毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

雨の日は、家であれこれ♪

2015年09月24日 13時01分38秒 | 紡ぐ暮らし


好天続きのシルバーウィークも終わり、けさからは予報どおりの雨

連休明けのはずなのに お隣小学校がやけに静かだと思ったら、運動会の代休だったのね(^^)

雨音だけが聞こえる静かな時間もいいものです。

ただ、せっかく咲いた彼岸花や金木犀が 早々と終わってしまいませんように。。。




そんなわけで、きょうは一日家仕事、これもやること一杯♪

きのう見つけて買った栗は甘露煮に、去年は仕事の合間にあわただしく煮たせいで ほとんどが崩れてしまい 失敗に終わったので、今年こそは おせちの栗きんとんに使えるよううまく仕上げたいなぁ。

それに、忙しくてお彼岸中日には間に合わなかったけど、おはぎも少し作ってお供えしたいから あんこも煮ましょう。

あと、洗いあがった大物クロスにアイロンもかけたいし、他にもまだあれやこれや いろいろと。

いっぺんに思い浮かべると 頭の中がうわ~っとなるけれど、慌てない慌てない、心を静めて 内からおのずと浮かぶ順に、ひとつひとつていねいに向き合って楽しんで♪

時間だって、思い方ひとつで 伸びも縮みもするんだよ、と 自分に言い聞かせながら、ね☆




氣づきは次々起こるけれど、それだけではただの情報、毎日の暮らしに取り入れて使ううちに だんだんと消化されて 自分のものになるわけで。

ここがもっとも難関であると同時に、もっともエキサイティングで味わい深いところでもあるんですね。

今は 素晴らしい先達がおおぜいおられて、関心を誘う本やメルマガ、面白そうな講座やワークショップが目白押し、その氣になれば ありがたい情報がいくらでももらえるけれど、それを自分のものにするというおしまいの段階だけは、自力でやるしかない。

どんなにいい食べ物も、口に入れてから 消化して身になるまでのところは 自分の力でやるしかないのと同じこと。

大変といえば大変だけれど、自分のものになったと思えたときのうれしさは格別だし、自信もつくし、生きるのがどんどん楽に楽しくなってくるし

そして、身についた知恵は 今度は自分の言葉として発信するのが これまた楽しく、さらにその上で たまたま出会ったどなたかに役立てていただければ何よりだし♪

私だって、そんなふうにいろいろな人からもらった情報のおかげで ここまで来られたんだものね (*^^*)




さぁて、隙あらば 過去や未来に散ろうとする心を 今ここに呼び戻して、そろそろ栗の皮むきにかかるとしましょう♪

どうか美味しくできますように





















ハズレなき羅針盤 「今の一番」 ♪

2015年09月22日 10時37分28秒 | 日々の楽しみ


この連休、いいお天氣続き

お隣小学校の運動会も無事終わり、わが家の家事もすいすいはかどり♪

夏のあいだ留守がちでほとんどできなかった シーツや布団カバー ・ カーテンなど大物類の洗濯を 毎日のようにしています♪

お風呂場だって いくらジャブジャブ洗っても たちまち乾くし、ほんと氣持ちいい! \(^o^)/




こぼれ種でどっさり出てきてくれた青ジソ、香り高い葉を しょうゆと胡麻油に漬け込んで たびたび寮に持っていってはいましたが、心残りは シソジュースが作れなかったこと。

代わりにというわけでもありませんが、今年は実のほうで 佃煮を作りました。

シソの実摘みを予定していた日、昼過ぎから天氣がみるみる変わり 雨が降り出して 足掛け3日降り続いたおかげで、タイミングをいささか逃して 固めの実が混じってしまい、あまりいい出来とはいえませんが、作れただけでも満足 満足

同じくたくさん生えたバジルは、まだつやつやした葉がたっぷり残っています。

一度ピストゥを作りましたが、長期保存と用途の広がりを狙って チーズもナッツも抜いて ニンニクとオリーブオイルのみで作ってみたら、調味料には向きそうですが、バジルペーストとしてはちょっと物足りない感じなので、次回は ナッツ類だけ加えてみようと思います。

あと、種を チアシードのように食べるレシピもゲットしたので、こちらもぜひ試させてもらいましょう♪

こうしていろいろトライできるのも 自家栽培ならでは、ありがたい ありがたい




先日の晩、久々にDVDで 映画 「ショコラ」 を見ました。

今改めて見ると、やはりというか 「二元対立と それを越えた世界」 の構図が 際立って目につきます。

よかれと思い 戒律に縛られた暮らしを守ってきた レノ伯爵を始めとする村人と、対極に位置するアルマンドやジプシーたち、そしてそこへ 二極を越えた喜びを持ち込んだ ヴィアンヌ親子。

初めて見たときは いけずのおじさんにしか見えなかった (笑) レノ伯爵が、今回はなんだか氣の毒というか、「あなたも大変だったねぇ」 というふうに思えてきました。

数からいっても立場からいっても 不信心で身持ちの悪いよそ者の女など 簡単にへこませられると信じていたのに、なぜか自分の正しさが いくらがんばっても思い通りの結果を生まず 裏切られて、どうすればいいのか 悩みに悩んで。

ネタバレは控えますが、終盤のクライマックスシーン、ヴィアンヌの店での伯爵の振る舞いと挫折、ついに自我が折られて 二極の世界を越えた瞬間の、伯爵の涙。

名優アルフレッド ・ モリーナ迫真の演技、ここまで胸に迫ったのは 初めてのこと。

またそれ以上に、毎回大好きな お祭り広場でのヴィアンヌに向けられた 伯爵の穏やかな笑顔が、今回はことさら胸に沁みました。

この映画、このところ イケメンジプシーのジョニー ・ デップ演ずるルーとヴィアンヌの恋模様はそっちのけで、人々が新しい喜びに目覚めていく様子ばかりに注目してしまうのですが、今となっては それもさもありなんという感じ

恋ももちろん素敵だけれど、それも含めて ほんとうの喜びは、二極のせめぎ合いを越えたところにこそあるんだってわかったから、ね☆




「今の一番」 という羅針盤に導かれて過ごす日々、こんなふうです・・・・って、以前とぜんぜん変わりませんが (笑)

調子の良し悪しはやはりあって、せっかくハズレのない羅針盤を見つけておきながら、下り坂に向かいだすと すぐその存在を忘れるし (^_^;)

ひとつ違うのは、指針を疑うことがなくなった分、戻りが早くなって 安定感が増したことかな♪

まだまだ氣づきを体験に落とし込む実習中、うまくいくいかないだの 調子がいい悪いだのと 二極の世界に身を置くこと相変わらずですが、ほんとうにこの道でいいんだろうかという疑念がきれいさっぱり拭い去られた内側は やはり心地いいもの、この秋晴れの空と同じく 穏やか ・ さわやかです


















戦うより はるかに快☆

2015年09月20日 08時00分45秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今回の仕事に行く前から、今一番大変なのは 「納得しない自分」 との折り合いをつけることだ というのはわかっていました。

ほとんど半世紀 (いや、すでにその前から何生にも渡ってでしょうが) 、生きるとは戦うことと思い込んできた身にとって、一番の喜びは 戦いに勝つこと、その思い込みをどうしても捨てられず、戦いを離れて生きることを承知しない自分がいるのを ずっと自覚してきましたから。

で さんざん悩んだあげく、今はそういう自分でいい、ということにしたのです。

いつかは 「勝つことが一番の快だなんて思い込んでた私もいたっけね~」 なんて笑い話になるのでしょうが、今の私はそうじゃない。

だったら、そんな未熟さもひっくるめて ありのままの自分でいるほかないじゃない、と。





加えて、人に優しくできないときの自分、相変わらず事あるごとにカチン、ムカッとくる自分もOKに。

今の私は神さまじゃないんだから。。。理想とのギャップはびんびん感じるけれど、それもプロセスのうち、貴重な体験だものね(^_-)

というわけで、仕事中 何かあれば 表には出さず、胸中秘かに ここには書けないようなセリフでうっぷん晴らし(笑)、ただし 押さえ込まずおおっぴらに怒りを認めたあとは、さっさと氣持ちを切り替え引っ張らないというルールでいくことに☆

まあ、できたりできなかったりでありましたが (笑)




こういうの、私には新境地だったのですよ。

かれこれ半世紀、理想どおりにいかない自分を いつも責めてきたんだもの。

自責の念も罪悪感もなしに、思いっきり出来の悪い子 ・ 態度の悪い子になっちゃっていいよ なんて (それも仕事場で!) 許可を出したの、生まれて初めて。

「腹立つ~」 「こんなヤツ大っ嫌い」 と 良心のとがめ抜きで思うさま認めてしまうと、かえって怒りが後を引かないことがよくわかりました




そして、お盆の忙しさ真っ只中の8月15日。

朝6時過ぎに目が覚めて、窓を開けたら 久々にひんやりした空氣が流れ込んできて うれしくなると同時に、不意に 「この涼しい空氣は愛だ」 という思いがひらめきました。

連日の暑さでくたびれている私たちを こんなに心地よく包んでくれて。

じゃあ、暑さは愛ではないのかといえば、それもやっぱり愛。

暑さをさんざん味わった後だからこそ、冷たい空氣をこんなにも幸せに感じられるのだもの。

不意に、この二元対立の世界の意味と、それを越えて すべてが愛であることが 腑に落ちた氣がしました。




そもそも自分の素晴らしさを体感したいがために わざわざ創った二元対立世界、二極の双方をしっかり体験しなくちゃ、この世に生まれた意味がない。

いやなものは避けたいのが人情だけれど、そうしている間は どこまでも足踏み状態、そこで氣づいて 痛みも辛さも すべてをしっかり抱き取り味わえば、良し悪し分ける意識がだんだん薄れ、二極は役目を終えて 再びひとつになり、もともとの すべてであり愛である自分に戻ってゆく・・・と、あえて言葉にすれば まあこういうようなことでしょうか。




ほんとうにね。。。。繰り返しになるけれど、いやなものは避けたいのが人情。

でも、生きていく中でのトラブルの大半は、この ついついやってしまう 「避ける」 クセのおかげで再創造されているんだと、よぉくわかりました。

二元対立の世界とは、そのことをわからせてくれる場なのですね。

さらに今回、どんな自分もすっぱり認めるって こんなに氣持ちのいいものだったんだ、と 初めて知りました。

さんざん悩んで 悩み疲れたあげく、ええい、もういいわ~! と 半ばヤケッパチのように・・・ではありましたが、こんな欠点だらけの自分でいいんだ、と ど~んと受け入れてしまうと、とたんにすぅ~っと心が軽くなり、さわやかな風が吹き抜けるような心地になります。

自分を苦しめていたのは 欠点ではなく、それを受け入れられない氣持ちのほうだったんだ、と 目からうろこが落ちる思いでした (*^-^*)ゞ

見たくないものを避けているうちは 決して氣づけなかった、大切なこと。

争って勝つことの快より こっちのほうがはるかに氣分いいや~♪ と身に沁みましたから、戦いへの執着も そのうちすっかり消えてなくなることでしょう。




今回の仕事、納得するのはあとでいいから、理不尽でもアッタマくる~ でもなんでもいいから、とにかく今は ここでしかできない体験をしまくるのだぁ~ とハラを決めてがんばった甲斐があったようです♪

その収穫、仕事を終えた今になって ふんだんにいただいております。

内も外も 実りの秋、天からごほうびもらってる氣分です (〃⌒ー⌒)


















おまかせ♪

2015年09月16日 16時00分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


二元対立の世界における 「幸せ」 は、対であるネガを否定することで得ようとする 「条件付き幸せ」 なんですね。

「そのときの一番」 は、とにもかくにも瞬間そう感じるから、という以外 根拠も条件もない 「無条件の幸せ」 。

「対立する二極と それを越えた世界」 のイメージが より鮮明になったことで、これまでこの二つをたびたび混同していたことに氣がつきました(^^ゞ




中でも うひゃ~ と思ったのが、感覚フォーカス。

ネガ感情を消すのが目的ではない、味わうために見つめるのだ、とわかっているつもりでしたが、両者の違いがあいまいだったため、根底の不安や怖れが大きいほど、無心に受け止めているつもりで その実消えてくれることを期待してのフォーカスが多かったようです。

心が乱れて 集中し続けられないことが何度もありましたが、あれはまさに 消そうとやっきになっていたから。

「見つめる」 とは、自我を越えた視点に立つこと、言葉を使わず 無心というありように身を置くこと。

でも 「ネガ消えて~」 と焦っているときの私は、ちっちゃな個としての自分の視点から離れ切れないまま、「見つめる」 を手段と取り違えて 成果を出そうと必死になっていたようです。

怖れに囚われる中で、いつのまにかすり替わっちゃってたんですね ( ̄∇ ̄*)ゞ

この点が明らかになったことで、「感覚フォーカスを通じて 自分が何を実現しようとしているのか」 への理解が深まりました。




「見つめ切って」 いるときの私は、今こうしてブログを書いている自分も含めた 「個」 である自分をすっかり離れて、“すべてであるひとつ” の視点にあるんですね。

ちょっとおおげさな言い方をすれば、“神の視座” にあるということ。

このとき、ちっちゃな個である私は すっかり奥に引っ込んで、“おおいなるひとつ” ”神” といわれるような大きな存在に すべてをゆだねている。

以前、あるワークショップでの 「目隠しのワーク」 を通して、完全に自分を明け渡し 他者にゆだねたときの深い安堵と喜びを体験したことを書きましたが、感覚フォーカスでも この安堵や喜びが生まれることを、今回初めて知りました。

それまでは、ネガ感情を導き出すからだの感覚は消えても、こういう体験はなかった。

二極を越えるということが まだよくわかっていなかったから、自分ではすっかり手放したつもりの自我が残っていたためでしょうね。

二元対立の世界の私も、それを越えてすべてを創造する大きな私も、常に同時に存在していて、視点を大きな存在に移すことで ちっちゃな私が安らぎに包まれるとき、“おおいなるひとつ” のもと、ネガ感情も そこから派生するすべての問題も 消えてなくなっている。




そして、よく言われる 「自分を信じる」 とは、“おおいなるひとつ” である自分の存在を信じ、ためらわずゆだね切れることであるとも知りました。

今回の体験のおかげで、ちっちゃな個を離れることへの怖れがなくなったように思います。

自我は殺されるのでも 強制的に排除されるのでもなく、本来の “ひとつ” に返って 至福を味わうだけのことなのだから。

そうと納得できれば 素直に座を譲れるのだから、やっぱり自我を敵視したり 厄介者扱いしたりすることなんてなかったんです。

どのみち、この三次元世界にある限り、自我がすっかりなくなってしまうことなんてないんですものね。

ただ、その心地よさを知って 安心して明け渡してくれることが増えたから、自我の混乱した視点から 高次の視点に移りやすくなったというのはあります。

それだけ、思い込みや幻に翻弄されることが大きく減って、生きやすくなった、ということ (*^-^*)




3年ほど前から 津留晃一さんのメッセージ集を愛読していて、プリントアウトしたものを 去年の白浜の仕事先にも 今回の仕事先にも持って行って 繰り返し読んでいましたが、この中に、


       “あなたが自分を使わなくなった時、神があなたに変わって本来の仕事をし始めます。

        あなたという神のシナリオが働き始めます”     (「神のシナリオ」 より)


という文章があります。

がんばり続ける自我をもてあましているとき、ほんとうにこんな日が来るんだろうかと たびたび悲観したものですが、今は 神のシナリオにすっかりおまかせという日も そう遠くないような氣がしています (^^)





















対立する二極の向こうに

2015年09月15日 10時35分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今回の仕事の また別の収穫として、「二元対立の世界と それを越えてゆくもの」 についてのイメージが より明確になったことがあります。




7月下旬、ちょうど仕事が忙しくなり始めたころ、勤務先が 同じ敷地内の別の建物に変わりました。

そこでの対人関係は これまでになく良好で、この職種に就くようになって文句なしに一番、この夏はいい氣分で過ごせそうだと喜んだものでした。

それが、これというきっかけもわからぬまま 徐々に変わっていって、それまでと同じく氣の重いものになってしまったときは、なんでこうなったのかと落胆しきりでしたが、起こることすべてに意味があるもの、これほどの変化は きっと重要なメッセージに違いないと、とにかく体験し、観察し、記録することに徹してきました。




そして その意味がわかったのが、8月18日、ブログにも書いた 7連勤のあとの久々の休日の朝のこと。

私はずっと 幸せでいたい、心安らかでありたいと望んできたけれど、実際に追いかけていたのは、その対極の要素と対をなす幸せや安らぎだったのです。

幸せと不幸せ、安らぎと不安、対立する二極の一方である幸せや安らぎを手に入れては、これでもう大丈夫と思い込んでいた。

でも、その二極は もともと表裏一体のひとつもの、片方を手に入れれば 反対の要素ももれなく付いてくるのは どうしたって避けられないわけです。

その氣づきと今回の体験を重ね合わせて、二元対立の世界での幸せや安らぎは どうあがいても長続きするものではなく、しかも ちょっとしたきっかけで あっさり反転してしまうもろいものなんだ、と思い知らされたのでした。




さらにそこから、私がそんな不安定なものを手に入れてしまった理由もわかってきました。

まず、現在置かれている状況を 「いやだなぁ」 と否定的に捉えた自分がいた。

で、それとは違う もっと楽しい世界を望んだ。

自分では ポジティブな望みのつもりだったけれど、否定形から入った時点で、それはネガを元に生まれた ネガを引き寄せずにおかない望みだったわけです。

これまでえんえんと体験し続けてきた 否定的な世界は、生まれてほどなく植えつけられた情報を元に、他ならぬ私自身が それと氣づかぬまま 繰り返し再創造してきたものだったのですが、では、そんなふうに ネガティブな世界を創り上げることに長けてしまった自分が、安定した幸せや安らぎを実現するには、どうすればよいのか。



そう思うか思うわないかのうちに 答えは出ていました。

対立する二極とは別の、揺らがない幸福や安らぎがある、と。




しばらく前から、どんなときでも 「そのときの一番」 を選び続けようと 意識していました。

今 一番ワクワクすること。

イメージしたとき もっとも心地よく思えること。

一番抵抗を感じないこと。

どんな些細なことでも、そのときのベストチョイスをし続けていこう、と心に決めて、うまくいくときもいかないときもあったけれど、とにかく実行してきました。

この 「そのときの一番」 こそ、二元対立を越えて 望みを叶える道だったのです。




「そのときの一番」 には、対立要素はないのです。

ただ やりたいからやる、それだけ。。。。小さい子どもが遊びに没頭しているときのように。

他の選択肢と比べて もっとも有利か、選んで後悔しないか、そんな疑いやためらいや迷いはいっさいない。

これやるー! と 笑顔でまっすぐ突進し、満足したら、または面白みが失せたら、「次の一番」 に移るだけ。

そして、決して裏切られない。

最初に否定形ありき、ではないのです。

ただただ 「やりたい」 「楽しい」 があるだけ。

そして、このときの 「楽しい」 は、私たちの本質、本来の私たちの要素そのものなのです。

対立する二極を越えるとは、ほんとうの私たちに返ることだったのです。




以前取り上げた 本田健さんの言葉の意味が、あらためてよぉくわかりました。

最初は 「見返してやる」 などの 否定的感情からスタートしてもいい、でも うまくいき出したら、もっとポジティブなエンジンに乗り換えないと、ネガベースのままでは 否定的な事柄を引き寄せてしまう、とは、まさにこういうことだったのですね。

二元対立の中にいたままでは ほんとうの幸せは 手に入らない、そこを越えて ほんとうの幸せの道を行きなさい、と。




このテーマ、もう少し続けさせてもらいますね☆





















              




変われるものです♪

2015年09月13日 12時00分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ちょうど2週間前の30日が、6月から3ヶ月間の仕事の最終日でした。

2週間。。。。あの数々の体験から生じた氣づきを言葉にするのに ちょうど頃合の距離感になったみたいです(^^)




今回の大きな収穫のひとつは、「自分の世界は自分の意識が創っている」 ということが、“確信” からさらに進んで “あからさまな事実” となったこと。

「信じる」 とわざわざ言葉にしなければならないうちは、「・・・でも、まだちょっと・・・なぁ」 というのが どうしても後に付いて回り、100%信じ切れてるとはいえない状態なんですね。

「信」 という語を使うのもおかしく思われるほど 当たり前の事実となってしまえば、そこから先の選択は、常にこの事実をもとに行われることになります。

この3ヶ月の体験を通して、「世界は自分が創ってる」 は それほどしっかり内に浸透し 消化吸収されて 私の一部となった、と。




昨年の白浜でも、「え!?」 と思うようなことが起きたあと、それを鏡として自身の想念を振り返れば、「うわ~、あったよ」 ということが度重なり、確信が深まってはいました。

でも、そこにはまだ 外から内への置き換えという意図的な作業が必要で、外と内の分離感が残るのはどうしようもありませんでした。

どうしても、自分とは別に 「外の世界」 だの 「他者」 だのが存在するという見方に戻ってしまう。

コントロールの効かない ・ 意のままにならない力に翻弄される、という怖れに駆られて、ついつい守りの姿勢になってしまう。

創造者の立ち居地にい続けることができなかったんですね、あの頃は。




が 今回、さらに数を重ねて その意図的な作業が 「習い性」 となり、意識せずともすっと出てくるようになるに従って、外を内とみなすまでの時間がどんどん短くなり、意に染まないことが起こったり言われたりして ムカッときた次の瞬間、「誰に (何に) 怒ってるの~?これ全部私じゃない」 と思い返す繰り返しとなり、終盤には この視点がどうにか根付いたようなのです。

最後の2日ほどは、仕事場に行く = 自分の内的世界に踏み込んでゆく というように ふと思えたりして。




それと並行して、身のまわりで展開する光景が 自身の 「過去の」 観念の表れとして意識されるようになり、「この世界観はもう古い。今の自分の身の丈には合わない。これは脱ぎ捨てて置いていく古い殻だ」 という脱皮イメージがありありと浮かぶようになりました。




8月下旬、上の方から勤務期間延長の打診があり、懐事情から言えばお受けしたほうがよかったのですが、ここまで 「古い殻」 と明らかになった世界をこのまままとい続けるのはどうにも不自然に思えて、その場でお断りのお返事をしました。

「世界は自分が創ってる」 が事実となったからこそなされた決断。

「信」 の字が入ったままの認識だったら、先がまったく見えない状況でのこの決断は、怖くてとてもできなかったでしょう。




そして8月31日、借りていた品々をお返しし、お世話になった方々に挨拶をし、寮を引き払って帰宅、めでたく脱皮完了♪

以来、以前の 「石橋を叩いて叩いてなお なかなか渡る決心のつかない私」 だったらあり得ないような選択と決断の連続の日々。

「内なる羅針盤に従う」 から 「内なる羅針盤にのみ従う」 にグレードアップされた、そんな感じです (*^▽^*)




怖くないかといえば、もちろん古い思考回路も健在ですから、ドキン、ヒヤリ、ゾクゾクすることもたびたび、「なんちゅーことしてるの、アンター」 という叫びも しょっちゅう割り込んできます(笑)

と同時に、先が見えないってステキだなぁ、とワクワクしている私もいて、そりゃあそうですよね、先が決まっていないということは、好きなように創れるということなのだから

その双方を意識しつつ、前者はすかさず感覚フォーカスで受け止めて癒し、後者にのみつき従う私になった、と☆




前のブログで 「人生の新しい扉が押し開かれた」 と書いたのは、こういう変化があってのこと。

人間、変われるものなんですね♪



















9月の水遊び♪

2015年09月02日 16時08分20秒 | 紡ぐ暮らし


30日に仕事を終え、31日に寮を引き払ってもどってきました(^^)

私のホーム、私のフィールド、ほんとうの私でいられる場所♪




30、31日は 予報では断続的に雨模様の一日のはずが、思ったより曇りの時間が長く、薄日がさすことすらあって、荷物の運び出しはスムーズにいくわ、お名残りの夕日は眺められるわ、お湯に映るうっすら金色の日ざしを愛でながら 露天風呂を楽しめるわと、いいことづくめ

家に着いて 最後の荷物を降ろし終わって少ししたら、ざーっと降ってきました・・・って 出来過ぎです




今回の仕事で 疲れが溜まったり 不調をきたしたりということはありませんでしたが、睡眠時間をやたら必要とした日々でした。

晩は最低6時間、さらに昼休みに60~90分のお昼寝が必須の毎日。

疲れを残さず深く眠れるよう、私には珍しく 連日冷房漬けの日々でもありました。

クーラーに慣れないものだから、温度調節に四苦八苦(^^ゞ




例年になく涼しい環境で過ごしたおかげで この夏を満喫した感が低いのかとも思うのだけれど、それだけでもないような。。。。

まず なんといっても空の色。

屋外は 日ざしが濃く 十分暑い日も多かったのに、なぜかあの紺に近いような 力強い夏空ではなく、どちらかというと 秋を思わせるような色合いばかり見かけた氣がします。

それに雲も あの縁がくっきりしたもくもくの入道雲は少なくて、出ていても 秋空のような うろこ雲や羽根雲が並んでいたり。

もうひとつ氣になったのは、セミの声が少なかったこと。

最初は氣のせいかなと思っていましたが、あるときお客さんに 「(夕刻なのに) ひぐらしの声が聞こえないね」 と言われて、ああやっぱり? と。

まあ、やたらダブルで台風が訪れて 雨の日が多かったりもしたから 仕方ないのかなという氣もしますが、お盆の大忙しが納まって 一息ついてあたりを見回したら、暑さの中にも すでに秋の氣配が入り混じっていて、なんだか不完全燃焼な氣分 (ーдー;)




そんな7 ・ 8月も終わり、きょうは久々に朝から晴れ、洗濯と同時進行で 盛大に水を使って お風呂場の掃除。

しばらく使っていなかったわが家のお風呂、きちんと窓や戸を閉めていても なぜか土ぼこりや木の葉が入り込む 不思議構造(笑)

なので、ひらめきで 今ひとつ味わいきれなかった夏のお名残にと、Gパンの裾が濡れるのも構わず そこら中に水をかけまくって ごしごしこすって、半ば水遊びのような風呂掃除を敢行。

いや~、足元冷たいわ、すっきりきれいになって氣持ちいいわ、なんとも楽しかったです

びしょびしょだった風呂場も 洗濯物も あっという間にからっからに乾いて、これぞ夏の喜び \(^o^)/

汗もしっかりかいたし、ちょっとわが夏を取り戻した氣分かな




晩は、この3ヶ月の日記を読み返す予定。

間を置いて 少し離れた視点から 何が見えてくるのか、お楽しみ♪

この夏、私の人生の新しい扉を押し開いたのは 間違いなさそうです (*^^*)