毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

楽しむために生まれてきた

2019年06月09日 13時04分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ネガにどっぷり浸かってもがいている最中には思いつきようもなかったことですが、いまになって 「やっぱりこの世界は楽しむためにあるんだなぁ」 としみじみ思います。

どんな負のシチュエーションも感情も、すべてはコントラスト効果で 本来の自分の素晴らしさを際立たせるためにあったのだと。

負のただ中では深刻な悩みの種でしかなかったものも、俯瞰で見ればただのネタ。

深刻に考え込んでばかりいた貴秋も、最近は “今の一番” を次々すくい取りながらけっこう軽やかに動き回れるようになりました。




そんないま思うのは、「自分を否定しながら人生を楽しむことはできない」 ということ。

怒りで煮えたぎっていたころの貴秋は、怒りを叩きつける相手のみならず 自分自身のことも思いっきり否定していたのです。

これに氣づいたときは 心底驚いたものですが。




怒りは、なにかがうまくいってない ・ 妨害されていると感じ かつそのまま屈するのもあきらめるのもいやだ! と反発するとき湧き起こるエネルギーな氣がします。

望みどおりにいかないことについて 承服できない、このままで終りたくないという強い意思の表れが怒りだと思うのです。

それは自分を大事に思うからこそ出てくるものと思っていたのですが、怒っているときの自分を観察すると、それにしてはわざわざ自分で自分を不幸にする行動が多い。

腹立ちまぎれに壁を蹴飛ばせば足が痛むし、物を壊せば持ち物を失い不自由する、身近な人とケンカすれば憂鬱な時間が続くし、SNSなどでうかつなことを口走れば炎上なんてことにもなりかねません。

ましてや怒りに任せて犯罪の領域に踏み込もうものなら、多くの人を巻き込んでえらいことになります。

はて、なんでわざわざ自分がソンするようなことを? とずっとたどっていったら、見境なく怒っているときの自分は 自身にもいいイメージをもっていないらしいことに氣がつきました。

なんで? とさらに踏み込むと、どうも自分を守れなかった自分に腹を立てているらしい。

怒りとは自他の区別を持たず 見境なく攻撃し破壊する性質のエネルギーらしいとわかってきました。




この怒りのエネルギーを 薄紙を剥ぐように根氣よく手放してゆくと、あるときふと 怒るよりも楽しむほうを選べる自分になっていることに氣がつきます。

自分を喜ばせよう楽しませようという氣持ちに抵抗を感じなくなります。

ここまできて初めて実感するのです、私たちは さんざんおのれの負に悩み苦しんだことも込みで、この世界を楽しむために生まれてきたんだと。

決して苦しみっぱなしで終わりではないし、できればなかったことにしたいとまで思いつめた日々が 実はかけがえのない貴重な時間だったこともわかります。

苦あってこその楽、コントラスト世界とはそういうものなんですね。














いいことありそな

2019年06月07日 14時16分35秒 | 自然



   
        


久々の写真、うれし~ \(^o^)/


このカメラは以前母のものだったコンデジで、母亡き後は父が使っていましたが、昨年スマホに買い換えた父がそちらのカメラを使うようになり お茶を引いていたのを借り受けました (^_-)-☆

ここ数日 梅雨入り前にとせっせと庭木の剪定をしていましたが、3日に高枝切りバサミで二階の屋根まで伸びたボウガシを切っていて ふと目に入ったのがこの光景。

ハサミを置くなり部屋に飛び込みカメラ掴んで駆け戻りましたよ。

太陽を直視するわけにはいかないので 見当だけつけて適当にバシャバシャシャッターを押し、後から見たらこんないい感じのがありました。

この日はちょうど新月でもあり、なんだかすごくいいことありそな氣分♪

遅ればせながら ご訪問下さった皆さまにもお福分けさせていただきますね。

ご覧になった方に いいことたくさん起こりますように













変わる意識、変わる世界

2019年06月06日 13時32分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「主体 = 意識」 という見方がいくらなじんだといっても、からだが受け取る実感が薄れたり変質したりするわけではありません。

五感が得る情報はこれまでと同じ、ただその解釈が変化するのです。

周囲の世界を享受しながら、ふとした折に 「ああこれ全部私の中にあるんだなぁ」 という思いが浮かんだりします。

人生という物語の登場人物の立場では 世界が自分を取り巻いて見えるけれど、作者の視点に立てば 目に映るものすべてが自分の意識から生まれ出た創作物、そんな二つの見方を行き来できるようになります。

自分の外にある世界はあまりにも大きくて頑丈で ちっぽけな自分がこんな強大なものを相手に何ができようかという感じですが、それが自分の中にすっぽり収まる ・ 手の内にあるイメージが湧くと、氣の持ちようひとつで世界はいくらでも変えられるんだと晴れ晴れした氣分になります。




当ブログを以前からお読みくださっている方はご存知でしょうが、この 「主体 = 意識」 の 「意識」 とは、個の顕在意識 ・ マインドのことではありません。

マインドを含む世界のすべてを眺めるともなしに眺めているもっと大きな意識、あの “在る” に示されるあたりを 貴秋はそう見ています。

“在る” へのフォーカスが増すほどに、こういう物事の捉え方の変化が自然と起きてきます。

ことさらそのように見ようと努力しなくても、向こうから勝手に起きてくるのです。




もうひとつ顕著に変わったのが、いい悪いと区別をつけたがる氣持ちがぐっと薄らいだこと。

もちろんマインドも健在ですから浮かぶことは浮かぶのですが、すぐに意味を持たなくなります。

何事であれ くっきりと線引きをして分け出さないと成立しないのがマインドの世界ですが、“在る” は言葉の及ばない領域ですから、そんな線引きも無効。

どんな景色であれ ただ映るものが映るがままに映し出されているのが “在る” であり、そこにはどんなふるい分けもジャッジも存在しません。

“在る” を通せば、どんな生き方も等しく 「その魂が意図し、生れ落ちた個人個人が選択行動して紡ぎ続ける物語」 であり、大切なのは ポジであろうとネガであろうと とにかくその物語を 「体験」 することです。

“在る” はゼロ地点であり、そこに意識を向けるのはクリアボタンを押すようなものなのかもしれません。

そんな “在る” が マインドにも影響を及ぼすのか、ついついクセで これはいい ・ これは悪いと区別をつけても、じきに 「そんなの無意味」 と思えてくるのです。

替わって出てくるのが、これがこの人の魂が望んだ体験であり この人の学びなんだなぁ、という見方。

そんなふうに距離を置いて客観的に眺めるとき、腹立たしさや痛ましさは消え、その出来事に影響されることもなくなります。

それが私たちみんなに関わることなら、いたずらに感情に煽られることなく どうしたらもっとよくできるかというほうに すっと意識が向きます。

これも自然に起きてきた変化ですが、まわりの出来事にいちいち動揺せずにいられるのは エネルギーを消耗しなくて済んで楽です。




五感の視点しかないときは、世界は強大すぎて歯が立たず、望まないこと不快なことが起きてもどうすることもできないという無力感に成すすべなしの氣分でしたが、ここに五感を超えた視点が加わると 視界が大きく開けます。

どんな悲惨も理不尽も 決して無意味に苦しめられているわけではなく、一度体験すれば十分なのであって、きちんと受け止めればそれで終わりにできます。

そして負をひとつクリアするごとに、私たちは新たな智恵や力や自信を身につけ成長します。

これこそ魂が望んでわざわざこの不自由な世界にやってきた醍醐味なんだろうなと思うのです。