毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

二次元アバターはイラスト羊の夢を見るか?  その5

2019年09月24日 22時20分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見




以前にも書きましたが、「悟り」 に執着していたころは 五感を超えた領域ばかりに意識が向き、仮初めの現実世界に属する肉体など厄介者としか思えず、ぞんざいに扱っていました。

が 人の本質が意識にあると思うようになると、この三次元世界を味わい尽くすためになくてはならないからだというものの大切さが身に沁みます。

いってみればこれもまた 形を持たない意識体に 「体験」 というものをさせるための三次元仕様のアバターともいえるわけですが、実際私たちは からだという形なくしてこの世界に存在することはできません。

私たちは自身の素晴らしさを体験的に知るためにこの世界に生まれてきたのであり、体験とは文字通りからだがあって初めてできること。

それが いまここの自分を受け入れることができず、現状から氣をそらすために脳内だけが別の世界に逃げ込むと、からだと心が分離してしまいます。

分離が進むほど無氣力になり、当たり前の日常を送ることも難しくなっていきます。

貴秋の場合 この分離の傾向は子どものころからすでにあったようで、引越しのときに見つけた中学生時代の日記には 「死ねばいつも描いている空想の世界で生きられると保証されるなら、今すぐにでも死んでみせるのに」 と書かれています。

そしてそんな状態が極まるとどうなるかをずっとのちに知ることになったわけですが、分離とはいのちの源から遠ざかること、からだが損なわれるか心が壊れるか いずれにしても望むありようとはほど遠い状態です。




「引き寄せの法則」 はいまや多くの人が知るところですが、望みを引き寄せる ・ 具現化するには 「物理的イメージに鮮烈な感情を伴わせる」 ことが必要だといわれていますね。

この感情とは、からだの感覚に言葉が結びついたものといえます。

イメージや言葉は意識の産物ですが、感覚はからだから生じるもの。

つまりあらゆるものの具現化は 意識とからだの共同作業であり、からだなくして創造はありえないのです。

だから、いま ・ ここにあるからだやそれを取り巻く現況をおいてきぼりにした空想や妄想は実現しない。

イメージだけならいくらでも奇想天外な世界を描けるけれど、それを実際に生みだすには いま ・ ここに生きているこのからだがどうしても必要なのです。




先日テレビでeスポーツとかいう高校生のビデオゲーム団体戦のようなものを見ましたが、この場合のゲームは人の楽しみの世界をより広げるための道具で、参加者たちは実際に仲間と作戦を練って 自分たちの知識や技術を駆使して戦ったのですから、結果はどうあれ充実した時間を過ごし、その一部始終は自身の体験として身のうちにしっかり刻まれたことでしょう。

が、これが部屋にこもってひとりぼっちの寂しさや空しさを紛らわすためにオンラインゲームに参加したとかだったら、ゲーム内でどれだけ仲間と集い 冒険を重ねても、からだは部屋から一歩も動かずひとりぼっちのまま。

これをとことん続ければ、やがて脳内世界とからだのおかれた現実との乖離が極まって心身に変調をきたすのは避けられないでしょう。

こうして異常が誰の目にもわかるところまできた状態を 「廃人」 などと呼ぶのだと思います。

VRは 開発者の加藤さんが 「こちらがリアル体験だといえるほどのもの」 と位置づけるだけあって、これが自己否定の道具に使われたときは 分離の度合いもかなりのものになるであろうことが想像できます。




一方でまた、こんな記事もありました。

     『現実』 を揺るがす、バーチャルリアリティの恐るべき未来

VR技術があれば、私たちは 自身の五官の届く範疇を越えたところにある事象をも体験することができると。

VRからどれほどの情報を受け取れるようになるかは 今後の技術発展如何でしょうが、とにかくVRを用いることで 私たちの “体験” の場が飛躍的に拡大するのは確かだと思います。

そしてそれらの “体験” をそれぞれの人生の物語にどう生かしどう反映させるかは、私たちひとりひとりのありよう次第ということなのですね。















二次元アバターはイラスト羊の夢を見るか?  その4

2019年09月21日 10時35分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事で 「最先端の技術にも使いようというものがある」 と書きましたが、端的にいえば 「とにもかくにもいまここに存在するままの自分を認めた上で 自分がしたいことをするために使う」 か、「いまここの自分を否定し 現状から目を逸らす ・ 現状を破壊するために使う」 かだと思います。

これについては VRではありませんが、苦い体験があるからです。




結婚して親元を離れ独立した貴秋の心の底には、いつもかすかに “期待はずれ” の思いがありました。

夫も仕事もあり それなりの暮らしをしていたのですが、子どものころから夢見てきた未来とはほど遠く。。。というのはそもそも自分軸がしっかりできていなかったため、ほんとうになにがしたいのかもよくわからないまま漠然と空疎な夢を描いていた結果なのですが、いいと言われることを守って真面目に生きてきたのに 大人になっても少しも報われた氣がしない、もっと輝かしく充実した人生になっていいはずなのに、という失望感が拭えなかったのです。

それに加えてもともと他者に怖れを抱いていたせいで 日常にも大小さまざまなトラブルが頻発し、さらに母親とのいびつな関係も濃密に続いていて、のびのびくつろげる間がほとんどない状態でした。

ここで幼いころからの空想逃避癖が顔を出し、年月が経つにつれどんどんひどくなっていったのです。

もちろんVRなどまだない時代、ゲーム機にも触ったことのない貴秋の逃避先は昔なじみの本の数々、そこに夫愛読の週間少年ジャンプも加わります。

「One Piece」 と出会ったのはこのころで、読み切りの 「ROMANCE DAWN」からアラバスタ編の途中ぐらいまではリアルタイムで読んでいました。

直接目耳に触れる映像などなくても 心の中にいとも簡単に別世界を築けるのですから 人間の想像力とはすごいものですが、子ども時代のそれは緊急避難先として有効でも、成人してなお同じことを続けるのは無理があります。

そうわかっていながら逃避に走ってしまったのは、なぜ期待通りに生きられずいやなことばかり起こるのかもどうしたら解決できるのかもわからないままで 他に氣を休める方法が見当たらなかったからですが、そうやって現実から目を背け あらぬ世界に逃げ込み続けた代償は、ウツ一歩手前という荒んだ精神状態でした。




朝仕事に出かける夫を送り出すと、そのまま本を持って敷きっ放しの布団にもぐり込み、ときには昼食もとらずひたすら読みふけり、日がな一日あらぬ世界に浸ってぼ~っと過ごします。

そして夕刻、そろそろ夫が帰ってくるというころになると 慌てて布団を上げ、部屋をささっと片付けて夕食の支度にとりかかるのですが、この現実に引き戻されたときの心身の重いことといったら。

深海に引きずり込まれ、何トンという海水がのしかかって潰されそうな感じといえばご想像いただけるでしょうか。

現実世界にいいことなんて何ひとつない、できるものなら捨ててしまいたいけどそれはできない、この世に生きている限り からだを持つ自分をどうにか体裁を整えて生かし続けてゆかねばならないのだと思うときの絶望感。

そして何よりおかしいと感じたのは 一人のときと夫に見せる姿とのギャップで、一番身近なはずの人にほんとうの自分を決して見せようとしない自身の心のありようが わが事ながら異様に思え、このままではまずいという危機感が日ごとに募っていきました。

あのときマインドの制止をすべて振り切り、清水の舞台から飛び降りる思いで和歌山に移らなかったら、いまごろどうなっていたか・・・・想像するだけで怖ろしくなります。




VR起業家の加藤さんは番組中で、「いわゆる (ネット) 廃人というのが正しいのかよくわからない」 とおっしゃっておられましたが、これは 「廃人」 をどう解釈するかにもよりますが、貴秋はネットであれVRであれ他の何かであれ、自身を否定したまま用いるなら 廃人状態に行き着くこともありうると思っています。

同じようにバーチャルにのめり込んでも、廃人になるかならないか その分かれ目は、この生きたからだを持つ自分という存在を受け入れるか否定するか、というところにあるように思うのです。