毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ハロウィンに見る 私たちの柔軟な意識

2018年10月31日 12時28分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


恒例となった10月31日のハロウィンテンプレート。

そして毎年思うのですが、デザインとタイトルが合わないことったら ( ̄∇ ̄;)

この柄はまだマシなほうで、「フランケン」 なんかもってきたら もう笑うしかないです。




それにしても古代ケルトのお祭りハロウィン、日本にもそれなりに定着したようですね。

渋谷の暴徒はともかく 街中で見かけるジャック ・ オー ・ ランタンに 「今年もこの季節がやってきたなぁ」 なんて、すっかり風物詩となった感があります。

最初のころはいかにも商業戦略という感じで 違和感ありまくりだったのに。

でも 「慣れる」 「なじむ」 ってこういうことなんですね。

クリスマスのお祝いだって 人生初の洋装洋髪で鹿鳴館の舞踏会に臨んだ明治の女性だって、最初は 「なにそれ」 と冷ややかな扱いを受けたでしょうが、今ではクリスマスの飾り付けもケーキもないほうが不自然だし、洋服なんてなじみ過ぎて和装のほうが珍しい。

人間の意識とは なんともフレキシブルにできているようです (日本人は特に、なのかも☆)




一年がかりで 「私 = からだ」 から 「私 = 意識」 へとじわじわ軸足を移せたのも、まさにこの柔軟さの賜物。

最初は抵抗があっても 構わず続けていると次第に受け入れられるようになるのは、ハロウィンと同じです




私たちはずっと 五感でつかめるものに絶対の信頼を置いてきました。

でも視覚を例にとれば、私たちの目にまわりのものが今のように見えているのは、脳がそのように処理しているから。

もし人間の目に電子顕微鏡並みの機能や不可視光線も捕える力が備わったら、見える景色はまるで違っているはずです。

自分と傍らでくつろぐネコと鳥かごのインコと壁に止まったハエ、全者がいっせいに部屋のまったく同じ一点を見つめたとして、脳に展開する映像はまったく同じでしょうか?

私たちが絶対だと思っている眼前の光景は、私たちの視覚機能や脳の処理具合でこのように見えているに過ぎないのです。

映画 「マトリックス」 の 「“現実”とは君の脳が解釈した電気的信号に過ぎない」 というせりふは、SF設定の中にありながら真実そのものなんですね。

あの脳科学者ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の 「奇蹟の脳」 体験 は、そんな脳の働きに不具合が生じたとき 見える世界がどのように変わるかを教えてくれます。




・・・・というような話がいかに興味深くても、事実として取り込むとなると話は別。

最初のころは 「そんなこと言われたってー」 とそれはもうバンバン抵抗が上がってきました。

そんな抵抗に感覚フォーカスで応じつつ、「目の前のこれは 脳がアレンジしてこう見せているだけ」 という仮説を繰り返し唱え続けたのです。




結果どうなったかというと、マインドの抵抗が薄らぐにつれて 「世界がいま見聞きしているとおりだとは限らない」 「この世界にはまだまだ自分が氣づいていないものがたくさんあるのかもしれない」 のような思いがすんなり受け入れられるようになり、後退氣味の五感の世界と入れ替わるように五感では把握できない “なにか” が徐々に存在感を増してきました。

そう、“在る” です。

「ない」 はずのもの、つまり五感では触れられないつかめないものが たしかにある、そんな感覚がじわじわ強まり、そこに追い風のようにかつてなかった体験が起こり始めました。

















語らずとも伝わるもの

2018年10月30日 15時37分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事で 「 『私 = からだ』 から 『私 = 意識』 へと認識の軸足を移す」 と書きましたが、実際なにか神秘的な体験をして意識が一氣に切り替わったわけではなく、「私 = からだ」 と思えてならないものを 「私 = 意識」 であるという仮説を繰り返し持ち出しては少しずつ慣らしてきただけです。

悟りなどの特別な体験に憧れて そういう経験のまったくない自分に引け目を感じ、もっと精進しなくちゃと力んでいたこともありましたが、いまはそんな脅迫観念からも解放されたようで、おしまいに行き着くところはみな同じで たどる道筋が違うだけのことなんだなぁ、と。

むしろ (急激にであれゆっくりとであれ) 意識が切り替わった後のありようのほうが大切なんじゃないかという氣がします。




中国の禅僧 ・ 廓庵という人の作で 「十牛図」 というものがあります。

悟りへの十段階の道筋を牛と牧人になぞらえて表したもので、八番目の 「人牛倶忘」 というところが いわゆる “悟り” に当たるようですが、ここで終わりではなく、九番目と十番目では再び俗世に戻ってくるんですね。

たしかに悟ったからといってそのままあの世に逝ってしまうわけではないのですから、当然その体験を踏まえての新たな人生が始まることになる。

ここで、それ以前から持ち続けている個としての意識のありようがカギになると思うのです。

どんな神秘体験も この五感の世界に戻って伝えようとすれば 再び個の意識の枠組みに絡め取られざるを得ないのですから、意識のフィルターの通りのよしあしが大きく影響することになります。




その昔の貴秋は、何人もの傑出した知恵や特殊な能力をお持ちの方に出会っては 影響を受け憧れてきました。

が しばらく経つと、その方々にもそれぞれに思い込みやわだかまりがあって そのせいでせっかくの知恵や力をもってしても諍いやトラブルを避けられなくなる様子をいく度も目撃することになり、そこに自分への警告を読み取らざるを得なくなりました。

どれほど素晴らしい知恵も能力も 意識のフィルターに曇りがあれば それに応じた結果しか生まない、これほど同じようなものを次々見せられるのは それが今の自分の姿そのものだからだ、いくら悟りを求めたところで 今のままでは望むような幸せにはつながらない、まず自分のフィルターの汚れや曇りを取り除くのが先だ、と、まるで面と向かって言われたかのように響いたのです。




警告に従って意識の曇りを取り除くことに専念していたら、心の飢えがしだいに治まり、秀でた自分でなければ認めてもらえないという強迫観念からもだんだんと解放されていきました。

十牛図の十番目 ・ 「入鄽垂手」 では、悟りを経て戻ってきた人は 裸足で胸をはだけ 土ぼこりにまみれながら徳利を下げて現れます。

高貴な身なりをしているわけでもなければ お供をおおぜい引き連れているわけでもない、ことさら人を集めて教えを垂れたりすることもなく いたって普通のありさまで、ただその人がその人らしくあるだけで いっしょにいる人々がおのずと変わっていくといったふうなのです。

貴秋自身はそんな境地にはまだまだ至りませんが、この道の先にはそんな未来が待ち受けているようだとなんとなく感じられるまでにはなってきました。

特別な存在でなくてもいい、どのような平凡な生き方だろうと ありのままの自分を感じて好きなことをしながら楽しく暮らしていれば、共振共鳴の作用でまわりの人にも自然と幸せの波動が伝わって 場全体が勝手にいいように変わってゆく。。。。まさに 「入鄽垂手」 の現代版、そんな毎日だったらどんなにか楽しいだろうなあ♪




悟りにまで到達しようとしまいと、心の曇りを取り去ってゆくプロセスは それ自体が味わい深く体験する価値のあるものだと思います。

そしてその素晴らしさは、ことさら声高に主張しなくても その人の変化そのもの ・ 生きる姿そのものが十分語ってくれるのかもしれません。


















意識である 「私」

2018年10月26日 11時59分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


思い起こせば あのムージ師の動画と出会ったのがちょうど一年ほど前、そしてあの驚愕の 「 『私』 がいない!」 という氣づきに至ったわけですが、この一年という月日は 「私 = からだ (とそれに付随する名前 ・ 性格 ・ 記憶等の要素の集合体) 」 から 「私 = ( “在る” という) 意識」 へと 認識の軸足を移すために用意されていたようです。

自分の本質が形なき意識であることを認めたからといって からだに伝わる五感の世界のリアルな感触がなくなったり薄れたりしたわけではありませんが、物事の捉え方や価値観は大きく変わったように思います。




物質的な冨はありがたいものではあるけれど、いくらたくさんのものを所有したからといって心の底から満たされるわけではない。。。。。その理由が今はよくわかります。

憧れのまなざしで見つめていたものが自分の下に来てくれたときのときめき、でもその魔法は時が経つにつれて薄れてゆき、やがてまた新しいときめきを求めずにいられなくなる。

子どものころ夢中で摘んだレンゲソウも こづかいを貯めてやっと手に入れたガラス細工の白鳥や黒馬も その喜びはほんのいっときだけ、どうしてあれほど鮮やかだった魅力があっさり色あせてしまうのかと不思議でなりませんでしたが、大事なのは花や飾り物自体ではなく それを思い浮かべたときの満たされた思いのほうだったのですね。

ほんとうに欲しかったのは なにかを好きだ、素晴らしいと思ったときのあたたかく湧き起こる感覚。

そしてそれこそが、マインド主体のときには忘れていた 私たちの本質である愛や歓喜や豊かさそのものなのです。

望むものを手に入れることで得る幸福感は条件付きだけれど、真の自分はいつでも無条件にそこに “在る” わけで、それを忘れさえしなければ いつでも満ち足りたままでいられます。

レンゲもガラスの動物たちも ほんとうの自分を思い出させるきっかけに過ぎず、そこがわかっていれば そもそも所有する必要さえなかったんですね。

胸躍る恋も やがては終わりを迎えたり もっと穏やかな情愛へと移り変わっていったりするけれど、ほんとうの自分を見失わなければ 深く傷ついたり執着したりすることなく あたたかい心のままでいられるでしょう。




幸せでいたいなら、大事なのは まずすでに欠けることなく満ち足りている意識 (=ほんとうの自分) に氣づくこと。

映画 「マトリックス」 風に言えば、「満たそうとするな、満ち足りていると知れ」 というところでしょうか。

ここを抜かしたまま 外側から欠け (と見えるもの) を埋めようとするから、高じると過食とか買い物依存症、ギャンブル依存症みたいなことになってしまうのではないかしら。

実際過食症だった貴秋は、甘くてこってりしたものをいくら食べても 心底満足するということがありませんでした。

結果太ってしまい、がんばってダイエットしてもリバウンドばかりで効果が上がらなかったけど、心のほうが変わってきたら 食への執着も薄れ、特別な努力なしで自然と体重が落ちました。

自分がからだではなく意識なのだと思えば、このあたりのことが納得いきます。

外の世界はマインドの領分だから、なにかあればすぐ行動でどうにかしようとするけれど、意識はそもそも完璧にただ “在る” ものだから、それを遮る曇りがなくなりさえすればいいわけで、曇りを取ろうとする行為すら必要なく、曇りがあることにただ氣づいて感じていれば おのずと消えてゆき、結果外の世界もいいように変わるのですね。




「私 = からだ」 から 「私 = 意識」 に切り替わったことで、さまざまなものの見え方聞こえ方が変わってきています。

以前の記事にもその片鱗は覗いていますが、これからはより意識して そのあたりをお伝えできればと思います (^^)





















無限で永遠の私たち

2018年10月06日 12時05分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今年最初の記事でも書いた、「パーフェクト ・ センス」 という映画。

相変わらず映画自体は観てなくて 筋を知っているだけですが、五感が次々と使えなくなってゆくというストーリーには なにか魅かれるものがあります。

お話の中では 嗅覚 → 味覚 → 聴覚 の順に失っていき、さらに目が見えなくなったところで終るようですが、ではそこから触覚までも失ったらどうなるか? と想像すると、それはもう生きているとはいえないのではないかと思えてきます。

触覚とは皮膚の表面だけではなく 当然からだの内側にもあるもの。

鼻の粘膜に花粉などが触れれば それが刺激となって伝わりくしゃみが出るし、熱いものを飲めば食道に温もりを覚え、食べ過ぎれば胃が重くなり、腸に異変が起こればお腹が痛くなる。

そういった体内の触感さえことごとくシャットアウトされてしまえば、まだ生きて心臓が動いていたとしても からだはなくなったも同然です。

あの 「奇蹟の脳」 のジル ・ ボルティ ・ テイラー博士は、脳卒中で左脳の機能が失われたことで 自身のからだとそうでないところの区別がつかなくなったそうですが、死を待たずとも からだと意識のつながりが断たれてしまえば、その存在を感知することはできないのですね。




では、からだがなくなれば 「私」 は消滅するのか?

貴秋はそうではないと感じます。

五感のつながりが断たれたつもりになって 静かな部屋で目を閉じ 息も極力抑えてじっと横になっていると、どれだけからだの感覚から遠ざかっても まだ消えようとしないものがあるのに氣づかされます。

そう、あの “在る” です。




五感によって自身の存在を感じるとは、「私」 でないものがあって初めて 「私」 があるとわかるということ。

が、“在る” という意識は そんな対比とは無関係です。

ある ・ ない の 「ある」 ではなく、それらを超越した絶対的なもの。

あの臨死体験者 ・ 木内鶴彦さんは、病み衰えた心臓の鼓動が 「あ 止まった」 と氣づき、次の瞬間 「え? じゃあこの 『止まった』 と思っている自分って?」 となったそうですが、そんなふうに 生死さえ超えたところで つねに起きていることすべてに氣づいているもの、それが “在る” だと感じます。

“在る” には果ても境界もなく、五感でつかむことも 度量衡ではかることもできません。

ただ “在る” ことに氣づいているしかない。

このさいごまで消えることのない “在る” こそ私たちの本質なのだとすれば、私たちは無限で永遠の存在だということになります。




・・・・・というようなことをいくら語っても それはただの言葉遊びでしかありませんが、これに実感が伴えば 万事が違って見えてきます。

私 = からだ + マインド から 私 = 在る へと意識が移行するにつれ、自分や世界のありようが ゆっくり静かに変貌を遂げています。

ドラマチックとか衝撃的とかいう感じではなく、四季の移ろいのように穏やかで緩やかな変化です (^^)