毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

クリスマス精神のその先に

2018年12月06日 16時10分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日 「ああ もう12月か、クリスマスシーズンだな」 と思ったとき ふと脳裏をよぎったのが、バンド ・ エイドの 「Do They Know It’s Christmas?」 。

バンド ・ エイドはご存知の通り 1984年に起こったエチオピアの飢餓をきっかけに イギリスとアイルランドのロック&ポップス界の大物アーティストたちが一堂に会して立ち上げたチャリティープロジェクトで、そこから生まれて世界に広がった曲が 「Do They Know It’s Christmas?」 。

翌年にはアメリカでもUSAフォー ・ アフリカが結成され 「We Are The World」 がリリースされるなど、彼らの一連の動きから 世界中の人々のチャリティー精神に火をつける流れが巻き起こったのです。

私たちの心には 善と悪が背中合わせに内包されていて、同胞の惨状や苦しみを目の当たりにすると 善の側のスイッチが入るようにできているのかもしれません。

苦しんでいる人、困っている人に手を差し伸べずにいられないという思いは、つくづく尊いものだと思います。

スーパースターの団結、災害に見舞われた人々に世界中から贈られる暖かいメッセージや義捐金、ボランティア活動の輪、そういうものに触れるたび こちらの胸にも熱いものがこみ上げ、「私にもできることは?」 とすぐさま動き出したい氣持ちに駆られます。

。。。。と以前なら 「まだまだ人間捨てたものじゃないな」 というところでめでたくおしまいだったのですが。




あの錆びついていたメビウスの輪がぎくしゃく廻り出す少し前から、めでたしめでたしで完結したはずのところに かすかな澱のようなものが残っているのが見えてきたのです。

なにかこう割り切れない思いというか。

それを追求していって出会ったのは、「ここでおしまいじゃない」 というメッセージでした。




先にも書いたように、困っている人に手を差し伸べたくなる氣持ちは 尊く美しいもの。

ただ、そういう場面では必ず 「強者と弱者」 という分離が起こっているのもまた事実なのです。

強者の立場から弱者を助けるのは喜びですが、弱者の側からすれば果たしてどうなのでしょう。

助けた側と同じぐらいの喜びを 助けられた側もつねに得られるのか、ごく自然に暖かい感謝の思いが湧くものなのか。




弱者が生まれるにもいろいろあります。

自然災害は誰のせいでもないけれど、それは突発事故に見舞われるようなもの、次はいつ誰がその立場に立たされるか誰にもわかりません。

体の一部が損なわれれば 自己治癒力が働きますが、それは総体を健やかに保つために当然の機能というだけのこと、善意や憐れみとは無縁です。

突発的災害の被災者 (人間以外も含め) が救済されるのは、それと同じように 地球という総体の健康のために当然のことといえるのではないでしょうか。

さらに 人為的に生み出される弱者というものもあります。

戦争紛争や富の偏在、また自然災害などの救済が十分でなく立ち直れないまま来てしまったなど 理由はさまざまでしょうが、自分たちが生み出してしまった弱者を氣の毒がり手を差し伸べることを無償の善意と呼ぶのはどうなのでしょう。

本来天が与えたあらゆる恵みは 平等にすべての人のもののはず、その偏りを放置し 人々が強者と弱者に分かれるのを止めようとせずにきてしまった責任は 強者の側にこそ課せられるものなのではないでしょうか。

あのかすかな澱は、そんなメッセージを伝えようとしていたように思います。




困っている人、辛い思いをしている人を見かけたとき 私たちの胸に燃え上がる炎は 決して偽善や思い過ごしではない、それはコントラストの世界に生きる私たちの心に呼び覚まされた神性なのだと思います。

それはまさにクリスマス精神にふさわしいもの、だからこそ単に弱者に与えるところに留まらず、強者と弱者という分離すら無くすところまで押し進めていくのがほんとうなのではないかという氣がします。

具体的にどうすればいいかは 貴秋にもまだわかりませんが、澱が伝えるメッセージから受ける痛みや後ろめたさを感じ続けるところから きっと何かが生まれると信じています。


















メビウスの輪が廻り出した日

2018年12月01日 07時24分45秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先月19日の午後、前回のブログをアップして数時間後のこと、ずっと温め続けてきた 「私 = 意識」 が すぅっと腑に落ちました。

もうほとんど確信されながらも まだいささかの溝があった、それがふっと消えて、「私 = 意識」 は揺るぎない事実となったのです。




創造者の自分と体験者の自分は メビウスの輪の関係にあるようだとずっと思っていました。

表に裏におのずと入れ替わりながら廻り続ける輪。

が これまでは、体験者の自分にはいつのまにか入り込んでいるのですが、そこから創造者の視点へ移るには 意図してぐいっと引き戻すようにしないとならず、それを忘れるとマインドだけが空回ってネガティブな物語がどんどんふくらんでゆくので 氣が抜けませんでした。

それが、「私 = 意識」 が腑に落ちたことで 体験者から創造者へも自然と戻れるようになったようで、ついにメビウスの輪が ぎごちないながらも自力で廻り始めたのです。




体験者の私は これまでとまったく同じです。

からだと一体化し、体験し、そこから喜怒哀楽さまざまな感情が生まれ、それが言葉と結びつき 人生の物語となって、吟味され判断され分類され記憶されます。

創造者の私は、からだの機能を借り からだを通してその体験や感情や物語を見ています。

それは ただ映るものが映るがままに見ているだけで、吟味や判断や分類は起こりません。




あれからすでに二週間近くになりますが、普段の意識が少し変わってきたようです。

なにかを決めつける ・ 否定する ・ 嫌うといった氣持ちが薄れ、相対する二極といっても 結局は表現が違うだけで同じものなんだと感じるようになりました。

寒暖であれ高低であれ軽重であれ、一見真逆のように見えて 実は同じものの程度の差でしかない、理屈ではうなずけていたこのことが理屈を超え 頭だけでなく全身で受け入れられるようになったのです。




創造者の視点から見れば、いい体験も悪い体験もない。

どんな体験も それが起こったことに意味があり、避けずに受け止めれば その用はおしまいです。

どんな性質の体験であれ、それを通り過ぎた自分は それ以前とは違う自分になっている、それがその体験が起きた意味なんですね。

私たちの苦しみは 体験そのものからもたらされるのではなく、それをマインドでいい悪いと分類して 悪いものを避けよう否定しようとするところから生まれるようです。




体験者視点に留まることが多かった頃は、これが素直に受け入れられませんでした。

「同じものの程度の差でしかない」 、たしかにそうだとは思うけれど、だからといっていまこの瞬間苦しい ・ 辛いと感じているのが消えるわけじゃない、それとも無理にでもそう思えというのか。。。。そんなマインドの反発をどうすればいいのか 長いことわからずにいました。




いまにして思えば、「同じものの程度の差」 というのは 創造者目線での話であって、体験者にそう思えということではなかったのですね。

コントラスト世界に身を置く体験者には いいも悪いもあって当たり前、いやなものはいやと思って当然なのです。

ただ、そのいやなものを避けずにちゃんと体験し味わうことがぜひとも必要だったのです。

きちんと体験し尽くして終らせると 再び創造者の視点に戻りますが、創造者視点とは ギアのニュートラルみたいなものなんですね。

体験者の視点ではネガティブなほうに大きく傾いていたものが 創造者視点でいったん中立に戻される、そうなって初めて そこから再度体験者に戻ったとき 自由に選び直せるようになる、ということだったのです。

このニュートラル地点を通過すると 苦痛の感覚は洗い落とされ、まっさらな立ち位置から 「さて次はどうするか」 という開放的な氣分で再スタートできます。

ここですでに 直感的にどちらへ行けばいいかわかっていることも多いようです。




これまで創ってきた世界が氣に入らないなら、何度でももっといいものに選び直せる。。。。人生の自由な創造は、このメビウスの輪が廻り出すことで可能になるようです。