毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ゆるふわ

2013年06月30日 23時34分38秒 | 紡ぐ暮らし


もう6月も終わりなんだねぇ。。。

ほぼ曇りか雨続きの毎日です。

きのうは久々に白雲の間から青い空が顔をのぞかせていたけれど、それでも日は陰りがちで ひんやりした風が強く、涼しい一日。

洗濯物がからりと乾いてくれたのはうれしかったかな♪

まだしばらくは はっきりしない天氣が続きそう・・・まあ、家の中が湿っぽくなるのはいささか困りものだけど、涼しいし 外の氣配も静かだし、外回りのことができない分 のんびり過ごせるし、雨の日々も悪くないです(^^)

何よりも、今が盛りの紫陽花には 雨がよく似合うしね♪





2週間近く前に漬け込んだ梅干は、梅酢がしっかり上がってきて、今のところカビが出る様子もなく ひと安心。

蜂蜜梅酢の梅も かなりシワシワになって、順調にエキスが溶け出しているみたい。

梅味噌は 氣温が低いせいか 発酵の進みが遅いけれど、少しずついい匂いがしてきているし、梅ジャムは小分けして瓶に収まって 冷蔵庫の中。

ガラス瓶だのホウロウ容器だのをのぞき込む毎日、6月という季節をしっかりつかまえて味わった氣がして、満足度高し♪




淡々とした日常を送りつつ、心の中は 相変わらずゆるふわで、なんだか妙な感じ。

これまでの自分の原動力が いかに不安ベースだったかが、よくわかります。

怒りに駆られたり、不安におびやかされたり、このままではマズイ、という危機感に背中を押されて けんめいにアクションを起こしてきたんだね。

ピンチに陥って ジタバタあがいて、そこからふっと視界が開ける、その落差が感動を呼んで、そんな思いがこれまでこのブログを紡いできたのかなぁ、という氣がします。

今だって、氣持ちはしょっちゅう揺れる。

揺れるんだけど、大揺れになる前に すっと落ち着きどころが見つかるおかげで、アップダウンの幅が小さくて、穏やかな時間が長続きする分、すっかり力が抜けちゃったみたいなのです(^_^;)

かつて味わった記憶のない心境なので、どうも慣れなくて(笑)

しばらくお休み氣分を味わわせてもらった後、また新しい視界が開けてくるのかなぁ、となんとなく思っています。

活力の源を もっと明るく前向きなものに切り替える潮時なのかもしれません。




ひとつ氣づいたのは、今の私の場合、穏やかな心持ちというのは、うっかりすると 感じる力を鈍らせることにつながる、ということ。

ああ、和やかだなぁ、平和だなぁ、と 安らかな時間を享受して、ぼぉ~っと過ごして はっと氣づくと、身のまわりのさまざまな出来事に どこか鈍感になっている自分を思い知らされるのです。

ほんと慣れてないからなぁ、こういう境地(^^ゞ

新しいバランスのとり方を身につける時期なのでしょうね。

さなぎの繭の中で 惰眠をむさぼっている感がなくもありませんが、遠からず脱皮のときがやってくるようでもあり、今しばらくのほほんと過ごさせていただこうかなぁ、と。

喝を入れてくれるのは、梅雨明けと共に訪れる 真夏の強烈なエネルギーなのかも、ね☆












梅仕事

2013年06月19日 22時01分44秒 | 紡ぐ暮らし


けさから断続的に降り続く雨。

だんだん雨足が強まってきました。

きのうのうちに まとまった買い物してきてよかった~♪




久しぶりの産直市場で、今年も見つけちゃった、安売りの梅

一袋に大粒のものが1kg強ぐらいぎっちり詰まって 200~300円、さすが南高梅の本場♪

もちろん ほくほくと買い込み、買い込み(^^)

青くてしっかりしている実は 洗って乾かし、米酢と蜂蜜に漬けて 梅酢作り。

黄色味がかったものは 梅干と梅ジャム、もっと熟したものは 自家製味噌に漬け込んで 梅味噌に。

台所中に 甘くて清々しい香りが漂って、なんともいえずいい氣分♪

雨音を聞きながらの梅仕事、この季節だけのお楽しみ。




毎年じっとしていられないこの季節だけれど、去年はお休みだったんだよね。

母が旅立って二ヶ月足らず、悲しみに明け暮れていたわけでもないのに、なぜかあちこちの店で山積みの梅を見かけても 心がまるで動かなかった。

ああ、そんな季節なんだなぁ、と思いながら、ちらりと目の端に収めただけで素通り。

そういう時期だったんだね。

その埋め合わせのように、今年はあれもこれも作りたくてたまらない。

当たり前の日常を、ささやかな季節の喜びを、思うさま楽しめることに 心から感謝です




なぜか ここしばらくぽわ~んとしてて、文章をしたためるだけの集中力が湧きません。

思いはさまざまに浮かぶのだけれど、捕まえて形にできないまま 通り過ぎてゆくだけ。

まあ、こんなふうに力が抜けているのもいいものです(^^)

しばらく 成り行き任せで 漂ってみることにしましょうか。

きっとその先に また見えてくるものがあるのでしょうから。
















禁糖・その後

2013年06月09日 21時40分06秒 | ふと思うこと


例の禁糖なんですが、その後どうなったかといいますと。

5月29日が 今年度最初の お隣小学校・読み聞かせの日で、終わったあと 先生がコーヒーを出して下さったのを、ちょうどのどがカラカラだった私 何も考えずにさらりと美味しくいただいてしまいました(^_^;)

家に戻ってから、「あれ。。。?」と(笑)

で、そこから自然解除という感じで、糖分の方も少しずつまた摂るように。

面白いことに ちょうどその翌日、禁糖を終えるタイミングとして「おへそから指3本分上の腹部第二という場所に左手の小指がなじんだら終わり、左手の薬指がなじんだら継続」という情報と出会ったのですが、どれどれと試してみても どうもよくわからなくて、まあ私には 今回はこういう終わり方でよかったのかも、と

過去のダイエットやらなんやらの取り組みと比べて、大仰に構えることなく さらりと始まってさらりと終わったなぁ、というところが印象に残っています。




禁糖の本来の主旨には外れるのかもしれないけれど、我流禁糖(笑)での 現時点でわかっている収穫は、甘味と前よりいいおつきあいができるようになったこと。

どこかいびつな食欲や甘いものへの欲求が湧くときの自分を観察していて、何が起こっているのかが見えてきたんです。

からだに現れる顕著な反応は、のど元に粘りのある塊が詰まって息苦しいような感覚と、のどがカラカラに渇いたときと同じような感触。

のどの渇きに水を求めるのと同じように 甘いものに対する「渇き」が猛然と起こって、そのまま突進してしまうようなのです。

でも これは、明らかに生理的な自然の反応ではなく、過去のなんらかの体験から引き起こされた 偽の反応。

だから、のど元の軽い圧迫感と ざらりと渇きかけの感触、ぐらいの 早めの段階で氣づいて、静かに見つめていると、そのうちすーっと消えてくれ、当然 飲食物への欲求も薄らぎます。

ここを逃して エスカレートして、「ぐ、ぐるじい」っていうところまできちゃうと、ちょっとやそっとでは解除できないようで、そのときはしょうがないから「ええい、これは“薬”なのだ、甘いもの摂っていいから、せめてとびきり美味しく楽しくいただくことにしよう」と 意識的にいったんゆるめてから 再トライすることにしています(^^ゞ

いずれにせよ、以前はこの段階をすっ飛ばして、なにがなんだかわからないけど とにかく甘いもの~ と 止める手立てのない発作状態だったのですから、からくりがはっきり見えたのは 大きな収穫。

見えれば、コントロールも可能だもんね♪

甘いものどうこうよりも、正体不明の怪物に振り回されるのでなく、自分の力で 自分の状態をよりよく保ちやすくなったうれしさの方が 大きいかな




私たちって、ほんとうにいつも変化し ゆらいでいるのだなぁ、と思います。

変化や動きとして 特に意識しなくても、季節も 星々の位置も 私たちの身も心も 絶えず変っていて、「同じ」というのは たぶん観念の中だけの幻想なんだろうなぁ、と感じさせられる。

氣分がとってもいいときなど、どうかこの同じ氣分のまま ずっといけますように、などと ついつい執着してしまうけれど、それって実は とても不自然な願いなんだね。

「禍福はあざなえる縄の如し」というように、いいも悪いも絶えず変化し続けるのが、本来の私たちのあり方。

いくら心やからだを整えたって、ぐらつくときは必ずやってくる。

それが 命の理なのだから、意志が弱いとか 駄目な奴だとか、そういう問題じゃないんだね。




ただ、望むところに固定させておくことはできなくても、ゆれの質っていうのかな、状態を変えることはできるね♪

太陽や月が雲に隠れるように、本来の私たちの姿も ともすると ほんとうの自分ではないものに覆われて 見失ってしまうけれど、それが幻なんだと認識することで、眠りかかるたびにはっと目覚めるように すばやく戻ってくることはできる(^^)

問題の解決とか、そんな努力や頑張りはいらない。

流れが滞っているところに氣づいて、それがほんものじゃないことに目覚める、それだけでいい。




禁糖後も、取り立てて嗜好が大きく変ったわけではなく、やっぱり不自然な「渇き現象」は起こるし、その陰には 相変わらずややこしい心のもつれが顔を覗かせています。

ただ、よりつきあいやすく 扱いやすくなったというのはあるし、その分ますます心穏やかな時間が増えてきたなぁとも思います。




私たちの 人に認めてほしい、わかってほしい、という欲求って、さまざまな思いの中でも ことさら強いもののような氣がします。

でも、人に。。。って願うとき、実は、自分が自分のことを一番わかってないんじゃないだろうか。

自分をよぉく見つめて 理解して コントロールできるようになると、人にわかってほしいとはあまり思わなくなるみたい。

どうやら どこまでいっても、「すべて自分が起こしてる」というところに ブーメランのごとく戻ってくるようです
























先触れ

2013年06月04日 12時07分47秒 | 紡ぐ暮らし


きょうはね~、晴れ

朝のうちはやっぱり曇ってて、きょうもきのうみたいなお天氣かなぁと思ってたんだけど、10時ぐらいからぱぁっとお日さまが顔を出して、氣温もぐんぐん上がり出して

そこから急きょ いそいそとひと洗濯、この日ざしなら十分乾くね♪

お隣小学校でも、休み時間のチャイムが鳴るなり、わらわらっと子どもたちが校庭に飛び出してきた様子。

それはもう うれしいよね、ワクワクするよね \(^o^)/

・・・と 思いっきり共感☆




きょうもひんやりした一日になるのかな、と 朝のうちに選んだ七分袖のシャツブラウスとジャンパースカートも、もうこれではちょっと暑いな、という感じ。

昼食前にいったん着替えるかな。。。このお天氣だと、洗濯物が少々増えても氣にならないのがうれしい。

家事の合間の飲み物も、ポットに一杯の紅茶を、まずはホットのミルクティーで、そして残りは冷まして冷蔵庫でアイスティーに

まだ本格的な夏には間があるけれど、暮しのすみずみに現れるその先触れに、なんとなく胸が躍ります



梅雨入り宣言を早まったのでは?などの声もありますが、私的には こういうのもあり♪

梅雨だなぁと感じたときが梅雨ってことで。。。いいよね (^_-)


















この曖昧な世界に

2013年06月03日 21時40分31秒 | ふと思うこと


天氣予報では晴れるはずだったのに、一日中いつ雨粒が落ちてきてもおかしくないような灰色空。

まあ、ね。。。この辺は 和歌山と奈良の県境近くなので、どちらの予報を見るかでも違ってくるし、山の中だから 予報どおりにはならないことも多くって。

だから、ほどほどに参考にさせてもらいつつも、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」みたいな感じで

外からの情報に頼ったり 期待したりしすぎると、外れたときに腹が立っちゃうものね。

腹立ちのもとは、情報ではなくて 期待する氣持ちのほう。

お天氣はコントロールできないけれど、自分の氣持ちはコントロールできるのだから、目の前の事象をあるがままに受け止め 心を沿わせて ふぅわりと笑顔で生きていくことにいたしましょう(^^)




きのうのああいうブログを書いたあと。。。また こんな記事と出会いました。



なんか科学的に突き詰めれば突き詰めるほど 曖昧さが際立ってくるような (^_^;)



人は 正体のよくわからないものに はっきりした形をつけないと落ち着かない傾向があるのか、知りたいという意志が強いのか、あらゆることを どこまでも知的に探求しようとするし、それは悪いことではないけれど、それでも どこまで探っても やっぱり「わからない」ところは残ると・・・いや、むしろますます増えてくると思うんだなぁ。


すべての一番のおおもとは、わからない → 分けられない、つまり それ以上分け出しようのない世界なんだものね☆




私も以前は、「わからないままにしておく」って、不安で落ち着かなくてたまらなかった。

どんなことでも 限りある自分の引き出しに、無理にでもきっちり収めておかないと氣が済まなかった。

それが 事実を曲げることになっても、目を背けて、世界を無理やり自分の思い通りにしようとした。

どんなことでも 「わかります」ってうなずいて、すっきりきれいに論じられる人間が 強くてえらいんだと思ってた。



でも。

今は、ゆらぐ 曖昧な世界をそのままにしておけることが、とても安らかで心地いい。

そこには、自分がこうと思った どんな形も自由に創り出せるから。

そしてまた、これじゃないな と思ったものを 手放して、また新しく創る自由も 無限にあるから。



自分の意思が はっきり定まるまで、曖昧なものを曖昧なまま ふわっとたなごころに乗せておく、そんなしなやかな心持ちもいいものだな、と思うのです























ゆらぐ

2013年06月02日 15時34分37秒 | ふと思うこと


こんな記事を見つけました。

“ゆらぎ”かぁ、なるほど~

たしかにね。。。私も山の中のお散歩大好きだし

ゆらぎとして捉えたことはなかったけれど、日の光、水音、木々の香り、風の感触、触れてくるすべてが えもいわれず心地いい。




人氣のない山の中では、普段より感じる力が高まる氣がします。

たぶん、自分ひとりきりだから 「どう見られてるのかな?」って 外側からチェックするような氣持ちが起こらないせいじゃないかな。

ただひたすら、内から感じるままに まわりの世界に浸っていられる。




前にも書いたけれど、私たちは 形ある存在だから、自分と自分でないものの区別をはっきりつけることで 日々生きている。

でも、そもそもの本質は 形がないんだよね。

私たちの心臓を動かすエネルギーだって、私たちが呼吸している空氣だって、私たちの思いだって、たしかに「ある」はずだけれど、がっちり捉えたり掴んだりすることはできない。

いや、掴めていると思っている実体だって、ほんとうに掴んでいるのかどうか。

固体であるはずの私たちのからだも、微細なレベルで見れば 絶えず振動し続ける粒子の集まり。

粒子と粒子の間はすきまだらけで、人のからだの純粋な固体部分だけをぎゅっと圧縮すると、なんと塩一粒分にしかならないなんていう話も。

実はスカスカってことよね。。。なかなかそんなふうには感じ取れないけれど (^_^;)




きのう私と出会った人は、きょうまた私と出会ったとき 「あ、きのうと同じ人」と思う。

なぜかといえば、きのうとそっくり同じに見える・聞こえるから。

でも そうだとすると、赤ちゃんのころの写真や映像を指して「これ私」っていうのは どうなんだろう?

かすかに面影が残っているとはいえ ぜんぜん違う姿形、声だって同じじゃないし、もちろん今みたいに書くこともしゃべることもできないし

きのうときょうの私が「同じ」という話にしたって、これまた微細なレベルで見れば、体内では絶えずさまざまな化学変化が起こっているし、細胞だってたくさん入れ替わってるし、自身で把握できる範囲でも 氣分だって 感覚だって 前の日と同じとは限らないよね。




私たちは 自分のことを「生きている」と思っている。。。そりゃあ、ね☆

でも、アポトーシスによって からだの細胞は絶えず死んでは 新しいものと交換されている。

「生きている」私たちの中で、「死」がどれほど頻繁に起こっていることか。

さらに言えば、確定的な死についても、実はそうくっきり分けられるものじゃないようだ。

医学的都合で いちおうのガイドラインはあるようだけれど、それはあくまで人間の都合上の線引きでしかなく、ある瞬間から生が死にぴたりと切り替わるわけじゃない。

それは、夜が朝に、朝が夜に 一瞬で変化するというようなものだ。

「ご臨終です」と言われて、たしかにもう生き返る可能性は残っていないのだろうけれど、だからといって その時点で「すべて完璧に死に切っている」というものでもないらしい。




え~っと、なにが言いたいかっていうとね(^^ゞ

私たちは 見る角度によって 互いに矛盾する要素を併せ持ってるっていうこと。

固まっているけれど、絶えず動いている。

同じだけれど、違う。

生きているけれど、同時に死も存在する。

視点を移すたびに、まるっきり正反対の要素を 行ったり来たりするんだよね。

それも “ゆらぎ”っていうことじゃないのかな。




もっと言うとね。

そもそも「固体」「流動的」とか、「生」「死」とか、そういうレッテル自体、あくまで便宜上のもので 実はあまり意味がないのかもしれない。

私たちは、固まっているとも動いているとも 生きているとも死んでいるとも 言えるし言えない ある種の存在で、はっきりしているのは、それがどこまでも 絶えず変化し続けるということだけ。

「死」と呼ばれる現象だって、実は単なる変化でしかないのかもしれない。

私たちって、捉え方次第でどのようにも見える、とても曖昧な存在なのかもしれない。

そして、自分たちの意思、選択、行動で いくらでも好きなように変化させることのできる、もっともっとずぅ~っと自由な存在なのかもしれないよ。






なんか、この文章自体 どうしようもなく曖昧な表現になってきちゃってますが(笑)

私たちは、「これが自分」っていうものをはっきり区別つけないと この三次元世界に存在できないんだけれど、実はもっとゆらいでて 曖昧で 自由な存在。

だから、いつも「これが自分、これが自分」って固めてばかりいると、疲れてきちゃうんじゃないかなぁ。

ときどき そんな自分から降りて、何でもない自分、何にでもなれる自分に戻りたくなるのかもしれない。

それが、自然の中で 安らげる理由なのかもしれないね。

自然は、私たちに「何者かであること」を要求したりはしないもの(^^)





山や森の中で過ごすのも素敵なことだけれど、何よりもまず 日常の暮らしの中で、自分で自分を あまりがっちり固められずにいられるといいね。

曖昧な ゆらいでいる自分を そのまま認めて、ゆったり息をついて 楽に生きられるといいね。

なんでもありの 「いいかげん = 良い加減」で生きてゆけるといいね。

そして、みんなで そんな世の中を創っていけたらいいね♪