毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ためらいなく (゚Д゚)ハァ? と言える自由な意識を取り戻そう

2022年06月15日 10時10分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「(゚Д゚)ハァ?」 っていう顔文字がありますよね。

これは、先に書かれた記述内容への疑念や不同意の氣持ちを 「何言ってるの」 「意味わからない」 「バカも休み休み言え」 といったニュアンスを込めて揶揄的に表すマークだろうと解釈していますが。




唐突にヘンな問いかけで恐縮ですが、もしいま突然 見ず知らずの他人が目の前に現れて、「お宅の今夜の夕飯は○○にしなさい、決まり!」 と一方的に宣告されたらどうでしょう。

これぞまさしく 「「(゚Д゚)ハァ?」 なシチュエーション、当然 「なんでオマエが指図すんねん」 となりますよね。

つまり 言われた側は、そんなことを言われる覚えも了承する必要もないことを 明確にわかっているわけです。

では このシチュエーションを、人間特有の概念の本丸、例の 「お金のシステム ・ 時間 ・ 法律」 の支配下に置かれている私たちに置き換えてみたらどうですか?

私たちは 本来万人は平等で 上も下もないはずだとわかっているし、物質的富がごく一部の人に偏っていることも、時間に縛られて命に関わるような働き方をせざるを得ない人が大勢いることも、法律が建前とは違い 万人に公平に適用されているわけではないこともわかっている。

わかっているのですが、そんなものが私たちの暮らしや人生を 強制的かつ一方的に制限することについて、夕飯のメニューのときと同じぐらい即座に 「(゚Д゚)ハァ?」 と思えるでしょうか?

もう何度も書いていますが、こういう社会的ルールは もともとある時代のある立場の人間が 権力を笠に着て勝手に取り決めたもので、宇宙の法則などとは違い 不都合があればいくらでも変更がきくはずです。

が、私たちの反応は メニューのときとは違い、「不満だが仕方がない」 と自身のナマの感情を押し殺すほうに向かうのではないでしょうか。




それは 事が大き過ぎるとたじろぐ氣持ちに加え、過去にあらゆる時代のあらゆる国の人々が 自由や権利を勝ち取るべく 時には命がけで戦ったのに、ことごとく失敗に終わったという集合意識的挫折感に心を折られている影響が大きいと思われます。

が、そのほとんどは 「行き」 の時代、すなわちいまとは逆に 私たちが本来のありようをどんどん外れることに追い風が吹いていた時代の話、不条理や不平等が当たり前に幅を利かせていたころの話です。

そのころでも 民衆の数の多さを頼みに 労働争議やストライキなどで 自分たちの側に力を取り戻そうと試みた人々はいましたが、それらがほとんどうまくいかなかったのは、仕掛けた側が催眠にかかったままだったから。

催眠から抜け出して眺めれば、そもそも相手に自分たちの正しさを認めさせる必要自体ないのですよ。

さっきのメニューの話で言えば、理不尽な要求を引っ込めない相手に それがおかしいことをいちいちわからせようとするでしょうか。

相手にせずにさっさと家に戻って、自分の食べたいものを用意すれば済むことですよね。

ならば お金や時間や法についてはなぜそれができないのかと言えば、それらはあまりにもすごい力を持っていて 自分には到底逆らえない、イヤだけど従うしかない、という思い込みにがっちり囚われているせいです。

冷静に見れば、それらに強大な権力を与えているものこそ、私たち民衆の諦め混じりの了承だというのに。

でもまあそれならそれでいい、その囚われに氣づけたことをチャンスと捉え、胸にこみ上げる憤りや悔しさや情けなさをしっかり味わって 催眠を解いてしまえばいいのです。

催眠が解ければ、あてがわれている状況が メニューの話と同じぐらい不自然で不条理なことが おのずと腑に落ちますから、「(゚Д゚)ハァ?」 のひと言でさらりとスルーできます。

つまり、唯々諾々と従うのをやめて、誰かが勝手に定めたルールからさっさと降りるという選択肢が 新たに姿を現すのです。

前にも書きましたが、いまの世界でほんとうに力を持っているのは、実際に動いて 食べものを育てたり 着るものを作ったり 家を建てたり 必要なものを運んだりしている庶民のほうなのですから、理不尽なルールは無視して もっと皆を幸せにするルールのもとで これまでと同じように働けばいいのです。

もちろん一人一人の労働時間ははるかに少なくて済むでしょうし、誰もがいらぬ我慢などせず ほんとうにしたいことをして のびのび楽しく充実した暮らしを送れるようになるでしょう。




「アーヤと魔女」 や 「ハウルの動く城」 に描かれている 「戦いから降りてハッピーエンド」 とはそういうこと。

円安とか物価高とか食糧危機とか国家紛争とか新手の疫病とか 表向きの情報のおどろおどろしさに戦々恐々とすることはない、私たちが催眠から覚めて 本来の落ち着いたものの見方を取り戻せば、混乱の本質を見極め、もっとも平和的なやり方で解決することが可能になるのです。















ほんものの自由とは、私たちが真の性質全開で 誰にも邪魔されず生きられること

2022年06月14日 19時34分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前の記事で 「人間にしか適用されない概念」 をいくつか挙げましたが、その後もぞくぞくと浮かんできて、メモ用紙に書き切れないほどに。

世間体、ステイタス、忖度、権威、名誉、うぬぼれ、卑下、常識、迎合、政治、経済、外交、労働、職業、商売、産業、資源、効率、利潤、利息、保証、説明、証明、予報、曜日、医療、診断、衛生、余命、ダイエット、保険、勝敗、優劣、教育、教養、娯楽、ファン、エリート、ブランド、エコ、エゴ、ピラミッド構造、愛玩、同調圧力、承認欲求、所有、権利、義務、堪忍、笠に着る、溜飲を下げる、損得勘定、本音と建前、エトセトラエトセトラ。


・・・なんかね、書いているうちに 窮屈な氣分になってきちゃいました。

人間特有の概念って、メンドクサイというか うっとおしいというか。

だって、他の生き物にはない人間だけの価値観やルールでやたら線引きをして、その線の内側なら○、外にはみ出したら×、みたいに監視しあったり牽制しあったりして、その分人間特有のストレスも増えてる感じなんだもの。

いや、貴秋が否定的な方からばかり見ているせいかもとも思ったんですが、ならばと自由、充実、調和、豊かさ、健康、など私たちの本質を彷彿とさせるような言葉を思い浮かべると、「人間にしか適用されない」 とは言い切れなくなるし、ならばと高潔、実直、正直、誠実、正義、など人としての “徳の高さ” を表すような言葉を引っ張り出すと、高潔 ↔ 卑劣、実直 ↔ 狡猾、正直 ↔ 不正直、誠実 ↔ 不誠実、正義 ↔ 不義、というように必ず対になる否定語があって、これらはやはり人間界特有の否定形あっての肯定形なんだな、否定形がなければそもそも登場しない概念なんだなと思い知らされたり。

で、改めて冒頭の 「人間にしか適用されない」 ワードの数々に目をやると、こういった概念に 私たちの本来の自由がいかに侵食 ・ 阻害されているかというのが見えてきます。




もし出し抜けに 「あなたは自由ですか?」 と問われたら、とっさに出てくるのはどのような答えでしょうか?

「そうねぇ、うん、まあ自由なほうかな」 みたいな答えが大半なのではないかしら。

いや もしかすると、昨今では 「う~ん、自由とは言い切れないかな」 ぐらいが多いかも。

「暗黙の了解」 みたいなものも含め 社会のルールに従わねばならないという意味では 完全に自由とも言い切れないけれど、住むところや食べるものや着るものはかなり選べるし、旅行できる国や地域もけっこう多いし、将来設計にも選択の余地があるし、言論の自由なんかも 某国に比べればずっと保証されてるし。。。というのが、日本人の平均的な自由のイメージかな、と思うのですが、最近はコロナの余波や経済状況などから 以前より自由が減ったと感じる人が増えたかもしれません。

ただ こうして書き出してみると、程度の差はあれど、私たちが思い浮かべる 「自由」 とは、真の自由ではないことが見えてきます。

あくまでも どこかの誰かが取り決めたルールの枠内に収まる程度の 「自由」 でしかない。

全き自由とは 他者からの制限など入り込む余地のない自由であり、私たちの本質そのものです。

私たちが真の性質全開で 真我とひとつになり、思うまま感じるままに生きるのを妨げるものなど何一つない、それが全き自由というもの。

いま私たちが自由と思い込んでいるものなど、誰かの許可という囲いの中での ほんの限られた 「自由」 に過ぎません。

もちろん 不自由をこそ体験したくてこの世界にやってきた魂もたくさんあるはずですから、自由がよくて不自由が悪いということではないのですが、あくまでもコントラスト効果を引き出すためのネガ体験であるという点と いまがかえりの道の途上であることを思えば、私たちは そろそろ催眠で刷り込まれた不自由を脱ぎ捨てて、真の自由に目覚めてもいいのではないかしら。

そして それはとりもなおさず、混迷の度を深めるばかりの現状に もっとも無理なく平和的に収拾をつける手立てでもあるのです。




長くなりそうなので、次に続きます。















人生とは自作の物語、いくらでも書き直しが可能です

2022年06月11日 21時15分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
私たち人間は、自身の意のままに物語を創り、その物語を生きています。

「私は○才、どこそこ出身、誰それの子どもであり、誰それの配偶者 ・ パートナーであり、誰それの親であり、これこれこのような学歴を経て職業はこれこれ、○○が好きで △△が得意で。。。」 といった自己認識をベースに、「いま私は幸せで充実している」 「いま私は不幸で落ち込んでいる」 等の設定のもと どのように考え どのように行動するかを決めて実行することで、日々人生ドラマを創作し続けています。

私たちは 人生という物語の書き手であり、その物語の登場人物 (主人公)でもあるわけです。

ここで 「物語」 という表現を使うのは、それが書き換え可能だということを言いたいから。

「 『意のままの物語』 っておっしゃいますけど、私の毎日はぜんぜん思い通りなんかじゃありませんよ」 と言われる向きもおありでしょうが、知覚できる顕在意識だけで見れば意に沿わない物語も、知覚できない潜在意識も引っくるめたトータル意識からすれば、きちんと思い通りに創られているのです。

つまり、顕在意識よりはるかに広大な潜在意識というブラックボックスに、取り入れた覚えのない否定的な情報がいつの間にか入り込み居座って、筋書きを決定しているわけなんですね。

人生にしばしば理不尽を感じるのは、このコントロールするどころか どこにどう居座っているのかさえつかめない相手に 人生の操縦桿を握られているからなのです。




こういう見方をするなら、人生の理不尽は 生まれや育ちのせいではありません。

その条件は、生まれ出る前に魂レベルで 「今生ではこれこれこういう体験をしよう」 との意志のもと 進んで取り決めたものなのですから (もちろん決めたことを覚えてはいませんが) 。

私たちが味わう理不尽は、自身が物語の作者でもあり ストーリーの決定権を持っているという事実に目隠しをされたがゆえに強いられたものですが、魂目線で見れば、この 「形と五感の世界」 にやってくると決めたということは、大なり小なりの苦難体験を了承済みということなのです。

形なき意識体としての自分は 非の打ち所なく完璧で、不幸も苦労も知らない存在ですから、そのままでおれば 苦難など体験する必要はまったくないわけで、それをわざわざ制限多い肉体をまとい 面倒な体験世界にやってくるのは、もともと自分にはないはずの否定的要素をあえて体験することで、コントラスト効果で本来の自分の素晴らしさをとことん堪能したいからなんですね。




これらはあくまでも貴秋個人の世界観ですが、もしお氣に召したなら、これを仮説として 日常のあらゆる場面に当てはめてみられてはいかがでしょう。

ものの値段がぐんぐん跳ね上がろうが、国同士のいさかいや疫病や自然災害に脅かされようが、家族や友人とのもめ事に頭を抱えようが、いわれなき中傷や差別に神経をすり減らそうが、会社で過酷な労働を強いられ疲れ果てようが、とりあえずいったんは 「この苦しさも恐怖も怒りも痛みも 魂が一度は体験したいと望んだこと、万事が計画通りうまくいっているからこそこんな目に遭っているのだ」 と思ってみる。

そしてすぐに思い出すのです、その体験は一度で十分だということを。

否定的体験が一度でおしまいにならないのは、目を背けて逃げようとしたり、言い訳や自己弁護をしたり、相手を悪者にして反撃に出たり、自己否定や自己嫌悪に陥ったりするのに忙しくて、せっかく魂が仕組んだイベントをきちんと味わっていないからなのです。

体験の世界で 「味わう」 とは、言葉をいっさい使わず からだに響く感覚を ただじっと感じること。

ここにうかつに言葉を持ち込むと、負の物語を終わりにするどころか 新たに言い訳や戦いや自己否定の物語を生み出してしまいますから、言葉を用いず ただ感じるというのがミソです。




人生の筋書きの中には、避けて通れないものもあります。

一番はっきりしているのは、死。

いつかはこのキャラクターを脱ぎ捨てて、前もって魂が定めておいたタイミングで 元いたところへ帰らねばなりませんからね。

あと、要所要所に これだけは必ず体験するぞと魂が決めたイベントというのもあるようです。

が、スタートとゴール、あといくつかの定まった体験以外は、意識のコントロールのコツさえつかめば 物語の作者として自由に創造できるらしいと、最近いささか自信がついてきました。




自然の法則 ・ 宇宙の法則など とりあえずは自由に動かせない決め事もありますが、目の前の制約が書き換え可能かどうかの見分け方は簡単です。

それが人間以外の生物にも当てはまるかどうかを見ればいい。

例えば、地図のあちこちには 国境と呼ばれる線が引かれていますが、実際の大地や海には もちろんそんな線などないわけで、「国境というものがある」 というのは 人間にしか通用しない物語、他の生物にすれば知ったこっちゃない話なんですね。

同様に、お金、時間、法律、地位、身分、宗教、マナーなど、いま私たちがさまざまな場面で影響や制約を受けている決め事も ことごとく人間という種族だけに適用される物語。

誰かが好きに創った物語でしかないなら いくらでも変更が可能なはずですが、ここで 「社会的ルールを私が書き換えるって? そんなの無理に決まってるじゃない」 と言いたくなった方は、ご自身が物語の書き手であることを忘れておられるだけなのです。




これまで当然と思っていた世界が危なっかしく揺らいでいるいま、人生という物語の作者である自分を思い出し、自身を取り巻く世界が計り知れないほど広大であると同時に 手のひらに乗るほど小さいという感覚を取り戻すかどうかで、今後のストーリーが大きく分かれることになります。

あなたはこの先の物語をどのように展開させていきたいですか?















「人間万事塞翁が馬」 の新たな教え

2022年06月04日 12時13分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
貴秋のそばに いつも置かれているぬいぐるみがあります。

かわいいもの好きななわけではないのですが、この子は 以前物置部屋と化していた六畳間にあった幼少期の姪のおもちゃ箱から出てきたもので、処分するつもりだったのが あるときふと抱き上げたら その抱き心地のよさに魅了され、以来貴秋のベッド上が定位置となっています。

で、折に触れてこの子に 「いい天氣だね~」 とか 「だいぶ暑くなってきたねぇ」 などと話しかけるのが習慣になっているのですが、先日なぜかふと これまでの内的探究について物語る言葉が口をついて出始め、もの言わぬぬいぐるみ相手に ここ二~三十年の内的変化の軌跡についての一人語りがえんえんと流れ出して止まらなくなりました。

何やってるんだ自分、と思いながらも 記憶がほとばしるままに語り続けたのですが、そのうちに見えてきたものがありました。

これまでは その時々に起きていることが望みに叶っていれば 「お、導かれてるな」 と思い、叶っていなければ 導きを見失ったように感じていましたが、数十年に渡るさまざまな出来事を一本の線のように並べてつらつら語るうちに、実はいいときも悪いときも つねに一貫して導かれていたんだということにはたと氣づいたのです。




「人間万事塞翁が馬」 というよく知られたことわざがあります。

塞 (とりで) に住む老人のところの馬が逃げ出した。

まわりの人々は氣の毒がったが、その馬が駿馬を連れて戻ってきた。

人々は喜んだが、その馬に乗った老人の息子が落馬して足の骨を折った。

人々は氣の毒がったが、やがて隣国との戦争が起こったとき 息子は骨折のおかげで兵役を免れ、命を落とさずに済んだ。

このように 一見幸せに思えたことが不幸に転じることもあれば その逆もあるのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではない、というのがこのことわざの意味と言われています。。。。が。

この逸話の時代は まだバリバリ 「行き」 の道、すなわち本質から離れて 本来の自分にはないはずの要素を体験する歩みの途上でしたから、どんな事態の下でも希望を失うまいとの思いを込めて そういう捉え方になるのもわかります。

しかしいまは 「かえり」 の道、万事が真の自分や本来のありようへと戻っていく時代の真っ只中ですから、その意味合いが多少変わるのもありなんではないかしら。




知覚できる顕在意識は、いま起きていることを過去の事例と照らし合わせ 比較検討して 次の一手を決めるため、どうしてもいい ・ 悪いの判断が起きてしまいます。

が、知覚できない潜在意識は 言葉も五感も超えた領域にあるため、比較も良し悪しもないんですね。

だから 、どういうルートを通ろうと たどり着く最終地点は自身の本質、愛 ・ 自由 ・ 豊かさ ・ 安らぎ ・ 健やかさといったものが体現される世界だとわかっていれば、いま起きているのがいいことだろうが悪いことだろうが すべてが前進であり、望むゴールを目指してひた進む道のりの一部なわけです。

貴秋も 過去の出来事をひとつひとつバラバラに見ていたときは、否定的なことについては 「あれいやだったなぁ、あんなことなければよかったのに」 という見方に囚われていました。

が、それらをいいも悪いも引っくるめて 自身の来し方として一本の線のように眺めたあのとき、これまでひどい目に遭ったと恨みがましく思っていたことも、実は塞翁の息子を骨折させることで命を救ったみたいな導きだったんだ、どん底と思えたときでさえ、実はつねにいい方へ幸せの方へと誘われ 引っ張られ 運ばれていたんだ、とぱっと光に照らされたように感じることができ、さらに 「見えない聞こえない人智を超えた導きというものが 確かにある」 という手応えを得ることもできました。

私たちの顕在意識は 嫌なもの不快なものを避けようとする癖がありますから、わざわざ困難に突っ込ませて本質へと導くなんて芸当は 顕在意識の枠を超えた存在でなければまずできるはずがないからです。




「ネガは受け止め向き合えば終わる」 とわかって以来、ネガティブなことが起こるたび うぇ~と顔をしかめながらも 「これは魂的にはガッツポーズものだな、さっさと向き合って終わらせよう」 と氣持ちを切り替え 感覚フォーカスにいそしんできましたが、この氣づきがあってからは、さらに一歩進めて 「いま自分は確実に目指す方へと向かっている、このネガを消化 ・ 昇華することで また一歩大きく前進できる」 と無理なく思えるようになり、氣落ちする時間も度合いも格段に減りました。

そしてふと目を上げれば、世界はまだ引きずっているコロナや先の見えないウクライナ情勢、相変わらずの異常氣象にサル痘だの物価高だの食料危機だのと新手も加わってシッチャカメッチャカという感じですが、いまの貴秋には そんな様相すら 天のエールに思えます。

新しいものを創造する前には まず古いものを壊す必要がありますが、これまでの仕組みの方からガタがきて崩れかかっているのなら こんな楽な話はない。

押しても引いてもびくともしない壁のように思えた 例の 「お金 ・ 時間 ・ 法」 トリオさえ、いまやその実体がどんどん露わになっていっているではありませんか。

次から次へと押し寄せるピンチの荒波からみなの命を守るという当たり前のことさえ、お金儲けと天秤にかけなければ一歩も進めないのが いまの世界の実情だとあからさまに教えてくれているのですから。

あとは私たち一人一人が本質を見抜く目を取り戻すだけ、そしていま降りかかっているどんな困難も恐れも痛みも うまく使えばそれを実現する手段となり得るのです。