毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

花に囲まれて

2013年04月27日 12時57分30秒 | 紡ぐ暮らし

奈良滞在3日目。

「母の旅立ちから1年」を覚えていて下さった方々から たくさんのお花を戴いて、家中に 甘い香りが漂っています(^^)

みなさまの優しいお心遣いに 家の空氣も清められるよう。

濃淡色とりどりの花に囲まれて、写真の母もなんだかうれしそうだなぁ♪

庭にも 淡い藤色がかった白の杜若が咲き、お隣の町営住宅では 満開のハナミズキが風に揺れています。

そうそう、去年の今ごろも このハナミズキに目を奪われたんだったね

日陰はまだ風がちょっと冷たいけれど、GWの日ざしは やっぱり濃くてあたたかです♪




朝から明日の集まりのための食料品を買いに行き、戻ってすぐ 客用寝具を干して、これから昼食の準備と 食材の下ごしらえ。

お天氣のせいもあってか、実にいい氣分で からだがすっすっと動きます

明日の夕飯のメインは、ちょうど去年のこの日に作り損ねた散らし寿司。

あと、筍に蕗、ソラマメ。。。わくわくと買い込んできた初夏の味、どう料理しようかな~












あったかぁ~い \(^o^)/

2013年04月25日 12時17分17秒 | ふと思うこと

きのう一日降り続いた雨の後、けさの空氣のすがすがしさ。

かなり水かさが増えて 勢いよく流れる川に、初夏を思わせる濃い日差しが反射して、いつにもまして きらきらとまぶしいこと

そして、吹きつける風も、けさはほんのりあったかぁ~い (^^)

ここしばらくの朝晩の寒さには かなり参っていたので、もううれしくて

やはり風に吹かれながら 日の光にちらちらまたたく若葉いっぱいの枝も、なんだか笑っているみたい♪

川のずっと先のほうのお宅で、鯉のぼりを立てているのが見えました。

そうそう、お隣小学校にも立ってたし、散歩の途中でも1、2度見かけたなぁ。。。もうじき5月なんだね♪





さぁて、もうちょっとしたら 奈良に向けて出発です。

冴え渡る青空の下、山の中をひた走るのは どんなにか氣持ちいいだろうなぁ♪

ドライブ楽しみ☆

行ってきま~す (⌒∇⌒)ノ
















少しずつ

2013年04月24日 22時56分48秒 | ふと思うこと

子どものころ、たしか弟の少年マンガで読んだと思うんですが、忍者が跳躍力を鍛える修行で、成長の早い麻などの植物を植えて 毎日その上を飛び越える訓練をするという話がありました。

目に見えるか見えないかぐらいのわずかな変化に対応し続けることで、無理なくじわじわと力が伸びてゆく、ということですね。

忍者が実際にその方法で 超人的な跳躍力を身につけられるのかどうかはともかくとして、それとわからないほど徐々にハードルを上げていくことで 実力を伸ばす、というのは とても理にかなったいい方法だな、と思ったのを覚えています。




自分の悲観的なものの考え方と、それがそっくり投影されたと思しき不安定な生き方をなんとか変えようと、けんめいに努力していたときのこと。

なによりも怖ろしかったのは、どんなに頑張っても 望む変化を起こせないんじゃないか、ということでした。

自分のネガティブな意識が それに見合った現実を引き起こし、それを嫌がったり 嘆いたり 避けようとしたりする氣持ちが ますます負の意識に拍車をかけ、さらなるネガを呼び込む。

だから、いい氣分でいなさい、いやなことを考えないようにしなさい、今ある恵みに目を向け 感謝しなさい、というのは 確かに正しいんだけれど、そうですか、では、と そこでほいっとネガをポジに引っくり返せれば、苦労はないわけで。

それこそ「三つ子の魂」のころから強化し続けてきたネガ思考回路、自分のものでありながら こうまでもままならないものか、と どれほど苦悶したかしれません。

そんな嘆きや苛立ちが、先行きを ますます悲観的に見せていく。

この悪循環、ブレイクスルーできるものなんだろうか。。。




で、結論から言うと、できちゃうんですね、ブレイクスルー

今の自分が なによりの証拠だもん、えへへ~

そして、きっと誰だってできるんだと思うのです。

じゃあ、どうやってネガの悪循環から脱け出せたのかっていうと。




振り返って いちばん大きかったのは、とにかくよくあろう、よくなろう、と心に決めること、意志を持つこと、だったと思うんです。

この世のものは、すべて変化します。

「変化しない唯一のものは、すべてが変化するという事実」というぐらいのもの。

だから、落ち着いて考えれば、変らずにいようとするほうが よっぽど不自然で無理があるんですね(^^ゞ

あとは方向付け、つまり どの方向に変るかを選ぶこと。

自分の意思を明らかにして、こうなる、こっちに行く、と きっぱり決める。

そこからすべてが始まったのだと思います。




そして、ことが動き出してから大事なのは、「少しずつでいい」ということ。

目標を はるか彼方の山の頂に定めたとして、そこに向かうには まず最初の一歩から。

あまりにもゴールばかり見つめていると、つい一足飛びに到達しようとして、かえって「ムリだぁ~」という挫折感のほうをクローズアップしてしまうことになる。

たしかに、今と違う自分になろうと思ったら、これまでと違う選択や行動を積み重ねることが必要だけど、いきなり180度真逆の方に行こうとしなくてもいいんですね。




かつて導き手となってくれた友人に、「大好きなこと、ワクワクできることを見つけるといいですよ」というアドバイスをもらったときのこと。

今考えても これはほんとうに大切なポイントであり、素晴らしいことを教えてもらったと思うんですが、それまで あまりにも人目や評価ばかり氣にし過ぎて、自分のほんとうの氣持ちを省みる回路がほとんど育っていなかった私、心の中をいくら探っても、好きなことひとつ見つけられない現状にがくぜんとし、ほとんど半泣きで 「好きなことがぜんぜん見つかりません」と連絡 (T_T)

そこで言われたのが、「最初は小さなことからでいいんですよ」ということでした。

いきなり人生を変えるような大物を狙わなくても、ほんのちょっと氣持ちが明るくなるようなこと、心の針が 楽しいほうにぴくんと振れるようなこと、ささやかな楽しみから始めればいいのだと。

このアドバイスに従って、日常の小さな楽しみを ひとつ、ふたつ、と見つけられるようになったところから、今思えば すべてが始まったのです。

まさに、忍者の修行のごとし☆




バーをいきなり1m上げたりしたら「こんなもん跳べるかぁぁ~」ってなっちゃうけど、1cm、いや、5mmずつでもいい、毎日ほんのちょっとずつ、ちょっとずつ高くしていけば、氣がついたら1m高く跳べるようになっていた、っていう日が、いつか必ずやってくる。

もちろん、心の変化は 自分の思いひとつなのだから、大きな変化をあきらめる必要はないし、大ジャンプが見事決まれば それはそれで素晴らしいことなのだけれど♪

ただ、変らなければと焦る氣持ちが かえって足を引っ張り、うまくやれない自分を責めさいなむぐらいなら、少しずつでいいんだよ、必ず望み通りの自分になれるよ、って声をかけて 楽にしてあげればいいんじゃないかな(^^)




急ぎたければ急いだって構わないけれど、急がねばならないわけではないのです。

私たちは、結果を出すためではなく、プロセスを体験するために この世に生まれてきたんだもの♪

現状が辛ければ、早くなんとかしたいと願う氣持ちも よくわかります。

私も実際そんなふうだったものね。

でも、変ると決めて 一歩動けば、一歩分荷が軽くなる、というのもまた事実。

一歩ごとに楽になってゆく自分をしっかり感じて、希望を持って じっくり着実に進んでいく、というのも悪くない。

目の前の一歩だけに集中して歩き続けて、ある日ふと振り返って、こんなところまで来てたんだ~ という喜びを味わうのも素敵なものですよ




。。。って、あのころの自分に言ってあげたいなぁ。

大丈夫だよ、必ず望んだとおりになるからくじけないでね、ってね。

いや、実はちゃんと届いてたのかもしれないな♪

だって、とにもかくにもあきらめないで 小さな歩みを重ねて、こんなことが言える日を迎えることができたんだもの、ね



















重ねる、豊かに

2013年04月23日 23時31分33秒 | ふと思うこと

わが家は 道路から1m少々上がったところに建っているのですが、その土台は巧みに組み合わされた石垣におおわれています。

そして 毎年暖かくなると、石と石の隙間に根を張っている種々さまざまな植物が 茎や蔓を伸ばし 葉を茂らせ 花を咲かせます。

というわけで、きょうは 今年最初の石垣の草刈り。

年に数回これをしないと ぼさぼさに見苦しくなっちゃうんだよね

けっこうな面積で かなり大変ですが、思えば おととしの9月、集落浸水のとき わが家を守ってくれたのは この石垣だったのです。

石垣がすっかり水没し、さらに家の土台から数cm上まで浸かったところで 増水が止まってくれたおかげで、うちは被害を免れたのですから。

2時間半ほどせっせと鎌を使って、さっぱりときれいな姿になりました \(^o^)/

あさってから また実家に行く予定なので、その前にやっておきたかったんだよね。。。くたびれたけど、満足満足♪




母が旅立ってから、もう少しで丸一年になります。

無宗教だから、一周忌の法要とかそういうのはなしですが、家族でちょっとした集まりをすることになり、弟一家と、あと 母の妹である叔母が はるばる埼玉から来てくれることになりました♪

私は一足先に行って、部屋の支度や料理の係りをすることになっていて、ここ半月ぐらい 毎日のように 当日のメニューをあれこれ考えては楽しんでいます♪

一年前のちょうど今ごろは、まさかこういうことになるとは夢にも思っていなくて、あれからほんとうにいろいろなことがあったなぁ。。。




少し前から、自分が時を進んでいくというより、さまざまな人や場所や事柄、季節などのほうが 自分を通り過ぎてゆく、という感じが強まっています。

これまで、どれだけのものと 出会っては別れ、を繰り返してきたんだろうね

そして、この感じがなじむにつれて、年をとるとか 老いる、衰えるという意識が薄れてきています。

体験を重ねるたびに、多くを知って 賢くなる。

季節を重ねるたびに、美しい思い出が増えてゆく。

過ぎてゆく時が増えるごとに、人は豊かになり 厚みを増す。

それだけのことなのだと。

時の経過って、これまで考えられていたより もっとずぅっと私たちに優しいものなんじゃないかな




まだまだこれからも、いろいろな出会いと別れを繰り返していくことになるのでしょうね。

そのすべてを楽しみに ゆったりと待ち受ける。。。そんな心持になれる日がこようとは夢にも思わなかったときもあったけれど、人って変れるものなんだな、と あらためてしみじみ感じ入っています (^^)














ややこしいけど

2013年04月22日 21時38分32秒 | ふと思うこと

きょうも 澄み切った青空に強い日差し、そして断続的にすさまじい風。

一時は 干していた布団が飛ぶんじゃないかと心配になったほど (^_^;)

しかもこの風が冷たくて、日の当たるところではかなり暖かいのに、日陰に入ったとたん「寒っ」ということに。

寒暖の差が半端ないです。

昼間 外では厚手のTシャツで大丈夫なのに、夜はこたつや半纏のお世話になる毎日。

着るものでこまめに調節して、体調崩さないようにしないとね☆




そして きょうもまた 山の上のほうまで歩いてきました。

せっかくのこの季節だもの、思いっきりからだ動かすのが氣持ちいいんだよね♪

山といっても いちおう車道を歩いていますが、集落と集落の間は ほとんど人も車も通らず、風を感じ、木の香りに包まれ、鳥の声や川の水音に浸って、何ともいえずいい氣持ち♪

ほんと 自然の氣は静かです。

何も仕掛けてこない、意図して注意を向けさせるようなこともない、ただあるがまま。

こちらもなにひとつ身構えることなく、安心し切ってゆだねていられます。




ただ、立ち止まって 向かいの山を眺めているときに ふと思ったんだよね。

たしかに、自然の中では、レッテルを貼られるうっとおしさも、相手の出方に対応を迫られるややこしさもない。

ありのままの自分でいることに なんの苦労もない。

でも、そればっかりだと わざわざこの世界に生まれてきた意味がなくなっちゃうんだよね。




もともと、ありのままの自分だったんだから。

それしかなかったんだから。

他に何もない世界で、すべてである完全無欠な自分を知ることはできても、体験することはできない。

自分でないものがあって、初めて自分を実感できるのだから。

それを体験したいばかりに、わざわざ不完全な人間として この世に生まれてくることを望んだんだよね。

だから、いくらうっとおしくても氣が重くても、やっぱり人と関るややこしさや煩わしさが必要なんだ。

そういうものをたっぷり味わうからこそ、人とつながる素晴らしさも楽しめるんだものね♪




ひところは、人の住まなくなった集落にひとりこもって、機織りでもして暮らしたいと思うほど人嫌いだった私ですが、それも今はなつかしい思い出。

ひとり暮らしの氣ままさ、氣楽さを堪能して、充電完了、人の世のややこしさと取り組む意欲が戻ってきたのかもしれません(^^)



















青い鳥

2013年04月21日 21時36分09秒 | ふと思うこと

え~っと。

市長選、対立候補の方 いらっしゃいました。

って、投票台の前で初めてわかっても~

ポスターも貼ってなければ 選挙カーも回ってこないし、選挙の広報みたいなのもぜんぜんこなかったし、まるで知らなかったよぉ

・・・なんて今さら騒いでもしょうがない。

終わったことはともかく、これにどんなメッセージが潜んでいるのか見きわめて、今後に活かさないとね(^^ゞ





何日ぐらい前になるか、人氣のない林道を散歩していたあるときのこと。

さわやかな風に吹かれ、鳥の声や 木々のざわめきを聞くともなしに聞きながら、いい氣分で歩いていたら、不意に 胸の内にぱっと花が開いたように インスピレーションが弾けました。




自分の内側に、自分でありながら自分ではないような 叡智の源とでも呼びたい何かがあるとは、ずっと感じていました。

ただ これまでは、どちらかというと 頭に近いところでイメージしていたようで、その源は 口径の小さな望遠鏡から覗いた宇宙のように、内側ではあるけれど はるか彼方に ほんのちっちゃな入り口がぽつんとあるだけ、そんな印象でした。

それが、急にその入り口が 大きく近くに感じられ、奥行きがぐーっと深まって、さらに奥に行くほどぐんぐん広がり、自分のからだなど軽く超え、周囲の木々から向こうの山々に、空に、そしてもう視覚では追えないほど広がって広がって、ああ、五感では掴めないけど これは果てしない宇宙に続いている、無限に広がっているということなんだな、という思いが走りました。

からだという器の中に納まっているように思い込んでいたものが、入り口は確かに自分の内にあるのに、その中をたどっていくと、いつの間にか内と外が逆転して、浜の真砂のかけらのようにちっぽけな自分のからだが 無限の宇宙にくるみ込まれている。




その昔、人体とは 食道から腸までつながった内側の管が 口と肛門を介して外側にめくれたのが体表、内と外がひと続きにつながり合っているのだと何かで読んで、「ひょえぇぇぇぇぇ (^◇^;) 」と思った記憶がありますが、今回の閃きは それ以上のインパクト。

内から外へ広がりながら、果てしない宇宙となって、個である私など そのどこに位置するかも定かでないほどちっぽけな存在として すっぽり包み込まれてしまうのですから。

でも、不安や怖ろしさはいっさいなし。

むしろ、自分の中に無限に展開する宇宙を思うと、心の芯からさわやかな風が吹き通り 晴ればれするようで、さらにその宇宙が 自分もまわりの自然もすべておおらかに包んで 胎児のように大切に守ってくれているという安心感に満たされて。

山の中の狭い道にいながら、そこが広大な宇宙の一点でもあることに突然氣づかされたような、なんとも不思議な一瞬でした。




これまでいつも「内なる答え」と表現してきたけれど、内とは外でもある。

からだという器を境に 内と外に分けること自体が意味をなさないとも言える。

自分は、分けだされた小さな小さな「個」であると同時に、無限の宇宙の一部でもある。

「内なる答え」とは、宇宙とひとつである自分を感じた瞬間に、“共有”している叡智のひとかけらに目覚めるということなのかもしれない。

そもそも「宇宙にある」と「自分の内にある」は同じことで、宇宙の一部である自分を思い出すことで、求めていた智恵が最初から自分の一部として存在していたことをも思い出しただけなのかもしれない。

そうやって、切れ切れに「パズルのピース」を呼び覚ましながら、やがてパズルが完成し、宇宙そのものである自分に目覚める日がやってくる。。。のかどうか。

ここから先は、今の時点ではよくわからないけれどね☆




子どもの頃から好きだった、メーテルリンクの「青い鳥」のお話。

あの結末が物語るように、「青い鳥は、最初から自分のもとにいる」って よく言われるけど。

これってこういうことだったのかな。。。と、なんとなく腑に落ちた氣がします(^^)





















2013年04月21日 12時10分38秒 | ふと思うこと

きょうは 風が強いです。

それも、4月下旬にしては かなり冷たい風。

渦巻き、塊となって、建物に体当たりしてくるかのようです。

先日の地震の揺れが震度4なら、震度1なんて 強風であおられるのと区別つきそうにないなぁ




本日、わが市の市長選&市議選投票日。

市長さん候補は、どうやら対立候補がいなさそうなので 当確のようだけれど、市議選は、ポスター数えたら27枚もあったもんね。

こんな山間の小さな集落にまで 連日入れ替わり立ち替わり選挙カーが訪れていたのも うなずけます。




どうもね。。。この選挙時の わぁ~っと浮き立つような空氣って 苦手で(^^ゞ

日頃めったに聞かないような 敬語・丁寧語が大音量で飛び交いながら、表現は型押ししたようにおんなじ、語られる言葉とかもしだす空氣が明らかに違う、矛盾した氣配が あたり一面に充満して。

いや、いちいち目くじらたてずとも、どの候補者さんにもにっこり笑って「ご苦労様です」って言って、それ以上氣に留めずにおればそれでいいことなんだけど、私まだまだおおらかさが足りないんだろうなぁ (T_T)




言葉は そこにあるものもないものも語れてしまう。

でも、行動は ありのままのその人を表す。

さらに、五感を超えて漂う氣配は 本人も氣づいていないかもしれないことまで感じさせる力を持っている。




数日に渡って展開した選挙戦の光景が 私のフィルターを通して心に映った景色なら、私の心は、あり方はどうなのか。

オマエノコトバヤコウドウハ オマエノアリカタヲ マッスグニアラワシテイルカ?

オマエノコトバトコウドウニ ムジュンハナイノカ?




まわりの人という鏡を通して映し出されるのは、常に自分自身の姿。

他人事ではないのです。

鏡を入念にチェックしながら、少しでも 心の曇りを払って、よき方に進んでいけますように。




ここ数日 ショートコース氣味だったお散歩も、きょうは思いっきりのびのびと歩けるね♪

新緑が広がる山肌に つつじと藤の美しい季節です(^^)

軽くお昼ご飯を食べたら、山の上のほうまで行ってこようかな~




















ムリでなく

2013年04月19日 21時40分17秒 | ふと思うこと

昔。。。と言ってもいいぐらい過去のことになったかな

過食症で かなり太っていた時期がありました。

身長154cmで 体重が60kg以上あったのだから、それはもう

64kgまでいったところで、すっかり嫌気がさして体重計に乗るのをやめてしまったので、最高どれぐらいあったかはわかりませんが (^_^;)




着られる服が激減し、自分の姿にうんざりしてくると、たびたびダイエットを試み、成功したことも何度かありました。

が、しばらく経つと、必ずといっていいほどリバウンドしちゃうんですね

幸い健康を損なうことはありませんでしたが、たくさんのエネルギーと時間と金額をムダに費やし、「またダメか」という投げやりなあきらめばかりが育っていくのは困りものだったなぁ。




この過食症が解消されたのは、和歌山に移って 環境をがらりと変えたところからでした。

いや、変えたのは、環境というより 自分の選択だったんですね。

それまでは、安全な道ばかり選んで、結果的に 自分の影の部分と向き合うことなく 温存するような生き方ばかりしていましたから。

生まれて初めて 内なる声に従っての大英断、正直怖ろしかったけど、大きな変化の足がかりになったようです。

ダイエットどころか 体重だのスタイルだののことなど 考えもしなかったのに、氣がついたら 2ヶ月弱で なんと10kg以上も落ちていました。

からだを使う仕事をしていたのと、自然や人間関係に恵まれた ストレスの少ない環境、あと 辺鄙な山の中で車も持たず、買い物もままならなかった状況も 味方してくれたのだと思いますが、一番の理由は、自分の負を温存・助長し 甘やかすばかりの世界から 身をはがし、新しい場で とにかく目の前のことにけんめいに取り組みながら 無我夢中で過ごすうちに、食べ物をやたら口にせずにいられない衝動そのものが いつのまにか消えてしまっていたおかげだと思います。




過食で体重が増えるのは あくまでも「結果」であって、問題なのは、実際の空腹と関係なく 食べ物への衝動が抑えられず 適量を察知できなくなる センサーの狂い。

そこに手をつけずに 食べる量だけ減らそうとしても土台ムリな話、リバウンドは当たり前だったんですね。

ほんとうに解決しなければならなかったのは、食べ物で無理やり癒して押さえ込んでいた、心の中の影の部分。

住む場所を変えるという選択は、とりあえずの第一歩に過ぎなかったけれど、それだけでも なんのムリも苦労もせずに 劇的な効果があったわけです。




過食に限らず、自分の幸せや利益に結びつかない衝動があれば、誰だって「マズイ」と思うでしょうが、そこで 目に見える現象だけどうにかしようとするのは、労多く益少ないんじゃないかなって思います。

ほんとうの解決って、ガマンじゃないんですね。

アンバランスな衝動自体が 自然に消えてなくなることが ほんとうの解決なんですね。

「問題が解決する」というより、「問題そのものが消えてなくなる」って感じかな。




五感を超えた世界についての本などを読むと、さまざまな手がかりやアドバイスがもらえます。

「常にいい氣分でいること」「感謝する氣持ちを忘れないこと」「過去や未来ではなく 今・ここにいること」等々、どれもほんとうにそのとおりだと思います。

ただ、いくら大切だと思っても、どうしても思うように実現できないときは、その奥にもうひとつ 目を向けるべきものがあるんじゃないかな。

変容・成長を遂げるのに、「無理やり」っていうのは まずいらないんだと思います。

無理なくできるように、内側でわだかまり 拒んでいるものに氣づく、そこから自然とほどけていくんだと思います。




これがわからなかったころは、せっかくのアドバイスに従えない自分を「意志が弱い」「ダメな奴」と責めては悩んだものだけど、そういうことではなかったんですね。

その奥に さらにおおもとの引っかかりが隠れていることに氣づけなかった、というだけのこと。

もつれた糸の手当てのように、よぉく見つめて ここぞというところを丹念に注意深く解いていけば、やがて進んでほろほろっとほどけて すんなりした一本の糸に戻る。

あり方から変えていくって、そんな感じなんじゃないかなと思います(^^)




植物の世話でも 発酵食作りでも 人の心でも、いのちに関わることに打ち込むのは、地道で根氣がいりますね。

そして、それがまた面白くも味わい深くもある。

大変だったり苦しかったりするときほど 氣がせいてしまうけれど、そこで「無理やりはナシ」って思い出して、おおらかな氣持ちに戻って 仕切りなおす、そんなふうにやっていけたらいいね

















始まりはネガでも

2013年04月18日 22時49分10秒 | ふと思うこと

私が今以上に未熟者で、まだほとんど三次元視点からしか物事が見えていなかったころのこと。

親子関係に不満が多く、過去の親の仕打ちを恨みに思っていたときがありました。

今思えば、親は決して悪氣があったわけではなく、精一杯のことをしてくれていたんだけれど、親自身体験していないことは したくてもできなかった、「ない袖は振れない」状態だったゆえのこと、とわかるのですが。

それが見えなかったころは、十分な愛情を注いでもらえなかった、ひどい仕打ちをされた、と不満だらけだったんですね。




そんな自分のネガティブな氣持ちが、それに見合った出来事を引き寄せてしまうからくりが見えるようになってからも、この不満を払拭することは なかなかできませんでした。

そして当然、そんな自分の“未解決課題”に注意を引くように、内心の不満を象徴するような 対人面でのトラブルが続発し、心理的にひどく追い込まれることになりました。




そんなある晩、「もう限界~」ってなるほど ぎりぎりまで追い詰められた氣分で七転八倒していたとき、不意に心の中で叫んでいました。




もう十分です。

もうたくさんです。

頭ではわかっているのに、思い通りに動けないのがこれほど苦しいとは思わなかった。

「足りてない。欠けている。なんとかしてよ」という被害者意識が 自分で自分をこれほど苦しい目に遭わせるのなら、もういいです。

誰かに(親に)どうにかしてもらおうというのは、もうきっぱりやめます。

私は今のままで十分満たされている、ということに決めます。

もし不足が生じても、誰に要求する必要もない、自分の力で満たすことができる、ということに決めます。

これまでの自分の意識、すっぱりと書き換えます




成長の証とか そういう立派なことではなく、「これ以上こんなしんどい思いするぐらいなら もういいよ~」という、破れかぶれ的な思い切りだったわけなんですが(笑)

でも、さんざん痛い目を見ただけのことはあったようです。

うっかりこの決意を忘れて「しまったぁ 」ということはあっても、前言をひるがえそうという氣には ついぞなりませんでしたから。

そして、いささか危なっかしい面こそあったものの、この誓いを守り通したことが、私のその後を大きく変えてくれたのです。




私が真理だと信じている法則で、「否定的な土台から始まったものは、否定的な結果しか生まない」というのがあります。

もちろん逆もまた真なり、ということで。

トマトの種を蒔けば トマトが生る、カボチャの種を蒔けば カボチャが生る。

自分が蒔いたとおりの実りを受け取るというこの法則、確かに今でもそのとおりだと思います。




でも、いい方に行ってやるぞ!という決意が伴っていれば、始まりはネガティブでもいい結果を生む場合があるのも、また事実だな、とも思うのです。




たしか本田健さんのご著書のどれかだったと記憶していますが、「見返してやる!というような動機からであっても、スタートダッシュのパワーとしては有効だが、そのままいけば いずれネガティブな事象を呼び込んでしまうので、どこかの時点で 肯定的なエネルギーに切り替える必要がある」というような話を読んだ覚えがあります。

いつかあいつをギャフンと言わせてやるぞ、みたいな怒り任せのスタートでも、その勢いで新しいことや今までできなかったことができるようになれば、それはやっぱりうれしく誇らしいもの。

やるな、自分 と思えたときに、すかさず「そういえば、あのときのあの怒りがあったからこそ ここまで来られたんだな」と思い出すことができれば、そこで恨みを感謝に変えて、順風満帆で進んでいけるようになるのかもしれませんね。



怒りだって 絶望だって、「ほんとうの自分は もっと素晴らしいはず」とどこかでわかっていて、なのに思うとおりに実現できないからこそ湧いてくるもの。

つまり、怒ったり絶望したりしている間は、実はまだ あきらめてないよ、っていうことなんですね☆

そこで「こんなのやってられるかぁ!」な動機をバネに、絶対よくなってやるから!という方向に飛び出していくなら、それは「よくなるぞ」という肯定的な思いからのスタートとも言えるわけで。

だから、「あれ?いつのまにかこんなによくなってるじゃない」とふと氣づいたとき、望みが叶ったという喜びが、最初のささくれだったネガティブな感情を 感謝の念に書き換えるチャンスをくれるのかもしれません。



私のほとんど逆切れみたいな“起爆剤”(笑)も、今はなんだかなつかしく、心から感謝できる思い出に変っています。

そして、あのさまざまなトラブルの相手として 当時苛立たしく思った人たちも、今は「魂の約束で そういう役回りを引き受けてくれていたんだなぁ」と 恨みっこなしに、むしろありがたく思い出すことができるのです(^^)

とりわけ、親には 特に、ね




引き寄せの法則などを知っていると、ネガティブな感情を持つことが怖ろしく思えることがあります。

「こんなことばかり考えていたら、ますますイヤなものを引き寄せちゃうよ~」って焦って、かえってネガな思いが強化されてしまう悪循環。

でも、否定的な思いだって ちゃんと意味があって湧いてくるのだし、それをうまく使うことで 状況を好転させるチャンスだってあるのだから、そんなに怖れなくてもいいわけですね。




うん、ネガから始まったって大丈夫。

よくあろうっていう意思さえ手放さなければ、ね (^_-)



















 

冬越しミニトマト

2013年04月17日 20時27分07秒 | 自然

そのミニトマトの苗を見つけたのは、去年の9月のこと。

生ゴミを埋めたところから、15cmほどの小さな苗が顔を出しているのに氣がつきました。

なんと今ごろ?

これからどんどん涼しくなるというのに。。。




こちらの心配をよそに、苗は日ごとに大きくなり、晩秋の日ざしを浴びて、可愛い黄色い花を咲かせるまでになりました。

12月に入っても 比較的暖かい日が続いたのも幸いしたのか、やがて小さな緑色の実がいく粒も生りました。

とはいえ、いかになんでも12月、食べられるまでになるとはとうてい思えません。

でも。。。心の中で トマトに話しかけました。

もし、ひとつでも熟してくれたら 種が採れるから、そうしたらきっと次の春に蒔くからね



しかし、やはり冬の日ざしでは無理があったのでしょう、どの実も青いまま落ちてしまいました。

それでも、もしかしたら追熟してくれるかも。。。と、あきらめ悪く つやつやの緑の実を拾って キッチンペーパーを敷いた小皿に入れて置いておきました。



ほとんどの実は、やっぱりというか 青いまま傷んで終わってしまいましたが、ひとつだけ うっすらと赤く色づき始めたものがありました。

わずかな望みをつないで、小皿のまわりを 毛糸のマグカップカバーやコースターでおおって防寒し、天氣のいい日はお日さまに当てて、少しずつ赤みが増していく様子を見守りました。




12月初旬の寒波はどうにかしのいだミニトマトの木も、葉が黄色くなってしおれ出し、年末の寒波はとうてい越せそうにありません。

お正月の支度で実家に向かう直前に、木にお別れの挨拶をしました。

長いこといっしょにいてくれて、きれいな葉や花や実を楽しませてくれてありがとう。

あなたが枯れてしまっても、あのひとつ残ってる実から種が採れれば、いのちをつなぐことができるからね。

どうか見守ってやってね。



年が明けて戻ってみると、木はやはり枯れていました。

が、毛糸でくるんだ小皿ごと 窓際に置いておいた実は、すっかり赤いミニトマトとなって、つやつやと元氣な様子で収まっていました。

それからずっと、天氣のいい日は日光浴、寒い日は家のなるべく暖かいところで、ひとつだけのミニトマトは 活き活きした姿を保ち続けました。




今思うと 不思議でなりません。

トマトであれなんであれ、野菜がこれほど長く 新鮮さを失わずにもつものだろうか。

買ってきた野菜が 4ヶ月も5ヶ月もそのままなんて、普通じゃ考えられないよね。

枯れも腐りもしないということは、木から離れて数ヶ月経っても生き続けているということ。

どんな力が働いているんだろう?




3月ぐらいから、ヘタの深緑が徐々に枯れ色に変わり始め、4月に入ると ついに実のほうも 皮にしわが寄り出し、終わりが近づいてきたのがわかりました。

たぶんあと数日でお別れでしょう。

そうしたら、中の種を取り出して、苗床に下ろして 新しい苗作りです。

時期的に少し遅いけど、年末まで頑張りとおした木の子孫、きっと寒さには強いはず。

ひと月やそこらの遅れなど ものともしないでしょう(^^)

まだ種がどうなっているかはわからないけど、無事育ってくれていることを祈ります。

木から落ちてしまった実が たったひとつ、冬を越して守り通した種なのだもの。





半年近く共に過ごした赤い実とのお別れ、なんだか淋しいような。

あの親木は、立ち枯れた姿のまま 残してあります。

青いまま終わってしまった実たちは、根元の土に返してやりました。

種を採った後の赤い果肉も いっしょにしてあげましょう。

もし無事に新しい芽が出たら、親木に見せて、こう言ってから 抜くことにしようと思います。



“あなたの思いがひと冬を越してはぐくんだ子どもたちだよ。

 これからすくすくと育って、夏のお日さまをいっぱいに浴びて たくさんの花や実をつけ、種を残して また次のいのちをつないでくれるよ。

 あなたのことも、あの赤い実も、青いまま終わった実たちも、ずっとずっと忘れないからね。

 会えてよかった、ありがとう”