毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

感じる心と自分の言葉

2018年08月30日 10時48分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「本音と建前」 などとよく言いますが、この 「建前」 が子どもの発言や文章に見てとれると、黒板を爪でギギギと引っかく音を耳にしたときのように歯が浮き背がきしんで 「ぎぇぇぇぇぇぇ」 と叫び出したくなります。

相手が誰でもそうだけれど、とりわけ子どもがほんとうの氣持ちとつながっていない空っぽの言葉を使っているのを見聞きすると いたたまれなくなります。

子どもの場合特に 言わされている感がありありと見てとれるからかもしれません。

そして何よりも そんな言葉ばかり並べ立てていたころの自分をいやおうなしに思い出すからでしょう。




幼時から心を閉ざし いい子でいることに居場所を見つけた貴秋は、建前が服を着て歩いているような子どもでした。

そんな貴秋が小学3年生になったときの担任の女の先生が、作文教育のエキスパートだったのです。

のっけから詩を書いてきなさいとの宿題に貴秋が用意したのは かの少年少女世界文学全集のおかげで 詩とはだいたいこんなものと思い込んだ形式にのっとりそれらしく仕上げた 「こんな感じなら○をもらえるかな」 との魂胆が透けて見えるようなシロモノで、それこそいま思い出すだけでも 「ぎぇぇぇぇぇぇ」 なのですが。

翌日の授業の冒頭 よく書けた詩の発表があって、そこで読まれたのは、

「先生、きのういきなり 『詩を書いてきなさい』 って言われたけど、わたし 『詩』 ってどんなものか知らんし、なにを書いたらいいんかようわからへんかったんよ」

と 大阪の子らしく普段の話口調そのままに 自分の氣持ちを素直に書き表した二、三点で、聞いていた貴秋には目からうろこでした。

詩ってこんなものなんだ。

こんなふうに思ったことをなんでもそのまましゃべるように書いていいんだ。

ガチガチに上塗りされて分厚く凝り固まった貴秋の建前に 風穴が開いた瞬間でした。




数年前 母から保存していた小学生時代のノート類を手渡された中に 3年生当時の作文や詩のノートもあって、あの一年間自分がどれほど縮こまっていた心をのびのび引っ張り出して 子どもらしい感性の世界を謳歌していたかがありありと読み取れます。

あの初日の箸にも棒にもかからないようなコチコチの詩はどこへやら、関西弁炸裂で思いのたけを存分にぶちまけた輝かしい毎日、みんなの前で作文を読み上げたり 詩をミニ黒板に書きつけて一日掲示してもらったりと 晴れがましく生き生きした学校生活、いま思い出すだけで懐かしさに涙が出そうになります。

白黒の記憶の中で その一年だけがフルカラーのような、宝物の記憶。

残念ながら 一年後その先生は他校に移動されてそれっきり、再び灰色の日々に逆戻りとなってしまったのですが、あのとき播かれた種は 心の底で じっと芽吹きの時を待っていたようです。

言葉とは 文章とは 感じるままを表すときもっとも力を持つのだということを、長年降り積もった心の垢をこそげ落としてゆく中で思い出すことができたのですから。

あの一年がなかったら、いまこうしてブログを書くことも おそらくなかったでしょう。




言葉とは、地図のようなものだと思います。

現地をよく知り 鮮明に思い浮かべられて初めて、正確な地図が描ける。

地図も言葉も 現地の情報のほんの一部を表すに過ぎませんが、見たままの地図 ・ 感じたままの言葉には、触れた者を現地へ連れて行く力があります。

そんな力を持つ言葉を使いたい、そしてなにより あの3年生のころのみずみずしい心と自分の言葉をずっとずっと忘れずにいたい。。。。腹の底から湧き上がる切実な願いです。


















内観とは 地図を確かめること

2018年08月29日 11時41分29秒 | ふと思うこと


目的地を目指して進んでいて、「あれ?なんかおかしいぞ」 となることがあります。

山の頂上に向かっているはずなのに ひたすら下っているとか、オフィス街に行くつもりが 下町っぽい景色ばかりえんえんと続くとか。

そういうときまずすることといえば、地図を見ること。

道を間違えたのなら どこで間違えたのか、どう行けば正しい目的地に着けるのかを確かめ、再び歩き出す。




最近スピリチュアルと呼ばれる分野で、内観を勧める声が これまで以上に高まっている氣がします。

自身の内をよく見て、不要となったものを手放すようにと。

3日前の26日は満月でしたが、満月は手放しの時期ということで ことさらこの類のメッセージが目につきました。

この内観とは、まずは内なる地図の確認のこと。

もし何かが望むように運んでいないと感じるなら、思い描く目的地と照らし合わせて 自分が今どこへ向かおうとしているのか、ほんとうに行きたいのはどっちなのかを確かめる。

それ抜きでやみくもにジタバタしても疲れるだけ、ヘタをすればもっと深く迷い込んで遭難の危機に陥ります。

道を間違えたと氣づいた時点で その場にへたり込み、腹を立てたり 不運を呪ったり 誰のせいでこうなったと犯人探しを始めたり、まあ選択肢としてそういうのもありですが、それをいくらしたところで 正しい道に戻れるわけでもありません。

間違いに氣づいて すみやかに修正する、それがもっともエネルギーロスが少なく確実な方法。




「内観」 というと 大仰に聞こえるかもしれませんが、地図を確かめるのと同じと思えば 身近に感じるのではないでしょうか?

そのときは、目的地がほんとうにそこでいいのかの確認と、目的に適い信頼できる地図を手にしているかどうかの確認もお忘れなく。


















「聴く」 ということ

2018年08月27日 13時21分12秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「聴く」 ということが、以前から氣にかかっていました。
  
        過去記事から     「聞こえない音を聞く」      「聴く力」      「続 ・ 聴く力」

先日の芭蕉のセミの句で、聴いているのはセミの声そのものよりも まわりの静寂のほうかもしれないと思ったとき、この 「聞こえない音を聞く」 話が思い出されました。

「動物はすべてを知っている」 のJ ・ アレン ・ ブーン氏も 「未知の贈り物」 の老漁師パク ・ ハルーンも ミヒャエル ・ エンデの「モモ」 で鳴かなくなったカナリヤの声を待ち受けるモモも、沈黙に耳を傾けることを知っている人たちだった。




最近 臨床心理学者 ・ 河合隼雄さんの本をたて続けに読みましたが、河合さんもまた カウンセリングの現場でクライアントさんの抱えるものを「沈黙のうちに聴く」 ことの大切さを説いておられます。

クライアントさんの話を 意識をぴたりと合わせたままじっと聴き続け、それについての自身の判断解釈を語って聞かせるようなことはいっさいしない。

ただ相手の話に耳を傾け、箱庭療法などのときは 相手と同じ目線の高さから その言動を静かに見守る、それだけで思いがけない効果が現れることがしばしばあるのだ、と。

ときには1時間も2時間もものを言わないクライアントさんのかたわらで 意識をそらすこともこちらから話しかけることもなく、じっと沈黙を保ったまま ただいっしょにいる、それだけで信頼関係が築けることもあるようです。




そんなさまざまなエピソードを何冊にも渡って読むうちに、ふと 「感覚フォーカスって、まさにそういうことをしていたんじゃない?」 と氣がつきました。

自分の不安や怒りや痛みを、否定するでもなだめるでもなく 言葉を切り離し 感覚としてただ感じ続ける。

それだけで、おのずと向こうから和らぎ 消えていくのです。

河合さんの心理療法もまた、クライアントさんと意識を共有するなかで そういうことが起こっていたのかもしれません。

沈黙を保つとは、油断すればすぐ空回っておしゃべりが止まらなくなるマインドを 言葉の及ばないゼロの領域にぴたりと留めおくこと。

真我がマインドにつねに氣づいてそのありようを映し出し続けるように、マインドのほうでもそのような真我の存在に氣づいて 両者がメビウスの輪状にひとつになっている、そんなときに豊かな沈黙が成り立つのだと思います。

マインドがそわそわしたり荒れ狂ったりしているときにこうなるのはまずムリだから、最初に耳を傾けるべきは自分自身の心なんですね。




いま、言いたいことがたくさんあるのに聞いてもらえなくて 自信をなくしたり怒りを溜め込んだりする人がおおぜいいるような氣がします。

まずは自分の中から、そして身近な人へ、周囲のさまざまないのちへと 次第に聴こえる場が広がっていく、そんな人が増えるだけで 私たちのこの世界も大きく変わるのかもしれません。















  

別々でもありひとつでもある意識の不思議

2018年08月26日 16時20分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋が初めて意識の共有というものを体験したのは、あるワークショップでのこと。

集まったメンバーが家族問題や内的葛藤などを互いに演じ合いながら 事の根源に迫る 「ロールプレイング」 が中心だったのですが、そこでのワークは、問題を客観的に見つめたい参加者が 講師の指示に従い メンバーの中から演じ手を選んで立ち位置を決め、あとは自由に動いてもらうというもの。

貴秋が初めて演じたのは 離婚した元夫へのわだかまりに悩む女性の 「本来のその人」 役でしたが、いきなり 「好きなように動いてください」 と言われても きょう会ったばかりの人の 「本来」 などわかるはずもなく、さしあたってはただ立ち尽くすのみだったのですが。

そこでなぜか笑いがこみ上げてきたのです。

悩みを抱え暗い顔の相談者さん、困惑する自分、笑いの入り込む余地などおよそないはずなのに、いったいどこからそんな衝動が。。。。

この深刻な状況で笑うなんて不謹慎に思え とりあえず手で顔を覆ってごまかそうとしましたが、笑いたい欲求は増すばかり、ついに爆発したようにげらげら笑い出し、やがてもう一人の演者である 「その人のネガティブな感情」 役の女性の肩をバンバン叩きながらなおも笑い転げる始末。

そんな様子を硬い表情で眺めていたネガ役さんも しまいにはつられていっしょに笑い出し、「ネガな感情」 と 「本来のその人」 が肩を組み ご当人と向き合って大笑いするさまに、相談者さんは何らかのメッセージを感じ取られたようでした。

その後も何度か参加したこのワークショップで いろいろな役を演じましたが、そのたびに不思議でならなかったのは、会ったこともない人の氣持ちだの相談者さんの精神状態だのが なぜか役に入るとすっと感じ取れること。

自分の心の内と同じようにごく自然に感じるのですが、貴秋本人の意識はまた別にちゃんとあって、そんな状況に違和感も氣味悪さもないのです。

このときの様子を書いた過去記事がいくつかありますので、ご参考までに。

        「ネガが教えてくれたこと」     「2/10縄文ワークのご報告をさせていただきます」     「仲良くね(^^)」




あのとき かつて一度もなかった 「他者の意識がわかる」 という不思議体験を可能にしてくれたのは 講師さんの才能や力あってのこととしか思えませんが、貴秋にとって あの体験の何よりの意味は、そういう状態 ・ 境地がほんとうにあるんだということを 身をもって知ったということ。

その否定しようのない事実がいまにつながり、いっそう大きな意味をもつようになっています。




少し前の記事で 庭仕事をしながらどうやら植物と意識を共有して 植物のしてほしいことを感じ取ったらしいという話を書きましたが、あの後 意識の共有というのは こちらが氣づかないだけで 実はしょっちゅう起きているのではないかという氣がしてきました。

イライラしている人のそばにいるとこちらもイライラしてきたり うわべは愛想いい人の本心がふと垣間見えたりするのは、これまで氣分が移ったとか伝わったとか解釈していたけれど、実は意識がひとつになっていることの表れなのかもしれない。




私たち人間のありようは、よく手の形に例えられます。

指一本一本は別々に分かれているけれど、手のひらでひとつにつながってもいる。

普段は指である個々の自分しか意識していないけれど、そのときも手のひらはひとつであることに変わりはない。

個である自分がどうあろうと 意識の共有はつねに起こっていて、あとはそれに氣づくかどうかだけ。

そう見ると、あのワークで講師さんが導き出したのは 意識をつなげることではなく もとから意識はひとつなんだと氣づかせることだったんだなぁとうなずけます。




これまでさんざんワンネスの境地にたどりつこうたどりつこうとがんばってきたけれど、実はこれまでワンネスでなかったことなどただの一度もなく、私たちを個別のマインドに分ける 「考える」 を 「感じる」 に切り替えるだけで、つねにワンネスである自分をあっさり思い出すことができる、そんなふうに見方を変えると、悟りだのなんだのと難しいことを成し遂げねばと思い込んでいた力みがすっと抜けてゆくようです。

言葉が止まらない ・ ひとつである自分を感じられないとウンウン悩んでいるあいだずっと 周囲の動植物たちは同じその意識を感じながら、「あの人間また重たい波動出してる」 「今だってひとつなのにね」 なぁんて思っていたかも。。。。などと想像すると、さんざん探し回った幸福が実はすぐ目の前にあったというあの 「青い鳥」 の話を思い出します。


















映画 「アンブレイカブル」 より ~ 「この世界のどこかに 対極の要素が必ず存在する」 という信念

2018年08月25日 12時52分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、M ・ ナイト ・ シャマラン監督の 「アンプレイカブル」 という映画を見たことがあります。

あらすじをお知りになりたい方は こちら (ネタバレあり) をどうぞ。

この先の文章でも作品内容に触れていますので、きょうもまたご注意くださいね。













*         *         *         *         *













「アンブレイカブル」 の筋をひとことでいえば、先天性の難病で非常にもろいからだの持ち主 イライジャ ・ プライス (サミュエル ・ L ・ ジャクソン) が、そんな自分と対極の超人的肉体の持ち主がこの世に必ず存在するはずとの信念から 列車事故でただひとりの生存者 (しかもほとんど無傷) となったデイヴィッド ・ ダン (ブルース ・ ウィリス) を見つけ、そのヒーロー的潜在能力の開花に力を貸すというお話。

主人公はデイヴィッドのほうなのに イライジャ目線のあらすじになっていますが、このイライジャの信念というのがこの話の肝なのです。

信念と単なる情報の違いは それをもとに実際に行動を起こせるかどうかだと思うのですが、イライジャは狂氣といいたいほどの執念と度を越した手段でデイヴィッドを探し当て、背中を押して現し身のヒーローを誕生させたのですから、その信念も筋金入りといえるでしょう。

「この世界のどこかに 対極の要素が必ず存在する」 、イライジャにとって それは憶測ではなく真実だったのですね。




まあ映画のことだし イライジャの狂氣じみた信念はともかく、二極性がこの物質世界の根源的理 (ことわり)だということは 貴秋も事実と思っています。

そういう目でテレビや新聞のニュースを見ると、ずいぶんとネガに傾いている印象を受けるのですが、日本のマスコミには悲観的な方が多いのか、それとも実際に世界の様相がかくも悲観的なのか。

しかも、生態系の異変や少数民族への迫害など もっとも真剣に考えなければいけないことほど取り上げられないという奇妙な現象も。

こんな世情にうんざりしたり文句をつけたりしたくもなりますが、一方で そういう大手マスコミだけでは日の目を見ないような情報をネットなどで流して下さる方がおおぜいおられるのも また事実。

イライジャの信念は こんなところにも実際生きているのですね。

そして私たちは、あってはならないものを糾弾するのも手段のひとつですが、ネガに対するポジの要素を増やすことで 未来に希望をつなぐこともできます。

否定的な要素があれば どこかに必ずその対極の要素も存在するのですから、そういう活動をしている人を見つけ出して広く紹介する、活動メンバーや支援者を増やす、資金面から支える、など それぞれにできることがきっとあるはず。




そしてなにより 私たちひとりひとりが自身の内のネガに勝ちを譲らないこと、これは老若男女誰にでもできるもっとも身近な手立てであり、自分も世界も大切にすることに確実につながる行動だと思うのです。





















溶かす 愛

2018年08月23日 15時27分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


白状しますと貴秋、実は 「愛」 という言葉が苦手です。

ブログ内でさんざん使っておきながらなんですが、「愛」 と 「感謝」 、この二つには どうしても苦手意識がついてまわります。

そもそもの使い始めに刷り込まれた 本来とはかけ離れたイメージが、いまだに拭い切れないからです。

「愛」 にはいかがわしさが、「感謝」 には恩着せがましさがまとわりつき、そのたびに 「いやいやもうそれとは違う愛や感謝を体験しているはずだ」 と新しい記憶を引っ張り出してクリアしていますが、これらの言葉を目にした瞬間まず浮かぶのは いまだに旧イメージのほう。

なので 事あるごとにイメージの書き換えを図っていますが、最近 「愛」 の強力な援軍として登場したのが、かの 「0 (ゼロ) 」 です。

0を掛ければどんな長ったらしい数字もややこしい計算もたちどころに0になると前に書きましたが、愛にもそんな性質があることに ふと思い当たったからです。




以前どれかの記事に書いた覚えがありますが、ひどく機嫌の悪かった貴秋が表に出て、たまたま顔を合わせた電氣工事かなにかのおじさんの笑顔に 一瞬でネガ感情を溶かされて ころりと明るくなったことがあります。

ささやかながらも印象深い出来事で 十数年経ったいまも記憶に残っていますが、最近これと似たようなことがあちこちで起こっている、ときには自分からも起こしていると氣づくことが多くなりました。

狭い通路で道を譲ったり譲られたり、なにかの順番待ちで前の人から 「お先に」 とにっこり声をかけてもらったり、自分が出たあとのドアを次の人にと押さえたままでいて感謝されたり、停車中の電車で向かいの車両の子どもと目が合って思わず手を振り合ったり。

が、同じような場面でも ほわっと心が溶けるときとそうでないときがあり、なにが違うのか氣になっていましたが、だんだんわかってきたのは、その言葉や動作や笑顔が開いた心から出ているかどうかがカギだということ。

機械的なせりふやつくり笑顔でも 親切にしよう感じよくしようという意図は伝わりますが、相手の心を溶かすほどの力は こちらの心が開き 愛が直接触れることで初めて働くんですね。

そしてそういうときは、しようしようとしなくても おのずとそういうことが起こってくるようです。

ふと浮かぶ笑顔、ふと口をついて出る言葉、ふとしたなにげない動作、そういうものが作為なくすっと起こるとき、起こした側にも受け取る側にも ふわっと喜びが湧いて 心が軽くなる。

そういうやり取りには自然な流れがあり、あとになんの違和感も負担も残さないので それとわかります。

こちらが受け手だと あのおじさんのときのようにとげとげしい心もふぅわり丸くなるし、逆の場合だと相手の表情がほぐれたり和らいだりする感じで 「あ、いま “あれ” が起こったな♪」 とうれしくなります。




0を掛ければ どんな数も計算も0になる。

愛に触れれば どんなしこりもわだかまりも溶かされる。

こうして 「愛とは重かったりくどかったりべた甘かったりと こちらの心にまとわりつき なにかを残してゆくもの」 というイメージが、「愛とはさわやかな風のように 心の曇りをさっと吹き払い拭い去るもの」 と次第に変わりつつあります。

捉えどころのない“ないものがある” の領域に どんどん惹き込まれていくのを感じます。



















時間を遡れなくても人生はやり直せる ~ 映画 「シャッフル」

2018年08月22日 12時13分27秒 | 大好きな本・映画・ほか

動画サイトGyaO!で 「シャッフル」 という映画を見ました。

この先映画の内容に触れますので、「ネタバレ注意」 とさせていただきますね。














*         *         *         *         *















夫ジムと娘二人の家族4人で暮らすリンダは、ある日突然出張中のジムが交通事故で死んだことを告げられます。

が 翌朝起きると、キッチンでいつものように朝食を摂るジムの姿が。

混乱しながらも受け入れたリンダですが、そのまた翌朝目覚めて階下へ行くと、居間には黒服を着た人がずらり。

ジムの葬儀の日だったのです。

いったいなにが起きているのか。

4日目、リンダは 曜日がいつものように月、火、水、と順でなく、木 → 月 → 土・・・・・とシャッフルされていることに氣づきます。




これを初めて見たとき、細田守監督のアニメ 「時をかける少女」 を思い出しました。

あちらはシャッフルではなくタイムリープでしたが、いつもと違う時の流れの中で行きつ戻りつしながら 迷って悩んで やがて自分なりの答を見つけ出すところに 共通のものを感じました。

どちらも ジムが亡くなる、真琴と千昭が (おそらく二度と) 逢えなくなるという結末に変わりはありませんが、二人のヒロインは そこまでの道のりを行ったり来たりしながら 自分なりに事態に精一杯取り組み、普通の時間の並びのままだったら氣づけなかったであろうことに氣づいて、哀しみを超え 穏やかな自信を取り戻し、新たな道を歩み出します。




「シャッフル」 のリンダは、組み替えられた曜日に翻弄されながらも、夫の死という定点を いやおうなしに生前と死後の両方の視点で眺めることになり、当たり前になり過ぎて受け流していた事実に直面します。

幸せに満ち 希望に溢れてスタートを切ったはずの結婚生活なのに、いつのまにか離れ離れになった心、単調に繰り返される味氣ない暮らし、こんなはずじゃなかった、なぜこんなことに。

どうすればいいのかわからぬまま迎えた残る曜日のさいごのひとコマ ・ 事故3日前の日曜、信仰に救いを求めたリンダに 神父は穏やかな口調で説き聞かせます。


       “信仰をなくした者は カラの器と同じだ。自分より強大な力に支配されやすい。

        信仰とは 自分を超えた何かを信じることだ。触れることも嗅ぐこともできないもの、希望や愛のようなものを。”


       “遅すぎはしない、何が大事か、何のために戦うか氣づくのに”


日曜の晩、リンダはいつのまにか取り巻かれてしまった諦めと倦怠の幕を破り、ジムに率直に寂しさや空しさを訴えます。

この新たな行動をもってしても ジムを死の手から救い出すことはできませんでしたが、残されたリンダの人生は大きく変わることになりました。




現実の私たちの人生で 時間の流れが前後することはまずないでしょうが、それでもリンダのように 人生をよりよいものにする手立てはあります。

惰性に流されず、毎日を 自分自身を つねに新鮮な目で見つめなおすこと。

惰性は、空回りするマインドに身を任せて ほんとうの自分の氣持ちを省みなくなるところから生まれます。

あの 「シャッフル」 の神父さんの言葉、“毎日生きていることが奇跡だ” 、そんな心で日々を迎えられたら。

指針となってくれるのは、自身の感情。

不安、怒り、退屈、空しさ、そんなできれば背を向けていたい感情と敢えて向き合い 味わい切ることで、単調に過ぎたかもしれない流れに風穴が開きます。

湧き上がる負の感情は、「このまま進みますか?それとも道を変えますか?」 という問いかけのようなもの。

まずは問われていると氣づくことが、変化のきっかけをつくります。




「シャッフル」 と 「時をかける少女」 、どちらも一方通行のはずの時の流れを乱してみせることで、SF設定とは縁のないはずの私たちも いったん通り過ぎた出来事をやり直すことはできなくても 意識を変えるチャンスはそこここに置かれているのだということを伝えてくれているのかもしれません。




















忖度する力

2018年08月20日 11時19分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


忖度。

辞書には 「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること」 とあります。

昨年の流行語大賞にもなったこの言葉、流行のきっかけがきっかけで いまはあまりいいイメージで使われないことが多いようですが、考えれば 「人の心をおしはかる」 ってすごいことですよね。

相手が言葉で表明していない奥や裏までを感じ取る力があって初めてできることですから。




感覚フォーカス&ホ ・ オポノポノ効果で、最近五感を越えた領域がどんどん存在感を増してきている氣がします。

物質を構成する分子 ・ 原子 ・ 素粒子それぞれのあいだには たっぷりの空間があって、たとえば人体のすき間部分を除いて 固体部分だけを圧縮すると 塩一粒分にしかならないと聞いたことがあります。

五感の世界と五感を超えた世界も 実はそんなふうなんじゃないかと 最近よく思います。

形あるもの ・ 触れられるものは 広大な “ゼロ” の領域のほんの一角を占めるに過ぎないのだと。

響き渡るセミの声のまわりには 豊かな静寂があり、セミの声がそれをいっそう際立たせるから 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 なんだと思ったと 先日書きましたが、人の言葉や態度など目に見える部分のまわりにも 見えないなにかがたゆとうていて、その 「なにか」 に根ざしたものをそれとなく感じ取るのが 本来の意味での「忖度」 なんじゃないでしょうか。

このところ話題の忖度は、それとはちょっと違うところで働いているような氣もしますが。




「行間を読む」 などという表現もありますが、私たちは意識するしないに関らず、この五感ではつかめない要素と共に生きていると つくづく感じます。

言葉にならない思いが伝わる、見聞きできるものを超えて心を打たれる、そんな世界で 私たちは日々当たり前に暮らしている。

豊かさに度合いがあるものなら、その五感を超えた領域をどれほど感じ取れるかで決まるのではないか、そんな氣がするきょうこのごろです。

















さまざまな計算と、生きるということ

2018年08月17日 06時02分17秒 | ふと思うこと


たとえばある品を5個用意しなければならないのに、手元に4個しかないとします。

その場合、必要数に対する現存数はマイナス1。

このマイナス1は ひとつ足りないということ、「ある」 に対しての 「ない」 です。

ここで 不足の1個を誰かが届けてくれれば、必要数と現存数がぴったりかみ合ってプラスマイナス0。

この0も 「ない」 と表現できますが、こちらの 「ない」 は、物のあるなしを超えて 問題そのものがなくなった、1個足りないという事態が起こる前の平和な状態に戻ったことの表れ。




もし最初からぴったり5個用意されていれば もともと問題なしなわけで、どちらの場合も結果的にプラマイ0なのは共通だけれど、両者の違いは 前者にはコントラスト効果が働いているということ。

ハナからスムーズにノープロブレムなのと違い、問題が起き 解決されて平和が戻ったことで、平和のありがたみがぐんと大きく感じられるわけです。

私たちはまさに このコントラストを通しての愛や安らぎや豊かさや充実を体験したくて、肉体をまとい この物質世界に降り立った意識体なのだといえます。




私たちの日常は、この-1+1=0 なんていう単純なものからもっと手の込んだものまで さまざまな出来事に満ち満ちています。

ときにはあまりに複雑で長ったらしい計算式にうんざりしたり、ややこしくなり過ぎて手がつけられなくなったりということも。

そんなとき とにかく0を掛けさえすれば万事がきれいさっぱり0に戻るというのは、なんて素晴らしいことでしょう。

しかも そこに戻るまでの計算が長ければ長いほど ややこしければややこしいほど、私たちは 計算開始前の0のときより経験を積んで賢くなり、思い出を増やして戻ってこられるのです。

自分の中の0を感じてさえいれば、どんな状況も恐れることはありません。




では、私たちが内なる0を忘れたままだったらどうなるか。

実際あまりにも長いこと0を無視して突き進んできたため 人の心も自然環境も荒れ放題のいま、このまま進み続ければ もっと大きな力が働いて 私たち丸ごと0に戻されてしまいかねません。

どんどん激しさを増す異常氣象や絶滅の一途をたどる動植物、いっこうに火の手が収まらない戦争紛争、ここに私たちの0をどのようにもってくるかが問われている氣がします。

















“ゼロの領域” と芭蕉の句

2018年08月16日 12時56分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


早朝のセミの合唱が こころなしか小さくなったような氣がします。

この夏もあちこちでセミの抜け殻を見つけ、頭上で鳴いている一団の中に この殻の主もいるのかな~なんて思ってみたりしたものですが、もうそのほとんどは土にかえったことでしょう。




ある朝ふと、「閑さや岩にしみ入る蝉の声 」 という芭蕉の句と、よく聞かれる 「蝉が鳴いているのになんで 『閑さや』 なの?」 との疑問を思い出しました。

たしかにセミの鳴き声って 一匹でもかなりの大音量ですよね。

それでいて、不思議と 「やかましい」 という氣にはならない。

芭蕉がどのようにセミの声を聞いていたかはわかりませんが、人氣のない緑豊かな山中で ひとり静かにセミの声音に耳を傾けるさまを想像してみました。

そしたらふと浮かんだんです。

セミの声が静かなんじゃなくて、セミの声が響いたことで浮かび上がったまわりの無音の空間が静かなんだって。

ただ静寂しかなかったら、当たり前すぎて 静かであることに意識が向かないかもしれない。

そこをつらぬくように響き渡ったセミの声に、周囲の真空に吸い込まれるような静けさが際立って感じられたんじゃないかな。

音があるから静けさがわかる、コントラストの世界ってそういうものなんですね。




このとき芭蕉が感じた静けさは、コントラスト効果から導かれたものではあるけれど、「うるさい」 に対しての 「静か」 じゃなく、セミも岩も木々も芭蕉自身も すべてがそこから分け出されたおおもとの “無の領域” から感じる静寂だったような氣がします。

貴秋いうところの五感を超えた世界、“おおきなひとつ” 、「ないものがある」 ゼロの領域。

音の有無を述べているというより、あるけれど五感ではつかめないその領域に ふと氣づいた、それを詠んだように感じます。

その情景を思い浮かべるだけで こちらも時空を超えて 言葉では届かない領域に触れるともなく触れられる、そんな魔法のような句を詠めるから、芭蕉はいまなお名高い俳人なんでしょうね。




句は詠めずとも、私たちも日常のあちこちで その領域を感じています。

ただ、感じていることに氣づくか氣づかないかだけ。

貴秋もあるとき、会ったことのない人の話し声や文章から なんとなくその人のイメージを感じ取っていることに氣がつきました。

いま思えば ずっと以前から感じていたのだけれど、そのときまで感じていることに氣づかなかったんです。

イメージといっても 姿形など具体的なことではなく、言葉の向こうに透けて見える なんとなくの空氣というか雰囲氣というか色合いというか そんなようなもの。

たとえば、文法などおかまいなしでときにたどたどしかったりするけれど とても暖かくまろやかなものに包まれたり、すっきり整然と語られているのに なぜかぴりぴりした緊張感やとげとげしさが伝わってきたり、楽しげな口調の合間に 諦めや寂しさが感じられたり。




五感で知覚できる世界は取り繕うこともできるけれど、感じる世界は真実そのもの。

貴秋が五感を超えた世界に関心を持ち始めたころに比べると、いわゆるスピリチュアルの分野もすっかり市民権を得た感がありますが、無の領域に氣づいたり感じたりする人も増えたのでしょう、昭和の時代なら暗黙の了解で隠しおおせたものが いまは次々明るみに引っ張り出されているような氣がします。

また、「想定外」 の自然災害にやたら見舞われることで、理論脳だけでは対応し切れない状況に直面することも増えているような。

これまで “無 ・ 0” に関心がなかった人たちのあいだでも、その存在感は徐々に大きくなっているのかもしれません。