毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

セルフイメージが変われば 世界が変わり すべてが変わる

2022年04月30日 10時54分12秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
最近文中で セルフイメージに言及することが多くなった氣がしますが、私たちが生きていく上で その土台を成すもっとも重要な要素が このセルフイメージだと思っています。

セルフイメージが人生を決定していると言っても 過言ではありません。

貴秋は 感覚フォーカスにいそしむようになってから 以前よりもからだの感覚を意識する癖がつきましたが、そこで氣づいたのが、セルフイメージとは 言葉や理屈を超えたある種の感覚だということ。

来る日も来る日も24時間つねに皮膚のようにまとっているそこはかとない感覚が、自分自身についてはもとより、自身の意識が投影された周囲の世界のありようをも決定しています。

自身に否定的イメージしか持てない人が 天国のような明るい世界に住んでいるなんてことは、まずあり得ませんものね。

その感覚は 呼吸などと同じく ずっと昔からあまりにも慣れっこになっているため、ことさら注意を向けない限り 意識することはほとんどありませんが、その氣づきもしないほど当たり前の感覚が 日常のあらゆる幸不幸を左右し、ひっそりと人生の流れを決めているのです。




「三つ子の魂百まで」 ということわざがあるように、私たちの考えや行動は、脳が一応の完成をみる三歳ごろより前に取り込まれた情報に大きく影響されます。

この脳の配線が未完の時代にインプットされる情報が なぜかくも強力なのかといえば、言葉ではない形で入り込み定着するから。

三歳前後では当然言葉もおぼつかず、従って言葉で選り好みしたりふるいにかけたりすることもないため、入ってくる情報を理屈ではなく感覚という形で受け止め、ことごとく受け入れてしまうのですね。

こうして入ってくる情報には 周囲の人間のクセ付いたものの見方や感情も混じっていますが、言葉という枠組みがない分 自他の区別が希薄な赤ちゃんや幼児は、自己の体験から得たのではないそんな他者の思い込みまでも すべて取り込み自分のものにしてしまう。

この紛れ込んだ他者の思い込み。。。これを貴秋は “バグ” と呼んでいますが、この “バグ” は、通常知覚している意識よりもっと奥の深層意識に入り込んで定着し、そんなものが植え付けられた記憶もないまま ずっと居座ることになります。

顕在意識1 : 潜在意識9 という比率がどの程度正確かはわかりませんが、ただそれぐらい意識の中で知覚できないエリアが多くを占めているというのは確かでしょうから、そこにこんな “バグ” が氣づかれないまま居座り続けているというのは厄介なことです。

そしてさらに厄介なのは、この “バグ” を言葉や理屈でなだめたり説得したりはできないということ。

言葉を持たない赤ん坊や幼児を理詰めで説得できないのと同じく、言葉ではない形で入り込んだ思い込みを言葉で解除するのは、まず無理です。

いくら 「そんなに無理しなくていいんだよ」 「あなたはもっといいものを受け取る価値があるんだよ」 などと言われて 頭では納得しても、それが人生を変えるまでに至らないのは、そのせいなんですね。

ここで力を発揮するのが、理屈を超えて「向き合い 見つめ 感じる」 こと。




本来の私たちは 非の打ち所なく完璧で、この体験世界を味わい尽くしてやろうという意欲とエネルギーに満ち満ちています。

それを覆い隠すバグの雲を拭い去りたければ、ネガティブな感情や記憶が上がってくるたび 目を背けず向き合って 終わらせればいい。

言葉や思考で判断解釈するのをやめて ただ受け止め感じれば、否定的な感情は役目を終えて やがて立ち去ります。

「向き合い 見つめ 感じる」 とは 遺跡の発掘のようなもの、自分でないものを取り除き、真の自分を掘り出す作業なんですね。

バグがある程度消えると 眠っていた本来の性質が発動し、明るい思いや肯定的な出来事が向こうから勝手に次々起きてきますから、あとはそれに乗っかればいい。

そしてあるときふと、セルフイメージががらりと変わった自分に氣づくのです。




形ある世界の私たちは どうしても 達成した成果のほうに重きを置きがちですが、魂レベルでの望みは この 「否定的なセルフイメージを肯定的に塗り替える」 体験そのもののほうなんですね。

だから、たとえいまが理想とかけ離れた状態であっても、努力がなかなか実らなくても、悲観することはありません。

いまが悲惨であればあるほど のちのちのコントラスト効果も大きいし、結果が出るまでに時間がかかればかかるほど 得られる体験も壮大になるのですから。

終わりよければすべてよし、手にした成果に満足できれば、どれほど辛かった ・ 苦しかった記憶も受け入れられるようになれるもの、だってその中のどれひとつが欠けても ここまでたどり着くことはできなかったのだから。

セルフイメージをよりよく変えることは 自分の住む世界をよりよく変えることであり、いまの世界が居心地よくなったなぁと感じるとき、私たちは魂の意図に沿う 「かえり」 の道を 確実に歩んでいるのです。
















意識が世界を創るって そういうことだったのね

2022年04月14日 23時38分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前回の続き。

長年嫌なことにばかり意識を縛り付けられていた身としては、好ましい未来を思い描くなんてお安いご用と高をくくっていたし、また子どもの頃から磨きをかけ続けた空想力にも自信アリだったのですが、実際にやってみて、「空想」 と 「イメージング ・ ビジュアライゼーション」 とは違うのだということを痛感させられました。

「引き寄せの法則」 などを参考に、“好き” をてんこ盛りにしての未来図描きは、最初のうちこそ楽しいのですが、「できるだけ細部までリアルに」 との指示に従い 細かい設定を描き込んでゆくにつれて、不思議と面白みが薄れ ワクワク感が色あせてくるのです。

大づかみに 「内的探究は間違いなく死ぬまでやってるよね、それに家仕事も 畑も 手芸やクラフトも♪」 などとイメージするのは いまの延長だからたやすいのですが、「未来の家はこんな立地でこんな間取りでこんな内装で。。。。」 などとなってくると、いますぐ発注するわけでも建てたいわけでもないのに そんなこまごま思い描いたところで 実感湧かないし、だいたい将来もいまと好みが同じかどうかなんてわからないものね・・・とだんだんしらけムードになってきます。

で、ああでもないこうでもないと悪戦苦闘を続けていたあるとき、またしてもインスピレーションが。

「ずっと先に何をするかなど いま考えたところでどう変わるかわからない、それよりたったいま叶えたいこと ・ 叶ったらうれしいことは何?それがわかれば あとはネガの感覚フォーカスのときと同じこと、その望みが叶ったときの感覚を想像して呼び覚まし、フォーカスしなさい。感覚を実現できれば、具現化は後からついてくる」




えらいカン違いをしておりました。

フォーカスすべきはつねに感覚であり感情、言葉化された物語ではないと よぉくわかっていたはずなのに。

そもそも引き寄せなどで言うところの 「望みが叶った情景を細部までリアルに思い浮かべる」 というのも、そうなったときの生々しい感情や感覚を呼び覚ますための手段であり、ビジュアライゼーションそのものが目的ではなかったはずなんだよね。

それに 「未来」 というのも いま望んでいることが叶った未来のことであって、それより先のことをあれこれ考えても仕方ない。

で すぐさま意識を切り替え、改めて たったいま叶ってほしいことは何? と問うと、返ってきた答えは 「全き自由の身となること」。

そう、貴秋の今生での課題は 家族関係とお金の二点で、この二つに自由を阻まれていると感じることが多かったのです。

そこから生じたネガ感情をひたすら見つめることで 否定的な出来事はほとんど起こらないまでになりましたが、今度はさらに一歩進めて その空きスペースに入れるものを見つけることになり、そこで積極的に取りに行くべきものが、この 「全き自由」 だったんですね。

それではと、そういった問題がことごとく消え失せて、何をするもしないも 右へ行くも左へ行くも自由となったら どんな氣がするものか 真剣にイメージしてみたら、まあなんて風通しよくていい氣分なんでしょう。

胸のあたりのしこりが解けて、呼吸が楽になって、身も心も軽やかで晴れやかで 幸せそのもの。

“悩んでたことがウソみたいね だってもう自由よ なんでもできる”

「アナと雪の女王」 主題歌 「レット ・ イット ・ ゴー」 の一節が浮かびます。

本氣でイメージできることには、ちゃんとからだの感覚もついてくるものだと よくわかりました。

で、それっきりそのときのことは忘れていたのですが。





先月末 あること (貴秋ひとりだけのことではないので 具体的な内容が書けなくてごめんなさい ) が起こり、ここ数年苦にしていた大きな縛りがひとつ 思いがけない形で外れたのです。

想像のはるか斜め上をいくような思いがけなさだったため、うれしいより先に呆然としてしまったのですが、しばらく経って我を取り戻し、もうあれに悩まなくていいんだ、あれを四六時中氣に病んで生きていかなくていいんだ、と思ったら、せき止められていた空氣がどっと流れ込むような感覚と同時に 自由になった! という喜びがこみ上げ、次の瞬間 それがあのイメージングのときの感覚と同じであることに氣がつきました。

うわ、あのときの感覚がほんとうになった、実現したんだ!

こうしてついに、感覚フォーカスが否定的世界の手放しだけでなく 肯定的世界の実現にも有効であると確信することができだのです。

実際に手にした成果はささやかなものですが、望んだ世界を意図して具現化できるとの手応えを得た自信の大きさたるや その比ではありません。

疑念にさいなまれ 長い時間がかかったけれど、ついに仮説が正しかった確証を得た、その歓喜自体が 意識の縛りが解けたことの現れであり、それが 次の具現化の呼び水となり さらに大きな成果を得るだろうとの予感もあります。

こうなったらやることはひとつ、このウキウキワクワクをひたすら味わい続けること、得た自由を最大限活かして 日々を楽しみ暮らすこと、それだけ。

4月に入ってからしばらくブログの更新がストップしていたのは、ちょうど桜が満開だったこともあり、毎日お花見、読書、クラフト、お菓子作りと、そのときどきで これしたい! と思うことを片っ端からやっては浮かれ過ごしていたからで、そんな楽しい日常がいまも続いています。

結局のところ、自由を阻んでいたのは 自分自身の 「そんなことできない」 という思い込みであり、家族やお金の問題は その思いが反映され形になったものに過ぎなかったんだとよくわかりました。

目に見える景色は同じでも、感覚や感情が変われば世界が変わる、これ ほんとうです。
















嫌なことはもう十分、反転してからが人生の本番

2022年04月09日 14時25分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
やはりというか、ウクライナ侵攻の影響で 対立する国どうしの経済制裁やら輸出入の差し止めやらで、さまざまな物の値段が上がってきましたね。

このままどんどん進んで、コロナに加えてこういう事情だから仕方ないよね、自己責任でなんとかしてねということになるのかな?

でも忘れないでおきましょう、戦争紛争の類いは人為的に引き起こされるものだし、コロナだって ウイルス自体は自然発生だとしても (そうではないという話もあります)、それにまつわる政策が特定の人の意思で動かされてきた結果 このような事態に立ち至っているのだということを。

現行のお金のシステムは 一見理論的に組み立てられているようでいて、実際には感情に動かされやすいものですから、私たちが冷静にものを見る目を忘れて 不安や恐れにあおり立てられると、たちまち状況が悪化し 今以上に多くの人々が困窮生活を強いられることになりかねず、これまで人ごとのように見ていた戦争に自分たちが引きずり込まれることだっておおいにあり得るのです。

いまほどすべての人が引きの視点に立ち、広い視野から落ち着いて物事を見極めることが大切なときはないと感じます。




以前にも書いたと思いますが、大学生のころ、友人を奈良公園の飛火野に連れて行って ひどく落胆されたことがあります。

友人は 飛火野の幻想的な写真だかポスターだかに感動して以来 ずっと実物と相まみえることを夢見ていたそうなのですが、実際に行かれた方はご存じの通り 観光地なだけに人も多いし、すぐ近くにはバスも通る道があるし、足下には鹿のフンが一杯落ちていて臭いもするし、少し離れた県庁前の大通りからの喧噪も聞こえてくるし、広々と美しく氣持ちのいいところではありますが、幻想からはほど遠い場所です。

写真はたしかにありのままの景色を写し出すけれど、それはあくまでも過去のある一瞬を部分的に切り取ったものに過ぎず、今この瞬間の現地とイコールではないし、ましてや意図的に部分を誇張したり 加工が施されたり 演出が成されたりしていれば、それを真実と見なすのは危なっかしいことでしょう。

ウクライナの惨状が連日報道されて世界の注目を集めていますが、その裏で 影が薄くなってはいるけれど、アフガニスタン、ミャンマー、シリア、イラク、ほか多くの国々でもまた命の危険にさらされている大勢の人がおり、さらに戦争紛争でなくとも さまざまな言論統制、弾圧、治安の悪化などで苦しんでいる多くの人々がいるのですね。

でも、私たちの顕在意識は どうしても五感に強く訴えかけるもののほうに注意が集中しがちで、それ以外の情報が忘れられやすく、そんな性質が意図的に利用されることだってままあるわけで、いまのように世界情勢が剣呑なときこそ、死角が多く 感情に左右されやすい顕在意識だけで事に当たるのは危険なことだとわかっておくほうがいいように思います。




さて。

ここしばらく あまり楽しくない話が続いてしまいましたが、とにもかくにも自分たちが創った世界ですから、一度はそのありようを根底から直視しないと、負の要素を終わらせてゼロに戻すことができないんですね。

とはいっても ただいたずらに苦しめられているわけではなく、魂の意図は、ネガとの対比からのコントラスト効果で 真の自分の素晴らしさをより際立たせて味わい尽くすことにあるのですから、いったんゼロ地点に立てば そこからがいよいよこの世に生まれ出た真骨頂、お楽しみの始まりです。




貴秋が感覚フォーカスを始めた当初は、とにかくネガティブな思い込みを手放すことしか頭になかったんですが、少しずつ効果を実感できるようになってきたかなというあるとき、新たに 「これからは手放しと同時進行で、ネガがなくなり空いたスペースに よりよい新しいものを入れていくこと」 というアドバイスが飛び込んできました。

なるほど、負の感情を手放したあとには 当然空きスペースが出るわけだし、再生とは 破壊 + 新たな創造 ですものね。

これはいいと 「よっしゃ~、嫌なものはもうさんざん見たから、ここからがお楽しみだぞ~♪」 と張り切ったまではよかったのですが、ここに意外な盲点がありました。

否定的な思いは 何十年もかけて細胞一個一個に刻み込まれるほど味わっていましたから、感覚もイメージも鮮明で フォーカスしやすかったのですが、いくら好ましいとはいえ、まだ経験したことがない世界を具現化できるほど鮮やかに思い浮かべるのは けっこう難しいのです。

楽しいことをイメージするなんてたやすいことと思っていたのが案に相違して、ここからまたかなりの時間を試行錯誤に費やすことになりましたが、おかげでとんだ思い違いをしていたと氣づくことができました。