毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

すべては “天の神さま” ならぬ 「 “内の真我さん” の言うとおり」 なのだから

2023年08月25日 14時53分14秒 | ふと思うこと
台風7号と重なった今年のお盆、中でも奈良県北部に台風の影響が出始めた14日は、風雨への備えとお盆のお供えの “ダブルそなえ” で例年以上の忙しさでした。

お盆の支度といっても そもそも特定宗教への信仰心も仏壇もないわが家ですから、亡くなった家族の写真が置かれている棚を掃除して花を飾り、それらしい食べ物をお供えするだけですが、花いなり (おいなりさんの袋の口を閉じず、炒り卵や枝豆や酢漬けミョウガなどの具材を彩りよく乗せたもの) やお吸い物や水羊羹を作る合間々々に、台風の進路や速度を確かめつつ 外の飛ばされそうなものをしまったり、風呂桶や洗濯機に水を溜めたり、非常用リュックの中身を確かめたり、雨戸を閉めたり。。。といった作業をこなすわけですから、日頃のんびりやの貴秋も氣が抜けず、どちらも無事に済んでくれたのはありがたいことでした。




以前の貴秋は、こういうせわしなさが大の苦手でした。

あれもこれもと しなければならないことが頭の中で溢れかえり、氣ばかり焦ってからだが動かない・・・そんなパニックをどれほど味わったことか。

そもそも 「台風が来る」 とわかった時点で 不安がどっと押し寄せ、何が起こるかわからないから 万全の備えをしなければ、とするべきことを増やしちゃうんですね。

おかげで 「あ~、お盆の支度だけでもやることいっぱいあるのに~」 とイライラが先に立ち、脳内はヒートアップして空回り、からだのほうは適切な指示が来ないから どうすればいいかわからず固まってしまう。

いまでももちろん 台風直撃なんて言われれば不安に駆られはするけれど、その不安をちゃんと受け止めさえすれば、するべきことは向こうから自然に浮かんできます。

14日の朝は、次第に強くなる風を尻目に まずテラスの物干しざおや植木鉢やゴミバケツなどを物置にしまおうと思い立ち、動いていると今度は 「自転車はまだ使うかもしれないから 出し入れの邪魔にならないように」 とか 「しまう前にどれもさっと汚れを拭いておこう、テラスもせっかく物がなくなったんだから、隅っこの木の葉やほこりを掃き出して、ついでにサッシの掃除もしちゃえ」 などと次々浮かんできて スイスイ事が運び、すっかり終われば いい仕事をした充実感に満たされ、疲れなどみじんもなし。

その間ちらとも浮かばなかったお盆の準備のほうを 家に入ってちょっとしてから思い出したときには 一瞬慌てかけましたが、すぐさま 「大丈夫、まずはお米を研いで、お揚げを煮て、羊羹の流し缶を出して。。。」 と 先にしておいたほうがいいことと 後からでいいこととの仕分けがなされてゆき、抵抗なくからだが動いて 支度が進んでいきます。

その合間にも 「そろそろ天氣予報の時間だから 最新情報を確かめておこう」 「おいなりさんの仕上げの前に あっちとこっちの雨戸だけ閉めて」 などと 誰が出すのか抜群のタイミングで指示が飛び、我ながらマメだなぁと感心するほどの氣働き。

そして特筆すべきは、この忙しさをイライラ抜きでエンジョイできたことでしょう。

“アダージオ (音楽用語で ゆるやかなテンポを表す言葉)” が持ち前の貴秋が 幼い頃から早く早くと追い立てられた結果、遅いのは×、遅れたら負け、という強迫観念が染み付き、中でも食事の支度が遅れる、それも余計な仕事が挟まって遅れるなんていうのは 頭痛と癇癪のタネでしかなかったのですが、今回は 「いや~いい働きしたなぁ、それにこの花いなりのきれいにできたこと」 という満足感が先に立ち、台風が迫っていることも忘れるほどのご機嫌っぷりだったのです。




どこにいて何をしているのかも感じ取れない 、けれど確かに存在する “真我さん” の静かな声を頼もしき導き手と認め、司令塔の座を譲ることをためらわなくなってから、万事が無理なくスムーズに運ぶようになった氣がします。

わずか一割ほどの顕在意識ですべてを切り回していた頃は、労多く益少なしで 神経をすり減らしてばかりいましたが、いったん潜在意識を信じて委ねることを覚えてしまえば、からだはもとより最も効率よく働くすべを知っていたのに、アタマで邪魔してばかりいたんだなということがよくわかります。

真我を覆い隠していた思い込みやわだかまりをどけさえすれば、理屈では思いつかないようなひらめきが絶妙なタイミングで湧き起こり、完璧といっていいほどの働きをするほんとうの自分が姿を現す、このことを 「自分はダメだ、要領悪いから、無氣力だから、不器用だから」 と思い込んでおられる方々に ぜひとも知っていただきたいと願って止みません。

その×印の奥に、その人をもっとも輝かせ 充実した人生を送らせる幸せのタネが 間違いなく眠っている、いや それどころか、この混沌とした世界を救うとてつもない能力や優しささえ 潜んでいるかもしれないのですから。















やっぱりセミの声は “閑か” だった

2023年08月06日 12時24分04秒 | 自然
連日の半端ない太陽パワーで、ミニトマトの実がみるみる赤く色づき うれしいこと。

ゴーヤもグリーンカーテンらしくなってかわいい黄色い花をいくつも咲かせているし、水菜もルッコラもサニーレタスも 取っても取ってもすぐまた新しい葉をつけ、すくすくと育ってくれています。

毎朝涼しいうちに庭に出て、一株一株をチェックしながら 水をやったり枯れた葉を取り除いたりするのが日課。

そうやって見回っていると、あちこちでセミの抜け殻がいくつも見つかります。

今年最初に見つけたのは、ミニトマトの葉の先端にぎゅっとしがみつくようにくっついていたもの。

殻の主たちは、頭上で絶賛大合唱中です。




実家の庭には その狭さにも関わらず そこそこのっぽな木が数本植わっていて、毎年5~6月になると 高枝バサミと格闘しながらの素人剪定となりますが、その風通しよくなった枝に いったいどれだけのセミさんがとまっているのか、毎朝6時前から大音量の鳴き声が響き渡ります。

最盛期には テレビの音も倍以上に大きくしないと聞き取れないほど、もう音というより ビリビリと強烈な震動が 鼓膜に直接突き刺さる感じ。

でありながら、不思議と圧倒されはしても 不快だとは思わないのです。

これが作業中の電動草刈り機とか 「毎度お騒がせいたします~」 の販売 ・ 回収車のスピーカー音とかだったら、うるさいなぁもう、早くどっか行ってよ、とイラつかずにおれないレベルですが、鳴き騒ぐセミたちの真下で感覚フォーカスしてみても、からだの内側はしんと静まりかえって穏やかこの上なし。

何がどう違うのかはわかりませんが、自然の音というのは 物理的音量に関係なく、こちらの神経をかき乱すことのない静けさに満ちているようです。

セミだけじゃなく、すぐ近くの屋根で カラスが数羽けたたましく鳴き交わしていても、鳥の群れが耳をつんざくような声を立てながら通り過ぎても、いや 叩きつける暴風雨やとどろく雷鳴でさえ、驚きはしても 「ええい やかましいわ~」 とはならない。

南紀で暮らしていたころ 人氣のない山道を散歩していても、うるさく自己主張してくるものは何ひとつなく、それだけに 唯一の騒音である自分の中のザワつきが やたらうっとおしく感じられたものだったなぁ (苦笑)




そういえば、以前にもセミの声と芭蕉の句について書いたことがあったな。。。と思い出して探したら、5年前の8月にこんな記事がありました。

思うことは 当時もいまもほとんど変わらないけれど、そこからさらに細々と述べ立てる氣力や情熱はすっかり影を潜め、「そうそう、やっぱり閑かなんだよね~、セミの声」 で十分と思うあたり、内面のザワザワがそれだけ減ったということなのかもしれません。