毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

捕われた思い込みは手放せる。。。。ラクにとは言わないけれど☆

2017年08月19日 09時49分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


自分のすべてだったはずの世界が 自分から離れる、すきまがあく。。。。それは、すべてだと思っていた世界のまわりに もっと大きな世界が見えてくるということ。

すべてだと思っていたものが 部分に過ぎなかったと氣づくこと。

そうやってパーツだということがわかってくると、それはもう絶対的なものではなくなります。

それ以外にも選択肢がたくさんあることに氣づき始めるからです。




選択肢のひとつに過ぎないということは 選ぼうが選ぶまいが自由ということであり、もしそれが好きでないなら いつまでも自分の世界として掴んでいる必要はないんだということがわかってきます。

そうして自由になった意識で その世界の内からではなく 外から改めてじっくり眺めると、それが自身の思い込みと密接につながっていることが いっそうあらわに見えてきます。

そして、もうそんなものにいつまでも振り回されている必要はない、やめていいんだ、やめられるんだ、と ふと氣づくのです。

「目に見えている世界は 自身の意識の投影であり、思い込み ・ 幻」 という言葉が “事実” に変わる瞬間です。




目の前の世界が幻になるとはどういうことなんだろう、輪郭があやふやになったり 霞んだり波打ったりして見えでもするんだろうか、なんて想像してみたこともありましたが、実際にはそういうことではなく、それまでと同じぐらい生々しく見えていながら それに捕われなくなることだったんだとわかりました。

だってマボロシなんだもの、眠っているときに見る夢と同じようなものなんだもの、ね

「見える世界は幻」 と言葉で言うのは簡単ですが、それを “事実” にできるかとなると話は別で、本氣でそう思えなかったら いまだありありとリアルに見えているそれを幻扱いするのは難しいでしょう。

それは、ただ口にするだけでなく そのとおりに実行できるかどうか、という場面で試されます。

お尻に火がつくほど切迫した事態をさしあたり脇に押しやって、それを生み出した意識の解放に集中し切れるものかどうか?

が、最初は勇氣がいりますが、いったんほんとうに幻だったとわかれば、それがどんどんできるようになります。

そして、それこそが唯一の 真の意味での解決だったと知るのです。

さらに もっと別の選択をして 意識を書き替え より好ましい世界に創り変えるということも、概念 (外側の情報) から事実 (内から湧き上がる自身の言葉) へと移り変わってきます。

そうやって、意識も世界も変わり始めます。

同じ景色が それまでとは違って見えてきます。




これが ここしばらく貴秋が全力でかかりきりになっていたことであり、いま実現しつつあること。

五感の世界の内からと外からと 複数の視点を持つことは、思い込みから自由になること。。。。。これ 実感です (^^)v





















脱皮

2017年08月11日 09時48分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋言うところの感覚フォーカスは、

   ①感情は、まず先にからだに現れる感覚を起点に生じる

   ②どんなものも 抵抗すればかえって大きくなる、見つめれば 消える

という二つの情報が組み合わさり、「ならば 感情に発展する前の感覚にフォーカスし 見つめ切れば消えるだろう」 という仮説となって生まれました。

そしてその先には 「起点となる感覚が消えれば、手に負えない負の感情も現れなくなるはず」 という期待があるわけです。

実際に期待通りにいくかどうかは やってみるしかありません。

自身の期待と信頼以外はなんの確証もないこんな仮説を 数年がかりで真剣に試し続けられた (といっても最初のうちはほとんど忘れっぱなしだったんですが) のは、この期待が見事現実となるかどうか ぜひとも知りたいという好奇心が いつも不安をちょっとばかり上回っていたからにほかなりません。




当初はうまくいってるつもりであまりできていなかった言葉の切り離しですが、あきらめずに続けた甲斐あって 最近ではスイッチが入ったとたん 言葉が介入するひまを与えず即フォーカスで ごく小さな芽のうちに手放すなんていう早業が (たまにですが) できるまでになりました (^^)v

おかげで、何度も復活しては 感覚フォーカスってほんとうに効果あるんだろうかと不安を感じさせた根深い感覚が いつのまにかすっかり薄らいで穏やかになっていることに ちょいちょい氣づくという成果が。

まず ムッとかカチンとかムカッとかから始まるのは前と同じなのですが、続いて起こる体内感覚のなんと穏やかなことよ、あれ?私いつのまにこんなことに? と驚くばかり。

火事と同じく 怒りの炎も初期消火が重要ですが、感覚が和らいだ分 そこから感情へと向かう勢いもぐっと弱まり 余裕が生まれたおかげで、言葉を介入させず 感覚のまま立ち消えさせるのがますます楽になり、「怒髪天を衝く」 というような激しい怒り方は すっかり過去のものとなりました。

うん、たしかに 感覚が薄らげば 感情の激しさも和らぐ、まだまだ試し続けるけれど 仮説感覚フォーカス まずはOKみたい

さらに、ゴチャゴチャ考え込むことが減った分 直感の精度や信頼度が増し、これまでになくイイ感じの自分を見出し始めたうれしさよ \(^o^)/

しかし、これはまだほんの序の口に過ぎなかったのです。







手応えを感じ出してしばらく経ったころ、言葉の切り離しはたしかにできているのに なぜかいつまでも消えようとしない執拗な感覚に出くわしたことが数回ありました。

どうやら 思い込みの上塗りが厚すぎて強固になってしまった 世界観の根幹に関るような根深い感情を相手にしているらしい。。。。ということは 裏を返せば それだけ大きな囚われを手放し もっとよいものに書き換えるチャンスということではありませんか (≧∇≦)

がぜんやる氣が湧き がんばってことごとくクリアして しばらく経ったころ。。。。そう、今年の初めぐらいだったかな?

それまで自分の一部と思っていたものが かさぶたが剥がれるように離れていることに、ふと氣がつきました。

それまでは 「私がこういう状況に陥っている」 だったのに、「こういう状況に陥っている私がいる」 という目で見ていたのです。

状況 = 私 ではなくなっている。

状況にからめ取られた自分を 外側から眺めている別の自分がいる。




いえ、それ以前にそういう視点がなかったわけではありません。

むしろ 外から客観的に見ようと意図して育ててきました。

が、それも冷静さを保てている間のこと。

パニックに陥っているときは 「陥っている」 ということ自体が すでにその世界に取り込まれた状態なので、内に閉じ込められたままジタバタするしかなかったのですが、このときは パニクる自分を 少し離れたところから落ち着いて見つめる目線におのずとなっていることに 不意に氣がついたのです。




脱皮とは、昆虫や爬虫類などのからだの一部が 徐々に剥がれ出し、やがてすっかり剥がれ切って外皮となったそれを脱ぎ捨てること。

当然自分の一部だと信じて疑わなかった世界が いつのまにか離れていることに氣づいたあの瞬間は、貴秋の内的脱皮の始まりだったのかもしれません。