毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ひとつに。。。

2012年07月24日 11時33分51秒 | ふと思うこと
かれこれ十数年前の話になりますが、テレビアニメで「魔法騎士レイアース」っていうのがありまして。

いえ、私が見ていたわけじゃなく、家族が見ているのを台所仕事などしながら背中で聞いていただけ、だから 不思議な力を使うカワイイ女の子の戦士が三人いたことぐらいしか記憶になく、どんなお話かもさっぱり知らないんですが。

ただ、なぜかはっきりくっきり残ってるシーンが二つだけあるんです。

ウィキペディアで改めて登場人物を確認しつつ書きますと、ひとつは ヒロインの一人獅堂光に ノヴァという女の子が襲いかかるシーン。

このノヴァは 顔が光にそっくりで、敵対心むき出しなのです。

「獅堂光の血が見たい!」なんていうカゲキなセリフが今でも耳に残っています(^_^;)

で、もうひとつは、なぜか意気消沈してしょんぼりぐったりしたノヴァちゃんが、光の前にとぼとぼと歩み出て、なぜか二人が融合して(というかノヴァが吸収されるような感じで)ひとつになるシーン。

ウィキによると、ノヴァちゃんは アニメ版オリジナルキャラクターで もう1人の獅堂光という設定、あの二つ目のシーンは ずっと敵対していたノヴァちゃんを ヒロイン光が受け入れて融合した、というものだったらしいです。

放映日もまったく違うはずのこのふたつのシーンが、なぜかセットで長年頭の片隅に残っていたんですね。



で、いったいなぜ急にこんな話を始めたかと言いますと。


以前、「身体反応と感情を切り離すことで、負の感情をエスカレートさせずに客観視することができる」という話を書いた記憶がありますが、

実際これを何度も何度も繰り返すうちに、それまで自分自身に他ならないと思い込んでいたネガなキャラクターが、後づけでイメージを固められた作り物であり、本来の自分と切り離すことができる、着ぐるみのように着脱可能(笑)の存在に過ぎないことが、リアルに感じられるようになってきました。

もともとの私がネガティブなんじゃなく、私の中に後天的にネガ回路が作られただけで、別にその回路を使わなくたってかまわないんだ、むしろ ついついその回路を使ってしまう習慣を、新しいクセ付けによってなくすことができるんだ、と。

お日さまを隠す雲のように、本来の いのちにもっとも近い自分をさえぎって表に出にくくしているのが、「エゴ」とか「我」とか呼ばれる種類の意識。

この「エゴ」という呼び名が けっこうクセモノなんじゃないかという氣がするのです。

「エゴ」には 最初から否定的な意味合いがついて回るから(私的には 「我」のほうがまだしも中立的色合いを感じるので、必要があればこちらを使わせてもらってます)。

精神的なことを書いた本も多数読みましたが、この「エゴ」に厳しいものがけっこう多いという印象を受けます。

エゴは 本来の自分を妨げる存在であり、それに引きずられることなく乗り越えなければならない、エゴに捕らわれてはならない、というような。

それはまったくそのとおりだと思うのですが、「エゴ」に少しでも否定的な色がついた状態でこういう話を聞くと、ついつい自己実現を妨げるジャマモノみたいに思って、攻撃的に排除しようとしてしまうんじゃないかなぁと。

でも・・・敵視すればするほど、実はその存在が大きくなっちゃうんですね(T_T)

そもそも「敵視する」っていうこと自体、「敵がいる」ことが前提になってますから。

間違って生み出してしまったものを 生まれる前の状態・ゼロに戻そうとしてるのに、相手が大きくなってしまうのは困りものです



「レイアース」の光ちゃんは、自分の分身・「陰バージョン光」とでもいうべきノヴァちゃんを受け入れて 再び一人に戻ることで、自身の心の闇をクリアした。。。というストーリーに見えるんですね。

戦闘もののアニメで 敵を倒す場面は数あれど、こういうシーンは見たことがなかったので、強く印象付けられてたんじゃないかと思います。



私たちは、生まれた後、いや、もしかしたら生まれる前から、周囲の人を通じてさまざまな情報を受け取り、それに応じていくつもの反応パターンやキャラクターを作り上げます。

それをそのまま持ち続けたり 中には「売り」にして生きていく人もあって、そういうのもありだと思います。

ただ、そのキャラがもはや自分を幸せにはしないと感じたときは、あの手この手でお別れしようと努力することになりますが、そのときに相手と戦うのは逆効果だし、戦いたくなるような言葉も使わないほうがいいんじゃないかな?という話なんです。

よく使わせてもらう例えだけど、「北風と太陽」の北風さんは、労多くて報われない役回りですものね。

私自身、ネガを排除しようとする誤りをなかなか手放せず(理屈でわかっていても ついやっちゃうんですね)、約十年経った今になって ようやっとこのことが身に沁みるところまでたどり着いたんですから。



どんな否定的な性格だって、そのときは意味があったんだもの。

ほかに手立ても思いつけないまま 身を守るために必要だったからこそ生み出されたんだもの。

成長して必要のなくなったそれは、春が来たときの冬用コートみたいなもの。

暖かくなったからって邪険にすることないよね、役に立ってくれたことに感謝して そっと手放すだけでいいよね。

今はあまり心地よく思えなくなった性格だって、かつて自分のために生まれてきて 自分を守ってくれたことに感謝しよう。

そして、状況が変り 自身が成長できたことにもう一度感謝して、“歩みを止めた子ども”状態のネガちゃんを 大人になった自分の中に呼び戻せばいい。

こうやって バラバラに散らばっていた自分をひとりひとり呼び戻しては、再びひとつになって歩いていくんだね



年明け以来、もうたいがい見つけ出したかなんてうぬぼれてたネガキャラが 再びぞろぞろと姿を現す機会が多くなって、ネガキャラ一掃セールみたいなありさまで かなりヘトヘトなんですが、ヘトヘトの原因がどこにあるのかが、昔々のレイアースの一場面とともに思い浮かんだ、というお話でございました


おかげでだいぶ氣が楽になりました(^^)




それにしても、毎回思うことですが、人生のどこにどんな伏線が張られているかわかりませんね♪

はるか昔に 台所でお茶碗洗ったりしながら聞いていた「レイアース」がこんなところに出てくるなんて、思いもよらなかったよ(笑)



今回も 長々とお付き合いくださり ありがとうございます m(__)m














責めなくていいよ

2012年07月22日 01時41分25秒 | ふと思うこと
私のパソコンの「ホームページ」っていうのかな?ネットにつないで最初に出てくる画面は ここしばらくずっとYAHOO!にしてるんだけど、このYAHOO!に「知恵袋」っていうのがあります。

ご存知の方も多いかと思いますが、さまざまな悩みや疑問を投稿して、自由に回答を募るというもの。

かの有名な「家に帰ると妻が死んだフリをしています」とか 「キラキラネームをつけられた子どもの悩み」とか、申し訳ないけどちょっと面白いなと思ってしまうものから かなり深刻に見えるものまで、それはそれはいろいろな質問が寄せられています。

YAHOO!の初期画面に 興味深そうな質問のタイトルが出ていると読みに行かせてもらうのですが、中でも印象深いのは、家族や友人間のトラブルなど「身の上相談」的な悩みに対しての回答に、非があると見える人を感情的に責め立てるような内容のものが多いこと。

読んでると 心の中にビンビン痛みが走って、そして思うのです、

「ああ、この人は回答にこと寄せて 自分自身の痛みを吐き出しているんだなぁ」って。


その感じ、ありありとわかる。

私自身、ほんの少し前まで 新聞読もうがテレビや映画見ようが、自分と同じような痛みを持った人を見つけると、激しく感情移入して 過激に反応してたもの。

それはもう他人事なんかじゃない、自分自身の痛みそのものから生まれる怒りや憎しみなんですね。



そんな自分の思考回路に氣づかせてくれたのが、これまた旅館のお仕事。

それまで他人の中で揉まれて働いた経験のほとんどなかった私にたくさんのことを教えてくれた、ほんとありがたい職場です。


一緒に仕事してる人やお客さまのちょっとしたひと言に 「ムッ」とか「カッ」とかしてしまう自分がいるんですね。

と同時に、いや、そんなに怒るほどの事じゃないはずなのになぁ、と首かしげてる自分もいるのです。

どういうことなんだろう?と 心の奥をずっと探っていくと、とんでもなく昔の記憶にたどりつきます。

まわりの大人の何氣ない言葉に傷ついて、その感情をどうすることもできないまま身の内に封じ込めてぐっとガマンしている幼い自分。

そして ウン十年経って、当時と同じような言葉を投げかけられたのがスイッチになって、幼児の頃そのままに持ち越していた感情が噴き出してしまってたんですね。

今怒ってるように見えて、実は心だけ子どもの頃に返って怒ってるんだ、と。



お客さまにもときどきそんな方がおられます。

こちらのミスやサービスの遅れなどに対して お叱りを受けるのは当然なんですが、そんな中でもいわゆる「大人氣ない」怒り方をされる方があって、そんなとき「ああ、この方文字通り『大人の氣じゃない → 子どもの氣(氣持ち)に戻ってしまってる』んだなぁ」と思うようになりました。



納得いかないことに激しい怒りを覚えるとか、自分に非があるとわかっていても 責め立てられるとなんとしても認めまいとがんばってしまうとか、そういう反応って 案外リアルタイムのものじゃなくて、昔の記憶に突き動かされているだけという場合が多い氣がします。

前の日記に書いたような、人の話を聴くよりも 自分の言い分(攻撃であれ防御であれ)を激しく言い立てたくなるときって、子ども時代の心に戻っている可能性が高いんですね。

もちろん 相手の言葉に違和感を感じたり 同意できないと思ったりすることはあるでしょうが、子どもの感情に左右されなければ、もっと敵対せずに建設的な話し合いができるんじゃないかっていう氣がします。



もし、自分の怒りや憎しみや恐れのおおもとに何があるか しっかり確かめることができたら。

そのときは、きっと他人を責めなくてもよくなるね。

自分を動揺させるほんとうの原因は その人じゃなく 自分の中にあるんだってわかるから。



さらに。

自分を守れなかった自分を責めることもなくなるね。

他人に投影した怒りは 実は自分に向かうものだったことにも氣づけるから。



自分にも人にも 折あるごとに もう怒ったりおびえたり責めたりしなくていいんだよ、ってやさしく伝えたい。

しみじみそう思います。















続 ・ 聴く 力

2012年07月20日 23時13分22秒 | ふと思うこと


「沈黙とはあたまとこころとからだが完全につりあっている状態」 ~サンテ・ラコタ~



 



長いことブログ書けずにいましたが、実家で日ごろ目にしないテレビ番組や新聞記事を見るにつけ、思うことは多々あって。



ニュースの冒頭や新聞の一面などに取り上げられる 原発、いじめ、オスプレイ問題、などなど、うれしいとはいえないニュースの数々に触れるたびに思うのが、


  「言いたいことではち切れんばかりになってる人はたくさんいるのに、じっくり耳を傾ける人がいないみたいだなぁ」



みな 聞いてほしい思いがこみ上げてほとばしらんばかりになっていて、相手の言葉をじっくり聴くだけの余裕がない。

そういう心境もよくわかります。

私だって、少し前までそういうところすごかったもの。

話したい人ばかりだと、誰も彼もしっかり聴いてもらった満足感が得られないままなので、よけい互いの主張がエスカレートしちゃうんだよね。

わかるんだけど。。。これをどこまでやっても、納得いく結論にはまずたどりつけないだろうなぁ。。。



また、本音を言わないまま、追及を逃れたい人や 思い通りに状況をコントロールしたい人などもおられるようですが。

これについて、前に書いたミヒャエル・エンデの「モモ」にこんな場面が出てきます。

人々の時間を奪おうとする「時間貯蓄銀行」の「灰色の男たち」。

彼らはもちろん 自分たちが時間を奪おうとしていることは悟られないよう、言葉巧みに説きつけて みなに時間の節約こそ美徳だと思わせるように仕向けてゆくのですが、彼らがどんなに手を尽くしても陥落させられないただひとりの人間が、モモ。

モモのところにやってきた灰色の男たちのひとりに モモが何をしたかというと・・・例によって 彼のひと言ひと言にじっくり耳を傾けるんですね。

それも、ただ言葉の表面を追うのではなく、相手の心に入り込んで 言葉の元にある思いを感じ取ろうとする。

すると、それまで余裕たっぷりだった灰色の男が だんだん自信と冷静さを失っていき、ついには本来秘密のはずの彼らの計画を 意に反してしゃべってしまうのです。

カナリヤの歌声を誘い出したように、彼らの本音を誘い出してしまうのですね。



誰でも感じる力を持っているから、「この人ウソついてるな」っていうのは 案外あっさりと伝わってしまうもの。

でも、そこを問い詰めれば問い詰めるほど、相手のガードは固くなる。

旅人の外套をむりやり脱がせようと吹きつける北風に、旅人がますますしっかりと 外套を身に巻き付けたように。

旅人の外套を脱がせたのは、全身をあたたかく包み込むお日さまの温もりだったんだよね。



自分の言い分をしっかり聞いてほしいっていうのは、自分をあたたかく受け止めてほしい、大切に扱ってほしいっていうことなんじゃないかと思います。

本音を言わない人の心の底には たぶん恐れがあって、それを溶かすのはやっぱり 責め立てるのでなくあたたかく受け止める人の心なんだろうとも。

モモのように、ひとりひとりの発言のおおもと、その言葉を言わせる根っこの思いを聴き遂げようとする力が 今とても必要なんじゃないかという氣がします。




・・・と言ってはみたものの。

人の話をそこまでしっかり聴くのって。。。難しい~

聴くことの大切さがひらめいて以来、ずっと努力はしてるんだけど。。。

相手のたまり溜まった怒りや怨念に恐れをなして逃げ出したり、うっかり自分の過去の怒りと共鳴させてしまって平静でいられなくなったり、同じ話の繰り返しに耐え切れなくなったりと、だめだこりゃなケースのまあ多いこと(笑)



冒頭の一文は、ツィッターの「ネイティブ・アメリカンの言葉集」から。

あたまとこころとからだがつりあって沈黙が保てるというのなら、しゃべらずにいられないのは バランスが崩れた状態だっていうことなのかな?

う~ん、まずは 自分の心のバランスをしっかり保つことが先かもね(^^ゞ



と、そこから思ったんだけど、一番大切なのは、ほかの誰よりもまず 自分自身の心の声をしっかり聴くこと、なのかもしれないなぁ☆

みんながみんな、自分のほんとうの氣持ちをちゃんとわかった上で、忌憚なく話し合い聴き合うことができれば、それだけで 今起こってる問題の大半はなくなっちゃうかもしれないね。




「聴く力」という課題、長いおつき合いになりそうです。
















断捨離

2012年07月20日 11時46分03秒 | 奈良・実家・家族
テンプレートを青空に変えたとたんに リアル天氣が雨に戻っちゃった(笑)

片付け物も中休み、きょうは久々にゆったりと過ごしています♪



それにしても。。。

おとといの日記に「片付けることで風通しがよくなって氣持ちいい」と書きました。

たしかにそれはそのとおりなんだけど、一方で かつて暮らしの一部であった品々が「ゴミ」として袋詰めにされて積み上げられている光景は 胸が痛んでしかたがありません(T_T)

母がどうしても手放せずにいた氣持ちもわかる氣がする。

それでも一生懸命やれたのは、そうやってしまいこまれていた大量の品々が 無残に水漬けのゴミの山と化した 昨年9月の水害の記憶のおかげでしょうか。

使うか手放すか ふたつにひとつ、未練だけで死蔵されることは 結局は物にも人にもいいことではないのだと思い知らされましたから。




「断捨離」っていう言葉が一時期盛んに聞かれました。

改めてウィキペディアで調べてみると、

      断=入ってくる要らない物を断つ
      捨=家にずっとある要らない物を捨てる
      離=物への執着から離れる

ということなのだそうな。

う~ん、「捨」だけじゃないんだよね。

捨てるそばから また欲に駆られて物を集めていたら、それはただ物を粗末にしていることにしかならない。

つまりは、三つそろって「なにをするか」じゃなく「どうあるか」ということだろうか。



わっせわっせと執着を断ち切って ここ数日で研ぎ澄ませたはずのわが刀、返す刃でわが身を省みれば。。。



          (^◇^;)   



うちに帰ったら また大片付けだぁ~!

引越し重ねて無駄なものは持ってないなんていい氣になってたけど、まだまだ物多過ぎ、欲深過ぎ!



修行足りてません。。。














おはよう!

2012年07月19日 06時26分17秒 | 奈良・実家・家族
久々に 5時半前に目が覚めました(^^)v

ここ3日ほど 父が早朝ウォーキングを再開したので、けさはちょうど出発に間に合ってお見送り。

朝陽を思いっきり浴びることができました

早朝の空氣はやっぱり氣持ちいい~


そろそろ父が戻ってくる頃だから、朝ごはんの支度にかかるとしましょう♪

きょうもせっせと片付け物するぞぉ~












風通しよく♪

2012年07月18日 22時22分11秒 | 奈良・実家・家族
6日からまたまた奈良に来ています。

今回は、7日晩の 父がアマチュア合唱団員として参加していた グノー作曲「聖セシリア荘厳ミサ曲」の演奏会を聴くのがメインの用。

当初は向こうしばらく曇りか雨と聞いていたこともあって、3~4日の滞在かもと思っていたのですが、予報が大きく外れて 最初の数日こそ雨だったものの そこから先は見事な夏晴れ。

もっと続くかと思われていた梅雨も あっさり明けて、今や連日の猛暑日。

となると、このギンギンのお日さまに手伝ってもらってやりたいことが山ほどあるわけで。

ここ6日ほど、タンスや押入れの中のものを片っ端から引っ張り出しては 朝から夕方までひたすら洗ったり干したり片付けたりと大車輪の毎日なのです


新しいものを買って、それまで使っていたものがいらなくなって、それでも愛着があって どうも手放しづらい。

そんなとき、「とりあえずしまっておきましょう」とタンスや押入れに入れておく、というのはよくあること。

しかし、これも限度というものがあるのでして。。。


第二次世界大戦真っ只中に女学生だったわが母、「もったいない精神」に物への思い出や愛情が重なって、もう古びた物でも色あせた物でも 何でもかんでもそこら中に押し込んで 半ば忘れていたらしい

古い服だのバッグだのアクセサリーだの寝具だの、文房具類の買い置きに 果ては子供たちの昔々の成績表からはるか以前の領収書のたぐいまで、もう出てくるわ出てくるわ

それらをすべて 父と相談しながら取っておくものと処分するものに分けて、取っておくものはお手入れしてきちんとしまい直し、処分するものはこの地区のルールに従って分別し ゴミ袋へ、の繰り返し。

多分一番音を上げてるのは洗濯機でしょう・・・一日3回も4回もこき使われて(笑)


連休最終日には、仕事が一段落した父も参戦し、押入れ丸ひとつ分の中身を全部出してより分け、結果実家は各種ゴミ袋の山

もうすごいことになってます(笑)



それにしても・・・なんで今ここまでやってるんだろう?

別に今すぐしなければならないわけではないのに、なんか連日頭もからだもほいほい動いちゃうんですね(^_^;)

母がつい最近まで使っていた服やバッグなどは とても手放す氣になれず、手入れをしてまたタンスにしまい込んだり。

それでも、死蔵されていた品々に 感謝とともに別れを告げ、家のあちこちがすっきり秩序を取り戻すごとに、家の空氣も私の心も どんどん風通しがよくなって、氣持ちいいことこの上ないのです♪



なんかよくわからないけど、これもきっと意味があるんだろうな、と思いながら、せっせと片付けにいそしむ日々です(^^)





















最高の学びの場

2012年07月04日 15時51分39秒 | ふと思うこと
前回の「モモ」のカナリヤのエピソードから ふと思い出したんですが。

和歌山に来て3年目ぐらいだったかな?

二度目の職場は やはり前と同じく旅館だったんですが、これがなかなかにハードなところで。


最初に働かせてもらったところは、経営者さんは良くも悪くも放任主義、以前からの友だちが二人すでに働いていて、ほかの年長のベテランさんたちも親切で面白くて、家族みたいに和氣あいあいと過ごさせてもらってたので、なんとなくその延長のように思ってたのですが。

新しいところは、組織やシステムがしっかり組まれ、規律正しく統制がとれていて 意欲的な方も多かったのですが、その分メンバーひとりひとりが組織の歯車としてきっちり機能しないと 皆に負担がかかるということで、不慣れな新入りの私に容赦ない方もけっこうおられて。

いや、そういうところに行くことになったのも、甘えた思い込みを正して よりよい人生を歩むため、あの頃の自分にぜひとも必要なことだったのだと 今ではよくわかるのですが。

それまで恵まれ過ぎていて 知らず知らずのうちに傲慢で我が強くなってしまっていた私には、慣れないことゆえの間違いや要領の悪さをいちいち責められるのが ひどく苦痛でした。

3日目ぐらいには もう辞めたい!と思うまでになっていたのですが、懐事情で どう考えてもむこう3ヶ月ぐらいはそこで辛抱するしかない。
(そういうふうに見事に仕組まれてたんですね

このままでは精神が崩れてしまう、とまで思い詰めたとき。

今思うと、あれは 防衛本能がとっさに思いつかせた ストックホルムシンドローム的破綻回避手段だったんじゃないかと思うんですが。

度重なる非難に 内心反発しつつすっかり疲れた私、窮余の一策をふいに思いついたのです。

実際のところはどうであろうと、「非難」ではなく「教え」「親切な忠告」だと 無理やりでも思い込むこと。

で、仕事が終わったあと、先輩方ひとりひとりに「いろいろ教えていただいて助かります、ありがとうございます」と 笑顔で挨拶してみました。

そうしたら。


みなさん揃ってにっこりし、「最初から出来る人はおらんのよ」って優しく言われるではありませんか。

いや、それなら最初からそう言おうよ、っていうのは ぐっと喉元で飲み込んで(笑)

とにかく発見でした。

誰でも自分のことを善意の人だと思っているし 思いたいし、こちらからそういう面を誘い出せば そのとおりになるのだと。

それ以来、機会を捉えては この発見をさらに確かめるようになりました。

大きな旅館ゆえ 従業員数も多く、いろいろな先輩と組むことができ、またお客さまもそれはそれはバラエティに富んでおられて、観察には格好の環境。

うわ、ヤバイ、と思うたびに 何度この手を使ったことでしょう

その都度バッチリ身を守ってもらい、結果、この発見は 確信として私の中にしっかり根を下ろしたのです♪



どんなコインにも 必ず表と裏の二面があるように、人の心の中にも 必ずいい面と悪い面(ととりあえず表現しておきます)がある。

そのどちらに焦点を当てるかで、出てくるものが180度違ってくる。

先に書いたように いい面を誘い出すことは充分に可能だし、一方で 最初私が体験したように、とことんダメな奴と決め付けられれば 萎縮してひねくれて、ほんとうにそのとおりの人間になってしまいもする。

よく言われる話ですが、身をもってとことん学ばせてもらったというのは強いもの。

単なる小手先のテクニックなどというのでなく、これ、間違いなくそのとおりだと思います。



そして今。

この事実をうまく使うことが、私の“天職”のひとつだという氣がしています。

もとから素敵な人はますます輝くし、一時的に自信や元氣をなくしている人だって、心の奥に引っ込んでしまっている素晴らしさに焦点を当てて ちょこっとお手伝いすれば 必ず復活できる。

中でもとくに、子どもたちには 最初から自信と輝きを持ち続けていてほしいと思うしね♪

・・・っていうか、まずはやっぱり自分から、かな(^^ゞ




それにしても、あの頃がこんなふうに 伏線として今につながってたなんて。

人生のどん底、と思い込んでしょげていたときに、実はいちばん大きな恵みや氣づきをもらっていました。

つくづく天の愛だなって思います

ありがたいことです



わが人生最悪の場、と決め付けていた元職場、もう一度戻りたいとは思いませんが(笑)、今では最高の学びの場だったと 心から感謝しています(^^)


















聴く 力

2012年07月01日 21時21分52秒 | ふと思うこと
人にじっくり話を聞いてもらうことの大切さが初めて身に沁みたのは、去年9月の水害のときでした。

命はもちろんのこと、家、家財、車・・・と 自分になんの被害があったわけでもないのに。

それでも、水がじわじわ上ってきたときの恐ろしさや 真っ暗な夜中の避難、土石流の不安に生まれて初めての避難所生活、ライフラインを断たれた心細さ、と、心に抱えきれない思いを もう話したくて話したくてしょうがないのです。

ありがたいことに、ご近所の方も 別の集落の方も、出会うたびに「お宅どうやった?」と尋ねてくれるし、心配して連絡をくれた友や身内も 長い話をじっくりと聞いてくれました。

とどめに このブログにも思いっきり書かせてもらったし

不安定な氣持ちが尾を引かずに済んだのは そのおかげだと思います。



先日母が亡くなって、あちこちからのお氣遣いへのお礼のたびに 父が長々とそのときの様子を話すのをそばで聞いていて、以前だったら「そんなこと繰り返し思い出して辛くないのかな」と心配したことでしょうが、いや、こうして話すことでかえって救われてるんだ、と思うことができたのも、その体験があったから。



自分の体験、とくに辛い体験を言葉にするって、とても大事なことなんですね。


重荷やつかえになってることを吐き出すだけで、まずは楽になれるし。

話しているうちに いろいろと見えてくるものもあって、自分の本心に氣づいたり、心の整理をつけたりしやすいのかもしれない。

また、もっと深いところで 自分を受け止めてもらったという満ち足りた思いや安心感も生まれるのかもしれないね。




そんなこんなで、話すことの値打ちに氣づかせてもらった私ですが、

じゃあ、聞くほうとしてはどうなの?となると。。。。






人の話を聞くのは 決して嫌いではないんです。

ただ、同じことの繰り返しで退屈だったり ネガティブな内容だったりすると、すぅっと氣持ちが離れてしまったり。

また、思い当たることや強く共感することがあると、相手の話を聞き遂げる前に 自分の思いを口にしてしまわずにいられなかったり。


結局、自分の“我”が前に出ちゃうんですね。


最近「人の話を『聴く』技術」っていう本を読んだんだけど、ただ漫然と聞くのでなく 積極的に身を入れて「聴く」っていうのは、ほんとうに思慮深さや忍耐、思いやりのいることなんだなぁと思いました。

なによりもまず、自分を限りなく透明にして、心のざわつきを極力消して 相手の氣持ちに寄り添うことが必要なんですね。

そうして 思いやり深く 鏡のようにまっすぐに相手の心の内を映し出すことができれば、それを見た相手が 自分から答えを見つけて救われるかもしれない。

我が強いと ついこちらが答え(と思うもの)を言ってしまいそうになるけど、それではほんとうに相手の力にはならないんだよね。

相手の答えを知ってるのは 相手本人だけだものね。




ミヒャエル・エンデの「モモ」という本(「モモ」は主人公の女の子の名前)、お読みになった方もおられるかもしれませんが、このモモが 鳴かなくなったカナリヤを、ひたすらその声を聴き取ろうとすることで 再び鳴くようにしてあげるエピソードが出てきます。

このときモモは、1週間も 鳴かないカナリヤの声にじっと耳を澄ませ続けるんですね。

まだ声のないところに 声になるかもしれない何かを感じて、じっと待つ。

そんな優しく辛抱強い思いが 相手の心を誘い出す。

それが「聴く」っていうことなのかもしれないなぁ。



私も モモのように「聴ける」人になれるかな?

簡単ではなさそうだし 時間もかかるだろうけど、それでもいずれはそうなりたいな♪

まずは 自分の魂を磨いて、心のバランスをとって、内側を満たして。

そうやって成長するにつれて、聴く力もついてくるのかもしれないね(^^)