毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

映画 「ハンガー ・ ゲーム」 その1 ~ ゲームを下りたヒロイン

2019年02月23日 16時45分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「ハンガー ・ ゲーム」 という映画を見ました。

公開時からなんとなく氣になっていた全4作のシリーズもので、GyaO!で一挙配信されていたのですが、これがいろいろと感じるものがありまして。

とても一記事には収まりそうにないので、しばらく折に触れて語ることになりそうです。

では、今回も 「ネタバレ注意」 ということで。 以下映画の結末まで書いております、ご注意下さい。













*       *       *       *       *














首都キャピトルと隷属する12の地区で構成されるパネムという国は、過去の12地区の反乱を機に みせしめとして年に一度12~18歳の男女一名ずつを各地区から選出し 最後の一人になるまで殺し合わせる 「ハンガー ・ ゲーム」 を開催しています。

得意の弓矢の狩猟で母や幼い妹との暮らしを支える第12地区の少女カットニスは、出場者に選ばれてしまった妹の身代わりに第74回ハンガー ・ ゲームに志願し、男子出場者のピータと共に首都でのゲームに臨みます。

第1作は二人がゲームの勝者となるまでを、第2作は大会出場をきっかけに反乱の象徴とみなされるようになったカットニスが 脅威を覚えたパネム大統領スノーに75回記念大会に再び強制参加させられ やがて反乱軍に救出されるまでを、そして第3作 ・ 第4作は 反乱軍に加わったカットニスのその後を描いています。




「ハンガー ・ ゲーム」 は第1作公開当初から 邦画 「バトル ・ ロワイアル」 とさかんに比較されていましたが、貴秋が連想したのは アーノルド ・ シュワルツェネッガー主演の 「バトルランナー」 。

死のバトルゲーム、人氣司会者によるテレビ中継と熱狂する観衆、抵抗勢力との合流など ダブるシーンが多かったからですが、決定的に違っていたのは結末。

「バトルランナー」 は主人公とレジスタンスたちがゲームの裏に潜む真相を暴露し、プロデューサー兼司会者のキリアンが制裁を受けてめでたしめでたしでおしまいですが、「ハンガー ・ ゲーム」 では反乱軍は勝利するものの そこでは終りません。

過去に政府の攻撃で滅びたはずの第13地区は実は地下で生き残っており、ここをを拠点とする反乱軍が第3作から登場しますが、地下でひそかに力を蓄えていた反乱軍の女性リーダー ・ コイン首相は 最終的に新政府のトップの座を狙っており、地位を脅かす者を警戒し 場合によっては非情な手段で葬ろうとする点は、敵方のスノーと変わりません。

革命を成し遂げると、暫定大統領に就任したコイン首相は あろうことか陥落した首都キャピトルの子どもたちによるハンガー ・ ゲームの開催を提案します。

反乱の最終局面 政府軍とみせかけた反乱軍の非道な攻撃により けんめいに守ってきたはずの妹を失ったカットニスは、スノーの処刑執行人をかってでて いざという瞬間標的を変え コインの胸を矢で射抜き、スノーは群衆の手にかかり最期を遂げます。

妹の死による精神錯乱とみなされたのか それまでの功績を考慮されてか カットニスは罪を免れて故郷に帰り、同じく戻ってきたピータと結ばれます。




この結末に思わず 「ミイラ取りがミイラになる」 ということわざが浮かんだのですが、そもそもミイラ取りというのは ミイラに関心が向く時点ですでにミイラに同調する下地があるのですね。

コインは自身も家族を亡くすなどいろいろあったようですが、大統領の地位への執着ぶりや 目的のためには手段を選ばないところなど、もとからスノーと同類であったように思えます。

革命戦はこの波長を同じくする二人の共同創造とも見え、そのままいけば 首相の顔ぶれ以外なにも変わらない恐怖政治のままだったろうと容易に想像できます。




そんな流れを断ち切ったカットニスが そのまま祀り上げられることなく故郷に戻って穏やかに暮らしたというのは、なんとなくほっとさせられます。

4作に渡った物語は 二児に恵まれたカットニスとピータが 草地で家族そろって憩いの時を過ごす場面で幕を下ろしますが、おしまいにカットニスが泣き声を上げた赤ちゃんをなだめていうセリフ。


     “怖い夢のやり過ごし方はね、頭の中で挙げてくの、出会った人たちのやさしさを、1つ1つ思い出して ゲームみたいに何度も繰り返すの”


新政府のその後はわかりませんが、カットニスは 戦いでなく愛にフォーカスすることで、今度こそほんとうに 望まぬまま駆り立てられたハンガー ・ ゲームから下りたように見えます。

背景の美しさと相まって、じんわり心に残るシーンです。















住み分ける

2019年02月23日 11時12分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
   

先日 父が録り溜めた古い番組の中から、二年近く前に放映された 「歴史秘話ヒストリア ・ 戦国一華麗な敗者復活戦 ~ 今川プリンスと妻の二人三脚 ~ 」 を見ました。

今川氏真がどんな方やらまったく知らなかったのですが、このお話は面白かったです。

何が面白いって、この時代における氏真さんの一種独特な意識のありようと それがもたらした結果のすごさ。

この方 血で血を洗う群雄割拠の戦国時代に武家の当主の地位にありながら、他の猛々しい戦国大名とはいささか異なるメンタリティの持ち主だったようです。




番組によれば、氏真は名門今川家のプリンスとして京の公家たちに囲まれて育ち、幼い頃より彼らから和歌や蹴鞠など京の洗練された文化を学んだそうです。

そのあたりが、武士の心得を叩き込まれて育った他の武将たちと異なる意識を形成させたのかもしれません。

桶狭間の戦いで父の今川義元が討ち死にし 敵将徳川家康に掛川城の明け渡しを迫られたとき、ふつうなら 「かくなる上はいさぎよく自刃」 となりそうなところ、氏真は奥方早川殿の実家 ・ 北条氏康のところに身を寄せ、氏康没後は宿敵のはずの徳川家康や織田信長を頼って家臣となり生き延びます。

さらにその後家康のもとで せっかく得た牧野城主の座を解任されてしまったときも、メンツだの何だのにこだわって悶々とせず、わずかな扶持を与えられながら 京で公家たちと交流し和歌にのめり込むのです。

名誉体面を何より重んじ 恥辱に耐えるより死を選ぶという当時の一般的な武将の思考回路だったら、まずはできない選択です。

しかもその後、家康に平定され 武力中心から文化の時代へと移り変わった徳川の世に、氏真から子々孫々受け継がれた先祖伝来の宮中の作法やしきたりのノウハウ ・ 長年培った公家社会の人脈が重宝がられ、氏真の一族は代々取り立てられて 明治維新後まで立派に生き残るのです。




まあテレビ番組ですから 多少の誇張や脚色はあるでしょうが、それを差し引いても興味深かったのは、一般の武将と異なる意識を植え付けられて育った氏真が、同じ時代にありながら 他の武将たちとは違う世界を生きたように見えるところ。

戦いに明け暮れる猛者たちを尻目に 憧れの京の都を二ヶ月も和歌を詠みつつ名所巡りとか、この方はいつもどこか血なまぐさい戦国の世とは別の世界に身を置いていたように思えてなりません。

武士のプライドにがんじがらめにされた意識の持ち主だったら当然戦いや駆け引きに目がいくところ、風流を愛する氏真の心は 戦乱のさなかも美しいもの雅なものに絶えず焦点を結び続けていたのではないでしょうか。

同じ場に身を置いても、意識のありよう如何でフォーカスするものも脳裏に映し出される景色も異なり、住む世界も進む道も違ってくる。。。。そんなことをこの番組は見せてくれたように思います。




愛読ブログ 「世にも奇妙なフツーの話」 に、「住み分け」 という言葉がたびたび出てきます。(参考記事:「分離 ・ 二極化が大きくなってきます」 「目の前から忽然と消えた?」

同じ時代同じ場所で暮らしていても 意識の違いが波動の違いとなり、波長の異なる者どうしは住む世界が違ってきて 互いに干渉し合うこともなくなる。。。。ということ。

そして 前の記事のおしまいに書いた 「戦うのではなく 戦いから下りる」 というのは、この住み分けのことを指します。

氏真さんは 荒ぶる世に同調せず内なる雅を守ることで 他者と少しずれた領域に身を置き、名だたる武将が次々滅びてゆく中 確かな地位を後々まで守り通すことができた。

私たちも 憎んだり恨んだりという負の意識を抜け出て 本来の自分を取り戻すことで、騒然とした世情に囚われることなく 戦いを選ぶ人とは違う 喜びに満ちた世界を生きることができるのです。
















思い込みを解いて初めて下りられる

2019年02月22日 11時23分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


この世界で私たちは多くの物に恵まれていますが、それらは人間がゼロから生み出したのではなく 自然の恵みをもとに作られたもの、そして自然の恵みはすべての人 ・ すべての生物に平等に与えられているはずです。

その平等であるはずのところに偏りを生じさせているのが、現行のお金のシステム。

そしてこのシステムを作ったのは、当時すでに力づくで同胞を支配していた権力者です。

とはいえ 権力者の数は大衆と比べればほんの一握り、なのになぜこういう偏りを生むシステムが正されないままなのかといえば、私たちのほとんどが氣づかぬまま絡め取られている強力な刷り込みがあるからです。




私たちが生まれたとき お金のシステムはすでに存在していて、私たちは自然環境と同じように そのシステム内の環境を当たり前と思い込んできました。

なので、自然の力をどうにもできないように お金のシステムもどうにもできないという思い込みが意識の奥深くに根付いています。

が、天が創ったものは変えられないけれど、人が作ったものは変えられます。

事実それに氣づいて権力者に戦いを挑んだ人も おおぜいいました。

が 公平で平和な世界の実現に成功したためしがないのは、刷り込みを残したままの行動だったから。

戦いを選択する時点で事のおかしさに氣づいているように見えますが、実は肝心の刷り込みはまだ解けていないのです。




戦いの原動力は 自分が不当に扱われているという怒りであり、怒りが湧くのは 不当な扱いをする側とされる側とに分かれることは認めた上で 自分が弱者の側に置かれていることが腹立たしいからです。

つまり、富める者と貧しい者が存在すること自体は 知らず知らず受け入れているのです。

このことを見逃したままだと、自分では不公平をなくすつもりが 実際には怒りや悔しさをバネに立場を逆転させようとしているだけだと氣づかずに 事を起こしてしまいます。

歴史を見ても、革命に成功したことは何度もありましたが、そこから誰もが等しく豊かで幸せな世界が生まれたことが 一度でもあったでしょうか?

権力者を倒した者が新しい権力者になる、これはもう二極世界の法則そのままです。

戦いを選ぶ限り、こんなシーソーゲームがどこまでも続くのです。

誰が強者の側にまわろうと、貧富の差がある世界はそのままです。




お金のシステムを見直したければ、それを (肯定的にであれ否定的にであれ) 認めてきた私たち自身の意識をまず見直すこと。

お金にまつわる負の感情の中に、お金というものを自身の世界に生み出すもととなった意識が潜んでいます。

その負の感情を まっすぐ受け止め感じることです。

そうして顕在意識に移された思い込みには、創造する力はもうありません。

創造は真我の仕事で、マインドの仕事ではないのですから。





そうやって負の感情を手放してゆくと、入れ替わるように 怒りや悔しさに囚われずおかしいものをおかしいとまっすぐに見てとる意識が 次第に表に出てきます。

こうなって初めて 「戦うのではなく おかしな世界そのものから下りる」 という選択ができるようになります。
















好循環

2019年02月21日 23時49分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これまで何百回何千回と繰り返してきた感覚フォーカスの成果か、このところ受け取ったこちらが驚くような氣づきが増えています。

最近もっともインパクトがあったのは、台所仕事の最中不意にひらめいた 「スポーツにやたらと国別対抗が多いのは、ひとつには 『国と国』 という線引きを強調して印象づけるため」 というもの。

さらには 「国対国」 の構図に疑問を持たなくなった私たちの意識が 世界に蔓延する諸問題の解決を阻む一因になっているというところまで、一氣に思い至ったのです。




難民問題であれ 環境破壊であれ さまざまな虐待やハラスメントであれ、毎日のようにメディアを賑わす問題を根本までまでたどると、そのほとんどが 「富の格差」 に行き着きます。

お金がなければ人としての尊厳はおろか命すら危うくなる、そんな条件の下で拡大する一方の貧富の差は 何より真っ先に手をつけるべき問題であるはず。

そしてそのとき着目すべき線引きは 当然 「持つ者と持たざる者」 ですが、貴秋が今回氣づいたのは、「国と国」 という馴染み深い線引きが 一見無害なスポーツという分野を通じて私たちの内にことさら浸透することで、この 「持つ者と持たざる者」 という線引きから目をそらす役目を果たしているということでした。




五感の世界の私たちは、「自分と自分でないもの」 から始まる種々さまざまな線引きなしには生きていけませんが、線引きの基準に思い込みが影響することはままあります。

無作為に集めた人々を二つのグループに分ける場合、その線引きは 帽子をかぶっている人とかぶっていない人でも 赤いものを身につけている人といない人でも ネコが好きな人と嫌いな人でも 宇宙人の存在を信じる人と信じない人でも 無数に思いつけるはず。

でも 過去の情報をもとに思考を組み立てるマインドは、年齢や性別のように日頃から使い慣れている線引きを ついつい選んでしまいがちです。

そんなおなじみの線引きのひとつが この 「国と国」 であり、さらにそれを自然なことと思わせるのに一役かっているのが 私たちの暮らしと切っても切り離せないスポーツの世界である。。。。というのが 今回の氣づきです。

もちろんそれはスポーツのある一面でしかないし そんなことになったのがスポーツのせいだというわけでもなく、スポーツ自体を非難したり貶めたりする氣持ちは毛頭ありませんが、ただ それと氣づかぬうちに影響されやすいという意味で、この万人に愛されるスポーツというものを通じて知らず知らず入り込んでくる刷り込みには とりわけ注意を払う必要があると感じます。

その上で、いま世界中に広まっている 「他国の人間がわが国の豊かさを脅かす」 という対立意識にしっかり目を向けていようと思います。




私たちは、なじみ過ぎて当たり前になっていることには そもそも疑問を持とうという考えすら浮かびません。

そんな氣づきようのない思い込みでも 見つけて手放すことが可能だという話を、前々回の記事 に書きました。

そうしてどんどんほんとうでない情報が減ってゆくと、今度はいのちに結びついた本物の情報が 向こうからやってくるようです。

いのち本来の好循環の始まりです。
















もっとも確かな指針

2019年02月20日 08時53分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


否定的な出来事を通じて否定的な思い込みの手放しが進むと、今度はさまざまな氣づきが向こうから起きてきます。

「起こることすべてにいいも悪いもない、あらゆる意見 ・ あらゆる選択が等価値だ」 という見方もそのひとつ。




何かにつけて 「いい ・ 悪い」 とふるい分けたがるのはマインドのクセで、俯瞰の視点から見れば 「起きることがただ起きているだけ」 。

あるものがあるがままに映るだけで、言葉による判断解釈はついてきません。

肯定的だろうが否定的だろうが すべては起こるべくして起こっているのであり、それが起きたことに意味があるのです。

「してよかった」 であれ 「しなければよかった」 であれ、体験から得たメッセージであることに変わりはない。

メッセージを知恵に変え 五感の世界にフィードバックすれば、人生をより望ましく創り変える力となります。




「この世のすべては等価値」 と見るニュートラルな視点に立って初めて、負の感情に囚われない自由な選択が可能になります。

いいものを選びたい欲や 悪いものを選んだらどうしようという不安から離れて、つねに一番いいものを選べるようになるのです。

選んだものが望みどおりでないと氣づいたら、選び直せばいい。

「すべてが等価値」 の意識の下では、自責の念や挫折感抜きで 何度でもやり直しがききます。




外に答を求めるようクセ付けられてきた私たちは 自らの意思で答を選び取ることに怖れを感じがちですが、想定を超える事態が次々起こるであろうこれからは 自分の選択や決定に自信を持つことがぜひとも必要です。

いったん内なる答えに信頼を置けば、これほど頼もしい味方はありません。

迷うことも置いていかれることもない、もっとも確かな指針です。


















氣づけばこっちのもの

2019年02月19日 12時19分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


どの本だったか思い出せないのですが、最近図書館で借りた本に 「潜在意識に潜む思い込みは容易に氣づけないが、氣づいたときにはすでに顕在意識に移っている」 というような一文を見つけました。

そう、この潜伏する思い込みに私たちはさんざん振り回されているわけですが、顕在意識に移してしまえばこっちのもの、もう不意をつかれる心配はないんですね。




そもそも潜在意識に入り込み固着した思い込みは、目の届かない心の奥深くにひっそり隠れて 「氣づいていないことにも氣づけない」 ぐらい見つけにくいもの。

それを見つけさせてくれるのが、私たちが日ごろ悩みのたねにしているネガティブな出来事です。

ありがたくない出来事は 私たちの意識にひそかに刻まれた否定的な思い込みの反映であり具象化、「あなたの中にこんなものがあるけど このままにしておいていいの?」 というお知らせでもあるんですね。

私たちが意図しない出来事に不意打ちを喰らうのは この 「意識と出来事の関係」 に氣づいていないからであり、氣づけば知覚できない思い込みを手放すことも可能になるわけです。

同時に 「この世界は恐ろしいところ、いつどこで何に足をすくわれるかわからない」 という恐怖心や 「自分を守り助ける力もない私」 という低いセルフイメージからも解放されます。




潜在意識なんていう手探りすらできないブラックボックスにもぐり込んでしまったネガ思考をどうすればいいのかとずいぶん悩みましたが、日ごろ目の敵にしていたうれしくない出来事の数々が実は味方であり、「あなたのネガはここから解除できるよー」 と躍起になって合図してくれていたとは。

知覚できるものを手がかりに知覚できない部分を解放するなんて、なんだかゴルゴンのメデューサの姿を盾に映しながらその首をはねて退治した ギリシャ神話の英雄ペルセウスになった氣分です。
















お楽しみの始まり

2019年02月17日 16時17分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


以前の記事とかぶりますが、内的探究の妨げになるマインドのクセについて もう一度書いておきます。




私たちがこの五感の世界を生きる上で、マインドは大切な役割を担っています。

私たちが考え 話し 行動することで さまざまな体験を味わえるのも、すべてマインドの働きのおかげ。

が、根源的な探究の場では これが裏目に出ることが多いのです。




私たち人間は、つねにもっとよくなろうよくしようという意思を持つ生き物です。

が その 「いい」 は、五感の世界と五感を超えた世界では 指し示すものが違います。

五感の世界での 「いい」 は、いい ・ 悪い という対立する二極の一方を表します。

五感を超えた世界では そもそも 「いい」 という言葉さえないのですが、真我と一体化したマインドの 「いい」 については、本来の自分のありように基づく選択という意味で “今の一番” という表現を使いましょう。




“今の一番” の 「いい」 は、数ある選択肢の中からつねに一番いいものを選ぶだけ。

遊園地でジェットコースターに乗るかメリーゴーランドに乗るか、アイスクリームをバニラにするかストロベリーにするか、というように不快感とは結びつかない楽しい選択です。

“今の一番” の連続で生きるには、自分の心をまっすぐ見つめ ほんとうの望みをわかっておくこと。

「自分はいつでも一番いいものを選べる、一番いいものに値する」 と思えることは、セルフイメージを高め ますます好ましい選択を可能にしてくれます。




一方 いい ・ 悪いの 「いい」 は 「悪い」 との対比から生まれるので、「○○でなく△△」 というように 否定から始まります。

「蒔いた種が実る」 が摂理のこの世では、否定から生まれたものが肯定で終ることはまずありません。

理想の恋人と結ばれようが 億万長者になろうが つねにそれらを失う恐れにつきまとわれることになり、しかもその恐れはしばしば実現します。

恐れる意識がそのとおりの現実を創るからです。

マインドの働きは、「いい」 を望みながら 意図に反して 「悪い」 も同時に引き寄せてしまうのです。




さらにマインドは、行動することで望みを実現しようとします。

五感の世界でつねによりよい選択をしようとする私たちに重要なのは、行動とその結果。

なにを 「する」 かで 得るものが決まります。

だからマインドはつねに なにをすればいい結果が出るか ・ 自身の利益になるかを考え、最善の選択をしようとします。




が、内的世界は 行動ではなく 「在りよう」 で決まる世界です。

絶えずなにかを 「しよう」 と身構えるマインドは、内的探究ではしばしば混乱を引き起こします。

探究者にもたらされる 「前向きでいましょう」 「感謝の念が大切」 「ワクワクの氣分でいることです」 などのアドバイスをマインドが受け取ると、そういう状態になるためになにをすればいいかと考え行動し、そういう状態を作ろうとします。

が、前向きな意識や感謝の念やワクワクは 「する」 ことではなく 「起きてくる」 こと。

行動ではなく 在りようなのです。

在りようを意図的に作り出そうとしても不自然でしかないし、その裏にはいつでもうまくいかない可能性がついてまわります。




私たちは もともと前向きで 愛と感謝に溢れ ワクワクに満ちているものなのです。

ただ 本来の自分の素晴らしさを体験したいがために、敢えて真の自分を忘れ 否定的な要素を持ち込んでいるだけ。

どんな辛い感情もネガティブな状況も、逃げずに向き合えば やがては薄らいで存在感をなくし、その向こうから前向きな思いや感謝の念やワクワク氣分が自然と湧いてきます。




マインドのクセを知り 囚われないようにすることで、複数の視点を自在に行き来することができるようになります。

仕掛けられた “偽物” は役目を終えて立ち去り ほんとうの自分がだんだん表に出てくる、ここからが お楽しみの始まりです。




















負の共同創造から降りるには

2019年02月15日 10時29分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


過去記事 「 『戦いに勝てば平和が訪れる』 という幻想」 で 「否定的な共同創造」 という言葉を使いましたが、肯定的であれ否定的であれ 相手のある行動はすべて共同創造だと思っています。

口ゲンカだろうが戦争だろうが、双方の思惑がぴったりかみ合って成立するという意味では共同創造なのです。

そこから降りたければ、かみ合っている意識を変えるしかありません。




この意識を変える際に 大きな障害となるのが、(戦いをやめるのでなく) 戦って勝ちたいという執着。

貴秋が古いわだかまりを手放そうというとき 激しく抵抗したのがこれでした。

怒りを長いこと押し込めていると、「いまに見ていろ」 という仕返しの欲求もどんどん強くなってしまうんですね。

戦いたい氣持ちにマインドでブレーキをかけると、喉元からみぞおちのあたりに 二つの流れがぶつかったときのように逆巻き乱れる感覚が生じます。

これが暴れまわって心を落ち着かせてくれないのです。

すごくいやな氣分なので、一刻も早く逃れたくなります。

その衝動に押されて、八つ当たりでも逆ギレでもなんでも とにかく外にはけ口を見つけて戦いに飛び出してしまうんですね。




そしてこの衝動をさらに助長するのが、いまや至るところで見受けられる 「戦って勝つ」 物語だと感じます。

幼児の絵本からアニメ、テレビドラマ、映画に至るまで、「正義が勝利を収め、それからはみんな平和に暮らしましたとさ」 の筋書きのなんと多いことか。

悪い鬼が退治される場面に、悪の結社が叩き潰される場面に、冷酷非道な犯罪者が逮捕される場面に、悪代官が切り捨てられる場面に、私たちはどれほどのカタルシスを得てきたことでしょう。

そしてそのカタルシスは 私たちの内に鬱積したままの負の感情のはけ口でもあるのです。

そうやって疑似体験する中で 戦って勝ちたい欲求はどんどん膨らむ一方、フィクションと違ってそうそうきれいな決着を見ることのない自身の現実に ますます不満が募ります。

本のようにテレビのように “悪” を氣持ちよく一刀両断できたらどんなにいいだろうという思いがどんどん強化され、それが膨れ上がった欲求を叩きつけやすい相手に向けられる。

中でももっともその対象となりやすいのが 弱者です。

このところの難民問題 ・ 無差別殺人 ・ 家庭内や施設での虐待 ・ 煽り運転事故 ・ さまざまなハラスメントなど 弱い者に向けられる度を越した暴力や呵責や放言は、こんなからくりから道がついて 起こるべくして起こったことなのではないでしょうか。

貴秋にはそんなふうに見えます。




どんな人でも、幸せで満ち足りているとき わざわざ誰かをいじめたり何かを壊したりなんてしないでしょう。

暴力的なことを引き起こす人は、まずその人自身がいまの境遇を辛い苦しいと感じているのです。

五感の世界視点 (物語の内視点) しかないときは 外に向けて吐き出すしかなかったそんな負の衝動も、五感を超えた視点 (俯瞰の視点) が加われば それまでと違う扱いが可能になります。

マインドの自動反応で 他者に向かって爆発させていたものを、自身の内で溶かし手放すという第二の選択肢が現れます。

あとはどちらを選ぶかで、その人の世界のありようが決まります。


















複数の視点を持つ意味

2019年02月12日 11時26分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


以前にも書いたことですが、複数の視点を持つことが これからは特に大切だと感じます。

一見不動の大岩も ミクロの視点を通せば 絶えず動き回る素粒子の集合体、どちらも事実だけれど、この二つを同一視点上に並べると 矛盾となってしまいます。

視点がひとつだけだと 訳がわからず混乱をきたすことがままあるのです。

逆に言えば、八方塞がりで出口が見出せないことも、五感を超えた視点を併せ持てばブレイクスルーのチャンスが生まれるということ。

迷路で袋小路に突き当たっても、上空から俯瞰で見れば一目瞭然 どう進み直せばいいかがわかります。




貴秋はよく 「行ってかえる (返る ・ 帰る ・ 還る) 」 と表現しますが、「行き」 は 本来の自分にはない否定的な要素を刷り込まれ 体験し 強化していく道、「かえり」 は 「行き」 で身につけたものをひとつずつ手放して本来の自分に戻ってゆく道。

今は世の中全体が 「かえり」 の途上にあるので、過去に得た知識や情報が通用しなかったり不十分だったりということが往々にしてあり、「想定外」 などという言葉がよく聞かれます。

「行き」 は五感の世界の視点だけで済むけれど、習い覚えたことをひとつひとつ見直し 不用になったものを手放してゆく 「かえり」 の道には 五感を超えた世界の視点がぜひとも必要です。




五感を超えた視点とは、人の形を取る以前の意識体 ・ 魂としての見方のこと。

なんでこんな目に・・・と恨みたくなるような出来事も、本来の自分が望んでのことと思えば 対応が変わります。

あの 「#Me Too」 も、これからの私たちは理不尽な扱いは認めない許さないという意思表示として掲げておき、そこから先は ひとりひとりが自身の体験としっかり向き合うようにすれば、あれほどの混乱は起きなかったのではないかと思います。

意味なく起こることなどひとつもないのですから。

苦痛を受け止め、自分は無意味に苦しめられたわけではない、体験の意味を読み解き 込められたメッセージを受け取ることができたんだと思えたとき、痛みは祝福に、怒りは自信に変わります。




私たちは長いこと 自身の外に答を求めるよう条件付けられてきましたが、確かな答など誰も持っていない今 どれほど外を探し回っても心細さが増すだけ。

もっとも確かな答は 常に自分の中にあります。

マインドが山ほどの言葉で作り出した意識の曇りを取り除けば、その向こうにおのずと答が見えてきます。




これまで 「道は人の数だけある、花畑を通ろうが森を抜けようが崖をよじ登ろうが 頂上に着くことにかわりはない」 などとたびたび書いてきましたが、運動オンチの貴秋、実はひそかに 「わざわざ崖登りなんてシンドイことをしたがる物好きがどれほどいる?」 と疑問に思っていました。

が 昨今のスポーツクライミングブームなどを見るに、とんだ思い違いだったようですね (^^ゞ

時速100キロ以上で飛んでくる硬球を太さ6cmほどの棒で打ち返すとか ボールを手を使わずあやつって狭いゴールに蹴り込むとか 盤上の駒の動きにさまざまな制限を設けた上で取り合いをするとか、人はわざわざ制約を課した難題をクリアすることが楽しくてならない生き物のようです。

そのおおもとである魂とて同じこと、日常に浮かび上がるどんな問題も 解き明かす快を求めてわざわざ用意したのだと思えば 向き合う勇氣が湧きます。

逃げるのをやめ 進んで向き合えば 解決できないことなどない、この信念が裏切られたことは ただの一度もありません。




環境汚染、難民問題、富の偏在にさまざまな不正、行き過ぎかねない科学の発展、果てしないほどの難題の山を 私たちの意識はこの先どのようにクリアしてゆくのでしょうか。

その行く末は、私たちひとりひとりの自身へのチャレンジにかかっています。



















「戦いに勝てば平和が訪れる」 という幻想

2019年02月10日 16時17分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


5日21時BSプレミアムで 「アナザーストーリーズ▽#MeToo 世界に響いた叫び~セクハラ告発連鎖の行方」 を観ました。

「#MeToo」 の広がりについては 以前愛読ブログ 「世にも奇妙なフツーの話」 の 「意図的に起こされているブームに乗らないでください」 で読んでいたので、その後の動きが氣になっていました。

さらに後から調べてみたら、番組で取り上げていた以上にさまざまなことが起こっているらしい (参考: ウィキペディア 「Me Too」 )




こうした情報を踏まえて貴秋なりに見えるものをお話しすれば、被害者側が声を上げずにいられない氣持ちはよくわかりますが、このコントラスト世界で自身の怒りや痛みを相手に投げ返す形を取ると、それは “否定的な共同創造” になってしまいます。

戦いとは戦う相手があって初めて成立するものですから。

そしてこの共同創造のこわいところは、被害者と加害者の立場が入れ替わりながら 決定的な解決を見ることなく延々と続いていくこと。

ウィキペディアの記事 (信憑性がどれほどのものかはわかりませんが) の 「推進者の加害行為の発覚」 という項目で その具体例を見ることができます。




「#MeToo」 拡大の原動力は、長いあいだ封じ込めて膨れ上がった被害者側の怒りです。

耐えて耐えてもうこれ以上は。。。という臨界点に達した感情は、きっかけひとつで向きを変えて対極へと向かいます。

陰極まれば陽となり 陽極まれば陰となる、コントラスト世界のエネルギーはそのように動くものなのです。

そして抑圧された怒りは、怒り本来の役割を超えて 歪んだ形で噴き出します。

長いこと受け止められてこなかった未消化の怒りが時ところを得てああいう形で爆発したのが 「#MeToo」 の本質なのではないでしょうか。

「抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。非常に不自然な感情だ。人びとは怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ」 と 「神との対話」 にもありますが、その破壊的エネルギーを外に向けて叩きつければ、事態の収束どころか 連鎖的拡大は避けられません。




ブログで何度も書いていますが、貴秋はその昔 他者と争う不快さをなくしたいと思う一方で、争いごとから下りるのではなく 争いに勝つことでその不快さを消し去ろうとしている自分に氣づいたことがありました。

戦って心を擦り減らすのはもうたくさんと平和を望みながら、戦いをやめる氣はない。。。。これは矛盾しています。

「戦いに勝てば平和が訪れる」 これは大いなる幻想です。

戦いは二極世界の産物であり、身を投じれば 勝ち ・ 負け という二極間をどこまでも往復し続けることになるのです。

安らぎを取り戻したいなら、戦いから下りるしかありません。




いやな目に遭わされて怒りを感じたら、まずはその時点での自分の望みがどこにあるかをきちんと確かめておくことが大事です。

「戦って勝ちたい」 のなら、その延長線上に平和があるわけではないと承知の上で 氣が済むまで続けてください。

「尊厳と安らぎを取り戻したい」 なら、外 (他者) に向いていた視線を内に向け直してください。

安らぎをかき乱すものは 自身の内にあるのです。

五感を超えた視点から見れば ハラスメントで受けた怒りも痛みも悔しさも 本来の自分にはあり得ない要素を体験してみたいがためのこと、受け止め味わえば手放すことができます。




私たちは、「体験」 するために この世界に生まれてきています。

得た結果が望むものでないなら、何度でも選び直しやり直すことができます。

そのためにも 「戦いに勝って平和を得る」 という幻想からはそろそろ目覚めるときでしょう。

これまでの歴史を通して それが誤解であることはもう十分学んでいるはずですから。







※「アナザーストーリーズ▽#MeToo 世界に響いた叫び~セクハラ告発連鎖の行方」 をご覧になりたい方は、明日11日午後11時45分BSプレミアムで再放送があるようです。