毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

自分を知るということ

2013年05月29日 23時35分21秒 | ふと思うこと


今はもうはっきりとは覚えていないのですが、ずっと前に読んだことがある 故・向田邦子さんのエッセイに、向田さんのお父さんが 刺身などの浸け醤油の量を 娘に厳しく注意する話があったと記憶しています。

必要な量だけを小皿に注ぐように言われ、余計に入れ過ぎて余ると「自分に必要な醤油の量もわからないのか」と叱責され、その残った醤油を 次の食事のときに使わされた、と。

読んだ当時は、そんな口うるさい親やぴりぴりした食卓はいやだなぁ、ぐらいにしか受け止めていなかったのですが、今思うと ずいぶん深い教えだったのではないか、という氣がします。



自分にほんとうに必要なものはなにか。

どれぐらい必要なのか。

「必要」と「欲しい」の違いをわかっているのか。



たかが小皿の醤油ぐらいのことで、とつい思ってしまいそうになりますが、逆に言えば、そんな些細なことについてさえ 自分のほんとうの氣持ちや望みがわかっていないとすれば、「欲する」とか「得る」とかいうのは いったいどういうことなのか。



これもまた、今手元に本がないので 正確な表現は確かめられないのですが、ドイツ文学者・子安美知子さんと 今は亡きドイツの児童文学者・ミヒャエル・エンデ氏の対談集「エンデと語る」(朝日選書)の中で、エンデ氏が 原発問題について意見を述べているところがあります。

「原発に替わる新しいエネルギーはなにか、というのは、私にとって問いではありません」


つまり、今後も原子力発電でエネルギーを得ることを続けていくのかどうか、もし原発がだめなら 替わりにどんなエネルギーを使えばいいのか。。。と、今ほんとうに問うべきはそこなのか?という話。

それより先に私たちが考えなければならないのは、そこまで多くのエネルギーが ほんとうに私たちに必要なのか?というところではないのか。

そういう問題提起だったと記憶しています。

チェルノブイリの事故のあと 原発反対運動に関心を寄せていた私に、強い印象を焼き付けた話でした。




もう何度も書かせてもらっていますが、自分になにか欠けているもの・足りないものがある、と感じ、常に不安に付きまとわれながら生きていたころ、私の食に関するセンサーは 大きく損なわれていました。

心の中を吹き抜ける冷たい風を いやおうなしに意識させられるたび、かきたてられる不安や怖れを忘れようと、からだがほんとうに必要とするのとは違うところで 甘いものやしつこいものを強く求めました。

そのまま突き進めば 見かけが悪くなり 健康を損なうことがわかっていても、食べるのをやめるなんて とてもじゃないができなかった。




虚しさや寂しさでどうしようもなくなったときは、テレビやショッピングに頼りました。

ほんとうに見たい番組か、欲しい品か、などは問題ではなかった。

刹那的にでも、いやなことを忘れさせてくれるような 強い刺激を求めずにいられなかった。

書店や雑貨の店などをうろついては 心から欲しいわけでもない品々を買い込み、関心があるわけでもない番組を 深夜まで見続けて過ごしました。

南紀の山里に住み、テレビを持たず、夕暮れや夜中にひとり風に吹かれながら星を眺めて 安らぎを覚えるようになった今も、あのころを思い出すと、深夜 明るく人氣のあるコンビニに足を向けずにいられない人の氣持ちが わがことのように感じられます。




心の飢えが以前よりずっと落ち着いたとはいえ、「起きて半畳、寝て一畳」というほどストイックなわけでもありません。

今でも 実家に行ったときなど、華やかなショッピングモールでかわいいお店をのぞいたり お茶したり ケーキなど買って帰ったりするのは、わくわくのお楽しみのひとつ♪

ただね、あまりにもきらびやかな商品や設備がこれでもかと溢れかえるような店内をしばらく歩いていると、ここに集う人たちは ほんとうに自分の望みをわかっているのだろうか、この中に あのころの私のように 辛さを忘れるために こういう世界を求めずに入られない人はどれぐらいいるんだろう?などと、ふと思ったりしてしまうんだなぁ。

豊かなのは素晴らしいことだけれど、これはほんとうに「豊かさ」なんだろうか?

ここまで多くのエネルギーをつぎ込んで 多くのものを生み出すことが、ほんとうに人の心を満たし、幸せにするのだろうか?




私のささやかな経験から言わせていただけるなら、不安が取り除かれ 心が満たされれば、物であれ 情報であれ 自然とあまり多くを欲しはしなくなるようです。

ガマンではなく、ね☆

しかも、求める氣持ちに振り回されるのではなく、自分の意思で選んで じっくり味わい楽しみ、満足できる。

欲しいもの
必要なもの = 幸福 の公式の、分子を増やすのではなく、分母が減ることで大きくなっていく 幸福。

それは、多くを求めては得ることにやっきになっていた頃とは比べものにならない穏やかさや安らぎに満ちています。

分子を際限なく膨らませていく幸福は、実は 不安を忘れるために作られた 幻の幸福なんじゃないかなぁ。




人それぞれに 氣づきや学びの歩調・タイミングがあります。

こういう話を外側からいくら呼びかけても、まだその時でない人にとっては 苦痛でしかないでしょう。

それでも、ふと心動くものをどこかに感じるなら、自分と向き合い 自分のほんとうの心をじっくり見つめることは、何よりもまず 自身の幸せの実現への道であり、さらには これまでいくら論じても号令をかけても解決できなかった さまざまな社会問題の氷解への もっとも確かな手立てでもあるんじゃないかな と思います。

外側から強制的にどうにかするものでも できるものでもないことは、もう長い歴史の中で 十分に証明されていますものね。

自分の中から そもそも問題などなかったのだ、と氣づく、それが 今滞っているあらゆる事がらの ほんとうの解決なのだと思うのです。

そして、幻の怖れから解放されて 晴ればれと自由になった心には、まだ現れていない人類の智恵や力が いっぱい詰まっていて、呼び出されるのを待っている、そんな氣がするんだなぁ(^^)




今 世の中のあちこちで 行き詰まって打開策を見出せないような出来事も、外から見れば あまりにも大き過ぎて 手のつけようがない氣持ちに襲われるけれど、自分の中からよくあろう、よくなろうとする人がひとりでも多く増えるだけで 自ずと解けて(溶けて)消えていくんだな、って思えば、私たちの未来も まだまだ捨てたものじゃないよね (^_-)





















あり方

2013年05月28日 13時56分20秒 | ふと思うこと


近畿地方、本日梅雨入りとのこと。

いかにもそれらしい灰色空です

今年は本格的な梅雨になるのかな?

浄化と恵みの雨、それもまたよし♪

ただ、おととしの台風12号のときみたいな とてつもない大降りだけは勘弁だけどね




禁糖10日目。

なんとな~く続いております。

甘いものに氣が向かわないわけではないのですが、アンバランスな執着が外れたおかげで それは単純に選択の問題、となると、「このままもうちょっといったらどうなるかなぁ?」という好奇心の方がついつい勝ちを占めるわけです。

今後は 禁糖の日数記録を伸ばすことに執着しないよう 氣をつけて、だね(笑)




以前、ダイエットであれなんであれ、氣になるのは「太った」「退屈」「イライラする」など 表に現れる現象であり、それに対する手立ては決まって「なんらかの行動を起こすこと」でした。

太ればダイエット、退屈なら氣晴らし、イライラすれば過食に走る、などと、とにかくその現象を消すことに走り、現象のもととなったところに手をつけることは ほとんどありませんでした。

そんな氣持ちの根っこには、「このままの自分ではマズイ、幸せになれない」という否定的な思いがあったのでしょう。

そして、その不安の表れである現象をどうにかすれば 幸せな自分に変われる、という思い込みも。

あの頃と同じ氣持ちで禁糖をするとしたら、それは期待や損得勘定に動かされてのことであり、ひたすら我慢という ストレスの多い形になっていただろうなぁ。




愛読書のひとつである ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」に、「しなければならないことは、何もない」 という “神” の言葉が出てきます。


       “ 「しなければならないことは、何もない」と決めたら、「行為」によって問題を解決するのではなく、「問題」が消えてしまうような存在になるだろう。

         そうすれば、問題を起こす条件は消える。 ” (サンマーク文庫版 3巻・559ページより)


これ、理屈ではうなずけても、実際には長いことわからなくて 生かすことができなかったんです。

でも、ダイエットしたってじきまたリバウンドしてしまうし、氣晴らしはその場限り、過食は新たなトラブルを呼び込むだけ、ということで、結局は同じことの繰り返し、いつまで経っても解決できはしないのだという 苦い体験を経て、もっと根本的なところにようやく目を向けるようになりました。

つまり、「あり方」に。

不満な現象を引き起こすおおもとの部分へと視点を移してゆくと、「~が不満だ」「~が足りない」という飢えた意識が、自分の世界を創り上げているのが見えてきました。

やがて、その「飢え」自体が誤った認識から創作した“幻”であり、実際に起こっていたのは、ある種のからだの感覚と そこから派生する感情だけ、ということに氣づかせてもらった次第は、以前にも書いたとおり。




つまり、そもそも最初から問題なんてなかったんだ、ということに目覚めるだけでよかったんです。

問題をどうにかしようとするのは、問題が「ある」と認めてしまうこと。

だから、いくらがんばっても解決できなかったんですね。

本来の自分に戻るっていうのは、ただ氣づくこと、目を覚ますこと、それだけ。

しなければならないことは、やっぱりなにもありませんでした(^^)




「あり方」に集中するっていうのは、けっこう勇氣がいることだと思います。

今の世の中は、目に見える成果で評価されることがほとんどだから。

私も 知らず知らずのうちに そういう価値観を基準にしていたようで、「こんなことしていていいのか」「行動して 目に見える結果を出さなくていいのか」と、絶えず不安にさいなまれることに。

怖れたり ぐらついたり くじけそうになったり、ほんとうに悩みの多い日々だったなぁ(^_^;)

でも。。。

まだまだ曇りが多く残っているとはいえ、今のまま・ありのままの自分でいいのだ、と自分を肯定できるところから万事が始まる この穏やかな毎日は、迷いながらでも この道を進んできてよかったと しみじみ思わせてくれます。

本来自分のものではなかった世界観を 薄紙をはぐようにひとつずつ取り除けていって、とにもかくにもここまで来た今の自分には、課題はあっても トラブルや妨害はないし、また たとえ何があってもクリアしていけるという静かな信頼が どうやら芽生えてもいるようだから。




一見道なき道だったり 遠回りに思えても、あり方を見つめなおすというのは、幸せであろうとする人にとって 実は一番の近道なのだと、今なら 胸を張って言える氣がします




















“自分”という不思議

2013年05月26日 22時04分41秒 | ふと思うこと


禁糖、まだ続いています。

以前のダイエットと違って、ことさら「ガマンしている」という感じでもないので、かえって続くのかもしれません。

加えて、糖断ちのストレスが減ってゆくのと反対に、このまま続けたら 心身がさらにどのような変化を起こすかな?という興味の方がだんだん強くなってきて。

まあ、特にあと何日、と決めることもなく、欲しくなったらいつでも摂ることにしよう、ぐらいのノリで ゆるゆるいくとしましょうか




以前このあたりに書かせてもらったとおり、今も 感情が乱れると からだの感覚に意識を集めることを続けていますが、幾度となく繰り返すうちに だんだんと、以前は見過ごしていたかすかな感覚にまで氣づけるようになってきました。

「怒り」というのは 感情の引き金になる体感も派手なので、意識するのも簡単でしたが、それ以外に「なんとなく落ち着かない」「どことなく氣が重い」「どうも氣が乗らない」などの やや控えめな氣分の変調についても 氣をつけて観察してみると、胸元からかすかに空氣が抜けていくような、とか、上腕や太もものあたりが少しこわばったような、とか、頭がわずかに締めつけられるような、とか、あちこちに小さな違和感が起こっていることがわかってきました。

さらに最近では、のどの奥や 舌の付け根、眉間や口元、頬骨のあたりの筋肉に 不自然な力を加えていることがちょいちょいあるのも感じ取れるようになってきました。




これまでほとんど氣に留めることもなかったけれど、過去のさまざまな記憶から これほどいろいろな感覚をわが身に引き起こして、しかもそれに氣づかずに長年過ごしていたとは。

そして、その感覚から派生した さまざまな感情のストーリーに ずっとずっと翻弄されどおしだったとは。

自分という もっとも身近なはずのものが、もっとも見えない、わからない、この不思議。

きっと今でも、まだまだ氣づいてないことがたくさんあるんだろうなぁ (- -;)




禁糖を続ける中でも、いろいろと氣づかせてもらったことがあります。

これまで当たり前のように 甘いものを喜び、ときには執着し、甘いものなしで暮らすなんて考えられないと思って過ごしてきたけれど、その喜びや執着って、実はなんなんだろう。

美味しいということ、食の喜びや満足って、ほんとうはどういうものなんだろう。

これまで「食」というものを大事にしてきたつもりだったけど、その「大事」って、実はかなりあやふやな土台(意識の浅い部分での満足)の上に成り立ってたんじゃないだろうか。

このような豊かな時代に生かされて、ただ「生きるために食べる」という以上の要素が食にあるのは確かだと思うけれど、それはいったいなんなんだろう?




空氣のように自然にそこにある、という感じですっかり見過ごしていたものが、実は 後付けで作られた 不自然な感情や常識だったということ。

自分をよくよく見つめ、そういう「本来の自分ならざるもの」を見つけてゆくことが、心の曇りを取り除いてゆくことにつながります。

だから、こういう作業が大好きで やめられないんだなぁ♪

禁糖がなんとなく続いているのも、このあたりが原動力になっているような氣がします (^^)

この先どうなることやら、楽しみ、楽しみ♪















禁糖

2013年05月25日 21時38分55秒 | ふと思うこと


つい先日まで知らなかったのですが、「禁糖」というのがあるんですね。

春先から梅雨ごろにかけての1~2週間ほど、糖分・アルコール・コーヒーを断って からだの調整をはかるのだとか。

たまたま目にした情報で、なんとなく頭の片隅に残っていたのですが、19日の朝、起き抜けの布団の中で なぜか急に「よし、あれやろう」と乗り氣になって、その勢いのまま突入してしまいました

というわけで、本日禁糖7日目。



やり始めてから あちこちのサイトでもう少し詳しい説明を探してみたのですが(おい)、ひと口に禁糖といっても、糖分の入っている加工食品や調味料はもちろん 穀類や果物まで制限する厳密なものから、穀類・果物ぐらいはOKとか、黒糖や蜂蜜などの甘味料ならよしとするなんていうのまで、いろいろとあるようですね。

私は、加工食品はまず使わないから問題ないので、砂糖類は 黒糖や蜂蜜も含めて摂らず、穀物・果物・調味料はOKというスタイルに。

あまり神経質になり過ぎると かえってストレスになっちゃうからね☆

アルコールはもともと飲めないし、最近どちらかというと コーヒーより紅茶の方に嗜好が傾いてきてるので、家事の合間に楽しむ温泉コーヒーがちょっぴり恋しいぐらいで これもさしたることはなし。

糖分については、実をいうと 最近、温泉コーヒーに入れるきび糖の量が増えたり、ときどき無性に甘いものが食べたくなることがあって、ちょっと氣になってたんですね。

以前の過食の記憶から、これはからだが欲しがってるのではなく、心のどこかにバランスを崩しかけてる部分があるようだな、と。

だから、そういう状態でいきなり糖断ちというのはちょっとキビしいけれど、とにもかくにも始めてしまったということは、それを超えて 今この時期に心身の調子を整えることを ぜひともやりたかったのでしょう。



過去のさまざまな経験からいって、だいたいキツイのは最初の3日ぐらいかな、と思っていましたが、案の定。

1日目、2日目と、甘いものが氣になって どうも落ち着かず、3日目でクライマックスに。

久々に 心の調子をがたがたに崩しました(^^ゞ

そして、今思うとあれって一種の“好転反応”だったのかな?という感じなんですが、4日目からはうってかわって爽やかな心持ちに。

甘味への欲求もほとんどなくなり、とても清々しい氣分で過ごすことができました♪



そもそも、何かに依存せずにいられないというのは、そこに「調子崩しているところがあるよ。放っておかない方がいいよ」っていうことなんですね。

問題は糖ではなく、必要以上にそれを求めずにいられない心のあり方のほう。

禁糖を始めた時点でそこまで考えていたわけではありませんが、そこで敢えて依存の対象を外してしまうことで バランスを崩した部分があぶり出されたのは、結果的にいいことだったのでしょう。

1~2日目は、落ち着かなくなるたびに、からだに起こっている反応をひたすら見つめていました。

そして、それがいくら観察しても消えるどころか 余計にエスカレートして荒れ狂ったのが3日目。

甘いものどうこうを超えて、過去のイヤな記憶が際限なく上がってきて、打つ手がない。

ほとほとくたびれたところで、これはもうクリアボタンを押すに限ると 早々と布団に入って寝てしまいましたが、翌朝目が覚めたら、前夜のことがウソのような すっきりした寝起きに



この「過去のイヤな記憶」に、格別目新しいものはありませんでした。

やはり、長年積み重ねてきたものは、解き放つにもそれなりの時間がいるということなのでしょう。

ただ、長い付き合いの中で こちらもだんだん賢くなって、あまり振り回されなくなってはきているようです。

今回も、甘いものへの欲求が強まり出した時点で すぐに自分の内側に目を向けていたら、ここまで大暴れはしなかったんじゃないかな。

またひとつ学べたね♪

やがてすっかり鳴りをひそめる日も そう遠くないかもね♪



ひたすら自分を見つめて 曇りを取り去る繰り返し、地道で根氣のいる作業だけれど、それだけの値打ちはあります。

あの大暴れがもっと頻繁に起こっていた時だってあったんだもの。

それを思うと、今のこの穏やかな日々の なんてありがたいことか。

どこまでも続けますよ、自分磨き、魂磨き(^^)



とりあえず1週間をめどにしていた禁糖、いちおう今夜で一区切りなんだけど、明日からどうしようかなぁ。

もう少し続けるもよし、依存ではないところでほどほどに甘味を楽しむもよし。

まあ、始まりと同じく、「氣の向くままに」ということにしておきましょうか














心穏やか

2013年05月24日 21時01分34秒 | 紡ぐ暮らし
ブログ 1ヶ月近くお休みしてたんだねぇ。



更新のない間も訪れて下さったみなさま、ありがとうございます。

おかげさまで、日々健やかに過ごしております。

見える世界では、いつもとさして変らない 淡々とした日常。

心の中は。。。


(*^ー^*)




もうすっかり日が経ってしまったけど、4月28日、母の旅立ち一周年の集まりは、弟一家&愛犬ソッティくんと、埼玉からはるばる来てくれたおば、そして父と私で 和やかに行うことができました。

全員揃っての晩ご飯は、体調の関係でしつこいものが駄目なおばに合わせて、散らし寿司に若竹汁、筍や蕗の煮物に茹でソラマメ、サツマイモとリンゴの白和えに、ややこってり系の一品プラスで鳥モモ肉の照り焼き・千切りキャベツ添え。

前もって下ごしらえできるところまでしておいて、当日はみなに助けてもらいながら料理の仕上げ、中でも白和えの衣は、大ベテランのおばにすりこぎの使い方のコツを教わりながら、女性4人がかりですった力作♪

台所技の伝授、世代の違う4人の合作、と、母への手向けにぴったりの一品に(^^)

濃い目の味付けの筍と対照的に 薄味で煮た蕗は、どうしてもいまひとつ味がぴんとこなくて おばにアドバイスを求めたら、塩ひとつまみでぴたりと決まり☆

さすが年季が違うなぁ♪



母の味、おふくろの味ってよく言うけれど、私の味付けはやはり母直伝だし、姉妹である母とおばの味付けは 祖母譲りのもの。

おばの煮物の味も すりこぎを使う手つきも、私から見れば 母や祖母そっくりの懐かしさ。

こんなふうに、代々受け継がれていくなじみ深い家庭の味があるのって なんかいいなぁ、としみじみ思ったことでした。

母も祖母ももういないけれど、その味が再現されることで 懐かしい愛情の記憶に浸ることができる。

結婚して パートナーの味が加わったり、目新しいメニューを次々とものにしたりして、新しい家庭の味が作られ伝わってゆくのもまた素敵なこと。

拙い料理でも、楽しく作って、美味しいと喜んでくれる人がいて、いつの日かその食卓を懐かしんでもらえる日が来るかもしれない。

暮しをていねいに紡ぐ楽しさは、自分も人も喜ばせることのできる暖かい世界を創る楽しさなんだね♪

幸せなお役目だねぇ




奈良から戻って、特にこれといった大きな問題やトラブルもなく 心穏やかな毎日を送っていました。

それでも、身のまわりのさまざまな光景や ネットなどからの情報を通して いろいろと思うことはあり、約一ヶ月の沈黙の中で だいぶ熟して形になってきた感があります。

そろそろまた、思いのたけをつらつらと書かせてもらう日々に戻るようです。

よろしければ、どうぞお付き合いくださいませ m(__)m