以前ピアノを教えていたころ、小さい生徒とよく 「早弾き競争」 をしたものでした。
その子と貴秋がそれぞれピアノの両端に陣取り、鍵盤中央めがけて全速力で音階を弾いていき、ぶつかった地点が少しでも相手側に食い込んだほうの勝ち、というゲームです。
しばらく繰り返すうち、どちらかがいきなり 「今度は遅いほうの勝ち!」 とルールチェンジを宣言するのですが、のんびりな貴秋と活発で氣が逸っている子どもとでは これはさすがに勝負にならず、じれた彼女が再び 「早いもんの勝ち!」 と叫んで ルールを引っくり返します。
ゲームのルールとはそんなもの、意に沿うようにいくらでも作り変えられるからこそ、飽きたり嫌になったりせず続けられるんですね。
世の中には、私たちに変えられるルールと変えられないルールがあります。
私たちを生み出したのと同じ いのちのおおもとが定めたルールは、人の手で変えることはできません。
太陽を西から昇らせたいとか 四季の巡りを逆回しにしたいとか、いくら望んだところで 叶うものではないですよね。
でも 人間が作ったルールなら、人間の手で変えることができます。
が、そのことを忘れてしまった人があまりにも多いために、氣候も経済も教育も医療も福祉もどんどんおかしくなり、このままいったら人類滅亡ともなりかねないありさま。
そんなバッドルールの最たるものが、お金のシステム ・ 時間 ・ 法律です。
いずれも大昔 力づくで他より多くを奪い取ることに成功した者が、そんな力関係がずっと続くように、奪ったものを奪い返されずに済むようにと作った決めごとで、時を経て 社会のルールとして定着し、いまの私たちはそんな由来を実感できないまま、宇宙の法則と同じぐらい変更がきかないものと思い込み、それらに縛られて生きています。
コロナ騒ぎに無理やりなオリンピック開催、自然災害被災者の冷たい扱い、子どもや老人への虐待など 最近たて続けに起きている出来事は、その理不尽さを如実に思い知らせてくれていますが、それでもまだ 私たちの目は簡単には覚めそうにありません。
実際には 冒頭の早弾き遅弾きゲームのルール変更と同じぐらい、皆の思いのままにしなやかに変えられるものであるにも関らず。
これまた言うまでもなく、例の 「バグ」 の “三つ子の魂百まで催眠効果” のせいです。
催眠の解き方についてはすでに何度もお伝えしていますので、きょうは解けたときどんな感じがするものかについてお話ししましょう。
頭をガンと殴られたようなとか、そんな劇的なものではありません。
ただあるときふっと、「あれっておかしいよね、ヘンだよね」 との思いが湧いてきます。
あのアンデルセン童話 「裸の王様」 でいえば、裸で練り歩く王様と それをもてはやす民衆にたまたま目を留めた通りすがりの旅人が、「何あれ、ヘンなの」 と不思議がるような感覚。
妙なものを見た感はありますが、よその国の事情は自分には関係なく 影響を受けることもないとわかっていますから、別に腹を立てる必要も 何とかせねばと焦る必要もありません。
いまはもっとグローバルな世の中ですから 無関係というわけにはいきませんが、それでもいったん “三つ子の魂百まで催眠” を解いてしまえば、そんな不自然なルールはそもそも自分たちに断りなく一方的に作られたもので、従い続ける義務も責任もないものだということが ありありとわかります。
で わかってしまえば、いちいち相手に戦いを挑んだりしなくても、ただそのゲームから降りて もっと楽しい別のゲームを考案すればいいだけの話なのです。
フォーカスを外してしまえば、相手は力を失い 消えていくしかないのですから。
「SDGs」 というのも最近よく見かける言葉ですが、これは 2015年9月に国連で開かれたサミットで 世界のリーダーによって採択された文書の中核を成す 「持続可能な開発目標」 というものだそうですね。
世界を挙げて 「持続可能」 という点に重きを置くようになったのは素晴らしいことですが、「持続可能」 とは言い換えれば 「循環」 ということ。
始まりがあれば終わりがあり、終るものは持続可能とはいえませんから、天体も四季も生物の営みも 巡り続けてこそどこまでも持続できるのですね。
ならば、何よりも真っ先に手をつけなければならないのは、循環を滞らせ すでに地球にかなりのダメージを与える元凶となっている お金 ・ 時間 ・ 法律のトリオではないでしょうか。
これらを土台としたまま 上にどんな素晴らしい仕組みを作ったところで、遅かれ早かれ立ち行かなくなるのは 目に見えています。
自分ひとりで世界をどうにかしなければなんて悩まなくてもいい、ただひとりひとりがバグを手放し目覚めるだけでいいのです。
あとのことは、向こうから自然に起きてきます。
何が起きるか、自分に何ができるとわかるかは、そのときのお楽しみ、ということですね。
その子と貴秋がそれぞれピアノの両端に陣取り、鍵盤中央めがけて全速力で音階を弾いていき、ぶつかった地点が少しでも相手側に食い込んだほうの勝ち、というゲームです。
しばらく繰り返すうち、どちらかがいきなり 「今度は遅いほうの勝ち!」 とルールチェンジを宣言するのですが、のんびりな貴秋と活発で氣が逸っている子どもとでは これはさすがに勝負にならず、じれた彼女が再び 「早いもんの勝ち!」 と叫んで ルールを引っくり返します。
ゲームのルールとはそんなもの、意に沿うようにいくらでも作り変えられるからこそ、飽きたり嫌になったりせず続けられるんですね。
世の中には、私たちに変えられるルールと変えられないルールがあります。
私たちを生み出したのと同じ いのちのおおもとが定めたルールは、人の手で変えることはできません。
太陽を西から昇らせたいとか 四季の巡りを逆回しにしたいとか、いくら望んだところで 叶うものではないですよね。
でも 人間が作ったルールなら、人間の手で変えることができます。
が、そのことを忘れてしまった人があまりにも多いために、氣候も経済も教育も医療も福祉もどんどんおかしくなり、このままいったら人類滅亡ともなりかねないありさま。
そんなバッドルールの最たるものが、お金のシステム ・ 時間 ・ 法律です。
いずれも大昔 力づくで他より多くを奪い取ることに成功した者が、そんな力関係がずっと続くように、奪ったものを奪い返されずに済むようにと作った決めごとで、時を経て 社会のルールとして定着し、いまの私たちはそんな由来を実感できないまま、宇宙の法則と同じぐらい変更がきかないものと思い込み、それらに縛られて生きています。
コロナ騒ぎに無理やりなオリンピック開催、自然災害被災者の冷たい扱い、子どもや老人への虐待など 最近たて続けに起きている出来事は、その理不尽さを如実に思い知らせてくれていますが、それでもまだ 私たちの目は簡単には覚めそうにありません。
実際には 冒頭の早弾き遅弾きゲームのルール変更と同じぐらい、皆の思いのままにしなやかに変えられるものであるにも関らず。
これまた言うまでもなく、例の 「バグ」 の “三つ子の魂百まで催眠効果” のせいです。
催眠の解き方についてはすでに何度もお伝えしていますので、きょうは解けたときどんな感じがするものかについてお話ししましょう。
頭をガンと殴られたようなとか、そんな劇的なものではありません。
ただあるときふっと、「あれっておかしいよね、ヘンだよね」 との思いが湧いてきます。
あのアンデルセン童話 「裸の王様」 でいえば、裸で練り歩く王様と それをもてはやす民衆にたまたま目を留めた通りすがりの旅人が、「何あれ、ヘンなの」 と不思議がるような感覚。
妙なものを見た感はありますが、よその国の事情は自分には関係なく 影響を受けることもないとわかっていますから、別に腹を立てる必要も 何とかせねばと焦る必要もありません。
いまはもっとグローバルな世の中ですから 無関係というわけにはいきませんが、それでもいったん “三つ子の魂百まで催眠” を解いてしまえば、そんな不自然なルールはそもそも自分たちに断りなく一方的に作られたもので、従い続ける義務も責任もないものだということが ありありとわかります。
で わかってしまえば、いちいち相手に戦いを挑んだりしなくても、ただそのゲームから降りて もっと楽しい別のゲームを考案すればいいだけの話なのです。
フォーカスを外してしまえば、相手は力を失い 消えていくしかないのですから。
「SDGs」 というのも最近よく見かける言葉ですが、これは 2015年9月に国連で開かれたサミットで 世界のリーダーによって採択された文書の中核を成す 「持続可能な開発目標」 というものだそうですね。
世界を挙げて 「持続可能」 という点に重きを置くようになったのは素晴らしいことですが、「持続可能」 とは言い換えれば 「循環」 ということ。
始まりがあれば終わりがあり、終るものは持続可能とはいえませんから、天体も四季も生物の営みも 巡り続けてこそどこまでも持続できるのですね。
ならば、何よりも真っ先に手をつけなければならないのは、循環を滞らせ すでに地球にかなりのダメージを与える元凶となっている お金 ・ 時間 ・ 法律のトリオではないでしょうか。
これらを土台としたまま 上にどんな素晴らしい仕組みを作ったところで、遅かれ早かれ立ち行かなくなるのは 目に見えています。
自分ひとりで世界をどうにかしなければなんて悩まなくてもいい、ただひとりひとりがバグを手放し目覚めるだけでいいのです。
あとのことは、向こうから自然に起きてきます。
何が起きるか、自分に何ができるとわかるかは、そのときのお楽しみ、ということですね。