毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

忘れていたって ちゃんとある

2016年04月30日 12時41分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ゴールデンウィークですね

きょうは朝からとってもいいお天氣、行楽地は活氣に満ち溢れているだろうなぁ♪




おととい28日は 母の4回目の命日、そして続くきのうは 弟の50回目の誕生日。

この組み合わせがずっと続くことになってしまった弟、メールで 「まだ慣れない」 と。。。。不憫だなぁ

でも 変化は人の心から、きっとそのうち落ち着くところに落ち着くね。




私はといえば、母については みごとに思い残しゼロ。

もちろん思い出せば懐かしいし、かき立てれば もう一度会いたいなぁ という氣持ちも湧いてきますが、それ以上に胸が痛むとか辛くなるということはないのが ありがたい。

まあ 精一杯やったもんね。。。。胃を押さえ 頭を抱えながらも さいごのさいごまで 母と向き合い続けたもの。

今なお 天と母から そのご褒美をもらい続けているのかもしれません (*^^*)

そのときのあれやこれやを教訓に 今度は父と向き合う日々、また違う角度から 新しい学びや氣づきをいっぱいもらってます♪




母の思い出からの連想で ふと思い出した母方の祖母 (母の母) の話。

東京のとある小料理屋の養女に望まれ、結局養女にはならなかったが ちょくちょく遊びに行っては可愛がられていたそうですが、そんなあるとき突然襲いかかってきた 関東大震災。

店の人たちに囲まれ 守られるようにしてやってきた陸軍被服廠の前で、不意に猛烈にいやな氣分に襲われ、つかまれていた手を振り払ってそこから逃げ出したのだとか。

その後 ご存知の通り 被服廠は火災に見舞われて 多くの方が亡くなり、祖母は九死に一生を得たのです。




私が五感を超えた世界の追及に夢中になり 勝手に師と仰いだ人の講座などにせっせと通っていたとき、両親は止めこそしなかったけれど 理解することも関心を向けることもなく、父は いまだに 理屈で割り切れない世界には目もくれない人ですが、母のほうは 自分の母親のこういう体験に加え、自身も幼い弟の死にまつわる不思議な体験を経て、多少は耳を傾けるゆとりもあったようです。

彼岸の母には 今の私はどう映っているのかな、と ときおりちょこっと好奇心が湧くことも (*^-^*)ゞ




それはともかく、公式には五感の世界しか認めないような今の世でも、こういう理屈ではつかみ切れない話というものも 根強く存在しており、貴秋は この 「見えないがため 関心薄かった 根っこの部分」 の存在感が これから増してゆくと思っています。

目立たない変化でしょうが、過去の体験の積み重ねだけではどうにもならない 想定外の出来事の度重なる刺激に触れて、忘れていた自身の源を思い出し、力を発揮する人が増えていくと予想しています。




たしか 中谷彰宏さんのご著書のどれかだったと記憶していますが、「ぼくは 耳を動かすことができる」 という話があります。

もともと誰でもできることなのだけれど、必要がなくなって 動かし方を忘れてしまっただけなのだ、と。

たしかに 今の私たちは 耳を動かす必要はないけれど、でも そのための筋肉は ちゃんと残っているのですね。

五感を超えた感覚も、これと同じようなものだと思います。

本来の自分からどんどん離れていく 「行き」 の道では それは必要なかった、というか むしろ忘れたほうが生きやすかったのです。

でも 見えなくたって聞こえなくたって忘れていたって、いつのときでも 私たちの根っこは ちゃ~んとあったし、これからだって あるのです。

あとは、使い方を思い出すだけ (^_-)-☆




これまでの私たちが生み出した さまざまな不調和を振り払い バランスを取り戻すための 地球の自浄作用として、自然災害の発生は やむを得ないこと。

でも、並行して 私たちも本来の均衡の取れた エネルギーみなぎる自分を取り戻すことで、これからの時代もきっと乗り切っていけると信じています (^o^)/






















安心して自分の道をゆくがいい (^^)v

2016年04月28日 09時03分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


内的探究に没頭するようになってから 貴秋が読みあさった本の数は、軽く三桁に上るでしょう。

かつて勝手に師と仰いだ人は、まだスピリチュアルなどという概念が世を席巻する前から 質のいい情報には 抜群の嗅覚&吸引力を発揮する人で、この人の下で得た情報は 今も、いやむしろ今になるほど その確かな内容と魅力、さらに網羅する分野の幅の広さに 感嘆させられるばかり。

そして 独学独習の身となってからは、幸運にも折からのスピリチュアルブームに乗っかって もう読むわ読むわ、かの古典ナポレオン ・ ヒルから いまだわがバイブルの位置にある 「神との対話」 、爆発的に広まった引き寄せシリーズに 日本の本田健さんや斉藤一人さんのご著書などなど、また 本のみならず ちょうど手を出し始めたネット世界の情報網にも助けられ、どれほど多くの良質で濃厚な手がかりを頂いたことか。

・・・・・・・とここまではよかったのですが。




スピリチュアルの名が示す世界はひとつでも、取り出し方・ 表し方は人それぞれ、多くの本やサイトを読むほど 相矛盾する話も多く出てきます。

また、多くの方が さまざまな具体的手法を載せてくださっているのですが、ゆったり座って目を閉じ 呼吸を整え。。。。あたりから始まる種々のワークや鍛錬法、ひとつをこなすだけでもかなりの時間がかかるそれらを 数種併用していたら、それだけで半日やそこら経ってしまいそう

そして 中でも一番の問題は、「私はこれこれこうしてこんなことがあって、今はとてもうまくいっていますよ」 という内容の記事を読むと決まって、勇氣づけられるより先に 「それができない (できていない) 自分」 に意識がいき、やっぱり私だめだ~ とひがんで自信を失ってしまうクセ。





そんなこんなで 悩み迷いながら進むこと十数年、その上で思うのは、やはり 「氣づきの道は 人それぞれ」 ということ。




スピリチュアルに限らず どんな道も、人の数だけあります。

絵でも音楽でも、同じひとつのものを描いても 同じひとつの楽譜を演奏しても、二つと同じものは出てこない。

たとえ最初は真似から入っても、完成するころには オリジナルになっている、それが個性というものなのですね。

情報はいくらもあるけれど、そこから何をどう取り込むか、何をもって自分の答とし、それをどこにどのように見出すかは、どうやら人に教えてもらうことではないようです。




ぱっと見矛盾して見える情報も、ふと 矛盾しながら同時に成立することが腑に落ちたり、対極にあるようで 実は案外近いものだとわかったり、なんていう日がやってきます。

さまざまな鍛錬法やエクササイズについても、抵抗なく手が出るものだけに絞っていけば、ふと氣づいたら 自分だけのお氣に入りのオリジナルメニューが出来上がっていたりします。

そんな中から いつの間にか、自分だけの道が形を現すようです。




そして 他者との比較、これも意味をなさないことを思い知りました。

比較が成り立つのは 互いに共通の物差しがあってこそですが、ひとりひとりのルートもタイミングもバラバラなこの道に そんなものはないのです。

よく 変化の過程を 1.2.などと番号つけて 順に箇条書きにされているのを見かけますが、これも 境界線のあいまいなこの世界では、そんなすっきりきれいな順序や区分けは まず成立しませんから、多くはおおよその話であり 言葉化のための方便というものでしょう。

実際には、突然以前の状態に戻ったり、ひとつのプロセスを何度も行き来したり、複数のありようが重なって起こったり、なんてしょっちゅう。

著者の方にはそのとおりだったのでしょうが、読ませていただく側は 自分には自分の道筋があるとわかった上で 参考にさせてもらうぐらいでちょうどかと思います。

さらに、五感の世界には 早いほう ・ 先んじたほうが優れている、なんて価値観が蔓延していますが、時間概念が意味を成さないこの世界には それもまた当てはまりません。

私たちは 結果を出すためではなく プロセスを体験するためにこの世にやってきたのですから、急げば せっかくの機会を ちょっぴりしか味わえずに終るだけのこと。

何かを知ったからえらい、とか 知らないのは劣っている、とかいうことでもありません。

それぞれに ベストな順序やタイミングがある、というだけのこと。

自分がまだ体験したことない情報は、今の自分には見えない角度の補いであり、これから自分が進む方向の それとない示唆。

早い遅いを氣にすることなく、自分には自分独特の 最適なタイミングで すべてが用意されていると心に決め、他者の話は 手がかり ・ ヒントと受け止めて いいとこどりで、自分だけの道をみつめ、じっくり歩めばいいのです。




ただ 起こることすべてが 自分にとって最高なんだと思い定め、あとは成り行きの出会いを楽しみつつ 安心して自分の道をゆけばいい。

精神の歩みって そんなものなんだと、今では思っています (^^)























ドミノ倒さず

2016年04月27日 10時55分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


もうだいぶ前のことになりますが、「ドミノ倒し」 の番組を見たことがあります。

かなりの日数と人手をかけて 会場一杯に さまざまな仕掛けや工夫を凝らしたドミノのコマを並べてゆく、その過程と 本番のドミノ倒しの様子が描かれていました。

準備の様子が大変そうであればあるほど、本番の見事さに 爽快なカタルシスを覚えるわけですが、暑い季節に ちょっとした微風でもコマが倒れるからと 送風も止めて 汗だくで作業を進めるなど、よくまあ皆さんここまで頑張れるものだと感心するやら驚くやら。

で本番、動き出したドミノは 渦を巻いたりくねったり枝分かれしたりながら、見事な模様を描いたり 奇抜な仕掛けを作動させたりと、まるで生き物のように さまざまなことをやってのけつつ 進んでゆきますが、その一番最初はというと、たったひとつのコマが倒れて 次のコマにぶつかって倒すところからなんですね。

もしも 一番目と二番目の間が開き過ぎていたり、一番目の倒れかかる重みや勢いが足りなかったりして、二番目のが倒れなかったら ハイそれまでよ、長時間の綿密で辛抱強い準備も すべて水の泡、というわけです。




私たちは、ある出来事と そこから派生する感情が 直接つながっていると思いがちです。

が 実際には、出来事と 湧き起こる感情との間に、スイッチとなる ある種のからだの感覚が挟まっていると知り、数年がかりであれこれ試してみて、このからだの感覚が、ドミノ倒しの一個目のコマのようなものだと思うようになりました。

これが 感情のスイッチをぽんと押す前に止めてしまえば、起きたことについて 感情が揺れ動くことはないわけです。

盛大に用意された 怒りや愚痴や恨み言の物語も、倒れずに終ったドミノの仕掛けのように 展開されることなく、存在しないも同然となります。




よく 「誰それが私を怒らせた」 とか 「誰それに心を傷つけられた」 などと言いますが、実のところ 怒りも痛みも 他者は関係なく、すべて自作自演のようです。

相手はたまたま うっかり刺激して 一連の回路を目覚めさせてしまっただけであり、負の物語の展開につながる一番目のドミノのコマは 自身の中にあって、倒すか倒さないかは自分次第。

自分でコントロールできるのですから、他者から傷つけられるのどうのこうのということは、実は起こっていないし、起こりえないことなのです。




さらに 観察を重ねた結果、スイッチとなるからだの感覚は、実は 初めてそれを体験したときの記憶の再現だとわかりました。

幼いころ なんらかの出来事から感じた怒りや怖れや痛みが、幼さゆえに消化し切れないまま残っていて、当時を思い出させる出来事が起こると その時のからだの感覚がよみがえり、続いて 怒りや怖れや痛みがそっくりそのまま再現されるのです。

たった今感じていると思っていた怒りや怖れや痛みは、実は遠い遠い昔のこだまに過ぎなかったわけです。

そして、あのとき受け止め切れなかったつらい思いが まだここに残っているよ、そろそろどうにかしたほうがいいよ、と知らせてくれるのです。




からだの感覚を 言葉を介さず感じることで 感情に発展させることなく収めるという話は、これまでさんざん書いてきたので、ここでは省略。

今とにかくお伝えしたいのは、否定的な感情は (準備や練習はいりそうですが) コントロール可能、ということ。

ネガティブなことが起これば ネガティブな氣持ちになるのは当然のこととずっと思い込んでいましたが、出来事と感情をつなぐ ドミノの最初の1コマを倒さずにいられれば、状況いかんに関わらず、平静で前向きな氣持ちを保つことができると知りました。

前例のないことがやたらと起こる エキサイティングでスリリングなこの時代、この最初のコマの扱いに長けることは、大きな力となるような氣がします。
























コントラスト

2016年04月25日 11時09分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


子どものころから 空が大好きです。

一日の最初に表に出たら、まず空を見上げて その日の表情を確かめるのが日課。

カメラを向けることも多く、ちょっとドラマチックな様子だったりすると、あっというまに数十枚撮ってしまっています。

スーパーの駐車場などで 上を見上げてばしゃばしゃシャッター切っていて、まわりから怪訝な顔をされることもしばしば (^^ゞ













ただ、これが 「雲ひとつない真昼の青空」 のときは 例外。

光みなぎり 冴え冴えと力強い空は お天氣的にもエネルギー的にもうれしいのだけれど、写真にすると ただの青一色、言われなければ 空だということもわからないぐらい。

はっきり言っちゃうと、単調で退屈なのです




こういう空を見ていると、私たちの源 “おおいなるひとつ” のことを 思い出します。

ただそれしかない、それ以外のものがまったく見当たらない。

完璧だけれど、自身が完璧であることを ただ知るのみで、それ以上味わうことができない。

どれほど素晴らしい存在でも、それってやっぱり退屈だろうなぁ。

自身の完璧さ素晴らしさを もっと存分に体験したくて、わざわざ自分を 不完全な細切れに分けて、本来の自分でないネガティブな要素を盛り込んで 。。。。。そんな手の込んだことをした氣持ち、わかるような氣がします (*^▽^*)ゞ

私たちは、その意向に基づいて コントラストの妙を味わうべく この世に送り込まれた、いわば “天の不完全なひとかけら” なんですね。




私たちが生きるこの世界は、コントラストの世界。

正負、明暗、高低、優劣、美醜、貧富、賢愚、さまざまな対比の両面を味わうことで 奥行きや深みが増してゆく世界。

「禍福はあざなえる縄の如し」 という言葉は、まさに コントラストに彩られた そんな世界での 私たちのありようを表しているんだなぁと 感心させられます。

そこまでわかっていてなお、快不快ということになると ついつい不快を避けてしまい、結果よけいに 不安や怒りといったしんどい感情を長引かせて 半世紀を越えることになってしまいました。

まあ、それを受け止められる自分になるまで 待たなければならなかった、ということなのでしょうが。

で 今、溜まった夏休みの宿題に ヒィヒィ取り組む8月末の子どものように、半世紀分の負のおとないを受け続ける毎日です ( ̄∇ ̄;)

時としてキツイです、消耗します、自分が何を何のためにやってるんだか わけがわからなくなったりすることも。

そんなさなか、絶妙のタイミングで 「自分の道をたどっていると ネガの嵐を潜り抜けねばならない時が訪れるが、それこそが 長きに渡って持ち続けた負のカルマ解消の時なのだ」 というような情報が ぽんぽんと飛び込んできたりして、がぜん元氣づけられ、めらめらとヤル氣が湧いてきます

魂の私 グッジョブ、ほんとうにうまく仕組んでおいたね




けさも ちょうどこれを書いている最中に ふと見に行ったおなじみのブログで、こんな情報を見つけました。

そう、切り捨てるんじゃなくて 取り込むんだよね。

それが、二極のあいだで揺れ動くのをやめ そこを越えてゆくっていうこと。

あえて二つに分けたものを 再び統合し、本来の自分に還ってゆくということ。

せっかく望んで このコントラストの世界に生まれてきた私たちが、翻弄されるのではなく この世界の妙を 十分味わい楽しむために。




一番怖れているものから目を背けず、その真っ只中に飛び込み 突き抜けて 初めて見えてくる景色があるようです。

目に映るものは いつもとまったく変わらないのに、なぜか世界が違って見えてくる、なんとも不思議な心地です。





















遊びをせむとや 生まれけむ

2016年04月22日 11時18分43秒 | 日々の楽しみ


暖かくなってきましたね~

寒暖の差が大きく、着るものでこまめに調節しないと追いつきませんが、さすがにもう冬のコートやセーターは着ないかな。

コートはわが家に帰ってからクリーニングに出すとして、セーターなどの毛糸物は 天氣のいい日に手洗いしようと ケースから出してより分け。

そうしたら出てきた 数々のわが作品。

去年あたり けっこう編み物してたんだよね。




ネイビーブルーのベレー帽



今回持ってきた中では これが一番古いかな。

コサージュは 安全ピンで取り外し自由にしたので、他の花とつけ替えることもできます♪



母の形見の深緑の毛糸で編んだ、ベレー ・ マフラー ・ アームウォーマーの三点セット



細い糸なので、三本どりで編んでます。


中でもお氣に入りは このアームウォーマー



輪に閉じるのも 左右の大きさを揃えるのも苦労した分、何度眺めてもうれしくなる出来栄え♪



もうひとつアームウォーマー、これもお氣に入りのひとつ



ずっと以前に買ったままおいてあった毛糸で編みました。

糸が太い分 こちらのほうが編みやすかったな。


そういえば、これとおそろのネックウォーマーもあるはずなんだけど。。。。

しまった、ウッドボタンをつけて完成のはずが、氣に入ったボタンが見つからなくて まだ仕上がってないんだった ( ̄∇ ̄*)ゞ

すっかり忘れてた、ボタン探しにいかなきゃ



こちらは、3~4年前に父に編んだ 耳あてつきの帽子とマフラーのセット。



冬でも自転車乗り回してるのを知って 防寒用にと編んだのに、「俺は頭はまったく寒くないんだ」 のひとことで 帽子はあっさりスルー、マフラーのほうも使ってるのかどうか・・・・だったのですが、あるとき 家の中で巻いてるのを発見。

じっと座っているときなど ほかは平氣だが 首周りだけがすーすー寒いのだそう。


それを聞いて、ならばと編んだのが このネックウォーマー



去年の誕生日のプレゼントにしたのだけれど、これ ひそかに自慢の一品なのです

とある手芸店で見つけて、さっと眺め回し 目数を数えて おおよその編み方がわかったので、編み図つきのキットではなく 毛糸だけ買って、サイズもばっちりに完成できたのですから

。。。。。って デザイナーさんごめんなさい、とっくりセーターの首部分だけのデザイン、ナイスアイデアです♪

おかげさまで、父も氣に入って 愛用しております m(__)m



おしまいに これは、30年以上前に母が編んでくれたミニマフラー



近所の手芸店で見かけた変わり糸と編み図のキットで編んでみて すっかり氣に入ったようで、私を店まで引っ張っていって、「好きな糸選びなさい、編んであげるから」 ということで 二作目か三作目ぐらいに編んでもらったと記憶しています。

色変わりでいくつも編んでは、親戚や友だちにやたらプレゼントしていたみたいだったなぁ (^^)

今も大事にしてるし、まだまだ使わせてもらうからね








けさ ふと氣づいたこと。

そもそも 私たちの源たる “おおいなるひとつ” も、あるときふと 「いいこと考えた~」 って、自分の素晴らしさをより体験的に知ることを思いついたんだよね☆

で、自分が自分であることを もっともっと楽しむために、もともとひとつの自分を 無数に細かく分け、本来の自分でない否定的要素も存在する世界を創った、それが、私たちとこの世界の始まり。

つまりはリーラ、“神々の戯れ” ってことね。




おおもとたる神々が戯れるものなら、その現し身である私たちが遊んでいけないわけはないのです (^^)v

私たちの 「あ あれやりた~い♪」 「これ面白そう!」 などのひらめきは、“原本” に忠実であることの証、さらに 対極に位置する 不安や悲しみ 怒りなどのネガティブな感情を味わいもするからなおさら、こういうインスピレーションの滋味も増すわけで。

だからもうね、苦しいことつらいことも その最中は全力で受け止めて、なおかつひらめきのままに 思いっきりこの世に生まれてきたことを楽しめばいいと思うのです。

私たちは、遊ぶために この世界に生まれてきたのです \(^o^)/




ちなみに 父が今やりたいのは、インラインスケートなんだそうな。

御年84歳、やりたいこと全部やろうと思ったらこの人 長寿ギネス記録更新してもおっつかなさそうだけど、いいさいいさ、この際200でも300でも好きなだけ長生きして、これからもバンバン遊んでください






















自己肯定

2016年04月21日 16時09分44秒 | 奈良・実家・家族


父の朝食の “三種の神器” のことは 前に書きましたが、父自ら行うこの朝食の支度には 面白い場面があります。

健康情報に従い 納豆をかなりの時間かき混ぜるわけですが、この間ただぼ~っと突っ立っているのはもったいないと、スクワットを同時に行うのです。

片手に器、片手に箸、猛然と納豆をかき混ぜつつ 腰の上げ落としを繰り返す 白髪の老年、こっけいな中にもどこか哀愁漂うこの光景、最初は笑いをこらえるのに苦労しましたが、最近はすっかり見慣れました。

これの 思いがけない効用を知ったのは、夕べの 「ためしてガッテン」 を見たときのこと。

耐えうるギリギきつめの筋トレを十回かそこらのあと 30分以内だったかな? に 糖質 (甘いものでも穀類でも) を採ると、糖がインスリンの作用で たんぱく質と結合し 筋肉増強に結びつく、とかいう話なのです。

ということは、納豆スクワットの直後に ご飯と納豆、きな粉牛乳、フルーツジャム入りヨーグルトというのは、筋トレプラス糖&たんぱく質摂取の この上ない組み合わせではありませんか

がぜん氣をよくした父、番組中の 「運動は回数や時間を多くするより 短時間でほどよい負荷をかけ効果的に」 というアドバイスに従って、けさの台所の床には どんとダンベルが置かれ、それぞれの手に3kgずつ持って スクワットをやったのだとか。

で、納豆はどこへ? ( ̄∇ ̄;)

まあいいけどね(笑)




こういう健康情報には乗りやすい父、件のダンベルも その昔ダンベル運動が流行ったときに テキストと併せて購入したもの、長らくベッドの下に転がっていましたが、こうして日の目を見たのも めでたいことなのでしょう

この方、ハンパなく重いリュックを背負って 自転車でそこそこの上り坂などもけっこう走り上がったりしていますが、どうやら本人も知らぬ間に 筋肉増強されていたようで、結構なことです。




普段は 流行に敏感な若者に 近頃の若いもんは・・・・と眉をしかめる父が、健康情報となると ミーハーに飛びつくさまは、見ていてかなり笑えますが、私の (私の場合は 健康よりも 食べ物作りか内的探究ですが) なんかよさそう、面白そうと思うと 手を出さずにいられない性分は、どうやらこの人譲りらしい。

母が存命中は、父との関わりはほとんどなかったのですが、今になって 「へぇ、身近にこんな面白い人がいたのか」 と氣づくというのも、あらかじめ魂レベルで取り決めた約束事だったのかもしれません。

傍目にどう見えようと、自分の 「好き」 を優先し、いつも前を向いて そのときそのときのお楽しみに貪欲でいる、そんなお手本が目の前にいるというのは、なかなかエキサイティングで面白いものです。

互いの好みがぶつかると 不協和音が生じることも ままありますが、思いどおりに生きてよし という肯定形を目の当たりにする暮らしというのは、母との間に生まれた否定的なセルフイメージを書き換えるために 前もって仕組まれていた ありがたい流れなのかもしれません。

父の氣まぐれや唐突さを受け入れられるようになってきた心境の変化に、自身のセルフイメージの回復を見てとるきょうこのごろです

























見えない ・ 掴めないからこそ 確かなこと

2016年04月20日 21時32分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは、五官を通して物や情報をやりとりすることに慣れています。

だから どうしても、五感でキャッチできるものほど確かなように思えてしまいます。

五感の中でも 特に視覚には重点的にウェイトが置かれていて、「見える」 ことが 信頼の基準になりがちです。

しかし、「見える」 世界に 想定外の異変が頻発する今、その基準は ほんとうに信頼するに足るのでしょうか。




この世のすべてのものは 絶えず変化しています。

昼夜、四季、天体、水、空氣、そして生物、すべてが巡ることで成り立っている私たちの世界では、分け出されたものは 徐々に様子を変え、形を失っては また得ることを繰り返しています。

そしてそれは、人の心も同じこと。

晴れては曇り、ときに大荒れ、ひとところに留まってなどいられるものではありません。

そんなうつろいやすいもので形作られている五感の世界に、これさえ頼れば大丈夫 なんて確固たるものが 存在するはずもありません。




一方で、形がないからこそ 触れも壊せもしないのが、五感を超えた世界。

時間も空間も及ばないこの世界こそ、私たちのふるさとであり、すべての叡智の源。

この世界から得たひらめきや智恵は、失うことも盗まれることもない資産であり、決して間違うことのない指針です。

つねにゼロに戻り ゼロから分け出されるから、外の世界の変遷にもしなやかに対応し、いくら汲んでも尽きることがありません。




見て 聞いて 触れて がっちり掴めるものこそ確かなもの、という認識を ちょっと見直して、自身の心の奥底を見つめてみれば、これから何を頼みにしてゆけばいいのか きっとわかるはず。

熊本の地震が教えてくれているように、道路も山も建物も 百年単位で永らえてきたお城さえ 崩れるときは崩れてしまうけれど、いのちそのものは 形は変わっても すっかり失われてしまうことはありません。

倒れた木は、朽ちて 微生物の栄養となり、やがて土に還って、そこから新しい苗木が育ちます。

人も、死んで肉体は朽ちても 意識は彼岸に行っても保たれると、多くの臨死体験者が証言してくれています。

そして、望めば 新しい姿形を得て、し残したことに再び取り組むのだと言われています。




ほんとうの自分から離れて (忘れて) また戻る (思い出す) 、寄せては返す波のように これもまた巡り。

「かえり」 の道は、「行き」 で手にしたものを ひとつひとつ手放してゆく道でもありますが、それが自分にとっての最善と知るカギは、それぞれの心の中にあります。
























「ある」

2016年04月19日 14時14分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


少し前の記事で “スピリチュアル” なる領域は、五感の世界に生まれてきた私たちの 「ちっぽけなかけらの自分と “おおきなひとつ” の領域をつなぐ 見えない根っこ」 だと思うようになったと書きました。

“スピリチュアル” について語るとなると、どうしても 神とか光とか魂とか 神々しく美しい言葉が並びます。

が、私たちは それをただ美しいと知るだけでなく、より深く体感したいがために、わざわざ肉体などという使い勝手の悪いものをまとい、五感などという限定されたアイテムを携えて この世に生まれてきたのです。

ただただ美しい言葉ばかりを眺めているしかないのでは、世にも美味しそうなご馳走を前に おあずけを食わされたままでいるようなものではありませんか (T_T)

そう

スピリチュアルなどの言葉が指し示す世界は たしかに五感では掴み切れないけれど、望んでこんな不便な世界にやってきた私たちは、それを五感を通して味わえるところまで引き寄せてナンボなのです




五感を超えて感じる力を研ぎ澄ませて 見えない世界をキャッチし、その歓びを 五感の世界で形にする。

毎日なんだかいい氣分で、外が晴れだろうが雨だろうが嵐だろうが 身の内はほっこり灯がともったようにあたたかく 春風が吹き渡るように軽やかで、そんな自分を、アートでも 家事でも スポーツでも 仕事でも ちょっとした笑顔や優しい言葉でも なんでもぴったりくるもので表現する。

そのためには、スピリチュアルの名のもとに 神々しくも心もとなげに 宙に浮かび漂うかのような その概念と、生々しい実感を伴う日々の暮らしとの隔たりを、自力で埋めていかなければなりません。

その肝がどうも 「言葉を使わず見つめる ・ 感じる」 というところにあるように思うのです。




魂レベルの私たちは 愛や幸せや豊かさそのものなのに、それが肉体レベルになったとたん ストレートに感じ取れなくなるのは、両者をつなぐ 「思い」 というところに、なにか誤情報が挟まっているからではないか、というのが、与えられた手がかりをもとに 貴秋の立てた仮説でした。

「思い」 というのも、私たちの中にありながら、肉体を通して言葉や行動という形に変換しないと 五感では掴めないもの。

で、そこからさらにおおもとをたどって 感覚フォーカスにいきついたくだりは、他の記事に繰り返し書いているので ここでは省略しますが、この 「言葉を使わず見つめる ・ 感じる」 というところを もうちょっと詳しく言えば、言語のみならず 映像でも音でも 五感で掴めるイメージをいっさい使わずに、ということ。

連想が次々と走って 否定的なストーリーが膨らみ 肝心のおおもとから遠ざかるのを避けるために、ここは外せないポイントです。

五感を通さず感じる というのは、日ごろあまり意識しないことで 不慣れに思うかもしれませんが、決して特殊な能力ではなく 誰にでもある感覚です。

例えば、指先の存在を感じるのは なにかに触れたときか 痛みなどの異変が起こったときですが、それ以外のときは 指先が存在しないというわけではありませんよね。

指先に意識を集中すれば、それがそこに 「ある」 と 感じ取ることができます。

指先ばかりでなくからだ全体に、ただ 「ある」 というだけ、でも 自分という存在が たしかに 「ある」 と思える感覚、それが 魂と呼ばれるもののありように 限りなく近いのではないかという氣がします。




怒りなどの激しい感情を誘うからだの感覚は、派手でわかりやすいですが、フォーカスすると やがては消えていきます。

そして その後に残るもの、いくら意識を集中し続けても 決して消えない 「ある」 という感じ、それが私たちの本質なのかもしれません。

後付けのどんな情報にも惑わされることなく、ただあるがままの自分を 純粋に感じて、この世に生まれた喜びや幸せが 静かにひたひたと満ち溢れてくる、そんな人が増えるにつれて、スピリチュアルという言葉も概念も この五感の世界にしっかり根を下ろし、その美しさが 広く実現するのかもしれません。























新緑

2016年04月19日 11時59分49秒 | 自然


きょうの空






またまた晴れ、雲ひとつなし




17日のブログに 「そよそよと吹き過ぎる風」 などと書いたら、その直後から強風に (笑)

チューリップ1輪の花びらが飛んでしまいました (T_T)


4日前





きょう




うん、また来年会おうね。

残る1輪を愛でましょう。




こちら アイリス も花盛り




ん、あれ?

なにげに混じってるキミはだれ?




南天の陰になっちゃった子は 特別にアップで☆






レンギョウの新芽。。。。ぞっくり♪




こちら沈丁花、艶やかな淡緑





イチイの新芽




紫陽花の若葉






このちっちゃな庭も 新緑の季節に突入です \(^o^)/




空が青々澄み渡って、お日さまがぽかぽかあたたかくって、ちょっと冷たい風が勢いよく吹き過ぎて、鮮やかな新緑がまぶしくて、さらにその奥には 見えないけれど 活き活き陽氣な春の氣配がみなぎっています。

私たちの心を さわやかに 軽やかにと誘うように。


そんな春の氣に共振して 感じて ほっこり満ち足りていようと思います (*^^*)


























取り急ぎしたためます

2016年04月18日 19時04分36秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


たったいま読んだ このブログ記事




ミスリードしたがっている存在というのがほんとうにいるのか、いるとしたら誰なのか、はわからないし、確かめようもありません。

そこにはあまり重きはおきませんが、ただ 故意か無自覚かはともかく 今の地震報道を見ていると、ここに書かれているような現象が起きやすくなっていると感じます。




私たちは、言葉の及ばない世界については ほとんど何も教えられず、マインドでの反応ばかりを刷り込まれてきました。

感じるまま素直に振舞うことは認められず、社会規範に照らして 広く世間から認められるような言動をとることを 幼いころから要求されてきました。

そうして習い性になった反応は、ほんとうの自分が望むものではないゆえに どこかしっくりこず 落ち着き悪く感じられます。

あまりにも慣れてしまっていて なかなか氣づけませんが、内面を観察する習慣がつけば 感じとれるようになってくるはずです。




災害のニュースに不安を募らせる、それも自然なことと思われるかもしれませんが、私は 怖れや不安は マインド ・ 表層意識の反応だということを、からだの感覚をとことん観察して知りました。

だから、見つめ続ければ やがて消えてゆきます。

持ち続けなければならないものではないのです。

でも、消える間を与えず、おおぜいのそれが集まって 強大なパワーを持てば、それこそが 第二第三の被災地 (もしくはそれに匹敵するようなネガティブな出来事) を生むと感じます。

私たちの世界は、私たちの意識が創っている。

今ほど こう大声で呼びかけたいと思ったことはありません。




内面をよく見つめ、いったんゼロに戻すことで、私たちは 自由な選択ができます。

突き動かされるまま 怖れたり悲しんだりするのが 自分の一番の望みだろうか、自身の選ぶ言動が どのような結果に結びつくだろうか、と冷静に見極めるゆとりが生まれます。

私たちの心に暖かい灯がともり続けてこそ、つらい思いをしている人に 手を差し伸べることができるのではないでしょうか。




すでに終ったことに 過剰に反応する必要はありません。

未来への不安は 単なる想像に過ぎません。

落ち着いて 柔らかくしなやかな心を保っていれば、悲観的な空氣に目を曇らされることなく 必要な情報をキャッチして、フットワーク軽く行動に移せます。

被災された方々の心の痛みに寄り添い、起きてしまったことに対処する 一番いい方法を思いつき 実現できます。

無事だった私たちまでが 心情的に巻き込まれてパワーダウンしてしまわず、準備万端整えてスタンバイしていることが、被災された方々のこれからに 何よりの支えになるのではないでしょうか。