毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ごめんなさい

2017年01月27日 16時27分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「その7」 でストップしてしまっている 「お金の話」 。

もう何度も続きを書こうとしているのですが。




1月8日、なんで今年最初のブログテーマが 長年触れられずにいたお金の話題なんだと 我ながら妙な氣がしたものですが、「その7」 をアップした直後に 答えがやってきました。

お金という入り口を通して見つけた自己否定の念と、その向こうに浮かび上がった “絶対の自分” 。

あの大晦日のひらめきは 強烈なインパクトがありましたが、年越し支度の忙しさに取り紛れて ただ 「なんかすごいことがわかったな」 というだけに留まっていました。

それをもう一度 しっかり思い出し 確認する必要があったようなのです。

書くことを通してそれは果たされたらしく、「その7」 アップの後から 意識のありようが徐々に変わり始めました。

おかげで なにを書いてもどうもしっくりこなくなり、少し後で読み直すと まるで満足できず、下書きを書いては消し 書いては消しの繰り返しで 現在に至ります。

帰結点が大きく変わったわけではないのですが、その見え方 ・ 感じ方がじわじわ変わってゆくので、何度書き直しても物足りなく思えてしまいます。

これはもう 熟し切るのを待つしかないようで、それまで 「その8」 も手がつけられそうにありません。

続きを待っていて下さる方、何度も見に来て下さる方、こんな次第でお待たせしてしまって申し訳ないです、ごめんなさい。

























お金の話 ~ その7

2017年01月14日 14時01分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


大晦日の夕方になって買い忘れたものに氣づき、薄暗くなりかかった中を スーパーまで自転車飛ばした帰り道、わずかに赤みの残る空にふと目がいったとき 不意にぱっと浮かんだのが、これまでずっとずっとず~っと自身を○×評価してきた意識。

正しく答えられたら○ 間違えたら×、ほめられたら○ 叱られたら×、自分の意見が支持されたら○ 支持されなかったら×、エトセトラ エトセトラ・・・・ と いつもいつも○か×かで振り分けてきた。

でも、○だろうと×だろうと 私は私、おんなじ私。

外になにがくっついたってとれたって、私本体はなにも変わらない。

なら そんなレッテル貼りになんか意味があったんだろうか。

大事なのは いつも変わらないこの自分で、それと比べたら ○だの×だのなんて どれほどのものでもないじゃないか。




そこで はたと氣づいたのです、そのなにがどうなろうと変わらない自分こそ あの “在る” のことなんだ、って。

自分でないものに触れることで初めて 自分とそうでないものの境目がわかり、「これが自分」 だと実感できる。

なら 自分でないものがなかったら、私自身も消える?

いや、なにをどうしようと決して最後まで消えないものがある、それが “在る” という感覚だ。

“在る” は絶対、そして私も絶対。

そんな絶対の私が 外側にくっついたり外れたりする評価なんかに惑わされることはなかった。

外がどうなろうと “在る” の私には なんの影響もない。

私を揺らがせ不安にさせるのは、絶対のはずのものに 外の評価を受け入れ当てはめて 一喜一憂する自身の意識だけ。




。。。。と言葉にすると かさ高くて重たくて時間かかってまだるっこしくてやれやれだけれど、実際にはぱっと身の内に弾けるように一瞬でわかって、同時に背筋がピンと伸び 心がすっと軽くなったのです。

もう大丈夫。

どれだけ動じたって揺らいだって、この “在る” に戻ってくればいいんだから。

“在る” は絶対の安全地帯で 私のホーム、ここにいれば かすり傷ひとつつくことはない。

そのために 内に留まる練習をしてたんだね。

やっとわかった、いろんなことがつながった (^^)




「自分なんかなんの値打ちもないんだ、むしろ迷惑な存在なんだ」

自己否定の説明によくついてまわるこういうふうな文言をいくら読んでも 到底自分のこととは思えず、「いや いくらなんでもそこまでは否定してないし」 と長いこと他人事にしていましたが、これはどうやら 言語化されたものをアタマでつかんでいたためらしい。

言葉、それも他者の言葉に置き換えられたものを 理詰めで当てはめようとしても なかなかぴんときませんが、実際自分の中に見つけたものは 言葉にならないある種の感覚であり、またそれを見つけようとして見つけたのでもない、一瞬のひらめきで これまで疑問だった自身の不自然な選択や行動と ほとんど意識していなかったその感覚とが いきなり結びついて ああ! と腑に落ちたのですから、やはりこういうことに マインドが納得するような形での答というものはないのでしょう。

それでもあきらめず きっと見つかるはずだとどこまでも追ってゆけば、時満ちて “わかる” ときが必ずやってくるのですね。




理屈を超えたところで起こったことは その結果も理屈では捉えきれないようで、あれ以来 表向きはさしたる変化も認められませんが、ただときおり 「あれ?なんか前とちがう」 と氣づくのは、同じような出来事に 明らかに前と違う反応をしている自分を見たとき。

おそらくもっとも根深いところに張り付いていたのだろう思い込みの発見は、長年の課題であったお金と豊かさのことも含め やはり影響が大きかったようです。
























お金の話 ~ その6

2017年01月12日 13時28分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋にとって、お金と条件付きの愛とはイコールでした。

どちらも 相手の要求を満たして初めて与えられるもの。

そして、こちらがどれほどがんばっても 見返りとして与えられるものは 期待よりはるかに低い。

自分にはそれしか許されていないのだという思い込みが 無意識のうちにがっちり根付いていたようで、それが 現実世界の人間関係や財政状況にもろに反映していたのでした。




以前にも書いたような氣がしますが、「表に現れる問題の底に 自身に対する無価値感が横たわっている」 という説が 氣になりながらも ずっとぴんとこないままでした。

いくら探っても それらしきものが見えなかったからなのですが、上のことに氣づいてすぐ これまでがウソのように ありありと姿を現しました。

どんなにあきらめきれなくても どれほどがんばっても 望むものは決して手に入らないという無力感が、声にならない声で自分の存在価値を否定し続け ありのままの自分を覆い隠して感じ取れなくしているさまが、理屈抜きではっきりとわかったのです。

ついにこの探索も底を打った、核心にたどり着いたと感じました。




それにしても何がコワいって、この思い込みはあくまでもイメージ、それも幼い子どもの漠然とした印象と 未熟でおぼつかない言語感覚を通しての 歪曲されたイメージなのに、そんなあやふやなものに基づいた観念が 成人後もそっくりそのまま生きていて、れっきとした大人の自分の人間関係や経済状況にばっちり反映されて 人生を大きく左右していたのですよ。

大人として納得いかない人生を それと氣づかないまま 子ども視点で創り続けて半世紀って。。。。

そんな当てにならない世界観も、ありがたいことに 一番の肝を探り当てたことで どうやらクリアボタンが押されたようです。

そしてさらにその先に・・・・・・・って、あー ここでこの話が出てくるのか

「お金の話 ~ その1」 で書きそびれた 昨年最後の大きな氣づきのこと。

あれは却下されたんじゃなくて、ここで登場することになってたのね \(^o^)/




2016年も残すところ数時間の大忙しのさなかに不意に舞い降りたひらめきのおかげで、29日の記事でちらりと書いたように 過ぎ行く年のさいごのさいごに 印象深い濃密なひとときを味わうことができたのでした。






















お金の話 ~ その5

2017年01月12日 06時08分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「本来の私たちは 神であり愛である」 という見方を事実認定して以来、自分ひとりでは生きていけない赤ちゃんが なぜあんなに無防備で安心し切って幸せそうなのかわかった氣がしました。

この世に到着して日が浅く、魂だったころそのままに 「なんでも思いどおりに創造できる、愛を送れば愛が返ってくる」 と信じて疑わないからなんだろうな、と。

それが ゴツン、アイタタ、あれ なんで? となるのは、身近な大人に思いがけない反応を示されたときでしょう。

そんな体験が重なるにつれ、不安や恐れを覚えて身構えるようになり、無難に対処できるようになるころには もうさまざまな思い込みががっちり入り込んで、相手に合わせて身を守ることを覚えた分だけ 感じるままに生きることを忘れている (T_T)




このブログで 自身のネガ感情の解放に向けての取り組みについては 繰り返し書いてきましたが、実はもうひとつ 長年抱え続けている課題がありまして、それが 「豊かさとお金」 。

こちらについてはこれまでほとんど触れてこなかったわけですが、それは いくら向き合っても追究しても 消化 ・ 昇華された感がおよそなかったから。

感情的なわだかまりが影響して豊かさを感じ取れず、それが現実のマネーライフに反映しているとは察しがつきましたが、不安や怒りに取り組んだときと違い 理屈ではわかっても 腑に落ちるところまでなかなかいかず、言葉にすることができませんでした。

頭の中だけうなずけても からだ全体で納得できなければ、インスピレーションも表現も行動力も湧いてこないものなんですね。




2016年は、根深い自己否定に目を開かされ、真我を主体に据えると決め、“認められたい自分” と取り組み、「在る」 という絶対的感覚を意識し始め、ハートこそ憧れてやまない ”内なるホーム” であると確信し そこに留まる訓練に勤しみ、と 内的に大変濃く 収穫の多かった一年でした。

そして 行き詰まっていたこの 「豊かさとお金」 の課題がついに動いたのが その終盤、暮れも押し詰まった師走のある朝のこと。

幼いころに培った 「親に認められたい」 という欲求と お金にまつわる思い込みが 突然すっと結びついて、そのつながりがすとんと腑に落ちたのです。




「幼い子どもにとっての親は 一国の王以上の権力者」 となにかの本で読んだ覚えがありますが、そのようにこちらの命綱を握る親という存在に 条件付きで認められるという体験を重ねれば、認められることへの執着が生まれるのも当然、貴秋もその例外ではありませんでした。

認めてもらえない恐怖と 認められたときの安堵とうれしさという二方向から枠をはめられて、親に従うのはもちろん その意向を先回りして満たそうとするまでにがんばってよい子の道を邁進し、やがて 認められたいという切実な欲求は無意識の領域に沈んで、氣づかないところでこちらの一挙手一投足にまで影響を及ぼす強力な観念となったのです。

そしてその観念は、成長して親の力がこちらの命を左右するほどのものではなくなったとき、「お金と社会」 という形に姿を変えて 再び現れたのでした。

社会に役立つ人間だと認められ たしかな居場所と十分なお金を確保することが何より大事、うまくいけば勝者、失敗すれば 幸せな人生は望めない、という強迫観念となって。





















お金の話 ~ その4

2017年01月10日 14時40分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「これから現行の貨幣制度が崩壊し 新しいシステムに移行するだろうが、そのとき大切なのは 物や行為に価格をつけないこと」  (木内鶴彦さんの発言だと又聞きで教えられたもの)




「お前は自分の認識しないものは価値がないというのか?ファンタジーは現実ではないというのか?しかし、未来の世界はファンタジーからしか生まれ育たない。我々が創造するものの中でこそ、我々は自由なのだ」  (ミヒャエル ・ エンデ著 「サーカス物語」 より)




「部族全体の幸福に貢献するものならなんでもメディシンとなる。骨折を治す才能や薬を持つのはいいことだが、卵を見つける才能とくらべてどっちが上ということではない (中略) どちらも個人それぞれの能力なのだ」   (マルロ ・ モーガン著 「ミュータント ・ メッセージ」 より)




「第一に、何が人生の浪費かを判断するのは、あなたがたではない (中略) 他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。あなたは、自分が何者かを決めるべきであって、ほかの誰かが何者であるか、あるいは何者でないかを判定する必要はない」  (ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 より)






天が無償でふんだんに与えてくれるものを、いつの頃からか私たち人間は 所有の概念で縛って囲い込み、条件付きで交換するようになった。

心が頑なに不自由になり 互いが分離する方向に進んだわけですね。




ところで 「価値」 っていったいなんなんでしょう。

まずなんとなく浮かぶのは、それは 比較があって初めて意味を成すもののようだ ということ。

AよりBのほうが美しい・ 性能がいい ・ 使い勝手がいい、だからAよりBのほうが 多くの人に望まれる → 値打ちがある、高値をつけても売れる、というような。

しかもこの物差しの力は、物ばかりか いのちある動植物や 私たちひとりひとりの働きや生き様にまで及んでいます。

動植物は公然と売買され、私たちの労働や時間も 当然のごとく換金対象となる。

それほどまでにこの 「価値がある ・ ない」 という意識は 私たちの内にしっかり浸透しているのですね。




でも、“いのち” ってほんとうに物差しで計れるものなの?

人であれ 他の生き物であれ 計量の対象となり 価値を付けられることを許したとたん、それは無限の “いのち” から 有限の “商品” に変わります。

そして そんな意識が高じて 地球環境を荒廃させ、多くの生物を絶滅に追いやり続けているんだよね?




それにしても、かけがえのない絶対のいのちを 一商品にまで貶めてしまう 「価値」 という物差しを、私たちはなぜ手放そうとしないのでしょう。

「オンリーワン」 「win - win」 などの言葉が一時期よく聞かれ 絶対であるものを愛しむ世界への憧れを感じさせましたが、それでもやはり 「価値あるもの」 認定を目指して 商業活動はもとより 教育 ・ スポーツ ・ 芸術などあらゆる分野での競い合いは 勢いを増す一方。

頂点に立てるのはほんの一握りで 大半は敗者、競争に負けるリスクのほうがずっと高いわけですが、そんなリスクを背負ってでも いつか勝者となる夢を諦め切れない、「価値あるもの」 の座争奪戦には 麻薬のような抗いがたい吸引力がある氣がします。

子どものころからいい子の優等生だった貴秋、その力の強さは身に沁みて知っていますから (^^ゞ

「価値」 の物差しを手放すよりも 「価値」 争いの勝者を目指す方に魅力を感じずにおれない。。。。そんな氣持ちの奥には いったいなにがあるんだろう?

好奇心の赴くまま 自身の心の内を探っていくうちに見えてきたものは、やはりというか 幼い頃の体験としっかり結びついていました。






















お金の話 ~ その3

2017年01月10日 06時09分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


もう20年ほど前になりますが、ある損保代理店でテレコミュニケーター (企業相手に電話で保険商品の案内をする仕事) のバイトをしていたとき、ちょうど生保との相互乗り入れが始まり 新たに生命保険についての講習を受けていて 上司に言われた言葉を今でも覚えています。

「あちこちの駅前に生保会社の大きなビルが建っているのを見ればわかるでしょう?それだけ顧客に支払われるものより会社側の利益のほうが大きいということですよ」




私たちは、必要なもの ・ 欲しいものを 対価を払って手に入れることが当たり前になっています。

まず差し出す側の希望や要求が伝えられ、それに同意して初めて欲しいものを受け取れる社会的取り決めに従っているわけですが、この取り決めは 無自覚のうちに 私たちを自身の本質である無条件の愛から遠ざけてしまいます。

先に価格をつけた時点で その対象は 条件付き ・ 有限のものになってしまうから。

そして、対価を求める時点で 差し出すという行為も無償ではなくなってしまうから。

対価との交換となれば、それは 「OKなら渡す、いやなら渡さない」 という条件付きの行為となり このコントラストの世界にしっかり組み込まれますから、五感を超えた本質の世界からは いやおうなしに遠ざかることになります。

さらに、この交換システムの中にいる限り 利益を乗せることで 本来の価値以上のものを請求せざるを得ないので ますます無償の愛から離れてゆき、私たちのもともとの性質を表現する喜びも豊かさも失われてしまうのです。

今の私たちの日常生活は 当然のごとくそんな交換行為で成り立っており、条件をつけるとか より多くを要求するとかいう意識の働きを 知らず知らず習慣付けられている。

お金のシステムに深入りすればするほど 自身の本質を忘れ、制約が増え、ネガティブな感情も増えてゆくようです。




これに氣づいたときは かなりショックだったなぁ (T_T)

ほんとうの自分に戻ろうと毎日けんめいに努力しているのに、まさか大切にしていた穏やかで平凡な暮らしそのものが枷となって 足を引っ張っていたなんて。。。。




けれど、そもそも私たちは 自分たちの命や肉体をはじめ 空氣 ・ 水 ・ 食べ物 ・ その他あらゆるものを 無償で天から授かっているのですよね。

天は対価なんか取らないで 必要なものすべてを氣前よく与え 無限の愛を注いでくれているのに、私たち人間は いったいなにやってるんだろう?




その昔、「お金は当初 交換券として生み出された」 と聞いたことがあります。

物々交換だと 重いものや持ち運びしにくいもの、鮮度が落ちやすいものには不便なので、いったん軽く小さく劣化しにくいものと引き換えてから 改めて望みのものと交換すればよい、そのために発明されたのがお金だ、と。

それを長い間信じていましたが、単純に交換なら 等価交換で十分なはず。

利益だの利息だのというものが発明されたのは なぜなんでしょう。




このあたりについては、「お金の成り立ち」 などという検索ワードで調べれば 丁寧な説明文や動画がぞくぞくと出てきます。

が、真我さんが貴秋に示したのは 少し違う方向でした。

「パパラギ」 に始まり 「神との対話」 の “神” の言葉、児童文学者 ミヒャエル ・ エンデ氏の言葉、臨死体験者 木内鶴彦さんの未来への提言、その他さまざまな視点との出会いを経て、そもそもこの世のあらゆる物事に 「価値 ・ 価格」 という物差しがつけられた その奥に何があるのかを追うことになったのです。























お金の話 ~ その2

2017年01月09日 12時41分36秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋が愛読させていただいているブログ 「ひかたま」 には、絶滅寸前の生物の話がたびたび出てきます。

そのほとんどが、人間の目先の利益のために住処や食べ物を奪われたり、働かせたり見世物にするために劣悪な環境におかれたり、牙や羽根など珍しい部分を得るために殺されたりして起きていること。

私たち人間の本質であるはずの愛や思いやりは どこへいってしまったのでしょう。




五感の世界は 相対する二極から成り立つコントラストの世界であり、私たちの選択や行動も 「愛」 か 「不安」 のどちらかが土台になっています。

同じ地球を分かち合う仲間の命を こうも粗末に扱わせるその根っこに潜むのは、当然不安や恐れのほう。

そしてそこに お金のシステムががっちり絡んでいる氣がしてなりません。




どこまでも拡大成長し続けなければならない。。。。といっても 地球環境とは相容れないこの経済システムの下で 全員が拡大成長のままやっていけるはずもなく、結果 競争に負けられない、負けたら生き残れないという恐怖が蔓延しているようです。

大企業から個人まで、勝ち残って 利益を お金を得なければならない、そうでないと文字通り生きてゆけないという恐れにがっちり絡め取られている。

恐れに捕まると どうにかしてそこから逃げることしか考えられなくなり、広い視野 ・ 長い目でものを見ることを忘れます。

この先も維持し続けるどころか もう半ば壊れかかっているシステムとわかっていても、現行の金融システムの中で なんとかして生き延びるしかないと思い込んで思考停止し、全体を見渡す余裕がなくなって 事の本質を見失います。

他の生物が次々死に絶えてゆくほど荒廃した世界で 人間だけがどこまでも豊かに繁栄し続けられるわけがない・・・・なんて考えは どこかに吹っ飛んで、ひたすら目の前の利益を追いかけることに没頭するそのありさまは、本来の 魂の いのちそのものの私たちとはおよそかけ離れたものになってしまっています。




ですが。

私たちの生命を支えているのは 空氣や水、食べ物、日光などであって、お金と呼ばれる金属や紙そのものではありません。

空氣がなくなればたちどころに死にますが お金がなくなったところで命を失うわけではなく、また逆に お金ばかりいくらあっても 食べ物や水がなければ 飢え死に渇き死には必至。

なのに お金の有無と命が直結しているように思うのは、私たちがそのように意味づけし、無機物であるお金にそれだけの力を与えてしまっているからなんですね。

お金のシステムがもたらすさまざまな問題を見直すには、お金そのものと 私たちがそこに付与した意味や力を いったん切り離して見直す必要がありそうです。

つまり、これまたやはり お金という外側の物質の問題ではなく 私たちの内面の意識や物の見方の問題だということ。

そこをしっかり見つめることなしには 何も始まりません。




ここ一年以上かけて お金にまつわる自身の思いを観察してきて、お金と結びついている負の意識や感情は 命の危機のほかにもいろいろな入り口があることに氣づかされました。

この話 まだ続きます。























新年のご挨拶と 本年最初のテーマ ・ お金の話 ~ その1

2017年01月08日 23時13分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


すっかり遅くなりましたが、新年おめでとうございます。

せっかくお正月テンプレートにしながらひと言も書けずにいた松の内にも 多くの方にお越しいただき 心からありがとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます m(__)m




で、前の記事にもちらっと書いたとおり 「昨年最後の氣づき」 の話から始めようと思っていたのですが、真我の意向では どうもそうはいかないらしい (^_^;)

2017年最初のテーマは 「お金について」 。

。。。。って これまでずっと避けてきた、書けなかった話を 今年の初記事にしろと

わかりましたわかりました、今年も相変わらず、というかよりいっそう “ 内の真我さんの言 ・ う ・ と ・ お ・ り ” なのですね




古い日記が手元にないので 正確な日付はわかりませんが、あれは確かおととしの夏の ある朝のこと。

不意にひらめいたのです、この世から突然ぱっと お金とそれに類するもの一切合財が消え失せたら? と。

単純に考えれば 「何も変わらない」 。

これまでお金と引き換えに差し出し 受け取ってきたものを、お金という交換券なしで差し出し 受け取る、それだけのことなのですから。




念のために申し上げておけば、これは論理的な話でも学術的な話でもありません。

貴秋はお金とか経済とかそういう方面の話にはまるっきり疎く 知識も情報もほとんど持ち合わせていません。

ただ、このひらめきから 自分なりに向き合うべきテーマが見えてきた というお話なのです。




もし実際そんなことになったら、何も起きず変わらずでは済まないどころか 世を挙げて大混乱に陥るでしょう。

では、物の流れも人の流れも お金が介在しなくなるという以外には いつもと変わりはないはずなのに、なぜ混乱が起きるのか?

現実の金融システムのややこしい仕組みはわからないのですっ飛ばし、直感オンリーで探ってゆくと、浮かんできたのは二つ。

ひとつは、お金の仕組みが つねに利潤と成長を前提としていること。

もうひとつは、お金と人の負の感情が がっちり結びついてしまっていること。




どういう理由でかは知りませんが、現行の経済システムは 等価交換ではなく 原価に加え必ず利益を上乗せしなければならず、さらに そうやってずっと儲けては成長してゆかねばならない仕組みになっているようですね。

現状維持ではダメで、どこまでも成長し続けなければならない。

でもね、地球の大きさは変わらないのですよ。

土や水をはじめ さまざまな資源の量も一定、当然そこで暮らす人の数も 無尽蔵に増やせるわけじゃない。

なのに、物は前より多く作って多く売らなければならない、どこまでもそれを続けなければならない、そんなの続くわけがないではありませんか。

小学生並みの単純な理屈だけれど、実際はまさにその理屈どおり 資源は減り続け ゴミは増え続け、効果的な解決策が見出せぬまま 先行きへの不安がじわじわ膨らんでいっている。



この幼稚ともいえそうなほどシンプルな見方は、あの 「パパラギ」 の酋長ツィアビの言葉を通して身についたものです。

人を雇って舟を作らせる、お金は作った人のものになるはずなのに 雇い主がその大半を得るのはなぜ?

お金が勝手に増えてゆく、そんな魔法みたいなことがどうして起きる?

複雑なお金の仕組みを知らずとも こういう子どものような視点から見えてくるものが多くあるような氣がします。

むしろ お金の仕組みがあんなにも複雑なのは 本質から目を逸らすための目くらましなんではないかとさえ思えてくる。

言葉ではなんとでも言えるし いくらでもややこしく見せられるけれど、いったん本質を前にすれば いつまでもごまかし切れるものではありません。




地球は閉ざされた循環システムで成り立っています。

地球内の資源がすべてであり、万事その範囲内でやりくりしていかなければならないということ。

他の星に進出するなんて話もありますが、それはまだ確立した技術ではなく、今の私たちはとにかく 地球の循環システムを滞らせないようにうまく生かし続けなければ 自分たちが生きてゆくこともできないのです。

なのに すでにかなり危うくなりかかっていて、大氣も水も汚染され、資源の枯渇も遠い話ではなく、動植物の絶滅危惧種は増える一方、人の心も荒む一方。




・・・・・・って、新年最初のブログだというのに なんでこんな氣の滅入るようなことばかり話してるんだろう? (- -;)

いや、ここをきちんと押さえておくことが この先を明るく前向きに進んでゆくことにつながるのです。

よろしければ しばらくお付き合いくださいませ。