幼稚園時代 手当たり次第全部摘み取りたいと夢中になった 田んぼ一面のレンゲソウ、小学生時代 ショーウィンドウで見かけ憧れて こつこつお小遣いを貯めて手に入れたガラス細工の白鳥と黒馬。。。。
胸ときめかせて やっと自分のものにした満足感もつかの間、憑かれたような魅力もたちまち色あせ失われてしまうのはなぜだろうと 子どものころからずっと氣になっていたのだけれど。
今はよくわかります、それは 内側の否定的な思いを 外から癒そうとしたためだと。
内から自身を見つめるなど思いもよらなかったころ、不安や空しさに襲われるたびに どうにかして逃れようと 心魅かれるものに片っ端からすがったものです。
こってり甘いお菓子、可愛い洋服や雑貨、面白そうな本やテレビや映画、街に繰り出してのショッピングやティータイム、強い刺激で意識をクギ付けにして 嫌な氣持ちからそらしてくれるものならなんでもよかった。
そうやって 物や娯楽を楽しんでいるつもりだったけれど、実際にしていたのは つらい自分をむりやり忘れようとすること。
執拗に湧き起こる不快感をどうしたらいいかわからず、とにかくそこから離れたい、いい氣分になりたい一心でした。
でも そうやってしがみついたものは 確かに一時の快はくれたけれど、必ず訪れる終わりの後には 苦い失望と 相変わらず居座り続けるネガ感情が いっそう苦痛を増すようで (TдT)
物であれ機会であれ ほんとうに楽しむこととしがみつくことの違いが やっとわかってきた氣がします。
また ほんとうに好きなものと 好きだと思い込んでいたものの違いも。
ハズレのない楽しみを心から味わうというのは、どうやら内側が満たされ安定し出して初めてできることらしい。
内から脅かすものを忘れようと外の世界にすがっても それはその間だけのこと、だからどこまでも求め続けなければならないし、どんどん目新しくて大きな快が必要になり、それが限度を超えると 過食やらネット依存やら財布を考えない買い物やらの中毒状態に陥る羽目になる。
そして 今の際限ない消費社会を支えているのは、人々のそんな不安定な心のありようなのですね。。。。。がそれも 精神的にも物理的にも経済構造的にももう限界なんじゃないかなぁ(- -;)
ダン ・ ミルマン著 「やすらぎの戦士」 という本に出てくる 手に入れたもの = 幸福 というような (正確な言葉を覚えてなくて) 公式。
欲しいもの
数字だけでいえば 分子を大きくしても分母を小さくしても 幸福は大きくなりそうですが、質的にはこの両者は真逆なのだと思います。
貴秋なりの幸せの道は 本来の自分をさえぎっている誤った世界観を根氣よく取り除いてゆくことと重なっていて、そうやってほんとうの自分に返るほど 自然と分母が小さくなり 内から満たされてゆくようです (*^^*)