毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

忍耐の果てに 雨だれの石をも穿つ努力が実を結ぶ

2022年05月07日 12時51分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
少し前の記事で 内的変化を太陽の動きに喩えたことがありますが、意識の変化ってほんとわずかずつしか進まないから、「あ、いま変わってるな」 なんて その最中にはまずわからないんですね。

よく 「足元の小さな幸せに氣づけるようになりましょう」 というアドバイスを目にしますが、小さな喜びに氣づくとは、そんなわずかな肯定的変化に敏くなることでもあるという氣がします。

それまで氣づかなかった道ばたの花一輪、お日さまの温もり、通りすがりの誰かの笑顔、健康でいられることのありがたさに ふと意識が向く、そんなささやかな変化も 小さいけれど確実な成長であり、よりよい未来に向けて踏み出した一歩なのですから。

詰まるところ、目に見える大きな変化とは、見えないほど小さな変化が積み重なってできたものなんですね。

望んだ瞬間、潜在的にはすでに叶った世界が存在するのですから、あとはそれと波長を合わせるべく こつこつと小さな変化を起こし続けるだけ。

大事なのは 疑わないこと、あきらめないこと、そうすれば 小さな雨粒がしたたり続けて やがて石に穴を開けるように、五感で掴めるほど大きな変化が必ずやってきます。




もうひとつ、潜在意識は 望んだことは必ず叶えるだけあって そのプロセスも徹底しているらしく、料理を作ろうとしたら 台所の掃除や包丁研ぎからやらされる、みたいなことがままあるようなのです。

だから、料理することだけを考えていると、出鼻をくじかれたり 具現化に失敗したのかと不安になったりもするでしょう。

貴秋は 「宣言ノート」 というのを作って、叶えたい望みを宣言の形で書くことを続けていますが、この宣言を書いたすぐ後に 望みとおよそかけ離れたことが必ずといっていいほど起こっていた時期がありました。

「愛ある人になる」 と書いた直後に 「どこが愛やねん」 と言いたくなるようなことが起きるのですから、落ち込まないわけがありません。

が、あるときふとわかったのです、これは宣言に応じて起きていることなのだと。

こうこうなりたいというこちらの望みを叶えんがために、「よっしゃわかった、じゃあさっそくだけど これフォーカスして手放すとこから始めてね」 という手配が行われた結果、真逆にしか見えないようなことが起きていたのです。

五感の世界は体験の世界ですから、願うだけ願ってあとは座して待っていればいいというものではなく、望みが実現するまでの過程をとことん味わわせるため 「ぴったりのシチュエーションを用意するから、あとは自分でやるんだよ」という叶え方をするらしい。

そうとわかって氣を取り直し、より忍耐強く感覚フォーカスにいそしんだら、ネガティブなことの起きる頻度がだんだん少なくなり、ついには大きなものはほぼほぼ起こらないまでになりました。




こういうことがわかってくると、私たちが未来を知ることができないのはいいことなんだなと思えてきます。

だって、望みを申告したら 「わかりました、叶えましょう、○個のネガティブ大イベントと ○個の不和に諍い、落第に失恋に (以下略) を経てウン十年後にね」 なんて言われてごらんなさい、それでも 「やります」 という人がどれだけいるか。

貴秋だって来し方を顧みて、あれを前もって全部知らされていたら 絶対こんなチャレンジしてないよねって思いますもの。

それについにがんばりが報いられる日が来たときだって、サプライズだからこそ喜びも大きいのだし。

艱難辛苦の最中は 「ちょっとだけでいいから この先どうなるのか教えてよ、こんな不安定な氣持ちのままずっと過ごすのはやだよ~」 って内心どれほど駄々こねたかしれませんが、先がわからなかったからこそ 諦め悪く地味で地道な努力を続けてこられたわけで、いまはあのもどかしい目隠し状態に 心から感謝しています。




前もって中身がわかっているプレゼントなんて最低、途中で犯人を教えられた推理小説なんて最悪、というように、私たちも先が見えないからこそ 人生というスリリングでエキサイティングな体験を思う存分楽しめるんですね。

成功は失敗とそこから学んだ知恵の積み重ね、大きな具現化は小さな具現化の積み重ね、と信じて、内に潜むネガをこつこつと堅実にひとつずつ手放しながら前進していきましょう。

いつか 私たちがもと来たところに帰る日が来たとき、抱えきれないほどのコントラスト体験とその記憶というお土産を持って行けることを楽しみに、ね。
















潜在意識に新しい情報を取り込む効果的な手立てについて

2022年05月04日 13時39分51秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
これはと思った知識や情報が 自分の言葉や知恵に置き換わるプロセスは、食べたものが身になるまでとそっくりだなぁとよく思います。

どんな栄養価の高い食べ物も 体内に入れなければ効力を発揮できないのと同じく、どんな素晴らしい知識や情報も 内に取り込まなければ ただ知っているというだけで、なんの力にもならない。

ではどのようにして取り込むのかといえば、とりあえず仮説として暮らしに取り入れ、日常のあらゆる場面に当てはめてみるのです。

当てはまらないことがいく度かあれば 自然と忘れられてゆくし、当てはまり続ければ 消化吸収を経て自分の身に備わり、あるときふと 自分の言葉として口をついて出てくることで、いつの間にか事実認定されていたことに氣づかされます。




知覚できない意識領域に 知らぬ間に刷り込まれた他者の情報を無効にする手立ては これまでも繰り返しお伝えしてきましたが、では古いものを抜き取った空きスペースに 新しい情報を意図して刷り込むにはどうすれば。。。という疑問をお持ちの方もおられたかもしれません。

その答えが この “仮説採用” ですが、この外から来た情報を自身の一部に変換する重要なポイントとして、「忘れる時間」 というものを挙げたいと思います。

忘れては思い出すの繰り返しが、潜在意識への書き込みにどうやら力を発揮するようなのです。




貴秋がシュタイナー教育というものを知ったのは、ドイツ文学者 ・ 子安美知子氏の 「ミュンヘンの中学生」 などのご著書を通じてですが、このシュタイナー教育を行う学校では 独自の時間割が採用され、国語や算数 (数学) などの主要教科は 一日一回の二時間通しのエポック (基本) 授業で、一教科ずつを一定期間集中して学ぶのだそうです。

この授業には 「その日に始まったテーマを その日のうちに完結させてはならない」 という原則があって、たとえば円の面積がどれぐらいになるかという問題が出れば、まずは子どもたちめいめいが 思いつくままに 円を切ったりつないだり色を塗ったりして試行錯誤し、その日の授業はそれでおしまい。

子どもたちは、その日得た実験結果や自身の思いつきをそのまま持ち帰って一晩明かす、それがあって初めて、翌日教わる 「円の面積 = 半径の二乗 × 3.14」 という公式や 3.14という数字が生きた知恵になるのだといいます。

そのようにして算数なら算数のみを数週間集中して学び、その教科が終われば国語などの別の教科に移るという具合で、次に算数の授業が行われるのは 数ヶ月から一年ぐらい先のこと。

当然 「そんなに間が開くのでは、せっかく学んだことを忘れてしまうのではないか」 という心配の声が上がりますが、シュタイナー学校の先生方は、「忘れていい、いや むしろ忘れることが必要なのだ」 と答えるそうです。

この 「忘れる」 ということについて、「ミュンヘンの中学生」 から シュタイナー学校側の説明を引用させていただきますね。



ふかい集中力をそそいで、四週間ものあいだ勉強してきたことには、こんどは十分な休止期間をおくべきなのだ。

そして、忘れるだけのものは忘れること。

ピタゴラスの定理を言葉でとなえたり、それを整然たる記号で証明することなどは、すっかり忘れてかまわない。

それでもなお、きのうまで勉強した幾何学上のことがらは、子どもの内部の目に見えないところで、じっくり消化され変容していく。

そのためには、ちょうど毎日の勉強から勉強のあいだにひと晩の睡眠があったように、エポックからエポックのあいだにも、より長い休止期間が必要なのである。




さらに ちょっと長くなりますが、同じく 「ミュンヘンの中学生」 から 子安さんのお嬢さんフミさんの担任 ・ ヴルフ先生のお話も。



頭にはいった知識や概念は、いちど忘れることによって、意識から無意識の領分に移る。

それは、さらに肉体にはいって、目に見えない養分となる。

子どもの肉体は、こうして知識や概念による栄養があたえられなければならない。

「忘れる期間」 は、そのために欠くことのできない 「生命体のための時間」 である。

そのあいだに忘れた知識というものは、ただ意識の表面から消えているだけであり、つぎのエポックのはじめにちょっと復習することにより、容易にもどってくる。

一夜漬けの勉強でおぼえて忘れたものは、表層部に、ほこりのように付着して、またすぐにとれてしまったものだから、あとにはなにも残らない。

おなじように 「忘れる」 といっても、一夜漬けの勉強とエポック授業とでは、このような違いがあるのだ。





この 「ひとつのことを集中して学ぶ」 と 「忘れる時間を設ける」 というのは、知覚できない意識領域に情報を落とし込むための大切なポイントだと思います。

ひらめきで得た情報は 折に触れて日常のさまざまな場面に当てはめるため、学校の授業ほど集中して念頭に置くことはできませんが、それでも少し経つと その情報を忘れてしまうというのは、それが無意識領域に送り込まれた証だと思うのですね。

で しばらくすると 「しまった、忘れてた~」 ということになり、また数日は意識しているけれど 再び忘れてしまう。

そんなことを繰り返す自分を 「なんて忘れっぽいんだ、こんな大事なことなのに」 と嘆いていた貴秋ですが、実はこの忘れてはまた思い出すの繰り返しこそ、得た情報を潜在意識に書き込む重要なプロセスだったようです。

大切なことでなければ、忘れたきり思い出さなくても不思議ではありませんものね。

でも、何週間何ヶ月と忘れていても 必ずまた思い出しては使ってきた、その中で ほんとうに必要なものは 消化吸収され 定着したからこそ、このように自分の言葉として文章にできたりするのだと思うのです。




これまできちんとお礼を申し上げたことがありませんでしたが、こんな偏見炸裂のつたないブログをお読みくださり、中には 「いいねボタン」 等を押してくださる方まであること、いつも心から感謝しております。

貴秋にできるのは 自身の体験や思いを書き記すことだけですが、もしその中にお役に立ちそうな情報があれば、ぜひご自分の言葉に落とし込んでご自由に使っていただければと思います。

目に映る世界が内面の投影であるならば、自分も他人も同じこと、「自分の幸せが縁ある方の幸せとなり その輪が広がっていけば、自分がただ満ち足りて生きているだけで 世界平和を十分実現できるのだ」 という声が このところしきりに思い浮かぶ貴秋です。















思い通りの人生を創造するためにぜひとも知ってほしい重要なこと

2022年05月02日 11時31分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
以前 「雷が条件の整ったところに落ちるのと同じように、アイデアや情報も波長の合うところに引き寄せられてくるのだと思っています」 と書いたことがありますが、それだけでなく 日々の大小さまざまな出来事も、自身のその時々の波長に見合ったものが引き寄せられて具現化しているようです。

去年のいつだったか、こんなひらめきが飛び込んできました。

「望んだりイメージしたりしたものは 五感を超えた領域で瞬時に実現し、見えないけれど すでに存在している。その波長と自分自身の波長が合ったとき 共振共鳴が起こり、見えなかった世界が形となって現れる」

五感を超えた領域には時間概念がありませんから、思うと同時にそれは潜在的に実現しており、具現化するかどうかは 自身の意識の波長をその世界と同調させられるかどうかにかかっている、ということらしい。




氣づいていようがいまいが、私たち誰もが自身の世界を創造しているというのは既成事実であり、あとはそれを受け入れるか受け入れないかというだけのことのようです。

もちろん 「どうやって創造能力を身につければいいのか」 なんていまさら悩む必要もない、私たちはみな この世に生まれ出た瞬間から すでにその能力を発動しているのですから。

とすれば 「すべてを自分が創っているのなら、なぜもっと望み通りの人生を送れないのか」 という次の疑問が出てきそうですが、それは 思考や感情のコントロールがそれだけ難しいということ。

この問題のポイントは、私たちが支配する者とされる者に分かれて以来、庶民の創造力を奪い 管理しやすくするために、潜在意識について考えないよう忘れるよう仕向けられてきたところにあると、貴秋は思っています。

その存在を知らされていなければ、知覚できないものを勘定に入れたりはしませんものね。




しかし、顕在意識1:潜在意識9と言われるほどの比率の違いを思えば、それでは意識のコントロールが利かなくなるのは当然です。

ある情報を たとえ顕在意識が100%認めたところで、潜在意識にそれに反する情報が取り込まれていれば、多勢に無勢、通るわけがない。

「二十歳を過ぎてもまだ親の言うことを聞かなければならないなんておかしいよね」 「どうして私ひとりで家族全員の世話をしなければならないの」 「上司の言い分はあきらかにおかしいのになんで従わなければならないんだ」 等々 心の中ではいくら主張したくても、いざとなるとどうしても頑張れないなんて思いをしたことはありませんか?

それは、知覚できない意識領域に 納得いかないけれど逆らえないなんらかの情報が埋め込まれていて、道理や理屈をはるかに超えたパワーで 自身のほんとうの思いを抑え込んでいるから。

そして、これは思いがけないことかもしれませんが、不条理な態度を取る家族や上司は 実は自分の心の中の思い込みの反映で、その言動によって 「あなたの中に あなたのほんとうの氣持ちに逆らうこのような思い込みが潜んでいるよ」 と教えてくれているのです。

ですから、そこで相手に食ってかかるのは独り相撲に過ぎず、時間とエネルギーの浪費にしかなりません。

それよりも、その時間とエネルギーを 自身の内面と向き合うために使うことです。

自分を粗末に扱う相手への怒り、なのに思いを通すことができない悔しさもどかしさ、そういったもろもろのネガ感情や それに伴うからだの感覚を、言葉を介さずじっくり感じること。

最初のうちはかなり消耗するかもしれませんが、不毛なシャドーボクシングに無駄遣いするのに比べれば はるかに建設的といえるでしょう。

しばらくして 多少なりとも努力が実を結ぶ手応えを得られれば がぜんやる氣が起きてきますから、そうなればこっちのもの。

統合へと向かういまの時代の流れが 背中を押してくれます。




私たちが分離への道のりをひた走っていた時代にも、0 (ゼロ) という無を表す数字を見つけ出し定理に組み込んだ数学者、素粒子に 知覚できる 「粒子」 と 知覚できない 「波」 の二つの性質が存在することを突き止めた物理学者、さまざまな儀式や行事によって 見えない世界への敬意を忘れさせまいとした宗教者、言葉を通じて言葉にならない世界の美を感じさせてくれた文学者など、知覚できない領域を人々が見失わぬよう ときには命がけで努力し続けてくれた多くの先人たちがいました。

どれほどの逆風の中でも、私たちを後押しする力は つねに働いていたのです。

そして風向きが変わったいまこそ、彼らが残してくれたものを手がかりに 私たちがほんとうの自分を思い出し、思い通りの人生を創造する力を取り戻すときです。