毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

人が作ったものは いくらでも修正がきく

2021年08月21日 14時58分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
以前ピアノを教えていたころ、小さい生徒とよく 「早弾き競争」 をしたものでした。

その子と貴秋がそれぞれピアノの両端に陣取り、鍵盤中央めがけて全速力で音階を弾いていき、ぶつかった地点が少しでも相手側に食い込んだほうの勝ち、というゲームです。

しばらく繰り返すうち、どちらかがいきなり 「今度は遅いほうの勝ち!」 とルールチェンジを宣言するのですが、のんびりな貴秋と活発で氣が逸っている子どもとでは これはさすがに勝負にならず、じれた彼女が再び 「早いもんの勝ち!」 と叫んで ルールを引っくり返します。

ゲームのルールとはそんなもの、意に沿うようにいくらでも作り変えられるからこそ、飽きたり嫌になったりせず続けられるんですね。




世の中には、私たちに変えられるルールと変えられないルールがあります。

私たちを生み出したのと同じ いのちのおおもとが定めたルールは、人の手で変えることはできません。

太陽を西から昇らせたいとか 四季の巡りを逆回しにしたいとか、いくら望んだところで 叶うものではないですよね。

でも 人間が作ったルールなら、人間の手で変えることができます。

が、そのことを忘れてしまった人があまりにも多いために、氣候も経済も教育も医療も福祉もどんどんおかしくなり、このままいったら人類滅亡ともなりかねないありさま。

そんなバッドルールの最たるものが、お金のシステム ・ 時間 ・ 法律です。

いずれも大昔 力づくで他より多くを奪い取ることに成功した者が、そんな力関係がずっと続くように、奪ったものを奪い返されずに済むようにと作った決めごとで、時を経て 社会のルールとして定着し、いまの私たちはそんな由来を実感できないまま、宇宙の法則と同じぐらい変更がきかないものと思い込み、それらに縛られて生きています。

コロナ騒ぎに無理やりなオリンピック開催、自然災害被災者の冷たい扱い、子どもや老人への虐待など 最近たて続けに起きている出来事は、その理不尽さを如実に思い知らせてくれていますが、それでもまだ 私たちの目は簡単には覚めそうにありません。

実際には 冒頭の早弾き遅弾きゲームのルール変更と同じぐらい、皆の思いのままにしなやかに変えられるものであるにも関らず。

これまた言うまでもなく、例の 「バグ」 の “三つ子の魂百まで催眠効果” のせいです。




催眠の解き方についてはすでに何度もお伝えしていますので、きょうは解けたときどんな感じがするものかについてお話ししましょう。

頭をガンと殴られたようなとか、そんな劇的なものではありません。

ただあるときふっと、「あれっておかしいよね、ヘンだよね」 との思いが湧いてきます。

あのアンデルセン童話 「裸の王様」 でいえば、裸で練り歩く王様と それをもてはやす民衆にたまたま目を留めた通りすがりの旅人が、「何あれ、ヘンなの」 と不思議がるような感覚。

妙なものを見た感はありますが、よその国の事情は自分には関係なく 影響を受けることもないとわかっていますから、別に腹を立てる必要も 何とかせねばと焦る必要もありません。

いまはもっとグローバルな世の中ですから 無関係というわけにはいきませんが、それでもいったん “三つ子の魂百まで催眠” を解いてしまえば、そんな不自然なルールはそもそも自分たちに断りなく一方的に作られたもので、従い続ける義務も責任もないものだということが ありありとわかります。

で わかってしまえば、いちいち相手に戦いを挑んだりしなくても、ただそのゲームから降りて もっと楽しい別のゲームを考案すればいいだけの話なのです。

フォーカスを外してしまえば、相手は力を失い 消えていくしかないのですから。




「SDGs」 というのも最近よく見かける言葉ですが、これは 2015年9月に国連で開かれたサミットで 世界のリーダーによって採択された文書の中核を成す 「持続可能な開発目標」 というものだそうですね。

世界を挙げて 「持続可能」 という点に重きを置くようになったのは素晴らしいことですが、「持続可能」 とは言い換えれば 「循環」 ということ。

始まりがあれば終わりがあり、終るものは持続可能とはいえませんから、天体も四季も生物の営みも 巡り続けてこそどこまでも持続できるのですね。

ならば、何よりも真っ先に手をつけなければならないのは、循環を滞らせ すでに地球にかなりのダメージを与える元凶となっている お金 ・ 時間 ・ 法律のトリオではないでしょうか。

これらを土台としたまま 上にどんな素晴らしい仕組みを作ったところで、遅かれ早かれ立ち行かなくなるのは 目に見えています。




自分ひとりで世界をどうにかしなければなんて悩まなくてもいい、ただひとりひとりがバグを手放し目覚めるだけでいいのです。

あとのことは、向こうから自然に起きてきます。

何が起きるか、自分に何ができるとわかるかは、そのときのお楽しみ、ということですね。













自分で自分を愛せれば、地獄も天国に変わる

2021年08月20日 12時12分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
最近 「承認欲求」 という言葉がよく目につきます。

力が入り過ぎたインスタグラムや、反発でもいいから反応欲しさの刺激的なコメントに対して使われているのを ちょいちょい見かけます。

おととい放送された NHKBSの 「バッド ・ インフルエンサー インスタ詐欺の顛末」 という番組は、末期ガンと脳腫瘍を 手術や化学療法に頼らず 健康な食事と代替療法で克服したとしてSNSで有名になった女性の嘘が暴かれていく様子を映し出したドキュメンタリーですが、ここまで大がかりな偽りでなくとも、受けを期待して盛り氣味でがんばっていた記事や写真の投稿が次第に重荷になったなどという話は よく聞こえてきますよね。

私たちの誰もが、大なり小なり 「他者から認められたい」 という願いを持っています。

貴秋はいい子で優等生でしたから、もちろん人一倍褒められよう認められようと躍起になっていました。

ではなぜ私たちは、そんなに他者から認められたいのでしょう?




とにかく認められようと頑張っていたころの記憶をたどると、他者にいい点をもらっている自分を外からチェックし、「お 高得点ついてる、いいね~」 とにんまりして 自分で自分に○をつけている姿が浮かび上がってきます。

自身をジャッジしてるんですね、得点が多いか少ないかで。

少なければ 当然○はつけられず、落ち込んで自信がなくなる、そして次はもっとがんばろうとする。

他者の目を通し、他者の評価を支えにして初めて そんな自分にほっとできる。。。。これって 他者からどうのこうの以前に、まず自分で自分を認めてられていないんですね。

条件付きでジャッジするときは、「自分を外から見ている自分」 と 「見られている自分」 に分かれており、評価してくる相手が自分だろうが他人だろうが、自身の幸福は つねに外部の条件に左右されることになります。

つまり、「条件付きの愛」 ですね。




対して 無条件に認めるとは、いま ・ ここに在る自分を 内からただ心地よく感じることであり、どんな分離とも無縁です。

何をしていようと どんな状況にあろうと、内側から氣分よく感じているときは、背筋が自然にすぅーっと伸び、からだから余分な力が抜けて、口元にはおのずと笑みが浮かびます。

そんなとき 自覚していようといまいと、私たちは自分がただ自分であることを そっくり受け入れ、祝福し、幸せをかみ締めているのです。

自身の幸福や充足を 外から判断せず、内から感じることができる、これが 「自分軸」 というもの。

そしてそんな幸福感が、自分を取り巻き守ってくれている豊かな自然や平和な環境、縁ある人々への感謝に 自然とつながっていきます。




あの 「バッド ・ インフルエンサー」 の女性も、恵まれない生い立ちを抱え、他者からエネルギーをもらおうと懸命だったようです。

たしかに、外から暖かいエネルギーを浴びた当座は 自分に力がついたように感じ、ほっとしていい氣分に浸れます。

が、それはあのマッチ売りの少女が擦るマッチのように 灯しても灯しても すぐ消えてしまう。

自分の内から湧き上がるエネルギーは、無限です。

それを感じるのに 条件はいらない、ただ遮っているものを手放すだけでいい。




もしいま あのベル ・ ギブソンという女性に会ったとしたら、できることなら この一件から感じた痛みや不安やもろもろのネガティブな感情をまっすぐ感じることから始めたらどうでしょうと勧めたい氣持ちです。

それは、この事件と関って傷ついたすべての人にもいえること。

どんな最悪と思えることでも それが起きたことに意味がある、その最悪と逃げずに向き合うことで 痛みを力に変え、地獄を天国に創り替えることだってできるのです。














災い転じて福と為せる時代がやって来ている

2021年08月17日 09時57分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
きのうの話の続きになりますが。

炎上するような発言をしてしまう人は、幼いころ刷り込まれた “バグ” のせいで、無自覚のうちに いまの世相とかけ離れた価値観を身につけてしまっているとお伝えしました。

無自覚なのは、刷り込みが 言葉も記憶もおぼつかない年齢に行なわれているためですが、さらに厄介なのは、バグが言葉ではなく 感覚という形で入り込んでいること。

刷り込まれたのは幼少期としても、その価値観を大人になってから振りかざせば 当然反発反論の嵐となるわけですが、それを受け止められないのは きのうも書いたように、まず誰もが持っている防衛本能のため。

では、穏やかに事を分けて話せばすんなり変われるかといえば、それもまた難しいんですね。

事を分けるとは 筋道立てて説明すること、つまり論理ですが、根深いバグほど言葉のおぼつかない年齢で刷り込まれており、筋道立った理屈で入っているわけではないので、「人の道に外れている自分」 「命を軽んじている自分」 などと言葉で自身の意識を探ってみても なかなか見つからないのです。

だから、「そんなこと考えていない」 「自分は間違っていない」 となってしまう。

聞いているほうからは 自己正当化にしか聞こえませんが、言っているほうにすれば 素直な実感なのです。

貴秋は 件のDaiGoさんの動画はどれも見ていませんが、ニュースで文字起こしされたものを読んだだけでも 最初の反論の言葉のほうに 直線的で強いエネルギーを感じます。

内容自体はトゲトゲギスギスした印象で およそ共感できるものではないけれど、それでもエネルギーとしては 後の謝罪コメントよりもよっぽど率直でウソがない氣がするのです。




私たちは子どものころから、「感じる」 に重きをおかず 頭を使うことばかり奨励されてきたため、「感じる」 より 「考える」 ほうに意識が向きやすく、いまここで自分が感じていることに焦点を合わせるのは苦手なんですね。

だから、発言炎上 ・ 袋叩きという大ピンチのおかげで 真剣に自分を変えようとする氣持ちが芽生え 全力で取り組んだとしても、悲しいことですが 理屈や理論だけで意識の変革はできないのです。

言葉や論理の領分である顕在意識は 意識全体の十分の一ほどしか占めていないため、潜在意識に手をつけず 顕在意識だけを変えても、意識そのものが大きく変わったことにはなりませんから。

これは、犯罪を犯した人が社会復帰する際にも 大きな障害となることだと思います。

理屈の上だけで 「反省しました」 となり、それがフリではなく 本氣で 「自分は変われた」 と信じ切ってのことでも、いやまだすっかり変わってはいないよと思い知らせるような出来事が あとから必ずやってくる。

大きな目で見れば それは宇宙の愛なのですが、変われたと信じていたのにそうではなかったと思い知らされた本人には 大変なショックでしょう。

元受刑者の再犯率がなかなか下がらないという話を聞いたことがありますが、それはこういう事情あってのことではないでしょうか。




明らかにそれはいけないだろうと思うようなことをした人を、牢屋にぶち込もうが 社会的に抹殺しようが 意識の底から変えられるものではない、ということを、私たちはそろそろ認めたほうがいいような氣がします。

今は、知覚できない世界について これほど広く知られ受け入れられてきた時代はないというほど 人々の意識が広がり柔軟になってきていますから、どんな不幸な出来事にも これまでにないアプローチをすることで、“災い転じて福と為す” を社会全体で実現するのにうってつけのタイミングだと思うのです。













世界を変えるのは北風か太陽か

2021年08月16日 07時38分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
貴秋は現在新聞もテレビも見ていませんが、それでも世界でいまなにが起きているか一通りのことは知っておきたいので、時たまこれはと思うニュースサイトの見出しにさっと目を通し、氣になる項目のみ読むことにしています。

で 最近目についたのが、DaiGoというタレントさんの差別発言炎上について。

貴秋はこのニュースで初めて DAIGOさんという方がもう一人おられて これまでお二人を混同していたことに氣づいたぐらい、DaiGoさんについては何も存じ上げませんが、読んでいてふと連想したのが、元東京五輪大会組織委員長 ・ 森喜朗氏の女性蔑視発言問題。

どちらも発言を撤回し謝罪したのに その後も批判が止まなかった点に共通するものを感じたのですが、それはやはり あの 「言葉の向こうになんとなく感じられるもの」 を嗅ぎ取った人が多くいたためだと思うのですよ。

何を嗅ぎ取ったかといえば、撤回とお詫びはあくまでも鎮火のための方便に過ぎず、掛け値なしの本音は最初の発言に現れていて それはいまも少しも変わっていないということ。




私たちの誰もが、幼少期に身近な大人から受け継いだ観念に 自身の体験が重なって形作られた 独自の価値観世界観を持っています。

まず三つ子の魂百まで状態で意識の奥深く入り込んだその家特有の価値観に加え、育った家庭環境も 当然ながらその観念に色濃く染まっており、そんな家族独自の世界観は 幼い子どもの目には 空氣と同じぐらい自然で当たり前なものと映ります。

女性蔑視や弱者軽視は そういった環境の下で当然のように身についたもので、それがどれほどいびつなものであっても 本人にはわかりようがない。

長じて周囲から奇異の目で見られるようになって初めて 「なにかおかしいのかな」 と氣づくわけですが、そこで感情的な攻撃にさらされると 自らを省みるより防衛本能が先に立ち、歪んだ価値観を正すどころか 反撃に転じることでかえって強化してしまうのですね。

お二人とも 謝罪はあくまでもわが身を守るための建前で、身についた価値観はほとんど変わっていないであろうことは想像に難くありませんが、誰だって 小さいころから当たり前とされてきたことに疑問などなかなか持てるものではありませんから、周囲のほうがおかしい、自分は正しいことを言ってるのにと思ってしまうのは ある意味仕方ないこととも思うのです。

「神との対話」 のヒトラーについて書かれた章に 「どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない」 とあるのは、まさにこのことだと思います。




そしてこれは、攻撃する側だって同じこと。

自分が当然と信じて疑わないことの中に いのちの流れに背くことが混じっていても、容易に気づけるものではありません。

そもそも寄ってたかって叩いたところで相手の考えを根本から変えるなどできないとわかっていながら、なぜ感情的に反応せずにいられないのか、ということですね。

皆薄々でもわかっているはずなのですよ、どれだけ叩いたって大声上げたって、結局は何も変わらないことに。

この先もしばらくはこの話題が取り上げられるでしょうが、日を追うごとにもっと差し迫ったニュースにとって代わられ やがて消えてゆくことでしょう。。。。これまでいくつもあった類似の事件同様に。

とここまでわかっていてなぜ、同じことの繰り返しになってしまうのか。

この堂々巡りを脱け出して 事態を打開できるのは、やはり自分自身を冷静に見つめられる人たちからだと思うのです。




まずは、問題発言をきっかけにかき立てられた感情を 言葉を挟まず感じてみてください。

そこにはおそらく、明らかにおかしいのに少しも変わらない現実へのイラ立ちや、心ならずもそんな現実を土台に生かされていることへのとまどいや後ろめたさなど、さまざまな引っかかりやわだかまりが潜んでいることでしょう。

それらを手放してゆく中から、意に染まない現状の下でも自分にできることが 少しずつ見えてきます。

ありのままの自分として生き、しかも自分にしかできないことで 今度こそ自信を持って新しい世界の一翼を担える、そんな喜びが徐々に伝わって まわりの人々を変え始めます。

そんな輪があちこちで広がり 互いにつながって大きなうねりとなってゆくのを目の当たりにしたとき、やはり世界を変えるのは北風ではなく太陽だったんだと得心がいかれることでしょう。













三十六計逃げるに如かず

2021年08月15日 12時18分55秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
誰にでも そりが合わないとか苦手だとか感じる人の一人や二人はあるでしょうが、これってお互いの波長に隔たりがあるせいだと思うのです。

好みや考えが大きく違う人、すなわちエネルギーの周波数が大きくずれている人が近づいてきて 目を合わせたり言葉を交わしたりすると、妙にきしむような ざらつくような感覚を覚えたりしませんか?

それでも無理に一緒にいようとすると、不協和音が鳴り響くように体内の違和感が増幅されて、ますます耐えがたくなる。

人だけでなく 物や場所にも相性の良し悪しがありますが、そんな相性のよくない相手を悪者扱いしたり毛嫌いしたりすると、合わないもの ・ 好きでないものにフォーカスが張り付いて大きくなり、しまいには居座ってしまいます。

そりが合わない、好きになれない人や物 ・ 状況に対しては、ただ意識を外してそっと離れる、それだけでいいんですね。

いじめはそんな悪い例の典型ですが、いじめる側は ただの違和感で済むはずのものに 自身のフラストレーションを乗っけて発散しているのですから、いじめられる側からは止めようがない、標的になったら 三十六計逃げるに如かず、自分のエネルギーを削がれないようとにかく距離をとることです。




面白い体験をしたことがあります。

ひとりでいる貴秋のすぐそばに、波長の合わない人がすっと来て座ったんですね。

とたんに内側がざわざわし出して 「うわ」 と思いましたが、それはただの違和感で それ以上膨らませさえしなければ大丈夫だとわかっていましたから、なるべく氣にせず フォーカスを他に向けていました。

少し経ってふと氣づいたら、ざわつきが消えている。。。。あれ? と思って相手を見たら、目を閉じてこっくりこっくりやってるんです。

なるほど、互いに相手を意識するから 波動が干渉し合うのか、と氣がつきました。

だから 眠って意識をなくしたりすれば、心地悪い干渉波も消えるんですね。

眠らなくても、意識のフォーカスをまったく別のところに移してしまえば、それ以上相手を悪く思ったり攻撃したりする必要もないわけです。




私たちは 子どものころから学校などで、嫌いなもの苦手なものから意識を逸らすよりも、逃げずに取り組んで克服することが大事だと教えられてきました。

だから 好きな教科よりも苦手な教科に多くの時間を割かねばならず、大好きな本を読みたい時間に 運動場で逆上がりの練習をしなければならなかったり、サッカーに加わりたいのを我慢して 算数の問題を解かなければならなかったり。

そんなふうにクセ付けられたおかげで、大人になってからも 嫌なことやまずいことが起きたとき、たとえどんなに頑張っても解決がつかないとわかっていても あきらめて手を引くのがいけないことのような錯覚を起こすようになってしまった人も多いのではないでしょうか。

どれほど心を砕いても親しくなれないクラスメートや職場仲間、いくら尽くしても満足しない家族、どんなに訴えてもパワハラをやめない上司、どう頑張っても間に合いそうにない納期、そんなもの相手にどれだけ全力を尽くしても エネルギーを吸い取られるだけです。

もしいまそんな立場におられるのであれば、幼いころから刷り込まれてきた ”バグ” が 自分を追い込んでいる可能性を考えてみてもいいのではないでしょうか。

我慢が美徳、なんて時代はとうの昔に終りました。

私たちは、ほんとうの自分の素晴らしさを味わい楽しむために この形ある世界にやってきたのです。













ルールはとうに変わっている

2021年08月14日 21時41分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
私たちは 小さい頃から、物事を 言葉を駆使して論理的に運ぶよう習慣づけられてきました。

弁が立ち 明確な証拠を示して多数を納得させられる者が正しいとされ、形がなく五感でつかめないもの、公に証明できないものは、多くの場合切り捨てられてきました。

その慣わしは、感じる世界を大切にし ほんとうの自分として生きようとする者には けっこうな足枷となることが多かった。

でも、それも最近は少しずつ変わってきているようです。

コロナやオリンピック開催についての菅総理の説明が紋切り型で中身が空っぽなどとあちこちで批判されているようですが、形あるものだけを信じるのであれば、何をどう言おうと その言葉が表すところを額面どおりに受け取るだけのことでしょう。

なら、「中身が空っぽ」 だと感じる氣持ちは どこから生まれてくるのか。。。。それは、私たちが言葉の向こうに 言葉にならない “何か” を感じ取っているからこそ。

自分は五感を超えた世界なんて信じないし興味もないと言う人でも、実は知らず知らずのうちに 五感の向こうの領域からの情報をけっこう受け取っているのですね。

だから いくら言葉を飾っても、うわべと中身が違ったりしたら たちまち伝わっちゃう。

これからは 自分の感性や感覚に信頼を置く人が増えてきますから、この傾向にもますます拍車がかかることでしょう。

「なんとなくそう感じる」 というのは 理数系の証明や裁判の証拠としては使えないけれど、言葉を超えたエネルギーレベルの情報は ウソがつけないから、実際にはもっとも確かな判断基準となり得るのです。




最近は政治家さんなどの形ばかりとりつくろった言動にも手厳しい意見が多いけれど、こういう方たちの中身の薄い物言いって 別にいまに始まったことでもないですよね。

ただ、以前はそれでもなんとなく押し通せて 面子を保っていられたのが、いまはそうはいかなくなったというだけで。

これはやはり、本質から離れる力が後押ししていた “行き” の道と、本質に戻る力が後押ししている “かえり” の道の違いだと思います。

バブルが弾けたあたりから、言ってみればゲームのルールが変わったんですね。

それに氣づかず 以前と同じ態度で押し通そうとすると、総スカンを食ってしまう、と。

もう見目や体裁にばかり氣を使っていればいい時代ではありません。

エネルギーのしっかり乗った言葉で語れるか、現状を的確に感じ取って行動できるかが問われる時代に、とっくになっているのです。

そんな世界では、言葉や理屈でないところで感じるものを頼みにできることが、生きていく上での一番の拠りどころとなります。














「何をするか」 以上に 「どう感じるか」 を大切に

2021年08月05日 11時31分37秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
最近つくづく思うのです、やっぱり 「何をするか」 以上に 「どう感じるか」 だよなぁって。

貴秋は暑さに強いわけでもないのに冷房が苦手で クーラーは極力使わないのですが、先日35、何度のさなか 座り込んでぼんやり真昼の景色を眺めていて ふと氣づいたのです。

からだはたしかにモワッとまとわりつくような熱せられた空氣を感じている、が それ以上に苦しい、うっとおしい、苛立たしいという氣持ちはない。

苦しい云々というのは 暑さそのものではなく、暑さについての判断解釈が生み出す感覚なんだ。

言葉を引っ込めてただ感じている限り、35℃だろうが36℃だろうが それはそれというだけのこと、もしここで苦しいと感じるとしたら、それはからだに異常が生じたときだろうな。。。と。

すっかり面白くなり、37℃近く (これまでのところ 今夏わが家ではこれが最高氣温) まで試してみたのですが、心が穏やかに凪いでいるときは かなりの高温でも平氣なのに、落ち着かなかったりイラ立ったりしているときは ずっと低い温度でも我慢できないことがわかりました。

無論これは貴秋が幸いにも元氣で健康でおれているからこその結果で、決してエアコンなしの生活を説いているわけではないのですが、ただこの 「いい ・ 悪いを氣分が大きく左右する」 という話は押さえておいて吉という氣がします。




私たちは 自作の物語の世界に住んでおり、その物語は 起きていることそのものではなく、それについての判断解釈で構成されています。

目の前に犬がいたら、犬好きな人にはハッピーな展開ですが、犬が苦手な人には恐怖のストーリーとなる、同じものを見ても異なる物語が生まれるのは、それぞれの反応が違うから。

ならば、毎日を楽しくいい氣分で過ごしたければ、起こることをコントロールするよりも、それについての自分の捉え方をコントロールするほうが 近道なのではないかしら。

そのために取る方法は、各自違っていていいのです。

コロナを例にとれば、ワクチンを打つほうが安心していい氣分でいられるなら打てばいいし、打たないほうが氣分がいいなら打たなければいい。

もし打ちたいのに予約がとれないとかだったら、イライラするよりも 「私は若いし既往症もないから後に回されたんだ、私の免疫力は万全だから大丈夫」 と解釈して、体内で免疫細胞が活発に働いているところをイメージして氣分を上げることをお勧めします。

それでも不安が拭い切れないなら 氣休めでも神頼みでもなんでもいい、免疫力を上げる食材でも高性能マスクでもアマビエでも味方につけて 氣分アップを図ることです。

私たちがイメージして感情を乗せたことが現実化するのですから、ここは肝心なところです。




そして 自分と違う選択をしている人がいても、それぞれに安心のツボや魂の望む体験が違うんだと思って 非難したりあげつらったりしないこと。

そんなことをして 自分のエネルギーレベルを落としてしまうほうが大問題です。

さらに なにをどうやってもいい氣分になれないとか どうしても他者を責めずにいられないとかの悩みがあれば、そこにはきっと “バグ” が潜んでいますから、いい機会と思って そのイラッとかムカッとかドヨ~ンをただ感じてみてください。

たとえ顕在意識では変化が感じられないとしても、あなたは確実に自分をいいほうに一歩進ませる手を打ったのです。

そう思って、ちょっぴりでもいい氣分になってください。




コロナで変異ウイルスでまたまた緊急事態宣言でそれでもオリンピック開催で国境越えはOKでも帰省は自粛要請で・・・・と マスメディア完全シャットアウトしていても これだけあれこれ伝わってくるのですから、ここはめいめいの 「それでも私は幸せでいる」 との覚悟が試されるところですね。

テレビもオリンピックだらけで 予約したい番組もすっかり減ってしまったので、ぼんやりと景色を眺めて過ごすことが多くなりましたが、真昼間の濃い青空とギンギンの日ざしと木の葉のきらめきに、これまでなら確実に 「うわ~暑そう、やだなぁ」 と思ったであろうところで 「なんてきれいなの、夏っていいなぁ」 と不意に浮かんだ自分に驚いたのが、今夏の探究のそもそもの始まりです。

熱中症警戒情報に不安がるよりも、冷房でも打ち水でも日傘でもすだれでもカキ氷でもスイカでも 自分なりに工夫して環境を整えて 「夏っていいなぁ」 と思いながら暮らすほうが 確実に健康状態を上げるだろうと思うきょうこのごろです。












“信じて跳べばいい”

2021年08月02日 11時18分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
久々に 映画 「インセプション」 のせりふをタイトルにしてみました。

まずサイトーからコブへ、そして物語の終盤でコブからサイトーへ、と二度登場するこのせりふ、とても意味深いのですが、今回信じて跳ぶかどうかを問われているのは、コブでもサイトーでもなく、私たち自身です。




以前 彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦氏の講演を聞いたとき、氏は言われました。

「僕も科学者の端くれなので、自分の体験が証明できるものでないことは よくわかっています。ですから これをお聞きになられた皆さんも、信じる信じないはご自由になさってくださいね」

なるほどそりゃそうだ、突然の臨死体験に 一緒に心停止して三途の川の手前まで同行し、かつ動かぬ証拠を手に入れて蘇生してくれる証明者なんているわけがないもの。

五感がすべての世界における私たちは、論理的に誰もが納得できるよう証明された物事だけを信じるよう慣らされています。

証拠はあるのか? 証明できるのか? 第三者が同じように試しても 必ず同じ結果が出ると皆が認める話なのか?

しかし、証明とは言葉や数字や記号を用いて初めて成り立つものですから、五感を超えて 言葉が及ばず形も質量も境界線もない領域には 到底当てはまりません。

にも関わらず この領域への関心か高まるばかりなのは、スピリチュアル、パラレルワールドなどの言葉が市民権を得て定着していることからもわかります。

余談ですが、先日IOC のどなたかが 「コロナと五輪はパラレルワールドのようなもの」 とかおっしゃってひんしゅくを買ったという話、貴秋は 「いまやこんなところでまで “パラレルワールド” なんて言葉が使われるようになったのか」 と本題と関係ないところで感動してしまいました。

・・・とまあこんなふうに 五感で確かめようもない世界が人々の意識にどんどん浸透していっているのは、やはりいまが分離から統合へと向かう流れにあるせいかと思います。




が、ここで私たちは 矛盾と混乱に出くわすことになります。

心のどこかで 理屈を超えた世界に親しみや魅力を覚えながらも、私たちの頭は いつもながらに手応えある確証を欲しがります。

でも、言葉や形を超えた世界を言葉や形で証明するのは不可能。

そこで私たちは、「信じて跳ぶかどうか」 の決断を迫られるわけですね。

では、そこで証明や証拠に代わって信頼するに足るものはなにか。

答えは 「自分」 。

自分の感性、自分の感情、自分のからだの感覚こそが、これからの時代、もっとも確かな指針 ・ バロメーターへと成り代わっていきます。

他のなによりも自身の内を頼みにできる、それが 自分軸の生き方というもの。

そこまでの信頼を自分に置くために せひ必要なのが、バグを手放すことなのです。




以前からの繰り返しになりますが、貴秋言うところの “バグ” とは、脳が未完で言葉がおぼつかない乳児期幼児期に、周囲の大人たちと意識を重ねることで 自然と入り込んでしまった、他者の否定的な観念や価値観のこと。

この時期は まだ理論脳が発達しておらず すべての情報を無条件に取り込んでしまうため、バグは意識の深い部分に定着し、知らず知らずのうちに 私たちの生き方に影響を及ぼすことになります。

精一杯努力しているのに なぜかいつも裏腹な結果に終ってしまう、したいことがあっても 自分には無理だと思い込み早々に諦めてしまう、こういうときは まず氣づいてないバグが潜んでいると思って間違いありません。

またしてもうまくいかなかった、自分は無力だ、などと感じたときの心の痛みこそが、バグの存在を示す目印です。

そんなときは 言葉や理屈を脇に置き、からだに響くその痛みをただ受け止め感じることで、バグを解除することができます。




誤情報が減れば減るほど、ほんとうの自分が表に出てきます。

真の望みを知っている自分、それを叶えられると理屈ではないところでわかっている自分、自身の直観を全面的に信頼できる自分。

そのとき、身の内から湧く 「信じて跳べばいい」 という声に ためらいなく応じる心地よさを、どなたもきっと味わわれることでしょう。