毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

躍り上がりそうな♪

2012年06月29日 12時12分20秒 | 紡ぐ暮らし
朝からこれだけ濃い日ざしなんて。。。いったい何日ぶりでしょう

青空にもくもくの白雲、もうほとんど夏の空だよ♪


きのうの予報を見て、夕べからすでにひと洗濯済ませて 満を持して待ち構えてました(笑)

今は けさ洗った第二便が もう乾きかけてます(^^)


ずっと冷蔵庫で乾燥させていた青ジソの葉も、きょうは部屋の日陰に置いてます。

手持ちの乾燥ジソがなくなりかけていたので うれしいこと♪

今年は 種を蒔いたシソが 何本か大きく育ってくれているから、乾燥ジソたくさん作れそうです♪

そのまま揉んで 料理にかけてもいいし、お茶にしても美味しいです♪



相変わらず写真は載せられないけど、ほんと表情があって絵になる空

眺めるたんびに 躍り上がりそうなほどわくわくしちゃうよ










ひとつに。。。

2012年06月27日 18時55分01秒 | ふと思うこと
分離から統合へ。。。ってちょいちょい聞くことだけど そういう流れってたしかにあるような氣がするの。。。



まずは でこぼこしてる自分の内側の調和から


そして ひとつに向かう流れを 少しずつ大きくしていけたらいいな


どんなにたいへんなことがあっても それはきっと 豊かで満ち足りた生き方だと思うから










もっともっと

2012年06月27日 09時57分53秒 | ふと思うこと
きのうの夕方、束の間の青空に背中を押されるように散歩に出かけたときのこと。

家を出る前に読んでいた星野道夫さんの本がふと心に浮かび、次の瞬間に思いました。

写真家、作家、画家に音楽家、多くの人々が 見えない世界・感じる世界から“美”を掬い上げて形を与えている。

その形になる前の“美”は すでに見えない世界にあって、誰かが氣づくのを静かに待っているんだって。

感性の鋭く繊細な人は 掬い取るフィルターもきっときめ細かくて、他の人が目を向けないちょっとしたところからも “美”を見つけ出して それまで見えてなかった世界を私たちに氣づかせてくれる。




自分のフィルターを もっともっと限りなく透明に近づけていきたいなぁ

フィルターをさえぎる「我」みたいなものを もっともっと減らしていきたいなぁ

この世界の美しさを もっともっと味わえるように

この世界のすばらしさに もっともっと浸れるように



山の緑や鳥の声に囲まれながら、心の底からそう思いました。








うれしい!

2012年06月26日 15時05分36秒 | 自然
きょうはあちこちでお天氣が回復しているらしいというのに、わが南紀は朝からやっぱり

自然のことは仕方がないとあきらめていましたが、午後から少しずつ空が明るくなってきて、ちょっと前から雲の切れ目に青空がのぞき 薄日がさしてきて(^^)


お日さまってこんなに明るかったんだ

空の青ってこんなに優しかったんだ


なんかね、もううれしくてうれしくて



もうちょっとしたら 久しぶりにお散歩いってこようっと \(^o^)/



わぁ、日ざしがいちだんと濃くなってきた~













グラデーション

2012年06月26日 12時00分01秒 | ふと思うこと
ものごとの境目って、もともと曖昧なものだと思うんです。

虹の色分け、四季の変わり目、昼と夜、暑さと寒さ、美しさと醜さ、好きと嫌い、健康と病氣、生と死。。。



子どもが虹の絵を描くときは 一色一色をくっきりはっきり塗り分けるけど、実際の虹はグラデーションだよね。
見た人によって 3色にも7色にも12色にも 好きなようにとれるよね。

ピアノは1オクターブを12音に分けて、それぞれに対応する鍵盤の音しか出せないけど、人の声やバイオリンやトロンボーンなんかだったら はっきりした分け目がないから 決められた音と音の間にさらに無限ともいえる音を出すことができる。



私たち人間は、形のない世界から 形あるものとして分け出された存在だから、曖昧なところに明確な線を引かないと 身動きがとれない。

それはそれでOKだよね(^_-)


ただ、それはあくまでも“仮”の分け目だってことを忘れないほうがよさそうね。

どこに線を引くかは人によってまちまちだし、一人の人の線引きだって いつも同じとは限らない。

みんなして共通の線引きを決めるために どこかに一致点を見出さなければならない場合も多々あるけれど、そのとき 自分の線が絶対正しいとか 一度決めた線はもう動かせないとか がっちり固定して執着してしまうと、いろいろとややこしいことが起きるね。


「ここに線を引こう」って決める基準は 細かく見れば たぶん人の数だけあるだろうし、そのひとりひとりが絶えず変化していて 基準だってずっと変らないはずはないから。



どうとでも分けられる世界の中で、「今の自分はこう分ける」って決める。

自分の価値観が変ったら、それに合わせて分け目も変える。

そういうことなんだってわかっていたら、力まず楽な氣持ちで生きられるし、自分と違う人の分け目も 温かい目で見られるよね♪



白黒のふたつだけじゃない、色彩豊かなこの世界で、いろんな分け方を楽しみながら 「自分」を創っていこう♪

もっともっと優しい 柔らかい心で生きていこう♪


ふとそんなことを思いました(^^)
















もいちど 見えない世界

2012年06月24日 23時06分05秒 | ふと思うこと
「見えない世界」なんていきなり言われたら、怪しげに聞こえて引いてしまう人もいるかもしれないけど。

でも、ほんとうのところ、誰でも持ってると思うんですよね、そういうものを感じる力。

ただ 人によっては 持ってることを忘れてるだけで。


口で言ってることとどうもちぐはぐな印象を受ける人がいるとか。

予定と違う道にふと氣を引かれて、あとからそっちのほうが正しい道だったことに氣づいたとか。

なにかに夢中になってて ハッと思い出して飛んでったら、ちょうどお風呂の水が溢れる寸前だったとか。

そんな体験の一度や二度、誰にでもあるんじゃないかな♪





私が奈良から和歌山に移ったのは 2001年の7月。

ちょうどその少しあとの9月から、NHK朝の連ドラで 地元が舞台の「ほんまもん」が始まりました。

私はテレビを持っていなかったし、めったに見ることもなかったのですが、たまたまヒロインのおじいさん役の佐藤慶さんのセリフを聞く機会があって、「さすが名優さんだなぁ、よくこれだけ見事にこの土地の難しい訛りを話しこなせるものだなぁ」と感服したものです。

和歌山の言葉って 近畿の中でもかなり個性が強いので、移って間もない私は まねて話すどころか、聞き取るのもままならないことさえあったのですから。

しかし、土地の言葉になじむにしたがって、イントネーションからリズムまで 私が聞く限りではそっくりなのに、どうもなにかが違う、という感じが起こってきました。

上品過ぎる。。。っていうのか。。。


いえ、土地の人が・・・ってことじゃないんです。

陽氣であけすけな話し方をする人もいれば、穏やかで品のいい人もたくさんおられる。

それでもなにかが大きく違うんですね。

どんなに見事に訛りをあやつっても どうしても発するなにかが違う。


なんだろう、なんだろうってしばらく考えていて氣づきました。

言ってみれば、その人の意図と関係なくにじみ出る 個人の履歴みたいなもの。

身なりや言葉がどれだけそっくりでも、その底で佐藤慶さんが発しておられるのは「都会のインテリ」とでもいうような雰囲氣なんですね。

一方、この土地にずっと住んでいる人たちの発する氣には、個人個人の物腰や言葉遣いと関係なく、「この土地の土の香り」とでもいうようなものが染み込んでいる。

その人その人が重ねてきた人生そのものから漂ってくるようななにか。

そしてこればっかりは、どんな名優でも 演技力だけで表現し切れるものではないのだろうな、と。



あれ以来、どんな人でも、見た目や態度や言葉遣いを越えて 意図せぬまま発しているものがあることを知りました。

その後、ネットで知り合った人とあとからリアルでお会いしたり、サイト上の文章のやりとりだけのお付き合い、声までは知ってるけど直接会ったことはない人とのご縁など、いろいろなケースを通じて、取り繕いようのある外見以上に そうした氣配みたいなもののほうが その人の本質を表わしているらしいことがわかってきました。

なによりも、そういうものを感じ取っている自分がいることに驚きました。



また、以前よくしていた車の旅で 道を間違えたとき、「あれ、この道違うかも」「地図と違うけどこっちの道に行ったほうがいいかも」と直前にかすかにピンとくる体験をたびたびしていたことにも氣づかされました。

最初のうちはあまりにもかすかで一瞬のことなので 見逃してばかりいましたが、何度も繰り返すうちに だんだんそのときの感じがわかってきて、自分のカンを信頼できるようになりました。



五感に触れてくる情報と違って、「見えない世界」を感じるのって、ガッチリつかめる感じではなく かすかであやふやなので、最初のうちはどうも見逃してしまいやすいんですよね。

ん?って思っても、すぐに払いのけたりスルーしちゃったり。

でもこれって 筋トレなんかと同じで、繰り返し使うことで 鍛えて強くすることができるような氣がします。

いや、強くするっていうより 聡くなるっていうほうが近いかな。



そうやって これまであまり氣づいてなかった自分の中の見えない世界と親しむにつれて、自分専用のいちばん確かな羅針盤がそこにあることを思い出し、ほかのどんな答えよりも信頼できるようになっていくんだと思います。

みんなが自分の外じゃなく 自分の中にもっとも信頼のおける答えを見つけられるようになるにつれて、世の中が大きく変っていくんじゃないかなぁ♪















見えない世界

2012年06月23日 20時48分20秒 | ふと思うこと
 
 



 “ さっきの秘密をいおうかね。

   なに、なんでもないことだよ。

   心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。

   かんじんなことは、目に見えないんだよ ”


                           (サン・テグジュペリ作  内藤 濯訳  「星の王子さま」より)






一見なんでもなさそうな植物が しおれたり元氣がなかったり枯れかかったりしていたら、原因は幹や茎の中、または土中の根っこにある確率が高い。


何度合わせても時間が狂ったり止まったりしてしまう時計があったら、問題は針ではなく 中の機械にある。


心臓を動かしてる力の源って 目に見えるかな?


地球を動かしてる力は?太陽を動かしてる力は?





目に見えない世界をもっと大切にするときが来てるんじゃないかな。


どんな美しい世界も、その本質は見えないところにある。


美しさは、目や耳じゃなく 心で感じているんだ。


目や耳、私たちのかたちある部分は、心の窓口。


私たちの本質は、ずっと奥の、五感を超えたところにある。


そこをもっともっと感じて 大切にすることが、表の世界に表れているねじれや歪みを正して 生きやすい世界を取り戻す いちばん確かな手段なんじゃないかな。





奈良に行く少し前に、久々に「星の王子さま」が読みたくなって 図書館で借りてきました。

以来、ことあるごとに 冒頭のキツネの言葉が頭をよぎります。


すべてを目に見える・手で触れられる範囲で解決しようとする。

度量衡で計れる世界ばかりが重んじられる。

そして あちこちで行き詰まってる。

そういう体験も必要だったのだろうけど、そろそろそれを超えたところに目を向ける時期が来てるんじゃないかなぁ。



    



 
“ かんじんなことは、目に見えないんだよ ”

















またまた奈良

2012年06月18日 08時07分12秒 | 奈良・実家・家族
14日からまた奈良の実家に来ています。

15日が仏事でいうところの四十九日に当たる日らしいので、ちょうど17日が父の日でもあるし。。。ということで。

夕食に母の好物を作ってお供えし、家事一切を引き受け、さらに母の身のまわりのものの整理をする毎日です。



それにしても、人ひとり旅立ったあとというのは なかなか大変なものなんですねぇ。

もともとのいのちとしてなら からだが土に還ってそれでおしまい、で済む話だったのでしょうが、人の社会のしきたりを勘定に入れると 遺された者が まあどれほどのことをやらなければならないことか。

母が亡くなったのが 介護認定の調査員さんが見えた翌日だったものだから、そこから認定がおりてもろもろの費用がはじき出され 支払いを済ませるまでに1ヶ月ほどを要し、さらに年金や保険や預金などの手続きから あちこちへの通知、いろいろとお心をかけてくださった方へのお礼状などなど、もうすること山積み。

加えて遺品の整理、これがとてつもない難事業。

なにせ戦中派で 過度なまでにものを大切にする、つまりどっさり溜め込むたちの人でしたから、もう出てくる出てくる、すっかり終わるのはいつのことやら(^_^;)

膨大なものの山に氣圧されて 感傷に浸る余裕もないのがありがたいぐらい(笑)

父は 仕事と新たな生活の設定に加えてこれらのことを抱え込んで かなりテンパった精神状態なので、少しでも負担を減らしてゆかないとね。



台風のことなどもあり 明日には帰る予定なので、きょう一日全力を尽くし かつ楽しんでいきましょ~












理不尽という名の祝福

2012年06月12日 12時30分57秒 | ふと思うこと
おととしの秋ぐらいからずっと 「理不尽」という言葉がテーマに上っていました。

理不尽と感じることが起こるたび 自分はどうしてこうも激しく反応してしまうのだろう。。。と氣がかりになったのがきっかけなのですが。

つい今しがた やっと腑に落ちました。

“理不尽に”道を外れる体験そのものに意味があったんだなぁ、って。





【理不尽】

物事の筋道が通らないこと。道理にあわないこと。また、そのさま。無理無体。 (「大辞林」より)
                     




生まれたての赤ちゃんは、みんな純粋無垢です。

でも、成長するに従って あれ?あれ?ということが多くなって。

ごく自然にまわりから取り込んだ情報が、往々にしてその人を縛り、生き辛いほうへと追いやる。

なんの悪意も持ってなかったのに、なんにも悪いことしてないのに、なんで生まれたときのまま 無邪氣に幸せに歩き続けられないんだろう。

そう考えれば まさに理不尽。



でもね。

最初からずっと無垢で無邪氣で幸せなままだったら、それが当たり前になってしまって、その素晴らしさは味わえない。

それは たまたま天から与えられたプレゼント、いつ取り上げられてしまわないとも限らない 心もとないもの。

でも、いったん道を外れて、生き辛さにジタバタあがいて、試行錯誤の末 再び「これが自分の道」と納得いくところに戻ってきたとき、それは自分が掴み取ったもの、自分の力で獲得したものなんですね。

ちょっとやそっとのことでは揺らがない、自信に満ちた私の道、私の幸せ。

そうやって、わざわざ外れて また戻っていくプロセスを味わい楽しむために、私たちは生まれるチャンスをもらったのかもしれない。




前にも書いたけれど、両親、とりわけ母から受け取った情報には、「これ持ったままだと生き辛いな~」と感じるものもけっこうあって、そのたびに 頼みもしないのに そんな厄介なものを渡されたこと、その理不尽さを恨んだものでした。

その後、少し離れたところから「これはどういう必要があってやってきたもの(こと)なんだろう」と冷静に見つめる視点というものを教えられ、その意味に氣づいて ひとつひとつクリアしていくようになって。

そして今、そのすべてが「幸せな自分を知る・創る・獲得する」という大きなテーマに結びついていることを 改めて知らされたのです。

そう思えるなら、外れることもまた 幸せの道筋の内なのだと。

以前からたびたび氣づかされたことだけど、より深まって還ってきた氣がします。




母は 母であると同時に、やはり魂の旅の仲間・学び仲間だったんだなぁ。

これまで恨んできたこと全部ひっくるめて、もう一度ここで 「いっしょに歩んでくれてありがとう」と言わせてもらいましょう。

直接言うことはできないけれど、きっと伝わってると信じられるから。




おととい大阪で 悲しく恐ろしい事件が起こりました。

「誰を襲ってもよかった」と言うような人は、理不尽と感じる自らの境遇を 誰かに八つ当たり的にぶつけることで 帳尻を合わせたい衝動にかられるのかもしれない。

そういう人の心の闇も、またやはり理不尽に大切な人を奪われたご家族やご友人のお心の内も、とうてい計り知ることはできそうにありません。

特に、被害者の立場で苦しみぬいておられる方の思いを考えたら、人生経験も浅く未熟な私がこういうことを書くのは ひどく思い上がった軽率なこと。

。。。と重々承知の上で、それでも敢えて言わせていただけるなら、身に起こる理不尽を嘆き恨む代わりに、それを読み解き 本来の自分を思い出すことで 180度違う道を選ぶこともできる、と ひとりでも多くの人に知ってもらえたら、こういう悲しい事件も減るのではないか。。。という氣がしてならないのです。




自分自身も含め、誰もがみんな光の子であり 祝福された存在であることに心底氣づく日が、一日も早く訪れますように。。。






















彼岸と此岸

2012年06月08日 23時46分50秒 | ふと思うこと
きのうの続きみたいなもの。。。かな?(^^ゞ



きのうは、三次元視点以外にも見えるものがある、ってことを書きたかったんだけど、どうもね。。。思い出を探りながら書いてると どうしても過去に引っ張られるので、三次元の記憶のほうが鮮やかになってしまって 母への執着が前面に出てしまったような。。。

たしかに そういう目で見れば、いまだに喪失感を引きずってるところもあります。

そんなときは、「二度と会えない」の「二度と」の重みに打ちひしがれそうになる。



でも、その視点から意識を引っぺがして 新たな目で見直すと、あれ?っていう氣になることもあるんだよね。



亡くなった人の記憶は その人が大切であればあるほど いい場面だけを残しておきたい。。。無意識にでも そんな心理が働くのかもしれません。

今でも一日に一回ぐらいは 母を思い出して泣きたくなるようなことがあるけど、そんなとき浮かんでいるのは もう一度戻りたくなるようななつかしい思い出ばかり。

でもね、あるときふとしたはずみに なぜかそんな美しい記憶を通り越して ひどくリアルな記憶を取り出してしまったんです。

ちょうど、あの もてあました氣持ちをブログに書きなぐっていた頃のような。

母は、全身を もつれたりねじれたりしたややこしい感情で包まれている。

私も似たり寄ったりのありさまで、ちょっとした母の言動に いちいち反応せずにいられない。

そして思ったのです。

もし望みどおりもう一度あの頃に戻れたとして、楽しいこともいっぱいあるだろう、また、頭から湯氣をたてるようなこともいっぱいあるだろう、なんのことはない、良くも悪くもあの頃と同じ状態に戻るだけなんだ、って。



で、改めて じゃあ今は?って思い直してみると。。。

まず、母の姿かたちは消えました。

さらに 私のイメージの中で、母を包んでいた もつれたりねじれたり ややこしかったものも、するりとセミが殻を脱ぐように脱ぎ捨てられていたのです。

ああそうか。

母は自由になったんだ。

この世の人でなくなると同時に、自分を悩ませていたややこしい感情からも解放されたんだ。

五感で触れられる形はなくなったけど、ずっと澄み切って 愛そのものになって、時間や空間の縛りもなくなって、いつも私たち縁ある者を取り巻いてくれているんだ。


かの有名な「千の風になって」の歌詞が、ただの言葉から鮮やかな現実へと転じた瞬間でした。



以前なにかの本で「亡くなった人は 望めばいつでもあなた方のそばにいるし、あなた方の声や思いも届いている」というようなことを読んで、以来ずっとそういうのってありだな、と思っているんですが。

母が亡くなってしばらく、まさか幽霊みたいに姿が見えるとまでは思わなかったけど、母を恋しく思うたびに 生前そのままの氣配を身近に感じることを期待していた時期がありました。

でも、落ち着いてよく考えてみれば、姿が見えないだけで当時そのままの母が自在に現れるとしたら、それって神出鬼没のストーカーみたいなものじゃないですか(笑)

母はたしかに 今でもいる。

ただ、生前とまったく同じというわけではなく。

具体的な形だけじゃなく、生きていたとき さまざまな感情や思い込みから作り上げた 想念の形もするりと外して、まさに風のように、空氣のように そこら中に立ち込めているんだ。

今ではそんな氣がしています(^^)



植物の氣配って 空っぽなんですね。

人は、「我」とか「エゴ」とかっていうのかな、自己主張するエネルギーを持っているから、氣配もやたら働きかけてきてにぎやかだけど、植物にはそういうのはないから、氣配を感じ取ろうとしても すかっとしてて手応えがない。

山の中にひとりで立っていたりすると、あたり一面いのちの氣配に満ち満ちているのに 空氣はし~んと静かで軽やか。

旅立った人たちも そんな感じなんじゃないかな。

相手をどうしようこうしようっていうややこしい意図はすっかり手放して、ただ愛情いっぱいに 静かに取り巻き 見守ってくれている、とね。



もうひとつ。

母は 旅立つときに、母の生前の感情のもつれとがっちり対になっていた 私のややこしいなんやかんやまで外していってくれたんじゃないかっていう氣もするのです。

生きていたときは しょっちゅうぶつかりあっては悩み苦しんだものだけれど、今はある意味 ずっとわだかまりなく通じ合えている感触がある。

それをうれしく思うと同時に、互いに生きているときにこうなれたらもっとよかったなぁとも思うんですね。

この思いを持ったまま過去に戻ることはできないけれど、これから先、父をはじめ 今生きている人たちと触れ合うときに 学びとして役立てることはできる。

母からの 最後にして最大の贈り物、あるいは 魂の仲間どうしで最後に果たされた約束みたいなものだったのかもしれません。




“形を変えた母”というイメージが なんとなく定着して以来、見えない世界が身近になったというか、彼岸と此岸の境が微妙に曖昧になったというか。

世界が広まったような 深まったような 不思議と豊かな心持ちです。