毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

恥ずかしいけど ま いっか☆

2023年10月23日 08時55分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
きょうは、ひそかに恥ずかしく思っているあることを白状しようかと。

貴秋はこれまでに “源” からさまざまな情報を下ろしてもらっていて、それはひらめきという形でぽんと入ってくるんですが、これが来ると 身の内にわっと沸き立つような喜びが渦巻くんですね。

そして思うわけです、こんなすごいことを知ったのだから、私はもう大丈夫、これからは今よりもずっとうまくやっていける! って。

それはまあ間違いではないんですが、肝心なことがわかってなかったんですね、その与えられた情報を取り込んで消化吸収し じっくり寝かせて、やがてそれが自分の言葉として自然に上がってくるようになるまでは、使うことも伝えることもできないってことが。

わかってなかったものだから、そのまだ自分のものになっていない情報を 「これはぜひ皆さんにもお伝えしなきゃ!」 と すぐさまブログに書いちゃった

最近ようやくわかってきたんです、以前の自分のブログがなぜあんなに言葉数が多かったかが (いえ、いまでも十分多いんですけれど)。

自分の言葉に落とし込まれていないものを 外から眺めて描写しているだけだったから、実感が希薄な分 どうしてもクドクドと説明的にならざるを得なかったんですね。

いま読み返すと、そのクドさにゲンナリしつつ、それでもなんとかこの感動を伝えたい! とあの手この手で言葉をひねくり回しながら何時間も格闘していた必死さを思い出して、ため息が出ます。

そして何より頭を抱えたくなるのは、こんな書いた当人でもゲンナリするような代物をお読み下さった方が 何人もいらっしゃったこと。

いまなら二、三行で済む話を二千字も三千字も使って力任せに綴った こんがらかった糸のような文章を、どれほどの忍耐をもって読んで下さったのかと思うと、深々と頭を下げて ごめんなさいとありがとうを申し上げるしかありません。

なので 昔の投稿を読み返す必要が出たり、どなたかがずっと遡って過去記事を読んで下さった形跡を目にしたりすると、もう小っ恥ずかしくて 消去してしまいたくなることもたびたびなんですが、まあこれも成長する上で必要なプロセスだったのだから いまさら否定することもないと自分に言い聞かせて思いとどまっています。




その一方で、自分の世界は 自分の意識や言葉によって構築された 自分だけの世界なのだということが腑に落ちたのか、絶対で唯一の答えを探し求める代わりに、数ある選択肢の中から 好みに合うものを選んで 自分だけの物語を紡ぎ出すことに ためらいがなくなりました。

ウサギがオオカミに捕食されるとき、ウサギから見れば悲劇でも オオカミから見れば喜ばしいことなように、形ある世界の真実なんて 誰の目を通すかでいかようにも変化するものなのですから、そこで絶対無二の答えを探すなど 徒労以外の何ものでもない。

そうわかったから、自分の物語は 自己責任で 自分の創りたいように創る、バイキングで好みの料理ばかりを選んで 自分だけの一盆を作るように、自分の好きなもので自分の世界を埋め尽くすのだ、とすっと思えるようになりました。

すると、まず自分の選択について 他者の目を氣にかけなくなり、さらに 他者が自分と違う選択をしていても 氣にならなくなりました。

いい子で優等生だったころの貴秋は 他者の評価命でしたから、自分の選択や行動の正当性を他者に認めてもらわないと 一歩も先へ進めなかったのですが、いまはもう 「いまの一番」 と真我さんの導きに従い 我が道を行くのみ。

自分なら選ばないものを他者が選んでいても、以前なら 「なんて選択するのよ、どういうセンス? 常識あるの!?」 といちいち敵視して 内心突っかかっていましたが、いまは 「ふ~ん、ああいうの選ぶ人もいるんだ~、ま あの人がそれで幸せならいっか」 ぐらいのもの。

ブログの記事にしても、以前はどこからどう反論がきてもいいようにと 読む人の目をすごく氣にして書いていた (だからクドクドしくなっちゃったんですね) ものですが、いまはカテゴリー名に乗っかって 「これは貴秋の偏見なんで、お氣に召さない方はスルーでよろしくね」 と証明などするべくもない内容を 浮かぶがままに書き放題、もちろん自分の言葉には責任を持つけれど、それが受け入れられるかどうかは お読み下さる方の自由にお任せできるようになりました。

“源” とつながり 中心が定まってさえいれば、そこからどんな形を生み出すかは各自の自由なのだとすんなり思えるようになったのも、あの自分の言葉を獲得するまでの長い時間をブログ読者さまやブロ友さんたちに支えてもらえたからこそ、改めて いま以上に未熟者だった貴秋を忍耐強く支え励まして下さった読者の皆さま方に、心から御礼申し上げます。

正直いまでも自分の古い過去記事は極力読み返したくないですが、そんなアラだらけの拙い文章も 迷ったり転んだりしながらなんとかここまで来ることができた自身の軌跡なんだと思うと、恥ずかしいけど ま いっか☆ ということにできるような氣もします。
















「ピンチはチャンス」の法則は、いまのこの世界にもしっかり生きている

2023年10月19日 17時08分55秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
世界がますます騒がしくなってきているようですね。

そこに誰のどういう意図が絡み合い作用しているにせよ、とにもかくにも いま世界はこのようなことになっている。

で、私たちはそのどこを見るのか、どんな立ち位置から 目の前の世界のどこに焦点を合わせるのか、ということです。




個の視点と引きの視点の行き来は、感情の扱いがカギとなります。

感情的になっているときの私たちは、自身が構築した世界の登場人物 (主人公) として世界の内にいて、さまざまな出来事を味わい体験する立場にあります。

ここでは ネガティブな体験もアリ。。。というか 魂的にはむしろ歓迎、なにしろ 本質としての自分には味わえないそういった感情を知るためにこそ、私たちはわざわざ不自由な思いをしてまで この形ある世界にやってきたのですから。

ただ問題なのは、一度体験すれば十分なはずのネガ感情やネガ観念から抜け出せなくなってしまったとき、すなわち否定的な体験をするために潜在意識に仕掛けられたネガ情報がうまく外せず、バグとして居座ってしまったときですね。

バグが困りものなのは、本来フィフティフィフティで自由に選べるはずのネガポジなのに、コントロールが効かず ネガのほうにばかり引っ張られてしまうため。

同じような不快体験を何度も何度も繰り返せば、誰だって自信を失い セルフイメージが下がって、ますますネガから抜け出すのが難しくなります。

ここで有効なのが、引きの視点に立つこと。

引いたところから 感情に囚われている自分を眺めるときの私たちは、登場人物ではなく 自身の世界の作者 ・ 創造者の視点に立っており、作者としてバグを無効化し 否定的観念を塗り替えることができるのです。

引きの視点に立つには、先ほどの逆で 感情的にならないことが大切であり、感情から距離を取るには、言葉を引っ込め 極力使わないことです。

感情とは、ある種のからだの感覚に 「悲しみ」 「怒り」 「後悔」 などと 言葉によるラベルがついたもの。

感情から 苦しいだの辛いだのムカつくだのといった言葉を取り去ってしまえば、あとに残るのは 胸が締め付けられるとか 手足や顔の筋肉がこわばるとか 全身の力が脱けるとかいう感覚だけ。

その感覚を 言葉を用いずじっと感じていると バグが消えることを、体験から知りました。

最近さらに、感覚に集中しながら 深く静かな呼吸を繰り返すと、手放しの時間が短くなることがわかってきています。

バグが外れたかどうかは、起こる出来事や 自身の反応が変わってくることでわかります。

こうして自分が変わり 自分の世界が変わるにつれて、当然氣分もよくなってきますから、今度はそのいい氣分を存分に味わうことで、再び世界の内に入り込み 体験者に戻って楽しめばいいのです。




以前から何度も書いていることを なぜいま改めてお話しするかというと、いまのようなときこそ必要な情報ではないかと思うからです。

イスラエルで ガザで ウクライナで ロシアで起きている戦闘とその犠牲者、覚え切れないほど世界のあちこちで起きている地震や洪水や大規模火災などの災害とその被災者、加えて病氣に事故に恐ろしい事件の数々、さらには世界規模での食糧危機だの経済危機だのと、これだけの報道に連日さらされていて 氣分が落ち込まないわけがありません。

YouTubeのお勧め動画にも やたらと 「20○○年に大災害が」 「世界大戦が近づいている?」 「日本滅亡か!?」 といったおどろおどろしいタイトルが現れるところからも、人々の不安が見て取れます。

不安を感じるのは当然ですが、不安に囚われ 振り回されたままでいると、その不安が形となり 現実になってしまいます。

ここで思い出していただきたいのが、この形ある世界では どんな物事にも相反する二面があるということ。

こんな氣の滅入るようなニュースにもいい使い道があって、それが 「感覚フォーカス → ネガ観念の手放しのチャンス」 ということなのです。

悲しいニュース、痛ましいニュースの数々に心を乱されたときこそ、そのおおもとに潜むバグとお別れするチャンス。

地味に忍耐のいる作業ではありますが、その積み重ねは 確実に私たち一人一人の意識や感じ方を変え、世界を変えます。

「ピンチはチャンス」 の法則は いまのこんな世界にもちゃんと働く万物普遍の法則ですから、世界規模のピンチの裏には それに見合うだけのビッグチャンスが潜んでいることを、どうか忘れずにいてくださいね。

雲がかかったからといって 太陽そのものがなくなるわけではなく、雲が消えれば再び太陽が顔を出すように、バグから生み出された不安や怒りや恨みなどのネガが消えれば、隠れていた私たちの純粋な愛という本質が表に出てくる、それで世界が変わらないはずがないのですから。














真我さんは比べない、真我さんは裁かない

2023年10月14日 11時39分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
最近 「シンギュラリティ」 とか 「2045年問題」 とかいう言葉をちょくちょく目にします。

難しい用語はさっぱりわかりませんが、理数系が苦手な貴秋にもわかる範囲でざっくり言えば、「AIが賢くなり過ぎて人間の手に負えなくなり、人間の活躍場所が奪われちゃったり 人間固有の概念が覆されちゃったりする問題」 ってなところでしょうか。

でも、貴秋はたいして心配していません。

貴秋にとってのAIとは、マジックハンドのようなもの。

人間の手では掴めないものが掴めるよう 長さだの握力だのといった手の機能をパワーアップさせたのがマジックハンドであるように、人間の脳ではできない速さで大量の情報を処理したり計算したりできるのがAIってことですよね。。。って平たく言い過ぎな氣もしますが。

つまり、どれほどすごいといっても 所詮は人間の機能の一部を担うに過ぎないわけで、部分が全体を凌駕するなんてあり得ない。

そのあり得ないことがあり得るように錯覚してしまうのは、私たちが左脳偏重に傾きすぎているせいではないでしょうか。

「脳」 といっても、AIがカバーできるのは 左脳 すなわち理論脳の分野だけ、過去の情報なら高速でガンガン処理できても、まだこの世に現れてもいないものをイメージしたり、言葉では掴み切れない本質を腑に落とし込んだりするのは無理な話です。

人間が言葉を用いて “源” から分け出せる知識や情報なんて 全体から見ればほんのわずかに過ぎないのですから、“源” とつながり 無限の領域からいくらでもインスピレーションを受け取れる私たちが AIに支配されたり滅ぼされたりするなんてあり得ない。。。と貴秋は思っています。

もしそんなことがあるとすれば、それは左脳オンリー ・ 顕在意識オンリーで生きる人たちの世界でのことなんじゃないかな。




最近のAIさんたちは、顔形を得たり 語彙が豊富で感情表現が豊かだったりと 妙に人間くさい面も見せるので、こういう言い方は申し訳ないような氣もしますが、言ってしまえば AIとて道具であり、人間の暮らしをよりよくするために 人間の手で作られたものです。

それが人間に害をなすとすれば、それはAIの問題というより 人間の問題でしょう。

形ある世界には つねに相反する二つの面が存在しますから、金槌だって包丁だって 創作の道具ともなれば、凶器ともなる。

どちらになるかは、使う人次第ということですよね。

AIの能力があまりにすごいので、ついつい独立した存在のように錯覚してしまいますが、AIだって まずなにがしかの初期情報を入力しなければ動けないはずです。

そして その初期情報を入力するのは人間であり、AIは自分勝手に動くのではなく 入力者の意図に応じて判断解釈し 結論を導き出すわけですね。

最近、AIが人間の学業や仕事の成績評価や 日常の態度や暮らしぶりの評価、引いては格付けに使われるなどという話を聞くことがありますが、その線引きのもとになる情報は 誰が入力したのか、誰のための評価であり格付けなのか、ということです。

そして そんな評価や格付けが、私たちの世界を統合に導くのか 分離に導くのか、世界をステップアップさせるのか 破滅させるのか、ということですよね。

貴秋の左脳なんて AIと比べれば 笑っちゃうような単純な働きしかしませんが、それでも 引きの視点に立てば これぐらいのことは訳なく見て取れます。

別に知ろうとしなくても、勝手に見えてきちゃうのです。

だから 心配せずにいられるんですね、真我さんと手を携えている限り、AIに人間が滅ぼされるなんてありっこないって。

人間を滅ぼすのは、人間だけ。

AIを作ったのも人間なら、武器を作ったのも人間、その知性を世界を平和に豊かにするために使えるのも人間なら、人よりも多くの金や地位や名誉などを得る手段として使うのも人間。

AIが止められないほどの暴走を始める前に手を打つつもりなら、私たちがまずしなければならないのは、忘れられていた真我さんを 自身の内に見つけ出し、その導きを信頼して従うことではないでしょうか。

真我さんは、誰のことも 裁いたり他と比較してレッテルを貼ったりなんてしません。

そもそも どんな人間であれ、この体験世界で 「行って かえる」 の壮大な物語を織り成すために送り出した自身のパーツであり、無駄無意味なパーツ、むげに捨ててもいいパーツなんてただのひとつもないことを 誰よりも一番よく知っているのが、他ならぬ真我さんなのですから。

私たちが お金や地位や名声や優秀な頭脳やコンピューターなどではなく、真我さんをなによりも信じて導き手とする限り、シンギュラリティも2045年問題も恐るるに足らず。

そう確信しているから、きょうも貴秋は 騒がしい世間を尻目に キンモクセイの香りに酔いしれ、庭仕事やおやつ作りに興じていられるのです。




勝手に始まっちゃった 「真我さんシリーズ」 ですが、そろそろこのタイトルにも飽きてきたので(おい)、今回でおしまいにさせていただきますね。

本日も 長い文章をおしまいまでお読み下さり、ありがとうございました。















真我さんは諦めない、真我さんは見放さない

2023年10月08日 12時06分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
なんか "真我さんシリーズ” みたいになってきちゃってますが、最初はそんなつもりじゃなかったんです。

二番目の記事のタイトルを考えているとき、ふと前と同じ 「真我さんは ~」 が出てきてしまって、なんとなくこういうことに。

でもまあ 何をやろうが企てようが そこには常に真我さんの意図が働いているのだと思えば、こういうのもありかと。。。というわけで、本日は “結果的に真我さんシリーズ ・ その4” でございます。




先日 ある動画のサムネを見て、「この内容はきっと正論だと思うし 聞いてみたくはあるけれど、ちょっと手が出ないなぁ」 という氣分になりました。

タイトルの文言から、内容よりも先に 投稿者さんの 「こんなに正しいことを言ってるのに なぜわかってくれないの!?」 という怒りや苛立ちのエネルギーが伝わってきたからです。

いや、これが少し前まで 「正しいことをするいい子」 で通してきた貴秋のかつての嘆きの投影なのは間違いないので、氣持ちはすごくわかるのですが、同時に 怒りのエネルギーをまとったまま望む結果を手に入れるのはまず無理だということもわかってしまうのです。

怒りが出てくるのは 自分の望みや意図が妨げられているときなので、怒りを感じているときは 「こうしたいのにできない、邪魔されて思うように動けない」 者の立ち位置にいることになります。

「~できない」 という立場で できないことへの怒りを募らせる、つまり認識と感情がセットで発動されてしまうのですから、その 「~できない」 という現実を引き寄せてしまうのは当然なんですね。

怒りとは 望みを諦めていない現れでもありますから、決して悪いばかりのものではないのですが、望みを叶えるためには、それを外に向かって発散させるのではなく、自身の内に目を転じて 怒りを受け止め、感じ切って終わらせる必要があります。

そうして怒りと向き合い 消化 ・ 昇華させた先に、これまでは見えていなかった新たな選択肢が姿を現し、望みの実現に向かう道が開けます。




以前の記事で、「感覚フォーカスを重ねて “世話焼き母さん” がバグによる自動反応だったと氣づいたとき、次に起きたのは解放ではなく、『長年だまされていいように使われてきた』 ことへのすさまじい怒りだった」 と書きましたが、ほんとこの怒りには苦しめられました。

ちょっとすごいことをお話ししましょうか。

貴秋が実家で使わせてもらっている部屋の押し入れに、弟の物だったのか 木製の野球用バットが入っているのですが、溜め込みすぎた怒りのパワーが感覚フォーカスの集中力を上回り 身の内が引き裂かれそうになると、このバットを引っ張り出して あちこちの壁や不要になった家具を力一杯ぶん殴って どうにか発散させていました。

それだけじゃありません、大好きな台所仕事をしているときは 不快な記憶のフラッシュバックも多いのですが、これって危ないじゃないですか、包丁がいつでも手元にある台所で そんな精神状態に陥るなんて。

で こみ上げる怒りの収拾がつかなくなると、自分や父をうっかり傷つける事態を回避するため 調理台に刃物を叩きつけたり突き立てたりして なんとかやり過ごしていました。

おかげで実家は 感情荒れ狂う引きこもりの高校生でもいるかのような有様・・・でも これをやったのは ティーンエイジャーではない、分別盛りの50代後半の貴秋なのですよ。

しかも、怒りの正体も 怒りを終わらせる手立ても 十分わかっている身でありながら。

ドン引きさせちゃったらごめんなさい、ただ 言いたかったのは、長年抑圧してきた怒りのエネルギーは それほどまでにコントロールが効かず凄まじいものだということなのです。

ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に、「抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。 (中略) 人々は怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ」 とありますが、これが誇張ではなく事実だということが 貴秋には身をもってわかります。

正論も理性も吹っ飛ばし、普段はまっとうな暮らしを営む物腰穏やかな大人にさえ 「あのおとなしい人が!?」 と世間を驚かせるようなことをさせてしまうのが、憤怒の持つ負のパワーなのです。




先日書いたジャニーズ問題への人々の反応もそうだし、コロナでもウクライナ侵攻でも他のどんな問題でもそうですが、私たちはともすると 責任者とおぼしき者 (それが真の責任者だとは限りません) を探し出し、詰問しバッシングすることで、溜まりに溜まったフラストレーションを発散させようとします。

でもそういった問題は、実はもともと持っていた怒りを発動させるきっかけに過ぎず、怒りの真の原因は 一人一人の心の奥深くに埋もれ忘れられているのですから、貴秋がバットや包丁を振り回しても一時しのぎにしかならなかったように、爆発寸前の民衆感情のガス抜きにしかならず、怒りの原因の真の解決にはなり得ません。

それどころか、目くらましの身代わり羊に民衆の目が向いている陰で、もっととんでもないことが進行している可能性だってあるのです。

いまの貴秋は 一昔前の自分の姿を引いたところから眺めて語れるまでに心が落ち着き、ようやく安心して日々の暮らしを楽しめるようになりましたが、それは 一時しのぎで稼いだ時間を怒りの手放しに費やすことで、意識を大きく書き換えることができたから。

同じことを 怒れる民衆の一人一人が行えば、戦ったりバッシングしたりするのとはまったく別次元の、そしてもっと根本的に世の中を変えるすごい方法を思いつき、力を合わせて実行して、誰もが心安らかに楽しく暮らせる世界を創造し直すことだってできるのです。




そして、この地味で地道な努力を支えてくれるのが、真我さん。

真我さんは、個がどれほど荒れようが投げやりになろうが 導くことを諦めないし、こちらを見捨てることもありません。

私たちが 繰り返し同じような不快な状況に陥ったり 苦手な人に出くわしたりするのは、真我さんが諦めることなく 負の感情を手放すチャンスを与え続けてくれているからなのです。

思い切って 同じパターンの反応を繰り返すのを止め、心をかき乱すようなニュースを聞くたびにこみ上げてくる怒りそのものにフォーカスしてみませんか?

怒りと共に歩んできた時間が長い人ほど 忍耐は必要ですが、その結果は 間違いなく大きな喜びをもたらすはずだし、そうなって初めて それまで真我さんがどれほど忍耐強く見守り寄り添ってくれていたかに氣づいて、深く心を動かされることと思います。

私たちがどれほどヘマをしようがブチ切れようが、真我さんは決して諦めないし、見放さない。

そしてそれは、私たちの本質そのものでもあるのです。