「本音と建前」 などとよく言いますが、この 「建前」 が子どもの発言や文章に見てとれると、黒板を爪でギギギと引っかく音を耳にしたときのように歯が浮き背がきしんで 「ぎぇぇぇぇぇぇ」 と叫び出したくなります。
相手が誰でもそうだけれど、とりわけ子どもがほんとうの氣持ちとつながっていない空っぽの言葉を使っているのを見聞きすると いたたまれなくなります。
子どもの場合特に 言わされている感がありありと見てとれるからかもしれません。
そして何よりも そんな言葉ばかり並べ立てていたころの自分をいやおうなしに思い出すからでしょう。
幼時から心を閉ざし いい子でいることに居場所を見つけた貴秋は、建前が服を着て歩いているような子どもでした。
そんな貴秋が小学3年生になったときの担任の女の先生が、作文教育のエキスパートだったのです。
のっけから詩を書いてきなさいとの宿題に貴秋が用意したのは かの少年少女世界文学全集のおかげで 詩とはだいたいこんなものと思い込んだ形式にのっとりそれらしく仕上げた 「こんな感じなら○をもらえるかな」 との魂胆が透けて見えるようなシロモノで、それこそいま思い出すだけでも 「ぎぇぇぇぇぇぇ」 なのですが。
翌日の授業の冒頭 よく書けた詩の発表があって、そこで読まれたのは、
「先生、きのういきなり 『詩を書いてきなさい』 って言われたけど、わたし 『詩』 ってどんなものか知らんし、なにを書いたらいいんかようわからへんかったんよ」
と 大阪の子らしく普段の話口調そのままに 自分の氣持ちを素直に書き表した二、三点で、聞いていた貴秋には目からうろこでした。
詩ってこんなものなんだ。
こんなふうに思ったことをなんでもそのまましゃべるように書いていいんだ。
ガチガチに上塗りされて分厚く凝り固まった貴秋の建前に 風穴が開いた瞬間でした。
数年前 母から保存していた小学生時代のノート類を手渡された中に 3年生当時の作文や詩のノートもあって、あの一年間自分がどれほど縮こまっていた心をのびのび引っ張り出して 子どもらしい感性の世界を謳歌していたかがありありと読み取れます。
あの初日の箸にも棒にもかからないようなコチコチの詩はどこへやら、関西弁炸裂で思いのたけを存分にぶちまけた輝かしい毎日、みんなの前で作文を読み上げたり 詩をミニ黒板に書きつけて一日掲示してもらったりと 晴れがましく生き生きした学校生活、いま思い出すだけで懐かしさに涙が出そうになります。
白黒の記憶の中で その一年だけがフルカラーのような、宝物の記憶。
残念ながら 一年後その先生は他校に移動されてそれっきり、再び灰色の日々に逆戻りとなってしまったのですが、あのとき播かれた種は 心の底で じっと芽吹きの時を待っていたようです。
言葉とは 文章とは 感じるままを表すときもっとも力を持つのだということを、長年降り積もった心の垢をこそげ落としてゆく中で思い出すことができたのですから。
あの一年がなかったら、いまこうしてブログを書くことも おそらくなかったでしょう。
言葉とは、地図のようなものだと思います。
現地をよく知り 鮮明に思い浮かべられて初めて、正確な地図が描ける。
地図も言葉も 現地の情報のほんの一部を表すに過ぎませんが、見たままの地図 ・ 感じたままの言葉には、触れた者を現地へ連れて行く力があります。
そんな力を持つ言葉を使いたい、そしてなにより あの3年生のころのみずみずしい心と自分の言葉をずっとずっと忘れずにいたい。。。。腹の底から湧き上がる切実な願いです。