毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

名工さながら

2018年09月19日 11時55分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


本来の自分に照らしての現在の自分のありようを 貴秋はよく雲に遮られた太陽に例えますが、もうひとつ好きなイメージが 「掘り出される前の彫像」 。

先週父が東京で見てきた 「ミケランジェロと理想の身体」 展の図録から思い出したのですが、この 「像を造るのではなく、素材の中にすでにある像を見つけて掘り出すだけ」 というミケランジェロの言葉の出典をもう少し詳しく知りたくて調べたら、こんな記事を見つけました。

そうそう、同じような話を仏師と木像でも聞いたことがあると思っていたけど、運慶のことだったのね \(^o^)/

うろ覚えだったものがはっきりするってなんて氣持ちいいんでしょう、お書き下さった関克久さん、ありがとうございます。




話を戻して、真の自分が 多かれ少なかれ後から刷り込まれた思い込みやわだかまりに埋もれているのが、いまの私たちのありようなんだと思います。

なので 私たちのすることといえば、まわりにくっついている余分なものを取り払い、すでにある完成形を掘り出すだけ。

遺跡の発掘にも通じるものがありますね。




そんな遺跡の発掘作業をテレビで見たことがありますが、作業する人が遺跡とそうでない部分を正確に見分け 細心の注意を払いつつ不要なものだけを取り除いていく様子をすごいと思ったものでした。

自分だったら、境目の区別がつかないまま 遺跡まで崩してしまいそうだ ( ̄∇ ̄;)

その点、人の 「本来の自分とそうでないもの」 を見分けるのは ずっと楽です。

「否定的な出来事と それにまつわる感覚感情」 というわかりやすい目安があるからです。

恋人に振られた、試験に落ちた、家族と揉めた、仕事を首になった、そんな出来事から呼び覚まされるネガ感情とからだに感じる違和感こそ、真の自分でないものを教えてくれる強力な味方なのです。

そして、起こったことについて 「これにどんな意味があるのか、なぜ起きたのか」 などといちいち考える必要さえありません。

肝心なのは 出来事の解釈ではなく、それが私たちの体内に印すある種の波動だからです。

本来の完璧な自分にはおよそ縁のない低波動を体験したくて わざわざからだを持った不完全な存在として生まれてきた私たち、体験という言葉の 「からだにしるす」 「からだでこころみる」 という意味どおり 否定的な出来事がからだに引き起こす感覚こそ事の本質であり、それについての解釈やそこから派生する物語は二の次、というのが貴秋の見解です。




「三つ子の魂百まで」 のことわざにあるように 言葉を覚える前に刷り込まれた情報ほどのちのちまで根深く影響するのは、それらが無条件に (条件づけや選り好みも言葉あってのことですから) 言葉の及ばない意識の深部に取り込まれてしまったからのようです。

だからこそ 真の自分への覚醒には 「言葉を切り離す」 ことが不可欠で、瞑想はその最たるものなのでしょうが、ほかにも催眠療法や誘導瞑想など 言葉を持たない深層意識に働きかけるさまざまな手法があるようです。

貴秋は単独で言葉を介さずからだの感覚に集中するというやり方で その効果を日々確かめていますが、成果は 特定の事柄についての反応がいつのまにかポジティブに変わっていて、それにつれて起こる出来事や集まってくる情報も次第に肯定的なものに変わってくる、という流れで上がっています。




アタマや理屈を通さずとも、私たちのからだや感情は ほんとうの私たちとそうでないものをちゃんと見分けています。

それに従うことで、私たちも名工さながらにほんとうの自分を掘り出して 人生をどんどんよいものにしていけるはず。

この先のさらなる展開が楽しみでならない貴秋です (^^)

















「お説教」 がオールドスタイルといわれる日が必ずやってくる

2018年09月16日 07時31分26秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


朝起き抜けにひらめきが来ることの多い貴秋ですが、けさのメッセージは 「 『お説教』 がオールドスタイルといわれる日が必ずやってくる」 。




お説教ってたいがい 「~になりなさい」 か 「~してはだめ」 という形になりますよね。

かくあるべしという理想形があって、 ミジュクモノの私たちは それを目指せ、そこから外れるなと絶えず言い続け 言われ続ける。

しかし。

本来私たちは完璧なのです。

こういわれて 「どこがやねん」 と思った方もおられるかもしれませんが、完璧でなく見えるのは、太陽を隠す雲、すなわち後天的に刷り込まれた幾多の思い込みのせい。

雨が降ろうが嵐になろうが、その向こうの太陽は いついかなるときも欠けることなく完璧なのです。

そして 表面上は忘れていても 心のどこかでその完璧さに氣づいているからこそ、現状の自分たちが 「このままじゃだめだ」 と思えてならないのです。

私たちが生まれながらに 「向上心」 を持っているのはそのためなんですね。




そもそもお説教が好きな人なんてそうはいないでしょうが、お説教しながらいやな氣分になるのも お説教に反発したくなるのも、お説教の持つ不自然さをどこかで感じ取っているからじゃないでしょうか。

子どもをお持ちのお母さんお父さんも 学校の先生も 職場の上司も、こんなこと言ってもお互いいやな思いをするだけなのは目に見えているけれど、言わないわけにもいかないし・・・・なんて悩みが多いのではないかしら。

にも関わらず ついついお説教臭いことを言ってしまうのは、それしか方法がないと思っているから。




もともと完璧な私たちが本来の姿に戻ろうと思えば、することはただひとつ、太陽を覆う雲をどけることだけ。

なのに雲には目もくれず 太陽を変えようなんて氣を起こすから、いろいろとおかしなことになる。

あの映画 「マトリックス」 のモーフィアスのせりふ 「速く動こうと思うな、速いと知れ」 のように、私たちも 「完璧であろうとするな、完璧だと知れ」 なのであり、さらに付け加えるなら 「完璧でない自分と完璧を目指す道のりを存分に楽しめ」 となるような氣がします。

わざわざ多くの制約を背負って形ある身に生まれてきたのは、そんな不自由さを体験してみたかったからこそなのですから。

そう思うと、自分にも他者にも かける言葉が違ってこないでしょうか。




貴秋も幸せになりたくて これはと思う情報を片っ端から試してきましたが、ひととおりやり尽くした今 有効な手立てとして残っているのは、 「自身の心と向き合い ほんとうの自分でないものを手放すこと」 ただそれだけ。

あれだけカオスの海に翻弄されてきたのに、たどり着いたところは至ってシンプル。

あとのことは、ほんと面白いぐらい向こうから起きてきます。




~しなさい、~するな は百害あって一利なし、これまでとまったく違うアプローチを模索する時期に来ているようだ。。。。と感じつつ迎える連休中日の朝。

さて コーヒーでも淹れるとしましょうか (^^)























音楽と 「美しき緑の星」

2018年09月13日 13時00分09秒 | 大好きな本・映画・ほか

きのうの記事で 「美しき緑の星」 についての動画を二つご紹介しましたが、その流れで見つけたこちら

とりわけ好きなシーンのひとつです (^^)

ご存知ない方のために説明しますと、主人公ミラの二人の息子があとから地球にやってくるんですね。

が 空港でトラブルを起こしてしまい、わが子を救うためミラがやたらと放った “切断” に 4人の男性が巻き込まれてしまいます。

ミラの切断第一号で 以来地球滞在中の世話役兼庇護者のようになったマックスが、あきらかに様子のおかしいこの4人があるオーケストラの団員で その晩オペラ座で公演があることを聞き出し、二人で様子を見に来てみると。。。。。という場面なのですが、誰と誰がその4人かは すぐにおわかりいただけると思います (笑)

客席のミラは 事態の収拾を図って今度は “接続” しようとしますが どうやら失敗、指揮者 ・ ソリストから他の団員までがおかしなことに ( ̄∇ ̄;)

もう一度やってみるがうまくいく保証はないと言うミラを押し留め 「様子を見よう」 と言うマックスですが。。。。




少し前に書いた演奏家の 「職人魂」 とはこういうものかとつくづく思いましたよ。

求められればどんなふうにでも弾いてみせる、と。

切断されておかしくなってるのに そろいもそろってあの演奏。

ソリストは目が据わったような表情ながらも超絶テクニックを披露するし、指揮者は楽しげに踊りまわりながらもちゃんと指揮してるし、しまいにはオーケストラメンバー全員が踊り出しながらも演奏は見事に息合ってるし。

ここでの役者さんたちも本職の演奏家さんじゃないかと思うんですが、そうだとしたらみなさんなんて芸達者なんでしょうね。




で、このとき “切断” されたのはいったいなんだったんだのか。

あっさり言ってしまえば 「ほんとうの自分でないもの」 ということになるのでしょうが、中でもこのステージに反映されたものはというと、演奏中に例の4人がラップ口調で言っていたセリフにヒントがありそうです。

          “音楽理論は大嫌い

           音楽は理屈じゃない

           音楽するのに必要なもの、それは爆発するエネルギーだ!”


「音楽は理屈じゃない」、たしかにそうなんですが、しかしプロとして活躍し続けていくためには 音楽上のものもそうでないものも含めてさまざまな理屈や制約を呑まざるを得ないのが現状だと思うんですよ。

クラシック演奏家を名乗るからには 人の作った曲を勝手に変えたりアドリブ入れたりなんてできない (作曲家が 「ここは自由に演奏してOK」 と指定しているところは別ですが) し、なによりも演奏を聴きにくる人たちを満足させなければならない。

お金を払ってくれる人に見放されたら どれほど音楽を愛していようと優れた腕を持っていようと演奏家としてやっていけなくなるのが、今のこの世界の社会的経済的システムなのですから。

ずっと大好きな演奏を続けながら生きてゆきたいと強く望めば望むほど、おのれの心を大なり小なり制約の枠の中に押し込めざるを得ないのが、演奏家というもの。

その制約の枠をぽんと外されたことが、あの自由奔放なステージを生んだと思うのです。

あのなんでもありの演奏の なんと生き生きして楽しそうだったことよ、まさに爆発したエネルギーのほとばしり。

そもそも 「音を楽しむ」 から 「音楽」 なんですものね。

最初は唖然呆然だった聴衆も、しまいにはけっこう楽しそうに聴いてたし。




身内に演奏家がいるおかげで 音楽界の裏事情を漏れ聞くなんてこともたまにあるわけですが、音楽を愛する人なら誰でも あんなふうにのびのび自由に音楽に携わりながら生きていける世界になることを願ってやみません。




おしまいに、映画ではなくこの実在世界での超楽しいクラシック動画をご紹介させていただきます。

          グスターボ ・ ドゥダメル指揮 シモン ・ ボリバル ・ ユース ・ オーケストラ ~ バーンスタイン 「ウェストサイドストーリー」 から 「マンボ」

この 「マンボ」 って もともと陽氣な曲ですが、それがさらにこのノリで、指揮者もオーケストラも聴衆までひっくるめて会場丸ごと切断されたんじゃないかと思うほど楽しい動画、元氣をもらいたいときによく見ます♪

指揮者のグスターボ ・ ドゥダメルさんは 南米ベネズエラ出身ということもあってかとても開放的な印象で笑顔の素敵な方、この動画を見ただけですっかり魅了されました。

毎年テレビで見ているウィーンフィル ・ ニューイヤーコンサートで 昨年指揮者を務められたときは、飛び上がるほどうれしかったです (*^ー^*)



















        

スポーツと 「美しき緑の星」

2018年09月12日 07時53分11秒 | 大好きな本・映画・ほか

現代のスポーツのありように氣が重くなるとき、反射的に思い浮かべるのが かのコリーヌ ・ セロー監督主演の映画 「美しき緑の星」 。

主人公ミラたちの星では、朝起きたらまず湖で泳ぎ、朝食と洗濯のあとは運動をするのが午前の日課のようです。

この運動というのは家族ごとに得意なものがあるらしく、ミラ一家は空中ブランコだそうなのですが、親子それぞれの空中ブランコの腕前のすごいこと。

ご覧になりたい方は こちらをどうぞ。

映画のシーンそのままではありませんが、ミラの空中ブランコ姿が見られます。

余談ですが、映画中のミラのブランコは吹き替えかと思っていたのですが、これを見るとどうもコリーヌ ・ セローさんご本人がなさっているような。。。。どうなんでしょう。




この運動の場面はけっこう長くて、空中ブランコ以外にも 綱渡りのように張ったロープ上でのアクロバットとか、トランポリンみたいにさまざまなポーズで飛び跳ねるのとか、床運動の前転や後転の連続技みたいなのとか、いろいろ出てきます。

そのどれもがサーカスばりにすごくて (このシーンの役者さんは実際サーカスのプロや体操選手などの方々じゃないかしら) シルク ・ ド ・ ソレイユか上海雑技団かという感じなのですが、彼らは人に見せるとか競い合うとかのために運動しているわけではないのですね。

健康維持のためですらない (結果的にそうなるというのはあるでしょうが) 印象を受けます。

なんらかの目的があってしているわけじゃない、ただそうしたいから 楽しいからしているというか、運動するために運動しているというか、そんな感じ。




スポーツの原点って まさにこんなふうだったんじゃないかと思います。

子どものように無心にからだを動かすことを楽しむところから始まった。

そこにあとから少しずつ 「見せる」 「競う」 という要素が加わり、どんどん積み重なって極まったのが今のありようなんじゃないかな。

そして、そのように付け加えたものの持つ意味に氣づいて すっかり手放し子どもの心に返ったのが、ミラの星の人々なんでしょうね。




「美しき緑の星」 には、もうひとつスポーツの場面があります。

あのクライマックスのサッカー場シーン。

ミラと二人の息子が、地球のプロサッカーチームの試合真っ最中に 選手たちに “切断” を施すのです。

たちまち動きを止めた一同、試合など放り出し 選手審判入り乱れてシッチャカメッチャカ、ミラが流した 「美しき青きドナウ」 の曲にのって踊り出す者、馬跳びを始める者、大声で歌いながら走り回る者、唖然とする観衆を尻目に フィールドは小学校の休み時間の校庭さながらに。

挙句の果てに 両チームのキーパーがフィールドのど真ん中に躍り出て。。。。とこれは未見の方のお楽しみにとっておきますが、役者魂としかいいようのない衝撃のシーンでしたよ ( ̄∇ ̄;)

こちらは英語字幕の予告編、サッカー場とあと 「運動」 のシーンもちらっと出てきます。




あの場面で “切断” されたのは、勝敗へのこだわりやいいところを見せたいという欲、そしてその奥に潜む 「役に立つことを証明しなければ存在価値も居場所もなくなる」 という恐れだったのではないでしょうか。

そんなものを取り払って真の自分に戻れば みな幼い子どものように満ち足りた心で楽しく暮らせる、プロスポーツなどというものもなくてもよくなるんじゃない? とそんな静かなメッセージが聞こえた氣がしました。




以前お話したような成り行きで、スポーツ大嫌いだったのが 室内ランニングやストレッチ ・ 柔軟体操を通じてからだを動かすのがすっかり好きになった貴秋、このところ 「自分の内に眠っている潜在的身体能力をもっともっと目覚めさせたい、からだの力を引き出せるだけ引き出したい」 との欲求が日に日に高まりつつあります。

ちょうど涼しくなってきたことだし 結果だ実績だというわずらわしさ抜きで 心の赴くまま思いっきりのびのび動き回るのも悪くない、と “スポーツの秋” 本番を目の前にわくわくしています (^^)





【追記】

 これを描いた2日後に 「美しき緑の星」 サッカー場シーンの動画を見つけました、それも一度に3つも (^◇^;)

 こちらはそのひとつ、どうぞご堪能ください☆




















スポーツについてのある懸念 ~ 戦うということ

2018年09月11日 14時15分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このところスポーツ絡みでもやもやを感じることが多く、ブログに書こうとしてはうまく表現できなくて削除ということが続いていたのですが、愛読ブログ 「ひかたま (光の魂たち) 」 のきょうの記事 「スポーツの勝ち負けと社会」 は まさにそんな貴秋の胸の内を余すところなく代弁してくださったようで、つかえが下りた氣分です。

テレビがある実家では、2月の平昌冬季オリンピックに始まり サッカーワールドカップやらアジア競技大会やら夏の全国高校野球やらと いつになくスポーツ中継に触れることが多かったのですが、人間ってこんなすごいことができるのかと数々のプレーに目を奪われる陰で どうもうまく言葉にならないもやもやがどんどん溜まっていました。

「ひかたま」 ブログ主の森井啓二先生のおかげで正体が見えてきたそのもやもやを、貴秋もようやく文章にできそうです。




スポーツを目にするたびに思うのですが、そもそもスポーツって なぜ戦ったり競ったりするのが前提なんでしょう?

もちろんそうしたい人がそうする自由はあるわけですが、初心者や一部のアマチュア愛好家はともかく、能力が高くなればなるほど 競ってこそスポーツと駆り立て後押しする力が強く働くように思えてなりません。

ここで貴秋が氣になるのが、きのうの記事にも書いた 「ゼロに戻す」 という話。




以前大好きで欠かさず見ていたほのぼの系動物アニメ 「しろくまカフェ」 で、普段は親友のシロクマさんとグリズリーさん両チームの草野球試合の話があったのですが、シロクマさんの知略というよりむしろワル知恵といいたいような作戦に引っかかって逆転負けを喫し 試合後両チーム入り混じっての慰労会でも釈然としない顔のグリズリーさんに ペンギンさんが声をかけます、「試合が終ればノーサイド」 と。

この 「試合が終ればノーサイド」 というせりふが、スポーツ番組を見るたびに脳裏に響くのです。

競争相手があるほうが挑戦する意欲も湧くし能力も上がるということで試合をしても、その都度ノーサイドでゼロに戻せれば 感情的なわだかまりは残らないでしょう。

が、それをさせないシステムが 今のスポーツ界にはある。

能力が高く もっともっと伸ばしたい磨きたいと望む人ほど、いやおうなくこのシステムに呑み込まれざるを得ません。

そこは一握りの勝者をこれでもかともてはやし、多くの敗者には目もくれない 「 一将功成りて万骨枯る」 世界。

頂点を目指すほど 本人も周りも勝ちへの執着が強くなり、やがてその多くが口にするのが 「地元 ・ 日本 ・ その他○○のために勝つ」 という言葉。

これって。。。。戦地へ赴いた多くの兵士たちの言葉と同じじゃないですか?

学校の授業にも日常の暮らしにも当たり前に存在するスポーツ、健全の象徴のようにいわれるスポーツ、それが知らず知らずのうちに敵愾心や勝ちへのこだわりを多くの人々の意識に浸透させ定着させているとしたら、それでも私たちの国は平和だと言い切れるでしょうか?

きっかけひとつで スポーツの 「勝つ」 が 戦争での 「勝つ」 に変わらないと、誰が保証できるでしょう?

森井先生のブログの

      “相手を打ち負かすことによって得られる勝利の快感は
       砂糖や麻薬と同じように
       終わりなくエスカレートしていく怖れがある
       と思います。

       その意識は
       スポーツを超えて
       社会全体に浸透していく・・・・・。”

という言葉に 心から同意します。




私たちの意識が言葉や感情になり、行動を生み、私たちの世界を創っています。

スポーツという一見健全な営みを通して 意識の底に絶えず 「勝つ快感」 や 「負ける不安」 を刷り込み続ける仕組みが当たり前のように備わっているいま、私たちは自身の心の奥に潜む思いを 注意深く点検する必要があるのではないでしょうか。

この穏やかで平和な暮らしをこれから先も続けたいと願うのならば。

















きっと楽しい変幻自在で自由な社会

2018年09月10日 10時30分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先週7日に NHKBSの 「プレミアムカフェ」 で 「情熱のタクト 〜指揮者 佐渡裕 ベルリン・フィルへの挑戦」 の再放送があったことを今になって知りました (^_^;)

過去二回見たこの番組で 貴秋が強烈に印象付けられたのは、オーケストラとは職人集団なんだということ。

中でも世界三大オーケストラの筆頭といわれるベルリンフィルは 世界最高峰の呼び声にふさわしくメンバーも一流プレイヤーぞろいで、新しく来た指揮者には われらがオーケストラにふさわしいかどうかと厳しいジャッジの目が注がれるのだとか。

実際高名な指揮者でタクトを無視され勝手な演奏をされてしまった人もいたそうで、初顔合わせのとき あの佐渡さんが緊張の面持ちだったのもさもありなん。

が その厳しさは 指揮者のどんな注文にも即座に応えて素晴らしい演奏を生み出してみせるという自信あってこそのものであり、つねに最高の音楽を奏でたいという意欲の表れ、優れた職人やその集団とはこういうものなのかと目を開かれた思いでした。

そんな百戦錬磨のつわもの相手に 客演指揮者としてわずか2日の練習だけで本番に臨まねばならなかった佐渡さんの心中が偲ばれますが、ちょうどその半年ほど前に 日本人バイオリニストの樫本大進さんがベルリンフィルのコンサートマスターに就任していたことは 大きな救いだったでしょう。

ともあれコンサートは大成功に終わり 佐渡さんも高い評価を受けたのですから、番組を見ていたこちらもほっとすると同時に深く感動したのを覚えています。




最近しきりと意識に上るのは、「ゼロに戻す」 ということ。

形ある私たちは 「分け出す」 という行為なしには生きていけないわけですが、その分け出したものを 形の上であれ意識の上であれ その都度ゼロに戻すってすごく大事なことなんじゃないかなという氣がしてならないのです。

使ったものは元の場所に戻す、計算を終えた電卓画面はクリアボタンでゼロに戻す、それをしないとどんどんゴチャゴチャになって身動きがとれず 収集がつかなくなるのは避けられません。

この 「分け出して 用が済んだらゼロに戻す」 ことを 今の社会に当てはめたとき ぱっと浮かぶのが、指揮者 すなわち音頭とりと職人たちの流動的な組み合わせなのです。

何か大きなものを作るとか 大きな催しを開くとかいうとき、誰かが音頭とりになって呼びかけ、それに応えて腕に覚えのある人たちが集まって、無事事が成し遂げられたらすみやかに解散する、その繰り返しで成り立つ社会。

遠い昔にもあったのかもしれませんが、これからまたこういうフレキシブルなスタイルが主流になるようなイメージがしきりと湧いてなりません。




「組織にすると 必ず腐る」 という言葉を聞いたことがありますが、「ただひとつ変化しないのは すべてが変化するという事実だけ」 というほど万事が刻々と移り変わってゆく世の流れの中で、がっちり組まれ固定されてしまったものが その不自然さゆえに浮き上がり 不協和音を奏でるのは無理なからぬこと。

最近しきりにスポーツ組織の不祥事が報じられますが、これはまだまだ氷山の一角、さらにスポーツ界に限ったことでもないでしょう。

宇宙のありように照らして 不自然なものはやがては崩壊する、これは避けられないことです。

そういう時代なんだと思ったとき、私たちは めいめいの好きな分野 ・ 得意な分野で 独立した職人のような意識や誇りをもてるだろうか。

別に超一流とか第一人者とかでなくていい、ただ機会があれば 「あ、それなら私できるよ」 とぱっと名乗りを上げてわくわく参加できるほど オンリーワンとしての穏やかな自信を感じながら 毎日を生きているだろうか。

誰もがそんなふうに生きられる社会って、きっと楽しいに違いないと思うのです (⌒-⌒)

















マンガみたいなホントの話 ~ 「ひょう砲」 と 「ダンスパウダー」

2018年09月02日 09時12分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


愛読ブログ 「ひかたま (光の魂たち) 」 に数日前 「自動車会社の氣象兵器vs地元農家」という記事が載りましたが、これを読むなり思い浮かんだのが、漫画 「One Piece ・ アラバスタ編」 に出てきた 「ダンスパウダー」 。

ダンスパウダーとは ウィキペディアの解説をお借りすれば、

  “霧状の煙を発生させて雲中に散布することで雲が成長し、雨を降らせることができる粉。

   昔どこかの雨が降らない国の科学者が造り出した代物で、最初はダンスパウダーを開発した国も、その名の通り踊るように喜んだという。

   しかし、ダンスパウダーは人工的に雲を成長させて降雨させるため、風下の隣国に自然に降るはずだった雨まで奪ってしまうという事実が判明。

   それが戦争のきっかけになり、多くの命が奪われることになってしまった。

   以来、世界政府はダンスパウダーの製造・所持を世界的に禁止している。

   ヨウ化銀がモデル。”

おしまいの一文で このヨウ化銀というものが実際に人工降雨に使われていることを初めて知りましたが、ダンスパウダーについての説明は あくまで漫画の中でのお話。

なのに こんな漫画みたいな話が実際に私たちの日常でも起こっていたとは。

ちなみに 「アラバスタ編」 は、犯罪結社バロックワークスの偽装工作により 砂の王国アラバスタの国王に このダンスパウダーを使って自国に雨を集めている疑いがかけられ、高まる反乱の危機を鎮め バロックワークスの悪事を暴くべく 主人公モンキー ・ D ・ ルフィ率いる麦わらの一味とアラバスタ王女ネフェルタリ ・ ビビが活躍するというお話。

物語の終盤に登場するアラバスタ国王ネフェルタリ ・ コブラの演説に感じ入り、以前こんな記事を書いたことがあります。




私たちが真の自分を体験的に知るために、形ある不完全な存在として 魂の記憶をリセットされたうえでこの世界にやってきたとき、大なり小なり不安を感じていただろうと思います。

何かが欠けている ・ 不完全だという感覚はありながら、それがなぜなのかはわからないまま 折に触れて不安に襲われる。

そこで マインド主体の私たちが励んだのが、この世界の謎を解くべく調べ抜き考え抜くことと、心のすき間を埋めようとさまざまなものを作り出すことだったのでしょう。

そうして生まれた数多くの発明品から 私たちは日々恩恵を受けているわけですが、留まることを知らない探究や開発への欲求は、さらに氣象兵器だのAIだのクローン技術だのと ほんとうに人間の手に負えるのかと心配になるようなものまでも生み出す方向へと突き進んでいます。

留まることを知らないとは、見方を変えれば いくら多くのことを知り 多くのものを生み出しても満たされない、満足できないということでもあるのですね。

そんな動きと並行して “真の自分とはなにか、なんのためにこの世に生まれてきたのか” と内へと向かう探究も深さを増しています。

恩恵と背中合わせでもたらされる科学の危うい側面から、万事を理論と行動だけで解決しようとする動きへの疑問も次第に大きくなってきています。




「One Piece」 の作者 ・ 尾田栄一郎さんは、だまされて無意味な戦いをしてしまったことを嘆く民衆に向けて アラバスタ国王ネフェルタリ ・ コブラにこう言わせました。

“過去を無きものになど誰にもできはしない、この戦争の上に立ち 生き延びてみせよ、アラバスタ王国よ!” と。

過去から目を背け 未来を力づくでコントロールしてきたこれまでを踏まえ、過去の積み重ねの集大成である “いま ・ ここ” から 何を知り 何を選び 次の一歩をどう進めるかで、未来はいかようにも変わっていく。

ほんとうに欲しいのはどんな未来か。

そのためにいま必要なものと自分にできることはなにか。

私たちひとりひとりが今一度 自分の内に問い直すときがきているようです。