毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

もう一度語らせて下さい、「分離から統合へ」 の 「統合」 ってなに?

2023年01月31日 15時41分32秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
きょうのお話は、「分離と統合」の 「統合」 について。。。って、「それ去年の8月から11月にかけて6記事も使って書いたじゃない」 と言われれば まったくその通りなんですが。

私たちの世界における分離の歴史は長く、日本でいうならおそらく縄文から弥生へと時代が移るあたり、人々が強者と弱者に分かれ始め 富の偏りの兆しが見え出した頃から始まって 今日に至りますから、それがどういうものかはみな身に滲みてわかっていると思うのですが、統合については 転換点からの日もまだ浅く イメージしにくいため、慣れ親しんだ分離の方についつい引っ張られて 進みにくいように見えるのですね。

一方で、昨秋からさらに手放しが進んだ分 貴秋のものの見方もそれなりに変わり、いまならもう少し簡潔にわかりやすく語れるのではと思ったので、 いまはまだ分の悪そうな統合への道筋に ささやかながら力添えいたしたく、再トライさせていただくことにしました。

よろしければ お付き合い下さいませ。




まず、貴秋なりに 「統合」 を喩えてみましょうか。

グラスを海に沈めてすくい上げる、これが分け出す行為、すなわち 「分離」 。

すくい取られた水は 「海水」 であって、もはや海そのものではないですね。

では この海水入りのグラスを再び海の中に差し入れ、グラスを割り・・・いやいや、それでは海洋汚染になってしまいますから、想像世界ではなんでもありということで グラスだけぱっと消しちゃいましょう。

すると 中の海水はたちまち海に溶け込み、何事もなかったかのようにひとつに戻ります。

これが 「統合」 ということ。

そもそも形のないところから形を持って分け出された私たちは、自分なりの基準で これまたさまざまなものを選び取り分け出すことで 自身の世界を構築しています。

多くの中から何かを選ぶと、その他との区別が明確になり、それがどのようなものかがはっきりわかって 形にできる。

数ある方角から 「北」 と行きたい方向を選ぶことで 実際に移動することができ、数あるメニューから 「カレー」 と食べたいものを選ぶことで 実際にカレーが作られ口に入る、という具合に。

選択肢とは あくまでも可能性であって、形にするためには 数ある可能性の中からこれと思うものを選び出さなくてはなりません。

これが 「分離」 であり、形を伴って表れたそれは、移動や食事を終えると 記憶に変わって再び形をなくす、これが海水が海に戻ること、すなわち 「統合」 なんですね。




こうして私たちは ゼロから分け出しゼロに戻すことを繰り返して 自分なりの世界 ・人生を創り続けているわけですが、ここでゼロに戻らないものが出てきました。

いや、ゼロに戻すまいと抵抗する力が働き始めたと言う方が正しいかな。

それまでそこそこ平和に暮らしてきたであろう人々が、強者と弱者に分かれて争い合うようになり、新たに多くの不安や恐れが生まれました。

争いに勝った側にも 自分たちが奪い取ったものを再び奪い返されるのではとの恐れが生じ、それを阻み さらに多くを手に入れるために 「法」が作られ、敗者を支配管理し より効率的に働かせるために 「時間」 や 「お金 (のシステム)」 が作られました。

これらはいずれも 誰かが一方的に取り決めた仕組みやルールであり、いわば架空の 「物語」 に過ぎないのですが、最初は力尽くで押さえつけられ、その恐怖の記憶が 意識の共有により代々受け継がれて、ただの物語に絶対的な力があるかのような思い込みが生まれ、知覚できないところで人々をがっちり縛るようになったのです。

このゼロに戻せなくなった思い込みこそが、私たちの世界の循環システムを偏らせてガタガタにし、もう少しで引き返せなくなるところまで到達しそうなほどのダメージを与えている元凶といっていいでしょう。

人々はいまだに 強者と弱者、権力者と大衆、先進国と後進国、富裕層と貧困層に分かれて対立したままだし、長年の催眠により 「法 ・ 時間 ・ お金のシステム」 の枠内でしか解決を図れないせいで、統合への道筋はなかなか見えてきません。

これらを最初に作ったのは その時の支配者であり、既得権益をずっと持ち続けられるよう画策してきたのは搾取する側の人々ですが、しかし 支配され搾取される側の人々も、催眠のせいとはいえ 思い込みを信じ、自ら安価な労働力となってその存続をずっと支えてきたのも また事実。

つまりこれは ネガティブな共同創造であり、いまさらどちらが悪いの卑怯だのと争ってみても それで問題が解決するわけではないんですね。




この状況を 「本来のありようのままでは体験できない否定的な体験をこそしてみたい」 という魂の望みに照らせば、大成功といえるでしょう。

が、息を吸いっぱなしで吐こうとしなければ死んでしまうように、「行き」 の道で本来のありようから外れたものは、「かえり」 の道で元に戻してゆかねば 人類は滅亡してしまいます。

その方向転換は、すでになされました。

あとは私たちが催眠を解いて、「行き」 で力を持たせたさまざまな線引きや価値観を 再びゼロに戻せるかどうかにかかっています。

私たちの意識がリセットされれば、隠れていた本来の資質が表に出てきて、欲にまみれた世界は やがて愛の世界に変わるでしょう。

人間の営みが 完全にバランスを崩してゲームオーバーとなる前に グラスを消して海水を海に戻せるかどうか、いまがその正念場だと感じています。
















私の人生は私のもの、とことさら言い立てる必要もない清々しさ

2023年01月23日 12時20分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前回の記事で 「いまの貴秋はノーを言うのが快感」 というようなことを書きましたが、これは 貴秋が半世紀以上抱えていたある根深いバグを ほぼほぼ手放したこととつながっています。

それは、「この人困ってる、助けてあげなきゃ」 と認定した相手の世話をとことん焼かずにおれないという強迫観念。

この “認定” というところがクセモノで、実際に困っているかどうかに関係なく、貴秋にそう見えた時点で脊髄反射的に発動するから、ほんとうに貴秋の助けを必要としているのか確かめるヒマもなくからだが動いちゃうんですね。

「世話焼き母さん」 と (母親でもないのに) 名付けていたこのバグ、貴秋のエネルギーや時間をたっぷり吸い取り、セルフイメージをガタ落ちさせていた元凶でした。




これが母親から受け継いだものなのは、疑う余地がありません。

母は かゆくないところにまで手が届くほどの世話焼きで、世話の域を通り越して お節介や過干渉にまで達していたため、受ける側だったころは 助かる半面疎ましく思うこともしょっちゅうでした。

が、はっと氣づけば 自分が同じことをしちゃってる。

これが物心つく前の意識の共有の恐ろしさ、自他の区別がないまま 他者の意識を自分のそれとして そっくり取り込んでしまうんですね。

そもそも父と暮らすようになって以来、自立心旺盛な父を相手にいらぬ世話を焼いてはうるさがられることの連続に 「これは何かあるな」 とずっと氣にかかっていたのです。

それが三年ほど前 このバグをことさら誘発するような事態がにわかに増えた時期がありまして、「これは このバグと徹底的に取り組んでさっさと手放せということだな」 とピンときて、感覚フォーカスに全力を注ぐこととなったのでした。




「世話焼き母さん」 は 飛んできた物を避けるなどと同様の自動反応なのですが、そのとき自分の中で起きていることをつぶさに見ていくと、反応の原動力は 「大切な人を守らなきゃ」 という懸命な思いであり、さらにその奥には 「大切な人を悔いが残るような形で失う、もしくは苦しむ姿をただ見ているしかないことへの強烈な恐れ」 が存在していました。

が、貴秋は10年余り前に母を亡くすまで 身近な人を失った深い哀しみや喪失感を体験したことがありませんから、これもまた 母経由で入り込んだ 根拠のない幻の恐れの可能性が大。

実際 母の “世話焼き母さん” が発動したときの記憶をたどると、こちらは危険どころか たいして困ってもいないのに、母の方が一方的に 「こんなことがあると困るから こうこうしておきなさい」 「こんな羽目に陥ったときのために これこれを持っていきなさい」 と 事態を悪い方へ悪い方へと想定して手を打ってくるのです。

だから受け取る側にすれば、役に立ちそうなところだけ受け取って あとはうっとうしがるのが自然な反応なのですが、こちらが世話を焼く側になると、「こんなに一生懸命尽くしているのに、当たり前のように受け取るかうっとうしがるかだけってひどくない?」 という氣持ちになってしまう。

で 世話を焼く側と焼かれる側双方の視点を突き合せて検討した結果、やはり本来自分のものでないはずの感情が起点になっているところに問題があるらしいとわかって、さらなるフォーカスにいそしむことになりました。




結果氣づいたのは、恐れや不安を払拭しようと必死になっているときの貴秋は、相手ばかり見ていて 自身のほんとうの氣持ちに目をやるのをすっかり忘れているということ。

対処法としては、スイッチを押されて反射的に動きそうになったところで 「それは自分の “いまの一番” ?」 と自分に訊く、それだけでよかったんです。

幻の恐れの感覚が手放しにより薄らいだおかげで、それはほんとうに自分がとりたい行動かと自問するだけの余裕が生まれ、動く前に熟考できるようになったんですね。

で “いまの一番” かどうかを問うことで 何が変わったかというと、恐れベースでなく 喜びベースで行動できるようになったところ。

まず、生命に関わるような場合は別として、相手にも否定的体験をする権利があると思い出すのが肝心です。

相手の魂の意図を、貴秋の余計なお世話で潰してしまうかもしれないのですから。

その上で、恐れから身構えるのではなく、相手を喜ばせ その喜びをわがものとして感じるために手を差し出すようにすれば、空回りの 「世話焼き母さん」 は出番がなくなることを知りました。

実は 相手が甘えの氣持ちから こちらのお節介を期待するようなこともけっこう多かったのですが、そういうときって よほどニーズがかみ合わない限り 手出しをしてもこちらが楽しくないんですね。

そういう場合はきっぱりノーと言ったり氣づかぬふりをしたりすることも覚えたおかげで、自分のために使うエネルギーと時間がぐっと増え、自分を大切にするありように自信が持てるようになって、人生の舵をわが手に取り戻した思いです。




「世話焼き母さん」 に振り回されていた頃は、よく 「私の人生は私のもの」 と唱えて 自身を戒めていましたが、そんなおまじないも必要なくなったいまは、これが当たり前のありようなんだと感じて 心に清々しい風が吹き渡るような日々を過ごしています。

自由とは 外ではなく内にあるものと思い知らされた、大きな氣づきです。

















60の手習い、60の反抗期 (!?)、人生ここからがスタートさ♪

2023年01月14日 18時22分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
のっけから私事で恐縮ですが、貴秋は昨年7月で60歳になりました。

還暦ですよ、還暦。。。信じらんない

以前勤めていたある旅館に 「還暦セット」 みたいなのが常備されていまして、光沢ある布で作った赤いちゃんちゃんこと赤い座布団、あと大黒様の頭巾みたいなのもあったかな? 還暦祝いでお見えになったお客様などにお出ししていたと記憶していますが、これらを身につけ 子や孫に囲まれて祝われていたいかにもよきおじいちゃんおばあちゃんという風情の方々と いまの自分が同い年というのが、まるでピンときません。

たぶん子どもを持たなかったのが大きいでしょうね。

守られサポートされる側から 親として子を守り育てる側になったという自覚があれば、そこで意識がぐっと切り替わったのでしょうが、いまの貴秋は ひたすら自身のよりよき人生を追求するという点において、20代の頃となんら変わりないのですから。

誕生日当日の朝、父がプレゼントを手渡してくれたのはうれしかったのですが、包みに特大の赤文字で (自分でプリンター印刷したらしい) 「還暦のお誕生日おめでとう」 とのメッセージが貼り付けられているのを見たときには、「還暦」 という言葉がもたらすイメージとセルフイメージとのあまりの乖離に引っくり返りそうになりました。

そんな貴秋が ただいま反抗期を体験中と言ったら、おいおいと思われるでしょうね。

でも 真面目に本当の話なのです。




そもそも反抗期とは何か? といえば、貴秋なりの解釈では 「それまで頼ってきた親 (もしくは親代わりの大人) という支柱から身を離し、新たに自分オリジナルの支柱をがっちり育てるために必要な移行期間」 となります。

そして貴秋は、第一次 ・ 第二次とも ここをきちんと通り抜けられないまま来ちゃったんですね。

それでも感覚フォーカスという手立てを得て、とにもかくにも自力でバグを手放し 今日まで来られたことには感謝あるのみです。

で、いまの貴秋は 齢60にして もう一度幼少期のプロセスを、本来のそれよりもかなりのハイスピードでやり直している真っ最中というわけ。

いい子で他人の評価や顔色ばかり氣にしてきたひ弱な軸を、自分が何が好きで何が嫌いか、それに照らして何を選び何をスルーするか、瞬間瞬間の選択を通して 大地に根ざした丈夫なものに創り変え 育て直す日々です。

平たく言えば、好むものにはすっと手を伸ばし、イヤなものにははっきりノーと言う、それだけのこと。

この 「ノー」 が躊躇なくすらりと言えるようになった自分が 「イヤ!」 を連発する幼子とオーバーラップして、ついつい 「60で反抗期ってマジですか!?」 といった氣分になっちゃうのですが、でも 力まずすっと 「ノー」 が言えるって ステキなことだと思うのです。

いい子で優等生だったころは、自分から進んで負の感情を抑圧した結果 怒りを溜め込みすぎて、いざ表現しようとすると ギクシャクといびつなものになってしまい、激しく言い募ってあとから自己嫌悪に陥ったり、言いたいことを十分伝えられず不満が残ったりと、かえって不快感が増すばかりでした。

が、膨れ上がった怒りをこつこつ手放していったおかげで、ノーだってイエスと同じぐらい率直かつ穏やかに言えるのだと次第にわかってきて、ぐっと氣が楽になりました。

こうなると ノーを言うのが快感というか 楽しくさえなっちゃう、そんな年相応のありようとはおよそかけ離れた子どもっぽい自分をついつい 「おいおい何やってんの、60の大人が」 となじりそうにもなりましたが、そこで氣がついたのです、最初から完璧を目指す必要はないのだと。

もちろん最終的に目指すのは 愛であり自由であり安らぎであり豊かさであり健やかさである自分、でも そこに到達するためには通るべき道というものがあり、いまの自分は かつて通り損ねたそれを体験し直している最中なのだから、60過ぎてなお未熟であることを恥じるよりも せっかく再挑戦できたひとつひとつのプロセスをしっかり味わうことを大切にしようと氣持ちを切り替えたのです。

いまの貴秋は反抗期、それでいい、自分の基準に沿って選別すること ・ まっすぐにノーを言うことを学んで、自分の世界をよりよく築き直してゆけばいい。




結局60という数字にどのような意味づけをするかは自分次第、「いい歳した大人が」 なんて声に惑わされる必要もないんですね。

「60の手習い」 という言葉がありますが、60で反抗期からやり直したっていいじゃないですか。

60歳以前は来る新しい人生の準備期間でありプロローグ、貴秋の人生本番のスタートは60から、と決めました。

いよいよここからが これまでの人生とのコントラスト効果で面白くなるところ、思いっきり楽しむぞと 腕をさすりほくそ笑む毎日です。















本年もよろしくお願いいたします

2023年01月06日 19時05分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
松の内、それも関西じゃなく関東の松の内に初ブログが書けるなんて 何年ぶりでしょう \(^o^)/

ということで胸を張って(笑)、新年おめでとうございます。

旧年中は、氣まぐれな更新にも関わらず 温かいエネルギーをたくさんお送り下さって、ほんとうにありがとうございました。

今年もどんな展開になるやら皆目見当がつきませんが、ベストを尽くす所存ですので、どうかよろしくお願いいたします。




私たちは 自分で作った物語の世界を生きている。

私たちは 人生という物語の主人公であり 作者でもある。

すでに何度となく書いてきたことですが、わかりやすい例を挙げれば、太平洋戦争終結後28年経ってからグアム島より帰国した横井庄一さんと、29年後にルバング島から帰国した小野田寛郎さん。

どちらも 敗戦を告げ投降を呼びかける放送を耳にしても信じず、戦後日本の復興などつゆ知らぬまま 長い年月を他国で兵士として過ごしており、1945年8月15日から発見され終戦を受け入れるまでの日々は、他の人々には戦後でも お二人にとっては “戦中” だったわけです。

私たち人間は、とにもかくにも 自分が信じ受け入れたものを現実と見るようにできている生き物なんですね。

私たちは人生物語の登場人物であると同時に作者でもある、これを事実とするか、外に置かれた情報のままにしておくかで、今年がどういう年になるかが分かれる氣がします。




作者である自分を受け入れるということは、どんな場面においても選択権が自身にあると認めることであり、自由に選択できる自分を認めるには、ポジにもネガにも引っ張られないニュートラルな視点を持つことです。

ニュートラルな視点とは、五感の視覚に関係なく 引いたところから俯瞰で物事の本質を見極める意識のありようのこと。

獲得しようと躍起になるものではなく、もとから備わっていることを思い出しさえすればいい。

そのためには、本来の自分を見えなくしているさまざまな思い込みと向き合い 手放してゆくことです。

すでに望み通りの人生を謳歌している人には不要な情報ですから、これを読んで心動かされるのは 思い通りにならないネガティブな現実に 「こんなはずじゃなかったのに・・・」 と悩み苦しんでいる人たちでしょうが、ここにも 「試しにでも実践してみる ・ しない」 という自由選択があり、貴秋のブログは ここでかつての自分と同じく 「実践してみる」 を選んだ人を励ますためにあると思っています。




正直 貴秋もこんなに早くそのときが来るとは思っていなかったのですが、いずれは壊れると決まっている現行のお金のシステムの崩壊を防ぎ、多くの人々からの搾取を続ける、いや より厳しく取り立てるための仕掛けがすでに発動し、私たちはあまりにも多くの矛盾した情報を前に、混乱し 迷い 不安に駆られています。

この状況から抜け出す意志があるなら、混乱の渦から出て 俯瞰で眺めること。

この混乱すら、私たちの意識の知覚できないほど奥に入り込んでいる “バグ” の投影に過ぎないのですから、バグの手放しが進めば おのずと混乱は後ろに引っ込み、実際に何が起きているのかが見えてきます。

何が起きているかがわかれば、どうすればいいかもおのずと見えてくる。

仕掛けた側と仕掛けられた側に分かれて戦うのは、なんの解決にもなりません。

「自分は仕掛けられた側だ、搾取され続けてきた被害者だ」 「いいや、民衆の奴らこそ自分たちの権利を奪おうとする野蛮人だ」 とそれぞれが思い込んだ時点で、すでに被害者の物語に取り込まれて 俯瞰の視点を忘れているからです。

私たちはこれまで 「敵」 とみなした相手を滅することで平和が訪れると信じ込んできた。

が その 「敵」 も 自身の否定的な思い込みが具現化されたものに過ぎないのですから、かえりの道にあるいまは この筋書きももうしまい時でしょう。

敵対、分断、そういったものを越えて、人本来の意識を取り戻し、真の自分を知れば、問題のほうから消えていきます。

あとは、とっ散らかった現状をどう収拾し、よりよい新しい世界をどのように創っていくかだけ。

一人一人がほんとうの自分を思い出せば、それぞれの得意分野に目覚め、それらを持ち寄り 力を合わせてやっていけます。

こうして これまでの負の物語を 自己実現の明るい物語に置き換え、コントラスト効果のすばらしさを存分に味わう、2023年をそんな年にすることが、私たちの誰にも十分可能なのです。