毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

浄化

2014年08月11日 14時26分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


土日は 台風騒ぎでやれやれだったこと(^_^;)

10日朝、あと3時間もすれば 台風をやり過ごせるというところで、上流ダムの放流量が増え、ついに避難指示が。

消防車で避難を呼びかけに来てくれた消防団の方々に 道の安全を確かめ、正規の避難所である 高台の地元中学校へ。

途中すさまじい暴風雨に巻き込まれながらも、われながら驚くほど落ち着いて、路面や山肌を確認しながら ゆっくり運転し、無事到着。

そのまま車を降りたらずぶ濡れになるのは必至だったので、久々の車中キャンプにしようと カーテンを引き、背もたれを倒し、いつも積んでいる古クッション使用の枕を置いて 横になり、持ってきた本など読んでいたら、いつの間にか眠り込んでしまいました





ふと目が覚めると、まわりの車が次々出て行く音がします。

起き上がって外を見ると、荷物を持って現れ 車に乗り込む人の姿も。

これは解除になったな♪ と喜んで、再びハンドルを握って家に戻り、パソコンで確認したら、なんと川の水位は氾濫危険ゾーンを越えてるし、避難指示もまだ解除になってない

どうやらフライングしちゃったみたい

一瞬焦りましたが、いや しかし。。。と、再度天氣予報サイトと河川情報に目を凝らすと、台風はもうだいぶ遠くに行ってるし、雨量もどんどん減っていくようだし、帰る道すがら見た川の様子からしても、凄い増水だとはいえ 若干引いた痕跡もあり、すぐさま冠水し始めるとは思えない。

予報どおりの雲の動きなら 上流の雨も収まりつつあるはず、ダムの放流もそのうち減るだろうし、万が一集落内が冠水し出しても、滝のような豪雨が降りっぱなしだった前回と同じところまで水が上がってくることは まずあるまい。

これは慌てて避難所にとって返さず、このままでOK



・・・・・・・・と 冷静に判断を下す自分に なによりびっくりだ (*゜O゜*)

あの いったん事あると すぐにアワアワしてパニクッちゃう私は どこへいったんだろう?

まったく怖くないといったらウソになるけれど、動揺が減った分、その奥の落ち着いた声を 受け止めやすくなってるみたい。

そのまま、定期的に河川情報をチェックしつつ、部屋を掃除して 高いところに上げたものを戻したり、合間に座椅子にもたれてうとうとしたり。





人氣のない集落内は、ときおりしとしとぶり返す雨音以外、し~んとして静か。

やがて、その雨音さえ聞こえなくなってしばらく経ったとき、一匹のセミの鳴き声が、しっとりした空氣をすぅーっとつらぬくように響いてきました。

セミの声が あれほど胸深く沁みとおろうとは。。。。

いつもと同じ場所のはずなのに、まるで別世界にいるみたい。。。。

窓を開けて いつもと変わらぬ景色をぼんやり眺めていたら、急にこの世界がたまらなくいとおしいものに思えてきて、もうなにも不安がらなくていいんだっていう氣持ちになりました。

まだ薄灰色の空に あれほど親しみを覚えたことはなかったなぁ(^^)





晩暗くなるころには、ほとんどの警報が解除になり、通行止めだった道路も開通して、今回の台風騒ぎも無事終了。

近所の人は どこか身内の方のところにでも行っておられるのか 戻るようすがほとんどなく、集落は相変わらずしーんと静か。

ふと外に出ると、秋と間違えそうなほどひんやりした空氣の中、おぼろ雲をまとったスーパームーンが やさしい輝きを放ちながら浮かんでいました。





この台風、初めからなんとなくそんな氣がしていたけれど、今振り返って、やっぱり大きな浄化だったような氣がします。

まだきのうのことだというのに、もうすっかり遠くに行ってしまったような。。。。時間感覚からして なんだかいつもとぜんぜん違うみたい。

きょうも穏やかに響き渡るセミの声を聞きつつ、からだはしっかり今ここにありながら、頭の中が どこか透明な空間を漂っているかのような 不思議な心持ちで、片付けを続けています。









この台風で被害を受けられたすべての方々にお見舞い申し上げます。

一日も早く、落ち着いた暮らしを取り戻されますように。。。。


























手放して

2014年08月10日 02時02分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


台風11号 近づいているようです。

8日の晩から降る雨が ときおり激しくなり、9日朝から防災放送が何度も飛び交って、町内の一部で避難地域も出始め、一時は これは3年前の大雨・浸水の再来? と いささか不安を覚えたりもしました (^_^;)

夕方、町内全域に避難勧告が出たところで、お年寄りのおられるお宅などは 中学校に避難したようですが、集落内はまだまったく冠水しておらず、河川雨量情報サイトを見ても、熊野川の水位もさほど高くもないので、荷物は玄関に置いたまま 自宅待機。

その後 風雨は断続的に強まってきましたが、川の水かさは ダムの放流量が減ったせいか かえって下がり始め、これはもう この雨風の中を運転する方が怖いや、と 自主判断でそのまま家にいます。





3年前と比べて、ずいぶん変わったなぁ 自分、って思います(^^)

それは、あのときは初めての災害経験だったし、これぐらいの時間にはすでに 停電で真っ暗な中 ひざぐらいまで水が来ていて、さらにどんどん上がりそうだったし、怖かったのは無理もない。

で、お隣の公民館にみなさん集まっておられたのが心強く、いざとなったら役員さんの指示に従って、いっしょに行動すればいい、と、それが氣持ちの支えになっていました。

今回は、電気も点いてるし、水も来てないし、3年前より条件はずっといいのだから 当然といえば当然なんですが、その違いを考慮してなお、最終的には外側の情報に左右されず 自分の感じるところを頼みにできるようになったところに、この3年での変化を感じます。

3年前だったら、ただでも不安をあおるような天候の中、それもこれからますます台風が近づいてくる、というときに、集落の大半のお宅が避難する中 自己判断を通す、なんてこと、とてもじゃないけど 心細くてできなかった。

ここまで内なる羅針盤を信頼できるようになったのは、やはり これまでの自分を左右し、不安を募らせるようなストーリーをささやき続けた 過去の不安の残留が 大きく減ったからだ、という氣がします。

ごく最近、根源にすごく近いところの記憶を見つけ、手放すことができたのですが、それ以来 あまりにも怖れの激減した自分に驚いています。

過去の歪んだ記憶が いかに自分を振り回していたか、今になって大きく納得です。





きのうの昼間は、万が一に備え、床の上のものを高いところに移しながら、この際だとホコリの溜まった畳や床を大掃除。

そのとき、物に対する執着について、ふと思いました。

3年前は ぎりぎり免れたけど、もし今 家の中まで浸水して 持ち物のほとんどがだめになってしまったら、どんなふうに感じるだろう?

それはもう 悲しいだろうなぁ。。。

私にとって、持ち物は ただ物であるだけでなく、暮らしの仲間とも言うべき存在、3年前 よそのお宅の片づけをお手伝いしたときでも あれだけ切なかったのだもの、長年使い込んだ自分の物となれば、どんなにか辛いお別れになるだろうと想像できます。

ただね。

3年前の私は、ただ悲しいだけでなく、もっと物に頼り しがみついていた氣がします。

自分には、物の力がぜひとも必要で、それを奪われるのは 守りがなくなること、と そんなふうに感じていたようです。

怖れることの多い自分を、物で囲んで守る心境だったんですね。

その守りをはぎ取られるのは 命にかかわることのように思い込んで、失うのを怖れ、物に執着していたんだと思います。

でも 今は、テレビや新聞がなくても困らない、真夏に冷たいものを飲み食いしなくても大丈夫、と、それまで 「ないと困るでしょう」 と思い込んでいたものをちょっとずつ外していって、思い込みで必要としていたものがけっこうあったんだなぁ、と知らされる中から、案外なければないで なんとかやっていくだろう、っていう自信のようなものが芽生えてきた氣がします。

そして、「これがなければ」 「こういう状況でなければ」 といった条件が減った分だけ 自由になれた氣もするのです。





もし今、突然持ち物をごっそり失うようなことがあったら、まずショックを受け、頭の中が真っ白になって、耐え難いほどの悲しみがこみ上げてくるでしょう。

でも、うんと悲しんだあとから、これで物を必死に守る苦労から解放されたんだ、どこへでも自由に行って なんでもやれるんだ、という ふわ~っと目の前が開けるような氣持ちも起こってくるんじゃないかな? とも思えるのです。





その昔、ゴミ屋敷騒動を取り上げたニュース番組を見ていて、なんであんな使いもしなさそうなものを大量に 後生大事に抱え込んでいるんだろうと 不思議に思ったことがありましたが、あれは 自分でも得体の知れない怖れから けんめいに身を守っている姿だったんですね。

怖れを手放すとは、自由になること。

新たな可能性に向かって 道が開けること。

かつての怖れのほとんどが幻だったとわかるに従って、生きるということが、前よりずっと楽しく希望に満ちて見えてきた氣がします (*^ー^*)

























囲む 笑顔で

2014年08月08日 10時41分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


どこかで読んだんだけど。。。と思いながら どうしても思い出せずにいた 「スリランカの悪魔祓い」 のエピソードの載った本、思い出した~ \(^o^)/

上田紀行さんという方の 「覚醒のネットワーク」 という本に出てたんだ

本が手元にないので うろ覚えなんだけれど、その村では 「病気にかかるのは 孤独な人」 という認識があり、病人が出ると、シャーマンを筆頭に 村人総出の悪魔払いが行われるというのです。

悪魔祓いといっても、映画 「エクソシスト」 みたいなおどろおどろしいものではなく、踊りあり 漫才風パフォーマンスありの 演芸大会みたいなお祭り騒ぎで、孤独な人をみんなで楽しく囲み、陽氣に騒いで 悪い氣を吹き飛ばしてしまおう、という趣向の儀式のようです。





ひとりひとりの意識の力というのも相当なものらしいですが、これが集団になると、1+1が 5にも10にもなるようなケタ違いのパワーを発揮するようです。

共振共鳴っていう言葉をよく使わせてもらっていますが、この力をうまく使えば、それこそスリランカの悪魔祓いみたいに、弱った心身を元氣にすることだって可能だと思うんですね♪





以前参加した 友人のワークショップで、それぞれのテーマソングを作るというワークがありました。

作るといっても 一から作詞作曲するのではなく、めいめいの一番好きな歌を教えてもらい、まわりの人たちで その歌を選んだ人の長所美点を織り込んだ替え歌を即興で作り、その人のテーマソングということにして、みんなでその場で歌う、というもの。

これがね、作ってもらっている間中、こそばゆいような 甘酸っぱくうずくような、照れくさいけど すごくうれしい氣分に包まれるんです(*^^*)

まわり中から無条件に 好意を寄せられるって、こんなにもうれしく元氣が出るものなんだと知りました。

同じような意味で、「誕生日は、年に一度 無条件の祝福を寄せてもらえる日」 と言った人がいたけれど、そういう意味で 誰にでも年に一日 そういう日があるのって、素敵ですよね♪

少し前に、相手のどこにフォーカスするかで 引き出されるものが180度変わる、っていう話を書きましたが、それが集団でとなれば、その効果も大きく膨れ上がるというもの。

まあね、これが裏目に出ると、いじめのような痛ましいことになってしまうのだけれど、そういうのはくれぐれもナシで☆





この友人のワークショップのメインは、 それぞれが抱える問題を 他人に演じてもらう中から 癒しや氣づきが起こるという、ロールプレイングという手法を使ったワークなのですが、そこではちょっと不思議なことが起こります。

知るはずもない他人の心の内を、なぜか演じられてしまうのです。

初めて演じる側に立ったのは、離婚したご主人との間に葛藤を抱えている人のワーク。

私が本来の彼女、もうひとりが彼女のネガティブな感情の役につき、指定された場所に立つと、友人から 「思うままに動いて下さい」 と声がかかります。

そのとき このワークのことがさっぱりわかっていなかった私、初対面の人の心の内なんてわかりもしないのに どう演じればいいのよ~ とうろたえましたが、とにかく言われたとおりにするしかない。

そうしたら。。。。不意に笑いがこみ上げてきたのです。

深刻な話を聞かされて、何を求められているのかわからず焦ってて、どう考えても笑いの入る余地なんかないはずなのに。

第一 悩んでいる相談者さんに失礼と、両手で顔を隠してみましたが、もうどうにも抑えきれないほどの笑いが湧き起こり、とうとうげらげら笑い出してしまいました。

さらに、固い表情でこちらを見ているネガティブ役の人の肩をばんばん叩いて大笑いしていたら、彼女もつられて笑い出し、そんな様子を見た相談者さんは、自分がこだわっていただけで、実はもうたいしたことではなかったんだ、という結論に達して 納得されたのでした。





その後も 同じようなことが何度もあり、超能力があるわけでもないのに、なんで会ったこともない人の心の内が演じられるんだろう、とずっと不思議でならなかったのですが、最近ちょっとわかったような氣がしたんです。

ガイド役にすっかりゆだね切れるほどリラックスして 身も心も開いていると、どうも あなたと私、自分と他人、という線引きがゆるむようなのです。

そういえば確かに 最初の方で、思わず笑ってしまうような自己紹介や、リラクゼーションワークみたいなのがあったものね。。。。場の空氣も心地よかったし

そもそも 「これが私」 というのも、自分の思いが固めている境界線に過ぎず、思い込みがゆるやかになれば、あり得ないという決めつけも外れ氣味になるのは 自然なことなのかもしれません。

自ら進んで心を開いているせいか、他人に心の内を知られた、なんていう不快感もまったくなし。

興味深いことに、参加する予定でいたのに 急用や子どもさんの体調不良などで来られなくなる人もいて、そういう人は まだそこまで自分を開く用意ができていないので、自然とそんな成り行きになるようで、それも当時は不思議でしたが、今は なるほどそういうものよね、波長が違えばいっしょにはいられないよね、とおおいに納得です





人と人との間って、これまで私たちが思い込んでいたより ずっとあいまいでゆるやかで優しいのかもしれません。

自力でやれる人から 自分の内側を整えて パワーを上げて、そんな人が数人集まったら、元氣のない人を笑顔で囲んで、癒し 力づけてあげられるかもしれない。

そんなことがあちこちで起こったら。。。。想像するだけでワクワクしてしまいます

今 社会全体がなんとなく荒れたり沈んだりしているように見えても、ブレイクスルーのチャンスは必ずある、と信じて疑わない、相変わらずノーテンキな貴秋です( ̄∇ ̄*)ゞ





















新しい言葉、新しい意識

2014年08月06日 09時43分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これは南紀限定? それとも全国共通なんだろうか?

和歌山に来てから、5つの旅館で仕事をさせていただきましたが、おそらくそこで一番よく 言ったり聞いたりしたであろう言葉は、「お疲れさま」。

仕事が終わってねぎらいあうときだけではないのです。

すれちがいざま必ずといっていいほど互いに「お疲れさま」 「お疲れっす~」 などと声をかけ合う。。。習慣を通り越して ほとんど機械的に口にしています。

あまりにもしょっちゅうなので、もはや言葉の意味を深く考えることも感じることもなく、出会いがしらに反射的に言ってしまっている。

「山!」 「川!」 みたいな(笑)

いや、実際そんなものなのでしょう。

そこには、「あなたを認め 敬意を払う意思があります」 「ここのルールを遵守しています」 「反抗心や敵意はありません」 などという言外の意味が含まれ、手っ取り早く言えば 「敵じゃないよ」 っていうことを、無意識に確かめ合っているようなふしがあります。

旅館仕様の合言葉? σ(・・*)

あまりにもパターン化してしまっているので、休みの日にまで 「お疲れです!」 と声をかけられ、はい? なんてことも。。。。いや、ぜんぜん疲れてないですから~(笑)





これを使わずして暮らしは成り立たない、という 「言葉」 ですが、必須アイテムなだけに、とまどいを覚えることもしばしば。

この 「お疲れさま」 や 似たような 「ご苦労さま」、これをぜんぜん疲れていない、むしろ楽しいことをして戻ったときに言われると、なんともいえず妙な氣分になるんですね。

でも、じゃあ代わりになるどんな言葉がある? って聞かれたら、答えられない。

結局、まあ符丁みたいなものだから、と自分をなだめつつ、やむを得ず使うときの 居心地悪さ。

そんなとき、同じようなことを考えていたらしい友が、素敵な言葉を創り出してくれました。

ご充実さま。

もうストライクど真ん中、って感じ \(^o^)/

いい時間を過ごせたんだね、よかったね、幸せそうでうれしいよ、と 愛のメッセージがいっぱい詰まった、なんてうれしい言い回し♪

以後、親しい友人間にとどまらず、親兄弟知人と 機会あるごとにせっせと愛用させてもらっています。

ローカルであることに、いささかのためらいもありません。

聞かれれば、嬉々として由来を語れるもの♪

ここからスタートして、やがては辞書にも載り、全国区となる日も遠くはない! な~んてね

こんな素晴らしい言葉をプレゼントしてくれたわが友cocoちゃん、ほんとうにありがとう





意識が変わってくると、それまで無自覚に使っていた言葉が なんだか使いづらくなる、という現象が ちょくちょく起こります。

言葉には、その言葉に初めて出会ったときの思いが刷り込まれた 個人的イメージと、一般的(辞書的)な意味のふたつが投影されていて、さらにそれを 状況に応じて使い分けていくのですから、個人の意識が変われば そぐわないものが出てくるのも自然なこと。

その都度見直して 新しい表現に切り替えるわけですが、上の 「お疲れさま」 のように、代わりになる言葉が見当たらなくて 途方にくれることも。

ここ10数年 ずっともてあましているのが、「がんばれ」 という言葉。

この 「がんばれ」 と幸せな出会いを果たせた人を うらやましく思います。

私が言われ続けた 「がんばれ」 は、自分の意思に染まないことを強要され(強要されていることに氣づいてすらいなかったのですが)、なおも努力を続けるよう促されるときがほとんどだったのですから。

今に至るまで、どうもすっきりいい印象が持てない、それでいて 代わりになる表現が見つからず、使わざるを得ない場面がやたらと多い、そんな悩み深き言葉なのです。





ある友人に 「『がんばれ』って、楽しいことを夢中でやっている人を応援する言葉でしょ?」 と言われたときは、仰天しました。

わが忌まわしき 「がんばれ」 に、そんな意味づけがあろうとは。。。。

言葉の持つ意味合いは、使う人によって 時に大きく違うのだと教えられました。

また、「ご充実さま」 の彼女は、書き言葉について またまた 「顔晴れ」 というチャーミングな当て字をシェアしてくれました。

さらにまた別の友人から、「英語では 『Enjoy!』なんて表現もあるよ」 と教えてもらい、以後、運動会やマラソン大会での応援のように楽しく高揚した氣分のときには、あまり抵抗なく言えるようになりましたが、やはりいつでもどんな場合でも、というわけにはいかなくて。。。。





励ましたいけど、やたらあおったり鼓舞したりしたいわけでもない。

影ながら見守ってるよ、ひとりにはしないよ、あなたのこと思ってるよ、元氣になれるといいね、でも無理はしないでね、と そっと背中に手を当てたいようなときに、「がんばれ」 では どうもぴったりこない氣がします。

いや、むしろ 自分の 「がんばれ」に対する 過去の意味づけを書き換えるほうが 先なのかもしれませんが。





「ご充実さま」 の彼女は 宮城の人で、3.11震災のあと、世界中からの善意の励ましと 現地の方々の思いとの微妙なギャップについて 話を聞かせてもらうこともあったのですが、その半年後、今度は自分の集落が 台風の長雨で浸水被害に遭い、そのとき初めて 彼女の言いたかったことが 身に沁みたのです。

全国から寄せられる励ましのあたたかさは 痛いほどわかる、ありがたくもある、ただ、暮らしの根底から突き崩された身に まず必要なのは、癒しと安らぎであって、励ましが心に届くのは その後のことなのだと。

こうなってくると、もう言葉そのものの問題なのではなく、それを使う人、聞く人の意識の問題なのかもしれませんね。





なんといっても 大事なのは、言葉そのものよりも、そこに込める思いのほう。

言葉が思いの乗り物・容器だというのなら、いっそこれからは、 言葉を越えて 思いが伝わる → 言葉抜きでも 思いが伝わる  という世界を追求するのもいいんではないかとさえ 思ってしまうのです。





それって、テレパシー、ってこと・・・だよね?






















想像と空想

2014年08月05日 05時48分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私は、幼いころから 想像力のたくましい子どもでした。

まだ幼稚園にも行ってないころの私が 親と電車に乗っているときなど、こんな人たち知りません、みたいなすまし顔で 親には目もくれず、長時間おとなしく座席に座っていた私のことを、母がよく 半ば呆れ顔で話していたものです。

母には言わなかったけれど、そういうとき 自分がどういう状態でいたのかはよく覚えています。

外の世界なんかすっかり忘れ去って、空想に浸っていたのです。





あとになって なんとなくわかったことなのですが。。。

私は長らく 自分のことを鈍いヤツだと思い込んでいましたが、実はかなり鋭くもろもろを感じ取る子だったようです。

ただ、感じやすいままだと 自分がひどく傷つくことばかり多いので、あえて鈍らせて身を守っていたらしい。

そうやって 本来感じ取るはずのものを放棄して、その空いたところに 空想の世界を詰め込んでいたようです。





子どものころ身を守ってくれたこの方法、すっかりクセになって、大人になってからも抜けませんでした。

今度はそれがあだとなり、成人として現実に直面すべきところでも、空想に逃げ込むようになってしまいました。

いや、たゆまず想像力を磨き 鍛え上げると言う意味においては、あながちマイナスばかりともいえないのですが、少しずつ目を覚まし、本来の自分に戻ろうとする過程では、この空想癖は かなりの障害となりました (^_^;)

頭の中はいつも空回り状態、頭とからだの分離が いくらがんばっても止められないんだもの





一方で、前にも書いたように すべての物事は、一瞬のひらめきを捉え、言葉化し、想像力を駆使して 五感で触れられる形にすることで 生まれます。

想像は創造、想像力なくしてこの世界は成立しません。

意識の書き換えのときなど、この想像力が大いに求められます。

ところが私の場合、頭の中での映像転化・情景描写などは 苦もなくできるのに、それがなかなか具象化に結びつかない。

ここで ハタと思い当たったのが、空想と想像の違い。

カギはここにある。

では、空想と想像の違いってなんだろう?

長いこと考え続けてきました。





空想は、文字通り 「空っぽの想い」 なんですね。

だから、歌う花だろうと 空飛ぶゾウだろうと、好きなだけ思い浮かべればいいけれど、現実を創造する力には結びつかない。

実際のところ、SFやアニメじゃあるまいし、思い浮かぶものが片っ端から実現したら、とんでもなくシュールな世界の出来上がりです

そこは 力を持たせなくて吉、なのでしょう。

しかし 自分としては、具象化を前提に かなり現実的な望みについてイメージしているつもりなのに、いつのまにやら どこか空想じみてきてしまうのです (T_T)

子どものときならいざ知らず、れっきとした大人として 人生に取り組もうという時にこのありさまって。。。。

数知れず失敗を繰り返すうち、内側の感覚としての 空想と想像の違いは、なんとなくわかってきました。

こうなると、突き詰めずにいられないのが わがサガ ( ̄∇ ̄*)ゞ

何が違う? どこが違う? と思い続けて、次第に見えてきたこと。





こういう状況で 空想力の引き金を引くのは、どうやら不安のようです。

不安にかられ 逃走したくなると発動するものらしい。

では、想像は?

こうありたい、こういう世界を創りたい、という意思がはっきりあって、そのために力を使うのが、想像。

つまり、前のブログにも書いたけれど、闇を怖れ 闇から逃げようとする想いが生むのが 空想、闇も光もトータルで見つめたうえで、自分の意志で選び取った世界を実現させようと働かせるのが 想像。

こう思ったら、自分の内側の感覚と照らし合わせて、すとんと腑に落ちました。

具象化するほどの力を持つ想いとは、現状を目をそらすことなく見据えた上で、意志を働かせて 積極的に来るべき世界を選び取るところから 湧き起こるんですね。

ふわふわした夢に逃げ込んでいるうちは、まだ幼い子どもの未熟な心と同じで、十分な力は持てないのでしょう。

それが悪いというのではありません。

成長までのプロセスも かかる時間も タイミングも、年齢に関係なく 人それぞれ、それでOK☆

ただ、さまざまな体験を経て、ほんとうに自分の思いから変える、自分の世界を変える、と決心したら、「ありのままを見つめる」 という作業は 欠かせないようです。





それはそれとして、じゃあ空想はただのお遊びでしかないのか? っていうと、そうでもないようです。

どんなぶっ飛んだものでも思い浮かべられるのが、空想の強み。

要は使い方なんですね。

新しい世界を創りたかったら、これまでの世界の延長上に いくら想像力を働かせても、実現しない。

こういうときこそ、子どものころから鍛え上げた 空想力の出番です♪

「想像の斜め上をいく」 なんて表現をよく見かけますが、現実の斜め上をいくのが、空想の力に裏打ちされた 本来の想像力 = 創造力 なんですね \(^o^)/

こう思うと、子どもの読み物が ファンタジー色満載なのもうなずけます。





子どもの空想力に、成長するに従って 現実をありのまま過不足なく見つめる力を加味し、喜び溢れる現実を自在に生み出すのが、本来の想像力。

夢多き子どもたちが 明るい現実世界に意欲を持って向かえるよう、今 大人の私たちが、真の想像力・創造力を発揮すべきときなのかもしれません。





                           ジョン・レノン  「イマジン」 (和訳)






















いいたくて

2014年08月04日 08時33分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


最近なんだか言いたくてしょうがないんです。

どんなにネガティブな世界に取り巻かれていても、どんなにネガティブな世界に埋没していても、

自分の世界には それしかないよって どれほど思えても、

それを肯定的な世界に変えることができるよ、って☆





光だけを集めようとしてみたことがありました。

でもムリでした。

無理やり集めた光は、どこか頼りなくて 危なっかしくて、影からいつも闇がそっとのぞいていました。

闇を否定すればするほど その存在感が大きくなることを学びました。

困っていたとき、闇を見つめればいいよ、と教えてもらい、やってみました。

闇を見つめるとは、闇と敵対することではなく 闇を抱き取ることだったと知りました。

がんばって手を差し伸べようとしなくても、じっと見つめていれば 自然とそうなるのです。

闇は光の中に溶けるものだと知りました。





この世に 無意味なもの、なくていいものなんて、ひとつも存在しません。

闇にも役目があって生まれてきます。

闇が見せてくれるものをしっかり見つめて味わって、闇がお役目を終えたら、感謝して呼び戻して 再びひとつになる。

そこから新しい世界が始まります。





闇は敵じゃない。

闇もまた 私たちです。

本来の姿から分離して、別のものになって、私たちに真実の反面を見せてくれていただけです。

私たちがしっかり見つめれば、お役目はおしまい。

闇は光に 力を与えてくれるのです。

闇と光で表裏一体のひとつもの。

私たちは、闇を避けるのでなく、光を選び取ることができるのです。





















またまた解放

2014年08月03日 23時31分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


大雨だの地震だの火山噴火だのと なんだか日本のあちこちが騒がしくなっているみたいですね。

ここにいらして下さる方々をはじめ、どなたにも大きな被害がないことをお祈りします。





南紀もきのうから雨。

断続的に強い降りでしたが、けさ5時ごろからいっとき止んで、その間に かねてからの予定通り、町内夏の一斉清掃を 無事終えることができました。

みんなして草を刈り、ゴミを拾って、さっぱりさわやかな氣分で家に戻ったら。





な、なんと・・・・

風呂場前と横の青ジソの群生が、ごっそり刈り取られていました (TдT)

だいぶ大きくなったし、次の晴れ間には 葉を摘み取って シソジュースを仕込むつもりでいたのに。。。。

自治会有志の方々で、電動草刈り機で 裏の土手の草を刈って下さったのは知っていたのですが、風呂場周りの空き地は 私の受け持ちのはずだったし、他の雑草を取り除いて シソだけ残した具合からいっても、栽培しているものとして手をつけずにおいていただけるものと信じて疑わなかったのですが。。。。甘かった 。・゜・(ノД`)・゜・。





しかし、問題はここからでした。

ショックで真っ白になった 次の瞬間、胸の奥から 怒りを通り越して 怨念とでもいうようなおどろおどろしい怒氣が、うわーっとこみ上げてきたのです。

いや、ガ~ンとなるとか 一瞬ムカッとくるとかならわかりますが、いくらなんでも シソを刈り取られたぐらいで この感情はない。

これはもう間違いなく、例のあれだ。

それも半端なく強力、このままでは どんなとんでもない爆発が起こらないとも限りません。

すでに 瞼の裏に 熱いものがじわじわ滲みかけています。

急いで家の中に入り、ささっと着替えて リラックスした体制をとります。

さあ、からだの感覚に集中!





もう何度となく繰り返しているこの作業ですが、今回ちょっと変わっていたのは、ナビする声みたいなのが付いていたこと。

それが神なのか ハイヤーセルフなのか ひと足先を行く分身なのか 自身の少し引きの視点からの声なのか、それはわかりません。

全部かもね♪

とにかく その声に従いながら進めていくことに。





終始言われ続けたのは、とにかく感覚にだけ集中し、涙は好きなだけ流せばいいけれど、そこにいかなるストーリーも付け加えないこと。

フォーカスし始めてすぐ、この怒りが いつものごとく 幼いときの体験からきていることはわかりました。

自分が大切にとっておいた何かを ゴミと間違われたかどうかして捨てられてしまった、とか そんなたぐいのことのようです。

ポイントは、自分にとっては息の根が止まりそうなほどのショックだったのに、相手には理解されず 取り合ってもらえなかった、というところ。

仕方なく、耐えかねてもてあますような痛みを 心の奥に押し込め、保留扱いにしたまま 半世紀近くもそのままになっていた、ということなのでしょう。

きっかけがおおよそわかったところで、その話からは意識を切り離し、泣きたければ存分に泣いて つかえを外すことと、感覚のみに集中するよう言われます。

いつもそうだけれど、とりわけこれだけ感情が激しいときは、感覚にまつわるストーリーの方に ちょっとでも氣持ちを向けると、たちまち激昂して かえってエスカレートさせてしまう危険が大きいから、ということのようです。

ナビに従い、胸の辺りの細胞が波打つような感じとか 中央から空氣が漏れるように力が抜けていく感じとかをひたすら味わっていると、やがてだんだん薄れていきます。





ここで、ふとした思いつきというか、ちょっと想像してみます。

たとえばご近所のどなたかに 青ジソについて 「あれ刈られちゃったの? 育ててたんじゃなかったの?」 などと訊かれた場面を思い描いてみて、その問いにズキリと胸が痛み、「その話しないで~」 みたいな感情が起こってきたら、すかさず再び それに伴う感覚に意識を向けるのです。

つまり、まだ残っている痛みがあるかどうかのチェック、ということらしい。

これを繰り返して、「青ジソ」という言葉に反応しなくなったことを確かめたところで 終了。

さっきのすさまじい怒りや恨みがウソのよう。

たしかに見た瞬間のショックは覚えているし、残念だし ちょっぴり口惜しくもあるけれど、まあ不幸な出来事ということで しょうがないか。。。と、ごくありがちな反応に変わっています。

出来事と そこから湧き上がる感情が どう考えても不釣合いなときは、やはり今この瞬間ではなく 過去の記憶に反応しているようです。

なにかのはずみで子どもが受けるショックというのは、おとなには想像できないほど大きく深いんですね。

その場でありのままに受け止めてもらえないと、このように何年でも何十年でも残って、解消のチャンスを待ち続けるようです。

今回 またひとつ、数十年がかりの痛い思いを手放せたことになるのかな(^^)

こう思えると、ことの始まりの (どなたかわからないけど) シソを刈っちゃった方は、この解放のきっかけをもたらしてくれた 天の使いなのかもね☆





午前中いっぱいかかったけれど、またひとつラクになった心の軽やかなこと。

そんないい氣分で、まだしおれずに残っていた 刈られた青ジソを数本拾ってきて 葉を摘んで、さっと洗って水氣をとり、しょうゆと胡麻油に漬けたのでした。

貴秋、転んでもタダでは起きません





















仲間

2014年08月01日 19時50分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


久々に マンガ 「One piece」 からのお話を

マンガをご存知ない方には わからない話ばっかりで ごめんなさい m(__)m





「アラバスタ編」 で、海賊モンキー・D・ルフィ率いる 「麦わらの一味」 に加入したての船医 トニートニー・チョッパーが、古参の剣士 ロロノア・ゾロに 一味について尋ねるシーンがあります。

そもそも船長のルフィが あまりにも天真爛漫でマイペース、それにつられて集まったメンバーも どことなく個性的に過ぎ、通常の海賊団とはいささか雰囲氣の違う一味について、ときに苦笑交じりに話すゾロですが、そんな彼が語った 「仲間論」、これが すごくインパクトがあって。





      だがよ チームワークってのは本当は何なんだ

      助け合って かばいあってりゃ それでいいのか

      そういう奴もいるけどな

      わりぃがオレには誤魔化してるようにしか思えねえ

      それぞれが自分で出来ることを死ぬ気でやって

      オレはやったぞ 次はテメエの番だ

      出来なきゃぶっ殺す ぐらいの気合があって

      初めてチームワークってのは成立するんじゃねえか

      そう考えるとよ

      仲間っていっても別に一匹狼でもいいんじゃねえのか

      オレはそう思うぜ




それまで どちらかといえば、「助け合い かばいあう」 ようなのが仲間だというイメージを持っていた私が、自分の中の羅針盤への信頼が強くなり、自分の答えは自分しか持っていないんだ、と確信し、つき従うリーダーや 受け入れてくれるグループを探すのをやめて、単独行動をとるようになり始めた、ちょうどそのころ このセリフに出会って、ああ! と思ったのです。





その少し前から、この人なら、と信頼し、敬い慕って近づいた人の 思いがけない一面に失望するようなことが、たて続けに起こっていました。

どの人も、すばらしい才能や知恵や力を授かり、立派に使いこなして、大きな影響や恩恵を与えてくれたのですが、せっかくのその力で 相手をひとり立ちさせる代わりに、ご自身の弱さの補いとして傍に置き、離れていかないよう (無自覚なのですが)微妙に力を削いでいるように見受けられて。

初めのうちは、やたらこういう場面に出くわす意味がわからず、なんでいつもこんなことに。。。とがっかりしたり、腹を立てたりしていましたが、あるとき氣がつきました。

まわりの人は 自分の鏡、こうも同じようなことが続いて起こるからには もう間違いない、これはハッキリしたメッセージだ、と。

人をどうこういうことはない、これは 他ならぬ私自身の姿。

私は、自分の持って生まれた力や役割を見いだし、使いこなせるようになりたいと願っているけれど、もしそれができたところで、自分の中の我や弱さがそのままだったら、ほんとうに活かし切ることはできないんだ。

それどころか、ヘタをすれば、かえってマイナスのエネルギーを生みかねない。

なによりもまず、自分の弱点である 依存心や執着心と向き合うのが先だ。





このゾロの 「仲間論」 を知ったのは、ちょうどそんなころだったんですね。





麦わらの一味っていうのは、「悪魔の実」 の能力者もいれば 普通の人間ながら 常人離れした強さの持ち主もいる一方で、臆病だったり 嘘つきだったり 欲深かったりと、人くさい弱点を持つ者もいて、それぞれの長所や強みがチームに貢献することもあれば、弱さが足を引っ張ることもあり、また前述のように個性的な面々ぞろいなので、組織だったまとまりには いまひとつ欠けるところがあります。

メンバー全員が、ひとつのチームとしてグランドラインを航海するに当たり、それぞれ独自の目的や目標を持っているのも、この一味の特徴。

みな、そもそもは 船長のルフィに魅かれて仲間入りしているから、彼の 「海賊王になる」 という野望を応援しているのはもちろんなんですが、それとは別に 個人個人の夢もあって、めいめい腕を磨いたり 知識を高めたりしているのは、チームのためでもあり 自分のためでもある。

この辺が、チームでありながら 一匹狼の集団でもある、個性ある一味を形作っているんですね。





対人関係が苦手で ずっと孤立を選んできたのが、チームを組むことの楽しさ・頼もしさを知り、同時に 馴れ合いもたれ合いになる危なっかしさも知って、まずは自分がしっかりひとり立ちするところから、と思い始めた矢先に出会った、そんな 「仲間」 のありかた。

この距離感というか つかず離れずのさじ加減が、実にほどよく絶妙に思えたのです。





個として立派に通用するひとりひとりが、それぞれの道を進む中で、出会って ひとしきり共に旅をして、時が来れば 自然に別れる。

出会って 別れて、しょっちゅう顔ぶれが入れ替わりながら、それ自体が生き物のように 変幻自在で流動的で、常に新鮮かつ最高の状態を保ち続けるグループ。

そんな出入り自由のグループが そこらじゅうにいくつもあって、どれも生き生きしている。

それぐらいが、個人の自由と 集団の強みの双方を保てる ほどよい頃合いなんじゃないかな、って。





そして、もしほんとうに そんな個人とグループのありかたが実現できるとしたら、ちょうど自分の課題である 依存や執着を 各自が手放せていることが 必須条件だろうな、とも思ったのです。

麦わらの一味に話を戻せば、この面々、欠点や弱みはあっても、甘えはないんですね。

だから、シャボンディ諸島で 思いがけず全員が 別々のところに弾き飛ばされてしまったときも、再集結の約束を交わした2年後まで、それぞれが自分なりに 居場所や課題を見つけて 立派に生き抜き 成長し、約束の日には ひとりも欠けることなく集まって、チームとしてもひと回り大きく頼もしくなっている。

バラしてOK、組めば最強、多少の危うさもかえって人間くさく、甘えではない仲間どうしのよさをたっぷり見せてくれる麦わらの一味、相変わらずいいマンガだなぁって思います (*^ー^*)





前のブログで 「みんなで」 っていう話を書かせてもらったけれど、やたらおててつないでとか 数をたのんでとか そういうことでなく、個が個としてもっとも輝けるありかたとしてのグループ、そんなふうに歩みを共にできれば素晴らしいな、と憧れつつ、そんな仲間の一員に相応しい自分を目指して、きょうも自分磨きを続けます



























みんなで

2014年08月01日 01時31分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前のブログの 「神との対話」 の 「ヒトラーは天国に行った」 という話。

これは、内容の濃さからして、もし関心を持っておられるなら ぜひとも本をお読みいただきたいんですが、私なりにも もう少し続けさせてもらいますね。





「神との対話」 における この話題には、いろいろなエッセンスがぎっしり詰まっていますが、ここで取り上げるのは、グループ意識というところ。



      ヒトラーという経験が可能になったのは、グループの意識の結果だ。

      多くのひとは、ヒトラーがグループを ー この場合は国民を ー たくみなレトリックを使って狡猾にあやつったと言いたがる。

      こう考えれば、何もかもヒトラーのせいにして、ヒトラーだけを非難すればすむ。

      それこそが、大衆の望みなのだ。

      しかし、ヒトラーは、何百万人もの人びとが協力し、支援し、積極的に服従しなければ、何もできなかった。

      だからドイツ人と呼ばれる小グループは、ホロコーストの大きな責任をになうべきだ。

      しかし、ある意味では、人類と言う大きなグループにも責任がある。

      人類は、どんなに冷酷な孤立主義者でも無視できないほど惨事がひろがるまで、ドイツ国内の苦しみに無関心で、鈍感だったのだから。

      いいかね、ナチの運動を発展させた肥沃な土壌は、集合意識だった。

      ヒトラーはそのチャンスをつかんだだけで、創り出したわけではない。




長々と引用させていただきましたが、このくだり、初めて読んでから 今に至るまで、私の中で ずっと響き続けています。





たとえば、強引でひとりよがりで、世論の多くが反対していることも 白を黒と言いくるめてでも押し通そうという政治家を 非難するのはたやすいことです。

でも、どうしてそういう人物が 国家権力のてっぺんに立っていられるのか? といえば。。。。私たち国民に選ばれたからなんですよね。

そして、そういう人が登場する背景には、誰かリーダーシップをとって、すべての問題を解決し、私たちを安心安全なところへ導いてくれる人に、すべてを託してもたれかかりたい、自分たちは無力だから、誰か力のある人にやってほしい、っていう 私たちの氣持ちがあるんじゃないかな?

誰か強い人いませんか~、私たちを強力に引っ張っていってくれる人いませんか~、という 多くの意識の声に応えて、彼らは登場したともいえるんじゃないかな。

だとすれば、呼び出して 丸投げしておいて、結果が氣に入らなければ 悪者扱いで責め立てる・・・って、彼らだって そうそう納得できるものではないような





偏重報道といわれる大手マスコミにしても、お金を払って 新聞読みたい、ドラマ見たい、っていう人たちがたくさんいるから 経営が成り立っているんですね。

前に書いた 「パパラギ」に、「まやかしの暮らしのある場所について・束になった紙について」 という章があるんですが、「まやかしの暮らしのある場所」 とは 映画館、「束になった紙」 とは 新聞のこと。

酋長ツィアビがヨーロッパを訪れたのは、まだ無声映画だったころのことだから、その後 ヨーロッパはおろか 世界中の各家庭にまで 「まやかしの暮らし」 が入り込むとまでは 予想できなかったかもしれないけれど。

でも、ツィアビは そんな昔に すでに見抜いていたのです。

私たちが 映画(テレビ)や新聞を手放せないのは、ありのままの真実・等身大の自分を見つめ、自分の力で判断決定することを放棄せずにいられないほど、私たちが 弱くて迷い多い人間になってしまったからだ、と。

マスコミという存在を呼び出したのも、やはり それに頼ろうとする 弱められた私たちの意識なのかもしれません。

今は ネットを通じて、一方的にあてがわれるだけではなく 自分から情報を取りにいったり発信したりということも ずっと容易になりましたが、残念ながら、そこにもやはり 「我」と それに伴うもつれは 入り込んでしまうのですね。




私たちのまわりにあるものは、コンピュータやロケットから 爪楊枝1本にいたるまで、すべて最初は 私たちの頭の中から始まりました。

こんなものがあったら。。。。という一瞬のひらめきが、言葉になり、アイデアを生み、それが形になって現れたのが、私たちが取り巻かれている 物や場所やサービスなんですね。

私たちの意思や意図がなかったら、今あるものは なにひとつ生まれてこなかった。

そういう意味では、現在私たちを攻撃し、暮らしを圧迫しているように思えるものも、実はみな 私たちの思いから生み出された存在なわけです。

このままにしておけない、っていう氣持ちはもっともなことだけれど、それならなおさら 今みたいな流れになった経緯と 自分たちの内側に どんな思いがあるのかを つぶさに見直すほうがいいんじゃないかな。

氣に入らないものは すべて外に投影して糾弾する、というのでは、ますます相手を強くして、互いに自分の過ちに氣づけぬまま、かえって解決から遠のいてしまうだけだから。






既存のものをもっとよくしたいと思うとき、私たちは どうしてもまず行動から変えようとしてしまいがちなのだけれど、すべてのおおもとが 人間のアイデアや言葉から成り立っている以上、まず変えるべきは そちらなんじゃないかな? と思うのです。

かくいう私だって、その昔 原発が危ないと聞けば、よっしゃ~、反原発デモだ~、署名活動だ~、契約アンペア落として 煮炊きは七輪だ~! なんてさんざんやったクチなわけで ( ̄∇ ̄*)ゞ

そんなふうに 行動から現状を変えようといくら試みても、結果がついてこなかったり、モチベーションが続かなかったり、意図したのと違うところに着地しちゃったり、という体験を重ねたから 言えることなんですが





どんな人も、生まれる前に大まかに設定した 今生の筋書きがあり、自分の道を 好きなように選んで創る自由があります。

だから、人を外から無理やり変えることはできないし、そうしたいとも思わない。

でも、私たちが 本来の自分を目指すなら、そのおおもとはひとつなのですから、自ずと心を添わせることも そう難しいことではないでしょう。

類は友を呼ぶ、自分を見つめなおしつつ 源に向かって歩く者どうし 思いを重ねて、いのちに素直な集合意識を生み出すことができれば、今の時代の大きなよりどころになるんじゃないかな、と ささやかに願う貴秋なのです。