本来の自分に照らしての現在の自分のありようを 貴秋はよく雲に遮られた太陽に例えますが、もうひとつ好きなイメージが 「掘り出される前の彫像」 。
先週父が東京で見てきた 「ミケランジェロと理想の身体」 展の図録から思い出したのですが、この 「像を造るのではなく、素材の中にすでにある像を見つけて掘り出すだけ」 というミケランジェロの言葉の出典をもう少し詳しく知りたくて調べたら、こんな記事を見つけました。
そうそう、同じような話を仏師と木像でも聞いたことがあると思っていたけど、運慶のことだったのね \(^o^)/
うろ覚えだったものがはっきりするってなんて氣持ちいいんでしょう、お書き下さった関克久さん、ありがとうございます。
話を戻して、真の自分が 多かれ少なかれ後から刷り込まれた思い込みやわだかまりに埋もれているのが、いまの私たちのありようなんだと思います。
なので 私たちのすることといえば、まわりにくっついている余分なものを取り払い、すでにある完成形を掘り出すだけ。
遺跡の発掘にも通じるものがありますね。
そんな遺跡の発掘作業をテレビで見たことがありますが、作業する人が遺跡とそうでない部分を正確に見分け 細心の注意を払いつつ不要なものだけを取り除いていく様子をすごいと思ったものでした。
自分だったら、境目の区別がつかないまま 遺跡まで崩してしまいそうだ ( ̄∇ ̄;)
その点、人の 「本来の自分とそうでないもの」 を見分けるのは ずっと楽です。
「否定的な出来事と それにまつわる感覚感情」 というわかりやすい目安があるからです。
恋人に振られた、試験に落ちた、家族と揉めた、仕事を首になった、そんな出来事から呼び覚まされるネガ感情とからだに感じる違和感こそ、真の自分でないものを教えてくれる強力な味方なのです。
そして、起こったことについて 「これにどんな意味があるのか、なぜ起きたのか」 などといちいち考える必要さえありません。
肝心なのは 出来事の解釈ではなく、それが私たちの体内に印すある種の波動だからです。
本来の完璧な自分にはおよそ縁のない低波動を体験したくて わざわざからだを持った不完全な存在として生まれてきた私たち、体験という言葉の 「からだにしるす」 「からだでこころみる」 という意味どおり 否定的な出来事がからだに引き起こす感覚こそ事の本質であり、それについての解釈やそこから派生する物語は二の次、というのが貴秋の見解です。
「三つ子の魂百まで」 のことわざにあるように 言葉を覚える前に刷り込まれた情報ほどのちのちまで根深く影響するのは、それらが無条件に (条件づけや選り好みも言葉あってのことですから) 言葉の及ばない意識の深部に取り込まれてしまったからのようです。
だからこそ 真の自分への覚醒には 「言葉を切り離す」 ことが不可欠で、瞑想はその最たるものなのでしょうが、ほかにも催眠療法や誘導瞑想など 言葉を持たない深層意識に働きかけるさまざまな手法があるようです。
貴秋は単独で言葉を介さずからだの感覚に集中するというやり方で その効果を日々確かめていますが、成果は 特定の事柄についての反応がいつのまにかポジティブに変わっていて、それにつれて起こる出来事や集まってくる情報も次第に肯定的なものに変わってくる、という流れで上がっています。
アタマや理屈を通さずとも、私たちのからだや感情は ほんとうの私たちとそうでないものをちゃんと見分けています。
それに従うことで、私たちも名工さながらにほんとうの自分を掘り出して 人生をどんどんよいものにしていけるはず。
この先のさらなる展開が楽しみでならない貴秋です (^^)