出不精ゆえ自粛前も後もさして変わらない暮らしぶりの貴秋ですが、14日の39県緊急事態宣言解除の前と後では 空氣ががらりと変わったのを感じます。
どっちを向いてもマスクだらけなのは相変わらずでも、見えないところで人々の心に希望の光が射してきたようです。
そんな中、このコロナ騒動では下手ばかり打ってきたとしか思えないわが国の首相に いまかなりの逆風が吹きつけているみたいですね。
まああれだけ嘘や正当化で国民感情を逆なでしたあげく ここぞというところで的外ればかりやらかせば致し方ないところでしょうが、同時にいまのこの流れに危惧の念も覚えます。
なにかがおかしい ・ 変だと感じると、それを正そうとする氣持ちは誰にでも起こるもの。
そこですんなり 「ではどうしようか?」 と手段の検討に移れればいいのですが、ここに 「正したいけれど無理だ」 という抵抗感が割り込むと、怒りが湧きます。
したいのにできないというフラストレーションが生む怒りは はけ口を求めて暴れ回り、私たちはついついそれを 邪魔をしているとおぼしき誰か ・ なにかに向かって叩きつけずにおれなくなります。
が、一見外の誰か ・ なにかのせいと思えるこの抵抗の正体は、実は 幼いころ潜在意識に入り込み定着してしまった自身の否定的な思い込み。
無理という事実があるから無理だと思うのではなく、最初から無理だと思い込んでいるから そのとおりの現実が創造されるのです。
根拠あってのことかどうかも定かでない自粛を長期にわたって強いられ、経済も暮らしもがたがた、みんなの溜まりに溜まった苛立ちが この状況で安倍総理に向かうのは ある意味無理のないことではありますが、いまここで すべてを外の誰かのせいにしてしまったら、立て直せるものも立て直せなくなることは歴史が証明しています。
我慢に我慢を重ねた庶民の怒りが時の政権を打ち倒したことは、過去に何度もありました。
「ひとりひとりの力は小さくとも おおぜいが力を合わせれば動かないものも動かせる」 という信念は希望に満ちて見えますが、それで実際に真の平和や平等が実現したことが 一度でもあったでしょうか。
私たちの現実世界は 大小 ・ 高低 ・ 寒暖のように相対する二極から成り立っており、悪に対するものが正義と呼ばれるのは 童話や時代劇から私たちの日常に至るまでのお約束。
しかし この一見真反対に位置するように見える二極、よくよく見れば 実はどれもこれも同じものの程度の差でしかないのです。
だから、政権のトップの首がいかにすげ変わろうとも どの政党が多数派を占めようとも、おおもとの社会システムやそれを生み出した私たちの意識が根本から変わらない限り 暮らしぶりも変わりようがない。
問題の根っこは、いったん問題から抜け出て 引きの視点に立たない限り見えてきません。
問題の渦中に浸かったまま右をとろうが左をとろうが、なんの解決にもならないのです。
いま怒りにまかせて安倍さんを首相の座から引き摺り下ろせば、いっとき溜飲を下げることはできるでしょう。
が その後任が誰になろうと、世界レベルでのパンデミックや経済恐慌、異常氣象等々 かつて経験したことのない事態についての答えなど 誰が持っているというのでしょう。
ましてや そのような人たちでも頼らずにおれない依存心を持ったままの民衆がどれほど集まったところで、すべてを解決できる力などあろうはずがありません。
本氣でほんものの幸せや平和を実現しようと思うなら、なによりもまず 私たちひとりひとりが 誰かに頼ろう、誰かに答をもらおうとするのを止めることです。
答えは私たちひとりひとりの内にあります。
それは顕在意識だけでいかにあがいても呼び覚ますことはできず、潜在意識に入り込んだままのさまざまな思い込みを手放して初めて 雲が退いたあとの太陽のように おのずと姿を現すもの。
私たちひとりひとりがまず自分の足でしっかりと立ち、手にした答えをそれぞれの得意分野を通じて形に置き換え持ち寄るとき、かつて誰も成し得なかった真の平和が実現します。
どっちを向いてもマスクだらけなのは相変わらずでも、見えないところで人々の心に希望の光が射してきたようです。
そんな中、このコロナ騒動では下手ばかり打ってきたとしか思えないわが国の首相に いまかなりの逆風が吹きつけているみたいですね。
まああれだけ嘘や正当化で国民感情を逆なでしたあげく ここぞというところで的外ればかりやらかせば致し方ないところでしょうが、同時にいまのこの流れに危惧の念も覚えます。
なにかがおかしい ・ 変だと感じると、それを正そうとする氣持ちは誰にでも起こるもの。
そこですんなり 「ではどうしようか?」 と手段の検討に移れればいいのですが、ここに 「正したいけれど無理だ」 という抵抗感が割り込むと、怒りが湧きます。
したいのにできないというフラストレーションが生む怒りは はけ口を求めて暴れ回り、私たちはついついそれを 邪魔をしているとおぼしき誰か ・ なにかに向かって叩きつけずにおれなくなります。
が、一見外の誰か ・ なにかのせいと思えるこの抵抗の正体は、実は 幼いころ潜在意識に入り込み定着してしまった自身の否定的な思い込み。
無理という事実があるから無理だと思うのではなく、最初から無理だと思い込んでいるから そのとおりの現実が創造されるのです。
根拠あってのことかどうかも定かでない自粛を長期にわたって強いられ、経済も暮らしもがたがた、みんなの溜まりに溜まった苛立ちが この状況で安倍総理に向かうのは ある意味無理のないことではありますが、いまここで すべてを外の誰かのせいにしてしまったら、立て直せるものも立て直せなくなることは歴史が証明しています。
我慢に我慢を重ねた庶民の怒りが時の政権を打ち倒したことは、過去に何度もありました。
「ひとりひとりの力は小さくとも おおぜいが力を合わせれば動かないものも動かせる」 という信念は希望に満ちて見えますが、それで実際に真の平和や平等が実現したことが 一度でもあったでしょうか。
私たちの現実世界は 大小 ・ 高低 ・ 寒暖のように相対する二極から成り立っており、悪に対するものが正義と呼ばれるのは 童話や時代劇から私たちの日常に至るまでのお約束。
しかし この一見真反対に位置するように見える二極、よくよく見れば 実はどれもこれも同じものの程度の差でしかないのです。
だから、政権のトップの首がいかにすげ変わろうとも どの政党が多数派を占めようとも、おおもとの社会システムやそれを生み出した私たちの意識が根本から変わらない限り 暮らしぶりも変わりようがない。
問題の根っこは、いったん問題から抜け出て 引きの視点に立たない限り見えてきません。
問題の渦中に浸かったまま右をとろうが左をとろうが、なんの解決にもならないのです。
いま怒りにまかせて安倍さんを首相の座から引き摺り下ろせば、いっとき溜飲を下げることはできるでしょう。
が その後任が誰になろうと、世界レベルでのパンデミックや経済恐慌、異常氣象等々 かつて経験したことのない事態についての答えなど 誰が持っているというのでしょう。
ましてや そのような人たちでも頼らずにおれない依存心を持ったままの民衆がどれほど集まったところで、すべてを解決できる力などあろうはずがありません。
本氣でほんものの幸せや平和を実現しようと思うなら、なによりもまず 私たちひとりひとりが 誰かに頼ろう、誰かに答をもらおうとするのを止めることです。
答えは私たちひとりひとりの内にあります。
それは顕在意識だけでいかにあがいても呼び覚ますことはできず、潜在意識に入り込んだままのさまざまな思い込みを手放して初めて 雲が退いたあとの太陽のように おのずと姿を現すもの。
私たちひとりひとりがまず自分の足でしっかりと立ち、手にした答えをそれぞれの得意分野を通じて形に置き換え持ち寄るとき、かつて誰も成し得なかった真の平和が実現します。