毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

在る ~ この絶対のこと 

2016年09月28日 08時26分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


2ヶ月前相模原市で起きた 障害者施設殺傷事件。

この事件は、見聞きした私たちひとりひとりに 重大な問いかけを提示したのではないでしょうか。

「どんな理由であれ、人の命が奪われていいわけがない、命の値打ちが勝手に決められていいわけがない」 という強い思いの一方で、こういう現象が起きていることも また事実。

事件にまつわる報道を検索してみても その多岐に渡る内容に見てとれるように、誰もが「いいわけがない」 と思いながらも 同時にどこかすっきり割り切れない後味の悪さを感じてもいるのではないでしょうか。




感覚フォーカスを重ねていると、私たちを大きく左右しているように見えるさまざまな感情が、実は確たる存在ではないことに氣づかされます。

その感情のおおもとであるからだの感覚は 見つめられれば消えてしまうほどはかないものであり、どんな根深い思い込みも フォーカスを繰り返していると 感覚という引き金が揺らぐことで どんどん変質してゆくのがわかります。

そんな中で、どれほどフォーカスを重ねても 決して消えないのが 「ある」 という感覚。

なんの主張も圧迫感もなく しんと静まり返っていながら、否定しようのない確かさで 自分はまちがいなく いま ・ ここに “在る” と感じさせてくれます。




このコントラストの世界で 私たちが自身の存在をありありと感じ取れるのは、自分でないものに触れて刺激を受けたとき。

「隻手の音声」 の公案にもあるように、では 外になにも触れるものがないとき 私たちの存在はどうなるのか、ということになりますが、からだの感覚に深く分け入って 見つめ尽くして、幻であるものがことごとく消えてゆく中で どこまでも残るのが この 「ある」 なのですね。

私たちが自分をどのように判断解釈しようと、どれほど激しく否定しようと、この 「ある」 という感覚は 決して消えません。

「ある」 とは “絶対” なんですね。




私たちは、不安に駆られたとき 疑問が湧いたとき、まず言葉で答を探します。

言葉は分け出すものであり、言葉でつかんだ答はすべて 相対的なものです。

善悪、優劣などと 常に二分される答には 人の数だけ異なる基準があり、どれほど突き詰めても 万人が納得できる答は出てきません。

それが、どこまでいっても 確かな拠りどころをつかんだという安心感を得られないフラストレーションを生み出します。




外に答を求めるのをやめて 自身の内側を見つめ、感じて感じて感じ抜き、さいごに残る 「ある」 が 理屈 (言葉) 抜きで腑に落ちたとき、私たちは 絶対の安心に身を包まれ、答が最初から自分の中にあったことに氣づくのでしょう。

そのとき、問題は解決されるのではなく そもそも存在しなかったのだ、存在しないものを 私たちの意識が分け出し 具現化していただけだったのだと知ることになるのでしょう。




事件で亡くなられた19人の方々は、身をもって 私たちに 真実を知る大きな機会を与えてくれた 天の御遣いだったのかもしれません。























溶け合うほうへ

2016年09月25日 12時11分22秒 | ふと思うこと


父が いつのまにかテニスファンになっていて、テレビで試合中継があると 必ずといっていいほど見ています。

きのうも東レパンパシフィックの女子準決勝ということで テレビの前にバッチリ陣取り観戦。

私も お彼岸のおはぎ作りの合間に ちらちらお相伴しながら、その昔一度だけ行ったテニススクールのことを思い出していました。




スクールといっても本格的なものではなく、テニス好きの友人主催で 運動公園のコートを借り、簡単な手ほどきやアドバイスなどしてもらいながら みんなで楽しみましょう、ぐらいの氣楽な集まり。

テニスはそれまで一度もしたことがなかったのですが、「 『ワン』 でボールを落としてバウンドさせ、『ツー』 で跳ね上がってきたボールをラケットの芯でとらえて打つ」 というのを教わってやってみたら、すっかりハマりました。

ラケットの真ん中に球が当たる感触、当たった球が氣持ちよくのびのびと飛んでゆくさまが、得もいわれず心地よくて♪

これをひとりでやってるあいだはよかったのですが、二人向き合い さあ思う存分行ったり来たりさせるぞ☆ とのワクワク感は、相手からの強烈な返球と共に打ち砕かれました。

そっか~、テニスって 相手に打ち返させないように競うものだったのね

ワクワク氣分はどこへやら、以来テニスは一度もしておりません (T_T)




これまでの人生で、戦って勝者になる快も 敗者になる悔しさも たっぷり味わってきましたが、今の貴秋は 競って勝者と敗者にふるい分けられるのは もう十分かな。

テニスだって 二人協力し合って ただ無心に 「打つ」 という行為を楽しむなんていうのもあっていいんじゃない?

競争のフラストレーションはもうたくさん、今は ひとりであれ誰かとであれ ありのままの自分から どんどん楽しみを引き出したいです。

ひとつに溶け合うほうへ行きたいです。




思い込みやわだかまりが減るほど、戦う ・ 競うという意欲がなくなっていくようです (*^^*)






















熟して還る

2016年09月24日 11時55分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これ 何の写真だかわかりますか?




答はこれ☆



熟して黄色くなったゴーヤがはじけて、こぼれ落ちた種です♪

食べごろのゴーヤは濃い緑、ワタはクリーム色で 種は淡ベージュ、それが完熟するとこんな鮮やかな黄色と赤に変わるなんて。。。。

緑の葉っぱの上のつやつやの紅色、なんて美しいんでしょう




以前 ヘチマほどの太さに育って熟しすぎた地這いキュウリを そのまま放置して 後日見に行ったら、実は大地に吸い込まれたように跡形もなく消え失せ、ずらりと並んだ種だけが残っていたことがあります。

命を終えたものは土に還り、次世代の命はその土に守られて時を待ち、やがて芽生えの日を迎える。

自然の循環の妙に 感じ入ったものでした。




そんな植物の営みと 私たちの “行ってかえる” の巡りとが ぴたりと重なったのは、津留晃一さんの 「自他一体」 という文章の この一節を読んだときのこと。

ちょっと長いですが、引用させていただきますね。



”原始時代から我々が進んできた方向は、自我を確立するという方向でした。自我が非力な自分の力によってやっと成果を生み出すという喜びを得、ハイヤーセルフはそれを観察してそんな自分を発見してきました。力のない者が自らの力で、成果を生み出すことの素晴らしさを堪能してきました。そしてハイヤーセルフのその発見と引き替えに、自我はより強化され硬くなってきました。自我は成長し続けました。それは他との分離の課程でもありました。

 成長しきった果実はやがて大地に落下します。大地というまたひとつの場所に戻って行きます。大地から生まれた一本であった幹は、成長とともに枝分かれし、分離していきました。そして自我(個体)という果実を結ばせました。成長した我々の自我は熟れすぎた果物としてやがて種子を内包したまま大地に落ちます。我々の意識は成熟したこの果物自身から、その核である種子へと移行されなければなりません。

 もうあなたは充分に成熟しました。そして成熟したあなたはそこに止まる事は出来ません。次なる神の種子へとその意識をあなたの中心へ移行させる時がやってきました。今、あなたが自分の意識を内側へ内側へと向わせることによって、あなたという種子が必ずまた大地という元なるひとつの場所へ帰っていきます。”



育ち切った自我が外の世界に投影して体験させるさまざまな出来事に、これ以上目を背けることもごまかすこともできなくなって 初めてまっすぐ向き合ったとき、私たちは 分離のプロセスを終え、再びひとつへと還っていくんですね。

言葉で物語を紡ぐのをやめ からだに残る感覚をしっかり味わうと すぅっと消えてゆくのは、熟し切った実が土に還る ・ やってきたところに戻ってゆくということなんだと、キュウリの体験と重ね合わせて すとんと腑に落ちたことでした。




そして、いつを 「ひとつに還る時」 と定めるかは、めいめい自分で感じ取って 自分で決めるんですね (^^)



「自他一体」 全文をお読みになりたい方は、こちらをどうぞ。

























補足します(^^ゞ

2016年09月23日 14時28分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事、ちょっと言葉が足りなかったかも、という氣がして。




「認めてもらえない」 という思い込みから自由になりたければ、まず自分で自分を認めること、それなしに 受け入れてくれる他者など現れようはずがない、と書きましたが、貴秋については まさにそのとおり。

全面的に他者に頼ろうとする氣持ちが 親の代わりを探させただけで、相手変われど 他力本願は変わらず ではなんの解決にもならない、まず自分を変えねば、と氣持ちを切り替えて正解でした。




が、世の中には いろいろな方がおられます。

自分では 自分を認めていない、認められないつもりでいても、ほんとうに愛情深い方とひょっこり出会うなんてこともあるでしょう。

自分の心ってわからないもの、自分で思う以上に自身を認めていたことが反映しての 素敵な出会いかもしれません。

そんなときは、他者から受け入れられた喜びや安堵を通して 自分を認めるというのも おおいにありだと思います

ストレートに自分で自分を認めても、他者という鏡を通して認めても同じこと、要は 自分が安定して満ち足りて 幸せであればいいのですから (*^^*)




貴秋は 自身の体験という限られた例を通してしかお話できないので、ここに書かれていることがすべてではない、ほかに道はいくらもあると ちゃんと書き添えておくべきだったと反省しての “ちょこっと補足” でした m(__)m






















無条件

2016年09月23日 12時06分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


かつて 仕事においても家事においても、貴秋の原動力は 「認められたい」 という氣持ちでした。

裏を返せば、それだけ 「がんばらないと認めてもらえない」 思い込んでいたということ。




そんな思い込みが 親から条件付きでしか認めてもらえなかったという過去からきていることは じきにわかりましたが、次のところで 大きなカン違いをしてしまいました。

ならば 親に代わる誰かに 無条件に認めてもらえばいい、がんばらなくとも ありのままの自分を認めてくれる人を見つければいい、と思ったのです。

今は そのおかしさがわかります。

「自分は がんばらないと認めてもらえない人間だ」 と思い込んでいたのは、ほかならない自分なのですから。

自身がそう思い込んでいる以上、私が創り出す世界はすべて ありのままの私を認めてはくれない世界なわけで、そこで無条件の受容を見つけられるはずがなかったのです。

「認めてもらえない」 という思い込みから自由になりたければ、するべきは 私自身が ありのままの自分を認めることだったのです。




“ありのままの自分を認める” “無条件に認める”

よく見聞きする言葉ですが、それが具体的にどういうことなのかわかってきたのは ようやっと最近のこと (^^ゞ

「ありのまま」 「無条件」 とは 優劣 ・ 良し悪しのように 二極に分けないことであり、そのためには 二極の分岐点となる基準や物差しを いっさい持たないことです。

ということは、言葉でつかんだら ありのままでも無条件でもなくなってしまうわけですね。

言葉でつかむとは 分け出すということであり、分け出されるものと そのあとに残るものとに分かれてしまいますから。




かつてないほど 感覚フォーカスに真剣に取り組んだ この夏の一時期、対要人テロ警戒中の警察官よろしく ネガ体感 (ネガティブな感情の引き金となるからだの感覚) の出現にピリピリしていたことがありました。

見つけ次第 逃さずフォーカス と張り切りすぎたのです ( ̄∇ ̄*)ゞ

その裏には、逃したら この先も ネガ感情が投影される人生から抜け出せない という怖れがありました。

つまり、感覚フォーカスできれば○、できなければ×、と分けてしまっていたわけです

そんなあるとき、ふと氣がつきました。

完璧を目指さなくていいのだと。

どれほど万人に好かれ 身も心も健やかで お金も時間もたっぷり持っている人だって、人間である以上 カチンとくることもあれば 落ち込むこともあるはず。

ということは、ネガ体感が残ってたって 望みどおりの幸せな人生は送れるんだ。

ネガが残っているうちは 望みを叶えられないなんて脅える必要はなかったんだ。




こうして 消し去るためではなく ただ感じるためのフォーカスであることを再認識したあたりから、ネガ体感が現れたとたん すっと言葉を引っ込めて ただ感じるという一連の流れが スムーズに起こるようになりました。

それまでのように苦労せず 言葉と感覚を切り離せるようになったのです。




怖れる氣持ちが 物差しを手放すための感覚フォーカスさえ 物差しにしていたことに 氣づかされました。

今も相変わらず ネガ体感は上がってきますが、そこでジタバタせず すっとフォーカスに入れるようになって、かえって望んでいた自分に近づいている氣がします。

「条件をつけない」 ことが 条件になる、こんなおかしなことが起こるのも、五感の世界と五感を超えた世界を行き来する 矛盾に満ちた道のりならではでしょうか。

そんな矛盾さえ 「もう訳わかんない、なんでもいいや~」 と併せ呑んで受け入れてしまうとき、「認められたい」 という望みは成就しているのかもしれません。
























複数の視点

2016年09月22日 16時18分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


サスペンスドラマかなにかみたいなタイトルですが、貴秋のこととて きょうもまた 五感を超えた世界がらみのお話です




「思いのままの世界を創るなんて、今この瞬間も 世界中の老若男女が当たり前にやっていることで、不思議でも奇跡でもなんでもないよ」 と言われたら、どう思われますか?

まさか そんなの信じられないよ、という方もおいででしょうね。

そこで ほんとうかどうか確かめてみたい氣持ちが起こったら、ご自身の心の内をつぶさに眺め、自分を取り巻く世界とじっくり照らし合わせてみることをお勧めします。

思いも寄らないところで 氣づいてもいなかった思いが実現していることに 驚かれるでしょう。




ここに 五感の世界の思い込みをくつがえす難しさがあります。

楽しいことならいいけれど、不快な記憶をじっくり見つめるなんて耐えられない、と感じる人が多いからです。




私たちが 不幸より幸せを、不快より快を望み、いやなことを どうにかして避けようとするのは、無理もないこと。

ただこれは あくまでも五感の世界視点での話で、五感を超えた世界から言えば 「ちょっと待った~、せっかく用意したのに そうジャマにしないでよ~」 ということになるのではないでしょうか。




形なき本来の私たちは、愛、豊かさ、安らぎ、充足そのものの 非の打ち所なく完璧な存在。

そんな自身の素晴らしさを もっと体験的に知りたくて、わざわざ本来の自分でない 否定的要素を備えた世界を創り、五感を超えた世界での自分を忘れ、さまざまな制限を課して 乗り込んだのです。

悪役がいてこそ 善人が引き立ち、手に汗握る場面があってこそ ハッピーエンドが際立つ、そんな世界に 私たちは生きています。

それを ネガな場面を片っ端からスキップボタンですっ飛ばすようなまねをすれば、せっかくコントラストの世界に生まれてきた意味がなくなってしまいます

なので、逃れようとすればするほど 逃れられなくなるという仕掛けが しっかり施されているのです。




いやなことを避けたいと願う氣持ちの裏には、「自分にはどうしようもない」 というあきらめや絶望感が潜んでいるのではないでしょうか。

五感の世界の自分 ・ 自作世界の登場人物としての自分しか知らなければ、これもまた無理ないこと。

がここに 五感を超えた世界の視点が加われば、話は違ってきます。

創り手である自分に 不可能などあろうはずがないのですから (ただ、長らく忘れていた力の使い方やコントロールについては、かなり試行錯誤しなければならないかもしれませんが) 。




コントロールの効かない巨大な世界が 自分の外にある、という視点から見れば、世界を変えるなんて コンクリート壁に頭から突っ込むぐらい困難なこと。

もしここで 「この世界のすべてを 自分の意識が生み出している」 ことを思い出せれば、いや 思い出せずとも 仮説としてでも受け入れられれば、「変えるべきは 自分の意識ひとつ」 という新たな選択肢が出現します。

かつての私のように前者しか知らなければ、世の中は時として 不合理なままならないもの、残酷で恐ろしいものとして 目の前に立ちはだかります。

五感を超えた世界という概念を取り入れて 複数の視点を持てば、“大きなひとつ” の自分が望んだとおり 自ら生み出した世界の住人として さまざまな体験をたっぷり味わいながら、「これはちょっとなぁ (- -;) 」 と思うものについては 創造者の自分に差し戻して創り直すというフィードバックが可能になります。




同じ景色でも、試験に受かったときと落ちたとき、恋しているときと失恋したときなどでは まるで違って見えるもの。

五感を超えた世界という 理屈ではつかめない選択肢を受け入れて 複数の視点を持ち、それまでと異なる景色を見たいかどうかは、お好み次第。

とりあえずでも受け入れて 新しい視点から世界を眺め始めたとき、目に映るものは同じながら まるで感触の違う世界を体験することでしょう。

動かしようがないと思い込んでいたものが あっけなく動くさまを 目の当たりにすることになるかもしれません (^_-)-☆




愛読するブログのこんな記事から ふと浮かんだことを書いてみました (^^)
























真我、被害者、探究者

2016年09月19日 08時27分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


以前、散歩途中の山道で 不意にひらめいたイメージ。

私のお腹のあたりからふわ~っと広がり出た何かが、ぐんぐん大きくなって 私をすっぽり包み込む世界となり、中にいる私から また広がり出て。。。。という “立体メビウスの輪” みたいな光景。

今やそれが、漠然としたイメージから 実感に変わりつつあります。

私は 世界の創り手であり、その世界の住人でもあるんだと。




創り手の自分でいるときは、今 ・ ここで 全体を眺め渡し 観察しています。

からだの感覚や 言動や ふと浮かぶ記憶に氣づいています。

心地よくない感覚は手放し、心地いい感覚にフォーカスする、などの 世界観をよいものに変えてゆく選別を 意図して行います。

過去や未来の情報が上がってきても、氣づいて観察している限りは 創り手の位置から動くことはありません。




そんな自分が ふと湧き起こった ある種のからだの感覚の記憶に 言葉を結びつけて 物語を語り始めると、時間が過去や未来へと移行し、たちまち物語の中に引き込まれます。

世界の創り手から 創られた世界の住人に早変わりする瞬間です。

感覚が 言葉を媒体に 感情や物語として展開すると、私は 物語の中にすっぽり入り込み、外の世界を見失います。

物語の渦に巻き込まれ、あるときは陶酔しあるときは悩み苦しみ、再び外に出られるまで 意のままにならない力で翻弄され続けます。




創り手の自分にフォーカスするか 住人の自分にフォーカスするかは、今ここに留まるか、言葉で紡がれた 過去や未来のストーリーに取り込まれるか、つまり 言葉で創られた世界を受け入れるかどうかで決まります。

創り手と住人のあいだに 良し悪しや優劣はありません。

ただ 両者の切り替わりのスイッチに氣づいていると、行き来が自在になります。

望まない物語を創らないよう意図できますし、もしうっかり創ってしまっても それと氣づいて すみやかに抜け出すことができます。

入り込みたい世界を 自由に選べるようになるのです。




・・・・・とこれは 理想の話で、貴秋はまだそこまで自在な行き来はできません (^^ゞ

もっと慣れて使いこなせるようになるには、もう少し練習がいりそうです。

ただ少なくとも、物語の世界しか知らなかったころ、どんな理不尽にも されるがままでいるほかなかったころの閉塞感は、もはやありません。

すべては自分が創っていること、望まないなら創り直せることを知っています。

コントロールの権限を わが手に握っているのです。

物語の中では ともすれば 容易に被害者になり 力を失っててしまいますが、物語の創り手の私は いかにうまく望む世界を呼び出すかに夢中になっている 探究者の私、自分の世界を左右する力を持つ私です。

実を言うと、ずっと長いこと 被害者の自分と 真我である自分ばかり意識していて、探究者の自分の存在感が薄かったことに氣づき、遅まきながら そこにせっせとフォーカスすることにしたのです (*^▽^*)ゞ




創造者の私が もっとらくらく 幸せな世界を創れるようになって、登場人物の私を思いのまま楽しませられるようになる、そのへんが この世界での理想のバランスかな、と思っています

そのためには、今 探究者の貴秋がファイト燃やしておおいに張り切って吉☆ なんですね
























変えられるもの、変えられないもの

2016年09月18日 11時48分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事を書いた直後、前々回の記事について 新たに氣づいたことがあったので、ご報告します。




「変えられないもの」 とは 真我の声に小我が納得できないまま むりやり行動を起こそうとすること、「変えられるもの」 とは 真我と小我が思いをひとつにして事に当たること、と言い換えられるとわかりました。

どちらも 真我の勧めに従っていることに変わりはないのですが、小我が真我を信じて明け渡していないと 疑念が生じ、そこから二極の世界が登場するようです。

真我と小我がひとつであるときは 道もひとつで、他の選択肢が現れる余地はありません。

この 相対世界での 「できる」 と 絶対世界での 「できる」 は、字面は同じでも 内容は真逆といっていいほどのもの。

相対世界では たとえいったんは成功しても あとから必ず反動がやってくる、戦いに勝っても いずれ反乱の火の手が上がり、ダイエットはリバウンドし、どの分野の成功者にも いつかはスランプが訪れる。

絶対世界では 成功も失敗もない、ただただ思いのままに進むのみ、あとになってふと 万事うまくいっていたことに氣づくのです。




過去記事 「ムリでなく」 「おのずと起こる」 「無理をせずとも自然に変わる」 などにも書いているように、ほんとうの変化とは 無理なくできるものなんだとは 以前から感じていたこと。

「ムリでなく」 のころは まだ感覚フォーカスにまでは至っていないようですが (いちおう情報だけは持っていたのですが) 、それでも 無理やり行動を起こしても労多く益なしだとは すでに実感していたらしい。

そして、その 「ムリなくできるかどうか」 のカギは 小我が真我を100%信じて明け渡せるかどうかにかかっていたことが 今回わかりました。




今まさに、理屈や言葉が約束する 五感でつかめる保証にしがみついたままでいるか、見えないもっと大きな力を信じて 身をゆだねるか、無理強いはまったくないけれど 決断を迫られるともなく静かに迫られていると感じています。

ネガ思考がどんどん減り、入れ替わるように 明るく軽やかなイメージの上がってくる機会が多くなって、ポジティブ世界具象化の条件が かつてないほど整ったにもかかわらず、目に見える変化がいっこうに起こらないのは 不安や怖れが原因だと、前記事でリンクさせてもらったブログなどが はっきり示してくれたからです。




以前、よき導き手となってくれた友が 「変わり目 ・ 節目がいつなのかは 自分で決めるんですよ」 と教えてくれたことがありました。

向こうからやってくるのではない、よく見きわめて 自ら決めるのだと。

そろそろだなとは なんとなくわからせてもらえるけれど、それが 他のどの時でもない 「今だ!」 とは、はっきり自分の意志で 進んで宣言しなければならないんですね。

変える ・ 変わるのは、いつかじゃなく 「今」 だ、と。




貴秋、ターニングポイントの真上にいるようです。























やるっきゃない

2016年09月18日 09時10分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


まず、貴秋が 当ブログ内でたびたびリンクを貼らせていただいている 愛読ブログから、3つの記事を。

               その1     その2     その3


お読みいただけばおわかりのように、ここ1週間ほどの間にたて続けにアップされたこれらの記事、いずれも 「疑念 ・ 恐れ ・ 不安などに捕らわれることはない」 というメッセージとなっています。

そして、貴秋が目下取り組んでいるテーマが、まさにそれなのです☆




真我を 「あんたが大将」 と主役認定したはいいが、真我を主体にすえるとは 小我にとっては かなりスリリングなこと。

真我の選択には、小我が 「なんで Σ(゚д゚ノ;)ノ」 と面食らうようなものが少なくないからです。

真我はいちいち理詰めで説明なんてしないし、後になれば 「なるほど このための布石だったのか~」 と納得できることも 長年の体験上わかっているのですが、そうはいっても それがどんな内容だろうと 「OK、今回も真我の選択に間違いなし」 と信じ切って飛び込むのは、その都度かなりの勇氣がいります。

石橋を叩いて叩いて 五感で納得できる安全をさんざん確かめてから出なくては渡ろうとしなかった貴秋には なおさらの難事業。

すべては、真我を完全に信じ切り 自分を明け渡せるかどうかにかかっています。




内なる声の確かさには 過去の成功体験の積み重ねから 絶大な信頼を寄せていますし、すでにそれを指針として生きてもいます。

が、純度100%の信頼となると どこか躊躇する自分を感じてもいました。

そして、内的変容に拍車のかかったこの数ヶ月で、前向きに切り替わった意識を具現化させ 五感でも確かめられる形にするには、この100%信じ切ること、疑念の影すらはさまないことがどうしても必要だいうことも うすうすわかってきていました。

そもそも真我を主体にするとは、映画 「インセプション」 の 「保証はない。信じて飛び込むしかない」 というあの言葉そのままに、理由も結果も想像つかないまま とにかく内なる声に従って 未知の世界に頭から飛び込んでいくこと。

口だけでなく ほんとうにそれができるかな? という無言の問いかけを ここしばらくひしひしと感じていたし、同時に あとちょっとというところで 残る指一本をどうしても離せない自分に氣づいてもいたのです。




そんなところに現れた、3つのブログ記事。

前からお話しているように、ここぞというときのメッセージは いつもこんなふうに 同じ内容が 別々のソースからたて続けにやってきます。

それを実行するに当たっての 抵抗の大きさ ・ 困難さを承知の上で こんなお膳立てをしておいてくれるのは、やはり この世に生まれ出る前の 魂の自分 ということでしょうか。

毎度のことながら 知られてるなぁ、仕組まれてるよなぁ という氣分にさせられます (^_^;)




これが来たら あとはもうやるっきゃない、さてさてどうなりますことやら























「考えるな、感じろ」

2016年09月16日 10時27分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


     “神よ、変えられないことを従容として受け入れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、その二つを見分ける知恵を どうぞお与えください”


以前にも どの記事だったかで触れた覚えのある、この 「従容の祈り」 。

さまざまな思い込みを植えつけられる前の ほんとうの自分を取り戻そうという取り組みの中、この 「変えられるもの」 と 「変えられないもの」 について 見えてきたことがあります。




前の記事にも書いたように、「プラス思考でいてください、明るい見通しを持ち続け、肯定的アファメーションを唱えましょう」 等のアドバイスは 引き寄せの法則などで よく見受けられますが、貴秋の場合 これを額面どおりに言葉の世界で実行しようとすると、たいてい壁に突き当たります。

「そうそううまくいくかな? もしいかなかったらどうする?」 という “悪魔のささやき” が 必ずといっていいほど付いてまわり、意に反して不安がこみ上げてくるからです。

今では 二極世界のお約束どおりの反応が起こっているだけとわかっていますが、それがピンときていなかったころは、自分の心なのに どうしてこうも思い通りにならないのだろうと つくづくうんざりしたものです (^_^;)

「前向きに 『考える』 」 「肯定的な文言を 『唱える』 」 などのように 「言葉」 が介在する形で言えば、意のままに意識や思い方を変えるというのは、以前は当然のごとくこれ一辺倒でしたが、今はこの世界の仕組みからいって 困難な氣がします。

現在の貴秋的には、これは 「変えられないもの」 。




一方で、本来前向きであるはずの私たちの本質をさえぎる 思い込みやわだかまりを見つけ出して向き合うことは、意図してできます。

うん、ここは確信あるな、さんざんやってきたものね

だから、これは 「変えられるもの」 。

そして これを続けていると、意識や思い方にも おのずと変化が起こり始めます。

これまで 望みもしないのに ネガティブな思い出やイメージが 勝手に上がってきたように、いくらがんばってもできなかった プラス思考や 明るく前向きな見通しが ひとりでに向こうから浮かんでくるようになるのです。

おかげで 「え? え? なんで私、こんな感覚でいられるの? この状況で なんでこんなに楽観してるの!?」 なんて以前ならあり得ない心境も、どことなくなじみ深いものになってきましたよ (^^)v




「考えるな、感じろ」 と これも五感を超えた世界に関して よく見聞きするアドバイスですが、言葉で物事をどうこうすることに慣れていた私たちも、言葉を超えたところに意識の焦点を移す時代が いよいよやってきた、そんな氣がするこのごろです。