毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

内から満ちる

2017年02月17日 13時54分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


幼稚園時代 手当たり次第全部摘み取りたいと夢中になった 田んぼ一面のレンゲソウ、小学生時代 ショーウィンドウで見かけ憧れて こつこつお小遣いを貯めて手に入れたガラス細工の白鳥と黒馬。。。。

胸ときめかせて やっと自分のものにした満足感もつかの間、憑かれたような魅力もたちまち色あせ失われてしまうのはなぜだろうと 子どものころからずっと氣になっていたのだけれど。

今はよくわかります、それは 内側の否定的な思いを 外から癒そうとしたためだと。




内から自身を見つめるなど思いもよらなかったころ、不安や空しさに襲われるたびに どうにかして逃れようと 心魅かれるものに片っ端からすがったものです。

こってり甘いお菓子、可愛い洋服や雑貨、面白そうな本やテレビや映画、街に繰り出してのショッピングやティータイム、強い刺激で意識をクギ付けにして 嫌な氣持ちからそらしてくれるものならなんでもよかった。

そうやって 物や娯楽を楽しんでいるつもりだったけれど、実際にしていたのは つらい自分をむりやり忘れようとすること。

執拗に湧き起こる不快感をどうしたらいいかわからず、とにかくそこから離れたい、いい氣分になりたい一心でした。

でも そうやってしがみついたものは 確かに一時の快はくれたけれど、必ず訪れる終わりの後には 苦い失望と 相変わらず居座り続けるネガ感情が いっそう苦痛を増すようで (TдT)




物であれ機会であれ ほんとうに楽しむこととしがみつくことの違いが やっとわかってきた氣がします。

また ほんとうに好きなものと 好きだと思い込んでいたものの違いも。

ハズレのない楽しみを心から味わうというのは、どうやら内側が満たされ安定し出して初めてできることらしい。

内から脅かすものを忘れようと外の世界にすがっても それはその間だけのこと、だからどこまでも求め続けなければならないし、どんどん目新しくて大きな快が必要になり、それが限度を超えると 過食やらネット依存やら財布を考えない買い物やらの中毒状態に陥る羽目になる。

そして 今の際限ない消費社会を支えているのは、人々のそんな不安定な心のありようなのですね。。。。。がそれも 精神的にも物理的にも経済構造的にももう限界なんじゃないかなぁ(- -;)




ダン ・ ミルマン著 「やすらぎの戦士」 という本に出てくる  手に入れたもの = 幸福  というような (正確な言葉を覚えてなくて) 公式。
                                       欲しいもの

数字だけでいえば 分子を大きくしても分母を小さくしても 幸福は大きくなりそうですが、質的にはこの両者は真逆なのだと思います。

貴秋なりの幸せの道は 本来の自分をさえぎっている誤った世界観を根氣よく取り除いてゆくことと重なっていて、そうやってほんとうの自分に返るほど 自然と分母が小さくなり 内から満たされてゆくようです (*^^*)



















「キッド」 再び、そして 「あなたを知りたい」

2017年02月06日 17時18分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちが他者と出会ってまず反応するのは、主に五感に訴えるわかりやすい部分についてでしょう。

きれいだな、かっこいいな、陰氣だな、自信ありげだな、憎ったらしいな、などなど。

でもそれは その人の真の姿といえるだろうか。

その人の本質は、もっと目につきにくいところにあるのではないだろうか。




「キッド」 のあの 「みっともない子だ」 の場面からふと浮かんだのは、これからは 自分を知るのに内側から感じるしかないのと同じように 他者についても 外側の印象だけで性急に判断を下すのでなく、その内面にまで向き合おう 感じ取ろうという姿勢が重要になってくるんじゃないかということでした。




“どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない” 、これは「神との対話」 での神の言葉。

「なに考えてるんだこの人」 としか思えないような相手でも、その人なりの理屈に従えば それなりに筋は通っているもの、そこを見ずして 真のコミュニケーションは成り立たない。

トランプさんのようになにかと言動が派手な人は ことさらその外側に視線が集中し 外見で判断されてしまいがちだけれど、挑発的な発言も強氣な決定も 当人なりの理由があってのことなのでしょう。

そしてそれを支持する人も相当数いるわけで。

これまで大国アメリカがまがりなりにも貫いてきた姿勢とのあまりの落差に とうてい受け入れられない! と反発するのは簡単ですが、それだけでは どこまでいってもすれ違いや対立や力まかせの争いが続くばかりなのですね。




感覚フォーカスを重ねてきてつくづく思うのですが、自分のことでありながら 見えてないものやわからないことが なんてたくさんあるんでしょう。

「なんか不自然な反応してるな」 から始まり、根っこへ根っこへとたどっていって、うわ~こんなこと思ってたのか Σ(゚д゚ノ;)ノ と衝撃を受ける、その最たるものが あの根底からの自己否定だったように思うのですが、他ならぬ自分のことでさえこれほどわからないのに、どうして他人のことを そうそうわかったつもりであっさり決めつけられるでしょう。

弱者を踏みつけにするヤツは敵、庶民の意向を無視するヤツは敵、以前なら政治家に反発するなんて いともたやすいことだったけれど、今はそんなに単純に割り切る氣にはなれません。




当ブログでおなじみわが愛読書 リチャード ・ バック著 「ONE」 で、パラレルワールドを旅するリチャードとレスリーが出会ったソビエト人の分身、イワンとタチアナ夫妻。

米ソ冷戦のさなか、互いを分身と認め合い話し合う中での レスリーのこんな言葉が心に残っています。



      “ どんな戦争でも とりうる手段はふたつあるわ。

       自国の防衛に走るか、それとも教訓を学ぶか。

       防衛合戦はこの世界を、住みがたい場所に変えてしまいました。

       でもそのかわりに、わたしたちが学ぶことのほうを選んだら、どうなるかしら?

       「あなたが恐ろしい」 というかわりに、「あなたを知りたい」 といったら、どうなるかしら? ” 



このあと レスリーたちの学びは 思いがけない結末を迎えることになりますが、私たち読者はこの物語からなにを学べるでしょう。

「あなたが恐ろしい」 「あなたが嫌い」 「あなたの言うことなんか認めない」 と言う代わりに、「あなたを知りたい」 と言うべきときにさしかかっているのではないかしら。




自分を内側から見つめれば、外側のどんな違和感もいびつさも その原因を理解し許容できます。

自分に対してできるなら、同じことを他者にもきっとできるはず。

自身のわだかまりを見つめることで いい変化が起きている手応えを感じる今、異質な相手をも進んで見つめることで 混乱する世界を平和に導くことだって不可能ではないと、再会した 「キッド」 に教えてもらった氣がします。



















        



「キッド」 再び

2017年02月06日 14時43分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いや~、なんかすごいですねぇ。。。。

かつて大国で これほどまでにわかりやすく子どもじみた発言を連発する大統領っていただろうか。

はい、もちろんアメリカのあの方のことです




連日ニュースで取り上げられる言動の よくも悪くもストレートなことよ。

どこまでが本音で どこまでが狙ってのことかはわかりませんが、おかげで返ってくる反感もハンパなく、就任前から驚きの低支持率、反対勢力の抗議行動は 世界レベルで大盛り上がり。

こんな誇張&デフォルメされたコメディ映画の敵役みたいな人が 大真面目に大統領務めてるなんていう現実についていけません ( ̄∇ ̄;)

映画 「バック ・ トゥ ・ ザ ・ フューチャー」で 1985年からタイムスリップしてきたマーティの 「現大統領はロナルド ・ レーガン」 との言葉に 1955年に暮らすドクがとうてい信じられないとばかりに 「 じゃあ副大統領はジェリー・ルイスで、ファーストレディはジェーン・ワイマンか!?」 と揶揄するシーン (そりゃそうだ、1955年のレーガンはB級俳優だったんですから) がありますが 、では1985年のマーティたちが2017年の大統領はドナルド ・ トランプだと聞かされたら いったいなんて言うだろう?

ちなみに 「バック ・ トゥ ・ ザ ・ フューチャー2」 で未来の自分から手渡されたスポーツ年鑑を悪用して大金持ちになったパラレルワールドのビフは トランプ氏がモデルだそうですが、まさしく事実は小説よりも奇なり・・・・ですねぇ




とまあ冗談はともかく。

コントラストの世界の常で 極端な主張は 極端な反発を招きやすいものですが、こういうときこそ 派手派手しいパフォーマンスに煽られて 自身の意思を明らかにすることと 抑えきれない感情を叩きつけることを取り違えてはいけないのだなぁ、と自戒の思いです。




最近またちょくちょく図書館に行くようになって、先日借りてきたのが ブルース ・ ウィリス主演の映画 「キッド」 の脚本を小説化した オードリー ・ ウェルズ作 「キッド」 。

この映画をレンタルDVDで初めて見たときの感想は 前のブログのこちらに書いていますが、今改めて小説を読んで 「もしラス (ブルース ウィリス演じる主人公) のように 幼いころの自分が突然目の前に現れたら」 と考えると、やはり躊躇なく手を差し伸べ受け入れるのは難しいかも。。。。と思ってしまう自分がいます。

あんな文を書いておいて あれから10年以上も経つというのに 今もって過去の自分を無条件にOKできないとは、といささかショックだったのですが、ラスが8歳の冴えない自分を 「みっともない子だ」 と嘆く場面を読み返していて ふと氣がつきました。




このときのラスは、8歳の自分を 別人として外から眺めています。

イメージコンサルタントの職業柄 ただでも人の外見に注目しやすいラスですからなおさらなのでしょうが、彼の評価は あくまでも見た目に触発されてのもの。

しかしこれはもちろんファンタジーならではの設定であって、私たちが日ごろ思い起こす子ども時代の自分とは 内面の印象なのですね。

そのころの自分は 何を見 何を体験し 何を考え どんな思いで過ごしていたかを 当時の氣持ちに返ってまざまざと味わう。

私たちの記憶の中の自分とは、外見ではなく 「思い」 なのですね。




次に続きます(^^)


















お金の話 ~ その8

2017年02月03日 14時11分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


物心ついて以来ずっと、表向きどれほど自信たっぷりに振舞おうと 実際のところは自信を持てずにきました。

それが ほんとうの自分を見失ったためだと、今はわかります。

ほんとうの自分、疑いようなく絶対の自分、それが見えなくなって 拠りどころがなくなって、後付けの刷り込みに従い 頼れるものを外に求め、周囲の評価やお金のシステムに力を明け渡し 従うようになった。。。。というようなことが起きていたのですね。

翻弄されっぱなしに見えた 対人問題もお金の問題も、見方を変えれば そんな現状を知らせるメッセージであったといえましょう。




絶対の自分の存在に氣づき、半世紀に渡って 自分がどのようなカン違いをやらかしてきたのかがわかったからといって、すぐさまがらりと世界が変わるというものでもありません。

言葉での理解は まだマインドの範疇だし、氣づきもその瞬間は強烈でも すぐまた慣れ親しんだ思い込みに取って代わられてしまうもの、これからの貴秋は 氣づきを全身に落とし込むべく まだまだ上がってくる思い込みを根氣よく見つめながら、同時に 絶対の自分につながる回路をせっせと育てていく、という課題に取り組むことになります。

っていうか もうすでにそんな流れが始まっています。




ここへきて 改めて世界を眺めわたすと、お金という人為的概念に過ぎないものが どれほどの力を持って 私たちを支配しているか、いや そんな不確かなものに 私たちがどれほどの力を持たせてしまっているか、が見えてきます。

お金のシステムとは 詰まるところ約束事、それも すでに力づくの不平等が起こっていた中 力あるものによって取り決められた約束事でしかありません。

そもそも私たちはみな すべてを天から 無条件にふんだんに与えられています。

命はもとより 空氣 ・ 水 ・ 食べ物 ・ その他あらゆる天然資源に至るまで、一握りの権力者ではなく 天が すべての生き物に十分いきわたるだけ与えてくれているもの

私たちが 本来の自分を取り戻すことで、その原点に立ち返ることができるように思います。




手元に本がないので正確な表現はわかりませんが、「パパラギ」 のサモアの酋長ツィアビの言葉で こんなような一節がありました。


          “ パパラギ (白人) たちに愛の神について話すと 苦笑いする。

           考え方が子どもじみているといって笑うのだ。

           が そんな彼らにお金を見せると、とたんに目が輝き 口からはよだれが垂れる。

           彼らの神は お金に取って代わられてしまったのだ ”




また ちょうどけさ、愛読ブログ 「ひかたま」 で こんな記事を見つけました。




ツィアビの言葉も このシアトル酋長の言葉も、頭で受け取り理解した段階では 口にしていない食べ物同様 まだ外に置かれた情報に過ぎません。

これらが腑に落ちることと ほんとうでない自分の向こうに ほんものの絶対の自分を見出すこととは ひとつ事だという氣がします。




外側の 一見いかにも頼もしそうなものに 力を与えて頼ることが どれほどの混乱を引き起こすかを、今のアメリカとその周辺が まざまざと見せてくれています。

貴秋の世界におけるすべてのいのちは、自身の昨年末以来の氣づきを 言葉を超えたところに落とし込み 自身の智恵や力に変換していくことで 本来のありようを取り戻す、そして お金のシステムを含め 世界のありようも大きく正され変わってゆく、と信じて止みません。

自分の世界をどれだけ変えられるか、望む世界をどれだけ実現できるか、探究と挑戦はどこまでも続きます。




長かった 「お金の話」 、お金というテーマは 今後も折に触れて取り上げるでしょうが、このタイトルはこれでおしまいです。

おつき合いくださったみなさま、ありがとうございました。