毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

神とアバター

2017年09月01日 12時09分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“私” の本質は、外ではなく内にあるのだな、と改めて思います。

以前は 私と聞いて即思い浮かぶのは 姿形であり 名前であり 性格であり。。。。と 五感ですくい取れるものばかりでした。

が、そのひとつひとつについて じゃあ姿形が私? 名前が私? 性格が私? と問うと、どれもこれも Yes! とはならない。

さらに 考えることや氣分はころころ変わり どんな快い心情も ずっととどめおくことはできないし、心を生々しく振り回す激情も じっと見つめれば やがては消えてしまう。

これまで私が “私” だと思ってきたものは、“私” の部分的 または一時的な表れであって、“私” そのものではなかったようです。

ならば、そういう 「部分」 や 「いっとき」 でしかないものを 玉ねぎの皮をむくように剥がしていって さいごに残ったものは? というと、それが あの “ある (在る)” だったのです。




このコントラストの世界にあって その影響を決して受けない、否定でも肯定でもないところで 決して打ち消すことのできないのが “ある” という感覚。

本質 = “ある” と見ると、万事しっくり収まる感じがします。




“ある” に意識が向く時間が増えてゆくのと並行して、外側の自分 = アバター という見方が板についてきました。

アバターとは 「ウェブサービス上に用意された仮想空間で、自分の分身として顔 ・ 髪型 ・ 服装 ・ 装飾品などを自由に選択して作成できるオリジナルキャラクター」 をさす英語ですが、その語源はサンスクリット語で 「ヒンドゥー教の神話で 『この世に現れた神仏の化身』 や 『思想などの体現者』 を意味した」 ものだそうです。 (語源由来辞典より)

まさにそのとおり! というしかない

このちっちゃな個の自分よりももっとはるかに大きななにかが存在する、と感じている人はおおぜいおられるでしょうが、それを自分とは別物と捉えると 「神」 ということになるのでしょう。

正直 ずっと仰ぎ見てきた神を イコール自分と見る感覚は まだまだなじみにくいのですが、そのあいだに “ある” を挟むと、うんうんそうなんだろうな、今はぴんとこなくても そのうちきっと腑に落ちるだろうな、ぐらいには思えてきます。

その神であるはずの自分が 三次元世界という仮想空間に分身として送り出した個性豊かなキャラクターの群れが 今のこの私たちなんですね。

こうやってせっせと文章を書いたり 日常の暮らしをこなしたりしているマインドの自分を 「分身」 の位置に置くことに、とまどいやためらいを覚えなくなりました。




そして、自分の本質が “ある” で これまで自分と思ってきたものがアバターであると 抵抗なくすっきり認められるようになったのは、ハートが主でマインドが従という ずっと追求してきたバランスを ついに獲得した (取り戻した) 証のような氣がしています \(^o^)/

マインドがすべてだった世界に小さなすきまがあき、感覚フォーカスを重ねるにつれて そのすきまがどんどん大きくなって、やがてマインドは その元すきまの広々した空間に浮かぶ小島だと思うようになりました。

ハート ・ 真我 を通して感じるものを マインド ・ 小我がなるべく素直に形にして表現する、これが本来の “私” ということでいいんじゃないかな♪

こんな文章を書いていたころにはまだまだまるで追いついていなかった実感がようやくわがものとなった (ように思う) のは 実は一年以上経ったついきのうのことなのですが、ずっと望んでやまなかった心の安らぎ ・ 平和は このバランスあってこそなのだな、としみじみ思う 現在の貴秋です。