毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

時間もチャンスも十分に♪

2015年05月30日 12時13分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


最近、これだけ世界のあちこちで 噴火だの洪水だの渇水だの高温だのと聞くと、やはりこのままでは・・・・と不安が増すのでしょう。

変化を促すのに 「もう時間がない!」 というような 焦りを含んだ表現を、あちこちで見かけます。

うんうん、のんびり構えている場合じゃないのはわかる。

あすなろ状態の先延ばしで、マズイとわかっていながら 砂に頭を突っ込んだダチョウみたいなことはすまいと思います。




その一方で、時間ってなに? という氣がするのも、これまた事実。




前にも書いたような氣がしますが、時間というものに 初めて 「?」 がともったのは、エーリッヒ・ショイルマン著 「パパラギ」 を読んだとき。

一日を 時だの分だの秒だのと切り刻み、自ら生み出したその物差しに追い立てられて、いつも時間がないと不平不満でいっぱいの白人たちへの、サモアの酋長 ・ ツィアビの素朴な疑問。

時間も時計もあって当たり前と思い込んでいた私には、かなりの衝撃でした。

さらに10年ほどのち、時間泥棒たちによって そんな物差しに がんじがらめに管理される人々と、彼らのために時間を取り戻す戦いに挑む ひとりの女の子の物語、ミヒャエル・エンデ作 「モモ」 に 時間についての新たな視点を開かれ、そのまた10年後ぐらいに、ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神への対話」 や リチャード・バック作 「ONE」 で、過去も未来もすべて 今という一点に 同時に存在する、という新しい概念を吹き込まれ。

そして 昨年出会ったのが、このブログ記事

時間に振り回されるのでなく 自分時間のオーナーになるという、この発想。

それ以前の情報で 直線的時間概念が かなりぐらついていた貴秋、この記事のインパクトに多大な影響を受け、続くその2その3、さらにはこれこれも読みました。

そして、折りよく就いていた仕事の中で、さっそくこの概念を取り入れて 実地研修。

からだが3つ欲しいほどの めまぐるしい忙しさの中で、自分の捉え方ひとつで 時間に対する感覚を変えられるか。




時間に追われている氣分のとき 一番問題なのは、自分から焦りや苛立ちに身を投じて 被害妄想を繰り広げては エネルギーをダウンさせ、さらに直観が働かなくなって、ミスやトラブルが増えること。

この状態に落ち込まないために、時間の経過を極力意識せず、「時計の針に関係なく 私の意識が時を生み出すのだ」 「起こることすべて必然だから、しなければならないことがダブったとしても、どちらにも必ず当てはまる場があるのだ」 という氣持ちで、心を乱さず (乱れたときは 感覚フォーカスで対処)、今 ・ ここにい続けるようにしてみました。

そうしたら、たとえしなければならないことが 二つ三つと重なっても、焦らず 目の前のことから順次対応というのが けっこうでき、時間のロスも エネルギーのロスも 最小限に抑えられ、プラス直観が働きやすくなることで 物事の順序がつけやすくなり、ラッキーに助けられる率も上がり、また こちらのエネルギーに呼応するように、お客さまをお待たせしてしまっても、苛立つことなくゆったり待っていてくださったりして、苦情の出ることが ほぼなくなったのです。

時間をコントロールできるようになったというよりも、時間そのものが 意味を持たなくなったような。

時間についての厳しい制約の下でさえも、すべては 外側の時間感覚や 時計の針の進み具合に関係なく、自分の思い方ひとつで いかようにも変わるのだ、との思いが強まりました。

自分の意識の持ちようひとつで、以前の 「時間がない、足りない」 という焦燥から解放され、まわりも含めて 物事がスムーズに運ぶ手応えを 強く感じたのです。




時間とは、今と 今でないところの距離を測る 人為的な物差し。

今でないところに意識を向けるのをやめて、いつも今 ・ ここで、ふと浮かぶことや 目の前に現れることを 淡々とこなし続ける限り、もはやその物差しは ないも同然。

「時間がない」 という状況を具現化させるかどうかは こちらの氣持ちひとつ、 物事を決める主体は 時間ではなく 私たちの意思、だから、私たちがダメだと思い込まない限り、地球を回復させるチャンスも時間も 十分にあるのです
























それぞれの真実がひとつに溶け合う世界

2015年05月29日 11時46分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


立て続けですが、きょうはもうひとつアップ




きのうの記事に出てきたエネルギー診断、これはダウジングという手法で 用具を使って行われるようなのですが、このとき、エネルギーの高い人が行うと エネルギーの高いものをよしとする反応が出ますが、エネルギーの低い人が同じことをすると、エネルギーの低いものの評価のほうが 高くなってしまうらしいのです。

自分の氣に同調するものが その人にとってのベスト、つまり 何が自分にとって一番いいかという判断は 人それぞれ、人の数だけ答えがあるということのようですね。

まったく同じものでも、それを好む人から見れば好ましく、好まない人にとっては 不要なもの、不快なもの。

それを どちらが正しいとか言い合っても始まらない、それぞれの信じるところが その人にとっての真実。




とはいえ、やはり 低い波動で いのちにやさしいとはいえないものを よしとしていると、いずれ面倒が起こってくるわけですが、その面倒こそ 波動を上げるチャンスでもあるのですね♪

自分には心地いいからと 人の心を逆なでするような態度をとり続ければ、対人トラブルを引き起こすのは免れないし、いくら好きでも からだによくないものをしこたま食べていれば、おっつけ健康を損なうことになる。

そういう困った羽目に陥ることで、そこから自分を見直し 改める氣持ちが生まれるんだもの。。。。ほんとうまいことできてるなぁ (^^)




人が それぞれの我を握り締めて そこに力を与えている間は、それぞれの答えや真実はバラバラのまま。

ちょうどきのう こんな記事を読んで、いろいろと思うところがありまして。

なによりも この森山高至さんという方、お人柄なのか 穏やかで公正な見方をされているようにお見受けしますが、それだけに 読めば読むほど、おのおのの立場によっての正解や真実というのは まとめ難いものなんだなぁ、とも思えてくる。

二人として まったく同じ人間がいない以上、それぞれが 自身の我 ・ 自身の真実を しっかり持ち続けている間は、すべての人が納得できる答えを見出すのは、ほとんど不可能なのではないかという氣がします。

が 一方で、こんな見方もあるのですね。

先ほどと同じブログからの この記事




否定的なセルフイメージに従って、「自分には価値がない、力がない」 と思い込んでいると、その欠けを埋め合わせる力を 外に求めます。

もっとたくさんの賞賛、もっとたくさんのお金や物、もっとたくさんの権力。

こういう欠けやとんがりがあるハートのままだと、自己主張がぶつかり合って、みなの心がひとつに溶け合うのは 難しい。

でも、じゃあ そのセルフイメージって ほんとうなの? と ひとつひとつ丁寧に見てゆくと、それらが後付けで刷り込まれた 幻の観念であることがわかります。

それらを手放し、もう身を守ろうと躍起にならなくていいんだ、という深い安堵に包まれると、それだけハートも丸く柔らかくなって、互いに寄り添うことができるようになるようです。

偏っていた価値観も、いのちに沿う形で 似通ったところにまとまってきて、意見を戦わせることなく 自然と一致を見るようになる。

それを惑星規模で実現したのが、「美しき緑の星」 の ミラたちの世界なんですね (*^^*)

あの星が 全員参加の自治で うまく成り立っているのは、前にも書いたけれど、みなが 引っかかりやわだかまりのない、自己完結した 穏やかな心の持ち主だからだと思うのです。

もちろんあれはフィクションだけれど、今多くの人が あの映画に惹かれる流れが起こっているように、そこに真理や幸せのエッセンスが含まれているのなら、現実の私たちにだって できないはずはない。




たったいま知りましたが、少し前に 鹿児島・口永良部島で火山噴火があり、住民に避難指示が出たようですね。

地球をひとつの生命体と見れば、私たちひとりひとりは 人体における細胞一個一個のようなもの。

その心のありようが 総体である地球の状態に さまざまな影響を及ぼしても、なんら不思議ではありません。

今 みなが 本物ではない 辛い思い込みを手放して、ほんとうの 穏やかで満ち足りた自分に戻ってゆくこと、これが、社会にも 世界にも そして地球全体にも、深い落ち着きと幸せを呼び戻す、貴秋は本氣でそう信じています (^^)




立て続けに長文を二つもお読みくださったみなさま、ありがとうございました





















素直な心で通じ合う

2015年05月29日 09時49分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


わが家の台所の窓は、昔ながらの木枠作りで 網戸もないので、開け放しておくと、裏の山から いろいろな虫さんのご訪問を受けます (^o^)

さすがに夏の蚊はつらいので、蚊取り線香を焚いて防ぎますが、あとはほぼ 来るもの拒まず去るもの追わず状態。

小虫はそのまま居座りを決め込むものも多いようですが、大きい虫は 出入りが激しく 長居せず、夕方になると ほぼみな帰っていきます

が、ときどき窓が閉まる前に 出るタイミングを逃すらしいのがいて、朝になると、ぶ~んと羽音を立てて 「ここにいるよ~」 と存在を知らせ、窓が開くのを待っていたりします(笑)

けさも そんな子が2匹ほどいたので、急いで窓を開け、ひとしきりガラスの前を行き来してから 出口を見つけ 飛び立っていく姿を眺めていて、ふと思いました。




虫の行動パターンは ほぼ決まっているようで、私のように ことさら昆虫に詳しくないものでも、毎日眺めているだけで なんとなくわかる。

彼らは、本能っていうのかな? 生まれつきインプットされた情報に従って行動し、よほどのことがない限り そこから逸脱することはない。

虫だけじゃなく、ほかの生き物もそう、人間以外は。

人間はクリエイティブで、あれこれ考えて工夫して、オリジナルの動きができる自由を持っているけど、それは 裏を返せば、本来の自分から外れる自由でもある。

そんな私たちが 自然なありようからさんざん外れまくった 「行き」 の道を経て、本来のありかたへ戻ろうとしているのが、今のこの 「かえり」 の道。




きのうこんな記事を読んだけれど、私たちは こういう問題を 自分たちの利益から取り上げることが多い。

でも、虫であれ ほかのどんな生き物であれ、人間のために生まれて働いているわけじゃない。

彼らは、ただあるがままに素直に行動していて、結果的に それが私たちを生かす要因にもなっているだけ。

どの生き物が上だとかえらいとかいうことじゃなく、すべてがありのままでいて、それらが見事に組み合わさって、この地球の循環が成り立っており、その中には 人間が果たすべき役割も 当然ある。

この巡りを壊したら、地球は立ちゆかなくなる。

そして、今それをどんどん壊し続けているのは、ありのままでいることを忘れた 私たち人間なのだ。




まあ、美味しいサラダが食べられなくなるのをどうにかしたいと思う氣持ちにも 共感はするのだけれど(笑)、でも いつもいつも 人間の利益という視点からしか物事を見られない、その偏りが 地球環境を壊しかけたりもするわけで。

私たちは、自分の利益のために 外側からあれこれ手を尽くすよりも、ほかのあらゆる生き物と同じ ありのままの素直ないのちに戻るのことのほうが 先なんじゃないかな。




少し前に こんな記事も読みました。

私も、しょっちゅうわが家に入り込んでは 目の前や耳の近くを わがもの顔でぶんぶん飛び回る虫たちにイライラして、邪険に追い払ったりしていましたが、これを読んで ちょっと反省。

たしかに、私にとって わが家は私のテリトリーだけれど、虫さんたちは そんなの知ったこっちゃないよね。

虫や動物たちは こちらが心で話しかけることがわかる、っていうのは 私も納得で、ちょいちょいやってみるのだけれど、どうも虫さんたちには届いていない、いや 時には 届いていながら わざと無視しておちょくられている・・・って氣がしていたのは、私の立ち位置が わがもの顔の上から目線だったからだね、きっと。。。。と 思い直し、態度を改めました (*^-^*)ゞ




以来、敬意を払って 丁重にお願いすると、だいたい聞き入れてもらえるようなのですが、いささか厄介なのは、こちらからは ぱっと見同じ虫に見えても、どうも違うメンバーだったりすることも多いようで、そのたびに同じお願いを繰り返さなければならないこと

「このあいだ頼んだでしょう?」 と言いかけて、あ、これまた別の子だ~ と氣づいて また一からお願いし直すのは、これだけ しょっちゅうご訪問を受けていると、けっこう手間がかかります (^_^;)

でも、同じ巡りを共有するものとして、こういう意識は 大切だものね☆




ちなみに、以前の 「イノシシやサルに畑を荒らされて困る」 の記事というのは、こちら

ここに テレパシーを使っての 他種の生き物とのコミュニケーションという話が出てくるけれど、これはまさに あの 「美しき緑の星」 のミラたちと同じではないかと。

私はまだ 自分の言いたいことを伝えるのがやっとで、彼らの言葉を聞き取ることはできないけれど、ほんとうの自分に戻ってゆく中で きっとできるようになると信じています

素直になって、心を開いて、すべてのいのちと通じ合えるようになって。

そのときには、この地球もきっと 「美しき緑の星」 の道のりを歩んでいることでしょう (*^^*)























いい氣分♪

2015年05月28日 10時10分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


とあるブログで、画像を複数並べて 「エネルギーが高いのはどれでしょう?」 と当てっこするようなのをやっていて、ん~ どれどれ? と面白がって試してみました。

そのブログの方は、そういうエネルギー診断用の道具 (でいいのかな?) を使っておられましたが、貴秋は持ってないから、直観だけで

遊びだけど、できたら楽しいよね~ ぐらいのノリでやっているつもりだったのだけれど。。。。




画像を見つめ、そのときの自分の内側の感じにフォーカス、という我流のやり方でトライ☆

そうしたら。

感じたのは 画像とはぜんぜん関係ないものでした。

当たらなかったらどうしよう と恐れる氣持ち。




先日のスプーン曲げの話のときにもちらっと書いたけれど、小さいころからガチガチの優等生だった貴秋、間違うこと、とりわけ 自分だけが間違えることを 極端に恐れる人間に育ってしまっていたんですね。




これはもう エネルギー診断よりこっちが先だ~! と、すぐさま感覚にフォーカス。

のどが軽く締めつけられ、胸元からのど元まで 圧迫されて びりびり震える感じ。

しばらくじっと焦点を合わせていたら、そのうちすーっと消えていきました。

さらに別の問題に目を移して 再度確認したら、やはりまた 同じような感覚が (さっきより薄くなっていたけれど) 上がってきたので、重ねてフォーカス。

これを三度ほど繰り返したら、もう上がってこなくなりました。




またひとつ楽になったね~

詰まっていた鼻が す~っと通ったときのように、胸の内が軽くなって 風通しよくなって、と~~~ってもいい氣分

あまりの氣分のよさに、画像診断もうどうでもよくなっちゃった(^^ゞ

。。。。って ブログ主さんごめんなさい、でもとっても素敵なブログ、もっともっと読みたいし、またきっと遊びに行かせていただきますね♪




あ、でもね、す~っとしたあとで 一問だけやってみたの、バッチリ当たってたんだよ

まあ、まぐれ当たりの可能性のほうが強いけど(笑)

でも こういうときは いいとこどり、「すごいじゃ~ん、貴秋」 って 都合よく解釈して、あのときスプーン曲げのナビしてくれた人に教わったとおり、しっかり自分をほめてます




ほんとに当たったかどうかは あまり問題じゃない氣がするの♪

大事なのは、Happyな いい氣分でいられること♪

どのみち、いい氣分でいられたら、直観だって冴えてくるんだから、ね























輪を閉じた その先に

2015年05月27日 16時15分33秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日 「美しき緑の星」 に絡めて名前を挙げた、マルロ・モーガン著 「ミュータント・メッセージ」 。

この中に、「経験の輪を閉じる」 という話が出てきます。

起きたことから学ばずに そのままにしておくと、あとできっとまた同じことが繰り返される、だから、よく観察して 学んで 賢くなって、その出来事に感謝して 平和な氣持ちで離れる、すなわち ひとつひとつの経験の輪をきっちり閉じて 終わらせるのだ、と。




10年ほど前、ある旅館で働いていたとき、そこの人間関係が重荷でなりませんでした。

今思えば、それは明らかに 自分のセルフイメージが投影された世界だったのですが、当時はそんなことぜんぜん知らなくて、ただ ここもういやだー (T_T) 、とだけ。

で、別の職場を探すに当たり、大人数のところは いろんな人がいて 何かとややこしいことが多いから、次は規模の小さい少人数のところを、という基準で選択して 移ったんですね。

ところが、そこでもまったく同じようなことが繰り返されたのです、もう笑ってしまうぐらい(*^▽^*)ゞ

あれには教えられました。

いくら逃げても無駄なこと、そんなことにエネルギーを使うより、目の前の問題にしっかり取り組み、メッセージを得て きっちり終わらせることだ、と。




「ミュータント・メッセージ」 を読んで以来、この教訓について 「ちゃんと輪を閉じて終わらせないとね」 というような表現を使うようになりました。

感じ尽くしたつもりでいても、また同じ感情や感覚が上がってくるときは、それはまだ 輪が閉じられていないんですね。

根深い思い込みは、一度でスパッと片がつくものでもないらしく、同じような体験を いく度も繰り返しながら、少しずつ氣づきが深まるといった道筋をたどるようです。




一方で、同じように繰り返し上がってくるのだけれど、これはもう突き詰めずにスルーしていいんだな、という記憶が混じっていることに 最近氣づきました。

なんとなく、これ以上いくら取り組んでも キリがない、これはもう終わってるんだな、とわかるのです。

すでに解き放たれた思考回路でも、スイッチが入って過剰反応するクセが切り離されただけで、回路自体がなくなったわけではありませんから、ふとした拍子に 過去の一場面が ちらっと記憶の端に映し出されることはあるようで、それは 相手にせず、右から左に流しておしまい、でいいのだとわかってきました。

これからは、輪が閉じられたものと そうでないものを見分けながら 進んでいくことになりそうです。




そして さらに今度は、その輪が閉じられた回路に替わる もっと肯定的で楽しい回路を育ててゆく、という新しい段階に入ったようです。

これまでの感覚フォーカスと並行して、楽しいこと、面白いこと、これだ! ってうなずけるようなことを いっぱい体験するときがやってきたよ、と♪

こういうのって、内側からなんとなくわかるんですね(^^)




この夏は、思いっきり動いて しかもそれを楽しみたい!

そして、ほんとうの自分に もっともっと近づきたい!

5月だというのに 夏を思わせるような暑さの中、内側からも 熱い思いがこみ上げてくるようです o(^-^)o






















視点が増えて 世界が広がる

2015年05月26日 11時06分25秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今振り返ってつくづく 「もったいないことしたな~(^_^;) 」 と思うのは、劣等感が強かった 以前の私が、他者の 自分と異なる視点や思いを ことごとく否定し シャットアウトしていたところ。

自分なりに固めた 「これが私」 というものを崩されそうで 怖かったのかな。

異質さを覚えたとたん、からだにある種の感覚が走り、ネガ感情のスイッチON、たちまちのうちに 否定的な判断を下したり、それ以上見聞きすることを拒否したり。




ほとんど半世紀続いた この思いグセが、このところじわじわと変わり始めたようです(^^)




大切にしているところや好みが近い人に 親しみを覚えるのは、以前と同じ。

一方で、共通項が少ない人については、以前ならさっさと遠ざかっていたところなのですが、今は 「自分にはない視点を借りて 世界をのぞかせてもらっている」 という新しい見方が 芽生えているのです。

触れた瞬間、異質な感じは 確かにある。

でも、そこから → 拒否 という衝動が だんだん薄くなってきているみたい。

なので、これまでとは逆に その異質さとはなんぞや? と すっと近寄ってのぞき込む、なんて選択も ありになって。




ツイッターで、自分ならこれはRTしないな、と思うような画像をいくつもアップしている人がいたとして、以前ならあっさりスルーだったけれど、そこでちょこっと好奇心を出して、ひとつひとつじっくり眺めながら、こういうのを 素敵 ・ 魅力的 と感じる心って どんなだろう? と、ちょっとその人に寄り添って 想像してみる。

そうすると、なんていうかな。。。。「これが自分」 とがちっと決めていた枠が、一瞬ゆらっと揺らぐんですね。

こんなふうに見える ・ 感じる世界もあるんだ、って。

だからといって、そこで 自身の世界観が大きく変わるとかではないのだけれど、でも その一瞬のゆらり が、けっこう心地よかったりするのです




また、「思い込み=地道にこつこつ解除」 タイプの貴秋、突然不思議なエネルギーに貫かれて 以後意識が大きく変わった、なんていう話には 拒絶感が強く、敬遠していたのですが、これまた最近、そういう道筋を通る人もいるんだ、と 抗わずに受け止められるようになってきました。

人それぞれ、過去の体験も違えば、そこから生まれる思考の枠組みも違う。

当然、変化の道筋だって 十人十色。

大事なのは、どういう過程を経ようとも、みなそれぞれに 氣持ちが楽になって 充実して 生きやすくなってゆくこと。

霊だの宇宙人だの 私には知覚できない情報についても、以前は 眉唾 なんて うろんげに横目で見たりしていたけれど、意になじまないからと いきなりシャットアウトは 了見が狭かったなぁ、と(^^ゞ

今はむしろ、自分に見えない世界を 私の目の代わりになって見せてくれているんだなぁ、と ありがたく受け取る氣持ちです。

もちろん、なんでもかんでもすべて、というわけではないけれど、妙に執拗に否定したくなる情報っていうのは、実はとても氣にかかる情報で、ちゃんと意味あって出会っているものだったりするんですね。

ほんとうにまるっきり関心が向かないものには、そもそも出会わないだろうし、出会ってもこだわりを感じることなく すっと離れられるから。




で、こういうふうに変わってくると、まず 自分の心が広々として 風通しがよくなって、軽々感じられて 呼吸がしやすくなります。

とってもいい氣分です

そして、これが自分! と握り締めていた境界線が 徐々にあいまいになってきて、肩の力が抜けて、「何が来ても大丈夫」 っていう氣持ちが強くなったみたい。

それだけ、自分も 自分の道筋も 信頼しやすくなったっていうのかな。

ひとことで言えば、楽になったぁ~ \(^o^)/ っていうことね♪




そんなふうに見方が変わると、楽になった上に、人の視点までお借りして 自分の世界が広がって、情報もたくさんもらえて、結局自分がいちばんトクしてるんですね(*^-^*)ゞ

だから、冒頭に書いたように 「今までもったいないことしたー」 って氣にもなるんだけれど、まあ過去は過去、これからますます 楽に大きく呼吸して、楽しく生きられるようになっていくんだろうな、と 氣持ちを前に向けて進みます




意図してこうなったわけではないけれど、自分でないものを手放し続けてのこの結果、この道筋への信頼が ますます大きくなっている きょうこのごろです (^∇^)
























今のこの地球こそ 「美しき緑の星」 の種

2015年05月25日 10時54分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


映画 「美しき緑の星」 の世界に浸ったあと、わが現実世界に目を転じると、その落差の激しさにめまいがしそうになります

ニュースのタイトルをさっと眺めるだけで 相変わらず殺伐とした空氣を感じるし、ブログのコメントや ツイッターで とげとげしい表現に遭遇して 心が冷たくなることもしばしば。

5月に台風だとか あちこちの火山活動が活発化だとか 氣候もおかしなことになっているし、子どもも含め 心身を病む人も 増える一方のよう。

ここからどうやって 「美しき緑の星」 までもっていくんだー! と ついつい壁にぶち当たるような氣分に陥ってしまいますが。




でも、こういうときこそ 身をもって学んだことを思い出すとき。

悪いほうへ傾けば傾くほど、反転する力も 反転したときの効果も大きい、だったよね☆




ガチガチに上書きされた 負の観念は、ちょっとやそっとのことでは ビクとも揺らがず、むしろどんどん強化されていきます。

そして、行くところまで行って、もうこれ以上こんなの耐えられないー!! となったとき、その思いを原動力に、反転のチャンスが訪れます。

二元対立の世界は、もともとこうやってバランスをとるようにできているんですね♪

そういう仕組みになっているんだから、あまりにも巨大化した否定形だからといって あきらめることはないのだ、自分




今なお大好きなマンガ 「One Piece」 ですが、中でも この記事に書いた アラバスタ国王の名言は、相も変わらず私の中で 作中一のインパクト。

過去をなかったことにしようと目を背けても 意味はない。

とにもかくにも そういうものを生み出した自分であることを認め 受け入れ、そこからスタートを切って初めて 変化を起こすことができる。

それが、自分の選択や行動に責任を持つということ。

責任って、間違ったことをしたら その報いを受けるっていうふうに 「罰」 的な意味合いで 長いこと捉えていたけれど、そうじゃなかったんですね。

自分に責任を持つとは、「悪いのは他者で、自分はなす術なく翻弄されるしかない無力な被害者」 という見方を放棄し、また、虚像である 「自分の外の悪」 に反発して それをますます大きくしてしまうのをやめることで、自分の手に力を取り戻すこと。

世の中全体をどうにかしようと思ったら、それはあまりにも大き過ぎて、問題山積みで、どこからどう手をつければいいのかと 絶望的な氣持ちにもなるけれど、まわりの世界は 自身の思いを映し出す鏡で、変えればいいのは自分だけ、と思いを改めれば、必ず道は開けます(^^)




毒にまみれた自然環境、欲にまみれた人の心、そんなものしか目に入らないときでも、そこを土台に 今 ここから始める、と腹をくくれば、自分が変わり、世界が変わり始める。

今のこの私たちの世界こそ、他ならぬ 「美しき緑の星」 の種なんですね























この道の先に (*^^*)

2015年05月22日 07時27分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


映画 「美しき緑の星」 の動画、相変わらずいたちごっこのようで、見つけたと思うと じきまた消えてしまうので、なかなかご紹介できません。

探しておられる方は、検索をまめになさると うまく行き当たったり、上映会のお知らせに出会えたりすると思います♪

       


なんだか最近このブログ、金太郎飴のように “どの記事切ってもこの映画” という感じですが(笑)、それは この 「美しき緑の星」 が単なるファンタジーや絵空事ではなく、監督兼主演女優 コリーヌ ・ セローさんのメッセージにあったように、「世の中の仕組みを根底から問い直すクレイジーな映画」 として とことん作り込まれているからではないかという氣がします。




もちろんフィクションですから、未来の暮らしでは、家を持たず戸外で寝起きする、とか、家族ごとに 空中ブランコだの アクロバティックなロープ運動だのを得意とする、とか、そういうことが 実現するかどうかはわかりません。

そういった目に見えるところではなく、見えない根っこのありかたっていうのかな、その辺に 「行って かえる」 の 「かえる」 道のりと重なるものを感じるのです。




「行き」 の道々で、本来のあり方からどんどん遠ざかりつつ くっつけてきた、さまざまな観念や欲や尺度。

そして、それらをひとつひとつ見つめ直しては 手放してゆく、「かえり」 の道。

もともとの自分に戻るだけなんだから、と言ったって、山ほど抱え込んでしまった “自分でないもの” に取り巻かれて、もともとがどんなだったかなんて、すっかり忘れて見えなくなっている。

それでも、「このままでは なんかおかしいぞ」 という心の奥の小さな声を ふと信頼したとき、手探りの長い旅が始まります。



迷って 悩んで、ときには 不安に絡めとられ、立ちすくんで動けなくなって。

しかも、自分自身のことでありながら、本来の姿のイメージがなかなか湧かないから、目的地が見えにくく、どこを目指せばいいのかよくわからない。

自分はいったいなにやってるんだろうって、混乱して わけがわからなくなることも。

そんなときに、この映画の 高次の意識を持った人たちのありようを目の当たりにすると、ああ! と どこかほっとするのです。



「美しき緑の星」 の住人たちの、舌のみならず からだの細胞1個1個までが喜びそうな 新鮮な食物、完全にからだとひとつになった感覚を味わい楽しむ運動、頭を忙しくし 感覚を麻痺させるためにあてがう種々の娯楽を必要としない シンプルな暮らし。

前にも書いたように、欠けやとんがりのない まろやかで満たされた心があり、自他の壁がないに等しい そんなありようが当たり前になって初めて、無理なく自然に成り立つ生き方なんじゃないかな。

私もまだとうていそんな境地にはたどりついていませんので、想像がかなりの割合を占めていますが ( ̄ー ̄;)ゞ




もし今私が あの共同体に仲間入りしたら、たちまち第一級の問題児になること請け合いです(そんなこと請合ってどうする)。

まだまだ ざらつきやイガイガが残っているこの心を あそこに持ち込んだりしようものなら、人や自然が見事に融和した 絶妙なバランスを、きっと大きく揺らがせてしまうことでしょう。

ほんのわずかなアンバランスが、たちまち調和をかき乱す、人の心って そんな微妙さがあるような氣がします。

地球人の血が混じっていると知れたら 追放の憂き目を見るかも、というオザム(だったよね?)おじさんの心配も ある意味もっともです。

逆に、多くの穏やかな心に囲まれて 共振共鳴することで、こちらの歪みが正されるなら、とても幸せなことですが




今の私は、まだあの星の住人にはなれそうもない。

でも 行く手には、あんなふうに 「満ち足りているからこそ 多くのものを必要としない」 暮らしが きっとある。

自分ではないものを手放し続けるうちに、形はともかく、あの星の人たちの精神が きっと実現する。

なんとなくだけれど そんなふうに思える、だから この映画に 深い親しみを覚えるのかもしれません(^^)





















まあるく 豊かな心

2015年05月19日 21時10分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「美しき緑の星」 に絡む話、まだ続きます☆




このブログでも 「自分を変える」 という表現をよく使いますが、これは便宜上の言い回しであって、実際には変えなければならない自分なんていない。

ただ、その外側を ほんとうの自分ではないものがさまざまに覆っていて、そこから多くのわだかまりやカン違いや思い残しが生まれるんですね。

そういう 「ほんとうの自分でないもの」 があることに氣づいては、じっと見つめて 幻であることを確認し、ほんとうの自分から切り離して、それが生じたもとのところに返してやる。

それが 「美しき緑の星」 で言うところの 「切断」 なんだと思っています。




まあ あちらが太~い綱ごと派手に一刀両断なら、感覚フォーカスは その細~い繊維を一本ずつちまちまと切っていく、地味で根氣のいる作業ですが(^_^;)

ただ、あまりにも急激な変化は やはり副作用も激しいようで、映画でミラたちに 「切断」 された人々は みなさんかなり妙な具合になっていたものね。

あの人たち あれからどうなったんだろう、普通に社会生活送れるようになったのかな? なんて ふと氣になったりして(笑)

実生活では 少しずつこつこつと、ぐらいがちょうどいいのかもしれないな と思います




誰かの言動に イラッときたりムカッとしたり、そういうとき 昔は 「相手が私を怒らせた」 と信じて疑いませんでした。

今は 相手は脇に押しやって、そんな自分の反応に ひたすら目を向けます。

イラッ ・ ムカッとなる私のハートは、その部分が 石を打ち欠いたようにとんがったり ギザっとなってたり、ハリネズミみたいにツンツンしたトゲが生えているイメージ。

そこに何か引っかかったよ、引っかかるような 荒れてざらついた部分が残ってるよ、という合図が、ネガティブな感情の反応なのですね。

そんな引っかかりを からだの感覚を通して 丹念に観察していると、いずれはすーっと消えていきます。

そのたびに、前よりなめらかな優しいハートになれたかな?(*^^*) と思うのです。




「美しき緑の星」 の住人たちは、まさに 艶やかに磨かれた、まぁるく豊かな心の持ち主ばかりなのでしょうね。

ちょっとした引っかかりでも残っていたら、あの暮らしはできない。

作物の交換場面で、薬草を持ったおじいさんが、希望者の多さに 「そんなにないよ」 と言うと、残念そうなどよめきが起こりますが、それでおしまい。

あの場面、よくはわからないけど、せりふ以上に みなさん 想念みたいなところで感じ取って、より必要な人にゆきわたるよう譲り合ってたんじゃないかな。




自身の心の大切な部分を満たしてもらえなかったという痛みを抱えたままだと、ついついこだわったり譲れなかったりする部分が出てしまうんですね。

まずい、いけないとわかっていても、どうしても反応してしまう。

よ~くわかります、私 譲れないところだらけだったもの(笑)

ミラたちの文明も、数千年前は 今の地球のような物質文明だったとか。

そこからひとりひとりが じっくり自分と向き合い、痛みを癒し 心を磨いて柔らかくなって、ああいう豊かさを獲得したんだろうなぁ。

そして、私たちだって 同じように変わってゆけるんですね(^^)




ハートの荒れが減って 丸みが増えるほど、楽に息をつけるようになり、身も心も ゆったりのびのびしてきます。

私たちも そのうちきっと、ミラたちが星間移動に使っていた 銀色の球体みたいな つるつるぴかぴか まんまるな心で、あらゆるいのちが調和した 穏やかで満ち足りた暮らしができるようになる。

そんなふうに楽しく想像しながら、きょうもハート磨きを続けます

























できます、誰でも♪

2015年05月17日 15時11分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、目の前で スプーン曲げを見たことがあります。

やってみせてくれたのは 知り合いの女性、とある喫茶店での集まりで。

女性がバッグから取り出したスプーンが 「曲げてみて」 とみんなに回されましたが、そのまあ硬いこと、彼女いわく、家中で一番硬そうなのを持ってきたのよ、と。

誰も曲げられず戻ってきたスプーンを 彼女が 「ワン ・ ツー ・ スリー!」 の掛け声と共に ぽん と宙に投げ上げ、落ちてきたのを見たら カクッと直角に曲がっているではありませんか (゜0゜*)

彼女の話では、ユリ ・ ゲラー氏のワークショップに参加したとき、ふとした拍子に 「自分にはできない、曲げられない」 という思い込みが外れて、それ以来できるようになったのだということ。

しかも、もう一度放り投げて、きちんと元に戻してるし (^◇^;)

力づくで曲げ伸ばしを繰り返していれば、金属疲労でその部分がもろくなりますが、この方法だと大丈夫なのだそう。

今なおインパクト大の思い出です。




それから10年ぐらい後だったか、なんと今度は、自分がスプーン曲げをすることに Σ(゜Д゜;)

突然超能力が開花したわけではなく(笑)、誰でもスプーンが曲げられるようにしてくれる人がいるとのことで、友人に引き合わせてもらったのです。

曲げるといっても、前述の女性のように 手も触れずにということではなく、力わざで ぐるぐるねじるように巻いてゆくと知って な~んだと思ったのですが。。。。

手渡されたスプーンを両手で握り、力を入れてみた 第一印象は、

曲がるか~こんなもん!!

もう硬いのなんのって、わぁ~い スプーン曲げられるようになるんだぁ~♪ なんて他愛のないわくわく感に いきなり冷水を浴びせられた氣分 (T_T)

でも 友人によると、この人の手にかかると 相当なお年寄りでも 介助があれば 曲げられるようになるらしい。

ほんとうに曲げられるようになるのかこれ!? どうやって? と 興味半分、不安半分。




参加者は、私と紹介者と あともうひとりの計3名。

スプーン曲げのナビゲーターを務めてくれた男性は、どうやら言葉と笑いのパワーをうまく使いながら、こちらの 「そんなのムリ」 という思い込みを 徐々に外していってくれているようでした。

その人の指示に従って、アファメーション的な言葉を復唱したり、思わず笑っちゃうようなせりふを 身振り付きで言わされたり

あと、しょっちゅう入るのが ほめ言葉。

「○○ちゃん、えっら~い」 という感じで、笑顔で陽氣に 自分で自分をほめるのです。

けっこうハイテンポなナビに従い 次々にいろんな言葉を唱え、合間にそれを言う意味を説明してもらい、ときにはみんなで笑い転げたりして、どんどん進んでいくのですが、そんな中で 自己否定的な感情が ひょっこり表に出ることがあります。

私の場合、最初に 「こんなの曲げられるか~!」 と思った時点で、私ひとりだけできなかったらどうしよう、という不安が ふっと胸のうちをかすめたのですが、まさにそういうことを考えやすいタイプであることを言い当てられ、ぎくりと身をすくめかけた 次の瞬間、間髪を入れず 「はい、ほめて~」 と指示が飛ぶ。

すると、緊張しかかったからだと心が ふわっとゆるんで ほっとするんですね。

どんなことにも ネガとポジの両面があり、否定的な思考も それを見つけて 受け止められた自分をほめればいい、何が出てきても すかさずポジの面に着目してほめることで、痛みや後ろめたさを受け流し、明るい氣持ちを保つことができます。




そんなふうに うまく心をコントロールする術を教えられながら、ころあいを見て 先ほどのスプーンを手に取り、もう一度力を込めると、驚いたことに 絶対ムリと思っていたものが 曲がり出したのです。

もともと持っていたのに 「できない」 という思い込みに抑えられていた力が、男性のナビのおかげで リミッターが外れて 使えるようになったらしい♪

数時間があっという間に過ぎ、柄が二回転ぐるぐると巻かれた2本のスプーンをおみやげに、軽やかな氣分で帰宅と相成りました(*^^*)




あれ以来、心の中で 「そんなのムリ、できないよ~」 という声が上がるたびに、あのスプーン曲げ体験を思い出すのです。

あのとき教わった 思い込み外しのやり方は、その後 からだの感覚フォーカスという 私なりのスタイルに変わりましたが、結局は同じことなんですね。

できないという思いができなくしてるだけ、私たちの持つ可能性は、自分が思うよりはるかに大きいのだ、と。

弱氣になるたび、あの2本のスプーンを眺めては言い聞かせるのです、あのときだって 最初はムリだと思ったけれど、できたじゃない、って♪




あれっきりお会いしていませんが、あのナビの男性と 紹介してくれた友人には、この上ない体験をさせてもらったことを 今も感謝しています。




今の私たちから 「美しき緑の星」 のような世界への移行も同じこと。

難しい、不可能だ という思いを “切断” するのは、方法はいろいろありそうですが、誰にでもできるのです。

もともと持っている力が抑え込まれているだけなのだから。

そして いったんそうなれば、その道のりは 案外近いのかもしれません(^^)