毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

わが本、わが友

2013年03月31日 21時52分23秒 | ふと思うこと
29日の日記で「内への探求の力になってくれる情報はたくさんある」って書いたんだけど。

私の場合、その7割方が 本。

今は 五感を超えた世界に関する本もどっさりあるものね☆

最近はネットで手軽に買えて、近くに書店がなくても困らないから助かります。

ただ、ネットだと立ち読みが出来ない分、これは違ったかな?ということもたまにあって、そういう本とは度重なる引越しのたびにお別れとなりましたが、今手元に残っている本は ほんとうによく読み込んでるなぁ(^^)

古いものは20年以上経っていて、すっかりページが変色して シミが浮き出たりしてるけど、まだまだ現役。

こういう内なる世界のことを書いた本は、何回読み返しても そのたびに新しい発見があって、もういいやってことにはならないのです♪



本から情報を得る際に氣をつけなければならないのが、言葉。

29日にも書いたけど、書き手の意図を 読み手が100%完璧に受け取るなんていうことは まずあり得ないので。

生身の人間同士の会話なら、それどういう意味?といちいち確かめながらコミュニケーションできるけど、本の場合は一方通行なので、意味がよくわからなかったり 思い込みで掴んじゃったりしてることが多い。

わからないことがたくさんあっても、不思議と魅力的で飽きない本は、きっと縁あって出会っているのでしょうね。

そういう本は、繰り返し読むうちに ぼやけた画像のピントがだんだん合ってくるように じわじわ理解が進んで、少しずつその内容が消化されて 自分のものになっていくのがわかります。

複数の愛読書間で 「相互作用」とでもいうようなことが起こることもあるし。



どんなに素敵なことが書いてあっても、外からの言葉として読んでいるうちは 単なる情報や知識。

それらが体験に裏打ちされ、実感を伴う中で、自分の言葉となり 内側から溢れ出すんですね。

そのときには、もう知識ではなく「智恵」になっていて、日常に活かすことができる。



内なる答えは、形があるわけではなく、その正しさを証明するなんていうことはできません。

だから、本の中で「これいいな」とぴんとくる話があったら、まず“仮説”として心に残しておく。

そして、暮らしの中のさまざまな場面に当てはめて繰り返し観察し続ける。

すると、その説への信頼がどんどん増して、そのうちすっかり自分のものになるか、「これはやっぱり違うな」と手放すか、どちらかに分かれます。

実際のところ、ぴんときたもので あとからやっぱり違ったってなるものは、まずないんだよね。

心に響いた時点で、すでにそれは(自分にとっては)答えなのかもしれません。



本にすがりついて「早くどうしたらいいのか教えてよ~」ってなるときもあります。

今ある状況がとても苦しくて、一刻も早く抜け出したいと焦っているとき。

でも、こういう本はハウツーものではないので、「これさえすれば誰でもうまくいく」なんて答えは載ってない。

なんで肝心要のところはぼやかされてるのよ!と腹立たしくなったりしちゃうんだけど(^^ゞ



そもそも、なんでもいいからこの状況から逃げ出したい、という欲求にかられていること自体が ちょっと違うんですね。

すべて意味があって起こっているんだもの。

来たものは とにかく味わって受け止めるしかない、そのために来たのだから。

人間だから、辛くて苦しくてパニックになってしまうことももちろんあるし、それはそれでありなんだけど、そこで終わってしまったらなんにもならない。。。結局再び同じような体験をする羽目になるのは目に見えているので。

どうにか心を落ち着けて 目の前のことをよぉく観察し、本から得た知識を総動員してできる限り噛み砕き、それでもわからないところは内なる答えに問う。

大事なのは、答えを得ること以上に、繰り返し体験する そのプロセスにある。

繰り返すことで、自分なりに答えと出会う道のりが少しずつわかってきて、そのたびに血肉となる智恵の層が厚くなり、それにつれて 内なる答えへの信頼も増してゆくのだから。




本の情報は、答えではなく 手がかり・ガイドなんですね。

答えは自分の中にある。

そこへ近づいてゆくのに力を貸してくれるのが、本。

同じ本を読んでも、注目するところやその解釈、そこから得るものは 人によって違う。

めいめいが、自分なりの道を歩んで、自分なりの答えと出会い、導き出す。

それが、この世に生まれた醍醐味。

それを応援し 助けてくれる本は、ただの「物」なんかではなく、大切な友。

これからもずっといっしょに 人生の旅を続けていくと思います(*^ー^*)















冬から春へ、日々の楽しみ

2013年03月31日 17時44分54秒 | 日々の楽しみ
季節の変わり目には、心やからだの欲しがるものも 自然に変化するようです。



コトコト煮物や熱々スープは冬の間に十分堪能して、今は春野菜の清々しい香りを美味しくいただく日々。

最近のお氣に入りは、たっぷりの千切りキャベツを マヨネーズとこれまたたっぷりの粒マスタードで和えて、バゲットの薄切りにこんもりと乗せて オーブントースターで焼いたもの。

しなっとしたキャベツの甘みにマヨネーズ&マスタードがしっとりなじんで、カリッと焼けたバゲットによく合います。

コールスローのシャキシャキ感とはまた違った 春キャベツの魅力

スライス玉ねぎを混ぜたり、ヨーグルトを加えたり、マスタードの代わりに梅肉をペースト状に叩いたものを入れても美味♪



菜の花を見かけると作らずにいられないのが 菜の花ペペロンチーノ。

すでに2~3度作っています(^^)

菜の花のかすかな苦味と 鷹の爪のピリリに にんにくの香りのコラボ、たまらな~い

白いパスタに絡む 赤・黄・緑が 目にも鮮やか♪



手すさびの編み物も、氣温が上がるにつれて、もこもこふわふわの毛糸から しゃっきりなめらかなコットンやリネンの糸へと氣持ちが移ってきました。

この冬さいごの毛糸物は、初めてチャレンジした ネット編みの三角ストール。

いい出来とはいえないけれど、初めてにしてはまあまあかな

お使い初めは今年の秋ぐらい?今から楽しみ~♪

春物第一号は何にしようかなぁ♪

ソーイングのほうもそろそろ再開したくなってきたし、季節が変っても お楽しみは一杯です













花づくし♪

2013年03月30日 10時42分26秒 | 自然
曇りや雨が続いた後の青空って なんて浮き浮きするんでしょう♪

山の上も下も 桜が満開!

一年に一度のこの幸せな景色、見逃してなるものかと 連日たとえ5分でも10分でもお散歩しています♪

集落を一周するだけで、山桜からお隣小学校校庭の桜まで、桜三昧を楽しめるのです(^^)

山桜はぼちぼち葉が出てきてるかな。

川沿いの土手には 見事な古木が枝をのびのび広げていて、桜のトンネルをくぐるよう。

濃いピンクの花をつける大きなしだれ桜が植わっているお宅もあって、眼福眼福♪

植樹から数年しか経ってない 小学校の 私より背の低い桜も、美しい花が房になって、少女のように愛らしい





しかも 桜だけではないのですよ☆

チューリップに水仙、ユキヤナギにレンギョウ、ボケ、桃、道端の地面やアスファルトの割れ目からちっちゃなスミレが顔を覗かせ、フキの花はそろそろ綿毛になろうという様子、おまけに山肌には早くもヤマツツジまで \(^o^)/



ウグイスをはじめ、鳥たちの声も 日ごとに艶やかさを増しています。

ウグイスくん、ホ~ホケキョの「ホ~」と引っ張るところが だんだん長くなってきてる(笑)



まだ多少風の冷たい日はあるけれど、もうどっちを向いても春、春、春♪


きょうも家事がすっかり終わったら お出かけしてきま~す(⌒∇⌒)ノ






p.s. そうそう、わが家でも 去年植えていたノースポールのこぼれ種から、かわいい白い花が数輪咲いています。

   花が咲くまでぜんぜん氣がつかなかった(^^ゞ

   サプライズの贈り物、うれしい~

   パセリも新しい葉がどんどん出てきて、使っても使っても追いつかないぐらい。

   昨秋に植えた 頂きもののわけぎの苗も、かなり間隔をあけておいたはずなのに、濃緑色の太い葉がびっしり一列に茂っていて。

   そこら中に春のエネルギーがみなぎってます

    
















思い出すだけ

2013年03月29日 22時22分47秒 | ふと思うこと
前の日記、いささか尻切れトンボだったかな?

ふとわれにかえって、「長すぎたぁ~」って焦っちゃって(^^ゞ



で、続きです(笑)



私が「外側の世界」などと呼んでいるのは 五感で捉えることのできる世界、そして「言葉」はこの世界の必須アイテム。

ところが、この五感と言葉、私たちの暮しに重要な位置を占めている割には 頼りないアイテムなんだなぁ(^_^;)



人は 五感の中でもとりわけ視覚優位と言われており、一説によれば 五感の情報の約8割を視覚が占めるのだそうです。

しかし。

人間の目が錯覚を起こしやすく、また脳内補完によってないものをあるように見てしまったりするのは有名な話。

こんな画像を見たことある方も多いのではないでしょうか。

あとの4つの感覚も そうそう当てにはなりません。

聞き間違いもすれば、最初氣づいた匂いも しばらく経つと鼻が慣れて感じなくなったりするし、鼻が効かなくなれば 味覚だってあやふやになる。



そして、言葉。

きのうもちょこっと書いたけど、言葉って 知らず知らずのうちに 過去の情報が大きく影響しているんですね。

同じように柿を見ても、美味しい柿の思い出を持つ人はにっこりするだろうし、渋柿の思い出が強烈な人は顔をしかめるでしょう。

二人の人が「リンゴね」「うんうん、リンゴね」と共通の話題に頷き合っているつもりでも、ひとりが思い浮かべているのは赤リンゴで、もうひとりのは青リンゴかもしれない。

「秋」という字に、豊かな実りや美しい紅葉を連想する人もいれば、夕暮れ時の物悲しさを思い出す人もいる。

言葉には、ほとんど無意識のうちに 過去の体験から想起されるイメージがついて回る。

そして人は、言葉が指し示す物や事そのものよりも、言葉に抱いているイメージの方に反応するんですね。

過去の体験はひとりひとり違うから、当然言葉についてのイメージもひとりひとり違う。

でも、同じ言葉を使っていると、ついつい相手も自分と同じものをイメージしているように思い込んでしまい、そこに誤解やすれ違いが生まれる。

しかも、そのことに氣がつかない場合が多いんだ~



言葉は 五感の世界のアイテム。

だから、五感で捉えられる情報なら、コミュニケーションもまだなんとか成立しやすい。

どうしてもうまく伝わらないと感じたら、現物を見せるという手があるし。

前述のリンゴの話だって、目の前にリンゴを置いての会話なら、そこまで大きな勘違いは生まれないでしょう。

が、言葉には「そこにないものでも話せてしまう」という性質があります。

足のある魚だろうと 羽根の生えた象だろうと、言葉上は生み出せてしまう。

魚や象なら「そんなの見た人いないでしょ」と言えるけれど、これが五感を超えた世界の話となったら。。。(^◇^;)

五感で確かめ合えない以上、相手のイメージを誤解なく受け取るのは至難の業、っていうか まず不可能



愛、神、本質、真理。。。こういう言葉のイメージって、柿やリンゴの比ではなく ひとりひとりに大きな違いがあると思います。

それを、「これがただひとつの正しい答え」として言葉の世界で広めようとする・・・混乱や争いが起きないほうが不思議だよね(T_T)



一方で。

言葉や理屈を超えたところで感じる力というものもある。

口ではいいことばかり言っているのに、なぜかいい印象を受けない人に会ったことある人も多いのではないでしょうか。

また、風呂桶に水を汲みかけて忘れていて、はっと氣づいて飛んでいったら、ちょうど溢れる寸前だったとか。

分かれ道で、正しいはずの道を行こうとしながら なんかもう一方の道が氣になるなぁと思っていたら、そちらの道のほうが正しかったとか。

学習して得た知識とは違う、理屈抜きの瞬時のひらめき。。。かすかだし強引さも圧迫感もないのに、不思議と氣になる 声なき声。



人間以外の生き物は、いちいち教わらなくとも、最初から多くのことを知っている。

いつどのように花を咲かせるか、どうやって繭を作りサナギになるか、どんなふうに巣を作り 子どもを育てるか。

そして、これも前に書いたと思うけど、人間だって、まだ細胞数十個の受精卵のときに、自力でお母さんのおなかの中を転がっていって、ここぞという場所にしっかり着床する力を持っている。。。脳も目もなく、まだ人の形でさえないのに。



成長するにつれて忘れてしまうけれど、言葉ではつかめない「内なる答え」も、それを感じ取る力も、私たちは初めからちゃんと持ってるんだよね

外からは決して得られない、常に過不足なく完璧な答え。

わずかでも信じる氣持ちがあるなら、あとは思い出すだけ、それぞれの道のりで、それぞれのやり方で。

力になってくれる情報は、今の世にはいっぱいあるから(^^)

私にとっては、「ONE」もそのひとつ、ということなのです













自ら選ぶ ほんとうの答え

2013年03月28日 10時00分49秒 | 大好きな本・映画・ほか
きょうもまた「ONE」からのお話。



リチャード&レスリーのバック夫妻が体験したパラレルワールドのひとつに、フランスの田舎の草原とおぼしき場所があり、二人はそこで やはり二人の分身であろう ジャン・ポール・ル・クレールと名乗る隠者のような老人と出会います。

そして、老人の傍らに光と共に現れた、一冊の経典。


「儀式にふれた言葉はなく、信仰せよと指図する言葉もない。敵を炎もて撲滅せよと命じることも、不信心者には禍いがふりかかると説くこともなく、残虐なアッティラの神々もいない。神殿、僧侶、ラビ、信徒の集会、聖歌隊、服装、聖休日、そういったものについての言及もない。愛すべき内なる存在のために、まさにその存在のためだけに書かれた経典といってよかった。
ここに書かれた思想をこの時代にひろめれば、とわたしは考えた」(本文からの引用・by リチャード)


真理・内なる叡智を常に探求してきたリチャードが この経典を多くの人々に広めようとするのに対して、ジャン・ポール・ル・クレールは、経典で世界は変らないと言います。


「これらの言葉を、かりに世に伝えるとしよう。経典は、その真理をすでに知る人々に愛され、理解されもしよう。だが、人々にそれを与えるまえに、われわれは経典を名づけねばならん。(中略)命名自体に害はない。だが、これらの思念に名称を与えれば、宗教をつくりだすことになる」(同・by ル・クレール)


そして、リチャードとル・クレールの対話から、新しい宗教が、そこに語られる愛や真理とは裏腹に 人々の間に争いを生み出すプロセスがシミュレーションされ、夫妻はその避けがたい運命に身震いします。

結局、レスリーが経典に火をつけて燃やすことで、その展開は終わりを告げます。


「なんとめでたい夜じゃ!世界を新しい宗教の誕生から救う機会など、千載一遇のことじゃて」(ル・クレール)

                (中略)

「ええ、たしかに。わたしたちの歴史には、ページ教徒(対話の中で 彼らが仮に名づけた この宗教の信仰者の名称)のことも、彼らの戦争のことも、一行たりともあらわれませんよ、ジャン・ポール・ル・クレール」(レスリー)



このエピソード、今回の読み返しで強く意識を惹かれた もうひとつの場面です。



私自身、五感で受け止める世界以上に 五感を超えた世界について知ることが大事だと感じて以来、いわゆるスピリチュアル系から自己啓発、宗教、チャネリングなど、さまざまな本やネット情報を読み漁り、ときにはワークショップに参加したりもして、大きな影響を受けてきました。

そんな中で不思議に思ったのは、そのひとつひとつが伝えようとするところは、人々をより平和に、より幸せにと導こうという思いに溢れているのに、その教えや啓示が経典のようにあがめられ、そこに体系だった組織が生まれると、とたんに何かしらややこしいものが発生するケースが多いように見受けられることでした。



そして今回、このル・クレールのエピソードから感じたのは、私たちが 高次の答え → 真の平和・真の自分 にたどりつくには、外側から教えられたり諭されたりするのでなく、自分の力で内側から氣づくしかないらしい、ということ。



こういう教えは 口伝えであれ文書であれ、言葉を介して伝えられます。

そもそも ひとつの言葉との出会いの形は 人の数だけあり、人の数だけ異なるイメージが そこに生まれるもの。

だから、その言葉が幾万と組み合わさってできた文章が、複数の人々にまったく同じように受け止められることはありえない。

そのありえないことを、組織の長の権威の下に無理やりひとつにまとめるのが、組織としての宿命なんですね。

また、ピラミッド型の組織では、どうしても対人関係の力学のようなものが生まれてしまう。

精神的に未熟な人が少しでも混じっていれば(混じってないはずないよね、未熟だからこそ より高度な教えを求めて集まってくるんだもの)トップに氣に入られようとか、上に立ってコントロールする側に回ろうとかいう動きも、それに反発する人も出てくるのは致し方ないこと。

さらに言えば、三次元世界での事象は、そのほとんどが正誤・寒暖・高低などのように二元対立。

コインの表裏のように、ひとつの要素が生まれれば、必ずといっていいほど 対立する要素がセットで現れるもの。

これらを踏まえると、組織化し 外側から広めようとした時点で、ひとりひとりの意に反して 広めたい教えと相反する争いや揉め事が起こってしまうのは、どうしても避けられないことなんですね。

誰が悪いとかいうことではなく、そもそもそういう性質のものなんだと。



私よく思うんだけれど、神、天、宇宙、大いなる存在、まあ呼び名はなんでもいいんだけど、五感を超えた世界の真理に触れたいなら、間に伝達者や翻訳者をはさむよりも、自分が直接それと繋がっちゃう方が 早いし確実なんじゃないかな。

単純な伝言ゲームだって、人数が増えるほど誤って伝えられやすいものだしね



いや、そんなのムリだよ、って言いたくなる氣持ちはよくわかります。

私だって、以前は優れた人の下について教えを乞う以外道はないって思い込んでたし、実際そういう道を選んでもいたもの。

それでも今、信じる信じないは読んでくださる方にお任せだけど、敢えて言いたいのは、答えは常に自分の内側にあり、外にはない、ということ。

また、三次元世界においては たったひとつの正しい答えが存在するわけではなく、私たちひとりひとりが どのような自分でありたいかという意思に照らし合わせて、自分だけの答えを内から導き出す以外、真の答えに出会う道はない、ということ。



これについては、もう少し詳しく話したほうがいいのかな、という氣もするけど、長くなりすぎるから 今回はここまでで。

長文をお読み下さって ありがとうございます。



















自在に行き来♪

2013年03月27日 19時22分17秒 | 大好きな本・映画・ほか


はい、きのうの続き

また「ONE」にまつわるお話をさせてくださいね♪



私よく「三次元世界」とか「三次元視点」っていう言葉を使うけど。

つまり、今私たちが五感で感じ取って生きている この世界のこと。

ここでは あらゆる体験があまりにも自分そのもの、人生そのもので、自分はあくまでも すべての体験の当事者、そのことに疑問の余地はない。

体験した事がらひとつひとつに喜怒哀楽さまざまな感情で反応し、他の自分(視点)があるなんて夢にも思わない。



が、もしぐっと引いたところからその全体を眺め渡すことができれば、そんな自分の姿は、舞台またはセットで迫真の演技をする役者のように見えるかもしれません。

あまりにも真剣に芝居に入り込んでいるから、演じていることを忘れてなり切っちゃってるだけで。

自分が劇中人物であることを思い出せば、今いる世界だけがすべてじゃないこともうなずけるし、あらゆる物事がまるっきり違って見えてくるはず。

これを「客観的視点」、または「高次の視点」「魂の視点」などと呼ばせていただきましょう。




ここで「ONE」なんだけど。

リチャードとレスリーのバック夫妻は、飛行艇でロサンゼルス上空を飛行中に ひょんなことから異次元に飛び込み、眼下一面の大海原に色とりどりに浮かび上がる網目状の模様のあちこちに着水することで、さまざまなパラレルワールドを体験する。

「時空に見えるあらゆるものは、ほんとうは実在していないのよ。(中略)あの模様はあなたがつくりあげた視覚的補助よ。つまり、同時に存在するほかの人生を理解する、あなたなりの手段なの。(中略)着水すると飛行艇が模様の上に浮かび、あなたがたはオブザーバー、別の世界に迷い込んだゴーストになるの。その環境を現実ととりちがえることもなく、自分の別な面から教訓を得ることができるってわけね。必要な教訓を得たら、飛行艇のことを思い出して、スロットルを前に倒すこと。そうすれば空に舞い上がって、また果てしない視界がひらけるのよ」(by パイ)

やがてガイドのパイは、二人が自分たちだけでやれると見て取って姿を消し、二人はさまざまな分身から多くを学んで、それらを実践すべく 元の世界へ帰ろうとするが、帰り方がわからない。

どうやらこの「帰る方法を見つける」というのが、二人のこの世界での最後の課題らしい。

二人は、墜落事故のときの体験を手がかりに、飛行艇での着水ではなく 直接網目の中に飛び降りるのがカギだと考え、ここというポイントで飛行艇を飛び出して、無事元の世界に帰り着く。



今回読み返して一番注目したのがこの場面だったんだけど、ゲストではなく当事者として すっぽりその世界に入り込む、っていうの、これってさっきの逆で、引きの視点から お芝居の世界の住人に戻って それを自分の現実とする、っていうことと重なるんですね。




三次元の「現実」、これこそ魂がわざわざ制限された不自由な身になってまで体験したかった世界。

自分について 身をもって生々しく知るために、望んでこの世に生まれてきたのだから。

でも、いったん中に入り込むと、その世界が分かちがたく自分と結びついて、魂である自分を忘れてしまう。

三次元視点オンリーで生きるのももちろんありなんだけど、魂本来の目的からはどうしても離れてしまう。

魂である私たちは、三次元世界の住人になり切りたかったわけではなくて、「体験」という新たな視点から より深く自分を知るのが望みだったんだものね。




三次元世界での体験が楽しいことばかりならいいけど、苦しいこと・いやなことも当然ついて回るわけで。

その苦しさは、「本来の自分を忘れてるよ」という合図なのかもしれません。

そんなとき、ひたすら苦しい思いをするのがいいか、それともそこから学んで成長するのがいいか。

どちらでも自由に選べるけれど、前者を望む人は このブログにはまずお見えにならないでしょうから。




想像の中で飛行艇のスロットルを倒して。。。というのは物語の中のこと、でも 意識や視点の問題なら、私たちだって 自分なりのやり方を会得できるはず。

私は、「魂である自分」が存在することを受け入れることで、その視点に立てるようになりました。

ここから眺めると、あらゆる体験の意味ががらりと変ります。

三次元視点だけでは理不尽としか思えないようなことも、この世を味わい楽しむために 生まれる前に魂が仕掛けておいたことと思えば、障害からチャレンジに大変身。

もはや無力感に苛まれる必要も 度重なる妨害にいら立つこともありません。

私の場合、母の死なんていうインパクトの強い体験も、悲しみという以上に 自分を大きく成長させてくれたありがたい贈り物のように思えます。



目の前の世界がすべてと決めつけず、ときには三次元視点から抜け出し、高次の視点との間を自在に行き来できるようになる、というのもいいんじゃないでしょうか。

せっかく生まれてきたこの世界、その豊穣さを思いっきり味わえるように、ね(^^)

















もういちど  ONE

2013年03月26日 13時22分01秒 | 大好きな本・映画・ほか
久々に手に取った、愛読書「ONE」。

以前こちらにも書かせてもらっていますが。

好きな本は、何十年でも手元に置いて、何十回、もしかしたら何百回と 繰り返し味わい読みます。

内容は同じでも、こちらが変化しているから、毎回新しい発見や感動があって。

ふと「あ、あれ読みたい」と思って引っぱり出すと、たいがい、おお、今回はここか~、と反応する場面に出くわします。




「かもめのジョナサン」の作者として知られるリチャード・バック氏が書いた「ONE」は、パラレル・ワールドをテーマにした 大人のファンタジーとでもいうような物語。

リチャードとレスリーのバック夫妻は、自家用機でロサンゼルス上空を飛行中、ひょんなことから ゴーストのような(壁や車などが透過する幽体となり、自分たちの“分身”以外の人には見えない)存在として パラレル・ワールドを飛行艇で自在に行き来できるようになり、さまざまな世界のさまざまな“分身”たちと出会いながら、以前より関心の高かった「自分」「人生」「次元を超えた世界」などのテーマについての理解を深めていく。



実はこの本、大好きなのにも関わらず、初めのうちはちょっとやっかいな本だったんです。

そもそも五感を超えた世界をテーマにした話だというのに、私が理詰めで掴もうとしたせいで。

あのころは、つくづく頭(論理)先行型だったんだよね(^^ゞ

「パラレル・ワールド」については、私なりに解釈した上で なんとなく“あり”だったし、心魅かれる世界でもあったんだけど。

ひとつ何らかの選択をするたびに、選ばなかった別の世界が出現し、もうひとりの別の自分が 枝分かれした併行世界に存在する、と、その辺もまあ“あり”だったんだけど。

でも、その“分身”については、無意識のうちに、自身と同じぐらいの年齢の日本人女性で、マンツーマン的にひとつの世界にひとりずつ、と決め込んでいて。

ところが、「ONE」では、ひとりの人物が夫妻双方の“分身”として現れたり、人種違いの(夫妻はアメリカ人)ロシア人や、古代ローマのフン族のアッティラ、妖精、はては人型コンピュータまでが登場したり。

あげく、終盤にさしかかったところで 飛行艇に事故が起こり、ゴーストのはずのレスリーが死亡する、なんて展開まで。。。いや、そこは異世界のこと、ちゃんとハッピーエンドになるんですが。

大好きだからこそ、ついつい自分なりの解釈と分類で 頭の中にきっちり収めたい誘惑にかられるのだけれど、それをすればするほど 混乱してわけがわからなくなってしまう、つくづくやっかいな本(^_^;)

いや、素直におとぎ話として読めばよかったのかもしれないんだけど、ちょうど五感を超えた世界への関心がどんどん深まりつつあったころで、どうしても現実世界の自分と重ね合わせて読めてしまって。



今にして思えば、逆だったんだなぁ。

私がこの物語を自分なりの解釈に押し込めるのではなく、私の解釈の元になっていた概念が、この本によって大きく変えられていたんだと。

正しくは、この「ONE」と、さらに同時期に並行して愛読していたさまざまな本の情報の総合によって。

そのために、理解が及ばずちんぷんかんぷんであっても、その魅力は失せることなく、何度も何度も繰り返して読むように仕組まれていたのでしょうね☆




「わたしはあなたがたふたりなのよ。未来から来たんじゃなくて・・・(中略)もうひとつの現在から来たの」


「時間というのは、意識の移動をあなたがたがそう呼んでいるにすぎないの。空間と時間の中で起こりうるあらゆる出来事は、いま、いっせいに、まったく同時に起こることができるの。過去も未来もないのよ。あるのはいまこの現在だけなの」


「ポイントは、それがすでになされてるってことじゃなくて、わたしたちが無限に選択できるってことよ。(中略)自分で選択することで、いろんな経験をするの。経験を積み重ねて氣がつくのよ。わたしたちは自分で思ってるような、小さな生き物じゃないってことに。わたしたちは生命をさまざまな次元で体現する存在、魂を映す鏡なの」 (訳=平尾圭吾氏)

                                                         

これらは、突然わけのわからない世界に飛び込んで混乱する夫妻の前にふいに現れた、二人の分身であり この“旅”の導き手でもある パイという女性のセリフ。

初めて読んだときには「わけわから~ん」だった こういう言葉が、今ではすんなりとうなずけるまでになじんでいます。

論理的に解説できるとかいうことじゃなくて、春 桜が咲く、朝 日が昇る、などと同じように、疑いも引っかかりもなく すぅーっと自分の中を通ってゆく、そんな感じ。

外側の世界のつくり話ではなく、「そうそう、そんなふうだよね、世界って」と 自分の視点として消化・同化した、っていうのかな。




「五感に触れる世界がすべて」だった私の世界観の変りようは、生身の人間よりも、本やブログの情報に影響されてのことが多いけど、結局のところ、すべての情報や理解は 最初から自分の中にあった、ということなのでしょうね。

外からの刺激は それらを引っぱり出すきっかけに過ぎず、その媒体が人だろうと 本やネットだろうと 通りがかりの一瞬の景色だろうと、別になんでも構わなかったんだ、っていうことなのね。




そして。

これは私だけじゃない、すべての人に言えること。

もちろん 三次元の世界だけに生きるという選択もありだけど、もし もっと広い世界や視点に心魅かれ、もっと知りたいと望むのなら、その答えは 他のどこでもない、自分の中にすべてあるし、そう願った時点で、必要なきっかけは完璧に用意され、最良のタイミングで発動するようになっている、ということ。

心の赴くままにアンテナを張っていれば、ふと目にした文章、ふと耳に入った通りすがりの誰かの言葉、ふと遭遇した興味ある出来事、いや、ひらりと落ちる木の葉一枚、足元に転がる小石一個からでさえも、きっかけをもらって 望みを叶えることができるっていうこと。



うん、一番言いたかったのはここみたいね(^^)




久々の「ONE」に刺激されたか、いろいろな思いやひらめきが続々と上がってきています。

しばらく「ONE」がらみの話が続くかも。。。まあ、先のことはわからないけど













巡る 変る どこまでもいく

2013年03月23日 13時40分21秒 | ふと思うこと


21日、前日の雨から一転、冴え冴えと晴れ渡った青空の下、お隣小学校の卒業式が行われました。

毎年お招きを受けるようになって以来、たしかこれが4度目の卒業式。

いつもながら子どもたちの成長ぶりは目を瞠るようで、卒業証書授与の際に述べられたそれぞれの未来への希望も、ひとりひとりのセリフが驚くほど多い「卒業の言葉」の暗唱も、常日頃人前で発表をすることに慣れた彼ららしく堂々としていて、ずっしりと心に響きました。

個人差はあるけれど、もう“子ども”からぐんぐん離れていきつつあるね。。。そして遠からず“大人”の仲間入りだね。



ここで、あれ?いつもの年と違うな、と思ったのは、私自身のこと。

いつもなら、もっと子どもたちが離れていくことを淋しく思うところだし、どうかこの子たちが幸せになれますように、と祈るところなのだけど。

今回は、あまりそういうふうに心が動かない。

いえ、決して薄情になったとかではなくて(笑)



2月の学習発表会あたりから、ずいぶん大きくなったなぁ、もう無邪氣に甘えに来てくれたあの子たちとは違うんだなぁ、という感じはあったけど、それを淋しく思うよりは、そういうものなんだな、と認める氣持ちの方が大きかった。

卒業、入学、のサイクルを何度も体験させてもらう中で見えてきたものがあるのでしょう。



梅が散り、桜が咲いてはまた散り、つつじ、藤、と次々入れ替わる。

春がいつの間にか夏へ、秋へ、冬へと移り変わる。

川はいつも同じ場所に同じように流れているけれど、その表情は季節ごとに変化するし、流れる水は一瞬として同じではない。

学校でも、6年生が去り、残っている子たちも学年がひとつずつ上がって、やがて新しい1年生が入ってくる。

巡りのパターンは 毎年規則正しく訪れ続けるけれど、そこに同じものは何ひとつない。

花も、水も、人も、同じようなパターンを繰り返しながら、絶えず変化し続ける、どこまでも、どこまでも。

とにもかくにもそういうものなんだな、と。

この土地の自然や人と暮らすうちに、知らず知らず受け入れるようになっていたんでしょうね。



幸せを願う、ということについても。

ひとりひとり道のりは違うけれど、結局のところ みんな幸せに向かって進んでるんだ、ということを受け入れたんだと思います。

その道のりが楽であればいい、困難がないほどいいとも思わない。

人や状況によっては、敢えて外れてまた戻ることが最善という場合もあると、今ではわかっているから。

やたら心配したり、万事順調ですように、悪いことが起こりませんように、と願うだけが愛情じゃない、と思えるから。

みんなオリジナルの自分の道を行く。

ピンチもアクシデントも、長い目で見れば 全部予定調和。

なるようになる。

何があってもクリアしていけるだけの力を、この子たちは備えている。

そう信じて、にっこり笑って、「光あれ」と祝福して送り出す。

たとえ闇の中にいるように見えても、その向こうはいつでも光に満ちているし、いつかは自分が絶えず光に取り巻かれていたことに氣づくんだよ、回り道したり立ち止まったり彷徨っているように見えて、実はまっすぐ進んでいたことに氣づくんだよ、という思いを込めて。

だから、幸せを「願う」ことなんてないんだね。

それがいつもあるとわかってるだけでいいのね。

それが、私にとっての「祝福」ということ。



たぶんずっとそういうことだとわかっていたんでしょうね。

ただ、心配する、祈る、願う、という物語に慣れていただけ。

そして今、そういう後づけのなんやかんやの不自然さがわかってきて、少しずつ剥がれ落ちていってるんだろうなぁ。

変化に氣づかせてもらったのは、子どもたちのこと以上に、自分自身についてかもしれません。



というようなわけで、子どもたちにも自分自身にも、今何か声をかけるとしたら、


    ”生まれてきてよかったね~♪

     これからますますいろんなことがあるよ~♪

     面白いよ~♪ ”


こんな感じかな









どこまでも

2013年03月18日 12時08分07秒 | 子どもたちと


13日夕刻、土砂降りの雨の中を帰ってきました。

わざわざこんな悪天候の日に戻ったのは、翌14日にお隣小学校の6年生さんたちからご招待を受けていたから。

卒業を間近に控えた12人&担任・副担任の先生方が、ランチルームでレストランを開いて、手作りの料理やお菓子で、お父さんお母さんを始め さまざまな授業や行事に関ってきた地域の大人たちを招いてもてなしてくれました(^^)

ハート型などで可愛く型抜きしたニンジンや大根をトッピングしたカレーに、ドレッシングを3種類も用意したサラダ、たこ焼き、クッキー、さらに サプライズのデザートで これまた数種類から選べるフルーツタルト、お茶も 食事には番茶、デザートには紅茶をそれぞれ

めいめいの席には、画用紙に可愛いイラストを描いた 招待客の名前入りのランチョンマットが敷かれ、食後には 子どもたちのリコーダー演奏まで\(^o^)/


この6年生さんたちは、私が読み聞かせに行かせてもらうようになってから最初に入学してきた子たち。

5回目に当たる5月の読み聞かせの直前、「あ、きょうから新しい1年生に替わったんだな」と氣がついて。

当時の読み聞かせは1年生と6年生だけで、基本月2回、朝の授業前の10分間。

挨拶して本を読むのが精一杯の時間しかないので、子どもたちの名前も知らなければ 顔もなかなか覚えられなかったのですが。

新しく入った子たちなんだなぁ、と思って前列をさっと見渡したら、好奇心一杯の顔、ちょっぴり緊張したような顔、いかにもぴかぴかの1年生という感じの可愛い顔がずらりと並んでいました(*^ー^*)

それから回を重ねるごとに、いつもヘッドスライディングで最前列ににこにこと飛び込んでくる男の子二人を筆頭に、少しずつおなじみになっていって

翌年から、新しい校長先生の方針らしく 全学年の子たちに読み聞かせをさせてもらえるようになり、1回の時間も30~45分と増やしていただいて、子どもたちとの距離がぐっと近づきました。

そして、あの5回目からの新1年生、転校していった子、新しく転入してきた子と 多少顔ぶれは替わったけど、そのおちびさんたちがいまや6年生。

私より背の高い子が何人もいるし、女の子なんか特に この1~2年でぐっと大人っぽくなって、すごい存在感。

この子たちが、21日には卒業式を迎えます。



自分の上に流れた6年という月日を振り返っても、それはあまりにも漠然として捉えどころがなく、長いか短いか考えるさえ意味がない感じですが、あのちっちゃな1年生の記憶と 彼らの今の堂々たる姿を並べてみると、その時間の経過がにわかにぐっと重みを増すようにも思えてきます。

それだけの変化が起こりうる何かが通り過ぎていったんだなぁ、と。



時間という物差しはあっても、それがもたらす変化の度合いや意味は 人それぞれ。

あの子たちと私の6年が同じであろうはずはないけれど、彼らの成長を通して、それだけの厚みのある時を重ね、変り続けてきたんだなぁ、と、自分の歩みを感慨深く思ってみたりもします。

そして、これからもずっと その変化・成長は続いていく。

どこまでも、どこまでも。

そう思うと、道のりは人の数だけあるけれど、誰彼の区別なく、そのすべての道に光あれ、と祝福したいような氣持ちです
















帰りま~す

2013年03月13日 12時20分17秒 | 奈良・実家・家族
行きは通行止めだった168号線、今はもう通れるって(^^)v

夕方から雨だそうだけど、今のところはまあまあのお天氣、朝からわっせわっせ洗濯したシーツやカバー類もほとんど乾いたし♪


庭には 母のお氣に入りだった淡いピンクの乙女椿が可愛い花をつけ、さざんかのバラ色ときれいな対をなしています。

沈丁花も満開で、それはそれはいい香り♪

十津川の山の中は どんな花が咲いているかな?



もう少ししたら、春の氣みなぎる実家をあとに 南紀のわが家に帰ります。