毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

どっちも大事

2015年10月31日 23時23分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今 畑として使わせてもらっている空き地や わが家の石垣などもそうですが、長らく放置して 草ぼうぼうになると、根っこが思い切り育って 土中にがっちり食い込み、女性ひとりの力では抜けませ~ん ということが ままあります。

そういうときに、氣長にやれば 効果的な方法。

とにかく 地上に出ている部分を刈るのです。

地面ギリギリのところで スッパリ刈り取り、少し伸びてきたら すぐまた刈る。

地上部の勢いを とことん抑えつけて しばらくおくと、やがて根っこが弱りだし、らくらく抜けるようになります。





私はよく 人間の 目に見える部分を茎や葉や花、目に見えない部分を根っこにたとえますが、上の話、このたとえにも当てはまる氣がします。

地上部が幸せであるために、根っこをしっかり育てるのが重要なのはもちろんですが、根っこにかまけ過ぎて 地上部がおろそかになっても、やはり全体として弱ってくる。

私が実際にそうだったんですが、心の探究に夢中になる中で、外の世界。。。つまり 当たり前の日常の生活が うとましく思える時期が、多かれ少なかれあるんじゃないかと思います。

まあ、仕方ないといえば仕方ないんですね。

今外に見える世界は、自身の 「過去の」 思いの具象化したものだから、内で “開眼” が進んでいるときほど 外の世界の味氣なさが際立って見え、内外のギャップが重荷に感じられてしまう。




これもまた 体験すべき貴重なプロセスなわけですが、そのときは 「私たちは 内と外 両方で一体」 だということを思い出せるといいなと思います。

草木が 根も地上部も 等しく大切なように、私たちも 見える部分 ・ 見えない部分 どちらも等しく大切。

高次の視点から見れば、三次元世界は 魂の成長をわかりやすく見せてくれる鏡だし、三次元視点から見れば、この世の暮らしを楽しむために 内的成長があるわけで。

どちらも真実であり、たがいに反映し合っていて、ふたつでひとつなんですね。




内的探究の一環で、厳しい生き方を余儀なくされる場合も 多々ありますが、そんなときほど 自分のほんとうの望みを汲んで、ささやかなことでいいから 自分を喜ばせる体験を増やすと同時に、わざわざ苦しい生き方を選んでいないか、もし選んでいるなら それはなぜなのか、自身をよぉく観察することが大事かと思います。

茎を伸ばし 葉を広げ 花を咲かせ 実を結ぶ、そんなプロセスを楽しむために、私たちは この世界にやってきたのですから

























誰でもいい☆

2015年10月31日 07時18分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


せっかくなので、1日限定でハロウィンテンプレートにしてみました♪

「しあわせ日和」 が ぜんっぜん幸せに見えないのが素敵です ( ̄∇ ̄;)




内的探究の手がかりとなる情報を求めて いろいろなブログやメルマガなどを読ませてもらっていますが、時おり見かけるのが、いわゆる 「陰謀説」 。

国家の上層部や 大企業の経営者、ときには とある惑星の宇宙人などが、私たちの思考を 特定の枠組みにはめ込み、自分たちに都合のいいようにコントロールして 奴隷化し、さらに 負のエネルギーを生み出させては 吸い取っている、などというもの。

私は そういう話、ことさら否定しないし、むしろ ありだな、ぐらいに思っています。

が、そこからさらに踏み込んで にっくき奴め、どうしてくれよう とはならないのです。

ウソかまことか、ありだけど わからんね~、ぐらいのところにとどめております




別に、太っ腹だとか 度胸があるとかではありません。

この世に 否定的な意図というものがあるのは感じるし、ひとつ間違えば 人生を大きく狂わせられる可能性があることも わかります。

でも、この二極世界に 否定的な体験はつきもの、それも体験学習のうちと思えば、やたら恐れたり忌み嫌ったりしてもしょうがない。

そして 「誰が」 ということについては、大した意味はないとも思っています。

肝心なのは 鏡に映し出された内容のほうであって、鏡がAかBかは問題じゃあないと。




誰が正しいのか、誰が悪いのか、と 「誰が」 にこだわると、肝心なところを逃すような氣がします。

そもそも答えは人の数だけあるのだし、どのみち 誰であろうと 本人以上にぴったりの答えを持つ人なんて いないのだから。

救世主探しは依存に、悪者探しは戦いにつながり、歩みを止めることになります。

もちろんそういう体験を 意図してプログラムに組み込んでいる人もいるのだから、いい悪いの話ではないのですが。

ただ、いずれは抜け出す体験なのは たしかです。



焦点を定めるのは 「誰が」 ではなく 「なにが」 なんじゃないかと思います。

なにが正しいのか、なにが “悪” なのか。

自分にとって なにが最善最良で、なにが望みを叶えてくれ、なにがほんとうの自分へと導いてくれるのか。

紆余曲折はあっても、自分のほんとうの答えに結びつく この問いかけなら、大きくブレることはないような氣がします。




「陰謀説」 も あながちナンセンスとは思いません (^^)

悪があるなら 当然善もあるわけで、守護神だのハイヤーセルフだの天使だのアセンテッドマスターだの善良な宇宙人だのご先祖様だのが 周囲をがっちり固めて応援してくれているのを想像するだけで、あったか~い氣持ちになり、ヤル氣が湧いてきます♪




想像力 ・ 創造力 とは、都合よく使うものなのです (^_-)-☆






















酸っぱいブドウがはぐくむ自信

2015年10月30日 16時41分40秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


イソップの童話に 「キツネとブドウ」 というのがあります。

高い枝のブドウを取れなかったキツネが、「どうせあのブドウは酸っぱいに違いない」 と捨てゼリフを残すお話。




このお話では、そんなキツネのセリフを 「負け惜しみ」 としています。

口惜しまぎれの言葉なら たしかに負け惜しみでしょうね

しかし。

同じセリフを まったく違う氣持ちで口にするなら、それは 「創造の呪文」 となりうるのです




ブドウに手が届かないことがはっきりした時点で、その事実を素直に受け入れられないときに、口惜しい氣持ちをなだめようと出るのが 「負け惜しみ」 。

しかし 悲しいかな、「抵抗すれば 相手はますます強くなる」 、そんなふうに言いながら 口惜しさを引きずっていると、かえってネガティブなエネルギーを大きくしてしまいます。




ここで、「起こることはすべて必然」 「この世に無意味に起こることなどひとつもない」 とわかっていれば、ブドウがとれないことにも意味があるんだ、長い目で見れば これもプラスになることなんだ、という解釈ができるのです。

で、自分のためになることが起きたんだ~、と すぐに心からうれしく思えるなら、それ以上の言葉はいらないんですが、観念書き換えの最中は まだそこまで確信が持てなかったりもしますから、ちょこっと 言葉の力を借りて後押しを。

「うんうん、あれきっと酸っぱかったりするんだよ~、取れないことが私のためなんだよ~♪」 なんて、さらににっこり笑顔など添えたりすれば なおよし (^^)

あとは すみやかに立ち去り、もうその出来事は 忘れてしまえばいいのです。

それだけで 世界がちょっと違って見える、すなわち ポジ世界の創造です




長年信じ続けて築き上げた観念を 180度真反対に書き換えようとするときは、いきなり真逆に移ろうとすると、かえって反作用をくらって 自信をなくす憂き目に遭いかねません。

そこで、まわりに溢れる情報の中から いい氣分になれるものを抜き取り、ちょっとでも手応えを感じたら、プラスの言葉の力などを取り入れて、仮説として 少しずつ確証を高めていけば クリアできます。

とにかく少しずつじりじりと、都合のいい情報を増やしていけばいいのです。

二元対立の世界は、プラスマイナスふたつでひとつ、どちらも真実となりうる世界なのですから、都合よく都合よく取り込めばいいのです。

この世は、ほんとうは都合のいいものなんです (^_-)




コツは、焦らずちょっとずつ、というところ。

もともとマイナスの価値観だって、誰かがひょいと置いていった 不都合な観念の種を、それとは知らずに 長年かけて 少しずつ強化していったものなのですから、その逆を行うだけのこと☆

それは、プラスをマイナスに置き換えるのではなく、マイナスをプラスで中和してゼロに戻す作業なのです。




ネガティブな観念に キリキリ縛り上げられていた心を ゼロに戻して ほっとくつろがせてやると、ふわっと開いたすきまから ほんとうの自分が見えてきます。

そこに、二極を越える道が開けます























無条件の豊かさ

2015年10月30日 08時19分59秒 | ふと思うこと


少し前に播いた春菊と高菜、かわいい芽がびっしり出ました~ \(^o^)/

刈り取った草を枯らして マルチしてあるので、ぱっと見わからなかったけど、きのう水をやりにいったら 草のすき間からずらりと並んだちっちゃな緑がのぞいていて♪

こういうのって つくづくときめきますね。。。胸の奥からほわ~っとあったかくなって (*^^*)




この土地は、以前なにかの建物でも取りこわしたのか 錆び釘だのガラスや陶器の欠片だのが やたら埋まっていて、さらに 以前住んでいた人が 野焼きを禁止されているものを燃やしていたらしく、焦げたビニールの切れ端なども ちょいちょい出てきます。

ここ数年で もうたいがい取り尽くしたかと思うのに、いまだに耕し直すたびに こういったゴミの小山が (T_T)




でも、そうやって異物を取り出し、枯れ草や生ゴミで養分を与え、土の質がほこほこに変わって、ときにミミズが顔を覗かせるのを見かけたりすると、とても豊かな氣持ちになります

土が喜んでくれているようで、なんだかうれしくなるんです♪

慈しんでお世話する喜び。。。。大事にすることで こちらが大事にされているような、そんな満ち足りた氣持ち。




洗濯や掃除、皿洗いなども同ことじ。

ただ雑務をこなすというのでなく、わが身を包んだり守ったり助けたりしてくれるものたちに 感謝の氣持ちを込めて、ていねいにお手入れをする。

ちょっと汚れくたびれていたものが、自分の手を通って ぴっとまっさらに 清潔に生まれ変わるのを見る、楽しさ、うれしさ

汚れを取り去って、空氣までが澄んだように思える、あの満足感




最近 心が落ち着いてきたおかげか、食欲や物欲が ぐんと減りました。

必要以上に欲しがらなくなった、「必要」 と 「欲しい」 が 限りなくイコールに近づいた、そんな感じ。

不安が薄くなった分、何氣ない日常の動きから より多くの満足が得られ、幸せや充実は、どこか先のほうではなく 今 ここにあるんだ、という思いが 深まっています。

「豊かになりたいなら、今すでに十分豊かであることに氣づきなさい」 とは こういうことだったんですね。

目を曇らせる不安や不満が立ち去ってみれば、今 ここに いつでも 十分に与えられていた、完璧にそろっていた と氣づく。

氣づくことで、ますます豊かになる。




豊かさは、もともと私たちの身に備わっている、私たちの本質そのもの。

よそに探しに行かずとも、自分の心と向き合って 負の感情という曇りを取り除いてやるだけで、それは 自然と表に出てくるようです。




豊かさ ≠ お金 ・ 物 だと、よぉくわかりました。

お金や物が アイコンとして作用することはあっても、決してイコールではない。

この豊かさや それに伴い 胸打ち震える喜びは、物のあるなしとは まったく関係ありません。

そして、いったんその源を感じ取れるようになれば、どんな条件もなしに ただ満ち溢れてきます。

世界中のお金を積んだって買えないもの、無条件の豊かさ。

それは、私たちすべての人間に 生まれながらに備わっています。



























しつこいけれど “ほんとうの氣持ち”

2015年10月29日 11時40分52秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ほんとうの氣持ちって 自分では氣づきにくいんだなぁ、とつくづく思ったのは、ピアノ教師をしていたとき。

ピアノが弾けるようになりたいって 習いにきてくれたはずなのに、どうしてこうも受身で ヤル氣のない子が多いんだろうって、新米教師は不思議でした。




今ならわかるんだけれど、本人はもちろん 「自分はピアノ弾けるようになりたいんだ」 って思い込んでいるんです。

でも よくよく見ていると、ほんとうは 「華麗に演奏している かっこいい自分を賞賛されたい」 だったり、「○○という曲は弾けるようになりたいけれど、それだけで十分」 だったり、と 言っていることと実際の望みが いささかズレている。

中でも厄介だったのが、「実は 本人が弾きたいんじゃなくて、親が弾かせたい」 ケース。




子どもは 親の意を汲んで 率先して 「やりたい」 と口にするし、実際自分がやりたいんだと思い込んでいるんだけれど、ほんとうの動機は 親の望みを叶えることで 親を喜ばせ 愛されたい、というところにある。

親のほうは、わが子がやりたいというから習わせるんだと思い込んでいて、その奥にある自分のほんとうの氣持ちと その影響には氣づいていない・・・・というか、無意識のうちに 氣づくのを避けている。

ちなみにこれ、以前に書いた アニメ 「モノノ怪 ~ のっぺらぼう」 の お蝶さん母娘のパターンなんですね。

子どもは 自分の中にモチベーションがないから やる氣が出ないのに、やめたくないとがんばるし、そのくせ いくらこちらがあれこれくふうしても ちっとも楽しそうじゃなく、当然練習もほとんどしてこない (T_T)

一方 親は、毎週課題がどれだけ進んだか、よその子と比べてどれぐらい上達しているか、露骨に表には出さないけれど ひそかにチェックしており、折に触れて その氣配がなんとな~く伝わってきて ( ̄∇ ̄;)

この組み合わせがけっこう多くて、発表会前なんて 胃がキリキリ痛くなるようだったなぁ




こういう経験を通して、言っていることと 実際やっていることのズレから、ほんとうの思いが他にあると氣づくことを学んだのです (*^-^*)ゞ




人のことはともかく、努力しているのに 思いどおりの結果が出ないとか、望みは叶っているはずなのに どうも満ち足りないとか、自身の中に違和感を感じて どうにかしたいなら、思い切って 自分の心の内を おおもとまでたどって見るのが 最善だと思います。

このズレも、まず間違いなく 幼いころの否定的体験に行き着くはず。

記憶も及ばないほど昔 意図せず残してしまった痛みが、家庭内のいざこざから 社会問題、果ては国家間の争いにまでも 及んでいたりするのです。




ほんとうの思い。。。。これが 世のすべての問題のおおもとであり、解決のカギである、といっても 言い過ぎではない氣がします。





















切り替え

2015年10月29日 01時07分41秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


古い思い込みを手放して 空いたスペースに新しく入れるものを探して、これからの新しい生き方につながる情報と出会わせてくださいと 天にリクエストしたことがありました。

少し経ったころ、たまたま 「読み返す記事」 ファイルをのぞいたら、そこにヒントになりそうな事例を複数発見♪

さらに、他の星の方々からも 素敵なメッセージを多数いただきました m(__)m




新しいコミュニティのあり方や お金を使わず生きるくふう、斬新なエネルギー技術の実用化、微生物の助けを借りての環境浄化、などなど、すでに新しい試みが どんどん始まっているんですね(^^)

過去の反省を踏まえて、これから世界はぐんぐんよくなっていく、と 大きな希望をもらっています




そして、それと共に大切なのが、新しい心のあり方だと思います。

満たされない隙間を抱えたままでは うまく活かし切れないのは、アイデアや技術の世界も同じこと。

どんな道具も 使い方次第で、私たちを輝かせもすれば 破滅にもつながるのだから。




新しい生き方への提言で、大好きな話をふたつほど。

これこれ




学びや氣づきのペースは人それぞれだから、慌てることはないけれど、“世の中は 確実に 新しい流れに乗って動いている” っていうことは 意識しておいたほうがよいかと。

これからますます 古い意識のままでは対応が困難になってくるから、なるべく早く切り替えるに越したことはなし☆

今あれこれ持ち上がっている 困ったことも 醜いことも、これまで隠れていたものを 明るみに出して きっぱり終わらせる 浄化の一環、いい氣持ちではないけれど、意味がわかれば やたら不安がる必要もありません。

新しい次元への道、着実に進んでいます \(^o^)/

























たくさんだと思ったそのときは

2015年10月28日 07時50分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私と 私の仲良しさんたちは、雲を見て 「あ~ ウサギだぁ♪」 「イルカに見える~」 などとはしゃぐタイプぞろいで、ブログに雲写真など載ると それはもうワイワイ盛り上がるたちなんだけれど、これって ロールシャッハテストと同じく 意識の投影そのものですよね (^^)

同じ雲やインクの染みも、そこに何を見出すかは 人それぞれ。

そして、何を見出すにせよ、それは その人の過去の記憶から生み出される。




ブログやツイッターをあちこち見て回っていると、会話やコメント欄などで 感情的な言い争いを目にすることがあります。

理詰めの攻防戦から むき出しの憤怒のぶつけ合い (いわゆる “炎上” 含む) まで、いろいろなケースを見せてもらいましたが、これもみな 一見相手に怒ってるようで、実は 相手をきっかけによみがえった、「未消化のまま残っている 不快な記憶」 に怒っているんですね。

これ以上ないぐらい憎ったらしいと思い込んでいた相手が、実は 眠っていた怒りを引っ張り出すためのアイコンに過ぎなかったと氣づいたら、びっくりするだろうか。




前々回の記事に、「意識はコントロール可」 と書いたけれど、これはあくまでも ニュートラルな立ち位置での話。

実際のところ、うんと幼いうちから いろいろな先入観を植え込まれて、およそニュートラルとはほど遠い状態で スタートを切るケースが大半でしょう。

いくら 「自分の世界は自分が創っている」 などと言われても ほんとうと思えないのは、このあらかじめクセづけられた意識の影響が大です。

望み通りの世界を創れた手応えがまるでないのに、「自分が創ってる」 なんて言われてもねぇ (-_-; )

でも それは、創る力がないのではなく、創造のおおもとである意識のありように バイアスがかかっているせいなのです。




すんなり受け入れる、ジョークに紛らわせる、あっさりスルー など、反応のしようはいくらでもあるだろうに、どうして 一瞬のうちにカッとなってしまうんだろう、どうして自由に選べないんだろう、と悩みに悩んだ “怒りグセ” 、根っこをたどると 100%といっていいでしょう、小さいころ 手の打ちようがないまま 心の奥に押し込んでいた、怒りや悔しさの記憶に行き着きました。

驚いたのは、幼さゆえ ほとんどの記憶が曖昧にぼやける中で、ところどころ妙にあざやかな思い出が残っている、それがみな 「ああ、今までの怒りは このせいだったのか!」 とすとーんと納得できる、原点ともいうべき出来事の記憶だったこと。

それほどインパクトの強い出来事だったからこそでしょうが、ちゃ~んと手がかりが残るようになっているものなんだなぁ、と しみじみ感心させられました。




なにごとも 体験するためにやってきたこの世界、ケンカでもなんでも 心ゆくまで味わえばよいけれど、過剰な怒りは 心身を大きくすり減らします。

しかも、どれだけ怒ったところで、怒りだけでは なにごとも解決しないと思い知らされるのが、関の山。

もう十分、これ以上はたくさんだ! と思ったら、その氣になりさえすれば 抜け出す手立てもヒントも 自分の手元に必ずある、ということを 知っておいていただければ、と思います (^o^)























いのちである自分

2015年10月27日 00時14分45秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


この話、前にもしたかもしれないけれど。。。。

あるとき、フェンスにくっついている さなぎの繭を眺めながら、ふと思ったのです。

この虫たち、親に教わったわけでも 学校で勉強したわけでもないのに、なんで姿形が大きく変わることや その時期、繭の作り方なんか知ってるんだろう・・・?




虫であれ 他のどんな生き物であれ、誰に教わらなくとも 必要なことを知っています。

学校へ行かなくても 巣の作り方も 獲物の捕り方も知っている。

医学書を読まなくても ケガや病気に対処方できるし、出産 ・ 子育てだって 医者も産婆も母親教室もなしに 自力でやってのける。




証明できるものがすべて、理屈で納得できるものがすべて、という五感の世界の価値観を えいっと手放し、内なる指針に導きをゆだねるとは、他の生き物たちと同じ “いのちである自分” に目覚めること。

そして氣づくのです。

これまでそんな知恵や力があると夢にも知らなかったのは、もともとなかったんじゃなく、ないと思い込んでいただけだったんだと。

答え = 外から与えられる知識 と教え込まれていたから、見えなかっただけ。

あると思えばある、創造する者としての姿勢は、「つねに自分が決める」 なんですね (^^)

私が決めるから、現実になる。

そして、決心のもととなる答えは、いつだって自分の中に ちゃんとある。




政治経済、国際社会、宗教、教育、自然災害から犯罪に至るまで、昨今の 「想定外」 のオンパレードをクリアするカギは、起こることに振り回される自分から 起こしたいことを創る自分へ、内なる答えを指針と決める180度の意識の転換にある という氣がしています

























基本ハッピー♪

2015年10月26日 08時32分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


朝、寒~い (^_^;)

熱々のココアが美味しい季節がやってきました

このところは、唐辛子入りより ラム酒フレーバーがフィットです。

シナモンは、そのときの氣分で 入れたり入れなかったり♪




「すべての時間 ・ 過去も未来も、みんな 今ここ にある」

「神との対話」 ほか あちこちで見かける言葉ですが、初めて知ったときは なにがなにやら ┐(‘~`;)┌

でも最近 ちょっと消化できたような氣がしています。




過去を思い出すのも、未来に思いを馳せるのも、みな 今ここ でのこと。

今ここ で、記憶から、想像から、世界を創り上げている。

まだ体験したことない世界だって 妄想から 創造できる。

今ここ に一同に会する あらゆる時間、あらゆる場面、その中を 意識は縦横無尽に飛び回り、どれか選んでアクセスしては、その世界を 今ここ に 再創造する。




ネタ元 (笑) は ぜんぶ 今 ここ にあって、フォーカスするもので そのときどきの世界が決まる、っていうことですね☆

過去や未来に行ってるんじゃなく、記憶や想像から 過去や未来を 今 ここ に 再現してるってこと。

そして、意識は コントロール可 なのです




記憶 (の回路) がなくなるわけではないので、うれしくない思い出だって、いまだにうっかりアクセスで ちょいちょいフラッシュバックします。

ただ、それが現実ではなく 記憶として認識されるようになったので、長時間滞留することなく お引取り願えるようになりました (^^)

自分とべったりイコールだった ネガティブな世界を、少しずつ少しずつ距離をあけて ノットイコールに引き離せるようになったのは、自分の中の痛みを観察して、それが事実じゃないとわかったから。




私の世界の素材に 暗いニュースや否定的な見通しはノーサンキューだけれど、ときおりイヤでも目に入る情報の断片だけでも、不安や苦痛を感じている人が多そうなことは なんとなく伝わります。

誰だって 好きこのんで そんな状態でいるわけじゃない、きっと どうしたらいいかわからないから、耐え忍んでいるだけなんだろうな。。。と。

それならば~、との思いが昂じて 夕べの記事になりました。

思い入れが強過ぎて なんかイマイチ・・・と思いつつ、ついぽちっと投稿ボタン押してしまいました ( ̄ー ̄;)ゞ




この二極世界に 完璧な幸せはなかろうけれど、不安デフォルトから 基本ハッピーぐらいまでの移行は 十分可能なのだということを 身をもって実感した者として、これからも 実況報告し続けていきたいと思います





















アイコン

2015年10月25日 23時30分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前にもご紹介したことがある、津留晃一さんの 「豊かさの本質」




それまでずっと、自然が美しいから、人が優しいから、幸せだと感じるんだと思っていました。

でも、幸せは もともと私の中にあって、自然や人は それを呼び覚ますきっかけだったんだと知りました。

大事なのは もともとの自分を感じられること、きっかけの有無自体は それほど重要ではないんですね。




この見方が腑に落ちるようになると、外に見えるものに対する意識も 変ってきました。

美しい自然や 温かい心などは やはり大切にしていこうと思う一方で、否定的な氣持ちを刺激するものについては、時に 「アイコン」 として 距離を置き、醒めた目で見るようになりました。

この 「アイコン」 の捉え方が、昨今のさまざまな問題解決のカギだと思うのです。




たとえば、悪人の代名詞のように言われるヒトラーも、人間である以上、実際には 悪も善も 怜悧な計算も豊かな情緒も ひっくるめて内包していたことでしょう。

ただ、その中の悪の要素を突出させたと見られたことで、悪のアイコンとして語り継がれるようになった。




ここで注目すべきは ヒトラーではなく、彼を悪のアイコンに見立てる 私たちの意識のほう。

私たちみんな、彼と同じく 悪を含む 数多くの要素を持っています。

それが、ヒトラー = 悪 と決めつけ アイコン化することで、悪を外に追いやり、自分の中の悪から目を背けるようになった。

外から触れてくるものを通して 自身の内にあるものに氣づく代わりに、氣に入らないものをどんどん外に投影して、内側を見ることをやめてしまった。

そして、その結果生まれたさまざまな問題も、やはり外から解決しようとがんばっています。




私たちは最初、五感で感じ取る世界しか知りません。

この世界は、善悪 ・ 正誤など 真反対の価値観を一対として成り立っていて、私たちは そのあらゆる要素の中から 好きなものを選び出しては、自分の世界を創っています。

この世界がすべてだと思ったままだと、二極世界の性質上 どうしても争いを避けられず、しかも なかなか解決できません。




私たちひとりひとりが違う以上、選ぶものも築いた世界も 人それぞれで当然なのですが、自分と違う選択に 違和感を覚え、それが 相手への反感に転じるのは ままあること。

反発するほど 相手も強硬になるので、対立は深まる一方、結局どちらかが 力ずくで抑え込むしかなくなり、争いはどこまでも シーソーゲームのように続く。。。。二極世界ならではの光景です。




ほんとうに問題や争いをなくしたいと思うなら、外に投影していた否定的アイコンを 自分のこととしてして捉え直し、感じることです。

いくらそんなものは自分にはないと思いたくても、ほんとうになければ、それがそのように他者の姿を借りて 目の前に現れるはずがないのです。

感じることで 悪もまた 自分の意識が生み出していたと氣づくとき、内と外という二極の仕切りが消え、新たな視点が開けます。