以前にも書きましたが、「悟り」 に執着していたころは 五感を超えた領域ばかりに意識が向き、仮初めの現実世界に属する肉体など厄介者としか思えず、ぞんざいに扱っていました。
が 人の本質が意識にあると思うようになると、この三次元世界を味わい尽くすためになくてはならないからだというものの大切さが身に沁みます。
いってみればこれもまた 形を持たない意識体に 「体験」 というものをさせるための三次元仕様のアバターともいえるわけですが、実際私たちは からだという形なくしてこの世界に存在することはできません。
私たちは自身の素晴らしさを体験的に知るためにこの世界に生まれてきたのであり、体験とは文字通りからだがあって初めてできること。
それが いまここの自分を受け入れることができず、現状から氣をそらすために脳内だけが別の世界に逃げ込むと、からだと心が分離してしまいます。
分離が進むほど無氣力になり、当たり前の日常を送ることも難しくなっていきます。
貴秋の場合 この分離の傾向は子どものころからすでにあったようで、引越しのときに見つけた中学生時代の日記には 「死ねばいつも描いている空想の世界で生きられると保証されるなら、今すぐにでも死んでみせるのに」 と書かれています。
そしてそんな状態が極まるとどうなるかをずっとのちに知ることになったわけですが、分離とはいのちの源から遠ざかること、からだが損なわれるか心が壊れるか いずれにしても望むありようとはほど遠い状態です。
「引き寄せの法則」 はいまや多くの人が知るところですが、望みを引き寄せる ・ 具現化するには 「物理的イメージに鮮烈な感情を伴わせる」 ことが必要だといわれていますね。
この感情とは、からだの感覚に言葉が結びついたものといえます。
イメージや言葉は意識の産物ですが、感覚はからだから生じるもの。
つまりあらゆるものの具現化は 意識とからだの共同作業であり、からだなくして創造はありえないのです。
だから、いま ・ ここにあるからだやそれを取り巻く現況をおいてきぼりにした空想や妄想は実現しない。
イメージだけならいくらでも奇想天外な世界を描けるけれど、それを実際に生みだすには いま ・ ここに生きているこのからだがどうしても必要なのです。
先日テレビでeスポーツとかいう高校生のビデオゲーム団体戦のようなものを見ましたが、この場合のゲームは人の楽しみの世界をより広げるための道具で、参加者たちは実際に仲間と作戦を練って 自分たちの知識や技術を駆使して戦ったのですから、結果はどうあれ充実した時間を過ごし、その一部始終は自身の体験として身のうちにしっかり刻まれたことでしょう。
が、これが部屋にこもってひとりぼっちの寂しさや空しさを紛らわすためにオンラインゲームに参加したとかだったら、ゲーム内でどれだけ仲間と集い 冒険を重ねても、からだは部屋から一歩も動かずひとりぼっちのまま。
これをとことん続ければ、やがて脳内世界とからだのおかれた現実との乖離が極まって心身に変調をきたすのは避けられないでしょう。
こうして異常が誰の目にもわかるところまできた状態を 「廃人」 などと呼ぶのだと思います。
VRは 開発者の加藤さんが 「こちらがリアル体験だといえるほどのもの」 と位置づけるだけあって、これが自己否定の道具に使われたときは 分離の度合いもかなりのものになるであろうことが想像できます。
一方でまた、こんな記事もありました。
『現実』 を揺るがす、バーチャルリアリティの恐るべき未来
VR技術があれば、私たちは 自身の五官の届く範疇を越えたところにある事象をも体験することができると。
VRからどれほどの情報を受け取れるようになるかは 今後の技術発展如何でしょうが、とにかくVRを用いることで 私たちの “体験” の場が飛躍的に拡大するのは確かだと思います。
そしてそれらの “体験” をそれぞれの人生の物語にどう生かしどう反映させるかは、私たちひとりひとりのありよう次第ということなのですね。