毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

俯瞰

2017年03月27日 18時14分32秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


マンデラ ・ エフェクトからは離れるので タイトルは変えましたが、これまでの話の続きです。

「その3」 で 俳優の話をちらっと引き合いに出しましたが、いい作品を創ろうと思ったら 演技に入り込む視点と役を降りて外から確認する視点、異なる位置からの複数の視点が必要になりますね。

私たちが 自身の生をよいものにしようとするときも同じこと。




五感の世界は 体験の場です。

うれしいものうれしくないものひっくるめて、起こる出来事もそこから生じる感情も とにかく体験することに意味があります。

このときの視点は、名前 ・ 容姿 ・ 性格 その他さまざまな要素から成る 「私」 というキャラクターのもの。

「私」 は 自分自身も まわりの人や物事も 思い通りにコントロールしようとしますが、これが難しいのです。

渦の中でもみくちゃになりながら 渦全体を見渡すことも 渦をどうこうすることも不可能なように、世界に入り込んだまま その世界を変えることはできません。

ここで 五感の世界を外から眺める別の視点が力を発揮します。




外からの視点では、同じものを見ても 内から見たときとはまるで違うものが見えます。

貴秋がまだ内からの視点しか持っていなかったころ、たとえば 否定的な世界観を植えつけた親の仕打ちには 怒りや恨みしかありませんでした。

が、「生まれる前の魂目線」という新しい視点を通すと、このおよそありがたくない行為も 本来の自分ではないものを体験するためにわざわざ用意したことという意味合いを帯びるので、怒りや恨みはかき消え 親役の魂さんいい仕事をありがとうという氣持ちになります。

このような視点の変化に慣れると、トラブルやアクシデントが起きても 意識の切り替えが早くなり、氣落ちする時間はわずかで すぐに 「これは私になにを体験をさせようとしているんだろう」 という姿勢になるので、エネルギーも時間も大きくロスすることなく 外から得た情報を内での体験に生かして 選択や行動を変えながら 望む人生が実現するよう自身をコントロールすることができるようになります。

さらに慣れると、「私」 の意識はそのままで 現在進行中の体験を 外視点で吟味できるようにもなってきます。

明晰夢を見ているようなものでしょうか。




さらにこの視点の行き来は、五感世界のものの見方がすべてであるという固定観念を大きく揺らがせてくれます。

よそに答えを求め 論理的に証明できる情報ばかりに頼っていた姿勢から、内側のかすかな感覚に心を澄ませ 直感を信頼する姿勢へと変わっていきます。

信じて多用することで 直感がどんどん研ぎ澄まされ、想定外の出来事にも怯えずすくまず対応できるようになります。




人の意識も出来事も 氣候までも極端な偏りが進む今、さまざまな角度から柔軟に物事を捉える意識が 舵取りに大きな力を発揮するようです。

また、私たちひとりひとりが “おおきなひとつ” “神” のひとかけらなら、私たち全員の視点が集まったものが 神の視座なわけで、自分と異なる見方を否定するのでなく 他者の視点も借りて より広い視野から物事を見ることが 波乱の状況を乗り越えさせてくれるのではないかとも思います。




そしてもうひとつ。

立花隆氏の 「宇宙からの帰還」 には 何人もの宇宙飛行士の宇宙体験が描かれていますが、はるか彼方から漆黒の空間を背景に 地球を丸ごと視界に収めるという体験には みな大なり小なり感じるものがあり、その後の人生に影響が及んだようです。

以前山歩きの達人から 「下山中道に迷ったら、無理に下りようとせず いったん上に引き返して 高い位置から見下ろすと 正しい道がわかる」 と聞いたことがありますが、俯瞰の視点は 視野も意識も大きく広げて それぞれの道を指し示してくれるのですね。

私たち誰もが 宇宙空間からという壮大な俯瞰を体験できるわけではありませんが、人間には想像する力というものがあります。

宇宙まで行った人の視点を借り、さらに想像力を駆使することで、私たちは 人間だけでなく 地球全体 ・ すべての生き物 ・ すべてのいのちという視点も忘れてはならないのではないでしょうか。





















こんなところにマンデラ・エフェクト!?  その4

2017年03月23日 23時47分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


つい先日訪れた、東日本大震災から6年後の3月11日。

あの震災を語るとき 今も繰り返し使われるのが 「想定外」 という言葉です。

3.11から半年後の9月、台風12号がもたらした大雨による紀伊半島豪雨災害で 貴秋はその 「想定外」 というものを 身をもって体験することになりました。

川の水かさがぐんぐん増し あちこちに被害が出る中で、行政 ・ 消防団 ・ 自治会等に携わる方々は 全力を尽くしておられましたが、この先いったいどういうことになるのか 予測できる人は誰もいない。

当然です、「想定外」 なのだから。




辞書によれば、「想定」 とは 「ある条件や状況を仮に決めること」 。

その 「決めている」 のは左脳 (論理脳) 、言い換えればマインド ・ 小我です。

マインドが把握できるのは 過去か未来のこと、過去の体験から未来を推し量るのが マインドの働きですから、過去の体験が役に立たないほどの事態についてはお手上げなのです。

あのとき 土砂ダムの下流にある避難先の小学校で 消防団の方が言われたことは、今でもはっきり覚えています。

「できるだけのことはしているが、これまでに体験したことのない状況で この先どうなるか 我々にもわかりません。日が暮れる前に もっと安全な避難場所に移動するか このままここに留まるか、皆さん方で判断して決めてください」

率直なお言葉だったと思います。

マインドに関する限り、経験したことない事態についての答など 誰も持ち合わせていないのですから、責任持って確かな指図のできる人がいるはずがないのです。




今、自然災害のみならず 政治 ・ 経済 ・ 科学 その他多くの分野で 想定外のことが次々起こっています。

そんな状況に マインドの視点ひとつで立ち向かうのは、あまりにも心もとないというものでしょう。

誰かがなんとかしてくれるのではと見回しても、安心して従える答は見つからない。

が、世の中には 理屈を超えたところで危機を回避する人たちが 少なからずいるようです。

以前 関東大震災で たどり着いた被服廠跡を直感から逃げ出し 難を逃れた祖母の話を書きましたが、ライアル ・ ワトスン著 「アース ・ ワークス」 には 事故が起きた飛行機や列車に乗る人の割合が 無事故のそれらよりいつも少し下がるという話が出てきます。

そういう研究をしていた人があったようなのですが、実際 なんとなく落ち着かないとか氣が乗らないとか 根拠なく何かを感じるという体験は 大なり小なり誰もがしているのではないでしょうか。

意識していようとしていまいと、理屈抜きで感じる力を 私たちは持っている。

想定外のこれからを生き抜くカギは その力が握っていると思います。




感覚フォーカスを通じて ほんとうの思いを遮っている思い込みと向き合い 解放し続ける中で、その力に何度も助けられてきました。

ドライブで氣まぐれに道を変え 後になって当初の道が通行止めになっていたと知るようなちょっとしたものから これも以前書いた 家のカギの閉じ込みを切り抜けた話のようなけっこうなピンチまで 大小さまざまな体験を重ね、この感じる力への信頼がぐんと増しました。

が、その信頼をいまだに揺るがせるのが 根強いマインドの声。

それはほんとうに安全か? 大丈夫なのか?

間違いないという証拠がどこにある?

そんなあやふやなものに任せて うまくいかなかったらどうする?

残念ながら こういう声が響くと とたんに感じる力への信頼が弱まり、頭でなんとかしようと焦っては自信をなくしてすくんでしまうクセが いまだに残っています。




小我が真我に主導権をゆだねるのが最上のバランスと思い定め そのとおりに生きたいのに思い通りにならない、このはがゆい綱引きのさなか ならば五感も納得の証拠を見せましょうかといわんばかりに起こった マンデラ ・ エフェクトとおぼしき出来事。

今となっては、それがほんとうのパラレルワールド移動だろうと 単なるカン違いだろうと どっちでもいい、いやそもそも マンデラ ・ エフェクト自体が確実な情報でなくても構わない、大事なのは あの出来事がこちらの意識を揺さぶり 感じるまま生きるほうへとど~んと背中を押してくれたという事実です。




これからは、信頼できる指導者についてゆくというのではなく ひとりひとりが自分の答を自分で決める時代になってゆくでしょう。

感じる力は そんな想定外の世界で 何よりも確かな導き手となってくれると 貴秋は信じています。





















こんなところにマンデラ・エフェクト!?  その3

2017年03月22日 15時34分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちがトラブルやアクシデントに見舞われたとき、まずはショックを受け エネルギーがダウンし 氣が重くなるのではないでしょうか。

それは、そういった出来事を うれしくないこと できれば避けたいことと認識しているから。




貴秋はあるときから ここに新たな視点が加わりました。

「本来の私たちは ほんとうの自分の素晴らしさを体験的に知りたいがために わざわざ制限を設け 不自由な身となってこの世に生まれてきた神のひとかけらである」 という視点が。

ほんとうの自分は完璧で 非の打ち所なく素晴らしく、素晴らしさしかないゆえに 素晴らしいとわかっていても それを実感することができない。

だから、あえて 「素晴らしくない自分、欠点も弱点もある自分」 という対立要素を作り出し さまざまなルールを課した上で、そんな面倒な世界に好んで生まれ出てきたのだ、と。

この見方でいくと 否定的な体験もすべて 自ら望んだものということになるので、「この出来事は私に何を体験させようとしているのだろう?」 と進んで確かめようとする氣持ちが生まれます。




さらにもうひとつ 「まわりに展開する光景は、人も場所も物事もすべて 自身の内面が投影されたものである」 という視点も得ました。

日ごろの私たちにとって 外側はあくまでも外側、自分とは別のもの。

でもこの視点に立つと、外は外であると同時に 内でもあるのです。

まわりのものを鏡に見立てて 自身の内側を見つめるわけです。

この世でただひとつ 自分自身の姿だけは、自分の目で直接見ることができません。

同じく 性格やおかれた状況などを第三者的に捉えようとしても、その捉えようとしている主体はマインド ・ 自我なのですから、客観的に見るのはやはり不可能。

そこで、鏡やカメラ ・ ビデオなどを通して自身の外見を知るように 外の世界という鏡を使って心の内を知るのです。




外の世界を自分と別物と思っていると、外側の人間や状況が 自分を困らせ苦しめているように思えて反発し、ネガティブな氣持ちを全部外に弾き返してしまいます。

外に見えるもの = 自分 という視点に立つと、ここががらりと変わります。

まず 外の世界に感じるのと同じ要素を 自身の内に見つけようという意志が働きます。

思い当たるものが見つかったら、自責等の判断解釈はいりません。

ただ こんなものがあったんだなぁと知り、その感覚を味わうだけでいいのです。

ネガティブな要素も含め、私たちは可能な限りのさまざまな体験をするために この世界にやってきたのですから。




このとき私たちの視点は 体験している世界の外にあります。

外に向かっていた心の目が 鏡に当たってはね返り、外から内を見る視点に変わっているわけです。

感覚フォーカスのたび ざらつきや締めつけなどの不快感がすぅっと消えてゆくのを体験していますが、演技を終えた俳優が役を降りるように 当事者から観察者へと立場が変化するから 当事者だったときの感覚が消えるのだと考えると納得です。

問題の引き金であった負の感覚が消え 氣持ちのありようが変わると、すでに起こってしまった物事にも おのずと解決の道筋が見えてくるようです。

悩んでいる最中は 袋小路に閉じ込められたように思えることもありますが、それはひとつの視点だけから眺めているからで、複数の視点から見渡せば 壁と思われたところに出口が見えてきたり 開かなかったドアが開いたりするようなことが起こります。

いや むしろ 袋小路と思い込んでいたものが幻であったとわかるというほうが正しいでしょうか。




こうして大小さまざまなピンチを通り抜けてゆく中から、俳優がセットの外に出て モニターで自身の演技を確認しては よりよいものに練り上げ 質を高めてゆくように、私たちも複数の視点を持ち 五感の世界を出たり入ったりすることで 問題が生まれては消えてゆくプロセスを味わいつつ 人生の質や幸福度を高めてゆくことができるのだと 次第にわかってきたのです。























こんなところにマンデラ・エフェクト!?  その2

2017年03月21日 10時43分12秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


そもそもパラレルワールドは ファンタジーでもたわごとでもなく、量子物理学という分野で真面目に取り上げられているテーマです。

以前ご紹介したブログに さらに詳しく解説されているのを見つけましたので、よろしければ。 ・・・・・とちゃっかり説明の手間を省く貴秋

 「粒子か波かについて」   「二重スリット実験について」   「シュレーディンガーの猫について」   「フォン ・ ノイマンさんについて」   「エヴェレット解釈について」




とはいえ、物理学的にいかに論じられ立証されようとも 最終的にそれらを意識に取り込む ・ 取り込まないを決めるのは ひとりひとりの好みや選択。

貴秋がパラレルワールドを信じるに至ったのは 上記の話を含め さまざまな情報に出会っては なぜか好感を抱き受け入れてきたという積み重ねによるもので、これはもう 生まれる前にそのように準備設定してあったのだろうと思うしかありません。

で 想像の範疇とはいえ ナチュラルに日常に入り込みなじんでいた並行世界概念に、さらに マンデラ ・ エフェクト!? と思いたくなるような不思議な現象がぶつかってきたわけです。

あるはずのないものが出現したという奇妙な出来事は、それまで概念でしかなかった並行世界というものを ぐぐっとリアルのほうに引き寄せてくれました。

黄水仙は、貴秋が氣づいていないだけで ちゃんと説明可能な理由により生えて出たのかもしれないし、貴秋の意識の波長が変化したことで 黄水仙の存在しない世界から存在する世界へと並行移動した結果 不意に現れたように見えたのかもしれない、この二つの可能性が 同等の重みを持って 「どっちもあり」 と思えるようになったのです。






ここで思い出すのが、以前にもこのブログに書いた 荘子の「胡蝶の夢」 。

荘周が胡蝶になった夢を見たのか、はたまた胡蝶が夢の中で荘周になっているのか。

ここで荘子は どちらかに決めようとはしないんですね。

胡蝶であろうと荘周であろうと 自分という主体に変わりはない、そのときそのときの自分を味わい楽しめばいい、と。

貴秋が上記の二つの可能性について思うときの感覚もこれと似ています。

黄水仙の出現理由に氣づいていないだけなのか、黄水仙の存在しない世界から存在する世界へ移動したのか、どちらもありだし どっちでも構わない、別にどちらか一方に決めなければならないというものでもなく そのときどきで好きなほう 都合のいいほうを選べばいい。




20年前の自分だったら考えられないことです。

荘子は人間なんだから 荘周という人が蝶になった夢を見ているに決まってるじゃない、パラレルワールド? 並行移動? 何わけわからないこと言ってるの?

自分はこれこれこういう名前と容姿と役割と個性を持ったひとりの人間で それ以外の何かだなんてありえない、五感に働きかける今のこの世界以外に自分が存在する世界なんてあろうはずもない、そう信じて疑うことなく生きてきた貴秋だったのに。




そんな自分がなぜかたどり着いたこの 「特定の見方に固執しない」 「複数の視点を自在に行き来できる」 というものの見方が、今とても重要になってきている氣がするのです。

























こんなところにマンデラ・エフェクト!?  その1 

2017年03月20日 10時26分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ご無沙汰しております。

例によって意識が強烈に内向くサイクルに入り ブログ投稿が滞っていますが、ちょっと不思議なことがありまして。




これは今年1月7日の写真なんですが、




よく見ると 右側やや下方にこんなものが。




場所でいうと 乙女椿の枝のすぐ下、こんなところにいったい何が出てきたんだろうとずっと氣になっていましたが、氣温が上がり始めるのと同時にすうっと丈が伸びて 3月に入ってつぼみをつけ、花が咲いたら これが黄水仙。

思いがけず美しい花に恵まれたのはうれしいですが、それ以上に不思議なんですよね。

去年はこの季節さんざん庭の写真を撮りまくったのでよく覚えていますが、チューリップや例のアイリスはあっても 黄水仙なんてどこにもなかったのに。

もちろん後から植えた覚えもありません。

父に聞いても 「知らん、俺は庭はノータッチだ」 のひとこと、まあこの方はもともと庭に関心がないので 当てにはなりませんが (^_^;)

去年だけたまたまなにかの具合で出てこなかったのかと思わないでもありませんが、それ以前の春にも見かけた記憶がない。

3月は父の誕生日があるし、母が亡くなったのも5年前の4月でしたから、春には結構ちょくちょく来ているんですが。。。。

古い写真を探しても、実家の庭に黄水仙なんていうのは一枚もなし。




ところで これだけ話しておきながら なんで肝心の花の写真がないのかって?

いえ、ちゃんと撮ったんですが、これが。。。。。。




こんなんで




こんなん。


これもまたいささか不思議なんです。

意識が内向いているおかげで カメラともすっかりご無沙汰でしたが、この前最後に撮ったのが2月24日で そのときの写真がこれ。



まったく問題なし。

まあ素直に考えれば氣づかずに何かのボタンに触っちゃったとかなのでしょうが、そもそも機械類に疎い私、撮影に最低必要な以外のところは触れる習慣がないんですね。

いつもどおり撮り終えて電源を切り、今回も電源を入れて花に向かってシャッターを押した、それ以外に特別な操作をした覚えはありません。

カメラの調子がおかしくなっているのかな?

前回以来 ずっと同じところに置いたまま、落としたりぶつけたりもしてないんですが。。。。




マンデラ ・ エフェクトという言葉を初めて知ったのは、この記事から。

さまざまな体験を経て 「パラレルワールド」 や 「並行世界間の移動」 という概念にまったく抵抗のない貴秋ですが、さりとて絶対そうに違いないと決め込むほどでもなく、どのみち確実なところを証明できるようなことではありませんしね。

が、今回の カメラの件はともかく 黄水仙については、このマンデラ ・ エフェクト情報と相まって パラレルワールドの存在が ぐっと現実味を増した氣分なのです。

それも、五感で触れることのできるこの三次元の日常空間と拮抗するほどのリアルさで。




長くなりましたので、いったん切りますね。