毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

私たちは有限の商品じゃない、無限のいのちだ!

2022年03月30日 12時54分51秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦さんが 新しい社会システムに言及したとき、「物であれサービスであれ 値段をつけてはいけない」 と言われたと聞いたことがあります。

当時は感覚的にはうなずけたけれど いまひとつピンときていなかった貴秋ですが、いまはわかる氣がします。




しばらく下火になっていた一般家庭向けのセールス攻勢が 最近また激しくなってきたようで、電話を取れば 古物買い取りに電氣やガスの料金プランの見直しに家の外壁の塗り替え、ポストを覗けば塾の案内だの健康食品の通販だの健康飲料の宅配だののチラシ、と毎日のように何かしらの勧誘が飛び込んできます。

さらにテレビをつければコマーシャル、新聞 ・ 雑誌やネットにも広告の山。。。いまや当たり前の日常の一部となっているこの売り込み合戦ですが、見方を変えると奇異にも感じられます。

なんで私たちはこんなにも、自分自身や自分の生み出したものをせっせと売り込まねばならないのでしょう。

答えは簡単、生まれたときから そういう仕組みに取り込まれているからです。




誰もがみな、生きるのに必要なものを手に入れるために対価を支払わねばならない。。。。これは、ある者が他の者より多くを持ち 優遇されることを正当化するために作られた決まり事です。

人の手で作られたものなのだから 意に染まないなら変えることも可能なはずですが、数千年に渡って受け継がれてきた思い込みの支配により、私たちはこの決まり事を自然の法則と同じように受け入れ 従っています。

その結果、私たちのセルフイメージは大きく歪められてしまいました。

他者に受け入れられ認められなければ生きていけないという恐れに支配されるようになってしまったのです。

表向きは 「こんな素晴らしい商品 ・ 素晴らしいサービスをあなたのためにご用意しました」 と明るく謳っていても、その裏には 「これが売れなければ生きていけなくなる」 という必死さが滲み出ている。。。貴秋には、新聞の折り込みチラシからプロモーションビデオに至るまで いまの広告全般がそのように映って仕方ありません。

加えて、物やサービスの値段には 必ず利益分が上乗せされます。

つまり、本来のものの価値以上を請求し受け取らねば成り立たないように この仕組みは作られているのです。

あなたのためと言いながら、実際は私のために私に損がないように取り決め、しかもそれを相手に悟られないように演出する、この氣の使い方は、私たちの自尊心に影を落とします。

私たちは 現行のお金のシステムに絡め取られることで、つねに心の深部に 「お前は理想の生き方をしていない、お前は二枚舌だ」 と宣告する声を抱えながら それに耳を塞いで生きざるを得なくなったのです。




そうして売り買いされるすべてのものに 価格がつくわけですが、それは自分たちが作ったものだけではなく、自然界にもともと存在するものにも及びます。

私たちは、自身の生存が脅かされると 周囲の世界への敬意や感謝を忘れ、生き延びるために利用する資源としかみなさなくなるため、動物、植物、自身や同胞のエネルギーや時間さえも、値段がつけられ売り買いの対象となります。

その値段の付け方にもまたセルフイメージが反映し、強者と弱者の力関係で価値が定められます。

値をつけるとは、本来無限の価値や可能性を持つ私たちを 有限の枠に押し込める、いのちの流れに逆らう行為なのです。

こうして輝くいのちから一介の商品に成り下がった私たちは、いっそうのセルフイメージの低下を余儀なくされ、本来のありようからどんどん遠ざかることになりました。

この事情は、権力者側とて同じことです。

ほんとうに満ち足りて豊かで幸せだったら、どうして他者を支配したいなどと思うでしょう。

どうして他者より多くを得たいなどと思うでしょう。

いくら多くを得ても 心の隙間が埋まらず飢餓感が収まらないから、ますます貪欲になるのです。

一見敵対しているように見える支配者と被支配者は、飢えて満たされない思いというひとつのものの表裏に過ぎず、両者が同じリングで争い続けることにより、この世界で数千年の長きに渡って ネガティブな世界を共同創造し続けてきたのです。




ロシアとウクライナのどちらが勝とうが、コロナワクチンをえんえん打ち続けようが、SDGsを錦の御旗のように掲げようが、私たちのありようをいのち本来の姿に戻さない限り、私たちに未来はありません。

世界が滅びるかどうかの瀬戸際にあって いまさら勝者も敗者もない、トップだろうが庶民だろうが 私たちひとりひとりが心の飢えや痛みと向き合い、負の意識から解放されるに従って、オセロ盤が黒から白に雪崩をうってひっくり返るように 世界の混乱が収束に向かいます。

















取り戻す愛

2022年03月25日 14時04分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
※冒頭で アガサ・クリスティの不朽の名作 「カーテン」 の一部ネタバレがあります。

 犯人や結末に直接言及してはいませんが、推理の核心に近づくヒントとなる可能性がありますので、未読の方はご注意ください。














*       *       *       *       *       *













[以下ネタバレご注意]


名探偵エルキュール ・ ポアロ最後の事件として有名なこの話には、ポアロの生涯で最大の難敵が登場します。

決して罪に問われることなく殺人を犯す そのテクニックとは、「人間の良心のもっとも弱い部分に働きかけてそそのかし 犯罪を行わせること」 。

「あの人がいなければいいのに」 なんて思いは 誰でも一度や二度は抱えたことがあるもの、普通ならそれで済むところを、心の揺れにつけ込み 言葉巧みに負の感情を増幅させ、良心のとがめを押しつぶして 犯行に向かわせるその腕前は、数々の難事件を解決してきたポアロでさえ強い危惧を覚えるほど。

案の定不審な事件が次々起こり、ポアロのかけがえのない親友 ヘイスティングズにまで魔の手が。。。。




当人が手を下してない以上 罪に問うことすらできない厄介な相手ですが、ポアロとの対決がどうなったかは小説をお読みいただくとして、この犯人に付け入る隙を与えているのが、人々がそれと氣づかぬまま潜在意識に抱えているさまざまな思い込み。

潜在意識は知覚できない領域で、五感も言葉も及ばないため、なぜか自分に益のない行動をとらせる衝動を感じはしても、その原因を見つけるのは困難です。

誰でも自分のことを 善良で正しい人間だと思いたいもの、にも関わらず 心の奥底に その願いと矛盾する闇の氣配を感じると、ついついスルーして見なかったことにしてしまう。

だからこそ そこを突かれると動揺して、冷静な判断力を失ってしまうんですね。

氣弱な笑みの裏に隠された 抑圧的な配偶者への激しい怒り、質素な夫に従う妻の仮面の裏に潜む 華やかな暮らしへの渇望、そういったものに翻弄される犠牲者たちが 「カーテン」 にも登場しますが、彼らが自分の本心に氣づいていれば、あのような悲劇を見ずに済んだかもしれません。




さて 現実世界に話を戻して、この手の思い込みで最大級のものが、私たち人類のほとんどに共通する 「お金にまつわる観念」 。

いま私たちの社会を動かすお金のシステムは、豊かさの巡りを偏らせて 大昔から続いてきた自然の循環を大きく歪めてしまっていますが、その根っこに潜む 私たち人間の意識が抱える矛盾や罪悪感こそ、それらを助長する最大の原因だと 貴秋は思っています。




私たちの本質は、全き愛そのものです。

その性質が表に出てくるのが、大きな災害や戦争紛争に見舞われ傷ついた人を見たとき。

手弁当でボランティアに駆けつける、欲しいものを我慢してでも寄付をする、戦争反対の意思表明に立ち上がる、被災者支援の役に立ちそうな情報を見つけて流す、など 皆の心に火が付き、苦しむ人を救いたい熱意が形となって 波のように押し寄せます。

その一方で、私たちの社会の根幹をなす現行のお金のシステムは 競争原理で成り立っており、実質的な弱者切り捨てが あちこちでまかり通っています。

これを黙認するのは 明らかに私たちの本質に反しますが、「このシステムの中で生きていくしかない」 という思い込みに囚われている私たちは、その矛盾を心の奥に押し込めたまま生きていかざるを得ません。

そんな心の軋みが露わになるのは、誰かがその矛盾を明るみに引っ張り出したときです。

「意思の疎通が取れないような重い障害者は 安楽死させたほうがよい」 と述べた相模原障害者施設殺傷事件の犯人 植松聖被告、「ホームレスっていないほうがよくない?」 と述べたメンタリストDaiGo氏、「生産性のない同性カップルに税金を投入してよいものか」 と述べた杉田水脈議員、彼らの言葉に反発や憤りを覚えた人がどれほど多かったかはご存じのとおりですが、実のところ これらの発言は、私たちの本質からいえば決してあり得ないことながら、私たちの社会のありようには沿っているのです。

「働かざる者食うべからず」 という言葉が示すように、私たちの社会は 弱者を切り捨てるようにできている、どんなに怒ろうと嘆こうと それが紛れもない事実であることは、コロナやウクライナ侵攻などの影響で経済的苦境に立たされている人々の存在が証明しています。

あまつさえ私たちは そのシステムの少しでも上位に行けるようにと、自身が我が子がいい大学に入り 有望な就職先を見つけられるよう心血を注いでいるではありませんか。

私たちが前述のようなあからさまな差別発言にいたたまれない氣持ちになるのは、私たちの本質と相容れないからであると同時に、そんな矛盾を受け入れて生きていることへの後ろめたさや罪悪感からでもあるのではないでしょうか。

言い換えれば、この矛盾に目をつぶって生きてゆく限り、私たちは自分に自信や誇りを持ち 胸を張って生きていくことはできない、高いセルフイメージを保つことはできない、ということ。

さらに言えば、そんな私たちのセルフイメージの混乱や良心の弱みにつけ込んで 「カーテン」 の犯人のように私たちの感情を意のままに操り、弱者を犠牲にすることをいとわず 自分たちの富や既得権を守ってきた存在がいたからこそ、これほどまでの富の偏在や それにまつわる争いごとが数千年ものあいだ絶えることなく続いてきたのです。




・・・・辛いお話だったらごめんなさい。

でも、辛い思いは一度で十分、あとは催眠を解いて 最高のセルフイメージを取り戻すだけ。

私たちが頑張ったその先に、誰一人見捨てられることのない 愛に満ちた世界が待っています。

















私たちの新しい意識で、混迷する世界に活路を開け

2022年03月23日 17時39分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
南紀にいたころ、小学校の校庭で 子どもたちが遊ぶのを眺める機会がたびたびありました。

10人ぐらいで鬼ごっこをしていたのが、飽きたらしいひとりが 「ジャングルジム行こう」 と言い出すと、何人かが賛同し ごそっと抜けて走っていく。

残った子たちがこれまた別の遊びをしている周囲のグループにてんでに加わることもあれば、あとから来た子に声をかけて 再び鬼ごっこの人数が増えることもあり、そうこうするうちにジャングルジム組から さらにブランコや鉄棒に移る子が出てきたりと 離合集散めまぐるしく、遊びのスイッチが次々切り替わって、運動場全体が 立ち止まることなくしなやかに姿形を変える生き物のよう。

ああいう変化に富んだ動きがどこまでも続けられたのは、あの子たちみんなが 「いま自分が何をし どう動いたら一番楽しいか」 を常に念頭に置いていたからだったんですね。




翻っていまの私たちの世界は、超わがままで身勝手なガキ大将を頂点とする一握りのグループの命ずるままに、楽しくもない遊びに付き合わされて、息切れしようがケガをしようが 止めることも抜けることもできないままうんざりヘトヘトになっている子どもたちの群れのようなもの。

私たちの多くは、それこそ弥生時代に入ったあたりから 代々受け継がされてきた催眠のおかげで、「いまの自分をもっとも喜ばせ楽しませるものを選ぶ」 ということも、「楽しくないものからはさっさと離れればいい」 ということも忘れてしまっています。

「ゲームから降りてハッピーエンド」 の 「ゲームから降りる」 とは、他者が決めた意に染まないルールに従うのをやめて、もっといい氣分になれることをする、それだけのこと。

お金を払わねば物を手に入れられないとか、仕事をしなければお金はもらえないとか、それは宇宙の法則などではなく、遠い昔に誰かが勝手に決めたこと、それが氣に入っているのならいいですが、氣に入らないならイチ抜けて、もっと楽しいルールで生きればいい。

それまで一緒だった人たちとケンカしたり 抜ける言い訳をしたり許可をもらわねばと思ったりする必要はなく、ただ意識を離して 新しい世界にフォーカスを移してしまえばいいのです。

そんなことをしたら生きていけなくなる、法律に背いた罪で逮捕されるって思いますか?

でもその法律だって 誰かが自分に有利なように 勝手に作っただけのもの。。。。って言っても やっぱり 「そんなことできない」 って。。。うん そうだね、なるかもなぁ。

ならばとりあえず、その 「できない」 という思いこそ催眠であるということを、言葉としてだけでいいので覚えておいていただければ幸いです。

「できない」 と感じたときのからだの感覚にフォーカスしていれば、いずれ 「あのとき貴秋が言っていたのはこういうことだったのか」 と実感できる時が来ますから。




理屈だけで 「おかしい」 と考えるのと すとんと腑に落ちるのとの違いは、腑に落ちたときは 認識を力に変えられるということ。

何かがおかしい、間違っていると感じれば、間違いを糾弾したり 意見の違う相手を論破したりすることなしに、それを正すための行動がすっと起きてきます。

閉めたはずのドアが開いていたら閉め直すし、ポケットからペンが落ちたら拾いますよね。

どうすればしっくりくるかが明らかなことについては すんなりからだが動くもの、そこでわざわざドアやペンに文句をつけたり責め立てたりする必要なんてありません。

催眠が解ければ、権力者に戦いを挑んだりせず すみやかに離れることができる意識に おのずと変わる、それが私たち本来のありようです。




いまの私たちの多くは 力を握っているのは支配者だ国のトップだと思い込んでいますが、これも催眠のなせる業、ほんとうに力を持っているのは民衆の方です。

家を建てるのも 道を作るのも 野菜を育てるのも 荷物を運ぶのも 健康を守るのも 実際にやっているのは庶民で、トップはただ命令するだけ、催眠が解けて 命令に従う必要なんてないとみんなが氣づけば、民衆はそれまでと同じように、いや ずっとのびのび楽しく暮らせるようになりますが、自分で何も生み出せない支配者は 置いていかれるだけ。

戦いだの騒動だのを起こそうとしたって、手駒として動く者がいなければ どうにもなりません。

置き去りにされるのはピンチですが、ピンチがチャンスに変わり得る法則は彼らにも共通だし、少なくとも怒れる民衆の手にかかって命を落とすよりはずっとましでしょうから、これがもっとも犠牲もエネルギーロスも少ないソフトランディングだといえるでしょう。




爆撃され傷つき、愛する人を失い、穏やかな日常を奪われてなお抵抗を続けるウクライナの人々を思うと いたたまれない氣持ちになりますが、さらに他の国や地域でも、人種差別や人権抑圧、圧政や貧困にもがき苦しみながら 活路を見出そうと必死になっている人がおおぜいいます。

ここで私たちが感情に流されて冷静な目を失えば、日本人を含め より多くの人々が混乱に巻き込まれるだけ。

いまはまだ平穏無事に暮らしている私たちが 落ち着いて大局を見渡し、死角のない目で何が起きているのかを見定めて 解決策を提示することが、何よりの平和貢献になると 貴秋は思っています。

















ほんとうに起きているのは何かを見極めるのは いま

2022年03月21日 15時21分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
人間の五感というのは、だまされやすいものです。

五感の中でも占める割合が多いと言われる視覚のだまされやすさは、こちらにもあるように 一目瞭然。

あとの四つも、その氣になれば いくらでもだますことができます。

私たちの脳は、目の前の事象と過去に得た情報を照らし合わせて 現状を認知しており、過去データに合致する情報ほど信じ込みやすく、過去データになかったり反したりする情報は なかなか受け入れようとしないため、データの少ない事象については、都合のよい解釈をひねり出して 辻褄合わせをしてしまうことが ままあるんですね。

加えて 顕在意識には、「感情に訴えてくるものに弱く、感情を揺さぶる情報には 裏付けを取るより早く 反応しやすい」 というクセもあります。

つまり、私たちは 理論的な裏付けや証明を重んじるようでいて、実はけっこう好みや感情に流されやすい、ということ。




私たちの顕在意識は、五感で知覚できるものに反応します。

そこを利用して 目に付きやすいものにこちらの注意を引きつけておいて、陰でこっそり種を仕掛けるのが、マジック。

華麗なテクニックにだまされる楽しさは、なんど体験しても飽きません。

こんな楽しいだまし合いっこばかりならいいのですが、そうではないのが悲しいところ。

あるとき突然ひらめいたことがありました。

「スポーツでもなんでもやたら国別対抗で競わせるのは、国と国という線引きを強調して 私たちの意識に植え付け、隠しておきたい真の線引きから目をそらせるため」と。




貴秋は 「英雄たちの選択」 などの歴史番組をよく見ますが、再現ドラマの合戦シーンに必ずと言っていいほど出てくるのが、合戦が終わったあとの戦場に 泥まみれで打ち捨てられた敗者の家紋入りののぼり旗と、累々と横たわる戦死者の屍。

ここで亡くなっているのは、そのほとんどが足軽や雑兵など庶民出身の身分の低い兵なんですね。

型どおりの演出なのでしょうが、あのひらめき以来 この手のシーンを軽く見過ごせなくなってしまいました。

ほんのワンカットであれ、この人たちのひとりひとりに 故郷で待っている親や妻子がいるのだろう、どんなにか帰りたかっただろうな。。。。などとついつい考えて切なくなってしまいます。

合戦を始めるのは 領地を広げ 名を挙げたい大将でも、実際に最前線で捨て駒のように扱われるのは 勝者側であれ敗者側であれ いつも名もなき庶民なんですね。

貴秋の両親は共に昭和一桁の生まれで、多感なティーンエイジャーの時期に 太平洋戦争を経験していますが、貴秋が幼い頃より耳にタコができるほど聞かされてきたのは 「戦争を始めるのはトップでも、実際に苦しむのはいつも庶民」 だということ。

そういう影響もあってのことでしょうが、いまの貴秋には、この歴史番組の庶民兵と ウクライナ侵攻の犠牲者が重なります。




最近こんなニュースを目にしました。

「 『ウクライナ侵攻』拡散されたTwitter動画から見える若いロシア兵の“士気の低さ”と“迷い” 」

「避難先にも招集令状『まさか自分の元に』…ウクライナは総動員体制、家族離散も」

こうして敵味方どちらの側でも 迷い悩み恐れながら 否応なく最前線にかり出される人々と、太平洋戦争で 大義と本音の狭間で揺れ動きつつ動員された日米の若者たち、そして遠い昔 故郷の村から連れ出され 戦場でボロ屑のように使い捨てられた農民出身の雑兵たち。

隠れ家を爆撃され 死傷するウクライナの人々も、太平洋戦争で 東京をはじめ各地で爆弾の雨の中を逃げ惑った人々も、戦国時代 突如自分たちの村が戦場となり 合戦の巻き添えを食った人々も、やはりみな庶民であり、弱い立ち場の女性や子どもやお年寄りなのです。

さらにはその向こうに、愛する人を遠いアジアの戦地で失い悲しみにくれたアメリカの人々、突然の侵攻に賛同していないのに ロシア人として肩身の狭い思いをせざるを得ない人々、そして戦火が拡大し 自分たちもまた巻き込まれるのではと恐れる世界中の民衆が存在するわけで。

もう心の奥底では誰もがわかっていること、ほんとうの対立は 国と国などではなく、富を奪った者の末裔と奪われた者の末裔、実権を握り 命令一つで民衆を動かす側と動かされる側、法を盾に取り一方的に裁く者と裁かれる者のあいだで起きているということを、いますぐひとりひとりが引きの視点から確かめることが、平和への第一歩だと思います。

その構図が明らかになって初めて、誰もが「このバカげた戦争を終わらせましょう」 と心から思える。

目に見えるところで末端の者同士を争わせておき、自分たちは庶民の目の届かないところに身を潜めていたからこそ、偏ったいびつな巡りを こんなにも長く続けてこられたのです。

軍需産業の振興により、その偏りはさらに大きくなったことでしょう。

でもそれももう限界、これ以上こんなことが続いたら、人間界だけでなく 地球全体が持ちません。




いまトップとして目に付く政治家たちも この体制の真のトップではないのでしょうが、では真のトップとはいったい誰なのか、それを特定する必要はありません。

それを見極めなければならないのは 「戦いに勝ってハッピーエンド」 の世界での話、「戦いから降りてハッピーエンド」 の世界では、先日も書いたように そんなことはどうでもいいのです。




この話、もう少し続きますね。

















今のようなときだからこそ、曖昧な言葉にご用心

2022年03月20日 14時10分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
その昔、ちょっと変わった伝言ゲームに参加したことがあります。

ご存じのように、伝言ゲームとは お題となる言葉を人から人へ次々伝えてゆき、どれだけ正確に受け渡せるかを楽しむものですが、このゲームは言葉そのものではなく、語られた内容のほうを受け渡していくのです。

だから 使う言葉や例えなどはどんどん変えて構わないのですが、話の肝については正確に伝えねばなりません。

これを貴秋は二回やったことがありますが、一回目は 案の定というか 相当なズレが生じ、二回目は途中で空中分解しました(笑)。

二回目の時は 前回の体験から言葉の扱いに多少注意深くなった者が混じっていたため、何を言いたいのかよくわからない言葉を前の人に差し戻して追求していったら、完全に答えに詰まってしまった人が出て、そこでおしまいになったのです。




このブログでもたびたび書いていますが、地図に その地図が指し示す実際の場所があるように、言葉にも その言葉が指し示す具体的な事象があります。

ですから、現地に行ったことのある人が正確に描いてくれた地図に信頼がおけるのと同様、その事象に鮮明なイメージを持つ人の言葉も信頼できます。

問題なのは、地図や言葉の正確さに重きを置かない人や、現地や事象を 「知ったつもり」 になっている人の場合。

前者は何度か話していれば 「この人の言うことは要注意だな」 とわかってきますが、後者は 本人も知った氣でいるため 見分けがつきにくい。

これに惑わされないためには、尋ねているこちらがその場所や事象について明確なイメージを思い描けるようになるまで 何度でも根氣よく聞き返すことです。

これで相手がしどろもどろになったり 怒り出したりしたときは、眉唾だと思った方がいいでしょう。




S ・ I ・ ハヤカワ著 「思考と行動における言語」 という本に、「抽象のハシゴ」 という話が出てきます。

ベッシーという牝牛を例に、特定の牝牛である「ベッシー」 を表す言葉が 「牝牛」 「家畜」 「農場資産」 「資産」 「富」 と変わるほどに、言葉の指し示す範囲が広がり、ベッシーならではの特性が見落とされていくさまを、「抽象のハシゴを上がる」 と表現する話です。

ベッシーを 「牝牛」 と言うときは、ベッシーと他の牝牛を区別するベッシーならではの個性が落とされ、「家畜」 となれば 豚や山羊や鶏などと同じ扱いで、牛ならではの特性も問題にされません。

「富」 などと言われた日には、ベッシーのことを指していると即座に理解するのは まず無理でしょう。

この抽象のハシゴのてっぺん近くにある言葉ほど、扱われ方によっては要注意となります。




日ごとキナ臭さが世界中に広まってゆくような今、「国」 「国家」 「国民」 などという言葉には とりわけ注意を払わねばと感じます。

誰かが言う「国」 や 「国家」 とは何を指すのか、「国民」 とは誰を指すのか、言った本人に問うことなく 勝手にわかったつもりになっていると、あとでとんだ泣きを見ることになりかねません。

こういう言葉は、後からどうとでも解釈できるよう わざと曖昧な使われ方をする場合があるからです。

日ごろ 「国民のため」 を連呼する政治家が、コロナ騒ぎで経済状況が悪化し苦しむ人たちを実際に救ってくれたでしょうか。

地震や台風、水害などで家や土地を失い 寄る辺ない身となった人たちを庇護してくれたでしょうか。

答えがNOなら、彼らが 「国民のため」 という言葉を使ったとき、「あなたの言う “国民” とは具体的に誰のことを指すのですか?」 とその都度問う必要があります。

その答え次第で、今後その人を支持するかしないかが決まるのですから。




故意かたまたまかは知りませんが、コロナやウクライナ侵攻、自然災害などのニュースには、恐怖に脅える人、悲嘆にくれる人、大切なものを失い泣き叫ぶ人、などのように 感情をかき立てる映像が数多く使われます。

こういう場面で心乱されるのは、私たちが愛情深いことの表れでもありますが、感情の乱れは 冷静に物事を見る力を失わせ、視野を狭めさせます。

こういうとき私たちは、先日お話しした演歌歌手のように すぐ近くにある解決策を見逃したまま 判断を誤りやすいのだということを 肝に銘じておく方がよさそうです。

日頃から 言葉そのものでなく その言葉が表すおおもとがいったい何なのかを見極める習慣をつけておくことで、私たちは 元をたどれない伝言ゲームに乗っかって 空中分解に巻き込まれるような憂き目を見ることなく 人生を思いのままに進んでゆけるでしょう。

















いま ・ ここを出発点に、さてどんな世界を創ろうか

2022年03月19日 10時32分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
近ごろ、なんでもかんでも 「波動」 とか 「共振共鳴」 という観点から物事を見るクセがつきました。

誰かと一緒にいて心地悪ければ、ああ 波長が違うのね、となるし、春の日ざしを浴びてぼんやりいい氣分でいるときは、春の波動と共振共鳴しているんだなぁ、と思うし。

すべての存在は固有の波動を持っているから、互いに周波数が近ければ心地よいし、異なるほど違和感を覚えるもの、私たちの意識が思い込みから解放されるに従い、万事がシンプルに見えてくるようです。




氣づかぬまま持ち続けていた思い込みが減るに従い、誰に教えられたわけでもないのに それまで知らなかったことが突然わかるなんてことが増えてきます。

辞書にはまだ載っていないようですが、スピリチュアル分野では 「透知 (五感や理性を通さず知ることのできる力) 」 なんて言葉が存在するぐらいですから、いまはこういう体験をされている方も多いのでしょうね。

貴秋は、雷が条件の整ったところに落ちるのと同じように、アイデアや情報も波長の合うところに引き寄せられてくるのだと思っています。

私たちが暮らす形ある世界は 形なき領域から生み出されていて、その領域には ありとあらゆる情報が形を持たぬまま潜在しており、望まれて形ある世界に呼び込まれるのを待っている。

私たちが何かを知りたいと思い 問いを投げかければ、 待機していた答えや情報の中から 波長の合うものが共振共鳴の力で引き寄せられ、見えも聞こえもしないけれど それはすぐ目の前に存在していて、あとは具現化して受け取れるようになるのを待つだけ。

問うと同時に答えを得ることもあれば、受け取るまでに時間がかかることもあるけれど、本氣で知ろうとする限り 答えは必ず得られるようです。

ときには 「問いかけもしないのに不意にわかる」 なんていうこともあって、そういうのは 生まれる前にあらかじめ仕込まれていたファイルが 定められたタイミングで開いたということなのでしょうね。




このようにして得た答えは、その正しさを外に向けて証明することはできませんが、自身の中には揺るぎない確信があるので、ためらわず採用実行できます。

もちろん受け取るこちら側の意識は制限されていますから、各自の色に染まった表現にはなりますが、おおもとは万人に共通のいのちの源、てんでんばらばらに見えて 底辺には すべてのいのちを包み込む愛が流れています。

そんな愛のエネルギーから生まれるひとりひとりの行動が 結集してひとつの力となれば、どれほど手の施しようがなく見える世界であろうと 立て直せないわけがない、と貴秋は確信しています。



私たちひとりひとりが コロナについて、ウクライナ侵攻について、いまの経済状況について、自然の脅威の意味について、真摯に問いかけたとき、世界の見え方はどのように変わるのでしょう。

そうして得た答えや情報を持ち寄るとき、世界はどんなふうに創り変えられてゆくのでしょう。

あの 「ONE PIECE アラバスタ編」 のアラバスタ国王 ネフェルタリ ・ コブラが失意の国民に語りかけたように、どれほど辛い出来事であろうと、そこから何かを得て ひとつ賢くなり、私たちの手でそれを終わらせることができたなら、それは前進なのです。

「この○○の上に立ち、生きてみせよ!」 と激励する声が聞こえてくるような氣がします。

















「次元移行」 とは、特別でも劇的でも高尚でもない ごく当たり前のなりゆきなのだ

2022年03月16日 10時21分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
貴秋は 「自身の内なる声を聞く」 という表現をよく使いますが、この 「内なる声 (もちろん実際の人の声ではなく、ふとした思いつきやインスピレーションのこと) 」 に従って生きようとしたとき必要なのが、全き自由。

ひらめきが いつ どこで降って湧くか、なぜそれをする必要があるのか、いつまでそれに従事することになるかなんて 顕在意識では一切わからないのですから、社会的役割に縛られ 定められた時間割に従って暮らさねばならない身で 内なる声に無条件に従うなど どだい無理な話です。

この社会的制約というのは、一見外から課せられているようでいて、実はそれを創り出しているのは 私たちひとりひとりの 催眠にかけられ制限された意識。

自身の 「こんなこと許されるはずがない」 という頑なな思い込みが 外の世界に投影され、「おまえはいったい何をやろうというんだ、氣でも違ったのか? そんなことが許されるはずないだろう」 という他者の非難の声として降り注ぐのです。

ですから、意識の枷を取っ払い 内なる声のままに生きるか否かは、めいめいが催眠を解き 意識を根底から書き換えるつもりがあるかどうかにかかっているんですね。




もうウン十年も昔の話になりますが。

なんでそんな話題になったのかは覚えていませんが、当時中学生だった貴秋に 父が突然次元について語り出したのです。

  「一次元の生物は、直線上に住んでいると思えばいい。

   線だから、動くには右か左、どちらかへ行くしかない。

   次の二次元世界は、左右の他に前後もある 面の世界であり、そこの生物が動き回れるのは 面の範囲すべてということになる。

   三次元になると、そこに高さが加わる。

   三次元の生物は、前後左右プラス上下にも移動できるということ。

   一次元の生物からすれば、前後や上下への移動など あり得ないこと、到底理解できないことだ。

   同じく二次元の生物にとっても、三次元生物の上下の動きは 何が起きているのか理解の外ということになる。」

なぜそんな話を聞かされているのかさっぱりわからないながらも、不思議とインパクトのある話で、後日さっそく友人に受け売りしたのを覚えています。

笑顔でうなずきながら聞いてくれたけれど、彼女もなんでそんな話を聞かされてるのかさっぱりわからなかったろうなぁ (笑) 。




「アセンション」 という言葉を初めて知ったのがいつだったかは覚えていませんが、この 「次元上昇」 という概念、五感を超えた領域に関心のある人には いまやすっかりおなじみのようです。

三次元生物である私たちの次なる領域は五次元で、自身の波動を高めることで移行するとのことですが、私たちの三次元意識からすれば、五次元移行など あの父の話の 「自分より高次の生物を あり得ないと見る」 のと同じで、荒唐無稽なSF話としか聞こえないのも無理はありません。

が、引きの視点に立つことに慣れ、物事の見え方や自身の反応の仕方に実際に変化が起きてみると、それは突飛でも飛躍的でもない、東にあった太陽がいつのまにか西に移っているのと同じぐらい さりげなくナチュラルな変わりようであることがわかります。




貴秋は別にアセンションが目的だったわけではなく、ネガティブな状況をどうにかしたい一心で 感覚フォーカスに打ち込んだだけですが、変化に氣づくのは いつもだいぶ経ってからのことで、変化している最中に 「あ、いま変化してるな」 とか 変化直後に 「すご~い、こんなに変わった!」 なんてことはまったくありませんでした。

それはきっと 変化の度合いがあまりにもわずかずつで、太陽の動きを知ろうと壁に映る影をじっと見つめても 動いているように見えないのと同じことなんだろうと思います。

でも そんな太陽も30分も経つと けっこう移動しているのもので、意識についても かなり後になってから 「そういえば最近前みたいにイライラしなくなったな」 などとふと思うことで、実はけっこう変わってたんだなと氣づけたりします。

三次元の自分からすれば 五次元意識の自分なんて想像もつきませんが、実は意識変化の間中 どこを取っても 「いまこの瞬間の自分が当たり前の自分」 なわけですから、ネガを手放す作業を地味に続けつつ 日常を送るうちに、いつのまにか 「朝方昇った太陽が ふと氣づけばもう沈もうとしている」 みたいに 知らぬうちに五次元意識になってしまっていたなんてことが、誰にでも起こり得るわけです。

いまの自分の意識が三次元か五次元かなんてわかろうはずもありませんが、以前よりずっと前向きで安定していて、周囲でなにが起きようと影響されず楽しく生きられるようになってきたのはわかりますし、そこまで諦めず粘り強くやってきた自分をうれしく思えるのも確かです。

ですから、いまの自分が何次元意識なのか、アセンションしたのかしていないのか、なんてどうでもよくて、ただこのまま意識の書き換えにいそしみながら 毎日をハッピーに暮らしていけるなら それで十分というのが正直なところです。

なまじアセンションだの次元上昇だのと特別なイベントのように取り上げられると 妙に身構えてしまいますが、実際は 限られた人だけが夢中になるオタク話でも夢物語でもなく、もともとそうであった “軽やかで安らかで豊かで満ち足りた私” に戻る ごく自然で当たり前な成り行きのこと、いま起きているコロナもウクライナ侵攻も氣候変動も経済悪化も 私たちがその成り行きにすっと乗っかれるよう 背を押しているだけと見ることもできるんだよ、というのが、貴秋色の眼鏡を通して見える、いまのこの世界の現実です。
















形ある世界を支えているのは、形なき世界の中心軸であることを思い出せ

2022年03月14日 08時05分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「SDGs」 。。。。最近やたらあちこちで目につくワードですが、あまりにも唐突に現れたり 急速に広まったりするものには、やはり何らかの意図を感じてしまいます。

この 「SDGs」 にまつわる文言で 貴秋がもっとも氣になるのが、あの 「持続可能」 という一語。

辞書では 「持続」 とは 「長く続くこと、長く保ち続けられること」 となっていますので、平たく言い直せば 「ずっと続けられる」 ということでしょうか。

これを最初に言い出した人が 「長く」 をどれぐらいと想定しているのかはわかりませんが、あの 「世界を変えるための17の目標」 にさっと目を通すだけでも、期間限定では意味がないことがわかります。

つまり、この 「SDGs」 に掲げられている目標は、すべてが絶えることなく永続的に続くものでなくてはならない。

となれば、それは 「循環」 でしかあり得ません。

以前にも書きましたが、始まりがあれば終わりがあり、終わりが定まっているものは持続可能とはいえませんから。

そう考えると、にわかに湧き起こったこの 「SDGs」 の大合唱が、どこか胡散臭く聞こえ出します。

私たちの世界は もとより永続的な循環の中にあり、その巡りをぶち壊しかけているのが 私たち人類の数々の浅はかな試みなのですから、その反省なくして 「持続可能な開発」 なんてあり得ないはず。




循環、巡りと聞けば、思い浮かぶのは円ですが、コンパスを使って円を描いてみればわかるとおり、円には必ず中心があります。

で、コンパスの針がうっかり動いて 中心がブレてしまうと、書き始めと書き終わりがつながらなくなり、円にならないんですね。

そう、循環がどこまでも滞りなく続いていくためには、不動の中心が定まっていなくてはならないのです。

ならば、私たちの生の営みにおける不動の中心って、なんでしょう?




形ある世界のすべては、絶えず変化し続けます。

だからこそ、巡りを維持できる。

コマ回しのコマが倒れないのは 回り続けている間だけ、同様に 私たちの世界も、日が昇っては沈み、花が咲いては散り、雨が降っては蒸発して雲になり、細胞が生まれては死んで入れ替わり、あらゆる生物もまた生まれては死んで入れ替わる、その変化の中で生かされています。

ならば、その中心、決して変わらず絶えることのない不動の一点とはなんでしょう?

それは、形ある五感の世界を超えた領域にあります。

顕在意識では決してつかむことのできない領域、顕在意識オンリーで生きてきた私たちがすっかり忘れていた形なき領域に、私たちの生を持続可能なものにしている中心が存在するのです。




顕在意識を超えた 潜在意識 ・ 無意識などと呼ばれる領域は、私たちの五感で知覚することも 理論的に存在を実証することもできない、いわば “ブラックボックス” です。

ブラックボックスの中がどうなっているのかを知ることはできませんが、ボックスを通る前と通った後を比較することで、中で何が起きているかを推し量ることはできます。

そのためには、とにかくボックスを通り抜けてみること。

体験してみて初めて、理屈で語ることのできない私たちの中心を、言葉の及ばないところで感じ取ることができます。

いま 瞑想やマインドフルネスに 多くの人々の関心が向いているのは、人類がこの忘れていた中心を思い出し、危なっかしく傾きかけている生の巡りを立て直そうとする意志の現れではないでしょうか。




私たちのガタガタに傾いた世界を立て直すのは、中心を忘れたままの理論脳でひねり出した開発目標などではありません。

私たちひとりひとりが 自分の中心 ・ 世界の 宇宙の中心を思い出し、軸を取り戻して、真の自分として 自分にできること、自分にしかできないことをやっていく中から、円滑な巡りを取り戻した新しい世界が生み出されます。

唯一無二の個性を携えた私たちが、めいめい自身の内から湧き起こる声に耳を傾け、これと思うことに打ち込んで 充実した生を生きる以外に、世界を救う道なんてないと 貴秋は思っています。

















「戦いから降りてハッピーエンド」 って?

2022年03月13日 09時59分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「『戦いに勝ってハッピーエンド』 ではなく 『戦いから降りてハッピーエンド』 という新しい意識のありよう」 と 「?度目の正直となるか、天下分け目の正念場」 という記事のおしまいに書きましたが、単純に考えれば、誰だって失うものの多い戦いなぞしなくてすむに越したことはないと思うでしょう。

にも関わらず、身の安全や大切なものの無事を脅かされると、私たちは瞬時に身構えて 大切なものを奪おうとする相手が誰なのか見極めようとし、相手が特定できれば 戦いを挑むか逃げるかの二択となります。

この二つは一見正反対に見えますが、積極的消極的の違いはあれ 「敵対するものがある」 と認めている点では同じで、すでにリングに上がってしまっていることに変わりはありません。

で、戦いに勝てばハッピーエンド、負ければバッドエンド、ここにもやはり分離の構造があります。

「戦いから降りる」 とは この分離の構造を超えた概念であり、意識のありようを変えることで おのずと見えてくる境地。

これを描いているのが、あのジブリアニメ 「アーヤと魔女」 や 「ハウルの動く城」 なんですね。




「アーヤと魔女」 のアーヤは、ベラ ・ ヤーガの高圧的な態度を 快適な生活を送るために取り除かねばならないものとは見ても、ベラ本人と敵対しようとは考えません。

「ハウルの動く城」 のソフィーも、愛するハウルの心臓を取り戻し 彼を幸せにしたいと望みますが、そのために荒れ地の魔女やマダム ・ サリマンと戦おうとはしない。

望みを妨げるものを敵認定し 戦って排除しようと躍起になっていると、いつのまにか戦いそのものが目的となり、目指すものが肝心の望みからずれてしまいます。

この二人は 軸がしっかりしており かつ自分の望みをよくわかっているため、目標にブレがなく、望みを叶える手段も押しの一手ではなく 必要に応じて引いたり搦め手から突いたりと多彩です。

で、アーヤはいじけた同居人二人の真の望みを引き出し実現させることで 二人とも味方にし、ソフィーはハウルと力ルシファーの契約の秘密を見つけ ハウルに心臓を返すことで、戦いの世界から離れて 新しい家族と幸せに暮らすのです。

この 「ハウル~」 のラストシーンの二つの世界の描き分けがすごくて、雲の下はまだ飛行軍艦が群れなすダークな世界なのに、雲の上はすがすがしい青空で、心で結ばれた “家族” を乗せて飛ぶハウルの城は 幸せを絵に描いたよう、両者は別世界なのだと得心させられる場面です。

「戦いから降りる」 とはまさにこのように世界を分けること、相手と異なる波長の意識を持って 別の波動領域に移ることなんですね。




敵だ味方だやっつけろ、となったとき、敵対する者どうしは 互いに正反対を向いてはいても 身を置く場所は同じ、すなわち同じ世界 ・ 同じ波動領域にあります。

戦いから降りると 相手から意識が離れるので、意識の波長そのものが合わなくなり、世界が分かれます。

降りるとは 波動領域を異にすることであり、そのためには 長いこと戦いしか教えられてこなかった私たちの意識のありようを変えることがぜひとも必要なのです。

で そのとき有効なのが、自身の痛みを見つめ 負の観念を手放すこと。




敵対する相手を意識するたび、不快感が湧き上がり いら立ちが募ります。

このいら立ちをなだめるため、相手をやっつける場面を思い描き、ときには実戦に及んだりするわけですが、その間中こちらの意識は相手に張り付いたまんま。

この世には 好きな人も物も場所もいっぱいあるというのに、わざわざ不快な方にばかり時間を割きアクセスしている、これってなんか変だと思いません?

貴秋は思いました、もっと大事な人がいくらもいるのに、なんで好きになれない人とうまくやっていくことばかりに心を砕いてなきゃならないんだ、おかしくない? って。

で、意識をもっと好ましい世界に移そうとするのですが、そうするとすごい抵抗が起きて、何が何でも腹立たしい世界に引き戻そうとする力が働くんです。

最初はこれをどうしたらいいかわかりませんでしたが、感覚フォーカスという手立てを得て、不快感や抵抗感など 上がってくるすべてのネガをひたすら味わうようになった。。。そうしたら。

すごい成果です、最終的に どの相手とも 顔を合わせることがなくなりました。

成り行きはさまざまで、氣づいたらいつのまにか出くわさなくなっていたということもあれば、相手が職場を辞めたり引っ越ししたりでいなくなったことも、こちらが敵対する氣が失せ 住み家を変えたり連絡を絶ったりするうちに忘れてしまったことも、仕事の任期が終わって自然に離れたこともありましたが、とにかく意識を離してしばらくしたら、貴秋の人生から相手の存在が消えていたという点は共通です。




ここでも 「意識が先、事象が後」 なのはもちろんで、物理的に距離を置くだけでは うっかりまた出くわすなんてこともままありますが、意識を離してしまえば いずれ物理的にも存在しなくなります。

ただ、この意識を離すというのが これまでの私たちの習慣にはほとんどなかったため、嫌いな上司でも苦手なご近所でもコロナでもウクライナでも 忘れようとする方がかえって不安だと思われる方も多いでしょう。

そのときは、対象や情報に触れているときの ご自身の感情の動きに注目されることをお勧めします。

ネガティブな事情も うまく使えば 意識の書き換えを促進し、引きの視点を取り戻して 毎日をより楽しくし、そのうえ世界平和に貢献することだってできるのです。

















死角のない意識が平和をもたらす

2022年03月12日 14時02分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
もうずいぶん前になりますが、「徹子の部屋」 でこんな話を聞きました。

ゲストの女性は着物姿の美しい演歌歌手の方でしたが、あるとき駐車場で車を降りた際、キーの閉じ込みをやっちゃったのだそうです。

で、慌ててなんとかしなきゃと 座席横の窓のわずかな隙間から手を突っ込んでドアのカギを開けようとしていたら、パワーウインドウだったのか 窓が持ち上がって 両腕を挟まれたまま動けなくなってしまった。

進退窮まったところに 通りかかった男性が手を貸してくれたのはいいが、反対側に回ったその人がひと言、「こっちのドアのカギ 開いてますよ」 。




・・・・・・・ (^▽^;)





似たようなことを経験された方も多いかと思います (もちろん貴秋も何度となくやらかしています) が、意識が狭まったときってまさにこんな感じなんですよね。

動揺しているときは 引きの位置から冷静に見渡す余裕をなくしていますので、目の前のことしか見えなくなり、すぐ近くにはるかにいい解決策があっても見逃してしまう。

同じようなことが、いまの激動する世界で起きている氣がします。




コロナだ戦争だと振り回される庶民が不安に取り巻かれるのはわかりますが、今回は 仕掛けている側も相当うろたえているように見えます。

富の偏在を生むカラクリは維持しつつ 経済破綻の責任の所在をうやむやにしようとあおり立てたコロナ騒動だけでは思うように事が運ばず、戦争まで起こすことになってしまった、しかも起こしている側も一枚岩ではないから、余計な小競り合いの火の手があちこちで上がり、どうやって収拾をつければいいのかわからなくなっているのではないかしら。

これまでにも民衆の目を欺いてさまざまな画策がなされたことは 数知れずあったでしょうが、その手際はもう少し巧妙でスマートだったはず。

が、このところの権力者側のやり口はあからさまで強引で一貫性がなく、焦っている感が否めません。

やはり “行き” と違って “かえり” の道は、流れに逆らうキツさが半端ないようです。

エネルギーの流れはいまや統合に向かっていますから、そこに無理やり分離を起こそうとすれば、反発を食らうのは当然なのです。

で、既得権益を手放したくない彼らが 目の前の火消しに躍起になり、長期の展望をもたぬままドタバタするおかげで、混乱がいっそう拡大している、貴秋の目にはそんなふうに映ります。

そして、地球全体に及ぶこの混乱を これ以上の被害を抑えつつ無事に収めて平和に導く、それがもっとも無理なくできるのは、権力者ではなく 庶民の側からだろうとも感じます。

既得権を握る者がそれを手放すのは よほどのことがない限り難しいでしょうが、すでにもうさんざん苦しんでいる庶民の側は 「これを切り抜けるためならどんなことでもやってやる!」 とモチベーションが高まっていますから。

では、このモチベーションをもっとも効果的に使うために、私たちはどうすればいいか。

行動は意識のありように従って起こるのですから、まず手をつけるのは 意識の書き換えからです。




瞑想などで潜在意識とつながったとしても、無論それは知覚できません。

ただ 再び顕在意識に戻ったとき、目に映るものは同じでも、その見え方が変わります。

体験の世界にどっぷり浸かっているときは その世界がすべてですが、潜在意識にアクセスしたあとは、絵から離れると そのまわりに額縁や壁が見えてくるように、その世界の周囲にも またそれ以外の世界が存在することがわかり始めます。

それまですべてだと思い込んでいた世界が 選択肢のひとつに過ぎなかったと氣づき、「なんだ、こんなの別に握り締めてなくてもいいじゃん」 と思えてきたとき、初めて自由意志での選択が可能になります。

この意識で混沌の世界情勢を見直せば、ネガ一色で絶望的としか思えなかった世界のまわりにも 平和への糸口が見つかりますから、あとは思い思いに動けばいい。

私たちはそれぞれ 魂レベルで取り決めた個性を携えて生まれてきていますから、新たに見えてくる選択肢も その個性に沿ったものとなります。

たとえ問題山積の世界であっても、そこに適した専門家が必ずいて、ベストの解決方法が必ず見つかる、このとき何よりなのは、アイデアのおおもとが全員共有の領域なので、各自が思い思いに行動しても そこに自然とまとまりやハーモニーが生まれること。

こうして皆がやりがいを感じながら自分の道に打ち込むうちに、世界が平和を取り戻すのです。