毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

彼岸明け

2015年03月24日 15時52分43秒 | 紡ぐ暮らし


きのうはお隣小学校の卒業式。

毎年なんともいえない切なさを覚える日。

今年の卒業生は、男の子・女の子1名ずつの 計2名。

たったふたりなのに 10人分ぐらいエネルギッシュでバイタリティ溢れていた 1~2年生ごろの様子を思い出し、ぐっと背が伸びて大人びた今の姿と重ね合わせて 祝福と寂しさの入り混じった思いを胸に、会場の片隅からそっとお見送りしました。




戻ってからは、早朝にさっと茹でこぼしておいた小豆を煮て、あんこ作り。

お中日には間に合わなかったおはぎを作ろうと思ったのですが、ちょうど寒の戻りということで ストーブが使えると楽しみにしていたのに、思ったほど氣温が下がらず、結局大方はガスコンロで煮ることに(^_^;)

しかも、付きっきりというわけにいかないので 火を点けたり止めたりを繰り返していたら、夕方になってもまだ十分な固さになってな~い

ここであっさり方針を翻し、お汁粉にプラン変更

われながらつくづくこだわらなくなったなぁ。。。。いいのか悪いのか ( ̄ー ̄;)ゞ




ところがその後、だんだん薄暗くなっていく部屋でパソコンなどやっているうちに ふと睡魔に襲われ、氣がついたら 真っ暗な中、時計の針はすでに日付変更線近く Σ( ̄□ ̄;)

うろたえながら はっと思い出したのが、ご先祖さま方に供されるはずのお汁粉。

一瞬もうやめようかなどという罰当たりな考えがよぎりましたが、それでは 楽しみにしてくださっているであろうご先祖さまにあんまりというもの。

これは日付変わるなぁと思いつつも 急いで台所に立ち、ゆるゆるあんこをミニ土鍋でのばして温めるかたわら、上新粉を少量ボールにとり 水をたらして指先で捏ねて丸め、小鍋に沸かした湯に落として、やや大きめのお団子を三つ。

出来上がったお汁粉をお椀に盛り、半月盆に乗せて お供え、といっても、仏壇も神棚も 前の家のようなサンクチュアリ・コーナーもないので、こたつの上を片づけて 真ん中に置いただけですが。

こんな時間でごめんなさい、どうぞお召し上がりください、と両手を合わせてご挨拶。

こういうものを作るのも食べるのも好きだった 母や祖母、おば達の顔が浮かびました。




こちらが女性陣向けなら、春分の日のお供えは 男性陣向け。

今回初めて、日本酒をお供えしました

下戸の私、これまでお酒を供えるという発想がなかったのですが、以前の記事に書かせていただいた “この世ならざるものが見える方” のブログで ご先祖さまからお酒のお供えのリクエストがあったという話を読み、そういえば 父方母方どちらにも お酒の好きなおじいちゃん方がいたものなぁ、と反省して。

が、この日もなんやかんやでバタバタするうちにすっかり遅くなり、もうちょっとでお中日過ぎるぞ~、の手前でギリギリセーフ

前回といい今回といい、ご先祖さまご一同にすっかり呆れられてるだろうなぁ

お酒はぬるめの燗で、簡単な肴にと ちょうどあった白菜でナムル風の小皿を一品、柚子の皮などぱらりと散らして。

自分が飲まないからって 皆さまのお好みを忘れていてごめんなさい、これからはときどきお供えしますから、と 心の中で m(__)m




で、今回の真夜中のお汁粉、結局日付変わってからのお供えになっちゃったんだけど、実は彼岸明けを一日勘違いしていたゆえの大慌てだったのでした ( ̄∇ ̄;)

ほんとうの明けは きょう24日、これはもう一回お汁粉作れるな♪

風呂場横の空き地の草取りしていて よもぎをたくさん見つけたから、今度はよもぎ団子のお汁粉にしようかなぁ

一番食べる氣満々なのは誰? って話はおいといて(〃∇〃)




長男である父の元に生まれながら、家に仏壇もなければ、遠方ゆえにお墓参りにもめったに行った記憶がない私、以前はご先祖さまを意識することも お供え物をする習慣も ほとんどありませんでした。

それが、五感を超えた世界についての話を見聞きすることが増えると、ご先祖さまを敬い感謝する話がしょっちゅう出てくるので、なんとなく氣を向けるように。

でも、幼い頃から親戚と離れた地に住み、親兄弟以外の身内との縁が薄かった私としては、心情的に親しみが増したわけでもないのに、自分の問題をクリアするために 急にご先祖さまご先祖さまと持ち上げるなんて なんだか下心満載でいやらしい氣がして、いささか複雑な心境だったのです。

が、五感を超えた世界の存在感が増すにつれて 少しずつ心境の変化も起き、長年の思い込みの靄がかなり薄らいだらしい今、なぜか不思議とあちらの方々を身近に感じます。

いや、アヤシゲな話ではなくて (笑)

いつも温かく見守ってくれているんだということが すんなり信じられ、生前よりもよほど近しく思えるのです。

そもそも 五感を超えた世界なんてものが 日常に入り込んでいる時点で、此岸と彼岸の境界線なんて とっくにあやふやになっているのかも、ね (^◇^;)




というわけで、そろそろよもぎ茹でるかな~





















ほんとうの氣持ち

2015年03月23日 13時28分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ハンドウォーマー仕上がりました~ \(^o^)/

棒針はほんと久々で、目を落とさずうまく綴じられるか心配だったけれど、幸運の導きか大成功、なんとなくコツもわかってきて 二重にうれしい結末に♪

素人の作品だから 編み目が不ぞろいだったりするけれど、やりたい! が素直に形になって、わくわく過ごした時間がたっぷり編み込まれた宝物、見るたび着けるたびにいい氣分になれること請け合いです




出来上がったものもうれしいけれど、今回何がうれしかったって、自分のほんとうの氣持ちを誤りなくキャッチして 即実行、望むとおりの結果を出せたという一連の流れが 最高にうれしかったなぁ♪

過去に 苦い失敗がたくさんあったからね (^_^;)

一番のネックは、自分の 「ほんとうの氣持ち」 が掴めていなかったこと。

自分の氣持ちぐらいわからないはずがないと甘く見ていたけれど、どうしてどうして これほど身近にありながら これほど見えにくいものもなかったのです




前にも書いたことがあったと思うけれど、素敵なティータイムを過ごしたいとがんばってお菓子をたくさん焼いたのに、家人にばくばくっと平らげられて 「ごちそーさま」 で はいおしまい、楽しみにしていたはずのひとときって何だったの? と ひとり涙にくれたり

スーパーで溢れかえる季節の素材に夢中になり、あれもこれもとわくわく買い込んだのに、いざとなったら調理意欲がウソのようにかき消えて、たくさんの食材をだめにしてしまったり

手芸の本を買ったり、雑誌のレシピを切り抜いてスクラップしたりして、長い時間をかけてじっくり眺め、作っているところをさんざん想像しながら、結局何ひとつ作らずじまいだったなんてことも数知れず




今ならわかるんだけど、このいずれも、私が望んだのは 実際の行動ではなかったのです。

私がときめいたのは、先行する「なんとなく幸せそうなイメージ」 のほう。

過去に体験したり 雑誌や本で見たりした、まばゆい光が溢れ いかにも幸せそうな光景から連想される、“幸せな暮らし” のイメージ。

その漠然としたイメージを 行動することで自分のものにして 幸せになれると思い込んでいたのだけれど、行動そのものにピントが合わずじまいだったから、からだもすんなり動かなかったし、無理やり実行しても 期待通りの結果がついてこなかったんだよね (T_T)

そして肝心なのは、そのときの私は 幸せでも充実してもいなかったということ。

だから、そんなあやふやなイメージに 自分を託して幸せにしてもらおうとして、思い切り失敗したわけ。

度重なる失望の積み重ねから、ほんとうの氣持ち・ほんとうの望みをきちんと見極める大切さを学ばせてもらいました。




上の例で言えば、私のほんとうの望みは 「何かをすること」 そのものではなく 「満たされて幸せな氣分になること」 だったんですね。

それがわかれば 次に進んで、「ではなぜ 今そうなれていないのか」 を探ることができます。

立ちはだかっていたのは、絶えずつきまとっていた そこはかとない不安や不満。

では、その出所・原因は何なのか、どうしたらそれらを手放し 満ち足りて幸せになれるのか。

ひたすら根っこへ根っこへとたどっていった結果、体感フォーカスという情報に行き着いて、そこからオセロのコマを次々ひっくり返すような変化を起こすことができたのです




今思うと、不安なときほど 不安そのものを見ようとせず、何かをすることで 外側から埋めようとしていたんですね。

でも、何をしても ネガ感情に邪魔されて、プロセスも成果も十分味わえなかった。

不安の多くが解き放たれたであろう今は、何をしようかなどと あまり前もって考えなくなりました。

楽しそうな情報は いっぱい集めてストックさせてもらっていますけどね♪

あとは ひらめきや なんとな~くの思いつきで動き出すと、ほいほい導かれるようにして なんだかうまくいって、すごく満ち足りた氣分になれるのです




だいぶ前に読んだ、故・岸田今日子さんの 「パンを焼いたり ジャムも煮てみたいけど。。。。あこがれているのがいいのね」 という言葉が印象に残っていますが、今になって なるほど、あこがれで留めておくという手もあるんだ、と納得です。

本や雑誌・ブログの記事や写真にあこがれて 何度も楽しく味わい読みながら そのままにしておく。

それもひとつの楽しみ方なんですね♪

そんな中から あるときひらめきに乗っかって浮上して実現するものもあって、それもまた楽し、と(^^)




ほんとうの氣持ちが表に出てくると、何をやっても結果を出せなかった世界から 「素直に望みどおり」 の世界へと おのずとシフトするようです

やっぱり 行動よりありかたのほうが先、みたいですね☆





















やめられない止まらない♪

2015年03月21日 09時19分37秒 | 日々の楽しみ


スナック菓子のことではありません

止まらない。。。。編み編みする手が止まらない~(^_^;)




右腕の小康を得て ネックウォーマー作りに拍車がかかってからというもの、もう楽しくて楽しくて あっという間に編み上げ (ボタンのつくデザインなんですが、手持ちにぴったりくるボタンがないので 完成はもう少し先) 、まだまだ編み足ら~んとばかりに 次の作品を物色。

同じ毛糸で おそろいのハンドウォーマーも編もうと あちこちで編み図を探し、ネックウォーマーと同じように縄編みがちょこっと入ったデザインのものを見つけ、さっそく編み始めたのですが、途中で あれ?なんかおかしいぞ、と。。。。。

参考作品は 素人の方のオリジナルで、よくよく見ると 公開されていた編み図の目数が どうも間違っているような。

ご好意で無料公開してくださっているものなのだから仕方がないのですが、すでに編み上げた一目ゴム編み24段 どーしよー、と悩みつつ中断。




こういう突然行く手をさえぎられるようなシチュエーションに極端に弱かった私が、今回も驚きの変身。

あの 「カッ」 とか 「イラッ」 とかを誘発するからだの感覚が、まったく上がってこない (゜0゜*)

「まったくといっていいほど」 ではないのです、「まったく」 = ゼロ なのです。

細胞ひとつ ピクリとも動かず、当然 イライラもキリキリもやってこない。

初めてだよ こんなの。。。。。




こうなってみてつくづく思うのですが、感情の乱れって 余計な足止めを生むのですね。

不条理にさえぎられたとか引き戻されたとかいう怒りに目をくらまされなくなると、次へと冷静に針が進められ、新たな選択肢が示されます。


    ① 編み物をやめて 別の楽しみを見つける

    ② 他のものを編む

    ③ いったん保留にして、代わりになる別のデザインを探す


この中で これまでだったら一番選ばなかっただろう③に 意識が向き、とりあえず中断。

他のことをしていたら、不意に 以前母の形見の手芸本からもらってきた一冊のことが浮かび、引っ張り出して探したら、うまく当てはまりそうなデザインと編み図を発見、すぐさま再開

これが見事に当たり、もう早く完成品が見たくてわくわく、やめられない止まらない~ の展開に。

きのう一日で 両手分を一氣に編み上げ、あとは綴じれば出来上がり




それにしても、ふと思いついて手に取った本に どんぴしゃ望みどおりの情報が・・・・なんて、超能力者ですか?って感じですが、実はこういうことって 不思議でも珍しくもなくて、恐れや迷いに曇らされていさえしなければ、誰にでもバンバン起こることなんじゃないかっていう氣がします。

あの鍵閉じ込みのときなんかもそうだったけど、心がしんと凪いでいれば、な感じで 当然のように すっすっと次の行動が浮かび、従うと面白いぐらいうまくいくのです。

これって、私たちみんな もともとこういうふうにできているんだよってことのように感じます♪




自分でも いったいぜんたい私何やってるんだろう、って訳わからなくなったりしながら、それでもひたすら続けた体感フォーカス、その結果が 少しずつ表れ始めたようです。

その安心感と自信に支えられ、きょうも一番やりたいことを選んで 楽しく過ごしま~す \(^o^)/

収穫は 感謝と共に よぉ~く味わわなくっちゃ♪ だもんね




で、きょうも右腕がびみょーに痛いのは、過去のわだかまり? フォーカス実験のし過ぎ? それとも編み物張りきり過ぎ?



(^◇^;)




まずはしばらく腕休ませてからにしようっと。。。。。





















春わくわく

2015年03月20日 11時25分49秒 | 日々の楽しみ


なにか 「これ」 っていうことを見つけると、わくわくして やらずにいられないのは 人共通のサガなのでしょう。

私の場合、美味しそうなレシピと出くわすとか、魅力的な種や苗を見かけるとか、編み物や縫い物の素敵な作品に食指が動くとかすると、もうじっとしていられません d(≧∀≦*)

さらにもうひとつ、「古い思い込みを解き放ち 分裂していた自分のかけらを取り戻す」 ことについての 面白そうな情報をゲットしたときもね☆




それにしても、こうも次々と新たな情報が飛び込んできて わくわくの種が尽きないのは、それだけ私の知らないことがいっぱいあるから。

知らないって、素敵なこと

なのに 少し前までの私は、知らないって 弱みを見せることだと思い込んでいて(^_^;)

まあ、生育環境による刷り込みだから 仕方ないんだけど、いったん見方が変われば、さっさと手放すに越したことはなし。

私は何でも知ってるんだぞ、すごいんだぞ、って肩怒らせつつ 絶え間ない緊張を強いられるよりも、そんな緊張さっさと解いて、「え~知らない、なにそれ~?面白そう」 って いつもわくわくしてるほうが、きっとずっと楽しいね (*^^*)




やっぱり きょう明日あたり、リニューアルにうってつけの時期らしい♪

便乗して 臆面もなくキャラ替えをもくろむ貴秋なのです

いいのよいいのよ、これからどんどん面白くなっていくから (^_-)




春のわくわく、自身のわくわく、内から外から響き合って、やっぱりこの春は これまでにない春になるみたいです \(^o^)/



















リニューアル

2015年03月20日 08時40分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


右腕その後 なんですが、思いがけない記憶が戻ってきました。

右腕の付け根の中心近く ・ 2~3箇所に、かなり前から痛む筋があったのを思い出したのです。

ただ、後ろ手で思いっきり持ち上げるとか 左肩越しに大きく下に回すとか、極端な動きをしない限り 痛むことがないので、特に暮らしに差し支えることもないからと放置したまま すっかり忘れていました。

いつからこんなふうだったかも 今はまったくわかりません。




それと、今回のような腕のアクシデントが 以前にもあったことも思い出しました。

地元の旅館でパート勤めをしていたときだから、7~8年ぐらい前のことでしょうか。

仕事は続けていたから 今回ほどひどい痛みだったわけではないようですが、ほうきやモップを使うときなど いささか苦労したのを覚えています。




ということは、少なくとも7年以上前から 慢性的に腕に小さな故障を抱えていたということ?

前回はもちろん 単なる身体的トラブルだと思い込んでいたから、自然に治るのを待つのみで、それ以上のことは考えもしませんでした。

で 今回 また同じようなトラブルが 前よりも大きな度合いで起こったということは、やはりこの慢性化させていた筋の傷みを通して なにかメッセージがあるのだろうか。




というわけで、今度は以前からの痛みに対して フォーカス続行中です☆

長年放っておいただけあって 時間のかかる作業ですが、痛みなく動く範囲がじわじわ広がっているので、確実に効果は上がっているようです。

痛みゼロをとりあえずの目標に 続けます♪




きょうは 皆既日食があり、日本からは見えません (日本時間では18時ごろだそう) が、北大西洋や北極海などで見られるとのこと。

さらに明日21日は 春分の日、この二つが重なるのは 非常に稀なのだとか。

日食・春分 どちらにもいろいろな意味が言われているようで、少し調べてみましたが、あまりにも諸説あってややこしいので 早々に退散(^_^;)

ただ、変革というか 節目というか、一新・再生などというワードと重なっているのは確かみたいです (←なんていいかげん




よいのです、よいのです(^^)

自分の人生の意味づけは、自分で好きなようにするのです♪

事実はひとつでも 解釈は人の数だけあるのだから、自分のいいように決めるのです♪

おとといの晩あたり 世界中ですごいオーロラもあったようで、それをなんちゃらの予言とか 第二次世界大戦前夜とかと結びつけるような話もちらほら聞きますが、そういうのは貴秋の人生には不採用

貴秋的には、今は 古いわだかまりを手放し リニューアルするのに 最適の時。

まあそれを言えば いつだってそうなんだけれど、日食と春分のパワーが後押ししてくれるきょう明日あたりは、ことさら効果的なのだ、と \(^o^)/

今このタイミングで腕のことがあったのも、その意味 (らしきもの) にようやく氣づけたのも、偶然ではありますまい




世界のあちこちで いろんなことが起きているようですが、大事なのは、それは見えているけれど 自分の身には起きなかったということ。

他人事で関係ないとか 薄情だとか、そういう話じゃありません。

それぞれの魂の選択があり、当事者になることを選んだ人もいれば、それを目の当たりにすることを選んだ人もいる。

だからこそ、互いの意思と選択を尊重し、敬意を表し、その機会を大切に使わせていただくということです。

見せてもらった人は 感謝して、そこから学んで氣づいて 前よりも賢くなって、そんな自分を暮らしの中で表すことで還元してゆくのです。

浮き足立って 悪い想像ばかり重ねたって 何の役にも立たないことは、過去の体験から十分に教わりました。

そして 以前とは違う選択をすることを学ばせてもらったのです。

だから 実践するんです




きのうまでのザーザー雨が、きょうはうららかな春の陽氣に早変わり

朝から鳥のさえずりもにぎやかに、氣温もぐんぐん上がっていきます

これはいよいよ桜も咲き始めるかもね~

まさに新しい自分のスタートにふさわしい、なんていい日でしょうか




きょうもありきたりの暮らしの中で、古きを手放し 新しきと再会 (ヘンな表現ですが) し、どんどん軽やかに 楽しくなっていくのです






















お帰り (*^^*)

2015年03月18日 07時07分41秒 | 日々の楽しみ


おはようございます (⌒∇⌒)ノ

きのう、きょうと 朝からあったかくて ストーブの出番がありません。

それどころか昼間なんて。。。。きのうの午後 図書館に寄りがてら 本宮大社の大斎原に足を延ばしましたが、薄手のTシャツの上に羽織っていたネルのシャツブラウスが もう暑くて暑くて脱ぎたくなるほど。

桜のつぼみも 今にもはち切れんばかりにふくらんで、ちょんとつついたら たちまちぱぁ~っと満開になりそうなぐらい

山桜はぽちぽち咲き始めています。

ウグイスの声も、日ごとに艶やかさ・力強さが増していて、うまくなったね~♪ と 思わず仕事の手を止めて 聞き惚れたりして(^^)

まだ寒さが戻ってくることもあるようですが、本格的な春の訪れも もう目の前ですね




観光客もほとんどいない大斎原で たったひとり空を眺めて立ち尽くしていたときに 不意に感じたのは、これまでにないほど濃厚ななにか。

あれをなんと呼べばいいのか。。。。温もり、安堵、なつかしさ。。。。。

覚えのないものではありませんが、あそこまで濃く強く感じたのは初めてで、受け止めきれないと思ったほど。

右腕の一件で わだかまりがまた減って、その分こちらに届くものが増えたのかもしれないなぁ♪

今後がますます楽しみです




腕の痛みは まだ若干残っていて、拭き掃除のように力のいる仕事や 手をぐっと上げてするような作業はできませんが、暮らしへの支障はほとんどないので ついもういいかと意識を離してしまったのだけれど、むしろ今残っているものをこそしっかり感じたほうがいいのかもしれませんね。

全快まで氣を抜かず しっかり観察を続けるとしましょう




しかし、久々のワープロ両手打ちには 笑ってしまいました。

利き手のはずの右手の打ち損ないが あまりに多くて、つい左手一本指に戻りそうになるていたらく。

慣れって大きいんですね。

一方で 編み物はといえば、実はあまりにもやりたくて まだ痛みが強い頃から ちょっとずつネックウォーマーを編み始めていたんですが、からだにぴったり腕を沿わせていれば どうにか針を動かせるとはいうものの、ひといきに32目を一段編むのがやっと、数日がかりで20段そこそこという進行状況だったのが、きのう一日で 一氣に85段まで♪

完成までもうあとちょっと、すでに次に編むものをあれこれ考えたりして♪

やりたいことができるって ほんと楽しい、素晴らしい \(^o^)/

戻ってきてくれた いとしい日常に、両手を広げてお帰りと呼びかけたい貴秋です























腕の痛み その後

2015年03月17日 12時38分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうの右腕の話、実は あれからまだ続きがあって。

それまでずっと 痛いから腕が上がらないんだ、動かせないんだと思い込んでいたのですが、痛みが大幅に薄らいだおかげで 痛みとは別に 腕に力が入らなくなっていることに氣がついたのです。

言葉にするなら 「筋を違えた」 というのが一番ぴったりなのでしょうが、一本のはずの筋が二本に分かれて しかもその二本がまるで調和せず 反発し合っているような違和感があり、実際に筋がどうかなっているのか 感覚だけなのかよくわからないのですが、その感覚が 腕の動きに応じてあちこちに表れ、同時に腕の力が抜けてしまっている、というような。

ややこしい表現で恐縮なのですが、筋を違えたから 力が入らなくなった、というように因果関係になっているというよりも、違和感と腕が動かせないこととは 同時に起こってはいるが 別物のような氣がしてならないのです。

違和感には 鈍い痛みが続くことが多く、この二つがセットになると、なんとも不快 (T_T)




ここでまた 好奇心が頭をもたげました。

もしほんとうに筋に損傷が起きていて それを知らせるための違和感や痛みなら、それが治るまで腕は動かせないだろうが、ここ二日ほど感覚に集中するだけで 痛みは大きく薄らいだ。

なら、この違和感&鈍痛も感じ続けたらどうなるか。

うまくいったら、じきまた腕を使えるようになるのでは?




いーこと考えた~♪ って感じ。。。。。不自由な暮らしを強いられてる真っ最中だっていうのにまあ ( ̄ー ̄;)ゞ

で さっそくトライ☆




前と同じように、動かせる範囲を少し超えて ちょっとつらいかな、というところまで 左手で持ち上げてキープ、その間の感覚と 下ろしたときに残る痛みをひたすら味わう。

すると、やはり違和感も痛みも徐々に消えて、次には さっき試した位置までは 左手の介助なしで持ち上がるのです。

面白~い

しかしこれもまた地道な作業、可動範囲を超えて 一度に動かせる距離はほんの少しずつだし、また動かす向きも 前後左右とあちこちなので、長時間続けていると 最初のわくわくが薄れ、賽の河原の石積みのような氣分になってきます




そんなとき、ふとひらめくものがありました。

一番ひどいときの痛みはズキンズキン、その次はぎくりという擬音がぴったりだった。

あれはもしかして、そういう表現を使いたくなるような心の動きに対応してたんじゃないかな?

そして ひょっとしたら、腕のズキンやぎくりと共に、そういう感情の記憶も消せたとか?

なんの根拠も確証もない話なのですが、こんなふうに内から湧き起こった説というのは なぜか信じられてしまうもので、また その後 「ハズレだった~」 という思いをした記憶もまずないので、今回もさっそく仮説で採用♪




とすると、この筋の違和感や鈍痛は どんな記憶や感情に当たるんだろう?

消化し切れてない矛盾?

自分についたままの嘘?

後ろめたさや後味の悪さを引きずったまま忘れている思い出?

まあ、それが何にせよ、腕と共に癒され 解放されるなら、こんなうれしいことはない

からだの感覚フォーカスのいいところは、その感覚が表す出来事を 必ずしも思い出せなくとも クリアにできる点なのですから




そんな氣づきに励まされ、あまり根をつめないよう注意しつつ続行。

結果 きょうは、ほぼいつもと同じぐらいの仕事をこなせるまでに復活しました~ \(^o^)/

肩の外側周辺に わずかに痛みが残っているため、腕を高く上げたり その状態で力を入れたりというのはできませんが、それ以外のことは まず大丈夫、この記事も 久々の両手打ち~

もうすっかり冬が影を潜めたかのような きょうの天氣とも相まって、滞っていた家事ができるのがうれしくてうれしくて

調理、洗濯、草取りに編み物、勢い全開の貴秋です




ということは、やっぱりほんとうに腕を傷めたわけではなかったと?

それとも、今わずかに残る痛みの分だけ 実際に筋を損傷していたということでしょうか?

そして、あの仮説がもし当たっていたら、これからさらに内面にもどんな変化が起こるんだろう?

そちらも楽しみでなりません























不思議でうれしい

2015年03月16日 07時19分33秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あの痛めた右腕ですが、その後も 悪化はしないけどよくなるわけでもなく、朝目が覚めると痛みは消えているが、そのあとなんやかんやと動くうちに、またぶりかえす、の繰り返し(-_-; )

で、相変わらず家事などの大半を左手に肩代わりしてもらいながら、ひたすら回復を待ち望んでいました。

そして、14日早朝。




いつものように起きて 身支度や飲み物の準備をするうちに じわじわ戻ってきた痛みが、この日は 留まるところを知らない様子で どんどん増していきます。

ホットココアを飲みながら いつもおなじみのサイト巡りをするうちに、痛みはますますふくれ上がり、腕の置き方をどう工夫しても収まらず、ついには あまりの苦痛に 目の前の画面にまるで集中できなくなってしまいました。

腕のズキンズキンにリズムを合わせるように、胸元で動悸が打ち始め、ハートセンターの周辺に なんともいやな感じが広がっていきます。

うわ~ と思いながら 上体を折り曲げて 懸命にこらえていると、ふと氣がつきました。

そう、この痛みも感覚。

なのに避けようとするからかえって大きくなるのかも。。。。。ここまでになっちゃうとちょっと大変だけど、がんばって感じてみよう。

で、進んでその痛みに意識を凝らしてみました。




しばらくは、ひたすら同じようにズキンズキンが続くだけでしたが、そこでまたふと、からだは苦痛でも 心には これまでにないゆとりがあることに氣がつきました。

以前の私は、身体的であれ 感情的であれ、苦痛にはすごく弱かったのです。

受け止めきれないような痛みに直面すると、逆上して この世のすべてを呪い、イライラ腹を立てながら心を閉ざしてしまうのが当たり前の反応になっていました。

そして、そんな氣の乱れが 苦痛を倍化させるのが、いやでいやでたまらなかったのです。

が、今回は。。。。。

痛みにさいなまれながらも、心は落ち着きを保っていて 引きずられないのです。

わぁ~、こんな自分もいるんだ (゜0゜*)

苦痛の中にもなんだかうれしくなって 氣がゆるんだとき、不意にまぶたの奥が じわっと熱くなりました。




痛くて泣いたのではないのです。

痛みは単に 涙の通り道を作ってくれただけ、流れてきたのは 感動の涙でした。

怒りをあれほど苦にしてきた自分が、ここまでになれた。

なんてうれしい、ありがたい、力になってくれたみんな、ありがとう 。・゜・(ノД`)・゜・。




・・・・と、喜びに氣をとられるうちに、腕の痛みがなんだか薄らいでいくようなのです。

これは! と思い、なおも集中していたら、明らかにすぅーっと引いていき、やがて動悸や不快感共々 すっかり 消えてしまいました。




あれほどの痛みが ここまで迅速に、と驚きましたが、当初からの軽く筋を違えたような感覚と 無理してかばったための後遺症らしきかなりの筋肉痛は まだ残っており、相変わらず自由には動かせません。

そこでさらに思いつきました。

この残っている感覚もとことんフォーカスしてみたらどうだろう

で、苦痛なく動く範囲から 少しずつ余計に動かしてみて 痛みが来たらそれを味わう、ひたすらこれを繰り返すこと 丸一日以上 w( ̄Д ̄;)w

こういう思いつきは、好奇心からとことん追いかけずにおれないサガなのです




フォーカスした痛みは 確実に消えていったようです。

そうやって少しずつ痛みなく動かせる範囲が広がっていき、ひどいときは からだにぴたっと沿わせてほんのわずか動かすのが精一杯、食事にも入浴にも大苦戦だった右腕が、まだ胸より上に上げようとすると 「アイテッ」 となりますが、きのうおとといとは比べものにならないほど楽に使えるように♪

まだすっかり治ったわけではありませんが、さすがに飽きここまでになれば後は自然に治るのを待てばよしということで、多少左手でカバーしつつも ほぼいつも通りの日常が戻ってきました(^^)




このところ、「あ、前と同じ反応をしなくなった」 と氣づかせられるようなことが 立て続けに起こっていますが、どうやらこれも そのひとつのようです。

からだと心は やはりひとつもの、あの右腕の痛みは、たぶん本来なら 今のこの程度の症状で済んでいたはずで、ただの身体的不調という以上のなにかを伝えよう、氣づかせようとしての激痛だったという氣がします。

それがなんだったのかはよくわからないけれど、痛みが消えたところを見ると、メッセージは受け取れたのでしょう(^^)




不思議な そしてなんだかうれしい 二日がかりの出来事でした




















冒険者

2015年03月15日 23時33分37秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


秩序と安定、私たちの暮らしを支える 大切な土台。

日はきょうも東から上って西に沈み、それにつれて 私たちの一日の営みも進んでいく。

時が巡り、季節が巡る、その安定したリズムの上に、私たちの暮らしは成り立っている。




と同時に、私たちの中には、決まりきった型を打ち壊して もっと新しいものを創り上げたいという、荒々しくダイナミックな欲求も潜んでいるのですね。

同じことの繰り返しは退屈だ、もっとよくしたい、新しくしたい、と 身の底から湧き上がる衝動。

保守と革新、どちらにどの程度針が傾くかは 人によってさまざまですが、人類全体、ひいては生物全体として見ると、このふたつがバランスよく備わっていて初めて、どこまでもいのちをつないで成長し続けられるのだと思います。

人間のこんな性質と 「変化しないものはないというのが 変化しないただひとつの決まりごと」 という普遍的法則とを考え合わせると、決まりきったパターンやシステムが どこまでも続くと信じ込むほうが そもそも間違いなのかもしれません。




時として、規則正しい繰り返しの上に成立している私たちの暮らしが大きく揺らぎ 壊れようとするのは、それまでのありようから導かれた結果ともいえます。

長く持ちこたえられるほど確かなものではなかった、もしくはいっそ壊れたほうがいいほど いのちにとっていいものではなかった、そしてよりよいものを創るチャンスが与えられたのだ、と。

幕末も今も、そういう意味で 決してすべての生命を愛し敬うようなシステムではなかったのですね。

となれば、直接の原因が何であれ、それは壊れるべくして壊れることになった、アポトーシスのような自浄作用だともいえるわけで。




とはいえ、自分の大切な暮らしが足元から揺さぶられれば、誰だって不安になるし、まずはなんとか元の安定に戻ろうとするのも無理はないことです。

でも、起こるべくして起こった崩壊は 押し留めようがないのですね。。。。個である私たちよりも もっと大きな力が働いているのだから。

そこで三次元視点ひとつしか持ち合わせていなければ、ほかに身の置き場はなく、先行きに不安しか見えないことになってしまいます。

でも、少し引いたところから眺め渡せば、同じ光景にも まったく違う意味づけをすることができる。

そしてどの時代にも、別の視点から新しい可能性を見出し 行動を起こす人たちが必ずいるのですね。

往々にして 周囲から理解されにくい人たちでもあるわけですが(^_^;)




引きの視点に立つとは、今自分が属している世界以外の世界があると氣づくこと。

幕末の人たちにとってのそれは、海の向こうの まったく異なる文化を持つ諸外国であり、今の私たちにとってのそれは、五感を超えた世界なのだと思います。

幕末の人たちにとって 異国が異質な風習や文化を持つ 摩訶不思議な世界に思えたように、今の私たちにも 五感を超えた世界なんて 怪しくいかがわしく捉えどころのない話に思えるのかもしれません。

でも、意識しようがしまいが 他国が存在していたように、五感を超えた世界も私たちの身近に存在し、それと氣づかぬまま そこからなにかを感じ取っている人も多いのです。

そもそも私たちの心臓だって 五感では掴めない不思議な力によって動かされているわけで、確かめることはできなくとも 確かににあるからこそ 私たちは生きていられる。

そんな力を敬い、その一部としての自分を感じてみることで、より広い視野から 世界のありようを眺めなおすことができるのですね。

そのために 特別な技術や才能は必要ありません。

誰でもそことつながれるし、事実つながっているのです、だって心臓ちゃんと動いているもの

ただそこに思いを向ければいいだけです。




幕末の混乱期に もっと知りたい・学びたいと望んだ若者たちは、自分たちを 大きな力に翻弄されるばかりの犠牲者だとは見ていなかった。

彼らの立ち位置は 冒険者でありチャレンジャーだった。

未知の世界に希望の芽を感じ、そこから学んで 自分たちの世界に生かそうとした。

今の私たちも同じようにできるし、現にしている人もたくさんいるはず。

そういう人が増えるほど、世界もよくなれば、あのドラマに共感を覚える人も増えて、視聴率が上がる手助けにもなるんじゃないのかな☆




・・・・・って、私別にN○Kの回し者でも 「花燃ゆ視聴率アップを目指す会」 (←あるのか?)のメンバーでもありませんからー

ただ、ああいうお話を自分たちと重ね合わせてわくわくできるような人たちが増えるほうが、この時代をそれだけ楽しく前向きに創っていけるんじゃないかな、という氣が、ふとしたのです。




その昔 「勝海舟」 や 「花神」 が大好きだった私が、ドラマに勝るとも劣らない激動の時代を 今生きている。

そんな事実に胸ときめかせつつ、「花燃ゆ」 製作者の方々のご健闘を ひそかにお祈りしています (*^ー^*)























花燃ゆ

2015年03月13日 23時57分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


タイトルはもちろん、今年のN○K大河ドラマから。

年末年始に実家に滞在していたとき 第一話を見ました。

子どもの頃から 大河ドラマはかなり見ていて、中でも幕末物は大好きでしたから、今年のも どんなお話かなぁって 好奇心から。

主人公の文が 可愛い子役さんだったこの回、貴秋的には好感が持てて、これから面白くなりそうだなぁ、先を見られないのは残念だなぁ、と思ったのを覚えています。




その後にちらっと見かけたネットニュースの見出しで、「花燃ゆ」 の視聴率が低いことを知りました。

せっかく面白そうな題材なのに惜しいなぁとは思いましたが、その時はそれ以上氣にかけることはありませんでした。




そして 今年二度目の奈良滞在、ちょうど8日が日曜日で、夕食後外出した父の帰りを待ちつつ 後片付けなどしながら、「花燃ゆ ・ 第10回」 を見ることに。

放映時間のほとんどを流しに向かっていたので、見たというより 背中で聞いたというほうが正確ですが、この回も 私には決してつまらなくない内容、はて、これが低視聴率とは 何ゆえに? と考えていて、ふと浮かんだものがありました。




幕末物のファンの方は多いようですが、その魅力を貴秋なりに言えば、長年の鎖国で 独自の枠組みを固めて、よくも悪くも安定の暮らしを送っていた日本の人々が、開国の圧力にさらされながら 激動の時代をそれぞれのやり方で乗り切ってゆく、その躍動感がポイントかと。

鎖国時代は、すべてが統制され、こういう場合はどう対処するとか 万事きっちり取り決められ、みなその取り決めの枠内で 安全だけど 創造性や冒険心には欠ける人生を送っていたと思うんですね。

そこに 海外列強諸国が 武力に物言わせて開国を迫り、安定していた仕組みが大きく揺さぶられる。

さあ どうしますかみなさん、と この流れ、ドキドキもワクワクも山盛りいっぱい♪

安住の暮らしに慣れ 大きな変化を望まない人にはピンチでストレスな時代だけれど、一方で 押さえがたい好奇心と共に 新しい波に進んで乗ろうとする人も 必ずいるわけで。

そんな史実でおなじみの面々のさまざまな意思や言動の交錯が、手に汗握る展開となって、ドラマを盛り上げるのですね♪




そして この揺さぶりの感じ、ある意味 今の私たちの時代とそっくりといえるんではないでしょうか。

長年培ってきた仕組みや対応が通用しなくなり、いやおうなしに 新たな生き方 ・ 新たな価値観の模索を迫られている、という点で。




ただ ここで、「花燃ゆ」 のドラマの世界への共感が少ないのは、今の世で そんな変化を面白がるより 恐れる人のほうがずっと多いからじゃないのかな、と そんな考えが ふと浮かんだのです。

ドラマならぬ現実世界のほうはというと、むしろ 想定を超える異常事態の連続にどう向き合えばいいのかわからぬまま、先の見えない不安に身をすくめる人のほうが多いような印象。

いったいこれからどうなるの、とおののく意識が大勢を占める現状で、新しい世界に希望を見出し 果敢に乗り出してゆく青年たちの青春群像劇をダイナミックに描かれても、そうそう共感できるものでもないのかな、と。。。。

そして、共感できないがゆえに せっかくのドラマが 薄っぺらい絵空事に映ってしまっているのではなかろうか。

・・・・・って もちろんたった二話見ただけだし、あくまでも “貴秋の偏見” としての話なのですけれど ( ̄ー ̄;)ゞ




さらに この仮説のまま突っ走れば。

二回見ただけとはいえ、貴秋はこのドラマ、なんで人氣ないの? と不思議に思ったぐらい楽しかったんですが、そこで 一見相容れなさそうな「花燃ゆ」 と 今のこの世界の空氣に、共通の要素を見出せることに氣づいたんです。




幕末も今も、すでに確立していたシステムに 未知の力がぶつかり、過去のパターンの踏襲では収めきれない、というところが 共通点。

今ぶつかってきている力については、外威というより、これまで重ねた無理や嘘の反動や、時代にそぐわなくなったシステムの自己崩壊というほうがぴったりな氣がしますが。

バブル絶頂期ぐらいまでは、このまま 「そしてみんな いつまでも幸せに暮らしましたとさ」 でいけるんじゃないかという幻想に浸っていられた人も まだまだ多かった。

それが、バブルが崩壊し、政治や経済・外交の構図もどんどん変わって、人の心から 氣象のような人間のコントロール外の要素までおかしくなり、このまま安楽に生きてはいけないことが、誰の目にも明らかになってきた。

後へ行くほど 日和見も現実逃避もできないところまで追い込まれてゆくわけですが、ここにも実は 新たな希望の芽は存在するんですね。

それは、これまでの常識をくつがえすような 新しい視点だと思うのです。




いったん切りますね。