毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

大掃除

2014年12月24日 10時42分40秒 | 紡ぐ暮らし


きのうもきょうも お日さまが顔を出すと じわじわ氣温が上がって暖かく、ぽかぽか陽氣のいいお天氣

年末大掃除にはもってこい (≧▽≦)




「氣が乗らないのに 頭で立てた計画通りにむりやり動く」 というのを 極力やめるようにして以来、掃除も その氣になったときにするというスタイルが すっかり定着しましたが、今年の大掃除は、時間がたっぷりありながら なぜか日常の小掃除以外はまるで意欲が湧かず、この調子で 実家に行く前に終えられるのかな?といささか氣がかりでした。

それが、きのうの朝からガゼンやる氣が出てきちゃって

もしかしたら、冬至(しかも19年に一度の朔旦冬至)の影響かな?

まあ、家事が楽しくやれるなら なんでもいいです \(^o^)/




さぁて、コーヒーブレイク終わり☆

がんがんいくぞ~




あ そうそう、久々に見返した 「インセプション」、「自分の心と向き合い ほんとうの望みと偽りの望みを見分けられるようになったコブが、真の望みを実現させた物語」 という新たな視点を見つけました。

いろいろと面白いことです(^^)v



















またまたちょこっと 「インセプション」

2014年12月22日 11時11分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日煮つめたリンゴジャム、もともと甘露煮だったのをさらに濃縮させたので、甘味も酸味もかなり強力。

私の好みでは、こういうジャムは ミルクティーやカフェオレなどのミルク系のドリンクといっしょにいただくと、ジャムの主張がミルクでまろやかに包み込まれて とても相性がいい氣がします♪

パンに塗ってたっぷり食べ、残ったジャムで蒸しパンを作りました♪

蒸し器はもちろんストーブの上(笑)

そんなおやつをいただきながら、きょうもブログ、いってみよ~ (≧▽≦)/ 





最近の記事にも 「インセプション」 という単語をちらっと挟んでしまったりする貴秋ですが、そういえばちょうど去年の今頃だったんだよね、映画 「インセプション」を繰り返し見ては、いろいろな氣づきをもらっていたのは。

本来架空の物語である クリストファー・ノーラン監督のこの話題作、私の中では さまざまに符合するものがあって、内面的に不思議なリアルを感じて とても身近に思えるのです。




実は、今回の白浜でも 助けられてるんだよね、「インセプション」 に




二度目の白浜滞在が、「他者という鏡に映し出される己が姿を省みて 過去の縛りから解き放つ」 (大仰な表現・笑)作業のために用意されたことは、割と早くからおぼろげに察していました。

そもそも 今回の勤務先が 一度目と同じ旅館になったのは、こちらが望んでのことではなく、たまたま仕事先の紹介を頼んだ派遣会社から 「前回と同じところ、どうですか?」 と話が来て、こちらも 万事一から覚えなくて済むのは楽だしなぁ、ぐらいの考えで承諾しただけのこと。

が 実際行ってみて、内なる探求において この同じ職場というところが けっこう大きなポイントだったことがわかりました(^^)v

一度目の契約終了から約4ヶ月の間に、数名の派遣社員を除き 旅館直属の社員さん・パートさんの顔ぶれは、新しい人がひとり入ったのを除けば、前回とまったく同じ。

初対面のインパクトが薄く お馴染み感が強い分、「他者」 ではなく 「自己の鏡像」 として見やすかったんです。




しかしそこは やはり長年の習慣の根強さ、摩擦が起きた瞬間 カチンときて、相手によからぬ思いを持ってしまうのは避けられず。

でも 相手を悪者にしている時って、“ひとつ” であることを忘れて 自他に分離し その世界に取り込まれちゃってるから、引きの目線で落ち着いて見つめるなんてできないんだよね

で、仕事中はジタバタあがいて、仕事が終わって自室に戻ってから 改めて事の次第を思い返し 吟味する毎日。

頭の中は 三次元と五感を超えた世界を行ったり来たり かなり目まぐるしく、負を手放すはずが うっかりすると逆に振り回されたりして、けっこうキツくって (T_T)

そんなときに ふと思い出したのが 「インセプション」 。




映画を見た方ならお分かりだと思いますが、「インセプション」 って 場面の半分以上が 登場人物の夢の中の描写なんですよね。

夢の場面には 「通行人」 って感じの “その他おおぜいキャラ” がぞろぞろ出てきて、多数のエキストラさんが演じておられるんだけれど、他者のように見えて 実は皆 夢を見ている人の 潜在意識の投影。

あからさまに他人に見えてしまうけれど、潜入者であるコブたち以外の人物は すべて夢主の意識のかけら、大勢のようで 実際はひとり、という設定。

見始めた当初は この設定になかなか馴染めなくて混乱したけれど、ほとんど三ケタに上ろうかという回数見返しながら 「このエキストラさんたちは 誰それの投影、投影」 と唱え続けるうちに、だんだん慣れて そう見えるように変わってきたのです。




で、この感覚を そっくり自分の現実に当てはめて、自分は 「インセプション」 みたいな映画の中の主人公で 夢の主の役、まわりの人はみなエキストラで 「インセプション」 と同じく自分の潜在意識の投影役、という新たな視点から、万事を見直すよう努めたんです。

これが思いのほかうまくいって、以後 仕事中でも 客観視点から冷静に 今起きていることの意味を確かめるのが 容易になりました \(^o^)/

今ではこの視点にかなり慣れ、「インセプション」 を引き合いに出さなくても、一歩引いたところから眺め渡すのが ずっと楽に出来ます♪

いや~、こんな効用がこの映画にあろうとは思わなかったなぁ

この作品と出会い、これでもかっていうぐらい見続けたのは、こういう 「布石」 の意味もあったのかしら。。。。





。。。。という次第で、改めて クリストファー・ノーラン監督はじめ この映画に携わってくださった すべての方々に感謝します。

こんな素晴らしい映画を この世に送ってくださって ほんとうにありがとうございました m(__)m




そうだぁ、今晩また久々に 「インセプション」 見~ようっと






















まず 曇りから

2014年12月20日 16時55分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうは朝から雨、午後になっても氣温が上がらず、こたつにもぐり込んで 生姜葛湯などいただいています

晩ご飯は何にしようかなぁ。。。こんな日は、やっぱりからだの芯からあったまるものがいいなぁ(*^ー^*)




同じこと繰り返し書いているような氣もするんですが。

すでにインセプション(植え付け)されてしまった思い込みを抱えたまま、いくら意識を変えようとしても、どだい無理な話だったんですね。

先人たちの本は、変わることの大切さは説いても どう変わるか 具体的な手立てについては書かれていなくて、意地悪をされているような氣がしたことも たびたびありました。

でも今は、書かれていなくて正解だったんだと思います。

自分だけの道を見つけること、手探りしながら これまで見えていなかったものに目を開かれてゆくプロセスこそ、この世に生まれてきた理由であり、“リーラ” の醍醐味なのですから(^^)




「潜在意識の書き換え」 などという言葉を時おり目にしますが、根本から意識を変えるというのは、筋トレのように ここをこう動かせば この部分が鍛えられる、といった、因果関係がはっきり見えるものではないようです。

もちろん、これまでと違う自分を目指すことには変わりないのですが、具体的に「ここを こんな風に変えたい」 と意図して働きかけて、望みどおりの変化を起こす、というのとは ちょっと違うような感じを受けます。

自我のレベルでコントロールできるものではないっていうことかな?




そもそも、自分を 「変える」 必要なんてないのだ、と知りました。

本来の自分は、神のごとき完璧な存在なのだから。

ただ、そんな自分を見えにくくしている曇り     それももともとは自分で意図して付けたものなのだけれど     を拭い続けるだけ。

雲があってもなくても お日さまはお日さま、雲が立ち退けばお日さまは現れる、お日さま自体を変えようとかどうこうしようとか、そんな心配はしなくてもいいのですね




朝目が覚めるたびに 暗い思いがじわっと流れ込んで 胸を塞がれる、そんな感触は 今でもありありと思い出せますが、あくまでも 「記憶」 として 今の自分とは距離が保たれています。

何より大きな変化は、プラス思考で先をイメージしても、それを打ち消す声が まったくといっていいほど上がらなくなったこと。

引き寄せの法則などに熱心だった頃は、うまくいってないと感じるときほど けんめいにイメージの書き換えを図るのですが、そのたびに 「そんなにうまくいくわけがない」 と冷水を浴びせるようなささやきが 覆いかぶさってきたものです。

それがぴたりと止んで、むしろことさら努力しなくても 前向きな明るい未来の光景が 自然にすっと浮かぶほどに変わってきました。

プラスイメージに書き換えるんだとがんばっていたときには どうしても叶わなかったことが、心の奥深く張りついていた 過去の痛みと向き合い続けるうちに、無理なく力まずできるようになったのです。

これって、できない自分をできる自分に変えたのではない、本来の自分とかけ離れた思い込みの曇りを拭い続けたことで 本来の自分が戻ってきただけ、と思えてなりません。





私たちは 「しつけ」 という名の下に、言葉によって 善悪・正誤の判断基準を刷り込まれ、また 刷り込む側にも回ってきました。

でも、それはほんとうに私たちの中に 矛盾なくしっかり根付いているのだろうか?

「傷つけたり殺したりするのはいけないこと」 と聞けば、誰でも 「そんなこと当たり前じゃない」 と答えそうだけど、実際には 傷つけたり殺したりのニュースが後を絶たないのはなぜ?

小さな子どもでも、個人差はあれど すでにさまざまな引っかかりやわだかまりを抱えています。

それをそのままにしておいて、外から言葉でいくら善悪の基準を説いて聞かせても、そこに矛盾が生じたら、強いのは 理屈を超えて刷り込まれた情報のほうなんじゃないかと思うのです。

自分の体験から言って、言葉で作られた概念は、心の奥深くに刻まれた思い込みの前には 無力だという氣がします。

説いて聞かせる方だって、実は矛盾する思いを抱えているのかもしれない。

そうなれば、「正しいことになぜ従えないの?」 と自分を責める氣持ちが起こり、自信を失ってしまうのは避けられません。

怒りや恨みがあまりに強ければ、わずかな氣の迷いに 思い込みが勝って、衝動的に行動してしまうことも起こり得る。

私たちが、そんなことしたら認めてあげませんよ、罰しますよ、愛してあげませんよ、という “ 脅し” なしで、自然に 傷つけたり殺したりしなくなるのは、私たちの心の曇りが取り除かれて、明るく自由になってからのことなんじゃないかなぁ。。。

どんな道徳教育よりも前に、自分のほんとうの思いを 否定したり責めたりすることなく見つめ、偽りの情報を解き放つことが、みんなを満たし 幸せにし、世の中もよくしていくんじゃないかな、と そんなふうに思えてならない きょうこの頃です。
























やっぱり暮らしが好き(^^)

2014年12月19日 13時31分14秒 | 紡ぐ暮らし


おととい、きのうは かなりの寒さで、雪がちらつくことも。

あまりの冷え込みに 別棟の寒いお風呂に入る氣になれず、買い物のついでに 地元の温泉に行ってきました♪

西日本最大と謳われる露天風呂に のんびり浸かって温まること小1時間、なんていい氣持ちなんでしょう、しあわせ~ (*^^*)




家に帰れば、湯冷めせぬよう こたつとストーブの出番。

白浜から引き揚げた12月2日が ちょうど今シーズン初の寒波到来と重なり、家に着くなり急いで引っ張り出した おなじみの石油ストーブ、この冬はいつになく早くから大活躍です♪

毎度のごとく 上にはお鍋(笑)

夕べは、雑炊や煮込みうどん用の野菜たっぷりの出し汁と小豆を煮て、少し前に作ったリンゴの甘煮をさらに煮詰めてジャム状に。

茹で小豆の一部は 先日新しく汲んできた 湯の峰の温泉で作る温泉粥に入れ、あとはあんこにしましょう♪

今晩は、カリフラワーのポタージュと 黒糖生姜ジャムを作るかな~




二度目の白浜滞在でも、持ち込んだ電磁調理器とキャンプ用の調理道具で 一度目以上にせっせとお料理してました

食事の面倒は 旅館側で見てくれるのだけれど、野菜を補いたい氣持ちがあったし、何より 自分の手で好きなものを作って食べる楽しみは捨てがたくて(^^ゞ

旅館の寮は やはり 「エネルギーはなるべく仕事に注ぎ込んでね☆」 という意向なのか、くつろぐための物は揃っていても、家事には不向きな造り。

それでもめげずに 出窓のスペースで煮炊きをし、書き物机でまな板包丁を使って、おでん風煮物だの リンゴのコンポートだの あんこだの せっせとこしらえていた私。

電磁調理器とキャンプ用小鍋で ご飯だって炊けちゃうもんね

地元のスーパーに行けば、何よりも季節の生鮮食品に目がいき、あれも作りたい これも作りたいと 頭の中にメニューが溢れ返るのだけれど、さすがに設備の限られた部屋で そうそう手間のかかるものを作るわけにもいかず、自分の台所で盛大に調理が出来る日を待ちわびていたのです。

というわけで、戻ってからは 食べたいものを作り放題、煮たり漬けたり卸したりの 幸せな毎日





副題に 「熊野の里から穏やかな日々の暮らしをつれづれなるままに」 などと謳っている割に、記事の内容は いまや暮らしのスケッチよりも 五感を超えた世界の話のほうが上回っている わがブログ (^_^;)

でも、私には どちらも日常なのです。

穏やかな心持ちを取り戻したかったのも、何よりもまず 大好きな手作りの暮らしを存分に楽しむため。

不安が渦巻く心では、平凡な日常を落ち着いてじっくり味わうなんて できないもの。

念願叶って 満ち足りた日々を過ごす今、以前書いた 「漬物のコツなど ありふれた暮らしの情報と、五感を超えた世界の話が、同列に並んで語られる生き方・あり方」 が やっぱり自分の理想なんだなぁ、と 改めて思います






















脱皮

2014年12月18日 23時54分25秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


二度目の白浜での滞在期間が終わりに近づくほどに、この貴重な機会を1分1秒でもムダにすまいという思いが ますます強くなり、仕事前に 過去と向き合う心構えを確認したり、その日あったことを 仕事が終わってから 日記にしたためつつ じっくり振り返ったり。

そんな日々もついに終わり、家に戻って半月が過ぎました。

最初のうちは、久々に24時間すべて自分の自由という暮らしを取り戻したことで 氣持ちがおおらかになっているんだろうと、のんびりストレスのない毎日を楽しんでいましたが、そのうちだんだん こんなのどかなことでいいんだろうか、白浜では あれほどパワフルに氣づきを得て前進し続けていたのに・・・と 氣がかりになってきました。

そんな中で、ふと氣づいたのです。

寝ても覚めても 常にそこはかとなくつきまとっていた あの灰色の不安が、きれいさっぱり消えていることに。




自分の氣持ちが かつてなく穏やかで落ち着いて 翳りなく、しかも その状態がずっと続いていることに氣づいたのは いつだったか、よく覚えていません。

ただ、今振り返ると まだ白浜にいるうちから そんな感じが少しずつ始まっていたような氣がします。




ほとんど半世紀以上も 常に不安のベールがかかった精神状態が当たり前になっていて、そんな中で想像する 「不安のまったくない心」 というのは、イメージしにくい分 とてもインパクトが強く 感動的に思われたものです。

が、いざ実際にそうなってみると、今はもうこちらがスタンダード、感動するよりむしろ ずっと前からこうだったようにさえ感じられ、不安がなくて当たり前と言わんばかりに淡々としたもの、不思議といえば不思議な氣分。

じゃあ、不安や心配なんてまったくなくなったのかというと、そういうわけでもなくて。

ただ、上がってきても、それが 自分の “今 ここ” に張りついて同化してしまうことがなくなったんです。

つまり、それは 「記憶」 として認識されるだけで、今の自分の感情として 自分を振り回すことはなくなった、と。

その奥には、たとえ上がってきたって どう対処すればいいか 今の自分はよぉく知っているのだから、という安心感があるような氣がします。

もうほんとにね、いつの間にやら すっかり安心ベースの毎日




白浜滞在の終わりごろ、ああ、私は この場所ごと 過去にせっせと育ててきた殻を脱ぎ捨てるんだ、と感じたときがありました。

ただ 仕事が終わるというだけでなく、そういう仕事や場・人間関係などを選ばせてきた 自分の思い癖も みないっしょに脱ぎ捨てて 置いていくんだ、と。

前回・2~5月の仕事の終わりには感じなかった、この心地。

長年抱え込んでいた負の思い込みの大半を手放せたことの証だったのでしょう。

あの頃からなんとなくそんな氣はしていたけれど、今はもっと自信を持って 言い切ることが出来ます。

全部とは言わないけれど、大半は手放せたんだ、と。




それと同時に やはり同じ頃、新しい課題も見え始めていたのです。

それまでは、好きになれない人や状況とどう折り合ってゆけばいいのか、というのが いつも問題でしたが、新しいテーマは、好きな人や状況に対しても やはり不自然な態度をとってしまう自分に氣づいたところから 始まったようです。

心の荷が軽くなるにつれて、仕事相手とのなんやかんやもぐっと減り、感じのいいお客さまに恵まれることが多くなってきたのですが、相手が素敵な人であればあるほど、相手に好かれたい、喜ばせたい、という欲が高まり、氣が逸って空回りして、不自然な態度をとってしまう自分がいることに氣づかされたのです。

いや~、あまりにも長い間 ネガティブな感情に振り回される悩みにばかり 氣持ちが向いていたから、こんな面もあったんだということに まるで氣づいてなかったよ (^_^;)

まあ、することは同じだしね。。。。ただ、これまでとは違う感覚や感情に アンテナを向けるように変わっていく、というだけで。




これからも、本来の自分を見えにくくしている曇りを取り除き続けていくことに変わりはなく、ただ、あるひとつの段階を まがりなりにもクリアして、新しいステージに進むことができたのかな。。。。と そんな思いでいます。

そしてそれは、未来への明るい見通しにつながっているようです

























動き出す

2014年12月17日 23時05分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これも繰り返し書いてきたことのように思うのだけれど。

もっと幸せになりたい、自分を変えたいと願い始めてからというもの、力となってくれるさまざまな情報と出会うことができました。

そこで言われ続けた、自分の意識を変えましょう、自分を愛しなさい、責めるのをやめなさい、明るく前向きな氣持ちで、自信を持って。。。。などの助言の数々。

いったん出会えば 受け取るのは造作もないこと、どの言葉にも心からうなずけ、これこそ真に自分を変えるカギだ、と直感したのだから。




しかし、その先に待ち受けていた 最大の難関は、

そうなりたいのになれない、変われない、自分の心が思い通りにならない

っていうこと (T_T)


意識を変えましょうって言われて、はい変えます、で変われるものなら苦労はないんだなぁ・・・ってね




そのたびに、私の心はおかしいんだろうか、いや、やり方が間違っているのかも、いやいや、変化するにも時間がかかるから、目にはまだ見えなくとも 徐々に効果が上がっているのかも・・・・などと 悩んだり迷ったり。

粘り強かったのか、あきらめが悪かったのか(笑)、そんな状態が かれこれ10年ぐらい続きました。

無駄な時間だったとは思わない。

そうやって投げ出さずに探し続けたからこそ、ついに 「これだ」 っていう情報を引き寄せられたんだよ、って 内なる声が言ってるもの (*^▽^*)v

そう、「感情ではなく からだの感覚のほうにフォーカスしなさい」っていうアドバイスをね♪





白浜での3ヶ月、事あるごとに湧き上がる否定的感情の、その手前のからだの感覚を ひたすら感じ続けるうちにわかってきたのは、まず、どれもこれも目新しいものではなく、小さい頃から繰り返し味わってきた怒りや痛みである、つまり それだけ根深く 自由な選択を阻んできた、“大物” のブロックだ、ということ。

その分 表に出てくる感情も強烈で、その場では対処し切れなかったり、数日引きずったりしたものもあったし、何よりも仕事の最中のこととて 感覚ばかり追っているわけにもいかず、ほんとうに感じ尽くせたのかどうかわからないことも多かったけれど、どうやら大半は手放せていたらしいことは、今の自分の様子からわかります(^^)

そして、これだけ大物がごろごろ出てくるっていうことは、長いこと取り組んできた 負の感情の解放も、大詰めにさしかかっているのかな? なんて ちょっとうれしくなったりして。

これも そのときはわからなかったけれど、今思えば ただの希望的観測ではなかったようです♪




もうひとつ、これはかなりショックだったのだけど、今回、人から向けられてうれしくない感情を、自分も人にしっかり向けている様子を ありありと見せられたこと。

誰かが私に対して 腹を立てたり苛立ったりしている、それとまったく同じように、私も きっかけさえあれば、他者に対して腹を立てたり苛立ったりするのだ、と。

きのういやだなぁと思った相手は、きょうの自分の姿。

仕事期間も終盤にさしかかる頃には、目に映るものすべてが鏡という意識にもすっかり慣れて、その日のメンバーの顔ぶれから 「きょうはどんな体験を通して どんな自分を見ることになるのかなぁ」 などと想像したりするまでになっていましたが、それはいつも、人から何かをされる、という立場に立ってのこと、自分が人に何かする、という側から考えたことは、まったくといっていいほどありませんでした。

いや、頭ではわかっていたのだけれど。。。目に映るものすべてが自分である以上、負の感情を向けてくる相手だって、当然私の一部のはず。

でも、それを事実として認めるのは、やはり辛いことでした。

相手に反感を感じれば感じるほど、なおさら。

被害者の自分は認められても、加害者の自分を認めるのは 難しい。

でも、滞在終盤にはいつも、さあきょうは何が見える?何が見える?と待ち受けるような意識でいたせいか、ごまかしようもなく あからさまに見えてしまったのです。

こうなると、もはや被害者として相手を恨むなんていうこと、出来なくなってしまいます。

相手にネガな感情を向けたとたん、自分も同じだよね、とわかってしまうのですから。

怒りが湧かなくなったわけではないけれど、次の瞬間 「他人事じゃない、これは私自身の姿」 とバレて、すごすご引っ込むことになります

しんどい一方で、大きな収穫。

たとえ人のせいにしたくても 出来なくなったということは、すべてを自分の責任として引き受け、人生を 自分の力で どこまでも変えていく人間になることにつながってゆくもの。




あの頃すでに、内側からなにかが動き出していたようです。






















習い性

2014年12月17日 14時21分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


えへへ、クリスマステンプレート変えちゃった、素敵な柄がいくつもあって 楽しい~





最近 どうも過去記事を読み返す氣になれなくて、確かなところは覚えていませんが、「感情そのものではなく、感情に発展する前のからだの感覚を感じ尽くすことで、否定的な思い癖を手放す」 という話については、“検証中” の立場で 繰り返し何度も書いてきたように思います。

初めてこの話に出会ったとき、ピンとくるものがあって、重要な情報だと感じたのですが、それをすることで何が起きるかについては 自分で試さにゃ~わからん、ということで、以来 心が波立つたびに 「無心に感じる・味わう」 をひたすら念頭に置いて、まあ出来たり出来なかったりではありましたが (^^ゞ、とにかく実行し続けてきました。

で、今回の白浜滞在中ほど、「この情報を知っていてよかった~」 と思ったことはなかったなぁ。。。






白浜の仕事は、前々回のブログにも書いたように 楽しいことばかりではなく、そして だからこそ 貴重な機会を得ることができました。

忙しいときなど、ぎりぎりの人数と時間でバタバタ動いていれば、感情的なトラブルも起こります。

そんな他者との摩擦に遭遇するたびに 湧き起こる負の感情、そしてその大元にあるからだの感覚。

これまでひたすら避けようとしていた そんな苦痛な感覚をしっかり味わうことこそ、今の自分に何よりも必要だったのです。

手放したと思っては また引き寄せてしまう、長年の負の思い癖と、今度こそきちんとお別れするために。

二度目の白浜は、その課題をやり遂げるためにあったのかもしれない、と思ってみたりもします。




うれしくないことを言われてムッとする、カチンとくる、その 「ムッ」 や 「カチン」 こそ、そこに 私がずっと前から引きずったまま手放せずにいた 引っかかりやわだかまりが残っていることを教えてくれる合図。

そこでついつい、きっかけとなった相手に向けて 怒りや憎しみなどの感情を発してしまいそうになるけれど、それをしている限り、いつまでも同じことの繰り返し、なのですね。

他者は自分の心を映し出す鏡、世界を創るのは 他ならぬ自分。

不快な感情に耐えかねて それを忘れ、相手のせいにしてしまっては、いつまで経っても 自分のこととして吟味し 解決するチャンスを逃すばかり。

だからこそ、ネガな感情に発展する前の からだの感覚のほうに集中することが 重要になるわけです。




そもそも、感情は言葉の世界だけれど、さらに大元のからだの感覚が最初に刷り込まれたのは、まだ言葉のおぼつかない 幼い頃のこと。

未完成の脳の配線に 選択の余地なく組み込まれ、幼児の思考能力ではどうすることもできなかったからこそ、ずっと心の奥にしまわれて 持ち越しになっていたのですから。

このあたり、以前にも書いたように まさに映画 「インセプション」 の世界だよなぁ、って思うのだけれど☆

言葉化される前の 理屈にならない形で刻みつけられた負の記憶を、大人になってから 言葉でいくら感情に働きかけて解決しようとしても、そう簡単に解ける(溶ける)ものではないのですね。




・・・・とそこまでわかっていても、長年の癖は根深くて、嫌なことを言われれば、つい相手に否定的な氣持ちを持って悩んでしまい、そんな思いを抱え込むのが苦痛で、なんとかなだめよう、忘れようとがんばってしまうことが まだまだあったのですが、今回の白浜は、これまでになく そんな自分の癖を意識させられる毎日でした。

で、カチンとかムカッとかきて 悩みそうになると、すかさず 「ハイ、またそれやらないでね。感情は置いといて、今のそのからだの感覚にフォーカス~」 と すかさず内側から声がかかるようになったのです♪

さすがに長いこと試し続けていたから、習い性になったということなんでしょうね(*^^*)




家でひとりおとなしく過ごしていたら、とうてい体験できなかっただろう他人との軋轢を重ね、しかもそのほとんどを逃さず 感覚に集中して味わって味わって、とことん味わった結果がどうなったか?

それがわかり出したのは、こちらに戻ってからのことなのですが・・・・こんな自分でいられる日がやってこようとは・・・・出発前には 思いもよりませんでした




まあ、今も “検証中” ではあるけれど、身をもってこれほどの成果を感じられるからには、ご報告にも力が入ろうというものです





















成果

2014年12月12日 14時02分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ブログ編集画面のベースカラーを いつもの水色からクリスマスカラーに変えてみたら、毎回目に入るモミの木や雪の結晶のシルエットがうれしくてならない貴秋です、こんにちは (⌒∇⌒)ノ




毎年クリスマスシーズンとなると、キリスト教徒でもないのに どうしてこうも心が浮き立つんだろう。。。と、楽しいような、おかしいような。

街中やお店の飾りつけなんか、11月下旬あたりから もうどんどんクリスマス仕様になってますものね

私が行ってた旅館でも、ロビーに大型のクリスマスツリーがお目見えし、テーブルやカウンターにはミニツリー、別館ロビーの棚にはサンタさん(いや、サンタ帽かぶった雪だるまだったかな?)のライトが置かれていたっけ♪

ハロウィンのカボチャさんやお化けさんたちが仕舞われて ひと月も経ってないのにね

な~んて かく言う私も、ブログのテンプレート 早々とクリスマスデザインに変えてるし ( ̄∇ ̄*)ゞ




白浜滞在も終盤にさしかかったころ、わが家からだと車で1時間半はかかる 繁華な(この辺りにしては・笑)市街地も、白浜からなら15分程度のドライブで行けるから、こっちにいるうちに いささかフライング氣味のクリスマス氣分を味わっておこうと、休みになると出かけては、買い物したり お茶したり ウィンドウディスプレイを眺めて回ったりしたものです。

そんなさなか、あるときふと 「自分が物を買い求めるときの動機って、どうも二通りあるらしい」 と氣がつきました。

ひとつは、その品物をほんとうに必要とし、それがあることで 暮らしがよくなることを はっきりイメージできる場合。

もうひとつは、品物自体よりも、それから連想する 幸せや温もりのストーリーに魅かれ、商品を手に入れることで そのストーリーまでも自分のものに出来るように思い込んでいる場合。

クリスマスシーズンの飾りつけなんて、日が短く 暗くなりがちな季節に、華やかで温もりを感じさせる演出を目一杯施して、いかにも幸せを感じさせるようになっているものね

で、自分の家もこんなふうに楽しくしよう、と意欲的で、そのためには これとこれをこんなふうに飾って。。。などと、イメージをしっかり持った上で 買って帰るのか。

あるいは、売り場の華やかさに魅せられ、同じ商品を買えば、家にも この売り場と同じような楽しい空氣を持ち込めるように思い込み、ほんとうに必要かどうかは二の次で、ふらふらっと手を伸ばすのか。

前者は 自分のほんとうの望みがちゃんとわかった上で、よりよくなるための選択ができているけれど、後者は 正体のよくわからない不安をどことなく感じていて、それから逃れよう、氣持ちを逸らそうと必死になってて、しかも そのほんとうの動機に氣づいてない、自分ではあくまでも欲しいものを手に入れようとしているだけだと思い込んでいる。

一見同じことをしているようでも、前者は幸せベース、後者は不安ベース、きっかけが正反対だから 結果も正反対になっちゃうんだよね (- -;)



。。。と物欲の成り立ちが鮮明になった上で、自分はこれまで多くの場合 後者だったことが、ありありとわかったんです。

ありありとわかったということは、すでに渦中から抜けたということ。

そこで さらに一歩推し進めて、その氣づきを駆使して 偽の物欲を手放せるかどうか試すべく、後日 あと2回続けて ほぼ同じコースをたどり、品物に心が動くたびに 大元にあるのが幸せ感か不安感か、とことん見つめてみました。

そうしたら。

一度目に欲しいなって思った品物のほとんどが、二度・三度と見て回るうちに 心を惹きつけなくなり、結局おしまいに買ったのは、プレゼントのネックウォーマー用の毛糸二玉だけ。

それでいて、最初にあれも欲しい、これも欲しいと思いながらうろうろしていたときとは比べ物にならないほどの満ち足りた思いを感じることが出来たのです





9月からこっち、白浜で過ごした二度目の3ヶ月は、仕事中は 自分の負の思い込みをとことん見定め、オフの時間は ほんとうに好きなこと・やりたいことを正しく見極める、という二本立ての課題をこなすために設けられたらしい、と、滞在期間が残り半月を切ったあたりで 氣がつきました。

そして今、オフでこれだけの成果を得られたのは、仕事のほうでもそれだけの結果を掴み取れたからだったんだなぁ、と しみじみ思い返しています。





















山の民

2014年12月09日 16時41分55秒 | ふと思うこと


白浜での仕事を無事終えて、なつかしのわが家に戻って 1週間。

身に馴染んで使い勝手のいいマイスペースと、24時間すべて思い通りに使える氣ままな暮らし、やっぱりいいなぁ、ありがたいなぁ (*^^*)

戻ってすぐは、持ち帰った荷物の片付けと ずっと出来ずじまいだった衣類の入れ替えや暖房器具の準備などの冬支度で そこそこ動いたりもしましたが、その後はすっかりのんびりペース、心の赴くままに過ごさせてもらっています♪



帰宅と同時に 「真冬並み」 と言われる寒波が訪れて、雨が降ったり雪がちらついたりと不安定なお天氣が2~3日続いたけれど、ここ数日は 朝晩こそ多少冷えるものの、昼間はぽかぽかと暖かい日ざしに恵まれて 幸せ氣分

おととい・きのうと2日続けて、久々に山の上のほうまで散歩に行ってきました。

澄んだ青空にふんわり白い雲、ゆうゆうと舞うトンビ、色づいた木の葉と すでに葉を落として 黒いシルエットを浮かび上がらせる枝々、秋から冬に移り変わろうとする山並に 傾きかけた日が赤々と照り映えて、なんてなつかしい光景。。。

やっぱり私は山の民だなぁ、山が好きなんだなぁ、としみじみ実感。


白浜の寮は 旅館の別館にあり、この別館と本館をつなぐ渡り廊下の片側からは 白良浜が見下ろせ、もう片側は 木々が植わった斜面になっているのですが、通る人のほとんどが海側ばかりを眺める中、私だけは 斜面の木や草の表情、木漏れ日と地面に落ちる影のコントラストなどに魅了され、ひたすらそちらに目を奪われて、「何か面白いものでも見えるの?」 などと通りがかった人に不思議そうに尋ねられるほど。

もちろん、海だって美しく魅力的なのです。

が、なぜか私の心を和ませ 安らがせてくれるのは、いつも山側。

これはただの景色じゃない、私の中にある、私の喜びそのもの。。。そんなふうに感じたものです。

なつかしい場所を巡り歩きながら、ふとそんなことを思い出しました。





大好きな山里に戻って、穏やかな暮らしをこの手で紡ぐ毎日。

そんな中、折に触れて 白浜での日々を思い返しては、その意味を確かめ続けています。

なんて大きな体験を重ねたことか・・・と。

楽しいことばかりではなかったけれど、いや、それだからこそ、得たものも半端なく貴重だったようです (^^)