自分のすべてだったはずの世界が 自分から離れる、すきまがあく。。。。それは、すべてだと思っていた世界のまわりに もっと大きな世界が見えてくるということ。
すべてだと思っていたものが 部分に過ぎなかったと氣づくこと。
そうやってパーツだということがわかってくると、それはもう絶対的なものではなくなります。
それ以外にも選択肢がたくさんあることに氣づき始めるからです。
選択肢のひとつに過ぎないということは 選ぼうが選ぶまいが自由ということであり、もしそれが好きでないなら いつまでも自分の世界として掴んでいる必要はないんだということがわかってきます。
そうして自由になった意識で その世界の内からではなく 外から改めてじっくり眺めると、それが自身の思い込みと密接につながっていることが いっそうあらわに見えてきます。
そして、もうそんなものにいつまでも振り回されている必要はない、やめていいんだ、やめられるんだ、と ふと氣づくのです。
「目に見えている世界は 自身の意識の投影であり、思い込み ・ 幻」 という言葉が “事実” に変わる瞬間です。
目の前の世界が幻になるとはどういうことなんだろう、輪郭があやふやになったり 霞んだり波打ったりして見えでもするんだろうか、なんて想像してみたこともありましたが、実際にはそういうことではなく、それまでと同じぐらい生々しく見えていながら それに捕われなくなることだったんだとわかりました。
だってマボロシなんだもの、眠っているときに見る夢と同じようなものなんだもの、ね
「見える世界は幻」 と言葉で言うのは簡単ですが、それを “事実” にできるかとなると話は別で、本氣でそう思えなかったら いまだありありとリアルに見えているそれを幻扱いするのは難しいでしょう。
それは、ただ口にするだけでなく そのとおりに実行できるかどうか、という場面で試されます。
お尻に火がつくほど切迫した事態をさしあたり脇に押しやって、それを生み出した意識の解放に集中し切れるものかどうか?
が、最初は勇氣がいりますが、いったんほんとうに幻だったとわかれば、それがどんどんできるようになります。
そして、それこそが唯一の 真の意味での解決だったと知るのです。
さらに もっと別の選択をして 意識を書き替え より好ましい世界に創り変えるということも、概念 (外側の情報) から事実 (内から湧き上がる自身の言葉) へと移り変わってきます。
そうやって、意識も世界も変わり始めます。
同じ景色が それまでとは違って見えてきます。
これが ここしばらく貴秋が全力でかかりきりになっていたことであり、いま実現しつつあること。
五感の世界の内からと外からと 複数の視点を持つことは、思い込みから自由になること。。。。。これ 実感です (^^)v