毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

周期

2015年06月18日 11時21分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


この6月の南紀は、週のうち5日ほどが 、そしての日が1~2日と、これまでのところ 規則正しく 梅雨らしい様子をしています。

色とりどりの紫陽花を愛でながらの しっとりと穏やかな日々、なかなかよいものです(^^)




またしてもご無沙汰しております m(__)m

貴秋のブログは、連日ガンガン更新されたかと思うと 突然ぱたりと音沙汰がなくなると ご不審の向きもおありかと思いますが、それは ブログ主たる私の内面世界が そういう周期で構成されているためなのです。

外の世界でのさまざまな体験から その意味をじっくり突き詰める時期と、そこから氣づきを得て 糧としたうえ 外に向かっても発信したくなる時期が、交互に訪れるという周期。

外から内へ、内から外へ、の繰り返し、なんだか呼吸みたいな。




この6月から、また仕事に行き出しています。

今回も期間限定で いちおう8月末までということになっていますが、仕事先が白浜ではなく地元なので、寮はお借りしているものの、休みの日はずっと自宅。

6月は暇な時期で 週末から週明けにかけてだけの仕事なので、週の半分以上は家にいられることに♪

今の季節は 草々の勢いがすごくて、畑も家まわりも まめなお手入れが必要なので、この状況はとてもありがたいです♪

野菜たちが 次々と豊かな実りを恵んでくれるので、収穫のタイミングを逃さずにいられるのもうれしいこと(*^^*)

新鮮なサラダ菜やサニーレタス、ミニトマトを 毎日のように頂いています♪




今回ことさら意識に上がっているのが、仕事先は体験の場で データ集めの機会、家での時間は それらを持ち帰って吟味 ・ 熟考するためのもの、という 明確な振り分け。

去年の白浜でもそうだったけれど、やはり新しい場所や新しい出会いというのはインパクトが強く、どうしても三次元世界のほうに 焦点が結ばれやすいので、起きたことを 引きの視点から客観的に見直すのは 職場を離れたときのほうがやり易い。

その意味で、今回のように 一週間が 仕事日と休日にくっきり分かれていると、内観がスムーズに進みやすくて とてもいい塩梅です。




という次第で、今は 外から内へ、データ集めとその掘り下げの時期。

すでにかなりの手応えを感じています

外側の世界で起こることは 自身の内面が映し出されたもの、という実感が 一段と深まったように思います。




明日の夕方から また寮に行って、あさっての朝から仕事、次の更新がいつになるかは私にもわからず、まったく氣まぐれなブログで申し訳ありませんが、更新が滞っている間も 立ち寄ってくださる方がけっこうおられることに 驚きつつ感動しております。

ほんとうにありがとうございます。

もう少し消化が進んで 自分の言葉として発信できるようになったら、また長文を連発することになるかと (^_^;)

そのときまで みなさま、どうかお元氣でお過ごしくださいね























天地の恵み

2015年06月03日 09時21分18秒 | 自然


夕べから かなり強い雨が降っています

きのうの午後、湿り氣を帯びた風が吹いて 涼しくなってきたあたりから 畑のお手入れをしましたが、ナイスタイミングだったみたい




ミニトマトは早くも鈴生り、早いものはもう薄赤く色づいています。

普通のトマトも りっぱな青い実が二つ、ナスも 1本はちっちゃな実が生りかけで、もう1本は 紫の美しい花を2輪咲かせています。

ピーマンと鷹の爪の花は オフホワイト、葉の濃緑色とのとり合わせが なんとも清楚で可愛らしいこと

ピーマンももうじき食べられそうな実がひとつついていました♪




ミックスリーフは サニーレタスやサラダ菜がどっさり、混み合っているところの株を抜いて 空いているスペースに植え替え。

時無し大根は、根っこはまだまだ赤ちゃんですが 緑の葉がびっしり茂って、これも 間引いた苗を植え替え、この葉っぱで漬物やふりかけを作るのが楽しみ~

キュウリは 苗のときはすごい勢いで大きくなっていたのに、地植えにしたら 毛虫に葉っぱをたいぶ食べられて かえって小さくなってしまいました(T_T) が、成長点はまだまだ元氣そうなので、まめにお世話しながら見守ることにしましょう。

他にも、バジルがたくさん、調理したカボチャが美味しかったので 播いてみた種からも1本、さらに 去年花をつける前に刈り取られてしまったので なかばあきらめていた青ジソも、残っていたこぼれ種から あちこちでにょきにょき出てきてくれました \(^o^)/

今年は しっかり畑の体裁が整っているので 去年のようなことはないでしょうが、念のため 少し大きくなったものから掘り上げて、きちんと畝に植え替え。

特筆すべきは おととし苗をいただいたレモングラス、インド原産で 寒さに弱く、日本での冬越しは難しいと聞いていましたが、去年の記録的降雪や 今冬のこれまた厳しい寒さにもめげず、わが家で三度目のシーズンを迎え 新しい葉をぐんぐん伸ばしています

夏は、この葉っぱを入れた水が 清々しい香りで美味しいのよね。。。。もちろんハーブティーにもお料理にもお風呂にも、あれこれ楽しませていただける ありがたいハーブ♪

あと、あまりにも古いので ダメもとで播いたラディッシュから、どうやら1本育ってくれたのがあったらしく、こういうのを見つけるたびに、すてきなプレゼントをもらった氣分になります

日当たりがよくなったおかげで、こんなに畑らしくなった 小さな小さな土地、お日さまの恵みって 偉大だなぁ(*^^*)




一方 風呂場前のわずかなスペースでは、ルッコラとパセリがぐんぐん伸びて ルッコラは種のさやがどっさり、これはほんとうに 千粒ぐらいありそうだ (゜0゜*)

パセリも花をつけていますが、思いがけないこぼれ種からどっさり生えたため、まだまだ小さくて 葉をいただける苗もたくさん残っていて、当分不自由しそうにありません。

ルッコラの あとから播いた分も ぽちぽち出てきているし、今年は時期を逃さず播いた鶴首カボチャも しっかり育っています。

使い終わったあとの根っこを植えた青ねぎも、いまだに葉をつけていて すごい生命力、そのうち花が咲くかもしれないなぁ♪




ネコの額のそのまたホクロぐらいのわずかなスペースでも、こんなにどっさり 天地の恵みをいただけるんですね。

ささやかでも またこうして畑仕事ができる幸せ

時間のたつのも忘れて手を動かしながら 一面に広がるいのちを眺めていると、これがほんとうの豊かさっていうものなんだなぁと しみじみ思わせられます(^^)
























コリーヌ ・ セローさん インタビュー

2015年06月02日 18時46分00秒 | ふと思うこと


こんな動画を見つけました(^^)


「美しき緑の星」 監督で主演女優のコリーヌ・セローさんのインタビュー動画    その1    その2


ちょっと字幕の多い動画ですが(笑)

その1が 13分24秒、その2が 13分43秒、「美しき緑の星」 についての話は、その1 の 5分21秒あたりから出てきます。

映画が作られてから15年ほど後の映像らしく、セローさんもいくぶん風貌が変わっておられますが、その言葉には 揺るがぬ力強さを感じます。

ところどころ 訳が少々? なところもありますが、これを見てから 「美しき緑の星」 を見ると、新たな印象が加わるかもしれません。




食べること ・ きれいな空氣や水 ・ 土地は、大地から無料で氣前よく与えられた権利であり、奪われた権利でもある、と語るセローさん。

一粒の種から千粒の実りという話は、私も以前から まったく同じように思っています。

「等価交換」 という言葉が しばらく氣にかかって仕方がなかったのですが、あるとき不意に これは作られた偽の価値観、後付けで刷り込まれた価値観だと氣づきました。

天も大地も すべてを無私の愛から、なんの見返りも求めず 無償で与えてくれている。

そして 等価どころか、たった一粒の種から 新しい種を百も千も授けてくれる。

実際に 一粒の種を播いて育った植物から 次代の種を採取することを繰り返していると、その恵みの豊かさを実感できます。

それを不当に奪われていることへの疑問や 新たな主張提案は当然、でも、奪っている相手を敵視して戦うのは 不毛だから やめておきましょう。

たとえ自分が悪いとわかっていても、責められると 思わず心を閉ざしたり ウソをついたり 逆ギレしたりしてしまうのが、人の防衛本能というもの。

自分のしたことは 必ず自分に返ってくる、その人たちにはその人たちの学びの道があり、私たちは 自分の心の調和を実現することで 大きな智恵や力を取り戻し、対立や争いを超えたところに 新しい道を創れます。




自分はユーモアを持ち 楽観的だから、前向きでいられる、と語る セローさん。

笑いがあれば、心にもゆとりが生まれるのでしょうね。

ようやっと負の感情を減らせるようになった私、次は笑いを増やすことがテーマだな、と これを聞いて思いました (*^-^*)ゞ




私たちも、笑顔で楽しくことを進めて、ソフトランディングで 私たちの 「美しき緑の星」 を きっと実現できる、そう信じてやみません




「美しき緑の星」 のあとに作られたらしい 「世界の混乱のための ローカル解決策」 っていう映画も 見たくなってきたな☆




















ゆるすということ

2015年06月01日 07時56分40秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


日ごろ テレビも持たなければ 新聞もとってない、ニュースといえば ネットの見出しで 関心の向くものを読むだけ、の貴秋ですが、そんな私でも、上の人たちのやってることっておかしくない? と思うことがしばしば。

政治をつかさどる人たちは やたら好戦的な人が多いし、地震や噴火がこれほど相次いでいるのに 原発再稼動させようとするし、世界中の経済システムがガタガタになっていても 企業の上の人たちは 相変わらず利益を上げることばかり考えているようだし、マスコミだって 医療だって 教育だって 特大の? をつけたくなるような話が山積み。

大手マスコミが取り上げなくても (それ自体がそもそもおかしいのだけれど)、ネットで探せば、そんな? についての話が目白押しだものね☆

とりあえず、最近読んだものから いくつか上げておきますので、よろしかったらお時間のあるときにでも。

医療について     箱根山の実態その1    その2    海洋汚染について




ただ。

今ここで書きたいのは、社会に大きな負の影響力を与えているように見える人を糾弾する話ではないのです。




私たちのこの世界は、相対する二つの力がバランスをとりながら成り立っています。

プラスマイナス、善悪、正誤、愛憎、是非、といった具合に。

一方が突出すれば、かならず反発する力が働く。

そして、反対運動が激しくなればなるほど、またそれに反対する人が増える。

二元対立は この三次元世界の摂理だから、それに乗っかっている限り、どこまでいってもキリがない。

真の解決には 決して至らないのです。




心情的には よぉくわかるんだけれどね。

少し前までは、私も世のなかを 好きと嫌いにくっきり染め分けて、嫌いなものには猛反発、ときには憎悪といっていいぐらいの感情を抱いていたもの。

でも、「見えるものすべては 自分の観念の鏡像」 という言葉を信じて、自分の中をつぶさに見ていったら、特定の何かを嫌ったり憎んだり恨んだりする理由っていうのが、幼いころ受けた仕打ちへの反感 そっくりそのままの投影、というからくりが くっきり見えてしまって。

今この瞬間に感じたものじゃなくて、子ども時代の解消されていない感情を持ってきて 反発していただけっていうこと。

だから、そのずっと引きずっていたわだかまりが 感覚フォーカスで 次々解放されていったら、「それおかしくない?」 と思いはしても、相手を以前のように感情的になじるということが 次第にできなくなってきたのです。




対立し 打ち消しあうことが 根本解決につながらないのなら、他にどんな道があるのか。

それが 「ゆるす」 ということなんじゃないかと思うんですね。

・・・・・って、以前の私だったら、こんなこと聞いただけで、吐き氣をもよおしただろうけれど(^^ゞ

そのころの私は、「ゆるす」 は 「許す」 という字を当てて、「いやなことだ、いやな奴だと思うが、あえてその思いを表に出さずにおこう」 という意味にとっていたから。

自分の中に 対立概念も わだかまりの元も残したままで、そんなムリが続けられるわけないのに。

だから、「許す」 なんて言葉、氣分悪くて 聞くのもいやだった




憎み合っても 反発し合っても、解決にはつながらない、さりとて 憎んだり嫌ったりするにも それなりの訳があり、そこがそのままでは やはり解決は図れない。

ここで新たに出てきたのが、「許す」 ではなくて 「赦す」 (というふうに 私は使い分けています)。

「赦す」 は、自身のわだかまりや反感の根っこをしっかり見つめ、過去の痛みを引きずっていたに過ぎないことに氣づき 手放すことで、対立そのものが 自然に薄らぎ離れていくこと。

誰かを憎むとき、憎んでいるのも自分なら、憎まれる相手も 鏡に映った自分。

否定的感情が生まれると、自分が分裂して 力を落としてしまうのです。

「赦す」 は、その否定的感情が 今は幻に過ぎないことに氣づき、分かれていたものが再びひとつになって、自分の手に力を取り戻すこと。

反対運動には、真の解決を図るエネルギーと 古傷を癒そうとする反発のエネルギーが 混在しているように感じます。

メンバーひとりひとりが まず自身をよく見て、痛みから解放してあげることで 初めて、運動そのもののパワーが上がり、建設的なアイデアが集まる・・・・そんな氣がします。




始めに挙げた4つの記事の 海洋汚染の話の中で、ブログ主さんは 「洗心」、つまり 心を洗うことで、「人々の心がより清らかになれば、地球環境はそれと同調して清らかな方向へ向かいます。」 と書いておられます。

これって、自然環境だけでなく、社会環境にも当てはまることだと思うのです。