毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

もの哀しささえなつかしい

2015年11月28日 11時55分47秒 | 自然


いつの間にか 鹿の鳴き声が聞こえなくなっていることに、ふと氣づきました。

1週間ぐらい前だったかな? 朝方の明るくなったころに ひと声響いて、あらこんな時間に。。。。と思ったのが、どうやらさいごだったようです。

もっと氣づかないうちに終わっていたのが、虫たちの声。

ずいぶん数が減ったなぁ、と思ったのは、どれぐらい前のことだったでしょう。

こおろぎ、鈴虫、キリギリス・・・・また来年、だね。




桜の葉も もうほとんどおしまいだなぁ。。。と思いながら、ふとお隣小学校のイチョウに目を移したら、緑と淡黄色のグラデーションだったものが いつの間にやら黄色一色に変わって、葉の量も 半分ぐらいに減っていました。

氣温が下がったことで、一氣に落葉が進んだのでしょうか。

そういえば、空の色も 少しずつ淡くなってきたねぇ。




いのちあるものは じわじわと変っていきます。

ほんの少しずつであっても つねに変化していて、いくら願っても 足を止めてはくれません。

だからこそ、こちらがちょっと立ち止まって、今目の前にあるものを 感じて 愛でて、そして 出会えたことに感謝する。

すべては過ぎ去ってゆくけれど、わずか一瞬でも 時空を共にしたという事実は 決して消えないから。

出会ったことを忘れても、その記憶は 細胞一個一個に刻まれて 心を満たし、ときに思いがけず なつかしい扉を開いてくれるから。




昼間の時間がだんだん短くなって、日ざしが部屋の奥まで届くようになって、いっとき華やかだった山肌の色合いが また少しずつくすみ始めて、夜空がりんりんと冷たく澄んできて。。。。

暖かく彩り豊かだった秋が きりりと冷たい墨絵のような冬に 徐々に入れ替わっていく もの哀しさ、そして そんなもの哀しささえ かすかな痛みと共に たまらなくなつかしい、11月のおわりの日々です。
























だって できるんだもん

2015年11月27日 09時32分38秒 | ふと思うこと


うわ~、まぶしい朝日!

夕べはきりきりと冷え込んだ分、夜空も澄んでいて、見事なまん丸お月さまと 周囲に散りばめられた星々を眺めることができました♪

そして、きょうもどうやらいいお天氣




けさ一番のお楽しみは、ホットココア ・ ラム酒入り

寒くなると、シナモンを多めに効かせたくなります。

下戸の私、ラム酒を入れ過ぎると 車の運転に差し支えるので、要注意(笑)




最近知った言葉、「BECAUSE WE CAN」 。

だって、できるんだもん。。。。う~ん、なんてさりげなく前向き、素敵な言葉だ~

できるから やる、肩肘張らず、大上段に振りかぶることもなく、誰に評価を求めるでもなく、さらりとやってのけて 自己完結、そんなイメージ。




貴秋は、潜在意識に 絶えずこれを言われていたような氣がします。

顕在意識のほうは おろおろオタオタしているというのに、だってできるんだもん・・・と つんつん背中を突かれて わけもわからんまま連れて行かれること十数年

五感の世界のほうでは 常識に逆らう選択の数々に青ざめているというのに、心の底で 誰か? なにか? が、「だってできるんだもん♪」 と 聞き取れないほどの声で 涼しげにのたまう、なんの根拠もないその声に 十年以上もよくついて行ったもんだと思います (^_^;)

でも、その結果が 今の自分だと思うと、ね☆

なんの保証もないその声に従い続けて ここまで来た自分を、ひそかによしよししてやりたいです (*^-^*)




今の私には、根拠も保証もないその声が、最高の指針。

自分の安全圏はここまで・・・と がちがち固めた限界を踏み越えて 世界を広げていく、そんなスリリングで充実した人生を贈られた幸せを思う きょうこのごろです






















この町のリズム

2015年11月25日 07時47分21秒 | 季節の行事


寒ぅ~~~

南紀でも 夜中からぐんと冷え込みが強まったようです。

駐車場の桜の葉もあらかた落ちて、冬が近づいてきたのが感じられます。

熱いコーヒーや鍋物が美味しい季節の到来♪

昼間が暖かいのをいいことに 延ばしに延ばしてきた衣類の入れ替えも ついに敢行しましたよ




ちょっと打ち込んでいたことがあって、2日ほどブログ更新できませんでした。

23日は 集落内の文化祭が行われ、息抜きを兼ねて見に行くつもりでいたのだけれど、作業のほうがノリにノッていたもので、結局行かずじまい。

小中学生の出し物はなんだったのかな。。。。

地元のおじさま方の劇、今年も面白かっただろうなぁ。。。。タイトルは 「鯉名の銀平」 、うんうん、この時点で 内容はだいたい想像がつくけれど (笑)




去年の今ごろは 仕事で家にいなかったし、その前も 用事があったり 実家に帰っていたりで、前回このお祭りを見に行ったのは、かれこれ5年ほど前のこと。

小学生の合唱や 中学生有志のダンス、小学生有志の劇、お母さんと子どもたちのハンドベル演奏など 楽しい演目がずらりと並び、そのクライマックスが 地元劇団の時代劇だったのです。

いや~、この町に あれほど芸達者な方々がおられるとは あのときまで知りませんでした。

お芝居はもとより、舞台化粧も衣装もバッチリ、セット照明音響小道具に至るまで よく揃えたなぁ (゜0゜*)

あのときの演目は 「水戸黄門」 だったよね☆




この町に住むようになって十数年とはいえ、まだまだ知らないお顔のほうがはるかに多く、そこへもってきて分厚い舞台化粧が施されているとなれば、存じ上げている方だって 容易に見分けがつきません。

主人公の水戸黄門様が すぐご近所の自治会副会長さんだったと知ったのは、だいぶ後になってからのこと ( ̄ー ̄;)ゞ

が まわりの観客からは、誰かが登場するたびに 「あれ どこそこの誰それや」 などとのざわめきが いっせいに湧き起こり、ああ地元だなぁ、家族的だなぁ、と ほのぼのした氣分になってきます。

ただひとりわかったのは 前の家でご近所だったおじさんで、 聞くところによるとこの方、緊張をやり過ごすために 御酒をたっぷり召し上がっての登板だったようで、劇の後の抽選会のお手伝いでは ほとんど戦力にならず (笑) 、でも お芝居のほうはおしまいまできちんとやり遂げたのだから すごいものです。

劇中で 黄門様の前に引き据えられた悪役の 「不景気で 看板の仕事ものうなって・・・」などと 地元ネタを交えたセリフに、ああこの方 あそこの看板屋さんのおじさんか~、などとわかるのも また楽し♪




それにしてもみなさん、演技力は相当なものでしたよ♪

後日お隣小学校の校長先生からお聞きしたところでは、この劇を見た小学生たちが がぜん演劇に興味を持って、三学期の学習発表会の劇の練習に打ち込むようになったというのですから、身近な人の思わぬ底力って あなどれません。

随所にご当地ネタも散りばめられ、大いに笑って、さいごはやんやの拍手喝采の水戸黄門、集落文化祭と聞くたびに思い出す、なつかしい思い出のひとこまです (*^^*)




11月の行事は あとは町を挙げての文化祭を残すのみ、それが終わると12月、いよいよ今年も終わりに近づきます。

この町の季節のリズムがなんとなくつかめてきたところに、ここでの暮らしにも すっかりなじんだものだなぁ、との感慨が深まる貴秋なのでした





















羊を数えて ~ 絵本 「108ぴきめのひつじ」

2015年11月21日 22時49分01秒 | 大好きな本・映画・ほか

そういえば、すっかり忘れていたけれど、今年の干支は羊だったんですね。

年賀ハガキの切手の柄が 12年越しで完成させたマフラーを首に巻いたヒツジくんだったのを思い出しました (*^^*)




羊といえば、数日前 ツイッターにケッサクなツイートが。

三車線とおぼしき広々した道路を埋め尽くすように歩く羊の大群の写真に添えられた文句が、

   
       「坊やがなかなか寝んねしないので 一気にカタを付けに来た」



あははははは (≧∇≦)ノ彡

大笑いと共に、思わずRTボタン押しちゃいました♪




このツイートで思い出したけれど、絵本にも 眠れない子どもと羊のお話があります。

いまいあやの作 「108ぴきめのひつじ」 。




主人公のメイちゃん、眠れなくてあれこれ手立てを試みるのですが どうもうまくいかず、そのうちひつじの数を数えることを思いつきます。

しかし これまた寝付けないまま、ベッドを飛び越えてゆくひつじの数ばかり増えていって、105、106、107、そして108ぴきめのところで、

           ごつん!

メイがベッドの向こうをのぞくと、108ぴきめが床にのびています。

どうやらベッドを飛びそこなったらしい(笑)

この あたまにちっちゃなたんこぶを作ったひつじの絵が、なんともかわいいのです

「きみのベッドは高すぎるよ」

体育が苦手で、跳び箱も鉄棒も人並み以下だった私、ひつじくんのせりふに 昔のわが身を思い出し、おおいに身につまされました (*^-^*)ゞ




この108ぴきめのあとには、さらに109、110・・・・と控えているのですが、108くんが飛び越せないと あとがつかえてしまうようで、みんな待ちくたびれています。

メイより先に、ひつじたちのほうが寝入ってしまいそうです (^◇^;)




ここからメイとひつじたちによる “108ぴきめ 跳躍大作戦” が試みられますが、いずれも失敗。

この “作戦” は絵だけで表されているのですが、数々の試みの様子が なんともほほえましく 涙ぐましく。

万策尽きたところで、ついにメイが 最後の手段に打って出ます。

その手段とはなにか? 108ぴきめは無事にベッドを越えられたのか? そしてメイは眠りにつくことができたのか?

お知りになりたいかたは、どうぞ絵本をお読みくださいね♪




なんか おしまいが マンガの煽り文句みたいになってしまいましたが

ほんのり淡い色合いと 優しいタッチの絵、そしてちょっとおかしくて おしまいにはほのぼのした氣分になれる 「108ぴきめのひつじ」 、お隣小学校の子どもたちにも人氣の一作、読み聞かせにもお勧めです♪




ひつじ年の2015年も、あと40日ほどでおしまいなんですね。

今年は 後になるほど盛り上がってゆくようで、年の瀬が迫っている実感がまるで湧かないのですが、将来振り返ったとき、この一年は どんな意味を持ち、どんな位置づけになるのでしょう。

泣いても笑っても40日、大切な人生の持ち時間を 思いっきり楽しく過ごしたいと思います (^^)























あたたかい秋の日ざしの下で

2015年11月20日 13時31分51秒 | ふと思うこと


きょうは朝からいいお天氣、11月下旬とは思えない暖かさです

この時間だと、コットンセーター一枚でも まだ暑いぐらい (^_^;)




落ち葉は今が最盛期、掃いても掃いても追いつかないほど 毎日盛大に飛んできます。

今は 桜の渋い赤味が主ですが、もう少しすると お隣小学校からのイチョウの黄色が仲間入りします♪

風が吹くと 道路をからころ転がっていく音が小氣味よく、玄関から見下ろすと、アスファルトに散りばめられた濃淡さまざまな紅色がなんとも美しくて、ついついこのままでもいいんじゃ。。。なんて思ってしまいますが、ご近所のことを考えると そういうわけにもいきませんので、折を見ては掃き集めます。




集まった落ち葉は、発砲スチロールの箱に入れて、上から細いすき間のある木箱を ふた代わりにかぶせています。

雨が降ると 中がほどよく湿り、晴れると温度が上がって、徐々に熟成発酵していきます。

春になったら、新しい種を播く前に、落ち葉堆肥を畝の上に敷くつもりです。

鋤き込まずに乗せるとどうなるかが、新しい実験

その昔、自然農法の先生は、ご自身の考えでは 落ち葉は肥料としては強すぎるような氣がするとおっしゃっておられましたが、同時にいつも 私の言葉に囚われず いろいろと試してみてください、答えはひとつじゃありませんから、とも言って下さっていたので、お言葉どおり いろいろと試させてもらっています♪

たしかに 自然という意味では、その場に生えている草々が 一番自然で 最良の栄養になるのでしょうが、ヘビーローテーションのわが畑では、もう少し強めの養分を投入するのもいいかもしれないかな、と☆

まだ冬も来ていないというのに、来年の春が 今から楽しみな貴秋です




この冴え渡る青空と 暖かい晩秋の日ざしの心地よさも相まってか、なんだか今 最高の人生を生きている氣がします。

不安が薄くなると、空いたところに 向こうからもいろいろなものがやってきてくれるようで、それらをせっせといただいては、鳥がくわえてきた素材で新しい巣を作るように 新しい人生を築かせてもらっている、そんな氣分です (*^^*)






















この町の子どもたちへ

2015年11月19日 23時28分02秒 | 子どもたちと


きのうの午後は、土砂降りの中 町内小中合同音楽会へ。

お隣小学校児童出発の氣配に 支度を急いで飛び出したら、保護者 ・ 地域住民では一番乗りになっちゃいました ( ̄∇ ̄*)ゞ




先日の文化祭では 中学生の成長振りにおたおたしてしまいましたが、今回 父兄席の最前列に陣取り じっくり見渡せば、幼顔が残った子もそこそこいて、ほっとすると同時に 先日のうろたえぶりが 少々氣恥ずかしく (〃∇〃)

まあ、合唱なら ダンスや劇みたいに大きく動かないから、ゆっくり見させてもらえるからね☆




小学校二校で驚いたのは、数年前の 町内小学校の統合に 唯一参加しなかったお隣小学校の全児童数が、統合小学校のそれを 2名上回ったこと。

こちらが増えたのか、あちらが減ったのか、でもどちらも50名切ってるんだよね。。。。保育所の様子からいっても 今後増える見込みは、目下のところなさそうだし。

先のことを心配しても始まらないけど、いずれまた統廃合の話が復活するのかもなぁ。

どうなるにせよ、今のそれぞれの小学校の数々の魅力が そのまま残ることを願います。




で 音楽会は、小学校の子たちは 知ってる子も知らない子も みんな緊張氣味の面差しながら 真剣そのものの様子がなんともかわいらしく、音楽が得意な子も 苦手な子も それぞれに精一杯練習した様子が十分窺える演奏ぶり。

中学生は 音楽専任の先生のご指導もあってか、三部合唱という難易度高めの課題にみっちり取り組んだ成果を さわやかに聞かせ、またピアノ伴奏の三人の女の子も 堂に入った演奏で しっかり歌を支えていて、さすがという仕上がり。

二年に一度の合同音楽会、今年も楽しませてもらいました♪




私は この土地の子どもたちが好きで、こうして書くのも ついつい熱が入ってしまうけれど、だからといって ここがパーフェクトな天国だというわけではないのです。

ただ、コンビニやゲーセン ・ 書店 ・ 文具店 ・ 玩具屋など 子どもがやたらお金を使いたくなるようなきらびやかな店がまったくといっていいほどない一方、自然はこの上なく豊かなこの町で、少人数校ゆえに 大人の注目をたっぷり浴びて育ったこの子たちには、大なり小なり なにか一本芯が通っているという印象を受けます。

外側の世界がどれほど変わろうと 揺さぶられようと おしまいまで残る、目に見えないけれど 確かなもの。

それが、縁あって知り合ったこの子たちをどう支え、どのような影響を及ぼしてゆくのか、これからもずっと見守っていきたいと思うと同時に、こちらも そんな彼らに恥じることなく手渡せるこれからの世界を しっかり創ってゆかねば、と なにやらぴしっと背筋が伸びるような氣持ちにさせられるのです。






















最高のpresent

2015年11月18日 00時04分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「腑に落ちる」 って すごい言葉だと思います。

「腑」 とは、調べてみると 「はらわた。内臓。転じて 心、心の底。心根。」 とあります。

「腑に落ちる」 とは、頭や心に留まっていた知識や情報が、からだ全体に すとーんと落とし込まれること。

理屈をすっ飛ばして 得心がいくこと。

外からの知識や情報が、消化され切って 自分の智恵や力に変わる瞬間。

昔の人の言葉の感覚って、ほんと鋭い、と感服させられます。




最近腑に落ちた、「どんな自分でもいい」 。

素直にそう受け入れられるようになったといっても、それで負の感情が きれいさっぱりなくなるわけではないようです。

過去の記憶や思考パターンは そのまま残っているわけだしね☆

肯定的なイメージが 勝手にどんどん湧いてくるからといって、空想を先走らせて 浮かれ過ぎると、反動で沈み込む瞬間が あとから必ずやってきます (^_^;)

ただ、そういった心の動きすべてが 二極世界ではごく自然な現象であるとわかっていれば、それ以上騒ぐ必要もなく、ただ静かに感じて味わっていればいいだけのこと。

いずれは離れてゆくものとわかっていれば、恐れたり嫌ったりする必要もないわけですね。




「二極を越える」 というあり方に氣づいたからといって、このからだを持ち 二極世界に生きている以上、対立する二極間の行き来がなくなるわけではない。

でも、それに振り回されることがないとわかっていれば、むしろ そのギャップを積極的に利用して 楽しむことだってできるわけです。

荘子の 「胡蝶の夢」 というお話は、「夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話 (Wikipediaの解説より) 」 。

で、荘子は思うわけですね、「どっちだっていい」 と。

自分が蝶だと思えば 蝶である自分を味わい、人だと思えば 人である自分を味わえばいい。

外側がどう変わろうと、内から感じる自分に変わりはないのだから。




浮いたり沈んだり、高鳴ったり落ち込んだり、という二極世界ならではの体験がしたくて この世界にやってきた私たち、そしてそれを味わっている現在 (present) こそ 最高の贈り物 (present) 。

渦の真っ只中でもがいているときは 「そんなこと言われても~」 ですが、ちょっと引いたところから眺めれば、もがくという体験さえ、ああ これがしたくてこの世にやってきたんだなぁ、と なんだかいとおしいものに思えてくるのです (^^)






















氣合入りました(^^)

2015年11月16日 12時39分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


11月は、学校関連の行事が多いのです。

あさってはまた、小中校合同の音楽会があるし。

きのうの中学校文化祭は、いろいろ感じるものがありました。




それにしても、思春期の子どもの変わりようって すごいですね。

つい先日小学校で、今は中三の女の子の 小二の妹が お姉ちゃんの小学生時代とそっくり、と感嘆していたら、当のお姉ちゃんが 道ですれ違ってもわからないだろうほど顔立ちが変わっているのを 文化祭の展示写真で知って、軽くめまいがしそうになりました。

他の子たちも、面影の残っている子もいたけれど、けんめいに小学校時代の記憶を引っ張り出して 何度つき合わせても 「ほんとうにあの子!?」 としか思えないほどの変貌、いや 成長振りをたびたび見かけて、この年齢の子どもに流れる 二年三年という月日を 甘く見てはいけなかったのだと思い知らされました (^_^;)




文化祭のプログラムは、学年ごとに 総合学習発表 ・ ダンス ・ 演劇、ほか 合唱や教職員の劇など。

ずっと見ていく中で、大きな発見がありました。

ヒップホップ系 (でいいのかな?) のダンスに 青春ドラマ風の劇と、小学生のころから比べて ぐんと自分たち好みの世界を広げた彼らの様子に、最初はなぜか 華やかさ以上に 不安定さが目に付いてしまい、華麗に舞い上がった彼らは この先どこへ着地するんだろう。。。なんて 余計なことを考えたりして、やや悲観的だったのですが。

おしまいのプログラム二つに 大きな救いがありました。




ひとつは 二年生のダンス、センターで プロと見まごうばかりにカッコよく踊っているのは、小学校入学前からよく知っている男の子。

あまりのカッコよさに感動しつつも、あのかわいかった子も すっかり別の世界に行ってしまったのかなぁ、などと複雑な氣分だったのですが、おしまいに 緞帳が降り切るまで 舞台中央で 深々と頭を下げたまま ぴしりと不動だった彼の姿に、ああ この子は大丈夫、根っこがしっかり育っているから大丈夫、と感じて、いっぺんに氣持ちが明るくなりました。

彼のお姉さんが 一時期私のところにピアノを習いに来てくれていたこともあって、ご両親がとても誠実な方々で、愛情深く4人の子どもを育てておられることも 人として大切なことを しっかり伝えておられることも知っていましたから、そういうご両親の姿勢が しっかり彼の中に生きているのが見て取れて、根っこがしっかりしている限り、どれほどいろいろな冒険を試みようとも さいごはきちんと戻って来る場があるのだ、と思えて ほっとしたのです。




また、ラストを飾る、沖縄に修学旅行に行った三年生の 沖縄戦を描いた劇も 圧巻でした。

修学旅行で、語り部さんの戦争体験を聞いたり、実際に 住民や兵隊が立てこもった洞窟に 電気を消した状態で入る体験をしたりしたそうですが、そういうインパクトが強かったのか、劇を通じて伝わってくる彼らの思いは力強く、胸を打たれました。

そして、ここまでまっすぐで堅実で 人の心を揺さぶるものが創れる彼らの底力に、私の不安は杞憂だった、やはりこの地の子どもたちには 豊かな自然の懐で しっかり手をかけられて育った生命力の裏打ちがある、と思い知り、さらに、彼らに胸を張って手渡せるような いのちのこもった世界を、まず私たち大人が しっかり創っていかなくちゃ、と、改めてお腹の底から 氣合が入ったのです。




「子どもたちを支える地域の大人」 なんて立ててもらっているけれど、エネルギーや刺激をもらっているのは、いつも私のほうなんだよね☆

もらったエネルギー、しっかり還元していくからね♪

























今ここに どんな世界を創るのか

2015年11月15日 08時02分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


フランスで いろいろあったようですね。

テレビや新聞を見なくても、ツイッターのタイムラインや ブログ欄外のニュースタイトルメモなどに現れる文言から その動揺の大きさが伝わってきます。




ただ。

事件そのものは、もう終わったこと。

もちろん さまざまな影響はあるだろうし、捜査や検証も続くでしょうが、外から遠巻きに見つめる私たちにとっては、すでに 「過去」 なのです。




私は 自分のことをよく、幼いころの刷り込みがもとで ほとんど半世紀に渡って 怖れや怒りにさいなまれながら生きる羽目になったと書いていますが、実際のところ、刷り込み自体は 過去のある一点での出来事に過ぎず、そこから先の怖れや怒りの体験は、その出来事の記憶から 自らえんえんと再創造してきたものだと、今ではよくわかっています。

だからこそ、からだの感覚を通して その成り立ちのおおもとを見つめることで、すべては記憶でしかなく 今ここで再現しなくてもいいのだと腑に落ちると、悪夢から解放されるんですね。




事件に実際に遭われた方々には、これほどまでに暴力的な出来事から受けた痛みや辛さが あとあとまで尾を引くのは 無理なからぬこと。

でも、私たちは ニュースを通して 他者の表現を見聞きしているに過ぎません。




言葉であれ 映像であれ、「全体から分け出されたもの」 には、どうしても “ズレ” がつきまといます。

分け出されなかった要素が落ちたまま 伝わってしまうからです。

さらにそこに、伝える側 ・ 受け取る側双方のフィルターがかかるので、多くの人の手を経るほど その “ズレ” が大きくなります。




分け出される前の 「全体」 は、五感を超えたところで感じるしかない。

そして、感じる世界は、つねに 今 ここ なのです。




私たちは、過去の記憶から再創造した 「今 ここ」 を生きることもできるし、いのちの源を感じながら 「今 ここ」 を生きることもできます。

このような悲しい出来事を これ以上増やしたくないと願う人は、どのような選択をするのか。

答えは 人の数だけあるのでしょうね。




不安や怒りを手放した “空き地” に 新しく何を立ち上げるかが、この秋の私のテーマのひとつ。

もうこれ以上 負の記憶の再生産は、ノーサンキュー

解放され 風通しのよくなった心から、もっと楽しくて 手応えのあるものを たくさんたくさん創っていきたいです




きょう15日は、地元中学校の文化祭。

小学生のときは ちょくちょく顔を合わせていた子どもたちも、中学校に上がると とたんに疎遠になってしまうので、久々に 彼らの成長ぶりを見せてもらうのが楽しみ (^^)

若々しいエネルギーを いっぱいに浴びてきます






















子どもたちがくれた 大きな大きなもの

2015年11月13日 22時40分25秒 | 子どもたちと


お隣小学校の 開放週間、きょうのお昼までで終わり。

思い返すと、初めてこの学校とのご縁ができたのが、ちょうど9年前の この開放週間のときだったんですね。

回覧にお知らせが載っていて、あのときは 今よりもうちょっと離れたところに住んでいたんだけれど、なぜかふと覗いてみようと思い立って 出かけていって、そこで会った 近所の顔見知りのお母さんに 読み聞かせボランティアのことを教えてもらって、名乗りを上げたのがきっかけ。

で、初めての読み聞かせに行ったのが、2006年12月13日のこと。




あのころは、対象学年は 1年と6年のみで、時間も授業前の10分だけ。

まだ 他者への緊張や苦手意識が抜けていなかった私、初回は 子ども相手といえども かなり緊張したものでした。

そんな弱点から解放されるのに おおいに力になってくれたのが、当の子どもたち。

6年生ともなると、相手をじっくり観察吟味している氣配が伝わってきますが、1年生は いたって無邪氣なもの。

回を重ねるうちに どんどんこちらになじんで、本が面白ければ 率直に喜びを表してくれて。

おかげで こちらも硬さが取れ、読んで聞かせるのを楽しめるようになり、少しずつ自信をつけていったのでした。




人に受け入れられる喜びや 人を喜ばせる楽しさを、私は この学校の子どもたちから教わりました。

ただ無邪氣に喜んでくれる、私が行くのを楽しみにしていてくれる、そして そういう氣持ちを ためらうことなく見せてくれる。

私は歓迎されているんだ、ここにいてもいいんだ。。。。そんなふうに安心させてもらえたことが、どれほど大きかったか。

やたら構えることなく すっと心を開いて 人と向き合えるようになったのは、この子たちと このお役目のおかげです。

どんなふうに見られるか・・・・と氣をまわしたり、ヘンに格好つけたりするのをやめ、声色を使ったり、おおげさなほどの表情をつけたり、表現すること自体を 思いっきり楽しめるようになって。

不安や怖れから装っていた 堅苦しい生真面目さ、ガチガチに築いていた外壁を ここまで崩すことができた、その最初の一歩は、この子たちがくれたのでした。




今では、全校生徒相手に 授業1時間分丸ごといただいて、読める本の幅もぐっと広がり、ちょっぴり複雑なお年頃の高学年も 1年のときから知っている子ばかりだから、まったく問題なし。

ますます楽しくなってゆく読み聞かせ、初めて話を聞いて それやりたいです! と手を挙げた、あの授業参観の日のことを思い出すと、まったくたまたまのようでありながら、実はなにかに導かれたような氣がして、しみじみ感謝したくなるのです。