毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その8

2016年08月30日 08時18分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちの意のままにならない思い込みは、まだ脳の配線が未完の幼いころ (おおよそ三歳未満と言われています) 、まわりの大人を介して 無条件に刷り込まれた情報が基になっています。

そしてその情報は、明確な言葉や文章としてキャッチされてはいないのです、まだ自在に言葉を操れない年頃のことなのだから。




「ネガな思い込みの根っこには 強い自己否定が埋まっている」 とは たびたび見聞きしていたことですが、長い間ぴんとこなかったのは、「私なんてなんの価値もないんだ、存在する値打ちがないんだ」 なんてことをつぶやく自分が いくら捜しても見当たらなかったから。

そして、ついに捜し当てたときは 愕然としました。

たしかに深い無価値感がありましたが、それは そのような言葉としてではなく からだの不快な感覚として存在していたからです。

その感覚に言葉を当てはめれば、たしかに「価値がない、存在する値打ちがない」 というようなものになる氣がしますが、それはあくまでも後付けの物語であって、自己否定の根源そのものではないのです。

根源を求めて そんなセリフをどれだけ捜しても 見つからなかったはず。。。。それは からだに刻み付けられた ある種の感覚の記憶にありました。




私たちは 日常のさまざまな問題を解決するのに、交渉 ・ 説得 ・ 哀願等々 状況に応じて さまざまに言葉を使います。

が この手馴れた方法が、心の問題、それも根本的なところを解決したいときほど 役に立ちません。

うれしくない思い込みを マインドがいくら言葉で説得して書き替えようとしても うまくいかないのです。

赤ちゃんや幼児を 理詰めで納得させられないのと 同じこと。

そこで大きな手がかりとなるのが、からだに残る感覚なんですね。




思いや心という 五感で捉えられないあいまいなものに 言葉なしで取り組むのに、感覚というたしかな手応えが存在するのは、なんてありがたいことなんでしょう。

今回の取り組みで、つくづく こころとからだはひとつものだと感じさせられました。

からだの痛みやこわばりが解消されると こころにも変化が及ぶのがわかりますし、こころが楽になると その分からだの痛みが消えたり 柔軟度が増したりという変化となって 現れます。

言葉で変えられない思い込みも、感覚にフォーカスし 感じ尽くせば 解消され、結果 おのずと自分の言動が変わっていることに氣づかされます。




今回の試みの発端となった からだの柔軟性への突然の関心は、感覚フォーカスを こころのみならず からだに (痛みやこわばりの形で) 残るわだかまりにも適用することで より効果が上がるようだ、と氣づかせるために用意されていたのかもしれません。

いつもなら、もっと時間が経って いったい何が起きていたのか、どういう意味があったのか が腑に落ちてからでなければ 文章にしなかったであろうところを、まとまりなく長いものになると承知で あえてリアルタイムで書き進めたのも なんらかの理由がありそうですが、現時点では それは真我しか知らないことのようです。

その1を書き始めたとき、この話がどういうところに帰結するのかはもちろん、自分のからだがどういうふうに変わっていくのかも まったくわかっていませんでした。

かのラジオ体操の青年のように 立位体前屈で 手のひらまでべたっと床につけられるようになったのも 書き出してしばらく経ってからのことだし、前回の記事の 「突然現れた幸福感」 は つい前日体験したばかりの話、いつも 「この記事 いったいどういう結末になるのかなぁ」 と 書き手自身が思いながら ほぼリアルタイムで書き進めておりました (^_^;)

真我を主役にすえるとは、小我はいつも目隠し状態で 勇氣を振り絞って 先の見えない道に飛び込み、ときには引きずり回される (笑) こと。

そんな迷走に 一ヶ月ものあいだお付き合いくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました m(__)m

この試みには まだまだ続きがありそうだし、そこから見えたものは これからもちょくちょくブログに登場することでしょうが、このタイトルでのお話は 今回でおしまいにさせていただきます。

いつになく長い長い とりとめない文章をお読みくださって ありがとうございました。

























探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その7

2016年08月23日 11時42分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今回 過去情報をひとつ訂正することになりました。

まだ感覚フォーカスに本腰入れ始めたばかりのころ、感覚に同化し過ぎて かえって手放しにくくしてしまったと思い込んで、以来 味わうときは 感覚と一体化せず すぐ隣から眺めるような感じで、と心がけてきました。

が それは、無自覚に生じた 「さっさと手放し 楽になりたい」 という意図が 完全に言葉をシャットアウトすることを妨げていたからで、言葉を一切介在させなければ、むしろ及び腰にならず 感覚に入り込むように しっかり感じるほうが、すみやかに手放せるとわかりました。

なかなか感覚が消えず やたら時間がかかっていたケースがかなりあったのは、感覚に深入りしすぎたからではなく、微妙に言葉が残った状態でつかんでしまったためだったらしい (^^ゞ

「言葉も意図もなしに ただ感じる」 やはりここが 感覚フォーカスの重要ポイントのようです。

言葉もためらいも抜きで 感覚そのものにズバッとフォーカスできると、たちまちのうちに溶けるように消えてゆくものだとわかりました。




この ネガ感覚が溶けて消えてゆくときの心地は、長く続いた不安や緊張から解放されて感じる安堵そのもの。

子どものころから絶えず不安に脅かされてきた身には、安堵とは 最上級の幸福を意味する なつかしい心境・・・・・・のはずでしたが、フォーカスの精度が上がり これをたびたび味わうようになったあるとき、安堵をはるかに上回る大きな幸福感が ふいに飛び込んできたのです。




それは まったくの不意打ちでした。

ネガであれポジであれ、思いのスイッチが入る瞬間って 自覚されないことがほとんどですが、ネガ思考が常態化しているところに さらなる不安が現れても 格別驚きもしないけれど、なんの予兆も脈絡もなく いきなり幸福感が登場したら 「え」 です。

それは、一片の記憶のひらめきと共に現れました。

歩道に落ちる 暖かな秋の日ざしと ちらちら動く木の葉の影、そんな映像が 瞬間脳裏に弾け、同時に それを実際に見たとき感じたのに違いない強い幸福感が 胸いっぱいに押し寄せ 満ち溢れたのです。

なにかうれしいことがあったから幸せを感じた、とかいうのではない、思い出のワンシーンは 感情を誘い出すきっかけに過ぎず、これぞまさしく無条件幸福、私たちの本質そのもの。

「雲が退けば お日さまが顔を出す」 の仮説が 実証されたと感じた瞬間でした。




とすかさず、すっかり感覚フォーカス慣れした心が、今だ、それをしっかり味わえ とゲキを飛ばしました。

この感覚は たぶん見つめても消えないから、とことん味わい強化することで 不安を 安堵や喜びに塗り替えることができる、と どこかでわかっていたようです。

以来、突如降って湧いたように現れた 幸せの小さな芽を 大きく育てる試み、続行中です (^_-)-☆




この突然の 「もともと私たちの本質である幸福感出現」 に、あの柔軟体操を通じての からだに残る痛みの記憶の解放が 大きく一役買ったと感じています。

お日さまをさえぎっていた雲、すなわち長年抱え込んでいた不安とは、実は 幼少期に体験した不安の記憶だと 以前から理解していました。

いや、ただ理解するだけでなく、自身の記憶と照らし合わせ 間違いないと確信していました。

が、それが理屈を超えて 実感として内側から感じ取れたのは、初めてのこと。

それは からだという五感でキャッチできる部分と こころという五感を超えた部分が 互いに影響しあうひとつものだと、今回の探究検証を通して 腑に落ちたからにほかなりません。

言葉を解する前の幼い子どもが 脳回路に無条件に組み込んでしまった思い込みを解放するためには、からだという手応えある鏡が ぜひとも必要だったのです。
























探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その6

2016年08月21日 14時24分52秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


イハレアカラ ・ ヒューレン博士の 「ホ ・ オポノポノ」 について 大きくうなずけるのは、再生される記憶が 「聖なる知性」 と 人の意識とのつながりを妨げるという説や、問題を抱えた人が目に留まったら それは鏡に映った自身の姿なのだから その問題は自身のものとして責任を持ってクリーニングすべし、という話。

どちらも、これまでの自己探求の中で 私自身思ってきたことだからです。

今現在湧き起こったと思っている不安や怒りは、実は からだの感覚のスイッチが入り そこから再現された 幼いころの記憶のリバイバルでしかないことも、目に映るすべての人や出来事が 自分の内面の投影であることも、十分実感済み。

だから、記憶のクリーニングという考え方に抵抗はないし、そこに 「ありがとう」 という言葉が関わっていることに 感銘を受けもするのですが、プラス貴秋的には、記憶をクリアに戻す前に せっかく訪れたその体験や感覚を 一度はしっかり味わっておかないと 終わりにできない、という思いが 改めて湧き起こったのも また事実。




これは 感覚フォーカスやセルフクリーニングがどうこうということではなく、それを行うこちらの意識に 例のズレが生じていたのです。

「ホ ・ オポノポノ」 は ありがとうなどの4語を ことさら感情込めるでもなく ただ唱えるだけでいいとのことなのですが、お経のように単調な繰り返しの中で、いつのまにか 意識のありようが 探究から 「もうネガはいやだよぅ、早く手放して楽になりたいよぅ (T_T) 」 に変わってしまっていたのです。

そう、もういいかげんわかているつもりだったのに、やはり逃げ腰になってしまっている自分がいました。

その裏には 「このネガな思いを早くクリアしないと 思いそのままのネガな世界がどんどん再創造されてしまう、ますます抜け出せなくなってしまう」 という怖れや焦りが潜んでいるので、必死になればなるほど 結局はその怖れのほうが力を持ち 現実化してしまう・・・・・・・とわかっているはずだったのに

「手放す前に しっかり味わいなさい」 とは、そんなズレに氣づかせるための 黄色信号だったのでしょう。




「何をするか」 ではなく、「どういう思い (姿勢 ・ ありよう) からするか」 が大事だ、と 改めて思い知らされました。

「こんなのイヤだよぅ、どっかいっちゃってよぅ」 という氣持ちで行えば、その思いがそっくりそのまま形となり、どっかいっちゃってほしいほどイヤな世界が具現化するだけ。




以来、肝に銘じ 毎回のように確認する習慣がつきました。

ネガは 敵ではないのだと。

私たちは、本来の自分でないものを通じて 本来の自分を体験したくて、わざわざコントラストの世界に身を投じたのだから。

不幸を体験するから、幸せのありがたみがわかる。

嫌いを体験するから、好きなものを迷わず選べるようになる。

つまり、否定的な物事も 魂レベルでいえば 望んで引き寄せているのであり、あえてそれを体験することに 大きな意味があるのです。

だから、忌み嫌うことも 逃げ回ることも無意味、むろんやせ我慢で歓迎する必要もない、ただ一度 判断解釈抜きで まっすぐ見つめ 味わえば、それでOK。

自分は なんのために この世界にやってきたのか、探究のさなかでも これ以上原点を忘れることのないよう、しっかり意識に刻み直しました。




こうして、逃げるためではなく 受け止めて終らせるため、と 明確に意識しながら 感覚フォーカスとセルフクリーニングのコンビネーションを試し続けていたら、やがて面白いことが起こり始めました。

目に映る世界は 以前のままなのに、それを知覚する こちらの意識のありようが これまでにない形で変わり始めたのです。























探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その5

2016年08月17日 11時59分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


立位体前屈と 肩甲骨まわりのストレッチ、さらに 床に座り あぐらをかくように脚を曲げ 足裏を合わせて上体を倒す 股関節ストレッチも加えて、それぞれに感覚フォーカスを試みるトレーニングに、ホ ・ オポノポノの4語、中でも特に 「ありがとう」 を唱えることで ネガ記憶浮上の繰り返しをストップさせられるかどうかの実験が加わりました。

前回書いた仮説 どうやら的外れではなかったようで、痛みの記憶が減ったのか 柔軟度がぐぐっと上がり、このテーマ記事を書き始めたときにはまだできなかった 「立位体前屈で 足をまっすぐ伸ばしたまま 手のひらをべたっと床につける」 が 何回やってもできるようになり、より調子のいいときは さらにひじを軽く曲げられるほどになりました。

何回やってもできる ということは、筋の痛みやつっぱり感が もう戻ってこなくなったということ。

脚の裏側や内側に数本、ゴムのようにしなやかな筋繊維の束の中に 太い針金でも混じったように 伸縮性がなく ちょっと強く引っ張ると 今にも切れるんじゃないかと怖くなるほど痛くなる筋が 数本感じられて、いったん痛みが消えても 次回にはまた復活するので、手の指の付け根あたりまでつくようになったところから先へ なかなかいけずにいたのが、一氣に進展しました。

その数本の 「針金筋」 が 心のどのようなわだかまりと対応していたのかはわかりませんが、戻らなくなったということは わだかまりもクリアになったとみていいでしょう




ところが、このあと さらにトレーニング&クリーニングを進めるほどに 負の思いやイメージもまた 次々切れ間なく上がってくるという “わんこそば状態” に陥ってしまったのです (T▽T;)

なんなんだ、この引きも切らず押し寄せてくる ネガイメージの大群は~

倒しても倒しても敵の数が増えるばかりの 時代劇の大立ち回りか ゾンビ映画の主人公にでもなった氣分 (T_T)

なによりこの状態、来る日も来る日も 強い不安にさらされ続けていた昔と なんら変わりないではありませんか。

なにがどううまくいってないのか、それともそもそも根本からすべてが失敗だったのか。

不安がいや増し、「ありがとう」 プラス 「ごめんなさい」 「許して下さい」 「愛しています」 の4語が頭の中をぐるぐるまわり、しびれたようになって なにをなんのためにやっているんだかわからなくなりかけたとき、ひらめきが飛び込んできました

違う、失敗じゃない、成果が上がってるんだ

だから、これまでずっと見えないところに隠れていた負が 続々浮上してきたんだ、終らせるために




とたんに こっちがゾンビのごとく復活です

ほんっと われながらしぶといというか、あきらめ悪いというか (笑)




そうとわかれば、それまでの不安はウソのように雲散霧消し おお張り切り、勢いを得て クリーニングに拍車がかかる中 またしてもひらめいたのは、なんてあまのじゃくなんでしょう


          “やっぱり消すだけじゃダメだ、ちゃんと味わってからじゃなくちゃ”


感覚フォーカスだけでは対処しきれないと思ったからこそのクリーニングだったのに、そのさなかに 感覚フォーカスの重要性が再認識されることになろうとは ( ̄∇ ̄;)




いやいや、あまのじゃくというよりも そもそもそういうものなのでしょうね。

極端に偏りすぎて バランスを崩しかけたところに 新しい道が開ける、というような。






















探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その4

2016年08月13日 21時57分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


しばらく足が遠のいていた図書館に 再び足しげく通うようになったのは、7月中ごろからだったでしょうか。

ここで 面白いほど 今の自分にぴったりの 的確な情報をくれる本に たて続けに出会うのですが、その中の一冊に ロンダ ・ バーン著 「ザ ・ マジック」 がありました。

徹頭徹尾 感謝の力について書かれた本ですが、その2日ほど前にたまたま 日本一の個人投資家 ・ 竹中和平さんご逝去のニュースを目にしていたのです。

竹田和平さんとは 和平さん主催の 「貯徳問答講」 というネット塾を通じての わずかなご縁、直接お目にかかったのは 一度きりでしたが、めったにはできないような体験をさせていただき、中でも大きかったのが 「ありがとう」 という言葉の持つ力についての氣づき。

(それについて当時書いた記事は こちら

感謝、そして “魔法の呪文” 「ありがとう」 、そんなワードがしきりに脳裏を巡る中、10日ほど後に またまた図書館で 吸い寄せられるように手に取ったのが、ジョー ・ ヴィターリ、 イハレアカラ ・ ヒューレン共著 「あなたを成功と富と健康に導くハワイの秘法」 。

ここでまた一片 パズルのかけらがつながりました。




前の記事に 「ことさらこちらの注意を惹こうとする情報については、たて続けに情報がやってくる」 と書きましたが、その中の最たるものが この 「ありがとう」 。

最初に 知人の神主さんから 「ありがとうおじさん」 の小冊子が届き、その少し後に 和平さんの問答講と 「ありがとう百万遍」 を知り、興味はあるけれど 百万遍はちょっとなぁ。。。。と二の足を踏むところに、今度は これも前に書いた スプーン曲げができるようサポートしてくれた人から またしても 「ありがとう」 を百万単位で唱えることの効用について聞かされ、ついに 年齢 × 3万回 で 百数十万回のチャレンジを敢行したさなかか直後ぐらいに出会ったのが、ホ ・ オポノポノについての情報と イハレアカラ ・ ヒューレン著 「ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ」 の本。

この 「ホ ・ オポノポノ」 とは、もともとは ネイティブハワイアンの伝統的な問題解決法で、それを ヒューレン氏の師 故モーナ ・ ナラマク ・ シメオナ女史が 現代社会で活用できるようアレンジしたのが 「セルフアイデンティティ スルー ホ ・ オポノポノ」 、以下ここで 「ホ ・ オポノポノ」 と呼ぶのはすべて こちらの 「セルフアイデンティティ スルー ホ ・ オポノポノ」 を指します。

で、この ホ ・ オポノポノとは 具体的には、「ありがとう」 「ごめんなさい」 「許して下さい」 「愛しています」 の4つの言葉を唱えることで 否定的な記憶をクリーニング (浄化) するとかいうことらしいのですが (詳しくお知りになりたい方は こちらをどうぞ) 、この クリーニング ・ ワードに 「ありがとう」 が入っていたことに反応し、さらに 4語すべてでなく 「ありがとう」 を唱えるだけでもOKとの記述に驚いたのです。

つまり私は 百数十万回の 「ありがとう」 で、すでにネガな記憶の解放にとりかかっていたということ?

魔法の呪文であり ネガ消去パワーも併せ持つというのなら、やっぱり 「ありがとう」 って すごい言葉なんじゃないだろうか?

がぜんテンションが上がり それからもせっせと唱え続けましたが、やはり筋トレのように 具体的 ・ 即効的な効果が はっきり見えないためか 次第に熱が冷め、呪文としての 「ありがとう」 も 「ホ ・ オポノポノ」 も いつのまにか忘れ去られ、長い間そのままになっていました。




そんな 「ありがとう」 の思い出が、二冊の本との出会いから にわかにリバイバルし、からだとこころの柔軟性への取り組みと結びつきました。

つまり、手放しては戻り を繰り返す 心身の痛みやわだかまりの記憶を、この 「ありがとう」 でセルフクリーニングできるのではないか、との仮説がひらめいたのです。






オマケ : 復活 グリーンカーテン☆



・・・・・・・これでもまだスカスカだなぁ





















立秋過ぎて

2016年08月13日 12時40分53秒 | 自然


きょうの空



これを撮った少し後から 雲がぐんぐん増えてきました

晴れ空は大好きだけれど、この暑さでは 多少お日さまを隠してもらえるのもありがたいです (*^▽^*)ゞ




鉢とプランターのミニトマト、あのまますっかり枯れてしまうのかと思っていたら なんと新しい緑が伸びてきて、枯れたところをすっかり刈って仕立て直したら、見事に復活 \(^o^)/





いのちって なんてたくましいんでしょうね



地植えちゃんも すくすく育って こんなに大きくなりました♪






初採りゴーヤ♪



お供えしたあと、さっそくキンピラに

縦に半分に切って ワタと種をとり 薄切りにしたゴーヤを フライパンに入れ お酒と少量の水を加えて炒りつけ、ゴーヤがしなっとしてきたら さっとしょうゆをまわしかけて 火を止め、器に盛って 香りづけにごま油をちょろっと垂らし かつお節をぱらりとかけて 出来上がり。

最初からごま油で炒めるより このほうが 油の量が少なくてすみます。

ごま油の代わりに すりゴマをかければ、さらにヘルシー♪

ナスや豚肉をいっしょに炒めてもいいし、七味を振り入れても美味です。

ご飯のお供に、うどんやそばの具に、冷めてもおいしいので お弁当のおかずにもいけますよ




思いっきり食欲のほうに走ってしまいましたが、ゴーヤのそもそものお役目は グリーンカーテン。



・・・・・・って なんかスカスカですが、枯れかけているわけではなく きつい日ざしから葉を守るために わざと萎れたようにして 日の当たる面積を少なくしているのだそうです。

植物の智恵のすごさよ、ただ カーテンとしては ちょっと。。。。ですが (^_^;)




連日35度だ 36度だと まだまだ暑さ真っ盛りですが、不思議なもので ちょうど立秋を過ぎたあたりから、ふとした風の具合や空の表情 夕暮れ時の光と影のコントラストなどに、秋の氣配を感じるようになりました。

これから一ヶ月以上かけて じわじわ季節が入れ替わっていくんですね。

この夏から秋への移り変わり、私には 一年で一番思い入れの深いひとときです。

夏が暑ければ暑いほど 味わい深く 心に残ります (*^^*)







「からだとこころの相関関係」 をお読み下さっている方へ、更新が遅くて申し訳ありません。

少しずつですが書き進めていますので、もう少しお待ちくださいね m(__)m






















探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その3

2016年08月08日 00時58分40秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


真我がことさらこちらの注意を惹こうとする事柄については、短期間に同種の情報がたて続けにやってくるのが お約束のようです。

今回最初は、リオ五輪がらみの番組を見ていた父のひと声から始まりました。

「見てみろ、これ すごいぞ」 と感嘆しきりの呼び声に 洗い物の手を止めて 画面に目をやると、たしか飛び込みの代表選手だったと思いますが、肩関節の可動域の広さを披露するのに 肩幅ぐらいに開いた両手に棒を持ち 頭上に掲げ、そのまま手を離すことなく腕を背後に回して 腰のあたりまで下ろす場面が飛び込んできました。

えええええ

と信じられないものを見た思いでしたが、その数日後 スポーツニュースかなにかで、今度はイチロー選手の肩関節の柔らかさについて取り上げたシーンに出くわしたのです。

あとで調べたら、イチロー選手の関節重視は 肩に限ったことではないらしいのですが、そのときたまたま目にしたのは 肩の場面で、前の飛び込み選手の映像とダブって 脳裏にしまい込まれたようです。




その後しばらくはすっかり忘れていた肩関節情報が 突然大きな意味を帯びて戻ってきたのは、こちらのブログ記事から。

この方のブログは なんといっても 感覚フォーカスのきっかけとなった 「感情が動くより先に からだの反応が起こる」 という重大情報を教えてくださったブログでもあり、ずっと愛読させていただいていましたが、ブログ先を引っ越されてから遠ざかっていたのが、少し前になにかのランキングでたまたま見かけて 再びときおりご訪問するようになっていました。

この 「身体が変わると現実が変わる」 のテーマ記事も、ちょうど私の柔軟運動チャレンジからの氣づきと重なるところがあり 関心を持っていましたが、この日の記事内容には驚きました。

肩甲骨の動きとネガ記憶の解消がつながっていたとは・・・・・そこでふと思い当たったのが、旅館のバイトなどで いやなことがあったとき、よく腕や肩を回したりストレッチしたりして 氣分を変えていたこと。

あれは 無意識のうちに 否定的な記憶を呼び覚ましたり溜め込んだりしないようにしていたのか☆

おかげで、からだが硬い割には 肩甲骨まわりはそこそこ動くのです。

とそこに 先日の飛び込み選手とイチロー選手の映像がフラッシュバックし、たちまちのうちに チャレンジ項目ひとつ追加、毎日の立位体前屈に 肩関節の稼動域を広げるトレーニングが加わりました




PC検索で見つけた肩関節トレーニングから 簡単なものをいくつか選んで実行、痛みが現れるたびに観察するのは 立位体前屈と同じ。

脚筋と肩まわり 二種類のストレッチを併行するようになって じきに氣づいたのですが、あの せっかく消えたはずの脚裏の痛みやこわばりがぶり返し なかなか進まないとき、肩のほうが少しでもほぐれると 脚のほうもつられたように少し柔らかくなり、片方だけのときよりも成果が上がりやすいのです。

肩甲骨が動いて 楽になった心が、脚のほうにも反映されるということでしょうか。

おかげでやる氣は大きく復活しましたが、それにしても 心であれ からだであれ、この 手放したはずの痛みの記憶が 何度も何度も戻ってくるというのは、ある程度までは仕方がないとはいえ もう少しどうにかならないものか。

そんな思いに応えるように、さらなる手がかりがやってきました。





















探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その2

2016年08月04日 11時41分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


小学生のころからガチガチにからだが硬く、運動嫌いな性分もあって ことさら改善の意欲も湧かないまま大人になった貴秋ですが、そんな私が柔軟性を氣にかけるようになったのは、あの 勝手に師と傾倒し 祭り上げていた人の講座で 心とからだの柔らかさの相関関係について 話が及んだときのこと。

心がしなやかで囚われのない人は それがからだの柔らかさにも現れるらしいと聞き、だったら からだが柔軟になれば この思いどおりにならないガチガチの心も 少しは言うこと聞くようになるだろうかとの期待から、これはひとつ試してみようとトライし出したのですが、あるときふと氣がついたのです、無意識のうちに 自分からからだに力を入れて わざわざ曲げにくくしていることに。

で、その力みを抜いてみたら、ほんの少しずつですが これまで曲がらなかったところまで曲がるようになってきて、すっかりうれしくなり のめり込んで かなりの成果を上げましたが、調子に乗ってやり過ぎたのか 右足の筋を痛めてしまい、一氣に熱が冷めてそれっきり、十年以上経った今は もとのガチガチなからだに逆戻り (T_T)




それが再び からだの柔軟性に意識が向いたのは、今冬の印刷会社のバイトがきっかけ。

ここでは毎日始業5分前に ラジオ体操の音楽が流されるのです。

最初はみんな氣に留めなかったけれど、そのうち 戯れ半ばに体操をする人たちが現れ始め、私もその仲間入りをして 久々にやってみたら、これがなかなか氣持ちいい♪

そうして 顔ぶれががおおよそ定まった体操メンバーの中に、とてもからだの柔らかい男性がいました。

立位体前屈なんて、脚がぴーんと伸びたまま 手のひらが楽々ぺたっと床に着くのです。

毎日感嘆しながら眺めるうち、いつの間にか その光景が脳裏に焼きついていたようです。



ここしばらく 真我を導き手に これまでにないほどの熱心さで 思い込みの解放&書き替えに勤しむ中、ふと心とからだの柔軟性についての話を思い出したのは、あのときの彼の記憶と相まってのことでしょうか。

そこで ふいにひらめきました。

許容範囲を超えてからだを曲げようとすると走る 筋の痛みやこわばり、これも実は幻なんじゃなかろうか?

これを感覚フォーカスで見てみたら どうなるだろう?

こうなったらもう 試さずにおれるものではありません ( ̄∇ ̄*)ゞ

あのラジオ体操の彼と同じ 立位体前屈での探究のスタートです☆




ここから先の進捗状況は、腕のときと ほぼ同じ。

やはりというか、許容範囲を超えて前屈を試みたときの 脚裏の痛みや 筋のこわばりは、観察していると 次第に消え始めました。

ということは、これも なんらかの思い込みやわだかまりの表れか d(≧∀≦*)

心の解放がかかっていると思うと がぜんやる氣が増しましたが、これまた ある程度を超えると 一進一退となります。

いったん消えたはずの痛みやこわばりが 次回にはぶり返し、芳しい成果が上がりません。

こういうときは 諦めの悪いわが性格に感謝したくなります。

この先がどうしても知りたいという好奇心の成せる業でしょう (^^ゞ

3~4箇所決まった筋に 痛みやツッパリ間が 繰り返し現れるのがわかります。

この筋一本一本に それぞれなんらかの思い残しが投影されているということでしょうか。

心のほうの感覚フォーカスでも 同じようなことがありました。

根幹を成す根深い思い込みやわだかまりほど 手放しても手放しても戻ってきますが、それだけ解放できたときの変化も大きいということ。

ここであきらめてなるものかと 忍の一字でフォーカスを続ける最中、もうひとつ 興味深い情報が飛び込んできたのです。

























けさの庭

2016年08月02日 10時30分42秒 | 自然


けさの空。。。。ちょっと夏空らしくないかな、きょうは薄曇り



そういえば、きのうの夕方の雷雨はすごかったなぁ




夕べからけさにかけて セミさんたちの羽化ラッシュだったようです

  

                                                           

              

                                                                        

             


草取りしてたら 抜け殻と出会う出会う (゚0゚*)

きょうの大合唱には 少なくともご新規さんが5匹混じってるってことね♪




タマスダレの花






青ジソ






オリヅルランも まだ咲いてるよ






先日書き忘れたけれど、ミニトマト ・ バジルといっしょにポットで連れてきたパセリ



移植を嫌うパセリだけれど、これまでも何度も私のワガママにつき合ってくれて、今回も無事ついてくれたみたい、ありがとうね




そういえば、その地植えちびミニトマト



うっかり見逃してました、すでに実が一個生ってました

色づくまで氣づかないなんて、観察力まだまだ足りないなぁ (- -;)




「こころとからだの相関関係」 の続き ただいま書きかけです、もう少しお待ちくださいね m(__)m