毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

すべては “天の神さま” ならぬ 「 “内の真我さん” の言うとおり」 なのだから

2023年08月25日 14時53分14秒 | ふと思うこと
台風7号と重なった今年のお盆、中でも奈良県北部に台風の影響が出始めた14日は、風雨への備えとお盆のお供えの “ダブルそなえ” で例年以上の忙しさでした。

お盆の支度といっても そもそも特定宗教への信仰心も仏壇もないわが家ですから、亡くなった家族の写真が置かれている棚を掃除して花を飾り、それらしい食べ物をお供えするだけですが、花いなり (おいなりさんの袋の口を閉じず、炒り卵や枝豆や酢漬けミョウガなどの具材を彩りよく乗せたもの) やお吸い物や水羊羹を作る合間々々に、台風の進路や速度を確かめつつ 外の飛ばされそうなものをしまったり、風呂桶や洗濯機に水を溜めたり、非常用リュックの中身を確かめたり、雨戸を閉めたり。。。といった作業をこなすわけですから、日頃のんびりやの貴秋も氣が抜けず、どちらも無事に済んでくれたのはありがたいことでした。




以前の貴秋は、こういうせわしなさが大の苦手でした。

あれもこれもと しなければならないことが頭の中で溢れかえり、氣ばかり焦ってからだが動かない・・・そんなパニックをどれほど味わったことか。

そもそも 「台風が来る」 とわかった時点で 不安がどっと押し寄せ、何が起こるかわからないから 万全の備えをしなければ、とするべきことを増やしちゃうんですね。

おかげで 「あ~、お盆の支度だけでもやることいっぱいあるのに~」 とイライラが先に立ち、脳内はヒートアップして空回り、からだのほうは適切な指示が来ないから どうすればいいかわからず固まってしまう。

いまでももちろん 台風直撃なんて言われれば不安に駆られはするけれど、その不安をちゃんと受け止めさえすれば、するべきことは向こうから自然に浮かんできます。

14日の朝は、次第に強くなる風を尻目に まずテラスの物干しざおや植木鉢やゴミバケツなどを物置にしまおうと思い立ち、動いていると今度は 「自転車はまだ使うかもしれないから 出し入れの邪魔にならないように」 とか 「しまう前にどれもさっと汚れを拭いておこう、テラスもせっかく物がなくなったんだから、隅っこの木の葉やほこりを掃き出して、ついでにサッシの掃除もしちゃえ」 などと次々浮かんできて スイスイ事が運び、すっかり終われば いい仕事をした充実感に満たされ、疲れなどみじんもなし。

その間ちらとも浮かばなかったお盆の準備のほうを 家に入ってちょっとしてから思い出したときには 一瞬慌てかけましたが、すぐさま 「大丈夫、まずはお米を研いで、お揚げを煮て、羊羹の流し缶を出して。。。」 と 先にしておいたほうがいいことと 後からでいいこととの仕分けがなされてゆき、抵抗なくからだが動いて 支度が進んでいきます。

その合間にも 「そろそろ天氣予報の時間だから 最新情報を確かめておこう」 「おいなりさんの仕上げの前に あっちとこっちの雨戸だけ閉めて」 などと 誰が出すのか抜群のタイミングで指示が飛び、我ながらマメだなぁと感心するほどの氣働き。

そして特筆すべきは、この忙しさをイライラ抜きでエンジョイできたことでしょう。

“アダージオ (音楽用語で ゆるやかなテンポを表す言葉)” が持ち前の貴秋が 幼い頃から早く早くと追い立てられた結果、遅いのは×、遅れたら負け、という強迫観念が染み付き、中でも食事の支度が遅れる、それも余計な仕事が挟まって遅れるなんていうのは 頭痛と癇癪のタネでしかなかったのですが、今回は 「いや~いい働きしたなぁ、それにこの花いなりのきれいにできたこと」 という満足感が先に立ち、台風が迫っていることも忘れるほどのご機嫌っぷりだったのです。




どこにいて何をしているのかも感じ取れない 、けれど確かに存在する “真我さん” の静かな声を頼もしき導き手と認め、司令塔の座を譲ることをためらわなくなってから、万事が無理なくスムーズに運ぶようになった氣がします。

わずか一割ほどの顕在意識ですべてを切り回していた頃は、労多く益少なしで 神経をすり減らしてばかりいましたが、いったん潜在意識を信じて委ねることを覚えてしまえば、からだはもとより最も効率よく働くすべを知っていたのに、アタマで邪魔してばかりいたんだなということがよくわかります。

真我を覆い隠していた思い込みやわだかまりをどけさえすれば、理屈では思いつかないようなひらめきが絶妙なタイミングで湧き起こり、完璧といっていいほどの働きをするほんとうの自分が姿を現す、このことを 「自分はダメだ、要領悪いから、無氣力だから、不器用だから」 と思い込んでおられる方々に ぜひとも知っていただきたいと願って止みません。

その×印の奥に、その人をもっとも輝かせ 充実した人生を送らせる幸せのタネが 間違いなく眠っている、いや それどころか、この混沌とした世界を救うとてつもない能力や優しささえ 潜んでいるかもしれないのですから。















でかい野望はもういらない、いまがよければすべてよし

2023年07月31日 13時45分49秒 | ふと思うこと
前回牛乳で作るアイスクリームのことを書きましたが、これとコーヒーゼリーの相性が抜群なことに氣づいてゴキゲンな貴秋です。

ゼリーといっても ゼラチンではなく寒天パウダーを使い、コーヒー液多めの配合にして柔らかく仕上げるのが好みですが、甘みは控えめにして、物足りない人にはグラニュー糖で作ったガムシロップを添え、牛乳をたっぷりかけて崩しながら食べるのが貴秋流。

で、ふと思いついて このゼリーに例のアイスを乗っけてみたら、溶けたアイスが牛乳の代わりになるので 「溶けちゃう前に食べなきゃ」 という焦りから解放され、また合間合間に口にするゼリーが アイスで冷え切った口の中をほどよく温めてくれて、とてもいい組み合わせなのです。

きのうはここに 残っていた缶詰の黄桃のスライスを添え、庭のアップルミントを飾りました♪




「自己満足で氣が引ける」 なんて言いながら このところ毎回こんな話を書いておりますが、白状すれば やっぱり楽しいし、こんな他愛ない話でも読んでくださる方があるのがうれしく幸せです。

それにしても、同じように日常のことを書いていても 和歌山時代とはなんて違うのでしょう。

あの頃は どんな楽しい時間も長くは続かなくて。。。っていうか、自分の中に 「いい時間は長くは続かない」 という思い込みがあったんでしょうね。

だから、「いまはこんなていたらくでも 先にはもっといい世界があるはず、よりよい未来が実現するまで なんとかいい氣分を保って時を稼ごう」 というスタンスで毎日を生きていて、純粋にいまという時間を楽しめてはいなかったのです。

何かに打ち込んでいても、それが済むとふっと退屈を覚えたり空しくなったり、避け続けていた不安や恐れにどっと襲われたり、といった具合で、来る日も来る日もそんな感情の浮き沈みの繰り返し。

鬱モードになると 何をする氣も起こらなくなるから、せっかく種を播いたり苗を植えたりしても そのあとほったらかしで、ふと氣づくと 枝葉がぼうぼうに茂って 全体に養分が行き渡らず実付きが悪かったり、天然酵母のパン種を仕込んでも、ここぞというところで氣力が失せて 発酵のベストタイミングを逃して失敗したり、青梅を買ってきたのに 落ち込んでいる間に黄色く熟れてしまって 予定のものを作り損なったりと がっかりすることも多く、そんなネガ氣分に引っ張られまいと いいことや楽しい時間にことさら意識を集中させてのブログ書きだったわけです。

書いていることにウソはないけど、実際は書かれていない負の時間のほうが長く優勢で、それに負けまいと懸命だった。

それがいまは 不安に脅かされることもなく、子どもの遊びのように 次から次へと “いまの一番” を渡り歩く毎日なのですから、変われば変わるものです。

発酵食や保存食作りでタイミングを逸することもなければ、毎日欠かさず手入れをするおかげで 野菜もたっぷり実を恵んでくれます。

この話のミソは、状況がよくなったから 氣分が安定したのではなく、不安や恐れを手放して氣分が安定したから 状況がよくなったのだというところ。

もう 未来にばかりフォーカスして いまをどうにかやり過ごす なんて生き方をする必要はない、いつだってそのとき選んだものが “いまの一番” なのだから、いまをただ楽しんでいれば 未来の悪かろうはずがない。

すっかり氣が楽になり、ひとかどの人間になろうとか 大きなことを成し遂げようとか そんな力みはどこかにいっちゃって、おいしいご飯やおやつを作って食べ、夏の空や花を愛で、セミの声に耳を傾け、秋蒔き野菜は何にしようとプランを練る、そんなささやかな積み重ねだけで十分ハッピーな人生です。
















カテゴリー分類ってムズカしい ~ 日常の平和と心の平和はひとつもの

2023年07月21日 14時57分46秒 | ふと思うこと
三ヶ月ほど前に書いた 「映画 『A GHOST STORY』 ~ いつかその日、この生に未練を残さぬために」 のカテゴリーが 「貴秋の視点、すなわち偏見」 よりむしろ 「大好きな本 ・ 映画 ・ ほか」 だと氣づいて訂正した貴秋です (^^ゞ

なので、その次の記事の冒頭に書いた 「『 貴秋の視点、すなわち偏見』 カテゴリー以外の記事なんて何年ぶりでしょう。」 の一文はナシということで (笑)

こういうことが起きるのも、「形なき」 意識と 「形ある」 実生活が分かちがたく結びついているからなんですね。

目に見える世界は 自身の意識の投影だから、意識の曇りが取れれば取れるほど 実際の暮らしもどんどんよくなっていくわけで、よくなった日常についての感動を言葉にしようとすれば、内なる変化を 「こうしたらこうなってよかったよ~」 って言いたくなる氣持ちもどうしてもついてきちゃうのです。

だから どのカテゴリーに入れるかは、「形なき」 と 「形ある」 のどちらに重点が置かれているかで おおまかに判断するしかないんだなぁ




ところで、さっきたまたま こんなニュース記事が目についたんですが。

    “杏の「育児は人の手を頼って」発言への批判に感じた危機感…従来型の母親像と違う人を頭ごなしに否定する人たち


う~ん、杏さんが自慢や優越感からおっしゃっているわけでないことも 記者さんの危機感もわかる、と同時に こんなとき誰かにネガ感情を叩きつけずにおれない人の心理もわかるんだよなぁ。。。。自分だって 妬み嫉み僻みみたいなドロドロした感情を 人一倍持って生きていたときがあったもの。

ただ 自分もそうだったからこそ、そのままいくら怨嗟の声を上げ続けたところで 何一つよくなるわけじゃないことも よぉくわかるんです。

形ある世界では あらゆることにネガポジ半々の見方があるわけで、そのどちらにも必ず肩入れする人がいるから、個の意識オンリーでいく限り どこまでも賛否両論に分かれてぶつかり合うしかなく、それでは怒りのエネルギーが大きくなるばかりで 何の解決にもならないんですね。

感情的な思いや言葉をいったん脇に置き、形ある世界の枠組みを超えた引きの視点から事の全体を見渡せば、「そもそも何が原因で、これほどの経済格差が生じているのか?」 というところに イヤでも目がいくはず。

そこで理屈であれこれ考えず、その問いに対する答えが自然と内からもたらされるのを待てば、真の解決につながる答えが 最適のタイミングで必ず手に入るし、その先自分が何を選びどう行動すればいいかもおのずとわかります。

答えは問いよりも先に存在していて 問われるのを待っているのですから、あとはほんとうの問いにたどり着く意志があるかどうかだけ。

これはもちろん意志があるからいいとかないから悪いとかいう話ではなく、めいめいの魂が何を体験すると決めてきたかによって自由に選択できますが、格差に怒りを感じるというのは、格差をなくすことを諦めていない氣持ちの表れでもあり、その思いを実現するためには、怒りを外に叩きつけたくなる衝動からいったん離れて 冷静に状況を見極める目が どうしても必要です。

怒りを持ち続けたままだと どんどん氣持ちがこじれて苦しくなり、それをそのまま表に放てば、作用反作用の法則で 必ず同じだけの反発が返ってくる、こうして分裂が大きくなり 根本的な解決策が見出せずにいるうちに、地球環境のほうが持ちこたえられなくなって、やがてはすべてのいのちが滅びてしまいます。

それが人類のあらかたの本意でないことは、怒りを抱える人、すなわち諦めていない人がこれほど多いことからもわかりますから、貴秋がお伝えしたいことも 結局は 「自分はこうしてネガ感情を手放し、真の答えの一端を垣間見ることができましたよ」 という話になってしまうわけです。

梅を漬けたりゴーヤを育てたりのこの平和な日々も つまるところネガ意識の手放しの賜物、貴秋のブログが 日々の暮らしの何をどう語ろうと おしまいには金太郎飴のごとく 潜在意識だの負の手放しだのの話に行き着いてしまうのは、どうにも避けられないことのようです。

















「仲間」 もいいけど 「ひとり」 もね

2023年07月10日 12時11分41秒 | ふと思うこと
珍しく暮らしにまつわる話を三つも書いたと思ったら、早くも内面の話に戻りたくなってきております (^^ゞ

以前は日々のこまごましたことを書き連ねるのがやたら楽しかったのに、何でこうなっちゃったかなぁ? と複雑な思いでしたが、初期の記事を読み返していたら 当時の心境があれこれ思い出されて、なんとなく理由がわかった氣がしました。

あの頃は まだまだ否定的な感情が強く、自分が打ち込んでいるものへの疑念や迷いが浮かぶこともしょっちゅうで、いくら大好きな暮らしといっても、ほんとうにこんなことばっかりしてていいのかなぁ、こんな生き方でいいのかなぁ、という不安に絶えずつきまとわれていたんですね。

経済的にも恵まれず 先が見えない日が続いて、家仕事を楽しんでいても 「この暮らしがいつまで続くかわからない、いつ立ちゆかなくなっても不思議じゃない」 という恐れがちらちら顔を覗かせ、そんな弱氣を振り払うために ことさら楽しみのほうを強調した文章をアップすることで、精神のバランスを保っていました。

ありがたいことに、そんな他愛ない話にも 読みに来てくださる方やうれしいコメントを入れてくれるブログ友達があって、どれほど助けられ励まされたかしれません。

当時のブログは 貴秋にとって 精神安定剤であり、諦めず先へ進もうとする意思の何よりの支え手だったのです。




なら 今は? といえば、感覚フォーカスの積み重ねにより 不安がほぼほぼ消え、自分の進む道に迷いがなくなりました。

自身のほんとうの氣持ちが見えるようになったおかげで、「好きなこと」 と 「好きだと思い込んでいること」 を取り違えることがなくなり、自分で自分を満たし喜ばせている確実な手応えが得られるようになって、自信を取り戻しました。

そのためでしょう、いまの貴秋は 他者の後押しがなくても、自分の選択や行動について 毎回 「あ~楽しかった、めでたしめでたし♪」 と一人きりで自己完結できちゃうんですね。

もちろん 共感してくれる人 ・ 一緒に遊んでくれる人があれば、喜びも楽しみもぐんと大きくなって うれしさ倍増ですが、さりとて一人だけの楽しみであっても なんら問題はないと、やたら一人遊びができるタチになってしまったようなのです。

だから、ブログを書いてても 「こんなのわざわざ吹聴するようなことでもないしなぁ」 という氣についついなっちゃって、意欲が萎えてくるらしい。




コロナ騒ぎに明け暮れた数年を経て、孤独や孤立ということに多くの人の意識が向くようになりましたが、貴秋が自身の体験から思うのは、「孤」 というのは いのちの源を忘れて切り離されたように感じるときに起きる ネガティブなセルフイメージ。

そのネガ感情と向き合い 感じ尽くして手放せば、「孤」 は自然と 「個」 に変わり、自分の根っこや軸を感じとれるようになって、一人であっても強くたくましくなれるようです。

そんな 「個」 が集まれば、源というすべてのいのちに共通の領域を通じてひとつになり、すごい力を発揮できるでしょうし、ことさら 「孤」 を感じさせたこの数年は、案外そこへと向かうきっかけをつけるためにあったのかもしれません。
















内観とは 地図を確かめること

2018年08月29日 11時41分29秒 | ふと思うこと


目的地を目指して進んでいて、「あれ?なんかおかしいぞ」 となることがあります。

山の頂上に向かっているはずなのに ひたすら下っているとか、オフィス街に行くつもりが 下町っぽい景色ばかりえんえんと続くとか。

そういうときまずすることといえば、地図を見ること。

道を間違えたのなら どこで間違えたのか、どう行けば正しい目的地に着けるのかを確かめ、再び歩き出す。




最近スピリチュアルと呼ばれる分野で、内観を勧める声が これまで以上に高まっている氣がします。

自身の内をよく見て、不要となったものを手放すようにと。

3日前の26日は満月でしたが、満月は手放しの時期ということで ことさらこの類のメッセージが目につきました。

この内観とは、まずは内なる地図の確認のこと。

もし何かが望むように運んでいないと感じるなら、思い描く目的地と照らし合わせて 自分が今どこへ向かおうとしているのか、ほんとうに行きたいのはどっちなのかを確かめる。

それ抜きでやみくもにジタバタしても疲れるだけ、ヘタをすればもっと深く迷い込んで遭難の危機に陥ります。

道を間違えたと氣づいた時点で その場にへたり込み、腹を立てたり 不運を呪ったり 誰のせいでこうなったと犯人探しを始めたり、まあ選択肢としてそういうのもありですが、それをいくらしたところで 正しい道に戻れるわけでもありません。

間違いに氣づいて すみやかに修正する、それがもっともエネルギーロスが少なく確実な方法。




「内観」 というと 大仰に聞こえるかもしれませんが、地図を確かめるのと同じと思えば 身近に感じるのではないでしょうか?

そのときは、目的地がほんとうにそこでいいのかの確認と、目的に適い信頼できる地図を手にしているかどうかの確認もお忘れなく。


















さまざまな計算と、生きるということ

2018年08月17日 06時02分17秒 | ふと思うこと


たとえばある品を5個用意しなければならないのに、手元に4個しかないとします。

その場合、必要数に対する現存数はマイナス1。

このマイナス1は ひとつ足りないということ、「ある」 に対しての 「ない」 です。

ここで 不足の1個を誰かが届けてくれれば、必要数と現存数がぴったりかみ合ってプラスマイナス0。

この0も 「ない」 と表現できますが、こちらの 「ない」 は、物のあるなしを超えて 問題そのものがなくなった、1個足りないという事態が起こる前の平和な状態に戻ったことの表れ。




もし最初からぴったり5個用意されていれば もともと問題なしなわけで、どちらの場合も結果的にプラマイ0なのは共通だけれど、両者の違いは 前者にはコントラスト効果が働いているということ。

ハナからスムーズにノープロブレムなのと違い、問題が起き 解決されて平和が戻ったことで、平和のありがたみがぐんと大きく感じられるわけです。

私たちはまさに このコントラストを通しての愛や安らぎや豊かさや充実を体験したくて、肉体をまとい この物質世界に降り立った意識体なのだといえます。




私たちの日常は、この-1+1=0 なんていう単純なものからもっと手の込んだものまで さまざまな出来事に満ち満ちています。

ときにはあまりに複雑で長ったらしい計算式にうんざりしたり、ややこしくなり過ぎて手がつけられなくなったりということも。

そんなとき とにかく0を掛けさえすれば万事がきれいさっぱり0に戻るというのは、なんて素晴らしいことでしょう。

しかも そこに戻るまでの計算が長ければ長いほど ややこしければややこしいほど、私たちは 計算開始前の0のときより経験を積んで賢くなり、思い出を増やして戻ってこられるのです。

自分の中の0を感じてさえいれば、どんな状況も恐れることはありません。




では、私たちが内なる0を忘れたままだったらどうなるか。

実際あまりにも長いこと0を無視して突き進んできたため 人の心も自然環境も荒れ放題のいま、このまま進み続ければ もっと大きな力が働いて 私たち丸ごと0に戻されてしまいかねません。

どんどん激しさを増す異常氣象や絶滅の一途をたどる動植物、いっこうに火の手が収まらない戦争紛争、ここに私たちの0をどのようにもってくるかが問われている氣がします。

















摩訶不思議な一年、そして大晦日

2016年12月31日 22時14分24秒 | ふと思うこと


2016年大晦日の青空☆



今年最後の一日が こんなにいいお天氣で ほんとうによかった (*^^*)



目の前の一歩しか見えなくて、次の瞬間どんな選択をすることになるのかもまるでわからなくて、とにかくしゃにむに内なる指針に食らいついていった一年でした。

そしてさいごのさいご、大忙しのさなかにひらめいた氣づき。

詳しく書いている時間はなさそうなので それは新年に譲るとして、とにかくイレギュラーで摩訶不思議で濃厚な一年でした。

苦しい時間も多かったけれど、その分振り返ると印象深いというか。



今年もこのようなブログをお読みいただいてありがとうございました。

来年がどのような年になるのかも 皆目見当がつきませんが、これからもお付き合いいただければ幸いです。

2017年が 皆さまにとって 佳き年でありますように。


貴秋



















物思う年の瀬

2016年12月29日 12時35分19秒 | ふと思うこと





以前から見知っていたこの図ですが、陰陽太極図 ・ 太陰大極図などという名称は 今回初めて知りました (^^ゞ

五感の世界は まさにこの図のとおり、陰極まれば陽、陽極まれば陰に転じるコントラストの二極世界、「あざなえる縄の如し」 という表現がぴったりきます。

この図の円の中をぐるぐる回るようにして 私たちは 望んで生まれ出たこの世で さまざまな体験を重ねている。

ただ堂々巡りをしているわけではなく、体験から変化成長して やがて円を飛び出すときがやってくるわけですが、ブレイクスルーのカギは やはり 「自身を見つめる」 というところにあるのだと思います。

物差しとなる言葉をいっさい持ち込まず ただ無心に見つめるうちに、後付けで仕込まれた思い込みに氣づかされ、その向こうにほんとうの自分が見えてくる。




一連のプロセスの中で 私たちが意図してできるのは、よくなろうという意志を持つこと、内観すること、自分のほんとうの望みを知り それが叶った状況を先取りしてイメージすること、などごくわずか、あとは向こうからおのずと起きてくるようです。

でも その “わずかなこと” に かなりの氣力やエネルギーや時間がいるわけで、貴秋のほとんど自宅を離れっぱなしだったこの一年は、今思うと どうやらそれに専念するために用意されていたらしい。

つねに一瞬先はわからないような時をひたすら重ねてきて ふと振り返ると、どこか現実離れした摩訶不思議な道のりに 一本筋が通っていたことが うっすら見えてきます。

マインド視点では 状況に翻弄され ときおりのひらめきに必死で食いついて 右往左往しながらあっというまに過ぎたように思えた一年が、実は途方もない転換を起こすために仕組まれた 大きな大きな贈り物だったと氣づかされて、なんともいえない感慨に浸る年の瀬です。




変化は一瞬で起きることを思うと、「今年もあとわずか二日半」 なんて簡単に片付けることができなくなるなぁ (^_^;)

年が変わるまでの数十時間が この一年でもっとも濃密で印象深い時間とならないとどうして言えましょう。

自分の内側に留まれる時間が長くなるほど、“いま ここ” の味わいも かけがえのなさも深まるようです。




















昇華

2016年11月16日 13時18分55秒 | ふと思うこと


14日のスーパームーンは 残念ながら雨で見られなかったけれど、きょうは朝から快晴



ヒイラギが可憐な花を咲かせ始めました♪



この花の清々しい香りが好きで好きで

葉っぱはトゲトゲで愛想なく 落ち葉のトゲさえも硬く鋭くて 夏の草取りの間 どれほど痛い思いをしたかわかりませんが、この香りだけで すべて許せてしまいます(*^^*)



南天もすっかり色づいて





サザンカの蕾もほんのりピンクが見え始め





そんな中でもまだ美味しい実を恵んでくれる けなげなミニトマトに感謝





そうそう、以前 かのアイリスの中にさりげなく混じって伸び始めた枝を 「キミはだれ?」 と載せた記憶がありますが、こんな実がつきました♪



ムラサキシキブだぁ~ \(^o^)/

ただ、このアイリスの群生の中でこのまま大きくするのはちょっと・・・・だし、通路の確保の問題もあるので、どうしたものか ただいま悩み中 (-_-; )

せっかくの天の恵みを生かせるよう いいアイデアが浮かびますように。。。。





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怒りのおおもとをずっとたどってゆくと やがて純粋な悲しみに行き着く・・・・と 以前書きましたが、最近この 「ピュアな悲しみにたどり着く」 頻度が増しています。

そしてそのたびに思うのです、ああ すべてはここから始まったんだな と。

まだまだ神に近かった幼い子どものころ、違和感に突き当たり 万事が順調に思い通りに運ぶわけではないことを知ったとき まず感じたのが、この 「純粋な悲しみ」 だったのでしょう。

そのまままっすぐ受け止め 味わい尽くせれば それでおしまいだったはずが、素直に悲しみを表すことを許されず 押し殺して感じないようにしてしまったそれは、不快感が高じて怒りに転じ、どんどん上書きされ 膨らんで その後半世紀も自身を悩ませることになった、と。

率直な感情を抑圧することの恐ろしさを 改めて思います。

しかし、感覚フォーカスを重ねることで どれほど大きくねじれたネガ感情でも 逆にその源へとたどってゆけば いずれは解放できるのだともわかったことは、大きな救いです。

荒れ狂う嵐のような体感にじっと耐え 感じ尽くしたその先には、そんな破壊的なものと結びついていたとは信じられないような静謐な悲しみだけが残り、やがてすぅっとすんなり消えていきました。




高く高く澄んだ秋の空は そんなピュアな悲しみをまっすぐ吸い込み 昇華するのにふさわしい。。。。などと思いつつ きょうも光溢れる青空を愛でる貴秋です (^^)

























大片付けと こころの節目

2016年10月14日 12時57分25秒 | ふと思うこと


きのう 洗面所に掃除機をかけていて、ふと物置き棚のホコリに目がいったのが運のつき、そのまま棚の掃除と置いてあるものの整理整頓になだれ込んでしまいました

これまでも 外テラス、階段下、台所の棚と流し台の下、と 実家の伏魔殿を次々制圧してきましたが、この物置棚はいささか面倒で これまでずっと後回しにしていた場所。

ぎっしり雑然と置かれている物が あまりにも多種多様で、その用途や処遇を 仕事の忙しい父にいちいち問い合わせるのがはばかられ、さらに古い農薬や殺虫剤などの危険物が混じっていて この地区での処分方法を調べねばなりません。

しかし 吸い寄せられるように始めてしまったからには、もうやるしかない ( ̄∇ ̄;)




母は 掃除洗濯共に 市販の洗剤を使っていたようですが、あとを引き継いだ父は 掃除については 思いがけず重曹やクエン酸使用のナチュラル派、多数の使いかけの合成洗剤容器は ホコリをかぶって置かれたたまま、しかも 台所のとき同様 まったく同じものが二つ三つダブって、そのどれもが開封されていたりして、おまけによく見れば 後ろのほうには 液垂れしている容器もいくつかあって、棚がべとついてる

父は父で、掃除をしたはいいが 残った重曹やクエン酸の水溶液&粉末はそのまま放置、スプレービン内の液体の残りは腐ったかカビが生えたかしたようで、粉末は団子状でプラスチックトレイにこびりつき、汚れ落としに使ったらしい紙やすりは ちぎって使用したままの状態で 湿ってふやけていて (T_T)

さらに それらの陰には、蛇口か何かの部品らしき金具や 古びて使えなくなったフックや吸盤、試供品でもらったらしいシャンプーや入浴剤の小袋、こわれた洗濯ばさみ、液体ソープ類の空ボトルや 詰め替え用の中身がわずかに残ったパック類、底が錆びてボロボロになったスプレー缶などが これまたホコリをかぶってゴタゴタと (TдT)

いや、なによりも こんな状態を見て見ぬフリでほったらかしていた私が悪かった m(__)m

半日がかりで 乗っているものを全部どけて 棚をきれいに拭き、捨てるものと残すものをより分け、容器類もすべて拭って 種類ごとにまとめて取りやすく置きなおし、ゴミは分別して 農薬類は役場に電話して処分方法を問い合わせ、ついでに床と洗濯機もさっと拭いて、すっかり片付いたときの爽快感といったら




大掃除のたびに思うのですが、どうも 家や部屋の状態と心のありようは リンクしているらしい。

そして 内面的にここぞというところで、なぜかふと大掃除に誘い込まれる仕掛けになっているようです

ごたついて汚れきった場所をきれいにすることが、心の迷いや曇りを取り除くことと 象徴的に重なっているのかもしれません。

大がかりな片付け物のタイミングと心の変遷を 後からつき合わせてみると、大掃除には家が片付くほかに 内面のご利益もあるような氣がしてなりません。

実家のあちこちがすっきりするのと並行して、貴秋のマインドの変化も 大きな節目を迎えているようです。