毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「これが私」 と氣負わず示せる自由な境地

2022年11月29日 14時30分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
もう20年以上前の話。

貴秋のピアノ教室最後の生徒は 幼稚園からたしか小学2年生ぐらいまで習いに来てくれていた女の子でしたが、この子が利発でおしゃまで生き生きしてて可愛くて、レッスンの合間のおしゃべりがもう毎回楽しみで。

で あるとき、当時流行っていて彼女が大好きだった puffyの 「アジアの純真」 を 「し~ろ~の~パ~ンダ~を~」 と口ずさむのを聞いていて、ふとちょっと意地悪な質問をしてみたくなったんですね。

「パンダって 白と黒だからパンダでしょ? 白のパンダなら ただのシロクマじゃないの?」

さてどう答えるかなと興味津々の貴秋の前で ちょっと考えた彼女、次の瞬間さらりと 「白パンダなの」 と答えて、それでおしまい。

あの 「白パンダなの」 のひと言が、いまでも忘れられないのです。

いささかの力みもなく さらっと言ってのけただけなのに、そこには 「この話はこれでおしまい、この上ああだこうだと茶々を入れるのは野暮で無意味なだけ」 と感じさせる何かがあったんですね。

それがいまになって、あのとき貴秋が感じさせられたものが何だったのか、なんとなくわかった氣がしたのです。




彼女は単純にあの曲が好きだっただけで、歌詞の筋が通っているかどうかなんて問題じゃなかったから、理屈立てて反論する必要も感じなかった。

一応こちらの問いをちょっと考えてはみたけれど、真剣に相手にするほどのことじゃないと判断しての答えが 「白パンダなの」 だったのでしょう。

彼女は内側に揺るぎない自分の世界を持っていて、自身の好みや感情も明確に把握していたから、貴秋のからかいなどものともしなかったんですね。

むろん こちらも面白半分の軽い氣持ちで聞いてみただけですから、当然といえば当然の結果ですが、それにしても何の氣負いも力みもなくすっと返されたあのひと言の、なんと芯が通って迷いなかったことか。

もし彼女が貴秋の問いに自信をぐらつかされ、カチンとかイラッとかきて反論したのなら、こちらにもさらなる反駁の余地が生まれたことでしょうが、あの 「白パンダなの」 は ただそこにぽんと置かれただけなのに、それ以上のしょうもない追求など許さない完結感に満ち満ちていました。

いまの貴秋には、それが 「つねに自分の氣持ちを正しく掴み、自身の核を感じている者の強さ」 に思えます。




昨今は リアルな暮らしの場でもSNS上でも、意見の異なる者を感情的に攻撃し排斥するようなとげとげしいやりとりが増えているようですが、それは人々が 思うさま自分の夢を追ったり 自分をのびのび表現したりできなくて、怒りや悔しさなどの負の感情を溜め込んでしまっているせいのような氣がします。

人間が 富める者と貧しい者、強者と弱者に分かれて以来、私たちは何千年ものあいだ、多くの怒りや恐れや挫折感を 意識の共有を通じて前の世代から受け取り、次世代にそっくり渡すことを繰り返してきました。

いまでは なぜこんな世の中になったのか、そもそも貧富や強弱が分かれるもととなった最初の出来事は何だったのか、理由がわからないまま、ただただ現状を憂え、環境や身分のせいで やりたいことが自由にできないとか、うかつなことを言ったらどんな反発を食らうかわからないとかいうフラストレーションを抱えて 日々を生きています。

そんな意識のざわつきが、自身のほんとうの氣持ちや 自分という存在の核を感じ取れなくしてしまっている。

このざわつきを手放してゆくごとに、本来の自分を取り戻して 心が軽く明るくなり、隠れていたほんとうの思いや望みが 次第に表に出てきます。

顕在意識は 原因がわからなければ 答えを導き出すこともできませんが、自身の内を見つめる視点を取り戻して 潜在意識と再び手を携えれば、その思いや望みを実現する方法も 最高のタイミングでひらめきとして下りてきます。

「思い通りの人生を創り 生きる自分」 という新たなセルフイメージは、自分という存在の確かさ (芯 ・ 核) を 理屈抜きで感じさせてくれます。

肯定的な自己を確立した人は、物事をネガ観念に歪められることなく あるがままに見ることができるので、ありのままの自分を認めるのに 他者の承認を必要とせず、意見の異なる人と争うこともありません。

あの 「白パンダなの」 の女の子のように、なんの衒いも肩肘張ることもなく 「これが私なの」 とさらりと笑顔で言えるようになるのです。




白パンダの彼女は、いまどうしているかしら。

仕事に遊びに打ち込んでいるかもしれないし、彼女のお母さんのように優しくて素敵なお母さんになっているかもしれないなぁ。

そして、あのとき感銘を受けた 「白パンダなの」 のような物言いが、いまは自分にもできそうなことが 何よりうれしい貴秋です。



















暮らしを紡ぐ、物語を紡ぐ

2022年11月20日 14時07分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
ふと氣がつけば、今年になってからアップした記事ってことごとく 「貴秋の視点、すなわち偏見」 カテゴリーのものばかり。

内観と並行して日々の暮らしもちゃんと楽しんでいるのに なんで? と思ったら、どうやら写真が載せられないせいらしい。

2月の終わりごろから いよいよパソくんの調子がで、ついにブログのプレビュー画面が出なくなってしまったので、父の使ってないパソコンを借りることになりました。

おかげでブログ更新もサイト閲覧も検索もサクサクできるようになって しみじみありがたいのですが、ひとつ問題なのは 写真の取り込み方がわからないこと。

手探りで試そうかとも思いましたが、機械オンチの貴秋が借り物にうかつなことをしてトラブったりしたら。。。と思うと、やはり心配で。

相変わらず台所で楽しんでるし、庭でささやかに冬野菜も育てているし、散歩やサイクリングにも行けば、読書やペーパークラフトにもいそしんでいるんだけどなぁ。。。。あ~、こういう話も書きたいよぉ~

というわけで、きょうは相変わらずのカテゴリーながら やや暮らし寄りのお話を。




「人生という物語の作者」 なんていうと やたら壮大で大仰に聞こえるかもしれませんが、実際の人生って 小さくて平凡な選択の積み重ねだと思うのですね。

朝目が覚めたらすぐ起き出すか、布団の中でひとしきり過ごすか。

朝食は食べるか食べないか、食べるなら和食か洋食か。

出かけるか家で過ごすか、出かけるなら何を着て何を持っていくか。

外でご近所さんと出会ったら 挨拶だけするか、ひとこと余分に添えるか。

ことさら意識しないような こんなささやかな選択をつなげてゆくだけでも、ショートエッセイのひとつぐらい書けそうではありませんか。




十代、二十代のころは 「大きなことに取り組んで 華々しい結果を出し 名を上げてこその人生」 という感覚が強かったのですが、いまは こういう小さな出来事や感情の積み重ねこそ何よりの宝という氣がしています。

作った料理が美味しかったとか、播いておいた種からかわいい芽が出たとか、散歩中に珍しい雲や美しい夕焼けを見かけたとか、ふらりと入った店で初物の野菜や果物と出くわしたとか、そんなちっちゃな喜びがどこまでもどこまでも続いてゆくなら、それは十分豊かで満ち足りた人生だろうと。

こういうささやかで何氣ない幸せって 見逃そうとすれば簡単に見逃せてしまうのだけれど、そのありがたみを痛切に感じるのは、当たり前と思い込んでいた平穏な暮らしを失ったとき。

貴秋はこれを、和歌山時代にいやというほど味わいました。

晩秋の山腹の駐車場から 夕闇迫る眼下の街並に明かりがひとつ またひとつ灯ってゆくのを眺めつつ、「今の自分には入れてもらえる団らんも温もりもないんだな」 と思ってぽろぽろ涙したことが幾度あったか。

そんな哀しみを知ってこそのいまの自分。。。という氣がします。

ウクライナやロシアの人たちも、どんなにか切実に以前の暮らしを思っておられることでしょう。

コロナで 家族や友人と過ごす時間のありがたみをかみ締めた人も多かったはず。




何もかもすっかり失ってしまうまで待つことはありません。

もしいま 辛かったり不安だったり寂しかったりするのなら、その感情を一度しっかり味わって終わらせましょう。

その先に、これまで見過ごしていたあたたかく豊かで安らかな世界が 私たちが戻ってくるのを待っています。

派手に人目を引き 羨望の的にならなくてもいい、この淡々と穏やかな日常こそ何よりの宝物と思えたとき、人生という物語がいっそう輝きを増すのだと思います。

















分離から統合へと向かう道筋⑥ ~ 統合とは もともとの自分に戻るだけのこと

2022年11月13日 19時57分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
地球上のあまたの生物の中で 私たち人間がちょっと変わった存在なのは、源の意識の 「できる限り多種多様な体験を通して自分を知りたい」 という望みを託されているためだと思っています。

何事も 教わったり計画立てたり練習したりしないとできないと思い込んでいるのは、人間だけ。

これだけてんでんばらばらでバラエティに富んだ物作りや行動をするのも、人間だけ。

そこからこれだけ飛び抜けた成果を上げるのも、またこれだけド派手な失敗をやらかすのも、人間だけ。

まったくもって私たちは、体内で突然ホメオスタシスを無視して勝手な増殖を始めてしまうガン細胞のようなものかもしれません。

そしていま、増殖を止め 病んだ細胞を健康なものに置き変えて起死回生の復活を遂げるか、このまま病魔に屈してゲームオーバーとなるかの分岐点に立たされていると感じます。




このタイトル記事も 6回目の今回をもっておしまいになりますが、ここで大切なことをお話ししておきたいと思います。

以前からよく 「世界を望むように創り変える」 という表現を用いてきましたが、正確に言うと 「望むありようが実現している世界にこちらが移る」 のです。

すなわち 「パラレル移行」 ということ。

人の数だけ世界があり、さらに一人一人の意識に 思いつく限りの世界がすでに可能性として内在していて、私たちは瞬間瞬間そのときの意識の波長にもっとも合う世界を選んで それを具現化し身を置くことで、人生という自作の物語を構築し続けているのです。

波長が変われば 身を置く世界も変わる、普段はそれと氣づかぬほどのわずかな変わりようでしかありませんが、ときに意識の飛躍的な変化によって 前後で整合性がとれなくなるほどに変わることがあり、それが集団で発生するのがマンデラ ・ エフェクトだと 貴秋は解釈しています。




貴秋がパラレルワールドというものに心魅かれるようになったのは、リチャード ・ バック作 「ONE」 を読んで以来。

その後、こういった動画などを通じて その存在がだんだん現実味を増し、「パラレルワールドが存在する」 という仮説を日常のさまざまな場面に当てはめてみる習慣がつきました。

そして こんな記事を書いたりしたわけですが、このころはまだ 「パラレルジャンプ。。。な~んちゃって」 ぐらいのどっちつかずの受け止め方でいました。

それをくつがえしたのが、2021年年明け早々のこの体験

東北大震災などというインパクト強烈な出来事の記憶を取り違えるとは思えず、「やっぱり世界が変わるんじゃない、違う世界に自分が移るんだ」 という確信が生まれました。

さらにダメ押しとなったのが、こちらの記事に書いた ことし三月末のある出来事。

やはり具体的な内容は書けなくて申し訳ないのですが、この 「ここ数年苦にしていた大きな縛りがひとつ 思いがけない形で外れた ある出来事」 もまた、パラレル移行としか言いようのないものでした。

これが日記の話のときと異なるのは、この移行後に起きたことが、移行前にはなかった物質的利益をもたらしたこと。

「 これまで意識内の負をこつこつ手放し続けてきたことが この結果につながった、『意識が変われば世界が変わる』 はほんとうだった!」 という深い感動が湧き上がり、これ以降パラレル移行は貴秋の中で正式に事実認定されたのでした。




こういう捉え方がなじんでくると、人生ストーリーの書き手としての自覚が がぜん前面に出てきます。

前回お話ししたカードリーディング動画ですが、これを見ていると 脇のお勧め動画に 予言や予知にまつわるものがちょくちょく出てきます。

これがまた 最近の世相を反映してか 、第三次世界大戦、巨大地震、世界滅亡などと おどろおどろしい内容のものが多い。

確かに カードリーダーさんなども含め、時間概念を超えた潜在意識の力を活用して 未来を見通せる人はたくさんおられると思います。

が、言葉化されたそれは、誰かの意識フィルターを通して その人なりの意味づけをもとに分け出された その人だけの世界であり、数ある可能性のひとつに過ぎません。

そういう世界もあるでしょうが、でもそれが好ましいと思えないなら 自分はそれは選ばないと決め、もっとこういうのがいいと思う新たな世界を具現化すればいいだけのことです。

貴秋も子どもの頃は ノストラダムスの大予言などに脅えたクチですが、いまは意に染まない筋書きからは さっさと意識を離し、もっと楽しいことに氣を移すと決めています。

それが自分軸の生き方っていうものだと思うんですね。




“かえり” の道にあるいまは、“行き” と比べて パラレルワールドだの仮想現実だのという五感世界の常識を超えた情報が市民権を得やすくなっていますが、情報がいくら出回っても 実際にそれを使いこなせる人がなかなか増えないのは、意識に上ってから具現化するまでのタイムラグと 潜在意識に隠れた “バグ” のせいで 世界を創っている実感が湧かず、創造主である自分を信じ切れない人がまだ多いためだと 貴秋は見ています。

タイムラグは 意識と現実の因果関係を掴みにくくさせるし、潜在意識の動きを感じ取れないため バグの邪魔立てにも氣づけず、望みとうらはらな現実に 「ほら、いくら望んだってやっぱり叶わないじゃない」 という確信ばかりが深まってしまう。

意識の統合とは、負を一度はきちんと体験することで このバグを手放し、潜在意識が顕在意識のリクエストをまっすぐに反映するようになるところから起こるもの。

白と黒がグレーのグラデーションによってひと続きになるように、潜在も顕在ももともとひとつの意識であったことを思い出し、肉体を備えたまま 創造主の自分に戻るだけのことです。

顕在意識オンリーの二項対立の世界を超えた先に、ただひとつの真実が感じ取れ、そこを土台に各自が思い思いの世界を表現してゆくとき、私たちは 長かった分離の道を過ぎて、新たな統合の道を歩み出しているのです。




これをもちまして 「分離から統合へと向かう道筋」 の話はおしまいとなります。

長文をお読み下さいまして ありがとうございました。

















分離から統合へと向かう道筋⑤ ~ 顕在意識と潜在意識の連携が生む世界

2022年11月10日 11時03分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
カードリーディング動画をよく見るようになって、4~5年経つでしょうか。

カードリーディングとは、タロットカード ・ オラクルカード ・ ルノルマンカードなどを使って 現状や過去に起きたことの意味、この先の流れなどを読み取ること。

まだなにかと心細いことが多くて 支えになるものが欲しかったころに見始めたのですが、次第に 「五感を超えた領域の話が こんなにナチュラルに飛び交う世界があるんだ」 と そこに身を置くことがうれしくなり出し、今では直感を磨く機会として活用させてもらっています。

カードリーディング動画の多くは、その回のテーマに沿った 三つまたはそれ以上の選択肢の中からひとつを選ぶ形になっています。

選択肢は、トランプの裏側のように全カード共通の面を上向けたカードを数枚並べて示されることもあれば、それぞれ違う絵柄のカードや 種類の異なる天然石 ・ ミニチュアの小物などが置かれていることもあります。

この選択を何度も何度もやっているうちに、面白いことに氣がつきました。

サイズも柄もまったく同じカードが並んでいても、そのうちのひとつだけが妙に目立って見えるときがあるのです。

これは選択肢が別々のものの場合も同じで、なぜか強力にアプローチしてくるものがひとつあって、しかもそれがしばしば好みとは一致しなかったりする。

「どれかひとつくれるって言われたら、まずこれはありえないけどなぁ」 なんて思いながら、あまり惹かれない絵柄や色形のものを選ぶのですが、実はこれが大当たりなのです。

ここで言う大当たりとは、現状が 「もしかして私のこと見てました?」 と言いたいぐらいドンピシャだったり、未来についても 自分の望みやイメージそのままが描き出されていて テンション爆上がりだったりすること。

予想が当たるか否かに関係なく、それを聞いた瞬間 「うわ、ピッタリ!」 と胸躍るようなものを指すのですが、こういう個人鑑定と見まごうようなリーディングを引き当てるときは、不思議と事前に選択肢のほうから 「これだよ、これ」 と主張しているのがわかるのです。




そんな体験を重ねる中で、その昔読んだ ナポレオン ・ ヒル著 「思考は現実化する」 で 鉄鋼王アンドリュー ・ カーネギーが言ったという 「決断は1分以内に下せ」 という言葉が腑に落ちました。

「迷う」 というのは 顕在意識がすることで、迷うときはそこに 「これだ!」 という答えはなく、カードリーディングでも どれを選んでも 「まあ外れてはいないけどね・・・」 程度で、“当たり” を引き当てたときの感動は得られない。

1分以上迷うときは、そこに真の答えはないということなんですね。

ほんとうにこれだと思う答えは、顕在意識と潜在意識が連携して初めて確実にキャッチできるようです。

私たちの五感では カードの伏せられた面を読み取ることはできませんが、五感を超えたところでは どれを選べばいいかちゃんとわかっている。

潜在意識が瞬時に出す答えを 顕在意識が迷わず受け取り行動に移せれば、これまで 「そんなのできっこない」 と思い込んできたことがごく自然にできるようになるのです。




私たちは、これまでずっと 顕在意識を通して掴める世界がすべてと思い込み、またそう思い込むよう誘導されてきたため、五感の枠内でしか物事を受け止められずにきました。

が、“行き” の道が “かえり” に転じたいま、この枠内ですべての問題を処理する限界が見えてくると同時に、新しい意識のありようへの関心が高まってきています。

五感がすべてという思い込みにもちゃんと意味があって、それは 「本来の自分にない負の要素を体験したい」 という魂の望みを立派に叶えてくれました。

そして 「本来の自分に戻る」 ほうに流れが変わったいま、私たちひとりひとりが これまで避けてきた負の体験を一度しっかり受け止めて終わらせさえすれば、ずっと奥に押し込められていた潜在意識が再び顕在意識と手を携えて、ネガ感情から生まれた惨状をうまく処理し よりよく創り変える方法を思いつかせてくれます。

ここで素晴らしいのは、その知恵やアイデアが 私たちひとりひとりの個性に最もマッチする形でもたらされること。

誰もが 自身の得意分野で活躍できるような情報が下りてきて、なんの抵抗もなく実行に移せるのです。

これまで 「私なんてなんのとりえもない」 と思い込んでいた人の中に どんなすごい宝が眠っているか、想像するだけでもわくわくしてきませんか?

そして、からだのすべての細胞が滞りなく実力を発揮してくれて初めて 最高の健康体が実現するように、地球上のすべての人の能力が余すところなく発揮されて初めて 真に健やかで平和な世界が姿を現すのですから、必要ない人 ・ 価値のない人なんてひとりもいないのです。




SMAPの 「世界に一つだけの花」 という曲がありますね。

あの歌は多くの人の心を打ちましたが、あそこに歌われた 「誰もが特別なOnly oneとして自分だけの花を咲かせる世界」 がいまだに実現していないのは、いまのところまだ目覚めていない意識が多いからというだけのこと。

実現したければどうすればいいかは、ちゃんと歌詞が教えてくれていますよ。



             “ そうさ僕らも 世界に一つだけの花

              一人一人違う種を持つ

              その花を咲かせることだけに

              一生懸命になればいい ”















分離から統合へと向かう道筋④ ~ 顕在意識と潜在意識の連携がもっとも確かな導き手となる

2022年11月07日 15時33分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
源から突然もたらされるアイデアや情報というのは鮮烈でインパクトがありますが、 実はもっと目立たないところでそれとなく私たちを誘導し動かしている意識があるようです。

つい先日、そんな過去の誘導のひとつに氣づいて驚いたことがありました。




和歌山に移った貴秋が旅館の仕事に就いたのは、知人もいない土地で仕事と住み家を見つける一番手っ取り早い方法だったからですが、数軒を渡り歩いたそのほとんどで出くわしたのが、こちらの至らない点を見つけては 威圧的に叱責する先輩女性。

もちろん 至らぬ点を指摘 ・ 指導されるのは当然ですが、その女性たちというのはことごとく 「非を必要以上に手厳しく または口数多く咎め、恥辱や罪悪感を感じさせ 萎縮させてエネルギーを奪う」ような叱り方をする人たちだったのです。

この人たちが貴秋の母親の投影であることには割と早くから氣づいており、行く先々でそういう人と出会うのも意味あってのことと、いたずらに反発するよりも 叱られた際の感情や感覚と向き合う努力を続けてきましたが、先日突然氣づいたのは、「ただそういう人たちと出会っていたというだけじゃない、自分のほうで わざわざその人たちが目をつけるような失敗をやらかすよう潜在意識に誘導されてたんだ!」 ということ。

もとよりスローテンポな貴秋、旅館に限らずどんな職場でも 効率重視で手早さを要求されるのは苦手でしたが、それでも一ヶ月も経てば ひと通りのことは覚えて、無駄なく動けるよう手順を考え あれこれ工夫したりもしていました。

が、「きょうこそ余裕持ってバッチリ♪」 というような日に限って、いつもなら持っていくものを忘れたり 普段しないような凡ミスをやらかしたりして、せっかくの余裕がなくなってしまう。

さらにキツかったのは、注意に注意を重ねて 今度こそ完璧というときに、他の係の不手際で余分な仕事が増えたり、必要な人がなかなか呼び出しに出てくれなかったり、お客様からのイレギュラーな注文がやたら多かったり、突然の変更が生じたりして、結局いつもと同じような結果になってしまうこと。

当時は 「なんでいつもこうなっちゃうの?」 とゲンナリするだけでしたが、先日ハッと氣づいたのです、あれは自他引っくるめて全員の行動を 潜在意識がわざとあのように仕向けて、貴秋が叱責体験を繰り返すよう導いていた (潜在意識は全人共通の領域で 自他の区別がないから、他者を動かすことも可能) のだと。

同時に、なぜそんな誘導がなされたのかもわかりました。

小さい頃に母を通じて植え込まれた怒りや恥などの意識が、母を思わせる人たちによって 繰り返し意識の表層に上がることで、負の手放しが進むよう意図してのことだったのです。




実のところ、自分の意識が 「知覚できる自身の意志」 とは別の何かによって操作されていることは、もっとずっと早くからうすうす氣づいてはいました。

彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦さんの講演会に何度か行っているのですが、どの話も同程度聴いているにも関わらず、内容によって 他者に伝えられるぐらいきちんと覚えているものとそうでないものとに分かれるのです。

里山の循環の話などは すんなり入って焼き付いているのに、臨死体験までの経緯や 臨死中のさまざまな不思議体験については、講演のCDまで買って覚えようとがんばったのに どうしてもあやふやにしか覚えられない。

あるとき、この覚えられない話を聴いているときは 意識のどこかが痺れたように鈍って 記憶力が十分発揮できなくなっていることに氣づきました。

と共に、自分がぜひとも覚えておくべき話とそうでない話があることにも氣づかされたのです。

脳内の記憶容量には限りがあるため、自分に必要な情報だけが残るよう 何かが脳の働きを調整しているらしい。

あの和歌山移住や伊勢行きのときのこととも相まって、知覚できないところで 何らかの意図のもとに自分を動かしている意志の存在を認める氣持ちが 次第に強くなっていきました。

が、その意志を信頼できるかどうかはまた別問題だったのです。




前にも書きましたが、「顕在意識がすべて」 から 「顕在意識と潜在意識のコンビプレー」 へと意識のありようが切り替わるまでには、両者が熾烈な主導権争いを繰り広げていました。

何を考えているのかまるでわからない潜在意識を それでも信じて委ねようとすれば、「なにをバカなことやってるんだ!」 と顕在意識からダメ出しをくらう。

さらに どれだけ潜在意識の働きを認めようとも、いったん登場人物として体験世界に呑み込まれれば、強烈な感情に振り回されて 作者である自分のことも人生をコントロールする力のことも忘れてしまいます。

これは素晴らしいことでもあるのです。

体験の渦中にあっても いくらでも都合よく筋を書き変えられるとわかったままだったら、必ず勝つとわかっているゲームをやるのと同じで、人生を思い切り楽しむことはできませんものね。

が その仕組みのおかげで、否定的体験が積み重なると 「潜在意識はなんでこんなことをさせるの?もしかして私をいたずらに苦しめて面白がってるだけなんじゃないの!?」 なんて疑いがアタマをもたげ、なにもかもが信じられなくなって、引きの視点にしばらく戻れなくなるのも また確か。

せっかく時空を超えて貴重な情報をもたらしてくれる存在を認めておきながら、そんな疑念のせいで ほんとうに自分は正しい道を歩いているのかと どれほど悩み抜いたかしれません。

そこにこの 「思った以上に潜在意識が自分をコントロールしており、それはすべて 『本来の自分に戻る』 という望みを叶えるためだった」 という氣づきが飛び込んできて、ようやっと内なる導きを全面的に信じられるまでになりました。

いくつもの不安材料を抱え、多くの矛盾した情報が飛び交い、世界情勢がますます混迷を深めるいま、心から信頼を置ける導き手が自分の内にある心強さを つくづく思います。