毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

在ることの静かな自信

2018年03月15日 11時18分45秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前回 ・ 前々回の記事で、映画 「インセプション」 で 主人公コブ一味のターゲットとなったロバートが、インセプション (自分のものではない思考の芽の植え付け) を施されたことで かえって自信をつけたように見えると書きました。




自信といえば、その昔 いい子で優等生だった貴秋が自信をつけるために選んだ手段が、他者と競って高い評価を得ることだったのを思い出します。

が 勝利に執着するほど 敗者に転落することへの恐れも大きくなることがわかり、やがて 外にばかり向いていた視線が次第に内に転じて、他者ではなく いまの自分を超えることが 新たな目標にとって代わりました。

自分を超えるとは 自ら課した限界を打ち破ることだから、これは内的成長のイメージとも重なり、今度こそ確かな手応えをつかんだかと思われた。。。。のですが。




この 「成長」 は、どこまでいっても果てがないのです。

そりゃそうだ、内的成長に 「はいおめでとう、ここがゴールですよ~♪」 なんてあるわけないんだから (^_^;)

かといって 乗り越える努力をやめてしまったら それはもう自分じゃない氣がして そんな自分を受け入れられなくなりそうだから、「いつかきっと報われる」 という当てのない望みを信じて進み続けたのですが、そこで氣づいた思いがけない落とし穴は、この道を邁進していると 知らず知らずのうちに自己評価が低くなるということ。

つねに 「もっとよくなれる、もっと先まで行ける」 と思い続けるのですから、相対的に いま ・ ここを見る目は厳しくなります。

もちろんこれは五感の世界も同じことですが、五感の世界での努力は人目につきやすいので、ある程度成果が上がれば まわりが評価してくれます。

が 内的探究はそれぞれの内面のことなので、評価するのも自分だけ。

自身の意図とはうらはらに いつのまにか いま ・ ここの自分を否定的に見るクセがついて、かえって自信を失ってしまうのです (T_T)




この 「社会的に認められること」 と 「内的に成長すること」 の二つはどちらも 「すること」 であり、なにかを 「する」 ことで自信をつけようというのは 向かう方向が内か外かの違いだけで 結局はどちらもマインドの企てなんですね。

となれば当然 二項対立の法則が影響するので、自信を持とうとすればするほど その対極にある不安も大きくなるのは防げません




そんな一見袋小路にはまり込んだような状況を経て 「する」 のとは違うところで感じとれる自信があることに氣づいたのは、あのムージ師の動画を観るようになってからのこと。

それが、あの “在る” だったのです。




“在る” には コントラストの法則は通用しません。

質量も境界もない 五感では捉えられないものを、分けることも 比較することも不可能ですから。

見るも聞くも触れるもならず ただその存在だけがかろうじて感じ取れる “在る” 。

この “在る” に意識が向いているときは、あらゆる言葉がぴたりと止み、深い安心に包まれます。

勝敗も比較も評価も存在しない心地よい世界で のびのびくつろげます。




ムージ師の 「セルフ (真我) のままでいてください」 のアドバイスに従い “在る” にフォーカスする時間が増えるうちに、興味深い変化が現れ始めました。

ネガからポジへの移り変わりが いつのまにか加速したらしく、「え、私こんな反応できたの?」 とか 「私にこんな前向きな発想があったなんて」 と 自身の言動や発想に驚かされる機会が飛躍的に増えたのです。

さらに 起こることすべてが いたずらに苦しめるためではなく 思い込みを解いて自由になるチャンスとして差し出されていることが見てとれて、自分が見失いさえしなければ この静かな安堵感は いつだっていま ・ ここにあるんだと思えるようになりました。

つまり、これまで不安にまとわりつかれていた長い長い時間は、単に意識がその事実から離れて見えなくなっていただけだったのだと。

この安堵感を自信と言い換えてもいいように思うのですが、それは 自分の 「すること」 ではなく 「存在」 そのものへの信頼、ただ自分が “在る” とわかっているだけで伝わってくる深い安らぎなのです。




自信とは 自らのジャッジやまわりの評価によって点いたり消えたりするものではなく、あの 「青い鳥」 のお話のように “在る” を忘れない限り いつでもいま ・ ここにあるものなんだということが、これまでになく深く納得できたのでした。























策士策に溺れる?

2018年03月11日 16時07分25秒 | 大好きな本・映画・ほか


きのうアップした映画 「インセプション」 がらみの記事、字数を氣にして 肝心のところに軽くしか触れられなかったので、ちょっと補足させていただきます。

いちおう 「ネタバレ注意」 ということで <(_ _)>












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ロバートの意識に映る父親モーリス ・ フィッシャーの言動は、言ってみれば 彼自身の思いの投影です。

父から 「お前に失望した」 と言われたなら、それは ロバート自身が 自分や自分の境遇に失望しているか、「父はきっと自分に失望しているに違いない」 と思い込んでいるか、といったことを表しています。

彼は、自分でも氣づいていない自身の思い込みを 父の姿を借りて示された。。。。「父という鏡」 を通して見せてもらったのです。




そもそも父親がロバートの中でそういう位置づけになったのは 彼の息子への意識や態度が原因でしょうが、そんな心ない言動から受けたショックが ロバートの中にある種の父のイメージを定着させ、それは実在の父親を離れ ひとり歩きを始めました。

この現象の格好の例が、コブ一味のインセプション遂行中のロバートの夢に登場した 名付け親のピーター・ ブラウニングです。

第二階層で出くわしたブラウニングを サイトーは第一階層と同じくイームスの変装だろうと思っていましたが、こちらはロバートの意識の投影でした。

第一階層でイームスが化けたブラウニングの態度に感じたかすかな違和感や疑念が、第二階層でブラウニングの姿を借りて現れ、ロバートの目の前でコブとアーサーに取り押さえられたとき その疑いを裏付けるような態度を取らせたのです。

ロバートはほんもののブラウニングだと思い込んでいますから、「うわー まさか、こいつやっぱり悪者だったのか Σ(゚д゚lll)」 という表情でしたが、実際は 彼自身のブラウニングへの疑いが形になり、そのとおりの筋書きを演じて見せただけのことだったのです。

このかすかな疑いをうまく利用したコブやイームスはやはり凄腕ですが、思えば自分の預かり知らぬところで悪役に仕立て上げられてしまったブラウニングさんも 不憫なお方ですね (^_^;)




こういうことは、現実世界の私たちにも しばしば起こります。

貴秋が感覚フォーカスに没頭していたとき、身のまわりで起こる光景や誰かの言動を 「これは私の思いの表れ、どんな思いを見せてくれているんだろう?」 と見直すと、必ずといっていいほど 自身のなんらかの観念や思い込みに行き当たりました。

思いが現実を創るとはこういうことかと つくづく感じ入ったものです。

だから、問題やトラブルを解決するとは、自分の思考の偏りに氣づいて 調和を取り戻すことにほかなりません。

出来事や相手に関係なく、自分の思い込みに氣づいて手放すだけでいいのです。

自分の心が平和になれば、外で起きていることは いずれ収まるところに収まります。




そう考えると、あの 「自分の道を行け」 のインセプションは、やはりロバートを操る以上に 彼に自信を取り戻させ これまで眠っていた資質を引き出すほうに貢献してしまったのではないかと思えてなりません。

それも、実際に父と和解するよりも効果的に。

というのは、あのインセプションは ロバートの潜在意識に直接働きかけているからです。

潜在意識を知覚しようのない私たちにとって、潜在意識の情報の書き替えには さまざまな知識やテクニックが必要です。

が、ロバートは コブたちのおかげで 鎮静剤で眠らされているあいだに あっさり書き替えを済ませてもらっています。

しかも第一級の腕前ぞろいなだけあって、仕事の中身はハイクオリティ

もしほんとうにロバートが 将来自分の道で父親を超えてしまったら、「策士策に溺れる」 を絵に描いたようなものですが、これも因果応報ということになりましょうか。

















瓢箪から駒

2018年03月10日 23時23分44秒 | 大好きな本・映画・ほか


テーマ 「インセプション」 、まだ引っ張っております (^^ゞ

今回の話は 「ネタバレ注意」 にしておこうかな☆












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コブの内的変化が目についたのと対照的な形で もうひとりこれまで以上に目についたのが、インセプションのターゲット ・ ロバート。

終盤で 父と和解できて幸せそうな顔や イームスが化けた偽ブラウニングに 「自分の道を行くよ」 と決然と語った表情が印象的で、ついつい彼にもハッピーエンドが訪れたかのように錯覚しそうになりますが、実際には まんまと本来の自分のものではない考えの芽を植えつけられてしまっているんですね

貴秋はDVD版のイームスの 「俺はセラピストか」 というせりふ (意訳なんでしょうね) が大好きなんですが、まさにセラピスト並みの慧眼で親子の確執に着目し 任務を成功に導いた彼の手腕、コブが危険を冒してまで仲間にしようとしたのもうなずけます。




それにしても、「他者の意識に入り込む」 なんていうSF設定にありながら このイームスの着眼点ってすごくリアルな氣がするんですが、実際私たちの日常でも 親子関係とそこから生まれるさまざまな思い込みに人生を左右されるって よくあることですものね。

貴秋も 感覚フォーカスの最中や直後に 幼いころの親との記憶がぱっと甦り、「ああ この出来事のせいで こういう思い込みが生まれたのか」 と両者のつながりが深く納得できたことが 何度もありました。

こういう思い込みが 例の主不在のマインドの自動反応にがっちり組み込まれて、こちらの都合にお構いなく登場しては 人生を引っ掻き回すのだから 困りものです。




親子関係ってほんとうに複雑だなぁとつくづく思います。

愛されたいし認められたい一方で、この人に見捨てられたら生きていけないという恐れもある。

そのため 無理にも親に従いその期待に応えようと 自分にウソをついたりごまかしたりしたのが仇となり、氣づかぬうちに根付いた不自然な思考や感情が 後々までも人生を縛り 振り回す。

「インセプション」 のロバートも、その言動の端々に 父親に愛されなかった悲しみや憤りが窺えます。

そんな父親への反発よりも 和解のうれしさのほうが 効果的に任務に利用できるとか、ほんと 「セラピストですか?」 と聞きたくなるような見事なつけ込みっぷり (^_^;)

この先ロバートは、赤の他人から植え込まれた考えとも知らず、“自らの意志で” 父の築き上げた会社を潰すことになるのでしょうか。




しかし。

コブも言っていたように 植えつけたのは あくまでも 「種」 であって、それが標的の中でどう育ち どんな結果を生むかまでは 誰にもわからないし、コントロールもできません。

父との和解で心の傷が癒え すっかり自信を取り戻したロバートが 遺言どおりにわが道を邁進し、のちのち父親以上の帝国を築き上げてしまうことだってあり得るのです ( ̄∇ ̄;)

ここで 和解が真実かニセモノかは問題ではありません。

ロバートを傷つけ 自信を奪っていたのは、実は父親の言動そのものではなく それについてのロバート自身の捉え方のほうだからです。

彼のものの見方 ・ 解釈の仕方が変わらなければ 父への思いも反応も どこまでいっても同じままだし、逆に見方が変われば 父親が存命で 相変わらずガミガミ言い続けても 氣にせず朗らかでいることもできるようになります。




貴秋はこれを この二年強の実家暮らしで実践して成果を上げたから、自信を持ってこう言えます。

父と一つ屋根の下で暮らしていれば 昔ながらの地雷を踏まれるなんて日常茶飯事、そのたびごとに その場では応戦せず すぐさまひとりになって、湧き起こる怒りから言葉を切り離し からだに残る感覚を見つめることを ひたすら繰り返してきました。

結果得たものは、のびのびと自由になった心。

からだに響く感覚がすっかり薄らぎ 反応が穏やかになったおかげで、どう応じるか 自分にとってベストの選択をする余裕が生まれました。

見ないふりをするのでも感情を押し殺すのでもなく、さらっと受け流すことも笑ってすませることも あるいは率直な氣持ちをすぱっと口にして後はさっぱり忘れることもできるようになり、心にかかる負担が 以前と比べ物にならないほど軽くなりました。




心が自由になると、自分への信頼も増すようです。

もし 自信をつけたロバートが 父親をしのぐ存在になるなんていうことがほんとうに起こったら、あの 「俺はセラピストか」 のセルフ突っ込みは 瓢箪から駒というところでしょうか。

そのときは 大金を払い 依頼が成功したと思い込んだサイトーこそいい面の皮ですが、まあそれも人の心を都合よく操ろうなんて氣を起こした報いというものかもしれません (^◇^;)





















ふたつの世界

2018年03月08日 12時10分26秒 | 大好きな本・映画・ほか


きょうも映画 「インセプション」 から始まるお話ですが、内容にはそれほど触れないので 「ネタバレ注意」 はいらないかな?




きのうの 「合わせ鏡」 と同じく これまで氣になりながらもスルーしていて 今回引っかかったもうひとつが、「虚無」 というワード。

依頼者サイトーのライバル会社の御曹司 ロバート ・ フィッシャーへのインセプション任務で ロバートの意識に潜入するコブ一味ですが、彼が潜在意識を守るトレーニングを受けていたために 不意打ちで武装集団 (ロバートの防衛意識の投影) に取り囲まれ、なんとか脱出するも サイトーが重傷を負うピンチに。

ここで 「虚無」 が出てきます。

この仕事では 三層の夢という不安定な現場に潜り込むために いつもより強力な鎮静剤を使っているので、夢の中で死ねば 通常なら目が覚めるはずが、覚めずに 「虚無」 に落ち込むのだと。

「虚無」 とは潜在意識だけの世界で、落ち込めばそれが現実世界となり、尽きせぬ絶望の中で老いてゆき 孤独に死を待つことになるというのです。

この 「虚無」 、原語では 「リンボー」 となっているようで、「インセプション リンボー」 で検索すれば 映画内でのリンボーの意味づけについて いろいろと興味深い考察を読むことができますが、貴秋の意識は ここで映画を離れて飛躍します。




内的探究に没頭し出した当初は、真我だの潜在意識だのというものが 手の届かない神秘的で神々しいものに思え、そこに近づくのを阻むマインドの働きをいまいましく思ったものです。

小我の意識では知覚できない潜在意識ですが、私たちの言動を左右する引っかかりやわだかまりのおおもとがそこに潜んでいるとなれば なんとかして触れたいつながりたいと願うのは人情で、その前に立ちはだかる (ように見える) マインドがジャマに思えるのも まあ仕方がないといえば仕方がないこと。

しかし あきらめずえんえん探究を続けて見えてきたのは、この形ある三次元世界において マインドは必要欠くべからざるツールであり、真我とマインドがひとつになって初めて 私たちはこの “魂のゲーム” をやり遂げることができるのだということだったのです。 




貴秋の中では事実認定されているので そういう体 (てい) で書きますが、そもそも無限の意識が 自身の素晴らしさをただ知るだけでなく体験したいと望んだところから すべてが始まりました。

そのために 自分を細かく分けて 本来ないはずの 「自分でないもの」 という要素も含め さまざまな形を生み出し、コントラスト効果を体感できる この三次元世界に送り出しました。

そして 私たちそれぞれが、その分割されたひとかけらなのですね。




「自身の素晴らしさを体験したい」 というのは、不完全な存在である三次元世界の自分と無限の存在である本来の自分、この二つがそろって初めて叶う望みです。

体験的にほんとうの自分を知るとは、非力でちっぽけな一個人に過ぎないと思い込んでいた自分が、実は 時間にも空間にも囚われることなく 思うがままにすべてを創り出す力を持った無限の意識でもあった、と氣づくことで実現するのですから。

にも関わらず 出だしでまず引っかかってしまうのが、神である自分をさえぎる 個の自分そのものなんですね。




こうしてついつい否定的に見てしまいがちな小我 ・ マインドですが、「インセプション」 の 「虚無」 の設定は、このマインドや形ある世界の大切さを示してくれているように思います。

潜在意識だけの世界では、そこに新しい体験を付け加えることはできません。

体験は、三次元世界にあってこそできることなのですから。

たとえ今の状況が好ましくなかろうとも、どれほど絶望的な状況に陥っていようとも、二項対立というその性質上 わずかなりとも引っくり返すチャンスを秘めているのが、私たちのからだが置かれているこの三次元世界です。

「後悔を抱えて孤独と絶望の内に死を待つ」 というのは 体験を欠いた潜在意識に閉じ込められたからこそ起こることで、からだや思考や感情や記憶 その他さまざまな設定を持つ私たちは 決してあきらめることはない、必ずどこかに逆転のチャンスがあるのです。

そして あきらめずにがんばり抜いて そのチャンスを見事ものにしたのが、あの 「インセプション」 のコブだったと思うのです。




主なしの単体ではコントロール不能のマインドも、“在る” とひとつになることで これまでになかった可能性が大きく開けることを実感する毎日、ずっと氣になりながらどうしてもつかめなかった 「虚無」 がヒットしたのも 長年の伏線がまたひとつ解けたということかなと ちょっぴりうれしい氣分です (*^^*)


















久々の映画 「インセプション」 は ことさら味わい深かった

2018年03月07日 15時16分06秒 | 大好きな本・映画・ほか


映画 「インセプション」 の内容に触れる記事となっています。

もう何度もテレビ放映されている作品に必要かどうかはわかりませんが、いちおう 「ネタバレ注意」 とさせていただきますね。













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おととい久々にBSで 映画 「インセプション」 を観たのですが、これまでスルーしていたあるシーンにハッとしました。

アリアドネがコブの潜在意識内で 「設計士」 としての手ほどきを受ける場面での 合わせ鏡のシーンです。

夢にあれこれ手を加え過ぎたアリアドネは 潜在意識に “異物” としてカンづかれ、通行人の注目を浴びたり 敵意のこもった表情でぶつかってこられたり。

アリアドネとコブ以外の人物は 意識の主コブの投影だから 構うなと言ってくれと要請するも、「潜在意識はコントロールできない」 とあっさり退けられ、そこで彼女がやおら通りに出現させたのは、大きな扉のような二枚の鏡。

この二枚を コブと自分を挟んで向かい合わせにし、二人の無数の像がずらりと並ぶ鏡の通路に立ち、一枚に軽く触れてこなごなにすると 鏡は消え失せ、その先に伸びる大通りには もはや二人を氣にかける人はいません。

初見から印象的なシーンで なにか心理的操作みたいなことかな? と思ってはいたのですが、今回あっと思いましたよ。

貴秋的解釈で言えば、真我とマインドの合わせ鏡に挟むことで 引っかかりやわだかまりが消えたっていうことじゃないですか。




クリストファー ・ ノーラン監督、レオナルド ・ ディカプリオ主演の映画 「インセプション」 、過去にこちらこちらで書かせてもらっているとおり もうどれだけ観たかわからない作品で、内的に大きな影響を受けていますが、今回は コブが 「犯罪容疑者として追われる身から 子どもたちの待つ家に無事帰り着く」 という一連のプロセスが とりわけ目につきました。

自身の失敗がもとで 愛する妻モルを失ったコブ。

その罪悪感は 潜在意識内のモルの姿に投影され、彼女の妨害という形で 他者の意識へ潜入する仕事に支障をきたすようになります。

この 「罪悪感が自らの足を引っ張る」 構図が、今回ことさらリアルに感じられました。

罪悪感や劣等感がセルフイメージを低下させ、そんな自分にそぐわないと感じる成功や幸せや平穏を 無意識のうちに片っ端からぶち壊すからくりを、自身の中にまざまざと見せつけられたためでしょう。

そんなコブの救世主が、アリアドネ。

ギリシャ神話で英雄テセウスを迷宮から脱出させる手助けをした王女と同名のこのアリアドネ、まさにコブの意識の迷宮脱出の大きな助けとなります。

コブの恩師であり義父でもあるマイルス教授の 「学生時代のコブより優秀」 との評価に違わず 合わせ鏡を使い 向けられた疑念や敵意をあっさりクリアした手腕もさもありなん、彼女が強引にコブの心の奥底に踏み込んで 彼の陥った状況を客観的に把握し手助けしたからこそ、彼はモルと向き合い 罪悪感に決着をつけた上で、虚無に落ちたサイトーを連れ戻し 無事作戦を成功させることができたのです。




「インセプション」 はもちろんフィクションですが、現実世界の私たちそれぞれの中にも モルとアリアドネがいるんだと思います。

モルは 幼いころのつらい体験から潜在意識に植え付けられた (インセプションされた) 否定的な思考や記憶や感情。

これがマインドに働きかけると、マインドはとめどなく空回りして 負の物語を再生し続けることで 私たちの人生を縛ります。

いい悪いではなく、モルは コントラストの世界で 「本来の自分ではない性質を体験したい」 という私たちの魂の望みをつかさどる存在なのでしょう。

一方で、当初はモルより影が薄いけれど、望みどおり負を体験し尽くしたら 脱出の導き手となってくれるアリアドネも ちゃんと私たちの中に待機しているのですね。

熱さず激さず物静かだけれど、こちらが投げやりになろうが絶望しようが逆上しようが いささかもペースを乱されることなく淡々と働きかけ、最終的にはきっちり目的を達する頼もしい存在です。

貴秋が “在る” を認識するまでの道のりを思い返すと、随所にそんなアリアドネのサポートを感じずにはいられません。




意識操作の達人でありながら (いや あるゆえに かな?) 罪の意識で自身をがんじがらめにして 窮地に陥れ続けてきたコブが、子どもたちへの愛情をバネに サイトーの差し出したチャンスを “信じて跳び” 、アリアドネの助けと仲間の協力を得てモルと決別し、新たな人生を歩み出す。。。。そんなふうに見えた今回の 「インセプション」 、これまで以上に味わい深かったです (^^)






















いま ・ ここにある “からだ”

2018年03月02日 15時15分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


真我とマインドばかり追いかけていた貴秋の前に現れた、第三の要素 ・ からだ。

なぜか 「体」 でも 「身体」 でもなく 「からだ」 とひらがなで書きたくなるのですが、このからだって よくよく考えるとすごいんですね。




その昔 某栄養補助食品の販売にいささか携わったとき、細胞についてけんめいに学んだことがありましたが、細胞の情報は 新しいものがどんどん出てきているようで、成人一人当たり60兆個とも70兆個ともいわれる細胞のひとつひとつに意識も記憶もあり 互いに交流し合っているというような話も耳にします。

このへんのことは詳しく書き出すときりがないのでやめておきますが、なんといってもすごいのは、からだは つねに “いま ・ ここ” にあるということ。

つま先をぶつけて 「アイタッ」 というときの痛みは、いつだって 「ここ」 にあるからだに 「いま」 起こります。

きのうの痛みとか明日の痛みなんてものはなくて、つねに “いま ・ ここ” 。

これがわかってきたのは、やはり感覚フォーカスを通してでした。




どんなドラマチックな悩みも苦しみも、言葉を切り離して感覚だけに集中すると ドラマ要素はきれいさっぱり削ぎ落とされ、「ここから先工事中」 の看板のように 味氣ないほど即物的 ・ 実用的な情報のみが残ります。

それが からだに起こる痛みやざらつき、圧迫感など 性質も強弱もさまざまな感覚であり、そのまま静かに眺めていると やがて消えていきます。

からだという “いま ・ ここ” にがっちり留め置かれては、過去の記憶の反映でしかない痛みや苦しみは 幻という正体を露呈せざるを得ないのでしょうね。




マインドは、単独では 主のない自動反応装置のようなものです。

過去の記憶を未来と結び合わせ、「こんなことがあった」 「次もきっとこんなことがおきるだろう」 と 「いま」 以外のあらゆる時制にアクセスし、湧き起こる感情に言葉を乗せて さまざまな物語を生み出します。

この物語に振り回されているとき、からだは忘れられて蚊帳の外です。

「からだが馬で 自分が乗り手でもあるかのように、おとなしくついて来いといわんばかりに引きずり回す」 とどこかで読んだ覚えがありますが、思考や感情や記憶に集中し過ぎて からだも自分の一部だという意識が希薄になっているんでしょうね。

そして あまりにも上の空だと、不意になにかにぶつかったり躓いたりして からだに走る衝撃や痛みという “いま ・ ここ” に引き戻されますが、でもまたすぐ忘れて突っ走りだすのが マインドというもの。




このマインドの特定自動反応パターンを作っているのが、意識の奥深くに埋め込まれたままの幼時の体験の記憶と、そこから生じた判断解釈だと思うのです。

犬を相手に怖い思いをしたら、どんな犬に出会っても からだがこわばり 逃げ腰になる。

最初に食べた柿が渋柿だったら、柿を見るたびなんだかいやな氣持ちになり 決して手を出さない。

空っぽのマインドは、そんなふうにして 古い記憶に私たちを縛り付けて制限を課します。




そんなマインドが “在る” に氣づくと、互いに映しあい 合わせ鏡になって、メビウスの輪状態でひとつになります。

空だったマインドの主の座に “在る” が収まり、自動反応に代わって “在る” を通し 無限の叡智が 必要に応じてマインドに流れ込み 言葉化されます。

あの 「ルームランニング」 で起こっていたのは こういうことだったと思うのです。

「透知」 とは 聞いたことも教わったこともないのに なぜか答がわかる力のことだそうですが、 “在る” に氣づいて一体化することで 宇宙のあらゆる情報につながれるとなれば、なんら不思議なことではないのですね。

“在る” は 「すべての顕現にも また永遠にも開かれる扉」 なのですから。(ムージ師動画 「絶対への扉 第一部」 より)

そしてこれは 特別な人だけというのではなく、“在る” を感じていれば 誰にでも開かれていることなのです。

あのムージ師の 「セルフ(真我 = “在る”) のままでいてください、それが賢者の極意です」 というのは まさにこういうことだったのかと感じ入る思いです。























あなた誰?

2018年03月02日 11時20分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に、「素朴な関係はつねに二元的だが、崇高な領域の関係は必ず三元的」 という話があります。

空間でいえば、素朴な世界なら 「ここ ・ あそこ」 ですが、崇高な領域なら 「ここ ・ あそこ ・ その間」 となるのだと。

「その間」 とは 時間でいう 「今」 と同じで 五感の物差しが通用しなくなる場とでもいうものかなと思うのですが、真我とマインドという二つばかり追いかけていた貴秋に 第三の要素が現れたのは、これまたマスター濱田浩朱氏のブログのおかげでした。

ブログテーマ 「身体が変わると現実が変わる」 という一連の記事に 「走ることで現実が変わる」 というお話があって、ひととおり読ませていただき 心を動かされたのですが、当ブログを以前からお読みくださっている方はご存知のとおり 貴秋は理数系と並んで 運動も苦手でキライ (T_T)

すごいことだけれど これは自分向きじゃなさそうだと決めつけてそれっきりになっていたのですが、去年の二月ごろ あまりに頭を使い過ぎて煮詰まり爆発しそうになったとき、本能的にからだを動かして発散しようとして ふとこの 「走ることで現実が変わる」 が脳裏をよぎり、そのまま走り出したのです。

走るといっても しかるべき装備で外へ出てというのではなく、室内のその場で まあ走るというより 片足ずつよたこらよたこら飛び跳ねているようなものでしたが、これが思いがけず定着したのは、あの感覚フォーカスの成果。




さまざまなフォーカスの過程で氣づいたのですが、貴秋の体内には 決まった痛みを抱えている箇所がいくつかあって、ずっと昔からのこととて当たり前になり過ぎて ことさら意識もしていませんでしたが、その内の一箇所が 氣道 (でいいのかな?) の内側下方の部分。

呼吸が荒くなると鈍痛が走るので 激しい運動も深呼吸さえも苦痛だったのですが、これにフォーカスしたら あっけなくすぅっと消えて、なんと以後二度と戻ってこなかったのです。

このことはすっかり忘れていましたが、他愛ない室内走りとはいえ 5分以上走り続けても いつもの痛みが起こらないと氣づいたときのうれしさといったら。

以来 この 「ルームランニング」 は習慣付き、脚の状態も心肺機能も向上していったのですが、あるとき 走っている最中に 姿勢やからだの動かし方などにあれこれ修正の指示を出しているものがあることに ふと氣がつきました。

「上体と腰の位置がずれている、もっと腹筋締めたほうがいい」 とか 「首を立てて視線上げて、あごは引き過ぎないで」 とか こまごまと注意が飛ぶ。。。というか 浮かぶのです。

運動オンチの貴秋のこと、正しいランニングフォームなど知るはずもなく 我流で適当だったはずで、その報いか 走っているとあちこちに痛みや不具合が生じるのですが、その感覚にフォーカスしていると ふと動きやバランスをどう変えればいいかが浮かんできます。

で そのとおりにすると 痛みや違和感が消え、しばらくたつと からだつきまでいくぶん変わってきました。

正しく使われていなかった部分が使われるようになったことで 筋肉の締まり具合や脂肪の燃焼具合などが変わり、体形に反映したようなのです。




これまでいくらダイエットや運動をがんばっても凹まなかったお腹や太ももまわりが締まってきたのは なんともうれしく励みになりましたが、それにしても不思議なのは、いったい誰がこれらの指示を出しているんだ、ということ。

繰り返しますが、貴秋はスポーツは大の苦手で 正規のトレーニングなど受けたこともなく、その方面の情報に関心を持ったこともありません。

なのに よたよたの自己流ルームランニングに 腕利きのコーチかトレーナーでもついたかのように、フォームから体形体調までが まったく無理のないペースで改善され、また 暮らしの中で一時的に続いた筋肉疲労や痛みについても 「これは過去の否定的思考が浄化されているんだな、2、3日休もう」 「痛みはまだ残っているけれど、走り出せば消えるから大丈夫」 などとアドバイスが下りて、実際そのとおりになるのです。

うれしいんですけど、とってもうれしいんですけど、でも あなたいったい誰?




その答えが あの立体メビウスの輪とつながることになるのです。