる川





行きに カメラが作動しなくてオタオタしたダム湖畔、リベンジの一枚(笑) ここの水は きょうは濁り色だなぁ






まだまだ撮りたい景色があったのだけれど、雨はどんどん強まってくるし、ここ! と思うところに 車を停めるスペースがあるとも限らなくて。。。。

あと、接写の仕方がわからず、前日からの梅やふきのとうの花のアップが みんなボケボケになっちゃいました (T_T)

これかな?というモードを見つけたので、また試してみます。




実家近辺ではほとんど見当たらなかった梅の木、わが家のほうでは そこここで見ることができました♪

二月と梅の花の香りは もはや切っても切り離せません。

ウグイスの声は聞かなかったけれど、初鳴きまだかなぁ。。。。




こうして三度にわたり 思う存分写真を載せてみて、そのありがたみが身に沁みました。

美しい景色に感動して みんなにも味わってもらいたい! と思っても、言葉だけでお伝えするのは やはりムリがあります。

熊野も奈良も とても美しいものがたくさんあるところだから、これからも 心ときめくたびに 写真をアップして、感動の一部なりとも分かち合っていただけるなら、とても幸せなこと。




と同時に、私の本分は やはり 内なる世界について語るところにあるのだな、と思ったのも また事実なのです。

写真は楽しいけれど、それだけでは満たされない部分もあることを 思い知らされました。

いかめしい言葉だけれど、「天命」 って そういうものなんでしょうね。

写真主体のブログなら、もっと素晴らしいものが いくらもあるのだし。

それぞれに 持って生まれた才やお役目が違うということなのでしょう。




ここからまた、四季折々のスナップなど 浮き浮きとご紹介しつつ、五感を超えた世界がどうの インナーワールドがどうのと 相変わらずの話題に興じるブログに おのずと戻ってゆくことと思われます

そんなブログも一興とおつき合いくださる寛大な方々におかれましては、イミフ ・ 混沌の貴秋ワールドを 今後とも どうぞよろしくお願い申し上げます (*^^*)






















久々の発心門&散歩道

2016年02月20日 16時16分40秒 | 熊野


きのうの続き。




本宮大社からの帰り道、そのまま山の上に。

ずっと行きたかった発心門王子、昼間早くに歩いて上るつもりでしたが、予定が入り 時間が足りないので プラン変更、車で向かいます。

この日一日快晴と聞いていましたが、薄雲がかかり出し 空氣も湿り氣を帯びてきたので、のんびりしてはいられません。

青空が残っているうちに 行きたいところ全部行くんだ~、と欲張って




ああ ここ。。。。なんて久しぶりなんでしょう。





うん、まだ大丈夫、薄日がさしてる(^^) 深々二礼、拍手二回、心を込めてご挨拶。





道を挟んで お堂の向かい側、熊野古道の入り口、この時間 すでに人影はなし。





聞こえるのは この水音と 風の音だけ。





ちょっとだけ 古道に足を踏み入れてみます。





刻まれた 「熊野道」 の文字。





薄らいだ日ざしは やや寂しげ、風も冷たくなり、車に戻ります。






ちょうどここで バッテリー切れに。

家に戻り、すぐに充電器に差し込んでおいて、持って帰った荷物と 出掛けに洗っておいた食器を ささっと片付け。

15分ほどの充電では 満タンには程遠いでしょうが、どうしても もうひとつ 行きたいところがあるのです。

お氣に入りの散歩コース、片道20分ほどのショートコースですが、日がすっかり暮れる前に ここをぜひとも歩いておきたくて。




これこれこの景色、懐かしいなぁ。。。。あの鉄橋のもう少し先まで行くんだよ♪





わかるかなぁ、白いお月さまが ぽちっと写っているの。





このお地蔵さまの少し先でUターン、行きも帰りも しゃがんで手を合わせてご挨拶するのがお決まり。





お日さまが山の端にかかり 陰りもようの空、なんだか不思議な雲が。。。。






散歩の写真はここまで。

私には珍しく 午後中あちこち飛び回っての過密スケジュールでしたが、行きたいところに行けて 見たいものが見られて 撮りたいものが撮れて、心底満足です





さて、二泊三日のわが家時間は あっという間に過ぎ、今はすでに奈良に戻っています。

雨がひどくならないうちに 山を越えてしまいたくて、朝9時前に家を出ました。

雨でもやっぱり景色が撮りたくて、何度も車を停め 傘を差しては カメラ片手に飛び出して、いつもより1時間以上余計にかかったので、早めの出発でちょうどよかったみたいです。

そちらはまた 晩にでもアップさせていただきますね♪