毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

無条件に 思うままに生きていい

2021年07月27日 09時15分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
もうほとんど聞こえなくなった深夜のカエルの声と入れ替わるように、早朝のセミの合唱が日増しに大きくなります。

セミは評価や報酬がもらえるから鳴いているわけではない、たぶんセミにとって 「生きる」 と 「鳴く」 は同じことなんでしょうね。

そして私たちも、そんなふうに生きることができる。

顕在意識や理論脳のワクを取っ払い、言葉を脇においてただ感じることで、私たちはいのちの源とつながっている感覚を思い出すことができます。

本能のままに生きる生物たちは みな当たり前にやっていること、自我を持つ人間だけが忘れてしまっていたこと。

それを思い出したとき、私たち人間のいのちの表現もまた 独特なものとなります。

自我のおかげで 私たちひとりひとりに個性があるため、感じる源は共通でも その表し方は個性に沿ったオリジナルとなるからです。




いのちを感じるところから放たれる 私たちそれぞれの生き方は、一見てんでんばらばらなようでいて、その根っこには 同じ源を分かつ者どうしの統一感があります。

鳥や魚の群れが号令などなくてもいっせいに向きを変えるように、わざわざそうしようとしなくても 自然とそうなるのです。

顕在意識のみで生きているときは、いくらがんばって意見をまとめようとしてもできなかったのと真逆ですね。




ひとりひとりが自分だけの世界に生きているのなら、自分が自分であることを否定する必要はまったくない、思うさま自分を表現してみよう、生きてみよう。。。そんな思いと 自由奔放なセミの声が重なって聞こえるこの夏です。














いっときの刺激ではなく 心満たされることを 

2021年07月21日 14時36分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
きのうも書いたスポーツについてですが、選手があそこまで大変な努力を強いられるのは、ひとつには 観客がそれだけ華麗でダイナミックなパフォーマンスを求めるからだという話があります。

スポーツ観戦は 選手の努力の結果だけを一時的に自分に引き寄せて楽しむもので、プロセスのすべてを味わってきた本人のような深い手応えや満足は得られませんが、興奮の渦に巻き込まれているあいだは 他のすべてを忘れて熱中できますものね。

そんな熱狂的なスポーツファンを見ていると、理由のひとつとして、自身の人生が満たされなかったり不安不満が多かったりするのを忘れるためにのめり込むという面があるんじゃないかという氣がします。

これはスポーツ観戦に限ったことではなく、あらゆる娯楽施設や物欲を満たす場に その要素を見てとることができます。

大がかりなショッピングモールや 広大な面積を誇る遊園地、趣向を凝らしたカラオケボックスや流行の食べ物飲み物を取り揃えたおしゃれな店舗など、華やかな刺激に満ちた場所のなんて多いことか。

そして、それらを取り上げられた私たちのストレスがどれほど大きいかを思い知らせてくれているのが、今回のコロナ騒動ですね。




二項対立の世界での身の処し方しか教えられてこなかった私たちは、「いい」 と思うものを選び取り 「悪い」 と思うものを払いのける慣わしが 身についています。

そうやって否定的要素を忌み嫌う意識が かえってそれを引き寄せてしまうのですが、そんなからくりが働いているとは知りませんから、つきまとうネガ要素からなるべく意識を遠ざけようと懸命になります。

そこに登場するのが、日ごろの憂さを晴らすべく思いっきり楽しみましょうと誘いをかけてくる、さまざまな娯楽産業。

人の意識には 「慣れ」 というものがあり、ある程度経つと いまと同程度の楽しみでは飽き足らなくなりますから、提供する刺激もどんどんエスカレートします。

もっとおいしくて珍しい食べ物を、もっとスリリングでワクワクできる絶叫マシーンを、もっとユニークで見栄えのする服や装身具を、もっと感動的で時を忘れさせてくれるドラマや映画を。。。。

で、いったいどこまでいけば、私たちは満足して幸せになれるのでしょう?




私たちの本質は、見て聞いて触れて確かめることのできる容姿や性格や行動や言葉ではなく、五感で触れることのできない意識の領域にあります。

私たちがほんとうに求めているのは お氣に入りの物でも娯楽でもなく、それに触れたときに湧き起こる喜びや充足のほうなんですね。

物や娯楽はそれを引き出すきっかけに過ぎず、またそういうきっかけがなければ 満ち足りた氣持ちを味わうことができないわけでもありません。

私たちは本来、愛、自由、豊かさ、安らぎといった無限のエネルギーそのものであり、ほんとうの自分を見えなくするバグの雲に覆われてさえいなければ、外から教えられなくとも そんな自分の素晴らしさを内から感じて、喜びに浸りながら毎日を過ごせるのです。

形ある自分が真の自分だと思い込んでいると、どうしても形のほうを追いかけてしまいますが、現代の娯楽産業は 富の偏在を拡大する一方の現行の経済システムの上に成り立っており、私たちには一時の刺激や興奮しか与えてくれませんから、満足させてくれるものを外に求め続けてキリがなくなり、その結果が欲求不満から無氣力だったり攻撃的だったりする民衆であり、資源の枯渇であり、 ゴミの山なわけです。

お金のシステムに搾取される側の人間は、不満や不安を紛らわすために 自分たちのエネルギーや時間を切り売りして得たお金をせっせと娯楽産業につぎ込んで、結果的に自分たちから奪い取ってばかりのシステムを それと氣づかず支え続けているんですね。




私たちがバグを手放しほんとうの自分に目覚めたら、内から感じるものはどのように変わり、世界は 暮らしはどんなふうに変わるのでしょう。

これはもうやってみなければわからないことですが、新世界の一端をちらっと垣間見た貴秋としては、簡単ではないかもしれないけれど トライする値打ちは十二分にあると申し上げたいです。

遊び興じる機会を奪われ ストレスが溜まっているいまこそ、そのネガ感情を手がかりに 過去のわだかまりを解き放つ絶好の機会。

そして 体験の世界に生きる私たちにとっては、手にする成果はもちろんのこと、変化のプロセスすべてが 目減りすることも奪われることもない一生ものの財産であることに、きっと氣づかれることでしょう。












スポーツって なんだろう?

2021年07月20日 11時53分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
本来の自分に戻るとは、自分が自分であることが 心地いいと思えること。

まわりの評価は関係ない、特別何かに抜きん出て 他者にアピールする必要もない。

してることはいつもと変わりないのだけれど、自分の中心に芯がすっと通っている感じがして、地に足ついて心穏やかでいられる。

外からどう見られるかではなく、内からどう感じるか、つまり自分軸ということですね。

あるがままの自分で安定していられる、これを 「静かな自信がある」 と言い換えてもいいでしょう。




ところで 最近テレビを見なくなったとお話しましたが、中でも見なくなったのが、スポーツ番組。

折りしもオリンピック開幕直前だそうですが、まったく食指が動きません。

嫌いになったわけではなく、ただなんとな~く見る氣がしなくなって。

この 「なんとな~く」 の中身をもう少し掘り下げてみると、あの勝敗へのこだわりとか アナウンサーや解説者の煽りっぷりが どうも氣が重いんですね。

スポーツっていったいなんなんだろう、なんのためにあるんだろうって思っちゃう。

以前は スポーツ = 健康な肉体の象徴 だと素直に思っていましたが、よくよく見ると スポーツ選手って怪我や故障が多いですよね。

貴秋はスポーツオンチだけれど、怪我で手当てを受けた記憶って 小学生のときの捻挫ぐらいしか思い浮かびません。

スポーツは肉体の可能性を伸ばし 限界を押し広げるっていう話もあるけれど、いまやおおかたの競技の記録の伸びは頭打ちでしょう?

ただ計測機器の性能の向上で、零コンマ何秒だの何ミリだのって測れるようになったおかげで、わずかな差を捉えて 勝者を特定できるだけで。

髪の毛一筋ぐらいの差で勝者と敗者が分かれるんだんもの、その一筋のために必死でトレーニングを積むのも大変ですよね。

そこでからだの機能をいかに高めるかということになって、そこにも科学の力が用いられるようになってきたとか。

スポーツ科学の研究成果を駆使して 限界ギリギリまでトレーニングして、でもひとつ加減を間違えると 大怪我や慢性的な故障につながってしまう。

それって、健康というよりむしろ不健康な肉体の量産になってません?




しかも さらに科学の力で ウェアやシューズや使う道具の開発改良もヒートアップ、でもそれには大層なお金がかかるから、そういうものをバンバン使えるのは 有力なスポンサーがついた先進国の選手だけ。

ここでもまた出てきた経済格差、お金がかかる装備のおかげで取れる金メダルって。。。もう スポーツ = 健康 のイメージなんて吹っ飛んじゃいますね。




いや、さらにすごいことが起きているという話も。

どの競技でも ドーピングにはつねに厳しい目が注がれますが、これが規定にない未知の薬物だと引っかからないそうで、そちらの研究開発が秘かに進んでいるとか。

なにもそこまで・・・と思っていたら、今度は競技能力を高める遺伝子を細胞に組み込むなんて話が飛び込んできました (汗)。

一方パラリンピアンの世界では からだの一部として働く義手や義足の性能が著しく向上しているそうですが、健常者の選手からすると 道具を使って記録を上げることへの抵抗も根強いそうで、もし今後 日進月歩の技術の向上により パラリンピアンの記録がオリンピアンを上回るようなことにでもなったら、いったいどうなるんでしょうね。




・・・・とこんな話ばかり聞かされていると 胃もたれするようで、スポーツの華やかさ ・ 晴れがましさよりも 評価のためにここまでしなきゃならないのかという重苦しさのほうが先に立つようになってしまった。。。。それが スポーツ番組に手が出なくなった理由のようです。

ごめんなさい、アスリートであれ科学者であれ、夢を追いかけて懸命の努力を続けている人たちをあげつらうつもりはないのです、誰にでも好きなことに好きなように打ち込む権利があるのだから。

ただ貴秋は、スポーツのありようがいまのままならノーサンキューだなというのが 正直なところです。




私たちは 子どもの頃からあらゆる面で競い合うように仕向けられ、勝者になってこそ いい社会的地位やいい暮らしを手に入れることができるのだと叩き込まれてきました。

でも、それもそろそろ見直す時期にきてるんじゃないかと思います。

自分の素晴らしさは、誰に教えられるものでもない、自身の内側から感じるもの。

いまの貴秋は 断然こちらのほうがいい、もう優等生だった昔のように、勝ち上がってなんぼの世界と取り替えたいとは思いません。

内からくる自信や輝きは、私たち本来の 当たり前のありようであり、どんな条件と引き換えに手に入れるのでもない無条件のもの。

外から与えられることも奪われることもない、人としてもっとも確かな手応えです。














尊厳を取り戻す旅

2021年07月19日 19時29分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
初めて 「尊厳」 という言葉に氣を留めたのは、友人の古書の買い付けを手伝ったとき。

いまは素人でもアプリを使って売れそうな古書を見つけることができるのだそうで、その友人はブックオフなどで仕入れたものをネットを通じて販売して副収入を得ていましたが、唯一苦手なジャンルが料理本 ・ 手芸本ということで、貴秋にお声がかかったのです。

最初はどれが売れそうなのかてんで見当がつきませんでしたが、少しずつコツがわかって だんだん面白くなってくると共に、古書発掘のどこに魅力があるのかに氣づきました。

誰かがいらなくなって手放した本は、中古品ということで値打ちが下がってしまう。

でも、ほんとうに欲しいと思う人と引き合わせることができれば、価値は再び上がる。

喉から手が出るほど欲しいのに 絶版になっていたりしてなかなか見つけられない本だったら、買い手にとっては宝石のようなもの。

いまは叩き売り状態の本だって、必要としてくれる人と出会えれば 再び輝きを取り戻すことができる、その橋渡しをするのが楽しいんだ。

残念ながら価値を認めてもらえなかった本の尊厳を取り戻し、今度こそ幸せにと送り出す手伝いができるのがうれしいんだ。




思えば、家事でも 打ち捨てられていた道具を磨きたてて復活させるなんていうのは、とりわけ好きな分野です。

実家には それはそれはたくさんの物がぎっちり押し込まれて 出入りもままならないほどの部屋や物置がいくつもありましたから、発掘の喜びもひとしおでした (笑)。

また料理のリメイクや 古布利用の服のお直し、古紙だの空き箱だのを生かしてのクラフト製作なんかも大好き。

母の古Tシャツの切れ端を紅茶染めして繕った父愛用のパジャマや、大量に溜め込まれていた厚紙だの包装紙だのを組み合わせて作ったファイルなどは、新品以上の愛着があって 見るたびに頬が緩みます。

こういう喜びも、ただ物を作る楽しさだけでなく、捨てられかけていたものの値打ちを再び取り戻してやるところにあったのかと 合点がいきました。

なぜかはわかりませんが、貴秋は 見捨てられていたものが再び輝きを取り戻すさまを見るのが、とても好きなようです。




そしていま もっとも復活してほしいのが、人としての尊厳。

本来の自分にはないはずの要素を体験するために刷り込まれたバグは、役目が終れば手放されて 真の自分に返る喜びを一段と引き立てるはずが、なぜかいつまでも持ち越され、多くの人を苦しめています。

もともと自分のものではないネガティブな観念が 潜在意識に残り続けているせいで、自分に自信が持てず 本来の能力を発揮できないまま セルフイメージを落としてしまい、苦しい生活を強いられている人が どれほどいることか。

でも、魂が望んだ否定的体験は 一度体験すれば十分、その一度だけ 目を背けずにしっかり味わえば、それでおしまい。

見逃したままずっと持ち越しになっているバグは、 同じような否定的シチュエーションを繰り返し用意して 「自分はここにいるよ」 と氣づかせようとしてくれていますから、ひとつ手放すごとに エネルギーが軽くなっていきます。

ほんとうの自分を取り戻せば世界が変わる、再び輝き出した人でいっぱいの世界を 一日も早く見てみたい、心からそう思います。




20年前のきょう ・ 2001年7月19日は、清水の舞台から飛び降りる覚悟で 貴秋が南紀に向かった日。

最近 過去を振り返る氣はほとんど起きませんが、ありったけの勇氣を振り絞ったあの日は、自身の尊厳を取り戻す旅の第一歩だったんだなぁと思うと、やはり感慨深いものがあります。

辛いことも苦しいこともいっぱいあったけれど、それだけの甲斐はまちがいなくあったよと、あの日の自分に教えてやりたい氣持ちです。

















漂う氷山、上から見るか 下から見るか

2021年07月18日 10時42分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見

そもそもの始まりは、アガサ ・ クリスティの 「復讐の女神」 という小説でした。

主人公のミス ・ マープルが ある謎を追って招待のバス旅行に出かけるのですが、そのバスに乗り合わせた若者カップルのセリフが妙に氣になったのです。

カップルの女の子が彼氏に言うんですね、「あなた色盲なんじゃない? だって、あたしの赤いスカーフ取ってきてって頼んだとき、『緑のならあったよ』 って言って赤いのを持ってきてくれたでしょ?」 って。

話の本筋とは関係ないところで、なぜかすごく考え込んじゃった。

ひとつのものが まったく違って見える人たちがいる。。。同じ一枚のスカーフでも、女の子には赤、男の子には緑。

でもどうなんだろう、男の子には そのスカーフがこの色に見えたのか、それとも見えたのはこの色だけど、彼はそれをと呼び習わしているだけなのか。

いや、さすがにこの手のことを言われたのはこれが初めてではないだろうから、赤という色が自分だけ他者と違うように映ることは知っていただろう。

でもそれがなんだろう。。。他者とのコミュニケーションでは注意しなくてはならないとしても、彼にとっては 赤 = この色 が真実ではないか。

だとしたら、“真実” ってなんだろう。

すべての人に絶対共通の真実なんてあるのだろうか。




まあさすがにこのときは ミステリーの結末のほうが氣がかりで、真実の追求についてはそれっきり忘れてしまったのですが、このテーマ、その後も折に触れて いつも 「復讐の女神」 のあの場面とセットで顔を覗かせるようになったんですね。

そして、ついに決定打が訪れました。

それがこのブログ記事、「クオリアについて」 。

うわー、答が出ちゃったよ。

自分が見てるのは 真実そのものではなくて 自身の脳の解釈なのだから、何から何までまったく同じ人が二人といないのと同様、まったく同じ世界を共有できる人がただの一人たりともいるはずがない。

私たちはめいめいが自身の世界の主で、その世界は自分にしか見えないんだ。

「共有してるつもり」 にはなれても、ほんとうに共有することはできないんだ。




ただし。

この話は、あくまでも顕在意識レベルで考えたときのこと。

潜在意識や無意識には、これとあれ、こことあそこ、などの区分はありません。

分け目も境界もなく、色も形も広さも深さも重さも定点もない、「それ以外」 というものが存在しない領域、触れる者すべてに共通の領域です。

顕在意識と潜在意識の関係は、よく氷山に例えられますね。

海面に見えている氷山は、ひとつひとつが離れ小島のようにバラバラに浮いて見えるが、水面下ではひと続きになっているのだと。

だから、自分を他から独立した個の存在と見るか、“ひとつであるもの” の一部と見るかは、意識をどこに置くかで違ってくるのだと 貴秋は思っています。

「私の世界は 私だけしか見ることのできない世界」 とはっきり意識するようになったのは ごく最近のことですが、以来 普段の日常では 自分の個性を唯一無二のものとして前面に押し出すことをためらわなくなりました。

で、前回書いた 「自分が選べば 自分の世界は選んだとおりになる」 は、この 「私の世界は私だけの世界」 に 「感情を乗せてイメージすることが現実になる」 というもうひとつの確信が合わさって生まれた思いですが、それは すべての存在が共有している あの “ひとつであるもの” がベースにあるという第三の確信があってこその話。

分け出すおおもとがあるからこそ、分け出すという作業ができるのですから。




潜在意識そのものを知覚することはできなくても、潜在意識の存在やその働きを信じられるようになると 世界が変わるというのは、こういうことです。

顕在意識オンリーの世界では 「個」 と 「孤」 はほとんど同義で、人はひとりでいることを不安や寂しさと結びつけがちです。

今回のコロナ騒ぎは、そのことを顕著に見せつけてくれました。

が、潜在意識の世界に触れることで、その認識はがらりと変わります。

自分は大きな一本の木のように確かで揺るぎない存在で、そこに日がさすこともあれば 雨が降ることもある、鳥も虫も 現れてはまた去ってゆく、周囲は絶えず変わるけれど、自分はどこまでも自分のままでいい。

そんな不思議な感覚と共に生きていくことになります。




これが、ビフォー : 他者を恐れ 怒りと不安に満ちて 孤独にさいなまれていた貴秋の、現在 ・ アフターのありよう。

かのリフォーム番組 「大改造!! 劇的ビフォーアフター」 と遜色ない変わりっぷりだと思いません?














「いい」 も 「悪い」 も見ようで同じ

2021年07月17日 09時02分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
1月下旬からこっち、ひたすら身の内に溜まった怒りの手放しに勤しんできたとお話ししましたが、いつものことながら 意図して行なうのは感覚フォーカスだけ、あとのことはすべて 向こうから勝手に起きてきます。

今回起きたことのひとつは、「体験」 というものの見方が変わったこと。

それまでは いい氣分になれれば喜び、ネガに転じればどうにかせねばと問題視するのが常でしたが、いつのころからか いい氣分も悪い氣分も等しく 「体験」 であることに変わりはない、と思うようになったのです。

そもそも魂は いい体験ばかりを望んだわけではない、むしろ 本来の自分にはない要素をこそ体験したかったのだから、いやな氣分を味わわされたからといって がっかりすることも 自分を貶めることもない。

体験する魂という観点からいえば いいも悪いも等価値、いい氣分になったら 「あ、『いい』を体験したんだな」 、悪い氣分になったら 「あ、『悪い』 を体験したんだな」 とそれだけでいいではないか、と。

この捉え方が板についてくるにつれて、ネガティブな事象についての見方も変わってきました。

それまでは、なにかにつけて 「いい」 と 「悪い」 にきっちり分けないと氣が済まず、「悪い」 に入ったものは 他者についてはあげつらい 見下し こきおろしてきたし、自身については受け入れられないまま外部に投影して 問題そのものはスルーしてきましたが、まず自分を責める必要がなくなって 問題とも向き合いやすくなり、続いて他者のことも同様に責めることなんてないんだ、と思えるようになってきました。

瞬間 「なにあの人!?」 となっても、続いてすぐ 「ああそうか、誰でも自身の魂が定めた道のりを粛々と歩きながら 課題に取り組んでいるんだよなぁ」 とのつぶやきが聞こえてきます。

自分のことがそういうふうに見えるようになると、タイムラグはあっても 他者のことも自動的にそう見えるようになるものらしいですね。




人間以外の生き物は、つねに本能に導かれるまま 定型パターンを踏襲し、自然の流れを大きく外れることなく歩み続けています。

生活習慣も 食べるものも 巣の形状も 特別な理由がない限り 代々受け継がれたものを変えることはなく、周囲の環境と調和して種を保ち 数千年数万年の長きにわたって存続しています。

が 人間は、「自我」 「自意識」 というものを持ったことで バラエティ豊かに枝分かれし、種として驚くほど多彩な体験を積むことになりました。

知識的技術的には大躍進を遂げながら、情緒面の発達や熟成が追いつかず、左脳肥大のまま いまや自らの技術の誤用で人類を滅亡させかねないところまで来ています。

これを 「人類ってなんてアホなんだ」 と苦々しく見ていたときもありましたが、いまは 人以外の動植物の迷いない生き方のまっすぐさ ・ 清らかさに魅かれると共に、ありったけの絵の具をぶちまけ引っ掻き回したような人類の歩みの痕跡にも、「まあとにもかくにもがんばってきたんだよね」 となにやらいとおしさを覚えます。




自我の働きのおかげで、魂の望みどおり 本来の自分からどんどん離れて 不条理の限りを味わってきた私たちも、ちょうどあのバブルが弾けたあたりを境に (と貴秋は感じているのですが) 方向転換して、今度は本来の自分へと戻る道のりを歩き始めました。

あとは人として成熟し、叡智を尽くして状況を好転させ 進化の道を行くか、滅亡するかの二つに一つだと思っています。

それも 「中間地点で日和見」 が許されない、枝分かれギリギリのところにさしかかっていると感じます。

どちらの道を行くも自由、そんな情報すら知らない ・ 受け付けないでいることも自由。

ただ、自分が選べば 自分の世界は選んだとおりになる、と思うようになりました。

次はこのあたりについてお話させていただきますね。













誰にでも 望む世界を実現する力がある

2021年07月16日 16時44分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前回お話しした 「人間ならではのやり方」 とは、意識のありようから変えていくというもの。

以前からお読みくださっている方は 「やっぱりそれか」 と思われたかもしれませんね (笑)。

そう、つまようじからスーパーコンピューターに至るまで、この世で人間が作ったものは、すべて形なき思いやアイデアから始まっています。

世界情勢だって同じこと、私たちひとりひとりの意識が変容すれば おのずと無理なく変わります。




なにがどうしてそうなったのか ほんとうのところはわかりませんが、とにかくある時から それまで平等だった人々の間に格差が生じ、権力を持つ者と従う者、搾取する側とされる側に別れました。

その状況が何世代にもわたって続くうち、祖先たちは次第に現状に慣れ、それぞれの立場なりに身の処し方を学びました。

戦って勝った者、負けた者、流されるがままになった者、進んで従った者、おのおのの思いは 幼い次の世代にそっくり伝わり、意識の奥底に刷り込まれて 自身の思いとして定着する、そんな伝承が何世代 ・ 何十世代と繰り返されました。

そして現代の私たちは、そもそもの事情を知らないまま いまある格差社会が自然環境などと同様当たり前のものと思い込み、先祖伝来のやり方でそれと向き合い暮らしています。

が、ここには大きな矛盾があります。

天体や四季の巡りのようにほんとうに当たり前のものなら そのまま受け入れるだけですが、私たちの意識のおおもとは 本来すべての命は等しく大切であることを知っており、いまの世情がそれにそぐわないことにも うすうす氣づいています。

なので、なにか問題が起こるたびに 「おかしいけれど仕方がない、自分にはどうしようもない」 と思ってあきらめるか、勝ち目は薄いとわかっていながら戦いを挑むかの二択を迫られるのです。

開かれている道のどれを採っても満足いく解決が得られない、望むイメージははっきりしているのに そこに至る確かな道筋が見えてこない、こういうときは あの “バグ” が邪魔していると思ってまず間違いありません。





で、この “バグ” を解いていくとどうなるかといえば、貴秋には二つのことが起きました。

ひとつは、現状について なにがどうしてこのような事態になっているのかが、貴秋なりにくっきり見えてきたこと。

どのようなからくりで事が動いているかに得心がいけば、自分にいまなにができるか、どう動けばいいかも少しずつわかってきます。

もうひとつは、現状を変えるに当たり、対象が他者から自分に移ったこと。

怒りに任せている間は 相手をどうしてくれようと考えてばかりいたのが、相手とは関係なく いま何を選べば自身の氣分がよくなるかというところに焦点が移ってきたのです。

この二つの変化から、それまで怒りや不安で消耗していたエネルギーを取り戻して心が落ち着き、自分軸で立っている実感が湧き、自分を幸せにするための自分なりのやり方がわかり、さらに自分の幸せがまわりの幸せにつながることもわかって 己の行動に自信が持てるようになり、セルフイメージが格段に上がりました。




私たちは長いこと、先祖から知らず知らずのうちに刷り込まれた情報と 本来の自分が氣づいている真実とのせめぎ合いにより、「自分には真実が見えない、ありのまま自由に生きることができない」 と感じて、セルフイメージを下げざるを得なかったのです。

しかし、本来の自分ではない情報を取り去ると、見える世界はこれまでと同じでも その意味合いががらりと変わります。

そして、自分には望む世界を実現する力があるとの強い思いも湧いてきます。

こうして フォーカスが意に染まない世界から 実現しようとする世界へと、ごく自然に移っていくのです。

こうなればもう戦う必要なんてなく、あとはめいめいが自分の役割を思い出して存分に打ち込めばいい。

そこでは誰にでも必ずその人にしかできないことがあり、不要な人なんてひとりもいないのです。

いま自信を失って引きこもっている人は、ほんとうの自分を忘れ 見失っているだけで、思い出せば 身のうちにおのずと力が湧き、この先どのように生きていけばいいかがわかります。




これが、貴秋が思う 「人間ならではのやり方」 。

自我なんて厄介なものを持っている人間にしかできないやり方、そしてコントラスト効果の喜びをもっとも多く受け取ることのできるやり方です。













フォーカスの持つ力

2021年07月15日 13時02分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前の記事にも書きましたが、「知らないもの ・ 意識に上らないものは ないのと同じ」 、これ すごく重要なことなのに いまひとつ浸透していない氣がするんですよね。

もしみんながこれをわかったうえで 日常で使いこなしていたら、いまみたいに世界中で反対運動や抗議活動で大変な思いをしている人がおおぜいいるわけがないもの。

地図にくっきり書き込まれている道路でも、車一台 ・ 人っ子ひとり通らなければ、ないも同然。

どんなに強大な権力だって、力任せにぶち当たろうとするからはね返されて 「うわ、やっぱムリだ」 となるのであって、みんなで意識を離してしまえば そんな労力を使わなくても あっさりパワーダウンさせられます。

そもそも数の論理でいえば 大衆のほうが断然強いはずなのに、少数の彼らが実権を握り続けていられるのは、よくも悪くも私たちが注目することで 力を与えているせいなのだから。

この注目による人間力学をもっとも残酷に表すのが、学校や職場のイジメで大きな問題となる「無視」 ですね。

無視し 存在丸ごと否定する行為が なによりも相手の力を奪うことを、実は大人も子どももすでにどこかでわかっている。

私たちの意識を注ぐ、外す、そのパワーは想像よりはるかに強大です。

その力を、他者を苦しめるためではなく 自分を幸せにするために使ったらどうかしらと思うのですが。

望まぬものから意識を外してエネルギーを与えず、その分を望むものに注ぎ込むのが、理想の世界を実現する もっとも手っ取り早い方法なのです。

引き寄せの法則でも言っていますよね、「実現させたいイメージを明確にし、あとはいい氣分で過ごすこと、イヤなことばかり思い描いてイヤな氣分でいると そっちのほうが叶ってしまう」 と。

この法則をご存知の方も多いと思うのですが、ではなぜ 私たちはこの力をいまだに十分使いこなせていないのでしょう。




つい最近 こちらの動画で 「Universe25」 という実験について知りました。

広々として 水も食べ物も十分に供給され 衛生面にも配慮され。。。とユートピアのような環境に 4組のつがいネズミを放ち、その後の経緯を観察するという実験で、ネズミ算式に増えたネズミたちは あるときを境に数が減り始め、やがて絶滅を迎えることになるのですが、楽園の暮らしを満喫していたはずの彼らに最初に訪れる異変が、強者が弱者を力で抑えつけ より広大なナワバリを独り占めするというものだったそうです。

この後次々と彼らに起こる現象が 現在の私たちの有り様と似通っていることから、人類の絶滅を予測しているのでは? と言われているそうですが、ネズミと人間が同じかどうかはともかく、軽重 ・ 高低 ・ 明暗など相対する二極で成り立つ私たちの世界の性質を考えれば、どんな生き物であれ 放っておくと強者と弱者に分かれるというのも ある意味自然なことなのかもしれません。

私たちの先祖も 最初は平和に平等に暮らしていたのが、やがて一部の権力者とおおぜいの一般大衆に分かれて その格差が現在に至るまで続いているのは ご承知のとおり。

じゃあ私たちも絶滅・・・!? と思ってしまうのも無理はありませんが、その危険は 人間ならではのやり方で十分避けられる、いやそれどころか 現在のこの流れをうまく生かすことで むしろブレイクチャンスに変えることさえできるのです。

次に続きます。














最善のシナリオ

2021年07月14日 06時07分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
今回のコロナ騒動については さまざまな情報が錯綜し、ひとつひとつまともに取り合っていると なにがほんとうなのかわからなくなり、氣が滅入ってきます。

貴秋はこのところ テレビは予約録画した番組しか見ず、新聞はまったく読まなくなりましたが、それでもなおどこからともなく オリンピック開催のゴタゴタやら ワクチン絡みのすったもんだやらの情報が漏れ聞こえてきます。

まあその程度は右から左へ流していれば済みますが、まともに取り合っていたら どんなにか落ち着かないことでしょうね。




貴秋が情報の遮断を決めたのは、以前の経験からです。

今回のCOVIDー19流行に関連して 2002~3年のSARSアウトブレイクがたびたび話題になりましたが、実は貴秋、このSARS騒ぎをまったく知らず、今回初めて知りました。

当時はまだ和歌山で暮らし始めてほどなく、テレビもパソコンも持たず 新聞もとっていませんでしたから、当然といえば当然のこと、周囲の人からも聞いた覚えはなく、それでいてなんの不都合もありませんでした。

これを知ったときわかったのです、情報がなければ まったく存在しないのと同じことなのだと。

今回のコロナ騒ぎで一番しんどいのは、やたら不安を煽るような情報が氾濫し放題なのに どれが正しいのか確認するすべはなく、報道に触れるたびにエネルギーががくんと落ちること。

からだの感覚にフォーカスすると、これはおよそいい影響を受けないな、まだ目の前に現れてもいないコロナより こっちのほうがよほど危ないと、いやおうなしに思い知らされます。

これがその昔のペストや天然痘のように 近所のあちこちにかかった人がいて、道端に死体が転がっているなんて状況だったら いやでも目に入りますが、COVID-19については メディアやネットの報道ばかり、ならばSARSのときと同じようにやり過ごしても別に困りはしないだろうと踏んだのです。

ほんとうに危機が目前に迫れば、いくらメディアをシャットアウトしたところで 身のまわりから騒ぎが起こるでしょうから。

情報がなくなったことで、いまや貴秋の世界にコロナは存在しません。

私たちのからだが食べたものから作られるように、私たちの世界は取り込む情報で作られるのだ。。。。とつくづく実感させられます。




情報に振り回されるのは、顕在意識であり 理論脳です。

過去の情報と照らし合わせて検討し計算し熟考するこのエリアに、大量の しかも矛盾する情報が送り込まれると、混乱をきたし どう行動すればいいのかがわからなくなってしまいます。

しかし、人間の意識のうちで 理論をつかさどるエリアは ほんの一部分に過ぎません。

顕在意識よりはるかに広い潜在意識は、時空も理屈も超えて情報をゲットすることができます。

潜在意識からの情報は、俗に 「虫の知らせ」 などと言われるように とても小さくさりげないので、頭がグルグルしたり 心がわあわあ騒いでいるときには受け取ることができません。

感情を沈めてからだを落ち着かせ、言葉を引っ込めて静かにしていると、ふとしたおりに そのシグナルをキャッチできます。

最近海外でも瞑想をする人が増えていると聞きますが、今のような時代だからこそ、そういう力を使えるようになる大切さを 皆どこかでわかっているのでしょうね。




潜在意識の働きを信頼できれば、テレビや新聞、いやパソコンやスマホさえ持たなくても、必要な情報は必要なとき必ず入ってくると肩の力を抜いて、いま ・ ここを穏やかに過ごすことができます。

そういう人が増えて、世の中にあたたかく落ち着いたエネルギーがみなぎれば、そぐわないエネルギーを帯びたものは 自然と消えてゆくでしょう。

それが コロナを巡るさまざまな筋書きの中で、もっとも多くの人にとってハッピーエンディングなストーリーなのではないかと思います。












最強のモチベーション

2021年07月13日 10時50分47秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


内的変化を起こすのにもっともうってつけの人って、どんな人だと思います?

それは、大きな災厄が降りかかるなどして このうえなく辛く苦しい立場にいる人です。

幸せだったり安泰だったりするとき わざわざ変化を起こそうなんて思わないけれど、苦しければ苦しいほど なんとかしなくてはと必死になるものだから。

「このままではいられない、この窮地を脱するためならどんなことでもする」 というとき、人は思いがけないパワーが出せるものです。

俗に言う 「火事場の馬鹿力」 ですね。

なんとかせねば、このまま終ってたまるか、という必死さ懸命さこそ、人が大きな変容をとげるための最強のモチベーションとなりうるのです。

最大のピンチの中にこそ、最大のチャンスの芽がある。

ただ、芽はあくまでも芽であって、それを育てて力に変えるかどうかは その人次第なんですね。




いまの自分が理想と違う生き方をしているのはわかるが、どうしたら望む生き方ができるのかわからない、というときは、知覚できない意識の奥に もともと自分のものではなかった否定的観念 ・ 貴秋言うところの “バグ” が入り込んでいると思って まず間違いないでしょう。

このバグは、すでに何度も申し上げているように 望まないことが起こったときの負の感情やからだの感覚をしっかり感じて受け止めることで解除が可能ですが、こういう情報を目にして さて実践するか、する氣が起きるかどうか。。。。そこが問題です。

この点、もっとも変化を起こす確率の高いのが、もっとも大きなピンチに見舞われている人なのです。




内的変容を起こすプロセスは、自転車に乗れない人が乗れるようになるための練習と似ています。

乗れる人からさまざまなアドバイスや手助けはしてもらえるけれど、さいごは自分ひとりで とにかくやってみるしかない。

失敗を重ねながら 体験的に情報を増やして、その中からこれだ! というコツをつかみ取るわけですね。

だから どうしても乗れるようになりたい! という意欲がなければ、何度引っくり返ってもあきらめず 乗れるようになるまでがんばる氣力なんて出てこない。

意識を変えるのも同じことです。

知覚のしようがない潜在意識の書き替えなんて、真剣に取り組む氣力や粘り強さがなければムリでしょう。

そういう意味で、いまもっとも幸せに遠いところにいる人ほど、逆説的に幸せを手にするチャンスも大きいのです。




コロナ騒ぎも一年以上の長きにわたり、先が見えないまま苦しい生活を強いられている人も多いと思います。

その中でもとりわけ苦しい思いをしている方々に この情報が届けばいい、自分たちこそ真の幸せにもっとも近いところにいるんだと知ってもらえたら。。。。と願う貴秋です。