毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

冬至に寄せて ~ 星野道夫とムーミンの世界

2013年12月22日 14時18分45秒 | 大好きな本・映画・ほか

きょう、冬至。

一年で一番日の短い日。



いつもだったら「カボチャどう料理しようかな~」とか すぐそんな話にいっちゃうんですが(^_^;) 、きょうはちょっと違うところから。



奈良にいたころは あまり氣にしてなかったんですが、この南紀の山里は なにせ山の中、普段からお日さまが隠れるのが早い。

しかも、天氣が変わりやすく、冬は特に 一日中からっと晴れる日が少ないのです。

朝方陽氣な青空でも、午後には雲がかかることが多くて。

その分、雲の隙間から神秘的な「天使の梯子」を拝めることも多いから、冬の午後も大好きなんですが、寒風に吹きつけられながら 薄曇りの枯れ野原を散歩しているときなど、やはりお日さまの光や温もりが恋しくなります。

ましてや きょうの短いお日さま時間、一番日が高いはずの1時前後の日ざしもほんのり柔らかく、3時を過ぎたらたちまち薄暗くなり始める。

なんだかもの悲しい氣分ですが、そんなとき「さあ、これから日一日と またお日さまの顔を出す時間が長くなっていくんだ」と思うと、一転して 晴ればれと明るい氣持ちになれるんだなぁ(^^)

1月、2月と 寒さはますます厳しくなっていくけれど、少しずつ長くなっていく昼間の時間が、やがてくる春を楽しみに じっと静かに時を過ごす心を支えてくれる。

そして 春になったとき、そんな冬の記憶が この上なくなつかしく愛おしいものとして 思い出されるんですね。



アラスカの豊かな自然を撮り続け、1996年 カムチャツカでクマに襲われ逝去された写真家・星野道夫さんの「長い旅の途中」という本に、こんな一節があります。



  “あと、十日もすれば、冬至。

   この土地で暮らす人々にとって、その日は、氣持ちの分岐点。

   極北のきびしい冬はこれから始まるのだが、太陽の描く弧は、少しずつ広がってくる。

   そして人々は、心のどこかで、春の在り処をしっかりとらえている。

   今日も、太陽は、わずかに地平線から顔をのぞかせただけだ。

   沈んでいった夕陽が、少しの間、凍てついた冬の空を赤く染めている。

   やがて闇が押し寄せてきて、長い夜が始まってゆく。

   陽の沈まぬ夏の白夜より、暗黒の冬に魅かれるのは、太陽を慈しむという、遠い記憶を呼び覚ましてくれるからなのかもしれない。

   忘れていた、私たちの脆さを、そっと教えてくれるのだ。”



深く深く染み入るような言葉。

失われるからこそ 愛おしさが増す。

寂しさの中から浮かび上がるあたたかさ。

日頃当たり前のように思っているものが どれほどかけがえのないものかを思い出させてくれる、長い冬の夜。


星野道夫さんの文は、味わっても味わっても味わいつくせないほど深くて 滋味溢れていて、私のひそかな心の宝物です。



もうひとつ、冬至といえば思い出すのが、トーベ・ヤンソン作「ムーミン谷の冬」。

わたしが生まれる前から両親が用意してくれていた、岩波・少年少女世界文学全集に収録されていて、故・岸田今日子さんがムーミンの声を演じておられたアニメですっかりムーミンの世界に夢中になった私が初めて読んだ ムーミンシリーズの一冊です。

ムーミンたちは 冬は冬眠するので、本来は春から初冬までのお話しかないはずなんですが、なぜかひとりだけ冬眠から覚めてしまったムーミントロールが 初めての冬を経験する、シリーズ長編では唯一の(短編にはクリスマスのお話もあるんですが)冬の物語。

私は最初にいきなりこれを読んでしまったので、ムーミンと冬景色が心の中でしっかり結びついてしまっているんですね(^^ゞ



家族はみんないくら起こしても起きてくれず、たったひとりで生まれて初めての冬を過ごすことになった ムーミンの不安や孤独。

とはいえ、まったくひとりぼっちなわけではなく、おなじみちびのミイもなぜか起き出して 盛大に冬をエンジョイしており、また これまで出会ったことがなかった冬の住人たちとも少しずつ知り合って、いろいろな体験をしてゆくわけですが。



お日さまがかえってくる前の日の晩に燃やす 冬の大かがり火と、冬の間だけ姿を現す生き物たちが 火のまわりをはねまわって踊る 黒い影。

北欧の長い暗黒の夜を 寒さと寂しさに耐えながら過ごしたムーミンが、「明日はお日さまが出る」と聞かされて、胸をときめかせながら待ちに待ったあげく、水平線に糸のように細いひとすじの赤い光を見たときの 躍り上がるような喜びと、それがあっという間に沈んで消えてしまったときの落胆。

お話の世界にすっかり入り込み、ムーミンに心を添わせて一喜一憂しながら おしまいまで読み終わったとき、自分もムーミンと共に 長く暗く厳しい冬を味わい抜いて 春を迎えたような心地になっているのです。

フィンランドと日本では 冬の表情もまるっきり違うのでしょうが、それでも 冬独特の自然から伝わる氣配や そこで暮らす生き物たちの思いは、共感とともに胸の奥にしっかりしまい込まれ、時が経つほどに熟成して、今もふとしたおりに 冬に寄せる自身の思いと相まって なつかしく浮かび上がってきます。




占星術的には、冬至は エネルギーの切り替えポイントに当たるのだとか。

新年の決意の前の 深い内省のときなのだそうです。

今夜は熱いミルクティーでもお供に、星野道夫さんの本や「ムーミン谷の冬」など読み返しながら、じっくり物思いにふけるとしましょうか。























エール

2013年12月19日 01時33分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「インセプション」からのひらめき、まだまだ続いています♪

さすがにもう 映画はかなり自分の中に入ってる感じなので、今は解説サイトなどから新たな視点をお借りして、さらなる氣づきをもらってます♪



刺激やきっかけを外からいただくことは多いけど、導き出される答えは 結局のところ 自分の中に以前からあったんだと氣づかされるんだなぁ(^^)



私たちは 子どものころから、誰かが決めた 限られた選択肢の中から クイズみたいに正解を言い当てることを習慣づけられてきました。

だから、いつも答えを外に求めて飛び出していく、というのが習い性になっているんですね。

それでどうにかなっていた時代もあったけれど、万事が想定の斜め上をいくような 今のこの流れの中では、役に立たない。

正しい答えを見つけないと どうなってしまうかわからない、という不安や焦りから、けんめいに探し回るのだけど、残念ながら 外側で探す限り、「どれが正しい答えなのか」「誰が正しい答えを持っているのか」と やはり当てものになってしまう。

「正しいもの」を掴もうとすれば、必ず「正しくないもの」も生まれることになるから、この二つの間で迷ったり、違う答えを選んだ人と対立したり、望むような安定や安らぎは得られない。



自分の中に答えを見つけるっていうのは、二元対立から離れることなんですね。

内側の答えには、間違いってないもの。

正しい・正しくないの別なく、ただ それが答え。

自分だけの、そして そのときどきの自分にぴったり添う答え。



外側の答えは、「正しいのかな?正しくないのかな?」って 絶えず頭が働いて 吟味してる。

「間違っていたらどうしよう」っていう不安がついて回り、落ち着かない。

かといって、悩むのをやめて 丸信じしてしまうと、感じる力が鈍る。



内側の答えは、出会った瞬間 「これだ」 とわかります。

迷いも不安もまったくない。

信頼すればするほど どんどん湧いてくるから、状況がいくら変わっても その都度ぴったりの答えを受け取ることができる。

これ以上たしかな羅針盤はないんじゃないかな (*^▽^*)v



そういえば、どうして私は こんなに全面的に 内側の答えを信頼できるようになったんだっけ?

10年前の私は、まるっきりこんなじゃなかった。

答えどころか、自分の好きなものさえわからないぐらい鈍ってて、自分を信じるどころの騒ぎじゃなかった。



ブレイクスルーのきっかけは、もう何度も書いてると思うけど、「好きなこと、わくわくすることをするといいですよ、はじめは小さなことからでいいから」という 友人のアドバイスでした。

日常のごくささやかな楽しみから始めて、やがて車中泊キャンプであちこち旅する楽しさを覚え、自分の選択や行動が 自分を楽しませてくれる というたしかな手応えを感じられるようになって、小さな自信が芽生え、さらに楽しい体験を積むことで だんだん大きく育っていったのだと思います。



もちろん、当てが外れて失敗することもたくさんあったけれど、やはり同じ友人からの「うまくいったときの感じと うまくいかなかったときとの違いをおぼえておくといい」という助言で、これだという答えと出会ったときの感じが少しずつ掴めるようになり、10年足らずのうちに 確信に変わっていったんですね。



今こうして 10年前のあの頼りなげな 心細げな自分を思い出し、そして再び今の自分を思うと、人って変われるものなんだと思います。

10年前の自分が「10年後のあなたはこんなだよ」って聞かされても、とても信じないんじゃないかと思う。

でも、本人も氣づいてない そんな10年前の私の中に、今の私の種がちゃんとあったんだよね。

よき友人との出会いと 与えてもらったきっかけのおかげで、その種は無事に芽を出すことができ、ここまで大きくなりました。

出会いは天の計らいだとしても、それをしっかり捉まえたのも 友の言葉を信じて実行したのも あの自信ゼロで頼りなかった自分なのだと思うと、今どんなにうまくいってない人でも、逆転の種はみな必ず持っているんだなっていう氣がします。

それを見つけて育てていくプロセスは ひとりひとり違うのだろうけど、今の自分に納得いかなくて 好きになれなくて悩んでいる人ほど、もっとよくなりたいっていう氣持ちも大きくて、それこそが 逆転の種始動の合図なんじゃないかな。

確証があるわけではないけれど、あの自信なかった自分がどうして。。。って振り返ると、なんとなくその辺がカギだったのかな、っていう氣がして。

願望がふくらんでふくらんで、まさに意志に変わる、変わらんとする、そのあたりが、ね☆

望めば叶うって、そういうことなんじゃないかな♪



あのころの自分に、そして 同じような思いをしている人たちに、全力でエールを送りたい。。。今 そんな氣持ちです (*^ー^*)
















続 ・ 映画「インセプション」考

2013年12月17日 11時52分56秒 | 大好きな本・映画・ほか


え~っと、今回もまた 盛大にネタばれしておりますので、ご注意下さいませ <(_ _)>











* * * * * * * * * *

















「インセプション」って、辞書的には「始まり、開始、発端」みたいな意味らしいけれど、この映画では 「エクストラクト(アイデアの抜き取り)」の反対で 「アイデアの植え付け」を指すんですね。

サイトー(渡辺謙)が 報酬プラス コブの犯罪歴の抹消 と引き換えに依頼したのは、ライバル会社の社長の息子で 近々父の跡を継ぐことになるロバート・フィッシャー(キリアン・マーフィ)に、父の会社を進んで潰すようなアイデアを植え付けて欲しい、というもの。

「インセプション」は 「エクストラクト」よりもはるかに危険で難しいらしく、サイトーやアリアドネ(エレン・ペイジ)との会話や 仲間内の作戦会議などで、植え付けに際してのポイントや注意点などがあれこれ語られます。


・人は常に なぜそのアイデアを思いついたか探ろうとする。それが他人の考えであるということをごまかすのは不可能だ。

・(植え付ける)深さだけの問題じゃない。ターゲットの心に定着させるには、シンプルじゃなければダメだ。

・ターゲットの先入観が 成功の鍵だ。

・夢の第一階層で (ターゲットと親しい人物に扮して)ターゲットにある概念を抱かせる。
 すると、より深い層へ潜っても、今度は意識の中のその人物が、それを伝え続け、植え付けるアイデアに導く。
 だが、本人は 自分でそのアイデアにたどりついたと思うんだ。

・潜在意識は感情に左右されやすい。理性ではなく 感情に訴えるような動機付けを考えるんだ。

・ネガティブな感情より ポジティブなほうが いい結果を生む。

・アイデアはウイルスみたいだ。しぶとくて感染力が強い。小さな種が大きくなり、人に道を示すか 破壊するかだ。


こういう言葉をせっせとメモしながら 何度も繰り返し鑑賞するうちに、ふとひらめくものがありました。


人は、生まれてすぐ、いや、お母さんのお腹にいるときからでも、周囲の大人(多くは親)の偏った思い込みを それと氣づかぬうちに刷り込まれ ずっと抱えて生きていくことになる。

これも、一種のインセプションと言えるんじゃない?

知らないうちに植え付けられて、それを自分の考えだと思い込んで ず~っと影響され続けるんだもの。



またもや起こったインスピレーションにわくわくしながら、映画で語られたインセプション成功の条件と照らし合わせてみるうちに、はたと氣づきました。

子どものころの刷り込みは 脳の神経回路の配線が未完成のうちに行われるから、無条件に取り込まれ がっちり根付いてしまうと聞いていたけど、インセプションと思って見てみると、意外と不完全なところもあるんだなぁ。

たしかに 愛されたいという先入観があるところに働きかけてくるし、感情に訴えかけもする。

最初は親など 自分ではない者の考えだけれど、いったん入り込むと 自分自身の考えだと思い込むようになるし、小さな種を長年に渡って育て続け、生き方を左右されることにもなる。

だけど、明らかに他人の考えだから、その出所に氣づけば 切り離すこともできるし、自分を幸せにしない思い込みは当然ネガティブだから、これも植え付けにはマイナス条件のはず。



そうか。

「脳が未完成のうちに入り込んだ情報は根深い」っていうのは 単なる知識だけれど、私はそれを「だから容易には外せない」という思い込みに変えてしまい、ずっと影響されてきたんだ。

たしかにてこずりはしたけれど、決して不可能なことではないし、現にその大半からこうして自由になれているじゃないか。





もしかしたら、これもそんなふうに意図して仕掛けられていたんじゃ?

なにもせずに放っておいても外れるほどやわに植え込まれてはいないが、あきらめずに取り組んで からくりに氣づき 外すコツさえ掴めば 十分クリアできるっていう 絶妙なさじ加減になるように Σ( ̄□ ̄;)

うわ~



面白半分のお遊びのつもりが、いつの間にかほんものの氣づきに変っていました。

こうなってみると、映画の中の謎解きよりも、映画に絡めた実際の人生の謎解きのほうが はるかに面白い!



がぜん興味が増し、相変わらずDVDを見続けるのと並行して いろいろなサイトでこの映画について調べてみたら。



こんな記事 を見つけました。



「ラストシーンで最も大事なのは、コブがコマを見ていないという点だ。コブはあのとき自分の子どもたちを見ていた。彼はコマを捨てたんだ。それこそが、あの場面において最も大事なことなんだよ」



そうだ。

大事なのは、夢の中か外か、ということじゃない。

大事なのは、幸せかどうか、ということだ。



私たちは、とにもかくにも この人生を生き続ける限り、三次元世界という夢の世界に身を置くわけだ。

その夢の中で、夢を現実と思い込み コントロールする力を失ったまま翻弄され続けるか、夢とわかった上で 幸せに生きられる世界を 自分の手で意図的に創ってゆくか、大切なのは その選択だ。

放っておいても、いずれ夢の時間は終わり、目が覚める。

それまでの人生を、悪夢になすすべもなくうなされ続けて過ごすか、思い通りの世界を創り 楽しく過ごすか。

この世界が 手のつけようもないほどひどいところに思えることもあるけれど、それでも自分の手に舵を取り戻して 自分の意思で人生を創り続けていく、それこそが、私たちがわざわざ不自由な身となってまで この世界に生まれ出てやりたかったこと、神々の戯れ・リーラじゃないか。




こう氣づいたときの 満ち足りた思いといったら。。。






「インセプション」を見始めたとき、まさかこんなところに導かれようとは 思いもしませんでした。

クリストファー・ノーラン監督はじめ この映画作りに携わって下さったすべての方々に、そしてこの映画に出会えたことに、心から感謝します。


そして、ここまでお読み下さった方々も・・・ありがとうございました。
























映画「インセプション」考

2013年12月16日 11時22分22秒 | 大好きな本・映画・ほか


2010年に日本でも公開された、クリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「インセプション」。

あちこちの映画レビューサイトやブログなどでも話題となり、ずっと氣になっていましたが、翌2011年の10月だったかな?たまたま行ったスーパーで 信じられないような安値(はっきり覚えてないけど、三桁の金額だったのは確か)でDVDが売られているのを発見、即買いして以来、50~60回は軽く見てると思います。

ブログでも以前一度取り上げたことがあったはずだけど、見るたびに そのときの自分の心の状態に応じて なにかしら感じるものがあって、一度見始めると ついつい連日繰り返して見てしまう、不思議な映画。



このところ 心の変化が早いせいか、少し前の記憶もあやふやなのですが、たしか先日風邪を引いておとなしくしていた頃に ふとまた思い出して見始めたんだったかと。

で、例によって数日見続けたところで、どこかのブログで 「映画 『インセプション』 は、公開されているストーリー以上に深く示唆しているものがある」的な内容の文章を見かけて、そのころの精神状態とも相まって 響くものがあり、さらに意識して見続けるようになった。。。というような流れだったと思います。



ここから先、映画内容にどうしても触れることになるので、ネタばれは読みたくないよ、という方は、ここまでにしておいてくださいね。











* * * * * * * * * * *














主人公ドム・コブ(レオナルド・ディカプリオ)は、ターゲットの夢の中に入り込んで 潜在意識から秘密を盗み出す 特殊な産業スパイということで、夢の中の話がたびたび出てきます。

その中で、「夢の中では 死ぬと目覚める」っていうルールみたいなのがあるんだけれど。

ここでふと思い出したんですね。

この世界で 私たちが死んだ後どうなるかについて、死んだことがある人・・・って妙な表現だけれど、実際に死を体験してまた戻ってきた人の話を聞いたときのことを。

ご存知の方もおられるかと思いますが、立花隆さんの「臨死体験」や 映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の監督・龍村仁さんの「地球(ガイア)のささやき」などでも取り上げられている、彗星捜索家の木内鶴彦さん。

医師によっていったん死亡が確認されてのち 30分後に蘇生したことが 医学的記録に残されている、国内で唯一のケースとして知られています。

この方の講演を数回にわたって聴いたことがありますが、臨終のとき 自分の心臓が「あ、止まった」とはっきりわかったのだそうです。

で、「あれ?じゃあ 『止まった』 と思ってる この自分って?」って。

そして氣がついたら、病室のベッドのそばで 自分の亡骸を見つめていた、と。

足元にぼう然と立ち尽くすお父さんには、この「からだから抜け出した自分」は まったく見えも聞こえもしなかったそうです。



死後のことは、少なくとも今のこの生ではまだ未体験だし、実際そうなってみるまで ほんとうのところはわからないのだけれど。

私は、この木内さんのお話を「あり」だと思っています。

さらに、前から言わせて頂いているように、本来“大いなるひとつ”である自分の素晴らしさを 体験的に知るために、細かく分けられて この世に生まれてきたひとかけらが 今のこのからだをまとう自分である、とも思っている。

となると。

死んだ後、それまでの肉体から抜け出て「あれ?」と思ってるって。。。映画の「死んで夢から覚める」っていうのと同じようなものじゃない?

つまり、魂の見地からすれば、今の私たちの世界が 夢の世界なのだと。

「死ぬ」っていうのは、夢から覚めて 本来の自分の意識に戻るようなものなのだと。



「インセプション」では、夢の中で それが夢であることに氣づいていれば、自由に動けるんですね。

覚めた意識を保ったまま他人の夢に入り込む「設計士」は、相手の夢を乗っ取って 自分の好きな世界を自在に創れるし、同じくコブたち他のメンバーも 夢の中で 覚醒時の計画通りに任務を遂行できる。

逆にコブたちが ターゲットに夢の中であることを氣づかれると、エクストラクト(アイデアの抜き取り)を防がれて 仕事が完遂できなくなってしまう。

これを 「今の私たちの世界 = 夢」という設定に当てはめると、夢、つまりこの三次元世界が 現実でありすべてであると思い込んでいる限り、その状況に流されるしかないけれど、自分が今いるのは自分の意識が創り出している(夢の)世界だとわかっていれば、いくらでも好きなように創り変えることができるよ、っていう話になるんじゃない?

日頃思ってることとぴったり~\(^o^)/



となると、映画のラストで コマが倒れたか倒れなかったかはっきりしないまま終わるのは、現実もまた夢たりうる、ということで、どっちみち夢の中、という見方もあるのだから、倒れようと倒れまいとどちらでもいい、という解釈もできるのかな、と。



この 自分の世界観との重なり具合にすっかり面白くなり、ますます興味が増してきて、それ以来 メモと鉛筆を用意して 思いつくことを片っ端から書き留めながら、さらに繰り返し見ていったわけです。

そうしたら。




また長くなっちゃった・・・・すみません、 次回に続きます m(__)m




















想定外パワー

2013年12月15日 23時23分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日もちらっと書いたけれど、今ね、自分の中で これまでにない勢いで変化が起こってるんです。

まず インスピレーションが湧くテンポが やたらと早い。

日記に書き留めるのも追いつかないぐらい。

さらに、その内容がまた かなりな濃さ。



なんでこんなことになったのかはわからないけど、もしかすると、これまで苦労しながら じりじりとネガ思考癖を解放し続けてきたかいあって、ネガ・ポジ フィフティ・フィフティから ほんのわずかにポジの方に針が振れて、いい方への動きに弾みがつき始めたのかな~、なんて想像してみたりして

いや、それよりも、世の中全体に 変化のスピードや規模が高まってきてるような氣もするし。



とにかく、せっかく湧いてきてくれた よき氣づき、忘れたり色あせたりする前にシェアしたいし、時間のあるときに少しでも。。。ということで、続けて本日2度目の更新。





夕べ眠りに落ちる前にひらめいたのが、「そっか、『想像をはるかに超える』っていうのは いい意味にも使えるんだぁ」っていうこと。

おととしの9月、台風12号の被害を経験したとき、「これからは『かつてない』とか『想定外の』っていうようなことが次々と起こってくるんだな」というメッセージを受け取りました。

そのときはなぜか 悪いことが起こるというほうにしか考えられなかったのです。

実際、ニュースなんかでこれらの言葉が使われるのは、異常気象による災害とか 原発事故とか 起こって欲しくない事態の場合が多かったし。

でも、よくよく考えてみれば、別に否定的な状況にばかり当てはめる理由はないわけで。

そう、事実 想像以上の好ましい変化が 今まさにわが身に起こっているんだもの。



自然災害や事故などが 予想を超える規模で襲ってくると思えば、それは怖ろしいこと。

ならばこちらも これまで以上にがっちり備えを固めよう、っていうのは悪いことではないけれど、あまり心配し過ぎると 過度なフォーカスによって かえってそんな状況を引き寄せてしまいかねない。

一方で、想像以上にいいことが起こる、こちらはうれしいサプライズ。

これまでこっちの視点がすっぽり抜け落ちていたのは、やっぱり自分の中で 不安のほうが勝っていたから?

だとすると、フィフティ・フィフティからポジに一歩抜け出したっていうのは、あながち想像だけじゃないかもね♪



まあ なんであれ、世の中がそういう流れになっているのなら、それをいいほうに向けるか悪いほうに向けるかは 自分次第。

ならば いいほうに使わない手はありません☆

自分の世界は 自分の意識が創っているんだから。

もし 現状が好ましいものでないならば、意識を変えるところから始めましょう♪

うまくいこうがいくまいが、とにかく自分は変る、よくなる っていう意志を持つのが第一歩。

それだけでもう 見えないところから よきほうに向けて変り出しているのです(^^)

その上で、必要な情報は 絶妙なタイミングでちゃんと集まってくるからね♪



「想定外パワー」、せっかくなら それをテコにして みんなでうんと魅力的な世界を創っていきましょー (*^▽^*)v


















みなそれぞれに☆ 自分だけのすてきな道

2013年12月15日 21時57分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


テンプレートちょっとクリスマスっぽくしてみました

もうあと10日ほどですものね♪

っていうか、家のほうの飾りつけまだ何もしてな~い

このところ 内面の動きが活発な分、外側はあんまり動いてないかも。。。あと半月で今年も終わりだというのに(^_^;)





何事もそうなのでしょうが、長いこと内的な追求をしていると、さまざまな情報がもたらされます。

今の世の中、なんとまあたくさんの本やサイト、セミナー、ワークショップなどが溢れかえっていることか。

30年ほど前には、精神世界系の情報っていうと 宗教や自己啓発的なものが中心で、選択肢があまりなかったように聞いています。

よくも悪くも スピリチュアルがここまで認知されるようになったのって、ほんと最近のことなんですね。



ひと頃、こういうセミナーやワークショップを冷めた目で見ていたときがありました。

なんだか栄養食品・健康食品の氾濫と同じように見えてしまって。

信じて摂りさえすればよくなるだなんて、そんなお手軽な話で済むのなら、世の中もっと心身共に輝くばかりに健康な人で一杯になってていいはずでしょ?

高いお金を払って手を出す人がたくさんいる割には、目に見える素晴らしい変化ってほとんどないじゃない。

まあ実際 玉石混交っていうのはあるんだろうなと思います。

「看板に偽りあり」みたいなのもそこそこ混じっているのかもしれない。

だからといって、全部が全部無意味だとは 今は思わなくなっています(*^^*)



何度も言わせていただいていることだけれど、人の数だけ道があるんだと思う。

山のような本・サイト・講座等の情報も、それぞれの道を邁進する人たちが、「これよかったよ~♪」っていうものを 愛と情熱を込めてシェアしてくれている結果なのですね。

私は、心優しい友人に助けられたり 本やサイトから情報をもらったり、ときにはワークショップなどにも参加しながら、ひとつひとつ自分で吟味し 確かめる道を選んだわけだけれど、そこから思うのは、最初から騙す氣満々の悪質なものはともかく、これが正解とか間違いとかいうものはないんじゃないかなっていうこと。

これさえ実践すれば 万事即解決、なんていう夢の特効薬みたいな答えがあるわけでもなければ、これを選んじゃったらさいご 二度と幸せにはなれないなんていうコワい答えがあるわけでもない。

逆に言うと、誰にでも当てはまる絶対的な答えがない以上、誰か・何かに頼ってすがってなんとかしてもらおうっていうのは 無理な話。

肝心なのは、自分をよく知り 自分の感性を働かせて、数ある情報の中から 自分にもっとも適したものを見つけ出すこと。

自分の思いに導かれるままに、本でもセミナーでも「これだ」と感じるものに どんどん触れればいい。

どのみち、答えは自分の中にあるのであって、外側の人や物や場にあるわけではないのだから。

その著者さん、主催者さんには100%の答えであっても、他の人に完璧に当てはまることは まずないだろうけれど、心魅かれたものなら きっと自分の答えと出会う力になってくれるはず。

たとえ 何百万とつぎ込んで いろいろな講座に参加したのに なにひとつ効果なかったよ~(T_T) 、なんて結果になったとしても、その体験自体に 役立つメッセージが込められていたと あとから氣づくことになるんじゃないかな♪

いや、それを言うなら、悪質なものに引っかかって騙されるような体験でさえも、活かし方次第で糧となり得る。

起こることすべてに意味があり、無意味な体験なんて ひとつもないんだもの



だから、自分を信じて 自分で選んで、結果がたとえ氣に入らなくても 自分で引き受けると決めましょう(^^)

「自己責任」なんて言うと プレッシャーを感じてしまうかもしれないけれど、どんな結果でも 人のせいにせず 受け止める決意を持つことが 失敗から大切なメッセージを引き出すカギなんだよね。

私も、これは!と思ってワクワク取り寄せた本を いざ読んでみて、「失敗したぁ」ってなって口惜しい思いをしたことが何度もあったもんなぁ

そんなとき「お金返して~」って叫んでも 返ってくるわけじゃないし、そこでがっくりきたまま終わってしまったら 失敗は失敗のままだけれど、「自分の選択のどこがマズかったのかな、こういう結果になった理由は何かな」とそっと心に問えば、次につながる貴重な情報をゲットして、ひとつ賢くなって、失ったお金だって 授業料と思えば安いもの、ぐらいに思えてくると学んだから♪

失敗を利益に変換できることさえ知っていれば、もう失敗なんてものはないんだよね \(^o^)/

好きな服や靴やバッグを選んで組み合わせて 自分ならではのおしゃれを楽しむように、心に響く情報にどんどん触れて試して 自分だけのすてきな道を創りながら歩いてゆける。

そして、ふと振り返って「お、これいいぞ」と思えたら、どんどんシェアしていけば みんなで力を合わせてますますよくなっていけるよね



「自分だけの道」だからって ひとりぼっちでとぼとぼ行くことはないのです♪

行き交ったり隣り合わせたり、そんな仲間と 笑い合い 助け合い 励まし合って、この世界での“リーラ(神々の遊び・戯れ)”を存分に楽しもうではありませんか























一杯のうどんから

2013年12月12日 23時00分54秒 | ふと思うこと


じわじわ氣温の下がっていく毎日、きょうはまた一段と厳しい冷え込み。

小さな電氣ストーブひとつで用が足りていたわが家も、ついにこたつを出しました。

今夜は足腰からすっかりぽかぽか、幸せな晩です(*^^*)



夕飯は熱々味噌煮込みうどん。

お野菜たっぷり、かつおでとっただしに 味噌は長年寝かせた熟成手前味噌、うどんは歯ごたえしこしこの太麺、湯氣の立つところに擂りゴマをたっぷりかけて、七味をぱらり♪

身も心もあったまるぅ~\(^o^)/



美味しくいただきながら、ふと思いました。

この幸せな一杯に どれだけのいのちやエネルギー、手間ひまがかかっていることか、と。

その身を与えてくれた食材はもちろんのこと、それを育てた土、水、お日さまの光、そして土作りから収穫までの人手。

それが我が家に届くまでの流通にも、数え切れないほどの人の手がかかっている。

また、調理時の道具や丼、箸にいたるまで、やはりとてもイメージしきれないほどの人の働きに支えられて 我が家にやってきたもの。

さらに、その道具の原材料や 畑の土、水などが どれだけの生物の働きで存在しているのか、まで考えると。。。

なんか私、とてつもなくすごいもの食べてない?



さらに想像が膨らんで。

畑で働く人、流通に携わる人、販売する人、そして調理する私、みんながみんな、自分を愛し、人を愛し、人生を愛し、仕事を愛していたら。

自分の仕事から生まれるものを喜んでくれる人の笑顔を想像し、楽しく幸せな氣持ちで働く人ばかりだったら。

数知れない人の愛と喜びが注ぎ込まれたこの一杯の味噌煮込みうどんに、どれほどの温かい思いとエネルギーが結集していることか。

そのパワーがそっくり私の体内に移し込まれ、私のからだを作り、化学反応を起こし、エネルギー源となり、心までも潤し、元氣づけてくれる。

その元氣をもって、私も自分の大好きな仕事を通して 生かされていることへの愛と感謝を形に表し、誰かに受け取ってもらう。

食事ひとつとっても、これだけのスケールで いのちに優しいエネルギーが 世界中を巡り巡る毎日。

会ったこともない多くの人が 互いに支えあい、生かしあう、そんないのち輝く世界。

感謝の輪はさらに広がって、人だけでなく まわりの自然にも及んでいく。

自然は いつも無条件の愛で 私たちに多くのものを与えてくれているんだもの。



今の世の中のさまざまな問題に焦点を合わせると、事の大きさと自分の存在の小ささ・非力さのあまりの開きに 心が折れそうになります。

でも、ちょっと視点を変えて 私たちひとりひとりにできることは?と見てみると、ブレイクスルーのカギは 意外と身近なところにあるのかもね☆

誰もが 自分をよぉく見つめて、心の中の引っかかりやわだかまりを溶かして、本来の「穏やかな喜びの人」に戻る。

難しそうに思えるかもしれないけれど、実は誰にでもきっとできること。

だって、ゼロから何かを作り出すわけじゃない、もともとの姿に戻るだけなんだもの。

戦いも流血も 特殊技術も特別な道具も 多額の資金も必要ない。



ただそれだけのことで、世界は音もなく静かに まったく別の次元に生まれ変わるのかもしれないよ♪




うどん一杯いただき終えるまでのわずかの間に、そんな想像とも妄想ともつかない思いが駆け巡り、やがて消えていったのでした(^^)


あ~、しみじみ美味しかった、ごちそうさまでした






p.s.


そうそう、書き忘れてたけど、うどんのつゆに軽くとろみをつけておくと、熱々度がさらにアップ、麺にもからみやすいです♪

また、とろみづけに 片栗粉ではなく葛粉を使うと、からだ温め効果がさらに増すそうです(cookpadより)♪





















穏やか

2013年12月08日 13時34分33秒 | 紡ぐ暮らし


雲ひとつない 澄みきった青空。

向こうに見える山々は、濃い緑と渋みがかった黄色やオレンジのだんだら模様。

裏山のツタの真紅や 柚子の山吹色が 目に鮮やかです(^^)



暖かな日ざしを惜しみなく投げかけてくれるお日さまに感謝しつつ、きょうも洗濯物や寝具をどっさり干して、さらに「ウルトラ蒸し生姜」を作っています。

先日の風邪で ウルトラ生姜のストックを使い切ってしまったのでね☆

次に作るときはぜひ「蒸し生姜」で、と楽しみにしていました。

30分しっかり蒸して、くすんだ色になったスライスを ずらりと盆ザルに並べて。

まんべんなく日が当たるよう ザルの向きを変えながら、お日さまの光がたっぷり注がれている光景がうれしくて、ついつい何度ものぞき込んでしまいます (*^▽^*)



最近のお楽しみは、ゴマ擂り。

いえ、あの、へつらう方のじゃなくて

煎った洗いゴマを すり鉢でごりごり擂る、あのゴマ擂り。

まず、ゴマ煎り器か小さいフライパンで ゴマを煎る。

よぉく混ぜて揺すって、まんべんなく火が通るように。

ぷちっぷちっと三粒はじけたら、すぐに火から下ろして、ざっとすり鉢に空けて。

もうすでにこの辺で香ばしい匂いがただよっていますが、そこにすりこぎを当ててぐいっとひと擂りすると、たちまち濃厚なゴマの香りに包まれます。

すりこぎを通して伝わってくる、ぷちぷち潰れるゴマの手触り。

ゴマ和えの衣やゴマ味噌にするなら、すり鉢のギザギザの溝にしっかりこすりつけるようにして、油がにじんでクリーム状になるまで。

ぱらりと粉状に仕上げたいときは、すりこぎをすり鉢の底に対して直角に立てたまま、力の入れ具合を加減して。

自分のからだ全体のバランス、腕の重みのかけ方、手から伝わってくる感触と 目で確かめるゴマの変化、鼻の奥まで届く香り。

自分・ゴマ・すり鉢・すりこぎのハーモニーを感じていると、ああ、生きてるなぁ、楽しいなぁ、って 心の底から思えてきます。

あんまり楽しくて、ついついたくさん擂り過ぎたりして(^_^;)

味噌汁やうどんやお浸しにかけたり、お握りにまぶしたり、ゴマ味噌を作ったり、きな粉と混ぜたりして、せっせといただいています♪



手を使ってゆっくり作業をするのは 以前から好きだけれど、最近ことさら時間をかけての手仕事が楽しくてならないのは、心が落ち着いて安らかだからかもしれません。

悟りとかアセンションとか いろいろと言われているけど、結局のところ私は、こういうごく当たり前の暮らしを存分に楽しむために 優しく穏やかな氣持ちになりたかったのかな、って思います



干してあるタオルケットを裏返そうと表に出たら、細く白い三日月が青空にほわっと浮かび、トンビが二羽 ゆうゆうと弧を描いて飛んでいました。

内も外もしみじみ穏やかな 師走の午後です (*^ー^*)



















続・解放

2013年12月07日 00時48分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


もう何回も書いていることなんですが。


あなたの世界は あなたの意識の投影、あなたの思いが創っています。

だから、否定的なことを考えるのはおやめなさい。

自分に制限を設けるのもおやめなさい。

明るい氣持ちでいなさい。

前向きでいなさい。



はい、ほんとうにそのとおりだと思います。

だから アドバイスにぜひとも従いたい。

従いたいんですが、どうもうまくいかないんです。

心が、感情が、言うことを聞いてくれません・・・・自分のものだというのに (T_T)



ここ数年の私の悩みは、煎じ詰めれば これに尽きました。

感情をコントロールできない。

欲しくない感情に捕まっては振り回されるばかり。

時にうんざりし 時に絶望しながら、この問題に取り組んでどれほど経ったことか。。。よくあきらめなかったものだなぁ。。。あきらめなくてほんとうによかったよ♪



これまで自分そのものと思い込んでいた ネガティブな感情が、きっかけひとつで自動的に立ち上がるクセ付けを ついに解かれました。

まだ現われはするけれど、それを選ぶ選ばないの選択は 自由意志でできるように (^^)v

半世紀 息も絶え絶えに乗り続けるしかなかったロデオの荒馬から、とうとう降りることができたのです。

・・・と こんなふうにきっぱりと言い切ると、すぐ「でもまたクセが戻るかもしれないよ」とささやく声が追いかけてくる。

これは以前と同じ。

でも、今の私は自信を持って言うことができます。

「いや、もう戻らない。私がそう決めたから」



クセが私をコントロールしていた頃は、私に選択の自由はありませんでした。

人生とは理不尽で抗えないもの、次に何が起こるのかとびくびくしながら従うしかないものだと思い込んでいたのです。

でも、クセが消えて たづなを取り戻してみると、世界観がおのずと大きく変りました。

これまで外側からずっと言い続けてきたこと、「すべて自分が創っている」が、いまや実感として内側から口をついて出るようになったのです。



人生は 自分の思いどおりに創られる。

私が「過去のネガには戻らない」と決めれば戻らない。

怖氣づいて 再び不安にたづなを渡せば、戻る。

どちらでも好きなように選べる、選ぶ。

私の意に染まないことなど 起こりようがない。

これを「私の現実だ」と自信を持って言えるようになったのです。



見える景色はこれまでと同じ。

でも、それを映す自分の意識が変ると、世界がこうまで変るものなのか、と知りました。

もしかすると、今いるのは 同じように見えて 道1本別の方向に曲がったところの パラレルワールドなのかもしれない。

今まで現実と思い込んでいたものは、実は夢の世界だったのかもしれない。

映画「マトリックス」や「インセプション」を地でいくような話です(笑)

ここ数日 そんな世界を生きています。

これを“解放”と呼んでもいいのでしょう。



とりわけ大きく変わったのは、夢の中と起き抜けの意識。

目覚めている間は かなり安定した感情を保てるようになってからも、この二つは 心が無防備になりやすいのか、過去の枠組みに引き戻されることが多かったのです。

でも、もう以前の私とは違うのだ、と ふと思いついて、寝る直前に 布団の中で「悪夢はもう過去のものとなりました。夢の中であれ 置き抜けであれ、二度と戻ることはありません」と宣言してから眠りにつくようにしてみたら、自分でも驚くほどぴたりと止みました。

そうしたら、以前よく見たのとそっくりのシチュエーションの夢から すごく大きな氣づきを受け取れるようになったのです。

それは、以前だったら確実に「悪夢」と分類されていたであろう、今でもあまり楽しいとはいえない夢なのですが、不安や侘しさ、心細さなどで色づけされていないため、目が覚めるなり慌てて払いのけることなく吟味でき、そのおかげでメッセージに氣づけたのだと思います。

また、目覚めてすぐというのは、これまでも一番冴えたひらめきが起こりやすい時間帯だったのですが、加えて ネガな氣分に絡め取られることがなくなったので、さえぎるものなくダイレクトに メッセージを受け取り 意味を読み取れるようになったのでしょう。

半覚半睡の中 びっくりするほどの鋭さ鮮やかさで インスピレーションが次々湧き起こり、むしろはっきり目覚めてから「忘れないうちにメモしなきゃ」と慌てるぐらい。

おかげで、これまで無自覚に直視することを避けていたらしい思考癖を 抗うことなく氣づかせてもらい、ますます前向きな変化が加速しそうな流れに。





今はまだ 変化の真っ最中で、あまりにも近過ぎるので、こんな調子で 近視眼的な途中経過しか ご報告できません。

もっと大きな絵が見渡せるようになり、この体験全体の意味がわかってくるのは、もうしばらく経ってからのことだと思います。

それでも敢えてこんなブログを書かせていただいたのは、「自分をよく見つめる = からだの感覚を観察する」というのが 私の場合 とても効果的だったことを、一刻も早くお知らせしたかったから。

ここに書いたことは、あくまでも私個人の体験であり 答えであって、そのすべてが誰にでも当てはまるというものではないでしょう。

ただ、感情ではなく そのおおもとである「からだの感覚」を追うことで 大きな変化を遂げたという情報は、手がかりになる方もおられるかもしれない。

そんな思いプラス、私自身 ここから先どんなことになるのか 見当もつかないのですが、真逆に戻ることはまずあるまいという手応えを感じつつ、アップさせてもらいました。



またまた長文にお付き合い下さり、ほんとうにありがとうございます。





















解放

2013年12月02日 21時44分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前々回の日記で「からだの感覚を見つめ続けてきた結果について書かせていただく。。。たぶん」って言ってたんですが。

もし待ってらした方がおられたら、すっかり遅くなってしまってごめんなさい。

書いてたんです、何度も。

ただ、自分の「現在地点」があまりにも急激にどんどん変るので、書く端から書き直しで ずっと草稿のまま。。。どうも“流れ”が加速している氣がします。

そして きっとこれからもまだまだ変ってゆくと思うんですが、今見えているものについてぜひお知らせしたくなりました。





以前 こんな日記 を書いたあとで、ふとひらめきました。

負の感情を手放すのに からだの感覚に注目することが重要なポイントだと ずっと感じているけれど、だったらもっと思いっきり集中してみたらいいんじゃないだろうか。

「この感情しんどい~」っていうほど大暴れしているときだけじゃなく、かすかにでも違和感を感じる限り とことん追ってみる、と。

何事もないときはほとんど意識しないからだの感覚も、苦痛が起こればいやおうなしに注意がいくもの。

からだの痛みや違和感が 身体的異常を示すビーコンであるように、心の痛みや違和感も 「ここに不調和があるよ」との合図。

なら、どんな小さなものでも残さずどんどん拾うことで、いい変化が速まるんじゃないだろうか。

なんで今まで氣づかなかったんだろう、と思いつつ、さっそくトライ☆



ずっと感覚を見つめ 手放し続けてきたおかげか、全身に響き渡るような強い苦痛は 最近はほとんど起こらなくなり、以前なら氣を留めなかった微細な感覚に意識が向くようになっていたので、それをさらに推し進めてみました。

そうしたら、これまで意識することもなく見逃していた ちょっと違和感ある感情や、習慣のように受け止めてしまっていたかすかなからだの痛み・こわばりにいたるまで、ぞろぞろと出てくる出てくる。

いずれも しばらくとどまったのち、やがてじんわり消えてゆきました。

その後に残ったのが、胸の真ん中、のど元からみぞおちあたりにかけての 縦一筋の感覚。

どうも、ここが からだのあちこちで感じていた感覚のおおもとらしい。

不快のスイッチが入ると、ここがぎゅっと固くこわばって、よじれたり 震えたり、靭帯のような固体の筋として感じ取れます。

この感覚だけは、いくら見つめ続けても 消えません。

曇りを拭って拭って そのあとになお残ったもの・・・・もしかして、ここが「さいごの砦」?

いや、まだまだわからないけどね、消えた感覚がまた復活することだってあるかもしれないんだし。



と、不意にひらめきが起こりました。

本来これは“光の柱”なのだと。

足元から頭のてっぺんを突き抜けて チャクラに沿って立つ光の柱。

それが、誤った世界観の下、振動数が落ちて 筋めいた固体として 苦痛を伴って感じられるのだと。

光に戻すこと、できるのかなぁ。



こうなっても、うれしくない記憶や連想は相変わらずふとした折に上がってくるのですが、派生する感覚は 以前とは比べものにならないほど小さくなりました。

以前が火山の爆発なら、今は沸騰したやかんぐらいのもの、持続時間もぐっと短く。

からだの感覚は、胸の筋と あと頭(考えているときほどこの感じが顕著になる)やのど(緊張から舌の付け根にわずかに力が入ると起こる)が軽く締めつけられる感じが起こるぐらい。

頭とのどは 少し見つめていれば じきに消えてなくなります。

氣がかりだった 他の感覚の復活も、これまでのところ起こっていません。



ここまで局所化してくると、もう からだの違和感 = 心の苦痛 = 自分 という意識が成り立たなくなります。

それは私のすべてではない、ほんの一部でしかない、そして 現れたとしても いつまでも抱え続ける必要はないのだ、と。

古い記憶の痛みも 胸の筋の違和感も、起こっても いずれは通り過ぎてゆくもの、と 格別氣にすることもなくやり過ごせるようになっていきました。



そして。

一部でしかなくなったものは、氣づかないところで 自分ならざるものとして繰り返し認識されるようになったことで、徐々に分離が進んでいたのでしょう。

これまでにも「ネガがなくなった」と喜んだことが何度もありました。

3日続いたものが半日で治まるようになった、丸1日ネガを感じることなくいられた、等々、前と比べて明らかな違いがあれば、その軽やかさにうれしくなるのは自然なことだし 「なくなった」と言いたくなる氣持ちにウソはない。

ないのだけれど、実のところ 睡眠中まで含めて ここまで徹底的に負の氣配が払拭された日常というのは、生まれて初めてのことなんじゃないだろうか。

なにかのきっかけで瞬間起こる怒りなどとは別に、淡々と流れる日常の時間のあちこちや夢の中などにかすかにまとわりついていた ダークグレーのネガの薄霞が、ついにきれいさっぱり拭い取られてしまったようなのです。

また、瞬間立ち上がる怒りや不安についても、一瞬現れはするけれど、「今見えたのは 過去の回路だな」ということで、それ以上持続させたり膨らませたりする必要をまったく感じないため、「現れた → 終わった」で幕。

つまり、感情に振り回されることなく ニュートラルな位置に立てるようになったということ・・・らしい。

どうやら、私の中で 負の感情は、ついに切り離されて「自由に選べるもの」となり、さらに「選ばないもの」となったようです。





例によって長くなってしまいました。

続きは次に。

お読み下さってありがとうございます。