毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ゆ~らゆら♪

2013年02月28日 08時55分00秒 | ふと思うこと


かれこれ10年近く前、車で出かけようとして 動けなくなったことがあります。

いえ、車の故障とか 体調不良とか そういうことじゃなくて。


新天地を探そうと思ったんです。

住むところも仕事もすっぱりリニューアルしようと。

そのための旅、だから行き先はまったくの自由、氣の向くまま風の向くまま、360度どの方向でもアリ~!\(^o^)/

・・・とここまではよかったんだけど、いざエンジンかけようとして氣づいたんですね。

「360度」はあくまでも可能性の話であって、実際にはどれかひとつの方向を 仮決めででも選ばないとスタートできないということに


キーに手をかけたまま10分近く固まって「どーしよー」。。。アホですね(笑)


このとき思い知りました。

形のないところから 形をもって分け出された人間、どれほど「自由」「なんでもお好み次第」といっても すべての可能性を実現できるわけではない。

形のない可能性の中から 選び出して形にしないとならない。

しかも常にひとつずつしか選べなくて、その意味では選択肢が二つだろうと千あろうと同じなんだっていうことを。



じゃあ、「自由」って何が自由なのよっていうと。

瞬間瞬間、ニュートラルな状態、まっさら・新鮮な氣持ちで、そのとき一番選びたいものを選べることなんじゃないかなって思います。



悪口を言われたらカッとなる。

失敗しやしないかとビクビクする。

自分より凄い人を見ると落ち込む。

うまくいったら評価を期待する。


長年まったく氣づいてなかったけど、どれもこれも 自由な選択ではなく、毎度決まりきった反応なんですね。

知らないうちに 固定化された観念や価値観が入り込んでいて、それをもとに 数ある選択肢の中から いつも決まってひとつの反応しか選べないようにインプットされちゃってた。

その「ひとつ」が一番氣に入るものならいいけど、毎度毎度いやな氣持ちにさせられるものでも 当然のことと思い込んで、自分のほんとうの氣持ちを確かめるという発想すらなかったから、変えようがなかった。

そんないやな氣持ちが溜まりに溜まって、うれしくないことが続発して、このままじゃマズイ、と心が悲鳴を上げることで、初めて自分を見つめて、ワンパターンの反応ばかりで生きてたことに氣づく、と。



「人間万事塞翁が馬」っていうお話がありますよね。

いいと思っていたことがよくないことを誘い出し、よくないと思っていたことからいいことへ導かれる、その繰り返し。

「禍福はあざなえる縄の如し」なんて言葉もあるけれど、ほんとそういうものなんだなって思います。

前にも書いたと思うけど、ある植物が増えることが 別の植物に最適の環境を作ることになる。

そんな感じで、人の置かれる状況も、どんどん変っていく。

いいことをどんなに握り締めていたくても叶わないし、悪いことだって必ず終わりがやってくる。

とにもかくにも そういうものなんだ、っていうことですね。


そんなふうに見えてくると、決まった物差しを振り回して いちいち「これはいい」「これは悪い」って仕分けて一喜一憂するのが、徒労っていうのか なんだか疲れるばっかりで意味ないように思えちゃって

それよりも もっといつでもいい氣分でいるためにどうすればいいかな?って考えたら、そのときそのときで 一番氣に入るもの、楽しそうなものばっかり選べばいい、って答えが♪

実は、仕分けしてるときって、氣分いいかどうかじゃなくて 損か得かで選んでることがほとんどなんですね。

そして、損得を考えるときは、自分の感じじゃなくて、外からの目、他人の目を基準にしている。。。いい評価がもらえるかどうか、って。

外からの視点が必要ないとは思わないけど、幸せになれる選択という点でいえば、今の自分に必要なのは、いつも自分本位で 自分の中から感じて決めるようにすること、そして決まりきったひとつの物差しを使い続けないことだな、と氣がつきました。

もうね、一匹の動物になったつもりで、そのときそのときに自分がしたいこと、したほうがいいと思えることだけしよう、って。

極端だけど、他人の目を借りて決まりきった反応ばかりでしんどく生きてきた身には いいリハビリになるような氣がして♪



荘子の「胡蝶の夢」っていうお話。

蝶になっている夢を見て、目覚めると人間に戻っている。

はて、これは 人間の自分が蝶になってる夢から覚めたのか、それとも蝶の自分が人間になった夢を見ているのか。

ここで荘子は、どっちかに決めないんですね。

どっちでもいいじゃない、と。

そもそも自分が「蝶だ」というのも「人だ」というのも、頭が貼ったレッテル、見せかけでしかない。

自分は自分、蝶なら蝶で、人なら人で、その時々に応じて楽しく生きればいいのよ、と。



このところ、この話をよく思い出します。

そして、荘子が蝶と人とをゆらゆら自由に行き来したように、自分の線引きもすっかり薄くなって、(元)境界線の近くを行ったり来たり、ゆらゆら漂ってるような氣がします。

いいも悪いもない、選びたいものを選んで楽しくしていればいいのよ♪

他人を正誤・善悪で判断することもいらない、その人の道を尊重して、どう関るか(関らないか)は その都度自分がいいように決めればいいのよ♪

五感の世界、五感を超えた世界、どっちもありよ、片方に捉われず 決めつけず、一番しっくりくる視点を選べばいいのよ♪


ああ~、ラクだなぁ♪

ゆ~らゆら♪



















雨の晩は

2013年02月26日 19時40分35秒 | 紡ぐ暮らし


昼頃から曇ってきたなぁと思っていたら、予報どおり 夕方から雨

お出かけの予定のない晩でよかった♪



図書館で、松浦弥太郎さんの「暮しの手帖日記」と角田光代さんの「水曜日の神さま」を借りました。

ここしばらく、買うといえば 大好きな雑誌ku:nelか 五感を超えた世界の手引きとなるような本、借りるといえば 読み聞かせ用の絵本か編み物の本ばかり。。。だったのが、望むものが少し変ってきたみたい。

音楽も、普段なら和洋POPSでもアニソンでもボーカロイド系でもなんでもござれなんだけど、このところなぜかクラシック一辺倒。
それも、これまで聞いたことのなかった曲を 片っ端から。

あと、今まであまり心惹かれることのなかった絵にも 関心が向いてきて。



この世界には、まだまだ美しいものがどっさりあるんだなぁ。

自分の狭い枠を超えて、もっともっと未知の素敵な世界にいっぱい触れてみたい。

そんな欲求が高まりつつあります。

豊かな心の世界を広げてみたくなったのかもしれません(^^)



今夜は、雨音を聞きながら読書、にしましょう♪

昼間作っておいた味噌蒸しパンをお供にね♪










茨の道、はたまたゲーム?

2013年02月26日 10時06分06秒 | ふと思うこと


三次元の世界(五感の情報から成り立つ世界)がすべてだと思っていると、目の前で起こっていることの解釈もひとつしかないように見えます。

でも、少し引いた客観的な視点から 魂として(分け出された神として)の目的や意図を眺めると、まったく別の見方も成り立ちます。

三次元では行く手を遮る壁にしか見えない出来事も、魂からすれば、そもそも本来の自分を体験するために あらかじめ自ら用意しておいたハードル。

邪魔するためではなく、乗り越えて力をつけ 本来の自分へと還っていく、そのプロセスを味わうために、生まれる前にわざわざ仕込んでおいた仕掛けなんですね。

こう思えると、すべてが違ってくる。



生きている中で 「理不尽」を感じることって 多々あると思います。

たとえば、恵まれた環境にあることへの感謝が足りないと、いやおうなしにそれを思い知らせるような出来事が起こる、とか。

そういう流れというか 力学みたいなものは確かにあると思います。

現に私自身体験したことだし。

でも、これって考えたらかなり理不尽なことだと思うんですよね。

だって、生まれたときから当たり前のように恵まれていたら、それを当然の環境と思い込むのは自然なこと。

息ができる、心臓が動いている、そんな最初から当たり前に起こっていることに 日々刻々感謝し続けられる人がどれほどいるでしょうか。

それを、恩知らずが罰を受けるみたいな目にあうのって、当人からすれば理不尽なことだと思うんですよね。

何を悪いことしたわけでもなし、ただ当たり前にあるものを 当たり前に受け止めていただけなのに。


また、生まれたときから家族の愛に恵まれなかったとか 身体が不自由だとかいう場合ならなおのこと、大きな理不尽を感じても不思議ありません。



でも。

魂の観点からしたら、こういうハンデは ゲームを楽しむための設定。

誕生の「誕」には「いつわり」という意味があるんだそうです。

全知全能の完璧な存在が、わざわざ不完全な人間といういつわりの姿に身を変えてこの世に下りてきた。

自身の完璧さ、素晴らしさを 不自由を通して楽しむために。

囲碁や将棋のような室内ゲームでも、野球やサッカーのようなアウトドアスポーツでも、必ず固有のルール(制約)があり、参加者はその制約に従ってゲームを楽しむわけです。

ならば、それぞれが背負わされている理不尽な人生のハンデも、この世のゲームを楽しむために あらかじめ設けておいたルールだと思ってみたら?



理不尽を押し付けられたと思えば、どうしても被害者の立場になります。

生来のハンデに 自分は苦労を強いられ、どうしようもないと。

でも、ゲームの制約なら 向かう姿勢がまるで違ってくる。

制約の範囲で いかにうまく攻略するか智恵を巡らせ、時には手に汗握って 夢中でゲームを楽しむ。

被害者ではなく、挑戦者として。

障害物の前に なす術もなく立ち尽くすのではなく、最初からその向こうを見据え 突破する氣満々で。



ゲームだの遊戯だのって表現は軽すぎると感じる方もおられるかもしれませんね。

でも、少なくとも 自分は理不尽に虐げられているのではなく、進んでこの世ゲームに参加したチャレンジャーだ、って見方を変えるだけで、ずいぶん多くのことが違ってくると思うんです。

ダメだと思う間は見えてこないものも、クリアしてやるぞと身を乗り出せば見えてくる。

見ようという意志があって初めて、焦点も合わさるし、パズルの破片も集まってくる。




今この世界で起こっている諸々のことも、強大な力にいいようにあしらわれ搾取される悔しさや無力感を覚えることもできるし、ハンデが大きいほど稼げる得点も高いのだぁ!と意欲満々で臨むこともできる。

ピンチはチャンス、ピンチが大きいほどチャンスも大きい♪

どういう立ち場を選ぶかは それぞれお好みで、ということのようですね(^^)



ん?私?

被害者ドップリからスタートしてウン十年、今は意気揚々たるチャレンジャー、こっちの方がダンゼン楽しいです、ハイ




















見えてくる

2013年02月25日 16時16分22秒 | ふと思うこと
現在使用のこのテンプレート。。。画面が動くのが面白いし、コーヒーもドーナツも大好きな私にはたまらないデザインなんですが、ちょっと不思議なことが。

テンプレート選択画面の見本では、コーヒーが注がれるところまではいっしょなんだけど、ドーナツは一皿でひとつしか乗ってないんだよね。

それが、テンプレート変更初日には 4個盛りのが二皿、そしてきのうときょうは 一皿に。

まあ そういう設定になってるんだろうけど、なんか妙な氣分だなぁ。。。毎日ドーナツの数が氣になっちゃって(^_^;)




絵を見るとき、鼻をくっつけんばかりに近寄っても なんにも見えない。

絵全体がゆったり視野に収まるぐらい下がって初めてよく見える。

生きていく中で起こるさまざまな出来事も同じだなって思います。

その真っ最中は、とにかく目の前のことをけんめいにこなすだけ。

過ぎた直後は、一息ついてちょっと冷静になれるけど、まだよくわからない。

しばらく経って、ぐっと引いたところから それまでの人生全体を見渡して、初めてそこでそれが起こった意味が見えてくる。

さらに時間が経って、今度は他の出来事とのつながりで、もっと大きな意味や意図が見えてくる。



この、パズルの断片と断片がかちりと組み合わさって さらに大きな絵が見えたときのうれしさったらないんですね♪

パズルを始めた当初、「なんじゃこりゃ、このシマシマは?」とか「この緑色ってなに~?」とかってよくわからなかったものが、ああ、この柄のここのところだったのね!って氣づくときと同じ あの高揚感♪

それまでぼやぼやにぼやけて 何がなんだかわからなかった景色が、ふいにかちりと焦点が合わさって くっきり鮮明に見えたときの驚きや喜びにも通じるものがあって。



何度も何度もそんな喜びを味わううちに、少しずつわかってきた氣がします。

「今すぐわからなくてもいい」と。

生きていれば、「なんでこんな目に~!?」と言いたくなるような事も多々起こるけれど、どうあがいても すぐには意味がわからないことがほとんど。

でも、パズルの快感が度重なると、信頼できるようになるんですね、「そのうちきっとわかる」って。

しかもそれは確実に、そのときの自分にとって 大切な意味のあること。

「起こること全てに意味がある」だもんね☆

そうなると、もみくちゃの真っ最中でも「これもきっと後になって『起こってよかったぁ♪』って思えるに違いない」と信じられるから、受け止め方や踏ん張りが違ってくる。

自分を、天を、人生を信じるって そういうことなんでしょうね



さらに。

「今見えるものがすべてじゃない」っていうこともわかってきます。

「こんなこと氣づいた自分ってすご~い」といい氣になっていたのが、後でもっと大きな一片に組み合わさった絵を見せられて、「え?これって実はこんな柄?じゃあ前ってこれだけしか見えてなかったの!?」と赤面するようなことも たびたびでしたから

今見えたものは見えたもので大切だけど、それは結論ではなくて次への手がかり。

まだまだ先があるんだよ、もっともっといろいろなものが見えてくるよ、と戒め、かつ先をいっそう楽しみに、長い目で見ながら一歩一歩進んでいく、その落ち着いた心持ちもいいものだなって思います(^^)

それだけ大人になれたっていうことかな?



今見える世界がどんなに希望がないように見えたって、それは「今」という一点から見た一瞬の絵、パズルのほんのひとかけらに過ぎない。

不安があって 安らぎがわかる。

争いがあって 平和がわかる。

悲しみがあって 喜びがわかる。

今見えるものをすべてと思い込まないで、その先にもっと違う光景が見える日を信じて、まだまだ続く人生を明るく歩んでいける、そんな氣がしています。












小豆湯

2013年02月24日 16時08分05秒 | 日々の楽しみ
その昔、父が生まれ育った新潟市の喫茶店に 「小豆湯」なるメニューがあったそうです。

特定の店だけでなく あちこちで出されていたようなので、当時の新潟市内ではスタンダードメニューだったのかも。

あんこをおぜんさいより更に薄くのばした飲み物なんだそうで、さっそく試しに作ってみましたが、どうも私の想像よりずっと薄いものらしい。

砂糖と塩で味を調えつつ 自分的に妥協できるギリギリまで湯を足してみましたが、父に味見してもらうと「小豆の粒はこんなに入ってなかったな」。

いや、仮にもお金もらう商品だったんだよね。。。いくらだったのかは知らないけれど、お客様に出すのに この薄さはちょっと。。。(^◇^;)


まあ、私流に少し濃い目にアレンジして、あれ以来わが家でもあんこがあるときちょいちょい作っています。

隠し味の塩をうまく効かせることでコクが出て、さいごに器の底に残ったころころの甘い小豆をスプーンですくって食べるのがまた楽しい♪

小豆粒入り和風あっさりココアといった感じでしょうか、けっこう氣に入ってます♪

今も小豆湯入りマグカップをかたわらに ほくほく顔の貴秋です












やってくるのは天使だけ(^^)

2013年02月23日 18時09分16秒 | ふと思うこと
きのうの「必要だから起こってる」の話。

そのおおもとには、「人は わざわざ不完全な自分を通して本来の自分を体験するために この世にやってきた」という私なりの世界観があります。

私なりの、と言ってもオリジナルではなく、いろいろな人がすでに言ったり書いたりしているものをなんとなく氣に入って、「うんうん、こういうのありだよね、きっとこんなだよね、採用~♪」と 自分の世界観として消化吸収させていただいたものですが。

そもそも あるのは「大いなるひとつ(=神、宇宙、ワンネス)」、それだけだった。

「大いなるひとつ」は自分が完璧であることを知っていたが、ただ知るだけでなく 体験し 味わいたかった。

で、ひとつである自分をいくつにも分けて、自分と同じ力を持ち、しかしそのことを忘れた不完全な存在として、この世に送った。

不完全を知らなければ、完全がどういうものかもわからないから。

それが私たち人間。

つまり私たちみんな、神であることを忘れた神の一部、というわけ。


初めてこれを聞いたとき、なんかぴんときたんだよね。。。絵空事という感じじゃなくて。

そして、あちこちで同じような話を見聞きするうちに、どんどん深く入り込んできて、今ではすっかり“私にとっての事実”になった、と。



この世界観と「必要だから起こってる」が結びついたとき、さらにもう一段 すとーんと腑に落ちたことがあったんですね。



完全とはどういうことかを実感するために、不完全を体験したかった。

愛とはどういうことかを実感するために、争いを体験したかった。

安らぎとはどういうことかを実感するために、不安を体験したかった。

豊かさとはどういうことかを実感するために、貧しさを体験したかった。


これまで「拒みはしないけど あまりうれしくもないもの」という扱いだったネガな出来事全部、実は わざわざ不完全な存在になってまで ぜひとも体験したいものばかりだったんだ、と。


ついつい及び腰で、「うれしくないなぁ、これ早く終わらせてその先へ行きたいなぁ」って焦ってたから、その大切さがよくわからなかったけど。

本来の自分を思い出し ありありと実感するために、むしろ進んで味わう必要のあることだったんだね。

そのために用意されてたんだね。


言い換えれば、そういうネガな体験をひとつひとつ消化していくことで、わざわざそれた道を修正して、本来の自分に還っていく、それが「生きる」ということなんだね。




“わたしがあなたのもとへ送るのは天使だけ。それ以外はない。” 

                   ~ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話」より~


はい、ほんとそのとおりでした。

すっかり忘れてましたけど、すべて 私が望んだから来てくれたんでした。

敵でも、降って湧いた災難でもありませんでした。

天は 私をいじめたりからかったりなんて 一度もしなかった。。。ぜんぶ私の被害妄想でした。

さっぱりわかってなかった私を見放すこともなく、根氣よく何度でもチャンスを与えて愛してくれました。



すなおにそう信じられるようになって、何が来ようとジタバタ抵抗しなくなった(今でも「うわ」ぐらいは思うけどね)分、感情のアップダウンもぐっと穏やかになったというわけ。

どんなことであれ、辛い思いをするためではなく、辛さを通して その対極にある喜びにたどり着くために起きてるんだって、ためらいなく思えるようになったから♪




こういう話って、正しいの正しくないのって議論しても始まらないし、何が証明できるわけでもないし、信じるか信じないか 自分の氣持ちひとつなんだけど。

いま これだけは言えるかな。

私たちは、本来の自分を体験したくて 神であることを忘れてこの世にやってきた神。

これが自分の観念になって以来、心が落ち着いて、一見不条理と思えることもすんなり受け止められるようになって、何よりも 今生きていることがとてもうれしく思えるようになったよ、って♪


だって・・・人生から「ノーサンキュー」が消えちゃったんだものね(*^ー^*)


















今いるところが最高の場所♪

2013年02月22日 11時56分05秒 | ふと思うこと
前回のブログ、去年のクリスマスだったのね・・・って、年変わって もうバレンタインも過ぎてるし~

gooさんの方針で、60日以上更新のないブログは 広告主体のテンプレートに自動的にデザイン変更されちゃう旨のお知らせが来まして。

ちょっと背中押してもらったかもね♪



新年のご挨拶もないままきてしまいましたが、おかげさまで元氣にしております。

外側はさして変りもない穏やかな日々、内側は。。。新たに見えてきたもの多いかもね



起こることすべてに意味がある。

ここにも何回も書いたと思うし、日常でも数知れず繰り返してきた言葉だけれど、ほんとうに内側に浸透したのは わりと最近のことかもしれません。

「すべて意味がある」と心底実感してたら、不安だの怒りだのに悩まされることは とっくに限りなくゼロに近くなっていたでしょうから(^◇^;)


またこんなのきちゃったよ~。。。うれしくないけど、これも意味あって起こってるんだよね。

逃げずに見つめなきゃ、早く立ち去ってくれるように。。。

実際には こんな氣持ちが正直なところだったような



「意味がある」 = 「必要があって起こってる」

必要なのだから、逃げるでも 避けるでも がんばって肯定的に捉えなおすでもなく、ただ手を差し出して受け取って まっすぐ向き合い味わえばいいんだ、と氣がつきました。

ことさら熱烈歓迎というのでもなく、ただ「いらっしゃい」とあたたかく招き入れて、ひとときを共に過ごせばいい。

調理のためのお鍋、寒いときのコート、必要な品が届いたとき誰もがするように、すんなりありがたく受け取って役立てる、それだけのことなのだと。


それがすとんと腑に落ちたとき、続いて「今いるところが 最高の場所」という言葉もすとんと腑に落ちました。

頭では必要とわかっていても やっぱりうれしくなくて、顔をしかめていやいや手を差し出していたときには ぴんとこなかったことだけど。


うれしくないものがやって来たのなら、そのうれしくないものこそ 今の自分がもっとも必要としているもの。

だとすれば、今いるところは、それが好ましく見えようと見えまいと 常にもっとも必要なもので満ち満ちているのであり、自分はいつも もっとも必要なものが置かれている最良最善最高のところにいるのだと。

好き嫌いで選り好みしちゃうクセがなかなか抜けなかったために そう見えなかっただけなんだね。

好みに関係なく、いつも一番必要なものが用意されている最高の場所にいるんだね。

それを素直に受け取って体験することが、せっかく生まれたこの人生を 最高に楽しみ味わいつくすことなんだね。



そう氣がついて以来、“氣分のジェットコースター”のスピードもアップダウンもゆるやかになったみたいです。

心穏やかな時間が長くなった分、自己主張的な表現をする必要がなくなったのか、日記にもブログにもほとんど意識が向かなくなってしまいました(^^ゞ

たぶん、今回「広告テンプレートはやっぱりやだな」って思わなければ、このまま当分更新せずじまいだったことでしょう。



ってことは。。。うん、これも意味あって起こってるのね☆