毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ありがとうございました!

2015年12月31日 19時49分02秒 | 紡ぐ暮らし


29日、抜けるような青空の下、無事奈良に到着しました。

おととしみたいな憂き目に遭わずにすんでよかったです

天辻峠を通るたびに、あのときのことを思い出すんだよね(^^ゞ




きょうは、京都旅行中の従姉が 母にお線香を上げに 実家に立ち寄ってくれました。

車の中に置いたままの物を取りに 表に出たら、予定より早く到着した従姉が 目の前に立っていて びっくり、そして感動の再会。

身内のほとんどは関東在住、この従姉も東京に住んでいて、会うのは20数年ぶりのこと。

孫が4人もいるとはとても思えないほど若々しく元氣な従姉、昼食を挟んで 父と三人 楽しいおしゃべりに花が咲き、一年の終わりに この上ないひとときを過ごすことができました (*^^*)




後に行くほど盛り上がった2015年、そして来る2016年は 一筋縄ではいかない アクティブな年になりそうな予感がします。

楽しみなような、ちょっとドキドキなような。。。。




今年は これまで以上に 時間にこだわりなく のんびりマイペースのおせち作り、たぶん 年を越してもまだ作り続けていることと思います(笑)

台所から聞こえてくるのは、父が見ている紅白歌合戦、そろそろ私も台所に戻るとしましょうか♪




今年一年 ありがとうございました。

来年も どうかよろしくお願い申し上げます。

みなさま よいお年をお迎えくださいね。




そして、またじきに 新年最初のブログでお会いしましょう (⌒∇⌒)ノ
























奥深い

2015年12月29日 06時18分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


夕べはちゃんと寝るつもりだったんだけどなぁ。。。。

大掃除と買出しでおおわらわ、帰宅してメールなどチェックするうちに 例によって いつの間にか眠り込んでしまい、目が覚めたら夜中の11時半

まあ仕方ないか、昼間張り切って動いたんだものね♪




わが家はどうにかこうにか格好がついたし、さてきょうからは実家へ移動、例年より一日少ない持ち時間での年越し準備、どうなりますやら




まだほんの数日前のことですが、“純粋な悲しみ” というものを 初めて体験しました。

それまでの私は、悲しみと怒りが いつもセットになっていて、ひたすら悲しいだけなんて境地、ほんとうにあるんだろうか? と疑問だったのですが、そのとき滲んだ涙には、いくら探っても あのおなじみの激しい動悸や圧迫感が まるで感じられなくて。

しんと静まり返った内側、ただ瞼の裏だけが熱くなり、やがてその熱が じぃんと細かい振動のさざ波に変わって すーっと尾を引くように 胸の奥にまで染み渡っていく。

哀切な思いを ただ静かに伝えるだけの ピュアな悲しみというものが ほんとうにあったと知ったときの驚き。




人が作り出した思い込みやわだかまりにも、層があるようです。

まず最初に触れるのは、怒りや不安など 派手々々しくキャッチしやすい感情と その体感。

それをひとつひとつじっくり味わい からだのあちこちに残る記憶を解放してゆくと、やがて次の層が 下から顔をのぞかせる、そんな仕組みになっているみたいです。

その 次の層 が 「悲しみ」 だったんですね。




喜びそのもののような小さな子ども、まだ限りなく神さまに近いままで、どんなことだってうまくいく、やっていける、と信じて疑わなかったのが、人間くさいこの世で 最初に壁に突き当たったときに まずショックと共に感じるのが、この純粋な悲しみなんじゃないかと思います。

それを率直に表現し切れれば そこで終わったのかもしれないけれど、そんな様子を咎められたり 泣くことを許されなかったりすると、素直な氣持ちを押し殺すようになり、その蓄積が やがて怒りや不安を生み出すらしい。

最初の悲しみを きちんと受け止められていたなら、その後の 怒りに振り回された 嵐のような数十年はなくて済んだのかもなぁ・・・・と ため息をつきたくなりましたが、でも そんな難題があったからこそ、それをじっくり解いてゆく喜びも味わえたんだものね(^^)

人の心は つくづく奥深いです。




その外側については、早くも大きな変化 ・ 変動が さまざまに予測されている 2016年。

年越しの支度でバタバタ慌しく、来年の抱負までは まだ氣がまわりませんが、今年、とりわけその終盤に体験したような 充実の時間や、同じように内なる世界を大切にする人との出会いや関わり合いが多い年であればいいなぁ、と ひそかに楽しみにしているところはあります。




新しいカレンダーがめくられるまで あと3日。

2015年のおしまいまで、密度濃い時間を 味わい尽くす氣満々の貴秋です (^^)
























深夜のお月見

2015年12月26日 03時39分52秒 | ふと思うこと


きょうもまたまた 夜中の更新




お隣小学校の校庭で、深夜のお月見をしてきました。

この山里に住むようになって、星明りさえ十分明るいと知った今、満月の輝きのまぶしさは格別です。

背景にはもくもくの白い雲、上空は風が強いのか けっこうな速さで流れてゆきます。

動いているのは雲なのに、手前の月の方が するすると雲の間を泳ぎ渡るように思えてなりません。

いつもなら黒く見える夜空も 月の光に照らされて 青みを帯び、そのまた青みが 白雲に映えて、なんともいえない美しさ。

ときおり雲のすき間から きらめく星が顔をのぞかせ、ところどころ白雲に混じる灰色雲のポケットに月が滑り込むと、かすかな光の濃淡のうごめきとなり、雲の通過と共に 再びまん丸い顔を出す。




夜中にひとり ぽつんと校庭に立っていると、かすかな怖さもあります。

それは、かつてさんざん悩まされた 不安や怖れの影とは違い、感覚を鋭くし、生きていることを強烈に感じさせ、喜びすら覚えるほどの いのちの証。

目を閉じていると、微風に髪がそよぎ、自分の中の野生が頭をもたげるような感覚に襲われます。

内も外も 静まり返った濃厚ないのちの氣配に満ち満ちて、全身で “今 生きて ここにある” と感じます。




「余白の美」 「行間が語る」 などとは よく見かける表現ですが、美しいもの、感動を覚えるものと出会ったとき、その本質は それ自体よりも まわりの目に見えないすき間に立ち込めていると思うようになりました。

決して派手々々しく働きかけてなどこないそれは、こちらがその美しさに打たれ 心を開いたときに、初めて感じ取り 通じ合えるものなのかもしれません。

対象を通じ、共鳴する 自身の内側のそれを感じて打ち震える。。。。感動とは そいうものなのでしょうか。




荘子の 「無用の用」 ではないけれど、合理的に 効率的に、とがんばってきたことで、こういう余白やすき間が忘れられ、私たちは いのちから遠くなってしまったのかもしれません。




    “ 時間をケチケチすることで、本当は全然別のなにかをケチケチしているということには、誰ひとり気がついていないようでした。

      自分たちのいのち(生活)が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、誰ひとり認めようとはしませんでした。”


大好きな一冊、ミヒャエル ・ エンデ作 「モモ」 も、ファンタジーを通して、今の世界が失くしかけている 大切なものについて、生き生きと語りかけてくれます。




極限まで ゆとりを切り詰め、生命力の枯渇が あちこちで目につく今だからこそ、その対極となる動きも 注目され 活発化してくるのかもしれません。

世界遺産ブームが過ぎてなお、熊野古道歩きに訪れる人たちを見かけるたびに、ふとそんなことを思ったりします (^^)






















ことしも Happy Christmas 

2015年12月25日 07時18分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


お越しくださったみなさま、Happy Christmas!

ことしもイギリス流のご挨拶、「ハリー ・ ポッター」 で ハーマイオニーも言ってたよ♪




貴秋がよく言う 「自分の世界は 自分の思いが創っている」 、これ聞いて 「はぁ?」 な方もおられるかと思います。

わかります、私だって 初めて聞いたときは 「はぁ?」 だったもの。




何より思ったのは、「自分が創っているなら、なんでこんなに自分が氣に入らないものばっかりあるのよ」 (^_^;)

うんうん、ある意味そこなんだよね、これをとことん見ていくと、しんどくも もっとも味わい深いのは。




人が作った ありとあらゆるものは、まず 誰かの想像から始まっています。

想像と創造が同じ音なのって、決して偶然じゃないよね。

こんなものあったらいいな と 誰かの中で芽生えたものが 形を得て、私たちの暮らしは そういったものに囲まれ 支えられている。

毎日使う食器も衣類も机も、大きなビルからつまようじ1本に至るまで、その始まりはすべて 誰かの頭の中。




さらに、その作られたものの用途も、使う人の思いが決めます。

金づちだって 包丁だって、使い方ひとつで 人を喜ばせもすれば、傷つけもする。

その極まった例が、兵器産業や原子力なんじゃないかな。




私たちの思いは、複数集まると 大きな相乗効果を発揮します。

他者の思いから引き出されるものって、ほんとうに大きい。

すっかり自信を失っているとき、誰かのひとことから 再びこんこんと氣力が湧き出したとか、逆に 楽しい氣分が急転直下、あたりの景色がたちまち色あせて見えたとか、誰でも一度ぐらいは経験あるんじゃないかな?




ヒトラーは、今でも悪人の代名詞みたいになっているけれど、ヒトラーひとりで あれほどのことができたわけじゃない、その後ろに大勢の支持者がいたわけで。

不安や憎悪で結びついた思いは、正視できないような悲劇を引き起こすけれど、逆もまた真なり、小さな個人の優しい思いも、たくさん集まれば どれだけの力を発揮することか。

大きな災害に見舞われるたび、世界中から励ましの声がかかり、支援の手が差し伸べられる。。。。そんなところに、私たちの思いの力の片鱗を 見て取ることができます。




愛? 平和? なにそれ? っていう人が まだまだ多いこともわかっています。

それもまた ひとりひとりのプロセスだから。

ただ、何をどう言おうとついてまわること、それは、愛も平和も 私たちの本質そのもの、成分そのものだっていうこと。

日本の私たちは、あの東北大震災のときに見たはず、浮浪者のおじさんが ここに座れって新聞紙渡してくれたとか、金髪のお兄ちゃんが ゲーム買うお金を募金したとか、そんな話どっさりあったよね。




この二元対立の世界では、本来の愛という性質にも 正と負の二面が生じます。

そこに、憎悪や 見返りを求める愛 (ほんものとはいえない愛) の生まれる余地ができます。

さらにそこから派生して、悲しみ、不安、怒り、恨み、と どんどん広がって。




でも、ほんものじゃなければ、じっと見つめれば その性質があらわになり、やがて消えていきます。

今の世の中を見渡して、「思いひとつで これを動かせるわけがない」 と絶望に駆られたら、まず その氣持ちを、言葉を交えず まっすぐ見つめてほしい。

ただひたすら見つめてほしい、なにも考えないで。

時間はかかっても、答えは必ず出るから。




答えが出れば、何をすればいいかは 人それぞれに おのずとわかります。

どれだけ厚い雲に覆い隠されても 太陽がなくなることがないように、どれほどの迷いに包まれていても 私たちのほんとうの姿も 決して変わらないもの (^^)




きょうはクリスマス、世界中の思いが 愛や平和へと向かう日。

直接戦地に乗り込んで 兵士を押しとどめたり 武器を取り上げたりすることはできなくても、想像すること ・ 見つめることは 誰でもできます。




おしまいに、型どおりで照れくさいけれど、この曲を。




ジョン ・ レノンは 知っていたんでしょうね。

私たちが 本氣で心の奥底に手を伸ばせば、ほんとうの思いに届くことを。

そして、そんな思いが集まれば、世界はあっさり変わることを。




お読みくださってありがとうございます。

みなさまも、よい一日を、そして 楽しいクリスマスを。








p.s. もうひとつ、きょうは満月、二重に思いの満ちる日。

   ジャスト満月は 20時11分だそうです☆





















一陽来復の言祝ぎ

2015年12月23日 06時45分23秒 | 日々の楽しみ


冬至のたびに思うのだけれど、一年で一番長い夜って、21~22日か 22~23日か どっちなんだろう?

どっちか氣になるわりには ちゃんと調べもせず、毎年 どっちかなぁ? まあいいや どっちでも。。。なんて思ってる “いい加減” 貴秋です ( ̄∇ ̄*)ゞ




例によって きょうも超早起き、ツイッターをチェックしていたら、あら また@ツイート頂いている、わ~ 三つも♪

ひとつは可憐なお花の写真、あと二つは 同じこの写真を送られた人から 全員宛に お返しの風景写真・・・・ん、あれ?

石畳に 自転車に ずらりと並んだお店らしき建物、ここってもしや?




お礼のコメントに 「どこの街ですか?」 と書き添えたら、しばらくして 今度は私ひとり宛てに また風景写真の@ツイート、ついているハッシュタグにひとこと、“Amsterdam”

アムステルダム! やっぱり!

いや なんのことはない、数日前に アムステルダムについて やたら調べ込んだから、っていうだけのことなんですが。

しかし たったそれだけのことにしては、この胸の弾みようといったら どうでしょう




貴秋は 生まれてこの方、まだ日本の外に出たことがなく、飛行機に乗ったこともありません。

なのになぜか ひょんなことから 旅行代理店でアルバイトをしたことがあって、最初は電話番ということだったのだけれど、忙しくなり 人手が足りなくなるにつれて、少しずつ仕事の範囲が広がってゆき、あちこちの旅行代理店や領事館にお使いに行ったり、タイプライターで 出入国カード(だったっけ?) を打ったりするようになって、ついには ツアーのお世話をする日がやってきました。

お客さまは、大学の卒業旅行で オーストラリアに行くという お嬢さんお二人。




いやもう、あれほど必死で調べ物をしたことってありません。

海外旅行に慣れておられる方には笑い話だと思いますが、私にとって 日本の外は 右も左もわからぬ異世界、大陸横断特急にえんえん一日以上乗るとか、オプションでアリススプリングスに行きたいとか、向こうの治安って大丈夫なのか? 乗り継ぎがわかりにくいとか 時間が足りないとかないのか? と、心配性の母親そこのけの 頭の回りよう。

若いお嬢さん方の門出の旅に、万が一にも間違いがあったりしたら 大変だもの

今みたいに PCでなんでも調べがつく時代ではなく、とにかく手に入る資料を読み漁り、オーストラリアに強い代理店や、社長に紹介してもらった 現地でマリンショップを営む日本人店長さんなどを質問攻めにして、やっとのことで ツアーを組み上げ、チケットその他 必要なものを取り揃えて、お二人にお渡し。

出発初日から、ニュースのたびに テレビにかじりついて、どうかオーストラリアで何事もありませんように。。。と 祈る思い。

どうやら無事に旅を終えたらしいとわかったときの ほっとしたことといったら。




後日 思いがけず届いた オーストラリアからの絵ハガキの、楽しそうな文面と お二人の思いやりに、じ~んと涙が出そうになったものです。




あれ以来、行ったこともないオーストラリアなのに、アリススプリングスだとか インディアン ・ パシフィックだとか聞くと、心のどこかがぱっと反応して 氣持ちが浮き立ちます。

不思議なもので、ただ受身に眺めるのでなく 積極的に関わったり 調べ込んだりしたものは、自分の中に取り込まれて、自分仕様に色づけされた 独特の世界が出来上がるらしい。

思えば、物語や映画だって 愛着あって 繰り返し見たり読んだりしたものは、やはり同じように 内側に独自の世界を創り出すのだから、行ったことない国とて 同じことなのでしょう。




オーストラリア、そして 今度はオランダか。

それにしても、世界に数ある都市の中から、このタイミングで アムステルダムとは、シンクロニシティって つくづく面白い☆

私の英語力では この面白さを詳しく伝えられないのが残念だけれど、心を込めて “Happy! THank you♪” と お返事しておきました (*^^*)




冬至の夜を過ぎ、ここからまた 少しずつ日が長くなり出す “陰極まり 陽に転じる” の初日、なんだか幸先いいなぁ、と心ほっこりの夜明けです























 

ひとり時間

2015年12月22日 03時51分40秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


こんな時間にブログ!? と思われそうですが。。。。

はい、こんな時間に起きてます

たしか去年だったかな? ドクター南雲に影響されて、暗い時間を健康的に楽しむために、早寝して 夜中3時ごろから起き出すという習慣を取り入れてみたのですが、最近これが高じて、日の入りと共に、つまり 今なら夕方5時半~6時ぐらいには寝て、深夜12時~1時ぐらいに目覚めるというパターンが 定まりつつあるのです。

といっても きちんと自己管理してのことではなく、散歩から帰ってこたつでのんびりしていたら いつの間にか寝落ち なんてこともしょっちゅうなのですが (^^ゞ




深夜のひとり時間が大好きです。

すっかり人の氣配がなくなって、その分 自然のありのままの氣配が 濃厚に立ち込めて、自分と向き合うのにうってつけのひととき。

内観して、PCであちこちのサイトを渡り歩いて、ときおり月や星を眺めに出て、熱いコーヒーを淹れて・・・・と、お楽しみは尽きません (*^^*)

こんな素敵な時間を、どうしてスルーできましょう☆




最近 立て続けに出会った言葉、「ひとりでは幸せにはなれない、他者と関わってこそ幸せ」 。

うんうん、私もそう思っていた時間が長かったのだけれど。

今の貴秋は、ひとりでいるのが 大好きです。

ひとりでいるときほど、そこかしこに偏在する あたたかく親しみ深い いのちの氣配を、ありありと感じることができます。

孤独どころではない、そんなときほど 「どれほどひとりぼっちに思えても、決してひとりではないのだ」 という言葉に 大きくうなずけます。




孤独だと感じるのは、壁を作って そんな大きないのちから 自分を切り離してしまったとき。

私も、そういう時間が長く続きました。

そんな状態で ひとり山の奥に踏み込むと、あたりの氣配に圧倒されるようで 身の置き所がなく、いたたまれなくなって 逃げ帰ったりしました。




自分の内側から目を逸らすのをやめて、見つめて見つめて。。。。そうこうするうちに、いつのまにか 沈黙の世界が 親しみ深いものに変わっていました。




複数で楽しく過ごしていると、いのちから離れていることを忘れられます。

でも、ひとりでは淋しいから 幸せじゃないから、誰かといっしょにいる、となると、そこにはどうしても 依存や執着が生まれます。

これも、もうたくさんと言いたくなるぐらい さんざん繰り返してきたことです ( ̄∇ ̄*)ゞ




ひとりでは不安、淋しい、満ち足りない、そんな自分とじっくり向き合って、心のすき間を見つけては 修復し、ひとりでも楽しいと思えるようになって初めて、人ともいい関係が築けるような氣がします。

どんな自分も愛して 氣持ちよく付き合えるようになることで、自分以外の人も愛し、楽しく付き合えるようになるのだと思います。




貴秋は ひとりが好きだけれど、人と交わるのも大好き♪

ひとりでも楽しい人が 複数寄れば、1+1が 10にも100にもなるようなマジックが働いて、大きな喜びが生まれるもの \(^o^)/




昔は 人嫌いで 自分も好きになれなくて、意固地で孤独だった貴秋、今は 「ひとりは楽しい、おおぜいならもっともっと楽しい」 と信じて疑いません。




何度も言うけれど、人って変われるものです






















在る

2015年12月19日 23時17分02秒 | 自然


ここ数日の寒さと強風で、木の葉がめっきり減りました。

華やかだったハゼの紅も すっかりなくなってしまい、お隣小学校のイチョウも てっぺんにわずかな葉を残すのみ、入れ替わって 青空をバックに 黒々したシルエットを広げる レースや切り絵のような枝々。。。。

豊穣の秋から冬枯れへの移行、だんだん年末らしい風景になってきました。




華やかさはないけれど、冬の枯れ野には 力強さを感じます。

一見枯れ木のような姿の内で 次の芽吹きへの準備が着々と進み、枯れ草の根元でも、新しい種が 暖かい季節の到来を 静かに待っている。

静まり返ったあたり一面に、見えも聞こえもしない いのちの力がみなぎり 脈動しているのが、伝わるともなく伝わってきます。




植物のいのちは、主張しない、こちらに向かって 一切働きかけてこない。

それでもなお感じるその力とは、「在る」 ということなのかな、と思います。

ひけらかさない、アピールしない、する必要もない、ただ 自身の 「在る」 ことをわかっている、それが生命力というものなんだろうか。

そのつつましい力強さに じっと心を傾けていると、同じそれが 「愛」 というものにも思えてきます。




冬の夜長、自分の中の そんな 「在る」 の氣配に 耳を澄ませてみようかと思います。


























変える 変わる 言葉

2015年12月17日 23時03分30秒 | ふと思うこと


氣温がぐんと下がって、強い風が吹いて、ふと氣がついたら お隣小学校のイチョウの木の葉っぱが ほとんどなくなっていました。

暖かい日続きで 今が12月だということも忘れそうなほどだったけれど、やっぱりもう冬なんだね。




10日の今年さいごの読み聞かせで、ずっと “封印” していた絵本を 6年ぶりに読みました。

担当学年は 5~6年生、6年前にはまだ保育所に通っていた子たち。

読んだ絵本は、「100万回生きたねこ」 。




絵本の筋は、書きません。

まだご存知ない方には、なるべくなら なんの予備知識もない まっさらなままで、この本と出会っていただきたいから。

心からおすすめしたいけれど、どういうお話かは語りたくないジレンマ、ここからこの話 どうやって進めましょう。。。。




筋は書かないけれど、内容には どうしても触れないわけにいかないので、よし まっさらな状態のままでいよう、と思われた方は ごめんなさい、ここまでにしておいてください m(__)m















*           *           *           *           *

















この絵本を読めなくなったのは、その中のたった二文字、「ええ」 というせりふが どうしても納得いくように読めなかったため。

100万回も 死んでは生き 死んでは生き を繰り返した、自分大好き、今でいうところの 「自己中」 なねこを がらりと変えた、白いめすねことの出会い、そして その白いねこが ねこに向かって言った、「ええ」 という言葉。




ビートルズのジョン ・ レノンが、オノ ・ ヨーコの個展で 初めて彼女と出会ったとき、作品 「天井の絵」 で 部屋の真ん中の白い脚立に昇り、ぶら下がった虫眼鏡で 天井に書かれた小さな文字を読んだら、「YES」 と書かれていた、というエピソードが好きです。

ふたりの出会いのきっかけとなった 「YES」 という言葉、そして その後のふたりのたどった道筋、それほどまでに人生を大きく動かす 「YES」 に匹敵すると思える、白いねこの 「ええ」 。

いつものように なにげなく借りてきた絵本の たった二文字を、何度練習しても、どうしても満足いくように読めない。

たった二文字だからこそ、そこにすべてを変えるほどの力がある、と意識するほどに、どう読めばいいのかわからなくなって、深夜まで 呻吟し続けることに。




迎えた当日、この本を子どもたちに紹介できたことはうれしかったけれど、「ええ」 は やっぱり満足できませんでした。

そして、この本は この 「ええ」 を消化できるまでは もう読むまい、と決めたのです。




それが、今回の読み聞かせの前日、図書館でふと 「100万回生きたねこ」 を見かけたとき、なぜか 「読みたい、 読もう」 となって。

理由はまったくわからないまま、「読みたい」 という思いに なんの抵抗も覚えなかった自分に驚きつつ、それならば と素直に借りてきました。




その晩、久しぶりに声に出して読んでみて、びっくり。

くだんの 「ええ」 に、なんの引っかかりもない。

うまいとかへたとか そんなことじゃない、ただ自分の中で、自分の 「ええ」 という声が、なんの違和感もわだかまりもないまま すぅーっと通り抜けて消えてゆく、それを見送る あたたかく満ち足りた思い。




そして当日、やはり 「ええ」 は すんなりあたたかく通り抜けていきました。

変わったんだな・・・・と、思うともなく思いました。




あの 「ええ」 は、ほかでもない、自分が 自分に対して言った 「ええ」 だったのかもしれません。



























愛するものを語るとき

2015年12月13日 07時15分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私が奈良で ピアノ教師をしていたころのこと。

生徒の中に、幼稚園の男の子がいました。

丸顔に くりくりした目、真っ赤なほっぺ、いつも好奇心全開の 元氣な子だったなぁ




実のところ ピアノには さほど関心がなかったようで、レッスンそのものよりも おしゃべりのほうが好き (^_^;)

ピアノ弾くより しゃべってる時間のほうが長かったねぇ、なんていうのがしょっちゅうだった氣がしますが、それでも彼のおしゃべりを聞くのは この上なく楽しかったのです♪




お家の人と観に行った 映画 「ジュラシック ・ パーク」 について話してくれたときのことは、ありありと覚えています。

よほど強烈な体験だったのでしょう、テンションMAX、その話しっぷりといったら、言葉のほうから溢れ出し ほとばしって 止まらないという感じ。

しかし そこは幼稚園児の表現力、途中から 誰が誰やら 何がどうなったやら わけがわからなくなり、主人公が逃げ込んだトイレごと 恐竜に踏み潰されたかと仰天したりして




映画については 今もよくわからないまま (笑) ですが、それ以上にくっきり焼きついているのは、あのときの彼の弾む口調や目の輝き、そして その場のなんともいえず楽しい空氣。




「エンデと語る」 という本の中で、児童文学者のミヒャエル ・ エンデ氏が、「人は愛するものについて語るとき もっとも生き生きと語れるものだ」 というような意味のことを話しておられます (本が手元にないので うろ覚えですが) 。

言葉というのは およそ不完全なアイテムで、物事の本質に近づくほど、正しく伝えるのが難しくなります。

しかも、その氣になれば、いくらでもウソがつける。

その場にないものを あるかのように、人づてに聞いただけのことを さも体験したことのように、話せてしまいます。

でも、そういうウソの言葉は、空っぽで スカスカで、力がこもらず、白々しさが漂うもの。

五感の上ではごまかせても、五感を超えた 「感じる」 領域までは ごまかせません。




好きなもの、愛するものについて 夢中で語るとき、人は 生き生きと輝いています。

本来のその人に 限りなく近い姿に返っています。

言葉に乗って 言葉以上のものが溢れ出し、聞いているこちらの心に 直接届いて 揺さぶります。

こちらもいっしょになって その温もりに浸り、胸を躍らせ、感動を分かち合うことができます。




ピアノの鍵盤の上を ネコが歩いたって 音は鳴るけれど、それを音楽とはいわないように、空っぽの言葉は、ただの音。

現地と地図の関係でいうところの 現地のある言葉、とりわけ うれしい現地のある言葉は、共感を呼び起こし、大きないのちのエネルギーを生み出します。

そこに、万人を惹きつけてやまない 喜びの世界が生まれます (*^-^*)




幼くして 本音と建前をきっちり使い分け、見目よい空っぽの言葉ばかり並べてきた私。

もうこれ以上、空っぽのスカスカはノーサンキュー。

大好きなものを 身のまわりいっぱいに集めて、あの幼稚園の彼に劣らない情熱をこめて 生きた言葉で 語り続けたいです \(^o^)/





















文字通り

2015年12月11日 19時58分12秒 | 日々の楽しみ


夕べの雨もすごかったけれど、きょうの氣温の高さにはびっくりしたなぁ (^_^;)

いくら昼日中とはいえ、12月のお散歩に Tシャツ一枚でOKって




雨が弱まりだすのと入れ替わりに ぐんぐん強まって吹き荒れた風で、なごりの紅葉や黄葉が 道一面に散らばって、あちこちに落ち葉の吹き溜まりができていました。

一斉清掃の日に、行き場を失った大量の枯れ葉を わっせわっせ下の川原に掃き落としたのも、水の泡(笑)




それでもやはり、雨上がりの晴天は 胸がときめきます (*^^*)

川面も木の葉も まぶしい日ざしにきらきら輝いて、帽子をかぶっていられないほど吹きつける風さえも 春のように暖かくて、増水した川の水音が さらさらと氣持ちよく響いて♪

このところ 家で長時間座りっぱなしのことが多いので、天氣がいいときのちょこっと散歩は欠かせません。

血行も氣の巡りもよくなるし、リフレッシュ効果も抜群




最近 もうひとつのうれしいこと。

ツイッターで時おり、@ツイートをいただくようになりました (^^)

@ツイートとは、特定の相手に宛てたメッセージや写真などのツイートのこと。

私ひとりではなく、私を含む何人かに宛てて というものですが、「よい週末を」 なんて声をかけてもらったり、美しい景色や花の写真を贈られたりするうれしさは、なんともいえません

ただひとつ問題なのは、お相手が知らない方で、しかもそのほとんどが 海外の人なこと。

私、英語まったくといっていいほどできないんですよ~




@ツイートをリツイートするとか 「いいね」 を押すとかだけでも 喜びの表明にはなるのでしょうが、そこはやっぱり 自分の言葉でうれしい氣持ちを伝えたい。

というわけで、今はもっぱら翻訳ソフトに頼って お返事しています。

長文となると およそ頼りにならない代物ですが、「なんてかわいいんでしょう」 「美しいお写真ありがとう」 「あなたもよい週末を」 程度の短文ならなんとか。。。。そんなのを 二つ三つ組み合わせ、さらに顔文字を添えたりして どうにか格好をつけています ( ̄ー ̄;)ゞ

こんなたどたどしいやりとりでも、心に灯がともったような温もりを味わえるのですから 幸せですね




そのうち ハングル文字やアラビア文字のメッセージがきたら、いやそれどころか 何語か判別つかないようなのが届いたりしたら どうしようとか、余計なことを考えないでもありませんが、そのときはそのときのこと☆

忘れられていることの多かった 内側のときめきや温もりを呼び覚ましてくれる、こんな素敵な出会い ・ 触れ合いに恵まれて、ただでも楽しい日々がますます楽しくなってゆく 幸せ貴秋、文字通り “毎日がしあわせ日和” です (^o^)