毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

明け渡す

2016年10月31日 15時21分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今年もノリで 10月31日一日限り テンプレートをハロウィーン仕様にしてみました♪

ブログタイトルにそぐわないことおびただしい (笑)

でもまあ楽しいからいいよね




ところで 「楽しければいい」 っていう言葉、これには 二つの相反するイメージがあるような氣がします。

引き寄せの法則などで 楽しくいることが奨励される一方で、「いいのよいいのよ 楽しければ~」 とふわふわ遊び歩いている人には なんだか地に足着かず危なっかしい印象を受けたりして。

言葉上はどうしても同じ表現になってしまうけれど、この二つ 実はまったく違う次元の話なんですね。




私たちの本質を しいて言葉で表せば、楽しい、明るい、軽やか、前向き、豊か、安らか などなど 自然と肯定的な言葉が並びます。

この場合の 「肯定的」 は、「否定的」 という対極を持たない 絶対の (そもそもそれしかない) もの。

もともとの私たちは “すべてであるひとつ” であり、比較対象などどこを探してもないのですから。

本来の私たちは、ただあるがままで おのずと肯定的な存在なんですね。




が、こうして言葉で表された 「肯定的」 という文字や音を マインドが捉えると、それは瞬時に 相対的な意味合いを帯びます。

「否定的」 の反対の意味での 「肯定的」 ということ。

言葉もマインドも 二極世界の産物なので、そうならざるをえないのです。

同じ 「楽しい」 という言葉を使っても、前者と後者は まったく別物。




本やネットなどに書かれた情報をもとに 内的探究を続けてきた期間、この 「字面は同じだけれど 二重の意味を持つ表現」 に長いこと氣づかず、混同しては 迷路に入り込んだり閉じ込められたりという体験を いやというほど重ねてきました。

矛盾する解説に どっちが正しいのかと迷ったり、アドバイス通りにしているのに なぜ結果が出ないのかと悩んだり。

この 「楽しい」 についても、「望むものを引き寄せたければ すでにそれが叶った状態でいること、ワクワク楽しい氣持ちでい続けましょう」 みたいなアドバイスに まずは忠実に従ってみるのだけれど、悲しいかな マインドが 「楽しくしていれば望みが叶うのか、よ~しがんばるぞ~」 と張り切れば張り切るほど その裏に潜むネガ感情も比例して大きくなるのは 二極世界のお約束、そんな行きつ戻りつの不安定な精神状態で ハッピーな引き寄せの実現なんて 望むべくもなかったわけで。。。。(T_T)




マインドは 言葉を使って分け出すことで成立しているので、言葉を超えた絶対的な自分を表すことはできないのです。

自身の本来の性質である肯定的要素は、小我 ・ マインドが 真我 ・ ハートに “私” の座を明け渡しゆだねることで 初めて表に出てくるんですね。

私たちは もともと幸せ ・ 豊さ などの肯定的要素そのものなのだから、幸せになりたい、豊かになりたい、といった望みを叶えるのに 特別なことをする必要はなく、ただもともとの自分に戻る、ハートの “私” を思い出す、それだけでよかったのです。

真の自分でいさえすれば 外の世界でも それに見合った肯定的な形が実現する、それが 引き寄せの法則などで言われていることの 本来の意味なのだろうと思います。

情報や観念として知っていただけのことが 少しずつ実感として身の内に落とし込まれてくるにつれて、「あんたが大将」 と 真我に主役を譲る意味はこういうことだったのだと あらためてしみじみ思い知らされた 小我 ・ 貴秋です (^_^;)




今思うと、この2016年の実家暮らし期間、とりわけ あの 「こころとからだの相関関係」 に意識が向いたあたりからこっちは、“私” の座を マインドからハートへ すっかり明け渡すために用意されていた時間のような氣がしてなりません。

ことしも残すところあと2ヶ月、年が替わるころ 貴秋はいったいぜんたいどんなことになっているのだろう。。。。なんて ふと先行きに思いを馳せてみたりする 10月さいごの一日です (*^^*)






















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2016年10月23日 10時38分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


以前、津留晃一さんのこんなお話に触発されて、「 『美しい景色を見る』 とか 『大切な人と楽しい時間を過ごす』 とかは、幸せの条件ではなく 幸福感という自身の本質を思い出すきっかけに過ぎないと知った」 というような記事を書いた覚えがあります。

ここで この “きっかけ” を 「アイコン」 と表現したのですが、その後 この見方がどんどん深まって、今では 喜怒哀楽あらゆる場面の記憶が この 「アイコン」 として作用するんだなぁと思うようになりました。




否定的な 「アイコン」 をクリックすると、まずからだに不快な感覚が上がり、そこに言葉を添えて 不快な物語を紡ぎ出せば 否定的体験の再創造となってしまいますが、言葉を入れずに 感覚だけに集中すれば、うれしくない過去からの解放につながります。

このときの 「アイコン」 は、ここに辛い記憶が残ってるよ~、そろそろきちんと向き合って終らせる時だよ~、と合図し 解放のチャンスを与えてくれているんですね。




一方 幸福感を呼び覚ます 「アイコン」 は、本来の自分を思い出すチャンスをくれる ありがたいアイテム。

ほんとうの私たちは、愛 ・ 幸福 ・ 安らぎ ・ 豊かさ などと呼ばれる あたたかで満ち足りたエネルギーそのものなのだと、最近ますます思うようになりました。

そのエネルギーが 姿形や思考、名前などの個性をまとい 形ある存在となったのが、この私たちなんですね。

長い間 その形のほうを自分だと思い込んできたけれど、今は 「アイコン」 クリックのたびに ほんとうの自分はこっちだったと思い出せるよう導いてくれているのだという氣がします。




今 世間には それこそ 「暮らしの手帖」 創刊のころには考えられなかったような 美しい家や洗練されたインテリア、かわいい雑貨などで演出された写真満載のマイホーム情報が氾濫し、雑誌やネットサイトから 家庭用品の広告やウィンドウディスプレイに至るまで 多くの場面で目にすることができます。

家仕事大好きの貴秋も そういったものに魅了されるひとりなわけですが、最近思ったのです、こういうイメージ情報に触れるたびに湧き上がるときめきや あたたかい家庭への郷愁こそ、ホーム (ふるさと) ⇒ 忘れていたほんとうの自分、すなわち ハートのエネルギーの感触そのものだったと。

この季節、秋冬のインテリアに囲まれた一家団欒の光景や ハロウィン またはちょっと早いけどクリスマス仕様で飾りつけられた部屋や食卓の映像が目白押しですが、それらを見てワクワクする人もいれば、自分には失われたもの、手に入らないものと悲しい思いをする人もいることでしょう。

そのいずれも、憧れの源は 外側のイメージではなく 自分の内にあるのだ、自分そのものなのだと氣づけたら。




マインド偏重の心は、その本質が見えないまま 形のほうを追い求めます。

物ばかり追いかければ、それを得られる人 ・ 得られない人という分離が生じ、資源の乱用やゴミの山にもつながり、人間以外の生き物にも大きな害をもたらし、やがては自分の首を自分で締める結果となるでしょう。

目に見えないハートにこそ そのおおもと、なによりも大きな幸せがあると氣づけば、形あるこの世界での表現からも そんなひずみがきっと消えるはず。

だって、おおもとのところでは すべてのいのちは “ひとつ” なのだから。

自分のために他を犠牲にして平氣、いや 犠牲にしていることさえ見ない見えないというのは、分離感にさいなまれるマインドのすること、ハートで “ひとつ” である温もりを感じたとき、もはや 「他」 だの 「犠牲」 だのという言葉さえ存在しないでしょう。




憧れてやまない “ホーム” のあたたかい灯を 外に求めるのをいったん置いて 自身の内深く探ってみたら。。。。この秋冬、まず自分の思いが、そしてやがては世界が大きく変わるのを 目の当たりにすることになるかもしれません。






















大片付けと こころの節目

2016年10月14日 12時57分25秒 | ふと思うこと


きのう 洗面所に掃除機をかけていて、ふと物置き棚のホコリに目がいったのが運のつき、そのまま棚の掃除と置いてあるものの整理整頓になだれ込んでしまいました

これまでも 外テラス、階段下、台所の棚と流し台の下、と 実家の伏魔殿を次々制圧してきましたが、この物置棚はいささか面倒で これまでずっと後回しにしていた場所。

ぎっしり雑然と置かれている物が あまりにも多種多様で、その用途や処遇を 仕事の忙しい父にいちいち問い合わせるのがはばかられ、さらに古い農薬や殺虫剤などの危険物が混じっていて この地区での処分方法を調べねばなりません。

しかし 吸い寄せられるように始めてしまったからには、もうやるしかない ( ̄∇ ̄;)




母は 掃除洗濯共に 市販の洗剤を使っていたようですが、あとを引き継いだ父は 掃除については 思いがけず重曹やクエン酸使用のナチュラル派、多数の使いかけの合成洗剤容器は ホコリをかぶって置かれたたまま、しかも 台所のとき同様 まったく同じものが二つ三つダブって、そのどれもが開封されていたりして、おまけによく見れば 後ろのほうには 液垂れしている容器もいくつかあって、棚がべとついてる

父は父で、掃除をしたはいいが 残った重曹やクエン酸の水溶液&粉末はそのまま放置、スプレービン内の液体の残りは腐ったかカビが生えたかしたようで、粉末は団子状でプラスチックトレイにこびりつき、汚れ落としに使ったらしい紙やすりは ちぎって使用したままの状態で 湿ってふやけていて (T_T)

さらに それらの陰には、蛇口か何かの部品らしき金具や 古びて使えなくなったフックや吸盤、試供品でもらったらしいシャンプーや入浴剤の小袋、こわれた洗濯ばさみ、液体ソープ類の空ボトルや 詰め替え用の中身がわずかに残ったパック類、底が錆びてボロボロになったスプレー缶などが これまたホコリをかぶってゴタゴタと (TдT)

いや、なによりも こんな状態を見て見ぬフリでほったらかしていた私が悪かった m(__)m

半日がかりで 乗っているものを全部どけて 棚をきれいに拭き、捨てるものと残すものをより分け、容器類もすべて拭って 種類ごとにまとめて取りやすく置きなおし、ゴミは分別して 農薬類は役場に電話して処分方法を問い合わせ、ついでに床と洗濯機もさっと拭いて、すっかり片付いたときの爽快感といったら




大掃除のたびに思うのですが、どうも 家や部屋の状態と心のありようは リンクしているらしい。

そして 内面的にここぞというところで、なぜかふと大掃除に誘い込まれる仕掛けになっているようです

ごたついて汚れきった場所をきれいにすることが、心の迷いや曇りを取り除くことと 象徴的に重なっているのかもしれません。

大がかりな片付け物のタイミングと心の変遷を 後からつき合わせてみると、大掃除には家が片付くほかに 内面のご利益もあるような氣がしてなりません。

実家のあちこちがすっきりするのと並行して、貴秋のマインドの変化も 大きな節目を迎えているようです。






















ナントカごころと 秋の空

2016年10月10日 12時56分01秒 | ふと思うこと


きょうの空



画像フォルダの半分近くが空の写真という空フリーク貴秋、こんな爽やかな秋晴れのもと 天にカメラを向けずにいられるわけがない \(^o^)/

この一枚、デスクトップの背景にもしちゃいました




そういえば、この季節になると 「女心と秋の空」 だとか いやいやそれをいうなら男心だろうとかいう声をちらほら見聞きしますが、「○○心」 が定まらぬもの ・ 当てにならぬものを指すのならば、貴秋は 「マインド思考と秋の空」 とでも言わせていただきましょうか(笑)

いやもうほんと当てになりませんから (^_^;)

今ここ以外のあらゆる時空に思いを飛ばし、記憶や想像から物語を紡いでは 自作のそれに振り回されて一喜一憂したあげく 体調さえ左右されるのですから、つくづくご苦労様なことです。

。。。。なんていって 今これを書いているのもマインドなのだから、なんともフクザツな心境ですが




瞑想がからっきし苦手だった貴秋が、感覚フォーカスによって 言葉を止めて “ ただ在る自分” に集中できるようになったのは、この上なくラッキーなことでした。

きのう書いた 津留晃一さんのメッセージに 当初反応しなかったのは、今思えば 「ハートで感じる」 ということが まるでわからなかったからでしょう。

「ハートで感じる」 「ハートに自分の中心をおく」 という記述は 津留さんの他の文章にもたびたび出てきますが、意味わから~んということで 無意識にスルーしてたものと思われます ( ̄∇ ̄*)ゞ

それまでは、不安に駆られっぱなしのマインドのおしゃべりが どうにもこうにも止まらず、言葉を使わずにいるということが どんな状態を指すのかさえ 想像つかないありさまでしたから。

感覚フォーカスの体験を重ねて初めて、問題を作り出しているのも それを解決しようとしているのも すべてマインドであり、マインドのおしゃべりが止まれば その一切合財が消滅する、そもそも問題も何もなかったのだとわかる、ということを 身をもって確かめる機会に恵まれたのです。




マインドが悪いというわけではありません。

マインドにはマインドならではの役目があり、形が意味を持つこの世界では その働きはなくてはならないものです。

ただ、マインドが先頭切って 言葉をもって万事を取り仕切ろうとすると 面倒なことになるのですね。

問題を生んでは解決し 生んでは解決し、の一人芝居を えんえんと味わう羽目になります

それが楽しいうちは 楽しめばいいだけですが、本氣でそこから抜け出したくなったら そのときは 言葉をすっかり手放すことを思い出す必要があります。

女心だろうが男心だろうが 言葉で構築された世界というのは、およそ当てにならない蜃気楼のようなもの。

ひとしきり戯れたあとは おのずともっと確かなもののほうへ向かいたくなるように、もともと私たちはインプットされているようです。
























行き来

2016年10月09日 11時26分11秒 | 紡ぐ暮らし


きょうは雨。

予報ではきのうからと聞いていたけれど 一日ずれたようで、きのうはなんとも氣持ちのいい秋晴れでした (*^^*)



きのうの空





              

                                                              

  

                                      



ゴーヤは 葉は枯れ始めながらも まだ美しい花を次々咲かせ





バジルもまだまだ艶やか元氣





パセリは私と青虫とで分けっこ(笑)



あちらの食欲は底なしで 残り少ない葉を丸坊主にされそうだったので、すでに丸坊主になりかけていたクチナシのほうへお引越ししてもらいました



クチナシは大丈夫、先住さんたちがいなくなり 新芽がどんどん出てきてるもの(^^)





オリヅルランの葉にお客さま♪



慌てて撮ったので ピントが合ってませんが (^^ゞ






ここで何度もリンクを貼らせてもらっている 津留晃一さんのメッセージ集

コピー原稿のファイルも作って持ち歩き 何度読み返したかしれませんが、飲み込めていないところも見落としているものも まだまだどっさりあるようで (*^-^*)ゞ

3~4日前、それまでまったく氣に留めていなかったこの一節が 突然意識に食い込んできました。


“ 欲しくない現実を渡された時、即座にその不快感の中で静かに座り「この現実を招き寄せた私の源にある考え方はなんでしょうか」と問いかけてください。この時、頭を使わないで下さい。頭が動き始めたら即座にまた同じ質問を繰り返し、質問そのものに意識を集中して下さい。この時、一貫して自分のハートを感じていて下さい。集中がとぎれそうになったときも同じ質問をハートに向けて発して下さい。5分から10分でその問題は消え去り、あなたのハートは喜びを感じ始めていることでしょう。そうしたら、もうあなたにはその種の同じ問題は決して起こらなくなります。”     (「思考のメカニズム」 より)


なんでこれまでトライしてみようとしなかったんだろう?

美しい秋景色の中で ずっと氣がかりだったことを さっそく試してみました☆


   “ 世界の美しさ ・ 和やかさにもっともっと浸り切りたいのに、あいだに入り込んで遮るものがあります。

     純粋に心地よさだけを味わうことを邪魔しているのは 私のどんな想念でしょうか?”


その後 なにがどう作用したのか、景色を愛でようと 草取りしようと 洗濯物をたたもうと 食事の支度をしようと、ときにはかすかに ときにはくっきりつきまとっていた不安の影が 見えなくなりました。

お、効き目あった?

というわけで また別のテーマでお試し続行中、貴秋の日常は 相変わらずこんなふうに 五感の世界と五感を超えた世界を行き来しながら どこまでも続いてゆくようです。
























いつのまにやら すっかり秋

2016年10月07日 16時48分18秒 | 自然


久々のフォト日記♪


ふと氣づいたら 10月も1週間が過ぎていて、もうすっかり秋の空





今になって鈴生りのセカンドシーズン ・ ミニトマト、青いまま終るのではと氣がかりだったけれど、最初の1個が赤くなりました (*^^*)



この赤も なんだか秋色に見えるなぁ♪



南天の実も ぼちぼち色づき始め




枝にはまだ残る セミの抜け殻、夏のお名残り



この殻の主も もうとっくに天に還っているころだね

存分に夏を楽しめたかな



ゴーヤもすっかり密に茂って グリーンカーテンらしくなったけれど、葉っぱが少しずつ黄色くなってきました



今になって 実がごろごろつき出して、ご近所や父のお知り合いにおすそ分け♪



まだ庭のところどころに咲いているタマスダレが 目を楽しませてくれる一方で





乙女椿やサザンカが 早くもつぼみをつけて 後に控えています



2月、3月あたりのブログで 乙女椿の花を何度も載せたことを思い出し、月日の経つのは早いものだなぁとしみじみ




このところ 内にばかり目が向いて 彼岸花も萩も撮り損ねたけれど、次々現れては去ってゆく日々の巡りが妙にはかなく思える中で、季節の移ろいだけは あたたかく確かな手応えを感じさせてくれます。

目に見える形以上に その中に宿るいのちの氣配に親しみをを覚え ほっとする きょうこのごろです。
























分岐点

2016年10月02日 08時25分47秒 | ふと思うこと


おかしなものです。

これだけさんざん 「私たちは 自分の素晴らしさを体験したくてこの世にやってきた神のかけら」 などと書いておいて、そういう見方が いつ どこで 何から どのようにして入ってきたのかが まるで思い出せないのです。

あの 「勝手に師と祀り上げた人」 の勉強会で そういう類の話があったのはたしかだけれど、それが最初だったかというと。。。。。う~ん

少なくとも 成人するまでは 見聞きした覚えのない話ですが (23、4歳ぐらいまでは 貴秋も五感の世界オンリーだったのです) 、それ以降のその方面の記憶はぼやけたまま。

たぶん、あまり氣に留めぬまま あちこちで繰り返し見聞きして じわじわ浸透したものと想像されますが、もしかすると まったく初めての情報を知ったというより もとから記憶の底に沈んでいたものが呼び覚まされたという感じで、インパクトが薄かったのかもしれません。

あの 映画 「インセプション」 の 「始まりがはっきりわかっている夢を見たことがあるか? いつだって 氣がつけばすでにその中にいるのが 夢というものだ」 という話のようなものでしょうか。




五感を超えた世界は 五感の世界の法則や常識がまるで当てはまらず、言葉を介するか介さないかで 感覚 ・ 感触が まったく違ってきます。

言葉に支配される世界は平面的で、言葉の及ばない世界は立体的とでもいいましょうか、同じ絵だって 遠近法を使って描いたものと使わず描いたものでは 別物のように見えますよね、そんな感じ。。。。ってどんな感じだ




とりあえず ひとつ言えるのは、五感の世界の 「体験して初めて信じる」 という順序は、五感を超えた世界では通用しないということ。

先の 「インセプション」 の夢の話や、ミヒャエル ・ エンデの 「はてしない物語」 の 「あると決めれば ずっと昔から存在する」 という言葉のように、五感の世界とは異なる法則で成り立っているのが 五感を超えた世界のようです。

「それが確かかどうか 証明されて初めて信用する」 ことよりも、「なぜかわからないが とにかく信じよう ・ 受け止めようという氣持ちになった」 ことが 大きな意味を持つのですね。

「体験したから信じる」 のではなく 「信じるものを体験する」 のが 創造者の世界というものらしい。

五感を超えた世界では そんな 「ひたむきに信じる真摯な取り組み」 も、五感の世界にもってくれば 「妄想にとらわれた危なっかしいありさま」 となりかねません。

二つの意識を行き来する中で、形ある支えを持たないまま “自分をどこまで信じられるか” が 重要な分岐点になりそうです。
























世界は 自分は どう変わる?

2016年10月01日 16時20分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


慣れとは恐ろしいもので、「他者や外の世界は自身の鏡」 との視点が かなり板についてきました。

目の前の人や状況を、もちろん最初は思いっきり外側の事象として見ますが、ひと呼吸後には 「これって自分のなにが映し出されてるの? どういうメッセージ?」 という意識がかぶさってきます。

さらにそこに 「選ばないものもあっていい」 という認識が加わった結果、八つ当たりができなくなりました




いや、旧思考回路は健在ですから、今でもムカッとくることはしょっちゅうだし、とたんに そのイライラを叩きつける先を探しもするのですよ。

でも次の瞬間、なんともいいようのない不快感がこみ上げてくるのです。

イラ立ちを外に投げつけたい欲求と 「外ってなに (誰) よ? ぜんぶ自分でしょ?」 と水を差す声がぶつかり合うせいです。

こういうとき、つくづく 人はダマせても 自分はダマせないことを思い知らされます。

相容れないものもあっていい、なによりしょせん 目に映るものすべて自分なのだから 怒っても始まらない、という意識に 今さらフタはできませんもの。

不快感からのがれたければ、一刻も早く降参して 当たり散らせる相手などどこにもいないことを認め、さっさと感覚フォーカスに入るほかないのです。

結果、「ほんとうにいるのは自分ひとり」 という世界観が ますますしっかり根付きつつあります。




ずいぶんと時間がかかりましたが、この視点を持てたことに 大きく救われています。

五感の世界の視点しかなかったら、この世は ときに不条理で恐ろしいところです。

そもそも、脳の配線が未完で 言葉もうまく使えないころに 一方的に刷り込まれた他者の観念で 自分の一生が大きく左右 ・ 制限されてしまうなんてこと自体、ものすごく不当なことではありませんか。

しかもこれ、「三つ子の魂百まで」 の言い伝えどおり ちょっとやそっとでは解けないときている。

最近 怒りを溜め込んで 不特定多数にぶつけて回るような事件が よく目につきますが、みな まず先に自分が不当な目に合わされたんだ、だから奪われたものを奪い返そうとしただけだ、というような苦い思いを どこかに抱えているのではないでしょうか。

この視点しか持たない人ばかりだったら、これからますます剣呑な世の中になっていく氣がします。




が、「自分しかいない」 という視点を併せ持っていると、話が大きく違ってきます。

もともと非の打ち所なく完璧であったひとつの自分を 無数に分け、それぞれ異なる性質を持たせて放ったのが、今の私たちと この世界。

私たちは あらゆることを体験し 楽しむために この世にやってきたのだ、そんな見地に立てば、不当な刷り込みも ゲームを盛り上げるための要件に早変わりです。

私たちは、被害者ではなく挑戦者、犠牲者ではなく冒険者なのだ、と

そして そんなチャレンジャーの視点こそが あらゆる窮地を切り抜けさせ、新しい道を開きます。




被害者犠牲者として自分を見ていると、いつもイライラして心が落ち着かず、さらに 「不当な仕打ちもがまんするしかないんだ、そういう自分なんだ」 という (無意識の) 低い自己評価が そのとおりの現実を生み出し、ますます怒りやネガティブイメージが大きくなっていく悪循環にはまります。

このときの重苦しい感覚や無氣力さが、チャレンジャーのイメージを持ち込むだけで ぐんと軽く明るく 風通しよく変わります。

最初は無理やりでもぎごちなくてもウソっぽくてもかまわない、ちょっとでもこの新しい視点に心動くものがあるなら とにかく取り入れて、根付くまで 粘り強く刷り込み続けて吉です (^^)v

ウソですら繰り返せば真になるほど 言葉の力は強いもの、忘れていたほんとうの自分を思い出すのに遠慮はいりません。




「自分しかいない」 感が強まると共に、言葉で構築した世界の作り物 (幻) 感も じわじわと確かなものになりつつあり、自分の世界観ってこの先どうなるのかと興味津々の貴秋です