毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

言葉の力 ~ 望む世界を実現するために

2019年10月24日 12時04分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちの本質が形のない波動エネルギーだと完全に思い出したわけではないけれど、そう見ることには慣れました。

実体のない波動エネルギーから実体を持つ世界が生まれる、私たちの思い描くイメージと それに伴う感情によって。

これはもう貴秋の中では確定事項です。

誰もみな 自身の思いから自身の現実を創造している、それに氣づいているかいないかの違いはあっても。。。だから 「どうすれば自分の世界を創れるか」 は問題ではないのです、すでにみんなそうしているのだから。

問題は、「どうすれば自分の望むとおりの世界を創れるか」 にあります。




私たちの形ある世界のものはすべて、言葉から生み出されています。

どんなささやかなものでも、まず最初に言葉にならないインスピレーションがひらめき、それを言葉に置き換えることで形にできるのですから。

私たちの身のまわりのものはことごとく、誰かのアイデアが言葉になり 形を得た結果なんですね。




なら、ひらめきが映像や音として現れたら?

それも同じことです。

網膜に届いた像に 「これは赤だ、これは四角だ、これは花だ」 などと言葉で意味を与えなければ それは濃淡明暗さまざまなしみのようなものに過ぎず、同じく鼓膜に達した空氣の振動も 「これは鳥の声だ、あれは窓に木の葉が当たったんだ」 のような解釈があって初めて 私たちの日常の光景の一部として取り込むことができるのです。

聖書に 「始めに言葉ありき」 という表現があるそうですが、わかる氣がします。

言葉があるから形ある世界が生まれる、言葉は五感の世界の必須アイテム。

私たちの世界は言葉によって成り立っているといっても過言ではないのです。




望むとおりの世界を創るなら、言葉の力を知ることだと思います。

引き寄せの法則などでも言われているように、言葉によって具体的にイメージしたものに感情が伴うと 具現化します。

私たちが望まない世界すらいともたやすく実現してしまうのは、記憶のない幼いころにいろいろと不自由な情報が入り込んでしまったことに加え、この言葉の力についてまったくといっていいほど教えられてこなかったからでしょう。

シンプルに言ってしまえば、望むものはまず言葉の力でできる限り細かく明確にイメージすること。

そこに付与する感情も やはり言葉です。

ある種のからだの感覚に 「うれしい」 「悲しい」 「悔しい」 などと言葉で意味を与えるのが感情。

言葉をとってしまえば、それはただの感覚でしかなくなります。

望まないものを手放すときは、この仕組みを活かすことをお勧めします。

感情から言葉を切り離すか、少なくとも うれしい ・ 悲しいなど以上の言葉 (ストーリー) を付け足すことなく直視し感じることです。




言葉の意味と力を知って使いこなせば、少しずつでも望む現実が形になっていきます。

それに氣づいたとき、ご自身がこの世界に暮らす者であると同時に この世界を創る者でもあることを実感されるでしょう。

















肝心なのはその波動

2019年10月21日 14時10分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちが波動エネルギーから成り立っていることが呑み込めると、大切なのは形ある人や物事ではなく その帯びている波動エネルギーのほうだということが納得できます。

一見物質的に恵まれていないように見えても、その人が満ち足りて幸せそうなら、それがその人の現実。

望みうるすべてを手に入れ恵まれているように見えるのに 荒れたりくすんだりする波動エネルギーをかもし出していれば、そのエネルギーに見合う世界がその人の現実。

外からの評価は関係ないのです、その人がどう感じているかがその人の世界を創るのです。




「襤褸は着てても心は錦」 という言葉を 以前は 「武士は食わねど高楊枝」 的に捉えていましたが、人の本質がエネルギー体だと思うようになると、やせ我慢ではなく幸せというものの本来のありようを表しているんだなと合点がいきます。

人がどう思うかではない、自分が自分にどのようなイメージをもっているか、つまりセルフイメージということですね。

セルフイメージはすごく重要です。

形だけいくら整えようとしても、実現するのはセルフイメージが生み出すエネルギーに見合う世界。

これがわかれば、選択の基準は 「他者の評価」 から 「自分が好きかどうか、いい氣分になれるかどうか」 に変ります。




私たちは子どものころから 高い評価を得られる形を作ることばかり求められ、自分の氣持ちを一番にしようとすれば 利己的だと非難されてきました。

が、ほんとうに幸せになりたいなら、平穏で充実していたいなら、それはまったくの逆。

量子物理学でもいわれるとおり、まず形にならないエネルギーがあり、そこから人がそれぞれ関心を向けたものが具現化するのです。

(このへんのことについては、この動画が比較的わかりやすく説明してくれています)

形はあとからついてきますから、まず自分の波動エネルギーを自分の望みに見合うものにすることです。

自分を一番に考えていいのです。

自分ひとり幸せにできない者が 他者を幸せにできるわけがないのですから。




望む光景を思い描いたとき 「そんなにうまくいくわけがない」 などと抵抗する氣持ちが上がってくるなら、そのときの感情やからだの感覚を感じてみてください。

そうやってもともと自分のものでない刷り込みのエネルギーを手放していく中から、望む世界が徐々に形をとり始めます。

創造者としての自分に氣づく瞬間です。

















「戦いを止めて住み分ける」 ということ

2019年10月20日 10時40分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちはそれぞれの人生という物語の作者であると同時に登場人物 (主人公) でもあるとたびたびお伝えしていますが、この作者と主人公が切り替わる際に働くのが感情だという氣がしています。

ある状況に対して感情が湧き起こると その状況の中に入り込み、感情を切り離すと俯瞰の位置に立つ、という感じです。




さて、前の記事で 「催眠にかかったまま 世界を歪にしてしまった元凶と思える人物を攻撃するのは、もっとも労多くして益少ない行為」 と書きましたが、これを裏づけるような手がかりを思いがけないところからもらいました。

18日放送のNHK番組 「チコちゃんに叱られる」 で 「1つのスピーカーでいろんな音が同時に出せるのはなぜ?」 という問題が出たのですが、その解答によると、そもそも音の波形というのは 複数の声や楽器を同時に鳴らしても鳴らした音の数だけ生じるわけではないというのです。

オーケストラのような大がかりな合奏でも、波形として捉えられるのはそのすべてが混在するひとつだけ。

そのひとつの波形を正確に再現し 音として投げ返すのがスピーカーであり、そのひとつのものをまたバラバラにして複数の音の重なりとして聞き取るのが 私たちの耳の働きだというのです。

見たその時は 「ふ~ん、すごいなぁ」 で終ったのですが、翌朝起き抜けに となり、慌てて8時15分からの再放送を録画して見直しました。




私たちの本質は形なき意識体、意識も思考も感情もみな波動エネルギーです。

同時に発する音の波形がひとつになるのなら、絡み合う思考や感情だってひとつの波動になっていても不思議はない。

「何かに対して怒りや憎しみ ・ 恨みなどを持ち続ける限り そこから抜け出すことはできない」 という実感はずっとあったのですが、なるほど波動エネルギーがひとつになってしまっていたのか。

「こんなことになってしまったのはコイツのせいだ」 の 「コイツ」 自体、自身の観念の投影 つまり幻でしかないのですが、その幻に向かって怒り続けると 終らせたいはずの事象と一体化してしまい、いつまで経っても解決がつかない、ということのようです。

一体化しないためには合奏から抜けること、そしてもう一緒に演奏しないこと、それしかないのですね。

「歯向かう敵を退治してめでたしめでたし」 はやっぱり幻想だったみたいです。




では 許し難い相手や状況と具体的にどう折り合いをつければいいのかということですが、それについては以前から 「住み分け」 という話をご紹介しています。

       「目の前から忽然と消えた?」    「そっと離れるための具体的な方法!」    「無関心でいるということは・・」

貴秋も大きなヒントをもらった記事でお勧めですが、要はテレビのチャンネルを切り替えるのと同じで、周波数が変わればおのずと出会わなくなるということです。

何かに怒りを抱いたままでいれば、その何かに意識が向かい続けることになり、互いの波動は一体化したままです。

そこから意識を引っぺがし、もっといい氣分になれるものにフォーカスし直すこと。

それをマインドがどうしても承知しないなら これまたチャンス、「いやだぁぁぁ、許さない!」 と叫び続ける感情と向き合ってください。

向き合って向き合って向き合い続けたある日、自分が執着し続けていたものの全容を目にし、憑き物が落ちたようになる日がやってくることでしょう。














知らぬ間にかかっている催眠

2019年10月19日 17時40分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いま 「自分は催眠にかかっているな」 と自覚しておられる方はいらっしゃいますか?

まあかかっていると氣づいた時点で、催眠は解けているわけですが。

引きの視点から世界を見ることに慣れてくると、これまで見過ごしてきたさまざまな事象に氣づかされます。

知らず知らずのうちにかけられていた催眠もそのひとつ。




マインド視点一辺倒で生きていると 自分たちが属するこの三次元世界を内からしか見られないので、それが世界のすべてだと当然のように思います。

世界はときに巨大な壁のようなもので、それを一個人が変えようとするなんて 毛虫一匹が高層ビルを倒そうとするようなものだ、と感じます。

自分にはどうすることもできない無情な世界に取り巻かれている、この見方が実はすでに催眠なんですね。

世界が、暮らしの場が、人生がもっとこうなればいいのにという望みを持ちながら、でもそれは自分の力では無理だと感じているのなら、その人はもう催眠にかかっているのです。




目に映る世界が虚像であると なんとなくでもうなずけるようになると、自分を変えずに世界のほうだけを変えようとする空しさがわかってきます。

鏡の中の自分にけんめいにお化粧を施し豪華な衣装を着せても、肝心のこちら側の自分がなんの手もかけられず衰えてゆくのを放っておいて、どうして美しく幸せになれるでしょう。

見える聞こえる触れられる世界は自身の思いが創っている、と氣づけるか、得心がいくかどうかが、催眠を解くカギです。




あからさまにおかしいこと ・ 不自然なこと ・ ありようが違うと感じることを直すのに、悩んだり立ち止まったりするでしょうか。

持っていたペンを取り落としたとき、シャツのボタンが掛け違っていると氣づいたとき、閉めた窓にカーテンが挟まっているのが見えたとき、立ち止まってどうしたものか悩みますか?

人生や世界を変えるのだって同じこと。

引きの視点から全体を眺め渡して そのおかしさが明らかになれば、それを正す効果的な手立ても自然と見えてきて、すっとからだが動きます。




これは貴秋もさんざんやってきたことなのですが、催眠にかかったまま 世界を歪にしてしまった元凶と思える人物を攻撃するのは、もっとも労多くして益少ない行為です。

敵とおぼしきその相手もまた、自身の意識の投影なのですから。

「抵抗すれば相手は大きくなる、見つめれば消える」 という 「神との対話」 の神の言葉が、いまはよくわかります。

鏡に映る人物を敵と思い込んで掴みかかれば、相手も同じように掴みかかってきます。

でも目を凝らしてよぉく見つめれば、それは意のままに動く虚像だとわかり 「敵」 は消えます。




虚像に戦いを挑んでも勝ち目はないけれど、こちらがおおもとの意識を変えてしまえば 勝ち目がないのは虚像のほう。

思いのまま生きることを望むなら、自分が催眠にかかっているとまず氣づくことです。















「意識が変わると世界が変わる」 は単純な事実

2019年10月18日 09時31分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


人の本質は意識体だと思い それに沿う形であらゆることを認識し考えるようになってから、見える世界が変わりました。




目の前に3メートル四方ぐらいの大きな絵があって、それに鼻をくっつけんばかりの位置に立っているとします。

視界に入ってくるのはその絵だけ、しかも近過ぎてなにが描いてある絵なのかもわかりません。

からだやマインド = 私 だと思い込んでいたころの世界観ってこんな感じだったのかなと思います。

目の前に見える世界がすべてで それ以外なんてない、ということが当然過ぎて疑問の余地もなかったし、どんなこともその見える世界の範囲内でしか考えることができませんでした。

しかも 見えているつもりのものも 実は部分的 ・ 近視眼的にしか見えていなかったのですから、正しい判断が下せないのも無理なからぬことだったのです。




自分を意識体として捉えるようになってしばらく経ったあるとき、これまですべてだと思い込んでいた世界を 一枚の絵 (ほんとうは絵というよりもう少し立体感があるイメージですが、ここではわかりやすく絵とします) として少し離れたところから眺めている自分にふと氣がつきました。

つまり絵のまわり、絵以外の世界が見えてきたのです。

絵の中の世界はもっと広大な世界の一部でしかないとわかり、しかも描かれている全体像が一目で見渡せるようになったことで、それまでは自分を取り巻き ときに圧迫してくる強大な存在で、いくらどうにかしようとがんばったところでびくともしない壁のように思えていたものが、実は手にとっていくらでも造り替えられるものだったんだと思えるようになりました。

自分が体験者であると同時に創造者でもあることに 得心がいったのです。




意識が変ると世界の見え方が変り、そんな世界とどう向き合いどう行動するかも変ってきます。

マインドでぐるぐる考えあぐねているときには見えなかった突破口が、自然と見えてきます。

意識を変える、すなわち本来の自分の思いでないものを手放し続けていくだけで、見えるものがおのずと変り、出口の無かったところに出口が出現します。




以前 「『する』 ことと 『起きてくる』 こと」 という記事で みずから「する」 ことだと思っていたものの多くが実はおのずと 「起きてくる」 ことだったと書きましたが、いまや意識の世界に関する限り 進んですることはほんとうの自分でないものに氣づいて手放すことぐらいで、それ以外のことはすべてといっていいぐらい 手放しの結果として起きてくることだったんだと思えます。

「意識が変る (意識を変える) と世界が変る」 はおおげさでもなんでもなく 単純な事実そのものだったんですね。
















思い込みを手放すに当たり 氣をつけるといいこと二つ

2019年10月17日 18時50分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いのちの領域では、万事がゆっくり進みます。

種を播いても芽が出るまでには何日もかかるし、味噌や漬物を仕込んでもすぐ美味しく食べられるわけではありません。

同じく ネガティブな信念から解放される道のりも、それなりの時間が必要なようです。




貴秋は感覚フォーカスを重ねながら、このことを実感させられました。

手放したはずの負が、じきにまた戻ってきてしまう。

実のところ 植え込まれた信念を強化するプロセスも同じぐらい息長く上塗りを重ねているので、剥がすにも手間隙がかかるのは当然なのですが、植え込まれたことも強化してしまったことも自覚がないため、何十枚何百枚と重ね貼りされた薄紙を一枚ずつ剥ぐような作業をえんえん繰り返すのは、根氣と忍耐が要ります。

ここで 「自分はどんでもない間違いをしているのではないか、なんの効果もない作業に空しく時間を費やしているだけなのではないか」 という疑いにどれほど苛まれたことでしょう。

でもいまははっきり言うことができます、「言葉を切り離してただ感じる」 、時間はかかっても これ以上効果的な手立ては他にはないだろうと。




変化が起きたことに氣づくのは いつも不意打ちで、同じようなことが起きたときの反応の違いからです。

テーブルに脚をぶつけた、お皿を割った、ムッとするようなことを言われた、そんな日常的な負の出来事にふと湧き起こる反応 ・ 感情 ・ 行動が以前と違う、そのとき初めて 「あれ?私なんか変ってない?」 となります。

そう氣づかせるためにそのようなことが起こっているともとれますね。

そういうときはあっさり受け流してしまわないで、思いっきり自身の変りようを喜んでください、自身のこれまでのがんばりを褒め称えてください。

感情を伴う刷り込みの強化は、ポジ体験についても有効なのです。

喜びをもって効果を確認することが自信につながり、さらなる前向きな変化の呼び水となります。




もうひとつ、個を超えた引きの視点から見るとは 「いま ・ ここ」 に留まることでもありますが、負の信念の手放しを始めたばかりのころは ともすると意識が過去や未来に飛んでいってしまいます。

過去の苦しみがフラッシュバックし、それを未来に投影して不安に駆られる、そんなとき 「いま ・ ここ」 に留まっていられない自分、負の感情を呼び覚まさずにいられない自分を責めないでください。

これもまたチャンスなのです。

私たちは嫌なことが起こると、すぐ目を背けたり戦ってジタバタしたり自分を責めたりするようにクセづけられてしまっていますが、手放しのプロセスではどれもいらないことです。

過去の痛み、未来への不安、それもまた 「言葉を切り離してただ感じる」 絶好の機会、否定や自責の念に駆られて逃すことなく捕まえて役立ててください。

そうしてよかったとうれしく誇らしく思える日が きっとやってくることでしょう。

















「ピンチはチャンス」 という単純で奥深い真理

2019年10月17日 08時50分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


人の本質は意識体。。。この見方を推し進めていくほどに、見えるものが違ってきています。

嫌なことばかりに取り巻かれていると厭わしく感じていたころは思いもよらないことでしたが、実はその 「嫌なこと」 こそ同時に 当の嫌な出来事をこれ以上再生産させないようストップをかけるアイテムでもあったのです。

それをどう活用すればいいかさえしっかりわかれば、「嫌なこと」 を忌み嫌う代わりにもろ手を挙げて歓迎することだってできるのです。

これまでに何度も書いてきたことではありますが、体験を重ねて揺るぎない確信を得たいま、改めて書いておこうと思います。




私たちの現実は、私たちの意識が創り出しています。

何かを感情的に否定し、さらにそれが再び起こることを恐れていれば、その否定し恐れることが再び実現します。

現れる形は違っても、本質的には同じ状況が繰り返されます。

「自分はいつも大切な人から見放される」 と思い込んでいれば、恋人に去られて苦しみ、やっと立ち直って築いた家庭で 今度は配偶者やわが子に背を向けられるなどということが起こります。

じっくり検証する手間を厭わなければ、ここはどなたも得心がいかれることと思います。




なにか嫌なことが起きたときは、その底にその嫌なことを生み出すもととなるネガティブな信念が潜んでいるわけですが、厄介なのはその信念が強力であればあるほど、言葉にならない形で定着している場合が多いということ。

言葉を覚える前の幼いころに植え付けられた信念は 五感では捉えられないあいまいなイメージで入り込んでおり、そういうもやもやと形なきものを捕まえるのは容易ではありません。

そこに捕まえやすい形を与えてくれるのが、件の 「嫌なこと」 なのです。

信念に応じて恐れていた嫌な出来事が起こったとき湧き上がるネガティブな感情が、“洗脳” を解くカギです。

このときの肝は、その感情を 「言葉を切り離し ただ感じる」 というところにあります。

理屈抜きで受け止め、一度はしっかり体験し 全身で味わうことです。

具体的には 貴秋のようにからだの感覚に集中してもいいし、瞑想する、カウンセリングやセラピー ・ 催眠療法などを受ける、食べ物の質を上げたりヨガやさまざまなボディワークを行なうなどしてからだの波動を上げるほうから入るなど、洗脳を解く手立ても昨今はあれこれそろっていますので、心が動くものを探されるといいでしょう。




「ピンチはチャンス」 とはよく言われることですが、ほんとシンプルにそのとおりですね。

もっとも起こって欲しくない出来事が、その起こって欲しくない出来事を二度と起こらせないようにするカギでもあるのですから。

そのカギの使い方は長いこと謎でしたが、多くの先人たちの努力で手がかりが次々見つかり、解放される人も増えてきているようです。

さらに地球そのものの波動が上がるという追い風も吹いているようですし。

「ピンチはチャンス」 、つくづく単純で奥深い真理です。
















もひとつゴーヤの話 ~ 意思が伝わる ・ 望みが叶うということ

2019年10月09日 09時40分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これは2016年8月のゴーヤ。



この家で父と暮らすようになって初めてのグリーンカーテンです (^^)

ちょっとスカスカだけど まあイメージどおりに育ってくれ、たくさんの花や実まで恵んでくれて おおいに氣をよくしたものでした。




で 翌2017年はこの実から採った種を早々に播き、ちゃんと芽が出て育ち始めたのですが、なぜか次々と枯れてしまって。

成長点に喰われたような痕があったので、もういちど今度は植木鉢に種播きし、十分な大きさになるまで目を光らせ管理した上で、ここまでになればもう大丈夫だろうというところで移植しましたが、これもまた成長点をやられて枯れてしまったのです。

もう苗作りの時期には間に合いそうもなく 結局何にやられたのかもわからぬままがっくりきてしまい、この年のグリーンカーテンは実現しませんでした (T_T)




この記憶から2018年は残っている種を播く氣にもなれなかったのですが、毎年の地域清掃参加者へのゴーヤ苗プレゼントに思いがけず意欲が湧き、役場に駆けつけて頂いてきた二株を さっそく植えつけました。

その後なにが起きたかはこちらの 「初夏の庭に教えられたこと」 に書いていますが、実はいったん助かったと思われたこの苗たち、結局はまたしてもダメになってしまったのです 。

しばらくおとなしくしてくれていたダンゴムシたちが 再び苗にとりつき出し、前年の二の舞に 。・゜・(ノД`)・゜・。




原因は私の意識にありました。

ダンゴムシたちを信じ切れず、毎日のように 「いまはいいけどこの先も食べないでね」 と念を押し続けてしまったのです。

その底に 「いいことが続くわけがない」 「結局ダメになってしまうかもしれない」 という怖れの観念が強力にはびこっていたのはいうまでもありません。

で、そちらが実現してしまったと。

・・・と今でこそ冷静に見ることができますが、この体験に裏打ちされ強固になってしまったゴーヤにまつわる負の意識が払拭されたのは、つい先日のことだったのです。




今年はもう役場に苗をもらいに行くこともなく グリーンカーテンなど考えたくもない氣分だったのに、あの投売りの苗たちと出会って思わず連れ帰ってしまったのはなぜだったのでしょう。

実のところ、植え付けが終るまではダンゴムシのことはきれいに忘れていました。

が、夕方になって無事水を吸い上げているか確かめに行くと、あの悪夢のようなダンゴムシにたかられた苗の光景が再現されているではありませんか。

目の前が真っ暗になる思いでいったん部屋に戻りましたが、このまま手をこまねいていたら ただでさえ弱っているあの子たちはたちどころにやられてしまうでしょう。

せっかく助け出した苗たちをなんとか守りたい一心で、もう一度ダンゴムシたちに心の中で語りかけようとしたそのとき、ひらめきが起こりました。

         “そのやり方じゃ駄目!”

じゃどうすれば? と問うのと答が浮かぶのとどちらが先だったか。

私はすぐさま目を閉じて、あの2016年のように 窓一面に青々と生い茂るゴーヤのカーテンをくっきりと思い描きました。

あのひよひよの苗がこうなる! と視覚的にイメージしたのです。 

それから15分ほど経っておそるおそる庭に出てみると。。。。なんとどの苗にもダンゴムシの影さえ見当たらないではありませんか。

その後ついに苗の周りに一匹のダンゴムシを見ることもなく、あのときのイメージ画は現実となりました。






意思が伝わる ・ 望みが叶うとはこういうことかと体験学習させてもらった思いです。

助けられたのはゴーヤよりも私のほうだった。。。。そんな氣がしてなりません。














ゴーヤその後

2019年10月04日 11時38分37秒 | 自然


7月26日の記事に書いたゴーヤの苗。




あのときこんなだったのが、





いまやこう! \(^o^)/

立派なグリーンカーテンになったでしょ?





こんな可憐な花をたくさんつけて




初生りまでいただきました~♪


あの 「劣化のため」 と投売りされてひよひよだった子たちが。。。。よくここまで立派に育ってくれたねぇ (*^^*)




ところで。




これは8月12日の苗の様子。

植えつけてから2週間以上経ってもまだこんな感じで、少しずつ大きくなってはいるものの 生育具合は捗々しいとはいえず、やはり移植のタイミングを逃してしまった苗は十分な成長を遂げられないのかなぁと 毎日悲しい氣持ちでいました。

が、こちらは9月3日。



残暑の強い日ざしから守るためわざと葉をしおれさせているので 元氣がないようにも見えますが、蔓の丈がネットを越えてなおも伸びているのがわかります。

8月12日のあの状態から連日こつこつと少しずつ伸び続けてこうなった・・・・のではありません。

あれからまだ数日足踏み状態だったのが、あるときを境に急に爆発的に伸び始めたのです。




そういう成長の仕方はこれまでも何度も目にしていたのですが、今回初めてその意味がわかりました。

まず根っこの成長が先なんですね。

そして 見えない根っこが十分張り巡らされ 見える地上部に水や養分をたっぷり送れるようになって初めて、茎をぐんぐん伸ばし 葉を茂らせることができる、と。

急に大きくなったゴーヤをにこにこ眺めていたある日、突然そうひらめきました。




これきっと人間も同じですね。

見えない聞こえない触れられない五感を超えた領域で十分準備が整って初めて、現実世界でも目に見えて大きな変化が起こり出す。

引き寄せの法則などで 「いいといわれることはすべてやっているのに、いつまで経ってもなにも起こらない」 と不安がる声をよく聞くし、実際貴秋もさんざん不安に苛まれたクチですが、今回ゴーヤから教えられました。

寿命がはるかに長い人間は、根が育つにもそれなりの時間が必要なのでしょう。

私たちはどうしても目に見える結果を早く早くと求めてしまいがちだけれど、見えない根っこの様子を感じるともなく感じつつ、日々わずかずつの変りようをのんびり楽しみながら 氣を楽にして見守っていれば、あるとき突然世界が大きく動き出すのかもしれませんね。















二次元アバターはイラスト羊の夢を見るか?  その6

2019年10月03日 17時02分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


想像と創造はよく結びつけて語られますが、この 「想像 ⇒ 創造」 の力をまざまざと見せつけられたのは、小学生相手の読み聞かせでのこと。

物語の導入部では まだその世界に入り込めずもじもじしたり隣の子に喋りかけたりする子が何人かいるものですが、話が進むにつれて静かになり、佳境にさしかかるころには部屋全体が水を打ったようにしーんと静まり返ります。

スリル満点のお話のときなど 緊張感に張り詰めた空氣がこちらにもひしひしと伝わって、全員からだはここにあるが 心は完全に物語の世界に取り込まれていると感じさせられたものでした。

こういうときの子供たちは その世界の創造者であると同時に登場人物 (たいていは主人公に同化した形で) でもあり、彼らは物語をもとに自身の想像力で構築した世界を いっときの自分だけのリアルとしてしっかり体験しているんですね。

やがて 「・・・・おしまい」 の声と共に 絵本の最後のページがめくられると、みないっせいに我に返って 「おもしろかった~」 「はらはらした~」 などと口々にがやがや喋り出す、それが 彼らがファンタジーの世界から帰還した合図なのです。




私たちの想像の旅が創造に結びつくものとなるか、いっときの満足と引き換えに やがて心身を損なうものとなるかの分かれ目は、私たちがこの現実世界のからだにちゃんと立ち戻り、仮想空間での体験を全身に糧として行き渡らせられるかどうかにあるという氣がします。

大人になると、思い込みの強化は進むわ 時間やエネルギーのゆとりはなくなるわで 想像力もファンタジー世界との絆も薄れがちですが、そこでVRがその特性を発揮して力になってくれるのではないかという期待があります。

依存的にしがみつくのではなく そこでの体験が私たちのいのちを強めてくれるような、そんなVRの生かし方もありではないかと思うのです。




VR起業家 ・ 加藤直人さんは番組内で ご自身の事業のスローガンでもある 「引きこもりを加速する」 と書かれたトレーナーを着ておられましたが、加藤さんがおっしゃるように 「人間をもっと身体的物理的制約から自由にする」 という意味においては、貴秋もおおいに賛成です。

と同時に、使い方をひとつ間違えると 引きこもりの加速がからだと心の分離につながり、持って生まれた生命力を弱めてしまうこともあるということについても知っておいていただければと思います。

また、身体的物理的束縛からの解放という特性が 悪意をもって利用されてしまう場合もあるでしょう。

以前キャッシュレス決済の便利さがさかんに言われていたとき、「たしかに便利だけれど、お金を盗もうとする側にも コンピューターやネットの知識さえあれば仕事がずっと楽になっちゃいそうだなぁ」 と思っていたら、案の定セブンイレブンのスマホ決済で不正アクセスが起こりました。

ほんとどんな道具も作る人使う人次第、夢を実現させようという前向きな意欲から生まれた加藤さんの事業が、人を幸せにする手段としてのVRの可能性を大きく広げてくださるよう、心から願っております。




ところで今回のブログタイトルは おわかりの方も多いでしょうが、SF映画の金字塔 「ブレードランナー」 の原作 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 のもじり。

今ならアンドロイドというよりAIのほうがいいのでしょうが、人間と見分けがつかないほど進化したAIは 人と同じように夢を見るか? ならばうんと進化したアバターが見る夢は、アバターのもの? それとも中の人のもの?

最近ビジュアル的にも知的にも人とみまごうばかりのAIも登場し、技術の加速的進化を考えれば、甲殻機動隊やマトリックスの世界もあながちSFとばかりはいえません。

アバターを通じてリアルと見分けがつかないほと精妙な感覚を受け取ったら、その体験は誰のもの?

どこからどこまでがアバターで、どこからどこまでが自分? ・・・・そもそも自分ってなに?

常日頃から自分というものの中心軸をつかんでいるかいないかで、最先端の科学技術で幸せになるか 技術に振り回されるかが分かれるのかもしれませんね。




このタイトルはこれでおしまいです。

さんざん間が開いてしまい 読みにくかったであろう文章をお読みくださり、ありがとうございました。